毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・19・日光国立公園」
1994.9――入稿原稿


■国立公園物語…日光

 日光国立公園は日光を起点とすると北西へ奥日光、尾瀬と広がっています。また北東へは鬼怒川、川治、塩原といった溪谷美の温泉郷をつらね、いちばん端は温泉と火山の那須まで、関東平野の北端を縁どる湯煙豊かな山々ということになります。
 見るべきものはいろいろありますが、なんといってもここでは「日光」が中心です。そこで日光市が明治100年を記念して編さんした『日光市史』(全3巻、総ページ3,200余、1979年) から、日光の歴史をたどってみたところ、時代の大きな波が3つ見えてきました。
 その第1は男体山*ナンタイサンのてっぺんに埋められた古い鏡や槍や刀、その他もろもろの古い品々が奉納された山岳宗教の時代です。つぎは家康〜秀忠〜家光とつづく徳川氏3代の将軍に絶大の信頼を得た天海という僧がみごとに造りあげた東照大権現の日光。そして徳川の世がひっくり返ると日光の名を世界に広めた英・米・仏の旅行家たちの活躍があり、広く全国の人々の参加による保護が起こります。そして日光町(当時) は日本のどこよりも早く、国立公園設置運動を展開するのです。
 3つめの、欧米の旅行家たちが果たした役割については『日光市史』では評価が軽すぎるというのが私の見解ですから、日本文化に精通した英国の外交官アーネスト・サトウ、動物学者でありながら日本文化の研究家としても一流となったアメリカ人のE.S.モース、世界各地を探訪することで持病と闘っていた英国の女流紀行作家イサベラ・バード、フランス海軍軍人で作家のピエール・ロチなどの作品を読んでみました。

●山頂の奉納品

 さて、アメリカ人の生物学者モースは1877年(明治10) に日本近海の腕足類の研究にやってきて江ノ島に小さな実験場を構えたのですが、すぐに東京大学で動物学を教えることになります。また合計3,500ページにおよぶ日記をフィールドノートとして、第一級の日本学者へと変貌していくのです。
 初めて横浜から新橋へ汽車に乗ったとき車窓から「大森貝塚」を発見したのはモースの観察の鋭さを語る有名なエピソードですが、日光のもっとも重要な遺跡を記録した点でも重要です。まずは『日本その日その日』(石川欣一訳、平凡社・東洋文庫、1970年) の日光男体山登頂のシーンからの引用です。
 ――今や我々は絶頂から100フィートのところに来た。その一方の側は、1,000フィートをも越える垂直な面で、古い噴火口の縁である。絶頂のすこし下に真鍮*シンチュウで蓋った黒塗の頑丈な社*ヤシロがある。それを最高点から見た所は図で示した。扉には鍵がかかっていたが、内部には仏陀の像があるとのことであった。前面の壇、即ち廊下には錆*サびた銭若干があり、絶頂近くには槍の穂や折れた刀身が散っていたが、いずれも何世紀間かそこにあったことを思わせる程錆びて腐食していた。見受ける所これ等に手を触れた者は1人もいないらしく、私は誘惑に耐え兼ねて小さな錆びた破片2つを拾った。これは神社へ奉納したものである。図に見える最高所には岩に深く穴のあいた所があるが、昔ここで刀を折った。それよりもっと珍しいのは、犠牲、あるいは、立てた誓いを力強めるためにささげた、何本かの丁髷*チョンマゲである。話によると日本の高山の、全部とまでは行かずとも、殆どすべてには、神社があるそうである。驚く可き意想であり、彼等の宗教に対する帰依である。――
 この素直な紀行文が『日光市史・上巻』の男体山頂遺跡のところで「遺跡の最初の発見」と紹介されています。ずっと後に、栃木県の史蹟名勝天然記念物調査会の委員の目に触れることになる2個の土器は、モースが訪れた年に同じ男体山山頂で発見されたものとして二荒山神社にほぼ50年間保存されていたのです。
 ――丸山氏らは神社に保存されている土器が、男体山頂から出土したものであることを知ると、山頂の踏査を計画し、大正13年(1924) 8月7日から9日までの3日間発掘調査を行った。これが山頂遺跡に関する考古学的調査の嚆矢*コウシである。――
 というのです。そしてさらに30年あまり経って、
 ――昭和34年(1959) 5月に読売新聞社主催の日光文化財綜合調査が行われ、保坂三郎、米田太三郎、神尾明正各氏を中心とする考古班が、5月18日から同26日の9日間山頂を踏査した。この時の調査地点は、モースが発見し丸山氏らによって確認された(男体山山頂の) 太郎山神社の付近である。鏡、合子*ゴウス(身と蓋でワンセットの銅製の容器)、経筒蓋、御正躰*ミショウタイ(仏像などをつけた金属の円板で吊り手がつく)、玉類、小銭などが出土しているが、報告書の公刊がないため全貌が明らかではない。
 ともかくも、大正13年(1924) に行った丸山氏らの発掘調査、昭和34年5月の保坂氏らの発掘調査によって、山頂にはいまなお多数の貴重な遺物が埋蔵され、一部は露出して散逸の危機に面していることが判明した。こうした事情から、同年の7〜10月に二荒山*フタラサン神社が主体となり、文化財保護委員会の指導によって、山頂遺跡の大規模な発掘調査が行われ、大きな成果を収めた。――
 発掘調査の具体的なようすについても、もちろん報告されています。
 ――遺物の出土状況をみると、まず第1にこれらは層序をなさず、雑然と遺棄した状態で検出されている点に注目しなければならない。遺物の濃密な地点は小祠の西北側岩隙と、小祠の西南側緩傾斜面である。西北側岩隙は大正13年発掘でも多量の遺物を出土した地点で、遺物は露岩の間のきわめて狭長な隙間にぎっしりと重複堆積し、岩隙の下部は岸壁も遺物もまたこれを充填*ジュウテンした火山砂も固く結氷していて、遺物の採取は不可能であった。
 小祠西南側の緩傾斜面に設けたトレンチでは表土から直ちに遺物が出はじめ、ここでも多数の遺物が雑然と遺棄された状態で検出された。――
 つまり男体山山頂から、まるでゴミ捨て穴を掘るような状態でたくさんの品物が得られたというのです。出土品は総点数が3,000点を超えて、古鏡134面、小銭1,306点、刀剣類1,000点余と膨大な数にのぼりました。
 日光市内には古墳がなく、古墳時代の明確な遺跡すら発見されていないにもかかわらず、男体山山頂遺跡からは7世紀からの遺物が出てきたのです。とくに膨大な数の古鏡には中国から渡来した特別なものも含まれていました。この古鏡が奉納された根拠に関して、担当執筆者の大和久震平さんはつぎのような推論を展開します。
 ――こうしたいわばわが国の珍宝にも等しい鏡が、都を遠く離れた僻地の高山に忽然と奉賽*ホウサイされているわけで、男体山に対する信仰の一面がのぞかれる。
 唐式鏡の盛行した時期は奈良時代から平安初期の律令体制完成期である。唐からの文物輸入は国家権力の管理下におかれ、舶載品が最初に到着するところは平城、平安の都であったに違いない。唐鏡もこうした経由で中国から都へ将来され、さらに辺境の地、下野*シモツケ国へ運ばれて、峨々たる山頂へ奉賽されたものである。
 この時期、山頂への鏡の奉賽には、2つの点に留意する必要がある。第1は中央でも珍宝であったに違いない珍奇な鏡が、男体山に納められるまでの過程に介在した人物と、危険きわまりない登頂行に宝鏡を携えていった真の理由である。人物は、中央に強い係わり合いをもつものであったろうし、おそらくは、国家の組織に関与する立場にあったことだろう。
 第2は男体山のある下野国自体が、この当時においては、律令国家の東北端に位置する辺境であったという事実である。国境の白川関以北は体制外の外国であり、下野国は内国の境として蝦夷*エゾ地に対峙していた。――
 ――蝦夷問題が国家の体制にかかわる政治問題となっていく時期は、おおよそ男体山頂に宝物が奉献されはじめる時期に符節している。伝えられる沙門*シャモン(僧) 勝道の登頂の苦闘は、仏法による律令国家の護持が彼の本来の目的であり、蝦夷地を遥か見はるかす山頂で、国家鎮護の修法を執行することが、彼や彼のもとに結集していた山林仏徒の国家にかかわる大きな使命ではなかったろうか。
 珍宝である舶載鏡とともに、山頂からは同時期の、やはり珍しい法具が出土している。大正13年に発掘された忿怒*フンヌ形の鋳銅製三鈷杵*サンコショである。鋒*ホコサキが三叉鉾*サンサホコのように広がり、先端に小爪をつけたもので、把*ハ(握り) には鬼目もこれを囲む蓮弁もない。同巧の法具は正倉院に2例、福島県の恵日寺に1例あるだけで、三鈷杵としては最古の形式のものである。仏法をもって国境を守護するにふさわしい法具であり、精良な鋳上がりと雄渾な造りからみて、中央で製作されたものであることは論をまたない。唐鏡と忿怒形三鈷杵は、男体山開山の謎をとくまたとない資料である。――
 日光山(あるいは二荒山*フタラサン) の開祖・勝道上人について触れることはしないで、ここでは「その後」の日光を見てみます。
 ――開山の後の男体山は、やがて国境の山としての意義が失われる。古代東北地方の開拓史が示すように、歴史的な国境線は次第に北上し、蝦夷地の奥にまで律令国家の版図が拡大され、宗教的な開拓の拠点もまた奥州の深部に移動してゆく。
 一度開山された男体山は、その後の国境の北進によって開山の意義が失われたものの、登頂の行*ギョウは形態として残り、やがて、男体山をとりまく日光連山の諸峰への登頂祈願というように、様々な念願をこめた行の盛行をみるに至る。諸峰の山頂に祭祀の場が設けられ、奉賽品が大量に納められるのもこの頃からであり、特に際立つ男体山、太郎山、女峰山が3山信仰として固定される。――
 その結果、二荒山あるいは日光山がどのような発展をとげたのか、『日光市史・中巻』の近世編ではつぎのような状況からスタートするのです。
 ――下野国の北部に位置する日光は、日光連山における山岳信仰によって開けたが、以後、関東の霊地として公武の崇敬を集めていた。更に戦国時代になると武力を蓄え、日光山領は66郷、ほかに寄進地を加えると71郷にもおよび、隠然たる勢力を示していたのである。そして豊臣秀吉の小田原攻略戦がはじまると、日光山は壬生*ミブ上総介義雄とともに北条氏のもとに駆せ参じ、運命をともにすることになったのである。日光山は僅かに滅亡はまぬがれたが凋落の一途をたどることになった。――

●2人の老人の悪だくみ

 なんだか振り出しに戻ったような感じで日光は徳川の時代を迎えます。村上直さんが執筆を担当している『日光市史・中巻』の「近世封建社会の成立と日光山」を読んでいきます。
 ――慶長14年(1609) 3月5日、大御所徳川家康は、日光山座禅院、同衆徒中にたいして日光領の安堵の黒印状を出している。――
 それが家康による江戸幕府としての最初の安堵状なのですが、それは秀吉が日光勢力をギリギリまで削りとって存続だけを許した安堵状を追認したものにすぎません。
 ――天正18年(1590) の秀吉の朱印状と慶長14年(1609) の家康の黒印状によって、日光山領は日光山の社寺境内地、神職僧侶の居住地、門前町である鉢石町と足尾村1カ村の所領からなっていることがわかる。このうち足尾村の石高は明確でないが、『中興開闢記』によれば「天正年中ニ足尾村700石計*バカリ残シ秀吉公朱上ル」とあることから、約700石位であったと思われる。――
 このような状態から大きな変化が起こるのは慶長18年(1613) のことです。
 ――『堂社建立記』によると「慶長18年、天海大僧正座主に補セラレ、同年10月御登山アリ、此時光明院は旧跡バカリナル故*ユエ座禅院ヲ宿坊トシテ御入院ノ儀式アリ、時ニ今市・久賀・草久3箇郷、将軍家ヨリ御寄附アリ」とあり今市・久我・草久の3郷が寄進されている。この石高は、のち元和6年(1620) 3月の判物から推して約2,100石とみることができる。このように日光山領は家康の寄付を含めて足尾村から今市・久賀・草久郷へと広がっていった。
 家康が江戸城を本拠に関東を政治基盤として全国支配を拡大していったのは慶長末年であった。幕府開設後もはじめは天下情勢が必ずしも楽観を許さず、関東と東海筋を流動的に捕えようとしたとみられる。それが関東を確定するのは、家康が深く信任していた天海に日光山の管理を委ねた慶長18年(1613) 前後かと思う。それは利根川と上野・下野の両毛の地をもって東北地方との境界として重視した家康が、下野の北部こそ関東守衛のための要地とみたのではなかろうか。
 家康が日光山の光明院の住職に77歳の高齢である天海を任じたとき、幕府は関東を永く政治的基盤に設定することに決したのではないかと思われる。このとき、すでに家康自らが日光山によって江戸幕府の鎮護とならんとする決意を秘かにいだいていたとみるべきである。――
 この最後の1節など、「江戸に江戸幕府」という当たり前のことをいっているようにも読めますが、担当執筆者の村上直さんは、日光に天海僧正を送り込むまで、家康は幕府を江戸以外のところに移すかもしれないという考えを持っていたと推測するのです。
 ――家康は関東入国を秀吉に命じられたとき、多くの重臣が危惧したにもかかわらず、関東を領土とすることに積極的な意義を見出そうと努めている。しかし、家康は必ずしも江戸を本拠として、長くここで政権を維持していこうとしたかは疑問である。それは秀忠を世子に決めたのち、改めて秀忠に対して、江戸を本城にすべきか否かを尋ねていることからでも明らかである。
 江戸の経営は、いくつかの段階を経てしだいに整備・充実したといってよい。――
 家康の江戸を見る目はきわめて冷静であったようです。
 ――関東はかつての北条氏の領国が大半を占めていたところであり、東北の陸奥・出羽の外様大名からの攻撃を受けた場合、利根川を防衛線とし、江戸を拠点とした場合、必ずしも軍事上において安全性を保っているとは、いい切れない面もある。慎重な家康は、このため東海道筋に第2、第3の拠点を設ける周到な準備がなされていたのである。――
 その第2、第3の拠点というのが、駿河・遠江50万石の駿府*スンプ城であり、尾張61万石の名古屋城なのだそうですが、並行して、江戸の後背地たる関東での“徳川化”も着々と進行していきます。
 ――慶長6年(1601) 8月には、蒲生秀行が会津60万石に再就封して、これにかわって家康の外孫に当たる奥平家昌が“関東の喉首の要地”といわれる宇都宮10万石に封ぜられ、(今市の) 板橋城主には上野国から松平一生が封ぜられることになった。これらによって下野国は関東における最も豊臣系大名が勢力を扶植していた地域から、一転してまさに有力な徳川氏の幕藩領国体制の一角に組み入れられることになったのである。――
 こうして江戸幕府の“お膝元”が関東平野一円に広がると、最後に“画竜点睛*ガリュウテンセイ”のその睛*ヒトミを日光に定めるのです。
 ――ところで、家康は天正18年(1590) 8月、49歳で江戸へ入ってから、元和2年(1616) 4月、75歳で没するまで、江戸に在住した期間はどのくらいであったろうか。天正18年から駿府へ移る慶長12年(1607) 3月に至る16年7ヵ月の間で、実際に江戸に在住していたのは約4年1ヵ月にすぎなかった。この間の大部分は伏見城(京都) にあったといってよい。
 そして慶長12年3月以降においては、ほとんど駿府城(静岡) に居住している。その間約9年1ヵ月半に、江戸を6回訪れているが、この延べ滞在期間は約12ヵ月であり、しかも、そのほとんどが東海道から関東一円にかけての鷹狩りの旅に出かけていることが多いので、江戸城に滞在していた期間は実際には僅か4〜5ヵ月位のものであった。――
 家康は駿府の大御所として国政に関わりつづけるわけですが、今風にいえば代表権を持った会長というところでしょうか。しかも江戸の将軍政治があくまでも幕藩制国家を支えるための封建官僚機構を指向しているのに対し、駿府の大御所政治は即決実践型の非官僚的な側近政治をとっている、というのです。即決能力を持ったご隠居が、鷹狩りと称してあちこちに出没するわけです。なんだかテレビドラマの「御老候」のイメージです。
 もちろんスタッフには超一流をそろえています。
 ――駿府の大御所政治は新参譜代の本多正純・成瀬正成・安藤直次・竹腰正信をはじめ、近習出頭人の松平正綱・板倉重昌・秋元泰長の他に、最も大きな特色を示しているのが、僧侶である南光坊天海・金地院崇伝ら、学者である林羅山ら、代官頭の伊奈忠治・大久保長安・彦坂元正・長谷川長綱、駿府町奉行の彦坂光正、豪商の茶屋四郎次郎・後藤庄三郎・角倉了以・湯浅作兵衛、長谷川左兵衛、それに外交顧問として外国人であるウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを含めた多彩な顔ぶれで行われた。
 家康は、あくまでも後継者秀忠の江戸将軍政治を中心に据えながらも、実際には出自や血統にとらわれずに、有能な人材を盛んに抜擢して、政策を実行に移していった。この適材適所主義は、たとえ武田や今川の旧臣でもよく、三河一向一揆や築山殿事件でいったん離反した者でも、帰参したならばかまわなかった。――
 これら家康の側近のなかで特別な存在となるのが天海です。会津の出身ですでに関東では名僧として知られていた天海を家康が駿府に招いたのは慶長13年(1608) といわれます。これを契機として天海は大本山である比叡山延暦寺の探題職へと一気に昇進してしまいます。つづいて慶長17年(1612) には、家康が川越の無量寺を喜多院と改め、関東天台宗の本山と定めて天海を招きます。
 家康による寺社の管理について、村山直さんはこう書いています。
 ――家康は1大名の時代から社寺の統制と利用に力をそそぎ、寺社領の安堵・寄進などを通して、領内の群小社寺をその政治支配体制のなかに組み入れることにつとめている。しかし、社寺法度*ハットで、それぞれ違った伝統や教義をもつ社寺を一律に規制するのは難しい。そのため個別的に法度を下すよりほかはなかった。
 家康の名で出された法度は、元和元年(1615) まで総数43件、これに将軍秀忠のもの7件、その他の3件を加えれば、実に53件に及んでいる(うち2件は神社法度)。宗派別に見ると真言宗・天台宗・浄土宗・禅宗の順であり、日蓮宗は不受不施の問題がからんでいたため、家康の生前には公布されなかった。
 これら法度に一貫している幕府の方針は、異議を禁ずること、僧侶の学問奨励のこと、仏教界から禁裏*キンリ(朝廷) 勢力を一掃することなどであるが、とりわけ末寺に対する本山の権限を保証したことが注目される。かくして慶長18年(1613) 2月28日、関東天台宗法度が定められると、「本寺に伺わずしてほしいままに住持してはならない」「末寺として本寺の下知に違背してはならない」「関東本寺の義をうけずに、山門よりただちに証文を取ってはならない」など、関東本寺である川越の喜多院の地位を強調して、本山の比叡山の特権を凌ぐ、関東の天台宗管轄の全権を幕府によって保証されることになったのである。これによって天海を頂点とする天台宗の教団は強固な構築を示すことになったといえるのである。――
 この慶長18年に家康は72歳で死のわずか3年前、天海は6歳年長であったといいますから77〜78歳という高齢です。この老人2人がひそかにたくらんだことの舞台が日光なのです。
 家康が75歳の生涯を終えたのは元和2年(1616) 4月17日のことですが、まるで準備をすべて整えての旅立ちのようでした。
 ――天皇は3月17日に前右大臣たる家康を太政大臣に任じている。27日には勅使武家伝奏権大納言広橋兼勝、同三条西実条は、駿府城に臨んで口宣を伝えている。これまで、武将にして生前に太政大臣に任ぜられたのは、平清盛・足利義満・豊臣秀吉の3人だけである。これは、すでに家康の余命いくばくもなしという配慮によるものであろう。
 家康自ら、駿府に滞在中の公家や諸大名に対して暇を与え引揚げることを命じるとともに、多くの大名に形見わけとも思われる品々を与えている。4月になると病状は悪化の一途をたどったが、2日頃には側近の筆頭に位置していた本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を枕元に招いて遺命を伝えている。
 これについては4月4日付の崇伝より京都所司代板倉勝重に送った書状には次のようにある。
「一両日以前、本上州(本多上野介正純) ・南光坊(天海) ・拙老(崇伝) 御前へ召させら仰置かれ候は、御体をば久能へ納、御葬礼をば増上寺にて申付、御位牌をば三川の大樹寺に立、1周忌を過候て以後、日光山に小き堂をたて勧請し候へ、八州の鎮守に成らせらるべきとの御意候。皆々涙をながし申候」(『本光国師日記』20)
 すなわち、家康は自ら死後においては、遺体は駿河国久能山に葬るべきこと。葬礼は江戸増上寺において行うべきこと。位牌は三河大樹寺に立つべきこと。1周忌が過ぎてから、下野日光山に小堂を立てて勧請すること。これによって関八州の鎮守となるべきこと、を指示したのである。つまり、崇伝の書状によれば、家康は江戸幕府の安泰を駿河・江戸・三河・下野の要地から守ることを遺言したというべきである。しかも日光への遷霊は、藤原鎌足の遺体を摂津国阿威山より、1年後に大和国多武峰に移した故事にならったものである。――
 家康は東照大権現となって、翌元和3年(1617) 4月に日光東照社に遷霊します。家康の神号を秀吉と同じ大明神ではなく、大権現とすべきだと主張したのは天海であったといいます。そしてほぼ時を同じくして天海は大僧正として僧侶の最高位につくのです。
 家康の没後、大御所政治の中枢にいた側近たちが力を失っていくなかで天海は将軍秀忠からも全幅の信頼を得たようです。村上直さんはこう書いています。
 ――江戸幕府の行事において天海は、家康在世期よりもいっそう重要な位置を占めるようになった。日光山における法会はいうまでもなく江戸城および京都における幕府の関係する行事は、すべてにおいて天海の唱導師のもとで行われている。これは天海への信任が秀忠の時代になって、いっそう増したことを示している、こうして江戸幕府が確立した時期には天海を通じてしだいに日光山との関係を強めていくことになったといってよい。
 天海は崇伝とは異なり仏教の論議や祈祷によって信任され、罪を得た人たちの赦免・減刑を積極的に将軍に願い出ている。秀忠の時代にも天海のこうした努力が多く記録されている。――
 天海という僧はあくまでも宗教者として将軍と向き合うことができた人物であると村上さんは書いています。もっとも秀忠とは40歳も離れていますから、父のような存在であったにちがいありません。
 それゆえかどうか、秀忠は川越の喜多院から江戸へ通う天海の健康を心配して上野忍ヶ岡に36万坪の土地を用意し、江戸城西の丸の旧殿舎を移築して天海のすまいとなる坊(東叡山寛永寺丹頓院) を用意します。ここにはさらに東照権現が遷宮されます。
 2代将軍秀忠が54歳で没したとき天海は96歳であったといいます。寛永8年(1631) のことです。2代秀忠時代の日光東照社は家康の遺言どおりの質素なものであったようですが、祖父をみずからの守護神と考えたらしい3代家光は、それをほとんど全部作り替えてしまうほどの大造営を断行するのです。
 もちろんこれも天海の予定表に加えられていたものらしく、ちょうど100歳の寛永12年(1636) には造営工事中の日光山に登って東照大権現の仮殿遷宮の儀をとりおこなっています。また同時に、家光からの依頼で『東照社縁起』の選述に着手しています。しかしこのころから天海は健康のすぐれぬことが多くなり、寛永18年(1641) に108歳という高齢で没します。
 4年後の正保2年(1645) に日光東照社には「東照宮」の宮号が朝廷より下され、そして家康の33回忌……。
 ――正保4年(1647) 12月には天海に大師*ダイシ号宣下*センゲの内旨があり、翌慶安元年(1648) は家康の33回神忌に当たる年であるが、これに先だって4月21日、勅使五条少納言為庸が、日光山の天海の墓に参向し、滋眼大師*ジゲンダイシの追号を賜る勅書が読まれた。これは伝教(最澄) ・弘法(空海) ・滋覚(円仁) ・智證(円珍) の各大師の後は700年にわたって例がなかったこと(ということではないようですが、各宗派合わせて23人に大師号が勅賜されているうちのひとり) であり、天海の場合は家康がとくに帰依した名僧であったことから勅許されたとみられる。同月20日日光社参を行った家光は、はじめて滋眼堂(天海の墓所) に参拝したのである。――

●世界の日光へ

『日光市史・下巻』は、戊辰*ボシン戦争で旧幕府軍がたてこもった日光を官軍の板垣退助が戦火から守ったというエピソードから始まります。また、あわてて避難させた東照宮の御神体が会津で戦乱にまきこまれるなどして、危険な逃避行を重ねるというスリリングな場面もありました。
 一難去ったあとのもう一難は、神仏分離令による廃仏毀釈*ハイブツキシャク運動でした。これは明治元年(1868) の3月(まだ慶応4年) に「五ヶ条の誓文」などとともに発せられたものですが、徳川幕藩体制のなかで権力の末端に位置した仏教組織を切り崩そうというものでした。いわば家康と天海によって構築されたものが、この時期に完全否定されたのです。
 そのご当人たちが眠る日光山ではしかし、それがなかなか進行しませんでした。ひとつに、戊辰戦争の渦中にあったおかげで実施時期がずれてしまったことがあります。しかし同時に、巧みな抵抗があったのです。『日光市史』ではつぎのように説明されています。
 ――慶応4年4月、輪王寺護光院彦坂甚厚は、神仏分離の精神は結構であるが、日光は神仏混淆の長い歴史によって成立した所であるから、建築物に至るまでの分離は不可能であると主張して、日光県を初め東京の政府にまで出頭して意見を述べたが、容れられなかった。
 しかし日光における神仏分離は、なかなか行われなかった。江戸時代、東照宮は満願寺(輪王寺) 所有の徳川家康の廟所であり、独立した神社ではなかったことと、東照宮が創建以来、公的には満願寺の附属施設に過ぎず、神仏分離を徹底させれば、東照宮の建造物を除去することになり、政府としても躊躇せざるを得なかったことがその原因であろう。――
 つまり、神仏分離をすれば東照宮は消えてなくなってしまいますよ、ようござんすか? ということです。結局、東照宮と二荒山神社、輪王寺がそれぞれの境界を定めて2社1寺に分離したのです。
 日本の多くの場所では、このような場合に乱暴な寺院の破壊がありました。それが日光で抑制されたのは、山奥の運命共同体的一体感のためでしょうが、「観光資源」という新しい価値観にもとづく保存の意識が強く働いていたことにも注目しなければならないようです。
 それに関する象徴的なエピソードがあります。伊藤博文と、アメリカのグラント将軍とが登場するのです。
 ――明治12年(1879) 7月、伊藤博文とともに日光を訪れた前米国大統領グラントは、日光の美観を称賛し、殿堂の保護を提唱した。同年8月25日、満願寺において保晃会規則の草稿が作成され、11月11日、創設の願書を内務卿伊藤博文に提出して、同月28日、公許された。前日の27日、発起人らは栃木町に会合して、起草した規則を訂正し、保晃会と政府との対約願書を作成し、12月2日、これを提出し、同月16日、許可を得て、保晃会の基礎ができた。――
 なんだかはっきりしませんが、政府のお墨付きをもらった民間の日光保護財団の創立という感じです。その保晃会規則の第1条にはこうあります。
 ――第1条 本会ハ日光山祠堂の壮観及ビ名勝ヲ永世ニ保存セント、汎ク有志者ノ余資を募リ、之ヲ原資トナシ、会員相会シテ其方法ヲ協議スルモノナリ。故ニ会名ヲ保晃会ト唱ヘ、其資金ヲ保晃金ト唱フ。――
 会の活動は栃木県から東京へと広がり、明治17年(1884) の報告によると、会員は3府40県に及ぶ6,652人で、寄付金高は152,209円1銭1厘であったといいます。興味深いのはその内訳です。御下賜(2,000円)、皇族方御寄付(500円)、有栖川宮殿下特別寄付(100円)、内務省(8,000円)、華族方(48,838円25銭)、栃木県および各府県(92,355円76銭1厘)、外国人(415円) とあります。
 日光はこうして「史跡」としてのみずからの地位を確保したのです。危機的状況をくぐりぬけるために結集したこの力が日本全国に広範に及ぶものとなったということを知れば、国立公園の最初のイメージを広く世に訴えたのが「日光」であったことも当然というふうに見ることができます。みんなで守ったこの自然環境を国家がきちんと管理せよという主張になります。
 ――日光のように東照宮・輪王寺・二荒山神社などの史跡、更にそれをとりまく自然環境が大規模に広がっている地域では、これまでの史跡・名勝・天然記念物保存法によって、これらの施設や自然を保護・整備することは当然不可能であった。そこでより積極的な国家の保護政策を求めるために、日光町は明治44年(1911) 第28帝国議会に「日光を帝国公園となすの請願書」を提出したのである。ここで帝国公園と述べている制度が、のちの国立公園の制度となったわけである。この請願書は議会に採択され、全国でもはじめての国立公園の設置運動が開始されたのである。――
 その請願書の請願文を拾い読んでみます。
「宮内省ハ曩*サキニ御用邸ヲ建設」し、「東宮殿下、東宮妃殿下、皇孫殿下、内親王殿下、又諸皇族殿下」が年々避暑においでになって、さらに各国の大使・公使、内外の貴賓紳士が「日光山天然ノ秀麗明媚ト人為美術ノ微妙ヲ極メタル金光玉色ノ社殿ト相待*アイマッテ高尚優美ナル風致ヲ愛慕」し、夏は「中宮祠湖畔、湯本温泉、湯ノ湖辺ノ幽邃閑雅ノ地トシテ避暑静養」し、春秋には「内外ノ人士団ヲツクリ隊ヲ為シテ其ノ来往頻繁ナルモ一小都会ノ観ヲナス」というほどのにぎわいです。「今ヤ日光山ハ啻*タダニ大日本帝国ノ一大勝地タルノミナラズ東洋ノ公園又世界ノ楽園ト目セラレ」というほどになっています。
「然*シカルニ」といよいよ具体的な訴えです。「日光山ハ明治維新以前ニ在テハ徳川覇府ノ威力ニ依リ土地ノ保全ハ勿論其他社殿ノ経営至レリ尽セリ」という状態から「維新後俄然*ガゼン孤立シ以テ之ヲ維持スル道ナク宏壮ナル寺院ハ概*オオムネ減滅シ名所旧蹟ハ月ヲ累*カサネ年ヲ逐*オフテ荒廃シ荊棘*ケイキョク(いばら) 蔦蘿*マンラ(つた) 雑草繁生シテ狐狸*コリ雉兎*チトノ巣窟ト為リ通路ハ全ク人跡ヲ絶チ実ニ見ルニ忍ヒサル状態ヲ呈セリ」というのですから日光もその表と裏ではそうとうの違いがあるというわけです。「加フルニ当地ハ鬼怒川ノ水源地ニシテ急流激湍タル大谷川及稲荷川ノ両川ニ圧迫セラレ年々水害ノ災厄ニ遭遇シ災害殆*ホトント底止スル所ナカラントス」という水害の苦労も述べています。
 崩壊に向かう流れのなかで、地元住民ができるかぎりの努力はしてきたというのが訴えの中心となります。
「町民ハ社寺職員ト戮力*リクリョク恊心*キョウシン只管*シカン之レカ復興ト保全ト」を願い、あるいは「社廟ノ修繕」あるいは「防火水道ノ布設」あるいは「山内公園ノ設置」を企画したりするものの「時機倒ラス」また「及ハス」ということで「之レカ施設を遂クル能ハス」。それゆえ「監督官庁亦非常ノ苦辛ト注意トヲ払ヒ孜々汲々*シシキュウキュウ復旧維持ニ勉ムト雖*イエトモ県費ノ補助等ノミヲ以テ之レカ完備ヲ期セントスルハ到底不可能ノコトニ属ス」のが現実としています。
 結局「土地ノ栄枯盛衰興廃存亡ハ時勢ノ変遷ニヨリ数(運命) ノ免カレサル所ナリト雖トモ」と述べながら「若シ此ノ日光ノ地ヲシテ現状ノ侭ニ放置」するなら「東洋ノ公園又世界ノ楽園ト目セラレ美名ノ嘖々*サクサク(もてはやし) アルモノ終ニ有名無実トナリ」「独リ当地ノ不幸タルノミニ止マラズ」「大日本帝国ノ面目ニ関スルヤ言ヲ俟*マタスシテ明カナリ」
 提案にはタイミングというものがありますから、「明治50年大博覧会ノ時期漸*ヨウヤク切迫シ来レルノ時ニ当リ国家的施設ヲ要スベキ諸般ノ事業多々アルベシト雖トモ就中*ナカンズク(ことに) 日光山ヲ大日本帝国公園ト為シ欧米ニ於ケル国ノ公園ニ遜色ナカラシムルハ最モ時宜*ジギ(好機) ニ適シタル有力ナル事業タルヲ信ス」というのです。
 そして請願の最後。「願クハ政府ニ於テ今ヨリ之ヲ経営セラレ日光山ノ名実ヲシテ相伴ハシメ益々大日本帝国ノ精華ヲ発揚セラレンコトヲ謹*ツツシミテ請願ス」
 請願は日光町の代表として町長の西山真平が署名し、
宛先は貴族院議長の公爵徳川家達と衆議院議長の長谷場純孝となっています。
 この請願書は議会では採択されましたが具体的な措置はとられません。そこで日光町は請願を繰り返します。明治45年(1912)、大正3年(1914)、大正6年(1917)、大正7年(1918)、大正11年(1922) と続く請願書が『日光市史・下巻』には全文掲載されています。担当執筆者の原田勝正さんはつぎのようにまとめています。
 ――この日光における請願を契機として、日光ばかりでなく全国の同様な地域の人々からも国立公園を設置してほしいという運動が高まっていった。
 各地からの請願または建議は約200件以上にも及んだといわれている。このような運動とともに民間では国立公園協会ないしは国立公園期成同盟会などの組織がつくられて、国立公園設置の促進運動が大正の中頃から更にさかんになっていったのである。政府も昭和5年(1930) には内務省に国立公園調査会を設け、国立公園に関するさまざまな調査を行うこととなっていった。
 この運動の成果が昭和6年(1931) に国立公園法として公布されることになったのである。この国立公園法の基礎をなしたのが実にこの日光における帝国公園設置の請願とそれ以後の非常に熱心な国立公園設置の運動であったことを忘れることはできないであろう。――
 しかし、ふと疑問になるのが日光を守る会、保晃会はどうなったのかということですが、明治29年(1896) になって解散を求める意見が地元から発せられます。担当執筆者は村上重良さんです。
 ――明治29年(1896) 3月20日発行の「東京毎日新聞」に、日光町有志者の名で保晃会の「非事」8カ条を摘発し、同会の解散を望む旨の記事が載った。また3月15日発行の「万朝報*ヨロズチョウホウ」第977号から1026号にわたり、「日光山中ノ秘」と題して、保晃会発起人らが、発会以来、常に会名を利用して日光町民の土地家屋を欺取し、日光山社寺の財産を左右し私利を営んでいるとの記事が連載された。――
 そのためかどうか、明治31年(1898) 榎本武揚が会長に就任し、翌年には財団組織の法人となり、常議員162名の中から理事11名を互選して会務を管理することになりました。新しい「保晃会規則」では第1条が次のようになります。
 ――第1条 本会ハ、民法施行ニヨリ、明治12年11月28日、内務卿ノ准可ヲ得タル規則ノ要旨ニ法リ、保晃会ト称シ、寄付ノ行為ニヨリ、日光山ノ社堂ヲ永遠ニ保存スルヲ目的トシ、以テ財団トス。――
 保晃会は植林事業をすすめるとともに社寺の修繕に関して資金面で努力したということですが、ちょうど日光町が地元の努力ではいかんともしがたいとい窮状を訴えて「帝国公園」の設置を請願した明治44年には、明治32年(1899) からの第1期修繕事業(工費約22万円で半分が国庫補助、半分が寺社負担) が終了し、翌大正元年(1926) からの第2期修繕(工費32万円で国庫補助15万円、寺社負担17万円) が始まるというときでした。この第2期修繕は大正8年(1919) まで続きますが、保晃会はその終了を待たず、大正5年(1916) に解散します。
 ――保晃会では、財産も益々多額に上り、植林を行うとともに社寺の修繕をも行ってきたが、大正5年(1916)、財産全部を処分し、山林246町1反9畝10歩を無償で、また1644町4反4畝13歩を有償で、東照宮、輪王寺、二荒山神社に譲渡して2社1寺の共同管理に移し、保晃会は解散した。――
 有償の譲渡分があまりにも多いので、払う側も受け取る側もそうとうの大きな負担なのではなかったかと思うのですが、どうでしょうか。『日光市史』が記述する範囲では保晃会という組織は「永遠」を掲げながら、ずいぶん無責任な終わり方をしているように見えます。しかし逆に、2社1寺に分かれた日光山が明治の混乱期をようやく乗り切ったということなのかもしれません。そうであれば日光町による帝国公園設置の請願はさらに1歩先を見た運動への取り組みというふうに理解することもできます。日光国立公園が誕生するのは昭和9年(1934) ですからさらに20年余を待たなければなりませんが……。

●ツーリストたちへの開国

 そのような明治の混乱を日光がくぐり抜けていくとき、最も大きな精神的な支えとなったのはSHOGUNの墓所に対する外国人の高い評価でした。
 もちろんトップバッターとして登場するのは英国の外交官アーネスト・サトウです。彼は日本語が堪能なうえに日本各地を積極的に歩き、日本を正しく理解するためのきわめてレベルの高いガイドブック『中央部・北部日本旅行案内』(英国マレー社、1881年) の執筆・編集の中心人物となるのです。
 文久2年(1862) に19歳の通訳生として在日英国公使館に勤務した第1回の来日では、幕末の奔流の中で外交官として存分の活躍をしました。そして明治3年(1870) 末から翌年末まで下賜休暇で帰国したそのあとは、親日派知識人として日本を広く、正しく理解しようという運動の中心に位置するのです。
 本格的なガイドブックが刊行されるには明治14年(1881) を待たなくてはなりませんが、英字新聞の「ジャパン・ウィークリー・メイル」に登場する旅行案内記事の中にサトウのものがあるということを指摘しているのはサトウの『日本旅行日記』(1992年、平凡社・東洋文庫=全2巻) の訳者・庄田元男さんです。
 明治5年(1972) ……内地旅行=富士の周辺、内地旅行=吉田から道志村を経て宮ヶ瀬まで、内地旅行=江戸から日光へ。
 明治6年(1973) ……旅行ノート=中山道経由で京都から江戸へ、旅行ノート=多摩川溪谷、内地旅行=大山とその周辺。
 これらの旅の日々に書かれた日記が庄田さんの翻訳になる『日本旅行日記』ですから、当然、明治5年の日光への旅もあります。そしてじつは、その明治5年がまた、サトウの新しい活動にとっては意味のある年でした。訳者による解説にそのことが書いてあります。
 ――1872年(明治5) 2月24日付の Japan Weekly Mail (横浜で発行されていた英字紙) には「内地旅行」と題して、来年日本との修好条約が改正されると、外国人が旅行できる範囲が大幅に拡げられるものと思われると報告し、そこで江戸、横浜から容易に遠出ができるいくつかの旅行ルートを読者に提供して置こうと約束している記事が見られ、以降断続的に紹介記事を掲載している。そして今回はまず日本滞在者のみならず日本の旅行者にとっても興味があると認められる富士山を見る旅から始めることとしようとして、日本橋を起点として甲州街道を西へ進み、八王子から小仏峠を越えて上野原、大月へ向かい、そこで南に折れて富士吉田までの旅行案内を掲げている。
 安政5年(1858) に日本と諸外国との間で締結された修好通商条約では、
(1) 外国人は居留地に居住すること。いわゆる内地雑居は認めない。
(2) 外国人の日本国内の自由旅行は制限されること。すなわち居留地から10里四方以遠には旅行ができない。
(3) 外国人には領事裁判権が認められていること。つまり日本にとっては治外法権が存在している。
 などが定められていて外国人にとっては(1) と(2) の改定が強く望まれていたのであり、一方日本人にとっては(3) が撤廃を要すると考えられていたのであって、双方から条約改正の必要が強調されていた。最終的に条約が改正・施行されるのは明治32年(1899) まで待たなければならなかったのだが、(2) の旅行制限に関しては、明治7年(1874) に日本政府は「内地旅行規則」を定め、いわゆる居留地から10里以内の遊歩区域を越えて内地へ旅行することを条件付きで認めるに至った。
 その条件とは旅行目的として「健康保全」「学術調査」などに限ることとしたものであって、個別的にパスポートを発給して国内旅行を条約の運用改善によって認めたのである。当時わが国が外国人の国内旅行を制限した趣旨は、主として商業上の利益を奪われるのを防ごうとすることにあった。このため外国人を定められた居留地に限定居住させ、開港地でのみ交易に従事するのを認めたのである。従って前述の運用改善に当たっても商業の推進を目的とする旅行は認められなかったのであって、温泉保養とか学問のためならばやむを得ないとしたのだ。
 冒頭に掲げた Japan Weekly Mail の旅行紹介記事はこのような事情を背景としている。――
 かくして明治5年(1872) の日光への旅の日記は始まるのですが、その第1日目、3月13日の書き出しのところをのぞいてみます。
 ――アダムズ、ワーグマン、パンチ(動物名か) とともに日光へと出発した。従者と別手組*ベツテクミの小笠原・後に高橋が供につく。――
 この「別手組」について訳者の注がついています。
 ――別手=外国の要人を警護する別動隊のことを指す。幕府あるいは新政府によって編成され各国の要人を順次交代で守護したがサトウはこの規則について意見を持ち、サトウのみを対象とした特定の隊員を充当させるように要求し、1867年(慶応3年) からは特に定められた1隊が彼の専属となった。要人の保護という名目の他に外国人の行動(日本人との交流、武鑑などの重要資料の入手等) を厳重に監視する役割を持っていた。別手組ともいう。――
 江戸時代以来、日光までは片道4日といわれていました。一行は4日目の3月16日の夜に日光に入り、17日には中禅寺湖まで往復しています。18日にようやく東照宮を見学します。
 ――陽明門と唐門*カラモンは白く塗られその彫刻も素晴らしい出来映えだ。唐門の方は中国産の唐木を使って彫られはめ込まれてある。扉のまぐさ(なげし) の上1フィートほどの高い所に一群の白い模様が施してあった。陽明門に帽子とステッキと刀を置き唐門では長靴を脱いで、脇の扉に回り込み拝殿と本殿の間にある石の間に入る。その左右には着座の間が置かれ、一方には縦8フィート、横6フィートの欅*ケヤキ地に鳳凰の象嵌*ゾウガン装飾が施されている。他方には1羽の鷹が1羽の兎に飛びかかっているところ、2羽は木に止まり別の1羽が今にも飛び立とうとしているところが描かれている。また麒麟*キリンを描いた金鍍金*メッキの板などもある。
 墓所へと続く石壁と階段には苔がむしていた。(墓所の宝塔は) ブロンズ製で石の台座の周辺にはコウノトリの形をした大きな燭台と真鍮*シンチュウの蝋燭*ロウソク、大きな香炉、足もとにボールを置いた麒麟、真鍮の蓮の入ったブロンズ製の大きな花瓶が置いてあった。家康の神社(東照宮) からは仏教的な遺構はすべて取り払われており、詰めている人は皆烏帽子*エボシと美しい衣装を身につけていた。――
 この旅でサトウは外国人旅行者に向いた鈴木ホテルを見つけます。訳者の注にこうあります。
 ――サトウたち一行はこの日鈴木という宿に泊まっている。これは鈴木喜惣次の経営になる鈴木ホテルのことで、明治4〜5年頃から人力車・馬車の立て場*タテバを兼ねて外国人を宿泊させるようになったのである。『中央部・北部日本旅行案内』初版の「日光」の項では「鉢石の鈴木ホテルが最も快適でここの主人は西欧人の宿泊客に特別の配慮を示し、各室は清潔で広く2階からの眺望は素晴らしい」と激賞している。日光の外国人向けの宿としては金谷ホテルが有名だが、これは明治6年になって金谷善一郎が自宅をホテルとして開業したもので、サトウが訪れたときはまだ営業にいたっていない。――
 じつはサトウが一番気にいったのは中禅寺湖で、かれはそこに別荘を持つに至ります。その別荘に関する新聞記事が『日光市史・下巻』に掲載されています。
 ――下野新聞、明治26年(1893) 11月8日2357号は日光中宮祠の最初の外人別荘新築を次のように報じている。
 ……外人が各国の名勝を選み婢妾*ヒショウ隷僕*レイボク(身分の低い使用人たち) の名を以て別荘を設け土地を有する等の怪事は往々見聞する処なるが県下日光中宮祠にも2ヵ所の家屋を有するものあり、其1は今を去る5〜6年前の建築にして同地湖水の北岸即ち日光町より登りて湖辺に出る道路と湖水の間にして日本風2層の高楼なり、地所は二荒山神社境内になるを同地旅店米屋政平の名を以て借請け1ヵ年地料其他米屋の外人より受領する金額250円なりと云ふ、而して10ヵ年の後には挙げて米屋に寄付するの約ありとも云へり、此所有人は司法省御雇カークード氏なりとす、他の1ヵ所は同じく湖辺の字大崎と云へる湯元道に沿へる処にして御料地内に属す、これも米屋政平の名前にて借地し前のカークード氏の周旋にて設けたる英国代理公使某氏の別荘、本年の新築に係われり、2者ともに湖水の北岸にして眺望最も佳なる処にあり邦人をして羨望に堪へざらむる宏壮美麗の建築何れも東京火災保険会社の保険付なり。……――
 「英国代理公使某氏」はもちろんサトウにほかなりません。のちに書かれる「日光を帝国公園となすの請願書」で「内外ノ人士団ヲツクリ隊ヲ為シテ其ノ来往頻繁ナルモ一小都会ノ観ヲナス」という光景のハシリになるわけです。
 この背後には「江戸から4日」といわれたアプローチの改善があります。明治23年(1890) に宇都宮経由で日光まで鉄道でくることが可能になったのです。
 しかしここでは再び明治11年(1878) まで遡ります。英国の女流紀行作家のイサベラ・バードが日光を起点にして北海道までの「探検」旅行をしています。彼女はすでに40代も後半の中年女性で、しかも若いころから脊椎炎の持病を抱えていましたから、転地療法を兼ねた旅行家というべきでしょうか。もっとも英国の王立地理学会の最初の女性会員だそうですから、大英帝国のもっとも正統的な女流探検家ということもできます。『日本奥地紀行』(高梨健吉=訳、平凡社・東洋文庫、1973年) では、6月10日の(粕壁からの) 第6信に、数ヵ月、2,000km以上におよぼうという探検旅行の装備について書かれています。一読してこれはよほど旅慣れた人だとわかりますし、ライトエクスペディション、すなわち装備をできるかぎり省いて食・住をできるだけ現地化しようという意識が鮮明です。
 ――準備は昨日終わった。私の支度は、重さ110ポンド(50kg弱) で伊藤の重さ90ポンド(40kg強) をあわせると、ふつうの日本の馬1頭がやっと運べる重量である。私の2個の塗った柳行李の箱は、紙で裏張りをし、表は防水のカバーをつけてあって、駄馬の両側につけるのに便利である。私には折りたたみ式椅子がある…日本の家屋には、床しか腰を下ろすところがなく、寄りかかるべき堅固な壁もないからだ。それから人力車旅行のための空気枕、ゴム製の浴槽、敷布、毛布、そして最後に最も大切な寝台。これは軽い柱をつけた画布*キャンバス台で、2分間で組み立てることができる。高さは2フィート半だから、蚤*ノミを安全に避けることができるだろう。
 食物の問題では、すべての人びとの忠告をあまり受け入れないことにした。私が持参したのは、ただ少量のリービッヒ肉エキス、4ポンドの乾葡萄、少しのチョコレート…これらは、食べたり飲んだりするためのもの。いざという場合のためブランデーを少量。自分で使うためのメキシコ風の鞍*クラと馬勒*バロク(くつわ)、相当な料の衣服。その中には晩に着るゆるやかな部屋着もある。蝋燭*ロウソク少量、ブラントン氏日本大地図、『英国アジア協会誌』数冊、サトウ氏の英和辞典。私の旅行服は鈍いとび色のツイード地の短い服で、黒くしてない革の丈夫な編み上げ靴をはく。――
 もちろん入域許可の書類を持たなければ「奥地」へは入れません。
 ――ふつう旅券には、その外国人の旅行する路筋を明記することになっている。しかしこの場合は、サー・H・パークス(在日英国公使) が事実上は無制限ともいうべき旅券を手にいれてくれた。路筋を明記しないで、東京以北の全日本と北海道*エゾの旅行を許可しているのである。この貴重な書類がなければ、私は逮捕されて領事館へ送り戻されるかもしれない。――
 バード女史は日光では金谷家に逗留します。
 ――私が今滞在している家について、どう書いてよいものか私にはわからない。これは美しい日本の田園風景である。家の内も外も、人の眼を楽しませてくれぬものは1つもない。宿屋の騒音で苦しい目にあった後で、この静寂の中に、音楽的な水の音、鳥の鳴き声を聞くことは、ほんとうに心をすがすがしくさせる。家は簡素ながらも不揃いの2階建て楼閣で、石で固めたひな壇上に立っており、人は石段を上って来るのである。庭園はよく設計されており、牡丹、あやめ、つつじが今花盛りで、庭はとてもあざやかな色をしていた。ちょうど後ろにそびえている山は、すその方が赤いつつじでおおわれていた。山から流れ落ちてくる渓流は、この家に冷たくてきれいな水を供給し、もう1つの流れは、小さな滝となり、家の下を通り、岩石の小島のある養魚池を通り、下方の川に入る。入町*イリミチという灰色の村は、道路の反対側にあって、激しく流れる大谷川*ダイヤガワに囲まれている。そのかなたには高い山があちこちにそびえ、欝蒼とした樹林におおわれ、峡谷や瀑布がある。
 金谷さんの妹は、たいそうやさしくて、上品な感じの女性である。彼女は玄関で私を迎え、私の靴をとってくれた。2つの縁側はよく磨かれている。玄関も、私の部屋に通ずる階段も同じである。畳はあまりにきめが細かく白いので、靴下をはいていても、その上を歩くのが心配なくらいである。磨かれた階段を上ると、光沢のあるきれいな広い縁側に出る。ここから美しい眺めが見られる。縁側から大きな部屋に入る。ここは大きすぎたので、早速2つの部屋に分けられた。――
 家族にもバード女史は目を配ります。
 ――金谷さんは神社での不協和音(雅楽)演奏の指揮者である。しかし彼のやる仕事はほとんどないので、自分の家と庭園を絶えず美しくするのが主な仕事となっている。彼の母は尊敬すべき老婦人で、彼の妹は、私が今まで会った日本の婦人のうちで2番目に最もやさしくて上品な人であるが、兄と一緒に住んでいる。彼女が家の中を歩きまわる姿は、妖精のように軽快優美であり、彼女の声は音楽のような調べがある。少したりない下男と、彼女の男の子と女の子を入れて一家全員となる。金谷さんはこの村の村長で、たいへん知的な人である。十分な教育を受けた人らしい。彼は妻を離婚しており、彼の妹は事実上夫と別れている。近ごろ彼は、収入を補うために、これらの美しい部屋を紹介状持参の外国人に貸している。彼は外国人の好みに応じたいとは思うが、趣味が良いから、自分の美しい家をヨーロッパ風に変えようとはしない。――
 女性らしいこまやかな観察がこの調子でどこまでも続きます。ちなみにこの金谷さんはのちに金谷ホテルとなるのですが、バード女史の紀行文にはつぎのような一説もあります。
 ――金谷さんとその妹は、しばしば晩に私を訪れる。そこで私は、ブラントンの地図を床の上に広げて、新潟へ向かう驚くべき道筋を計画する。しかし、途中に山脈があって通り越す道がないことが分かると、急に計画を断念するのが常である。これらの人々はきわめて安楽に暮らしているように思われるのだが、金谷さんは、お金がないと言って嘆く。彼は金持ちになって、外人用のホテルを建設したいと思っている。――
 英国が女流作家なら、フランスは海軍軍人にして人気小説家のピエール・ロチです。絢爛豪華といわれる日光がロチの筆にかかると深い印影を添えて輝きます。ここでは村上菊一郎・久野桂一郎=共訳の『秋の日本』(1960年、角川書店・角川文庫)から、ちょっと歩をゆるめた一瞬の感慨を引用しておきます。時代はすこし下がって明治18年(1885)の秋です。このときフランス海軍の練習艦トリオンファントの艦長だったロチは横浜駅を6時に発ち午後2時に終着の宇都宮駅に着いています。
 ――この神社は300年を経ている。そしてそれは、細心の注意をもって保存されている。その金泥の1つでも、色あせるにまかせてあるようなものはない。数千の花々の花びら1つ、無数の人体像の手の1つ、数知れぬ怪獣の爪1つさえ、欠けてはいない。だがどこということもないその輝きのなかにおける多少の色あせと、その雄大な線のなかにおけるほんのちょっとしたひずみとで、わたしたちにはこの神社の古いことが十分にわかる。――
 ――こうした驚くほど立派に保存されている物を前にしては、300年このかた、くる年もくる年も、ときには何千という団体を組んでやってくる無数の参詣人があったなど、どうしてわたしどもに想像することができよう。明らかに、われわれ西欧のとはぜんぜん違うそうした群衆を想像することができよう。軽いサンダルをはいて、衣ずれの音と、扇の音をさせながら、つつましく歩く注意のゆきとどいた、礼儀正しい群衆を。
 こうした保存状態は、すでにそれだけで、日本の非凡さの1つを語るものである。そしてこうした卓越した点は、がさつな人間や乱暴な人間の雑踏するわが西欧では、とうてい見ることのできない点であろう……――

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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