毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・3・上信越高原国立公園」
1993.5――入稿原稿


■国立公園物語…上信越高原

●三国国境地帯

 鉄道が日本列島の大動脈として着々と整備されていった時代のことです。
 1931年(昭和6) に上越線が開通して高崎線・高崎駅と信越本線・宮内駅との間の162.6kmを結ぶと、上野・新潟間の所要時間は約7時間に短縮されました。当時東京から新潟に行くには、信越本線経由で約11時間をかけるのが一般的でした。
 新潟方面の人々にとっては不便とはいえ、信越本線の開通は1893年(明治26) と古く、東京から長野・新潟への幹線として重要でした。その新潟に至る延長327.1kmの起点はどこか? じつは高崎駅なのです。上越線は信越本線の大きな迂回をショートカットするバイパスとなったわけです。
 本家の信越本線は関東平野の北のはずれから碓井峠まで急登して最高標高点940.747mの地点からゆっくり下って行きました。それに対して上越線は、高崎から谷川連峰の下を清水トンネルでくぐって“雪国”にポンと出る。こちらの最高標高点は676.933mです。信越本線の横川・軽井沢間にもうけられたアプト式から、電化を前提にした近代的なトンネルになりました。
 この上越線と信越本線、その間をつなぐ飯山線沿線に広がる山なみが上信越高原国立公園をかたちづくっているのですが、それは上州(群馬県) ・信濃(長野県) ・越後(新潟県) の三国国境地帯の山と高原ということになります。
 およそどんな山や高原が含まれているかというと、東の端には日本の登山史に特別な位置を占める谷川岳。西に目を移していくと雪深い秘境・秋山郷や苗場山があり、千曲川に沿って走る信越本線の車窓から眺められる高原の連なりには、軽井沢高原、浅間高原、菅平高原、志賀高原があります。
 西側はおよそここまでが1949年(昭和24) に国立公園に指定されましたが、さらにその西の妙高山、黒姫山、戸隠山、飯縄山などの頚城山塊と、野尻胡が追加指定されたのは1957年(昭和31) のことでした。
 この地域では最高峰の浅間山でも標高2,568mと、山は全体的に低く、山脈、山塊として明瞭な連なりに欠けています。そのかわり高原状の地域が多く、かつ温泉が各所に湧いているという点が特徴でしょうか。その“温泉と高原”に越後側からの豪雪が加わって、アルペンスキーのメッカとなっているのです。
 そこでここでは、登山とスキー、それに冬の湖底発掘という3つのエピソードを拾いながら、上信越高原国立公園ならではのユニークな歴史をたどってみたいと思います。
 谷川岳の登山と志賀高原のスキーツアーに関しては、現在も刊行されている二大山岳雑誌、「山と溪谷」(山と溪谷社) と「岳人」(東京新聞出版局) の古いバックナンバーを探りました。
 またアルペンスキー揺籃の地というべき志賀高原と妙高高原に関しては『二十年のあゆみ』(志賀高原観光開発株式会社、1978年) と『妙高高原町史』(妙高高原町、1986年) を見つけました。
 そしてもうひとつ、市民参加というユニークな方法論によってすばらしい成果を上げた野尻湖のナウマンゾウ発掘のドラマは「野尻湖発掘調査団」の著作物でたどってみます。
*なお古い資料では、文意をそこなわない範囲で漢字かなづかいを直し、句読点を補って読みやすくしました。

●“魔の山”谷川岳のデビュー

 1931年(昭和6年)9月 に上越線が開通したことによって「谷川岳」という山が日本の登山者の前にはなやかにデビューします。そして「山と溪谷」という新顔の山岳雑誌が谷川岳の大特集によって注目されました。
「山と溪谷」は1930年(昭和5) の5月に創刊、隔月刊の第9号(1931年9月) を「奥利根号」と題して、上越線開通記念の1冊丸ごと特集を試みます。巻頭から次のような高い調子です。
 ――今我々の面前に展開されんとしているのは清水トンネルを中心として、全く我々に未知であった無限の大山谷の展開である。見給え!東は尾瀬より西は白砂に至る連々たる大山脈、そして、それを彩るところの深奥なる大渓谷の連なりだ。――
 山岳雑誌でありながら、トンネル建設の技術者の原稿が2本掲載されています。村松常作という人の「清水隧道が開通する迄」という文は、歴史ガイドから書き起こされています。
 ――昔戦国時代には越後の軍勢が法螺貝勇ましく関東へ打寄せたり、徳川太平の代となっては殿様の行列や地方人の出稼ぎ、胡魔の蝿や雲助どもで賑い、明治の初年となって清水峠越しは、三国峠越しより山は険しいが距離が短いのでますます頻繁となり、時の政府は多額の国帑(国金) と幾多の犠牲を払って明治18年8月、清水越えの3間道路を延々と築き、人馬の交通は好くなり、山の宿場は盛りを極めたが、その後明治26年信越線の全通となり、この文化の恵沢は数年ならずして、吹雪と頽雪(雪崩) のために道路は荒廃し、橋は洪水に流されたままとなり、年々の改修も出来ず、開通当時故北白川の宮殿下が御馬車で御通り初めの歴史的光栄の国道もついに廃道のやむなきに至り、山の人達は家を捨て下流の平地を辿り、わずかに井戸や炉端を残してその昔を偲び大自然の奥利根も世に甚だ知られずに過ぎていた。――
 先遣隊の一員として現地入りした筆者の村松さんは、湯檜曽に滞在して土合に基地を建設します。通う道は旧国道です。
 ――そこで清水隧道の初まりだが、最初の仕事は先ず、この湯檜曽と土合までの廃道の改修で、3間道路とは名ばかり、中ほど1尺幅程の道で、両端は雑草に覆いかぶさり、朝霧を踏んで土合まで行くと全身濡れ鼠となる程で、これを刈り取り、橋を架け、石垣を築き、工事材料の運搬、糧食の輸送等に便ならしめた。一方は住む家の建設で急俊な山腹を切り広げ、地均しをする等々、土合生活の第1歩を築きにかかった。――
 村松さんが湯檜曽に入ったのが1922年(大正11) の5月。夏には土合に一大集落が出現しました。トンネル工事は鉄道省東京建設事務所が土合口から、土樽口からは長岡建設事務所が管轄して掘り進み、1929年(昭和4) 12月に貫通。1931年(昭和6) に開通しました。
 上越線の開通によって谷川岳は東京からだと夜行日帰りの登山が可能となり、勤めをもつ社会人登山家たちが岩登りを主体とするアルピニズムを追及することが可能になりました。
 この時代の谷川岳との出合いを、杉本光作という登山家が後に山岳雑誌「岳人」の341号(1975年11月号) に寄せています。タイトルは「谷川岳50年・その特異性について」。回想録の部分です。
 ――上越線が上越南線と呼ばれていた頃のことである。それまで後閑までだった上越南線が水上まで延長されたので、当時の東京鉄道局が初めて上越スキー列車を運転した。前夜上野を発って早朝水上着、列車はそのまま引込線で待っていて、夕方水上を発って夜に上野に帰るので便利であり、食堂車もあってなかなか豪華なものであった。たしか昭和4年1月15日だったと思う。
 その年の正月にスキーを始めた私は、さっそくこの列車を利用させてもらい水上に行ってみた。まだ暗くて物凄く寒い朝だった。スキー場は水上から少し利根川を登った道路わきにある、鹿野沢のスキー場だった。猫の額のようなところで大勢が登ったり滑ったりしていたが、面白くもないので私は1人スキーをかついで水上に戻り、利根川を渡って谷川温泉の道をたどった。
 利根川と別れて谷川に入るところで道は大きく右に曲がり、そこにブナの大木があって、その巨大な根が道を横切っている。そこはその根を利用して3段ほどの階段になっていた。谷川部落に近づく頃太陽が登ってきた。この日は冬には珍しい快晴となっていた。
 ふと見ると行く手谷川の奥に、純白の山頂が折からの朝日をうけて銀色に輝いていた。なんと荘厳な素晴らしい山だろう。私は山を登り始めて5〜6年しかたたず、ことに冬は奥多摩の山を2〜3度登っただけで、こんな素晴らしい白銀の山を見るのは初めてだった。私は瞳をこらして白銀の頂をしばしば眺めた。なんという名の山だろう。急に山の名を知りたくなった。――
 杉本さんはその山が地元では「マナイタグラ」と呼ばれているということを知ります。
 ――話を要約すると、この谷川(これは集落の名) に浅間神社があり、神社の裏から路があって天神峠を通って薬師岳(これは谷川岳のこと) に登れる。薬師岳は頂上が2つあって、手前を「トマノ耳」奥の高い方を「オキノ耳」といい、この2つをまとめて「耳2つ」とも呼んでいる。トマノ耳の肩に薬師様を祀り、オキノ耳には浅間神社の奥社を祀ってある。昔は浅間神社の夏祭りに大勢奥社まで登ったものだが、トンネル工事が始まってからいつの間にか中止されている。谷川(これは沢の名) を遡ると牛首、二俣と続き、二俣で谷川は大きく2つに分かれ、正面は岩山でマナイタグラという。岩山はマナイタを横に立てたような岸壁の連なりで、マナイタグラと呼ばれている。――
 偶然に谷川岳と出合った杉本さんに、しばらく無念の月日が流れます。
 ――帰京してから春となり、夏となってもあの白銀の山は忘れられなかったが、スキー列車がなくなると、上越南線は一ローカル線で夜行などなく、水上行き1番列車は朝6時半頃(上野発) で、水上に着くのは正午近くになって、余暇のない私達にとってあの白銀の山は、再び手の届き難い遠い山となってしまうのだった。お盆休みを利用して3度谷川に出かけたのだが、この時は連日豪雨のためさんざんな目にあい、得るところなく帰ってきた。
 こうして私がもたもたしていた頃、当時の登山界をリードしていた学校山岳部、特に早稲田、青山学院、慈恵、成蹊、京都帝大、東北帝大、法政、東京高師、新潟高師等の山岳部によって、谷川岳および連峰の登攀や研究がされていた。――
 以来半世紀、杉本さんは谷川岳とその周辺地域だけで370回以上もの登山を記録します。
 杉本さんが地元の人からマナイタグラと聞いた岩場は谷川岳の南面ですが、東面には有名な一ノ倉沢が、左右にマチガ沢と幽ノ沢とを従えていました。
「山と溪谷」第9号の「奥利根号」で、黒田正夫という登山家がその一ノ倉沢について書いています。黒田さんはそこで探検者としての権利を存分に行使します。命名です。
 ――この沢に来る手前に本沢(市ノ倉沢本流) に急湍がある。こいつは左側(以下みな上を向いて左右をいう。すなわち左は南。右は北) にからむ切明がある。今年の5月の終にはここらから雪があった。この市ノ倉沢には、昔から漁師もあまりはいらなかったらしく、名称がない。それでは不便だというので湯檜曽の阿部一美君、日本山岳会の角田吉夫君なぞと相談して、以下のような名を僭越ながら与えた。いずれ日本山岳会にも報告して、会の承認も得ようと思っている。
 今いった左から出ている沢を一ノ沢、そのちょっと上の右からのを衝立沢といい、この2つの沢をこすと谷川岳の大きな壁に直面する。その右端の市ノ倉岳から出ているのをのぞき沢、ほぼ中央からいくつもの滝をかけて下っているのを滝沢、左端谷川岳耳二つの右から出ているのを二ノ沢と呼ぶ。
 市ノ倉谷と町ケ沢谷とを区切る尾根には、3つ岩峰が、段々に大きくなってそびえている。之を全体として角岩と呼び、上の大きいのから、一ノ角、二ノ角、三ノ角という。一ノ角の上(西) の鞍部から一ノ沢が流れ出ている。一ノ沢の上は、急なざれだろう。それから、ほとんど一枚岩のような滝となめとが連結だ。一ノ沢の右(西) には窓のあいた巨峰がある。こいつを窓岩といっておこう。窓岩の上、耳二つとの間から二ノ沢が出る。
 二ノ沢から、のぞきの沢までは、ほとんど1枚の大きな岸壁、その間のかすかな割れ目を滝のある滝沢が流れ落ちている。
 越後の人間はこの市ノ倉の壁をのぞきといっている。こののぞきの沢は市ノ倉の本沢である。本沢の右(下) には大きな、上の平らな岩尾根が幽ノ沢との境の尾根から派出している。こいつを衝立岩といっている。
 その下(右) から出て一ノ沢のちょっと上で出合っているのがさっきいった衝立沢である。衝立沢から下の幽ノ沢との間の尾根は、すべすべな(多分断層面、湯檜曽川の東の笠ヶ岳からつづいている) 一枚岩である。そのまま、一枚岩といっておこう。
 この一枚岩の下、一ノ沢の出合の対岸に段丘があって、天幕をはるにいいが、この5月の終りには雪で埋まっていた。之より上には天幕をはる場所はない。――
 山腹をえぐっている険しい谷の1本についての、これが最初の報告のひとつなのです。知識のない者には想像のつかない風景ですが、この谷のなかで、以来何十本という「初登攀」が記録されることになるのです。
 と同時に、遭難も多発します。杉本光作さんが半世紀におよぶ谷川登山を振り返ったとき、遭難について触れないわけにはいきませんでした。「岳人」341号の記事をまた引用します。
 ――谷川岳の遭難は相変わらず多く、昭和6年この山が登られ始めてから今日まで、遭難死亡者が600人を越えている。恐ろしい数字であり、世界に例を見ないといわれ、魔の山、墓標の山といわれる原因でもある。
 谷川岳が登られ始めた昭和初期の遭難は、そのほとんどが一般ルートで起きていた。谷川岳がまだよく知られず、登山路も判然とせず、指導標が皆無だった。見晴らしのよくきく快晴の日でも、頂上から天神尾根へ下るつもりで、国境尾根を万太郎山に向かって行く人が毎日何人もあったほどである。なだらかな赤谷川源流に迷いこんだり、引き返す途中夜になったり、疲労のために力尽きたり、天候急変による凍死、雪崩の崩壊、スリップ等々の事故が多発していたのである。雪渓による事故は5〜6月頃、疲労の末の凍死は9〜10月に多かった。現在はこうした一般ルートにおける遭難は極めて少ない。山がよく知られ、登山路、指導標も整備され、曲がりなりにも番人がいる山小屋が出来たことによるものと思われる。――
 今度は岩場での事故が増加の一途をたどるのです。同じ杉本さんが「岳人」201号(1964年12月) で「“谷川岳遭難死400名”を契機に」と題して書いています。
 ――登山とは岸壁登攀、氷雪登攀のみで、低山や尾根歩きは登山でないと考えられ、こうした登山が流行化しつつあるようである。日本有数の岩場をもつ谷川岳に若い人達が後から後から押しかけて、一ノ倉沢のルートに至っては順番を待たなければ登れない程の盛況である。半面天神峠へは山に関係のない観光客が、ここでも押すな押すなの順番を待ってレジャーを楽しんでいる。これが現在の谷川岳の姿で、両者とも登山の本質からそれているように考えられる。現在谷川岳の遭難は一ノ倉沢とマチガ沢に限られ、それも墜落事故が大半である。――
 なぜ“無謀登山”が続くのか? 1967年から群馬県谷川岳遭難防止条例が施行されましたが、その前後に登山界でも激しい論争が展開されたようです。
 当然のことながら、登山をスポーツ化しようとすれば、規制やルールを賢く導入すればいいのです。しかしそれが未知の領域に踏み込もうとする探検的な行為であったり、自己表現に属する創造活動の一環である場合には、オソマツな規制は軽蔑の対象となるだけです。
 社会通念として持ち出された安全論議に対してしばしば見せる登山界の混乱は、それをスポーツ派と探検派(芸術派) の論理の食い違いとして見ていくとわかりやすいのではないでしょうか。谷川岳が“魔の山”といわれるのは、多くの人の命を飲み込んだ危険な山という結果論的な意味の裏に、人を魅了して生死の際まで引き込んでしまう魔性の山という意味を合わせ持っているからです。

●地元開発型の志賀高原

 2大山岳雑誌というべき「山と溪谷」と「岳人」がいずれも素人の若者の手で創刊されたということはあまり知られていません。
 1930年(昭5) の不況のドン底に生まれた「山と溪谷」は“大学(早稲田) ハ出タケレド”の川崎吉蔵さんが1人で広告をとり、山岳関係者に原稿を依頼して、みずから配本したといいます。山岳専門出版社・山と溪谷社の誕生です。
 また戦後の1947年(昭22) に創刊された「岳人」は京大山岳部の現役部員・伊藤洋平さんと仲間たちが岳人社というペーパーカンパニーをつくり、配給の用紙割り当てを得て実現したのだそうです。最近、創刊号の復刻版が出ましたが、わずか32ページ建ての体裁ながら「本号の内容によっても明白な如く、純粋な山岳雑誌として岳界復興のためのささやかな捨石となりたいと念じている」と格調高いものです。「岳人」は14号から中部日本新聞社に移って、現在は中日新聞系列の東京新聞出版局が発行しています。
 時代に合わせてクラスマガジン化を進めてきた「山と溪谷」に対して「岳人」は1冊で登山の動きをとらえていこうという姿勢で、どちらかといえば地味な存在です。
 その「岳人」は戦後、冬になるとスキーツアーを積極的に紹介します。雪山の美しさと処女雪にシュプールを描く楽しさは、登山の領域であったからです。
 そのような流れの中で、「岳人」80号(1954年12月) に猪谷六合雄さんが「雪の志賀高原」を紹介しています。戦後志賀高原に移り住んだ猪谷さんは、この記事の2年後にコルチナ・ダンペツオ(第7回冬期オリンピック) で銀メダルを獲得する猪谷千春さんを育てました。
 ――志賀高原といえば、まずスキーを連想する人が多いだろうと思うが、冬の志賀高原は、従来ツーアコースの面白いことで知られていた。しかしその割に練習場としてはあまり恵まれている方ではなかった。
 ところが戦後丸池の観光ホテルが進駐軍に接収され、付近のスロープが手入れされてその専用スキー場になって以来、日本最初のスキーリフトその他の施設も次第に整って、ともかくも近代的なスキー場の面目を備えてきた。
 それから3年程前にホテルと一緒に接収解除となったスキー場一円が、長野電鉄の手に移ったが、その後も引き続いて斜面の整備、リフトの相次ぐ改造、救急施設の拡充、宿舎の増設などと種々努力を傾けてきているので、現在ではその施設の点だけは一応欧米並の形態を整えた訳だ。――
 丸池のリフトは連合軍に対する賠償業務の一環として設置されたもので、(同じときに札幌・藻岩山に設置されたものと合わせて) 日本最初のスキーリフトといわれます。
 猪谷さんは続けます。
 ――丸池スキー場の施設の整備に刺激されて、このスキー場のすぐ下に近接するホー坂スロープや、石ノ湯、木戸池、熊ノ湯、発哺、高天ケ原、ブナ平などのスキー場が、多かれ少なかれ夏から斜面の手入れをするようになったので、志賀高原も今はツーアコースに負けないくらいの練習斜面をもつことになり、なおそれらのスキー場の大半がリフトその他の登行用機械力を施設する計画を立てているようだから、いずれは志賀高原はツーアにも練習にもよいスキー地として発展する可能性はあるものと思う。――
 ちょうどこの時代、志賀高原は大きな転機をむかえようとしていました。志賀高原観光開発(株)の『20年のあゆみ』(1978年刊行) によると、志賀高原でのスキー場開発では「長野電鉄」と「和合会」の対立が表面化してきます。
 この志賀高原観光開発という会社は「和合会と有機的につながりを持つ営利会社」と説明され、(財) 和合会は1927年(昭2) に発足した地元住民による公益法人。志賀高原と呼ばれている地域のほぼ全域におよぶ“地主”なのです。
 志賀高原は旧松代真田藩領で、当時の沓野村、湯田中村の住民が共同で薪炭林、草刈場、材木伐採地とし管理する入会地でした。明治になっていったんは国有地とされますが、地元住民の訴えによって払い下げを受けることができ、共有地として管理されていました。志賀高原と呼ばれる地域は標高1,300メートルより上の6,600ヘクタールほどの区域になります。
 この地域には江戸時代の末から熊の湯と発哺の温泉があって、夏の間だけ湯治場が開かれていましたが、山麓住民の入会共有地という地味な存在でした。
 ところが山麓の平穏温泉郷(湯田中・渋温泉郷) の強い要望によって1927年(昭2) に長野・湯田中間の鉄道が開通しました。翌年には上林温泉にスキー場が開かれ、バスも運行されるようになります。志賀高原開発の始まりです。
 たちまち上林温泉を起点とするスキー登山、スキーツアーのコースが開拓されます。もっともポピュラーになったのが渋峠越え(横手山越え) コースで、上林温泉→丸池→熊の湯→渋峠→芳ケ平→草津温泉。もう一つは発哺・高社山麓(竜王越え) コースで、上林温泉→丸池→発哺→焼額山→高社山麓→木島(または夜間瀬) です。
 指導標を整える、コースガイドをつけるなどして、ツアーコースを整えていくにしたがって、しだいに志賀高原というブランドが確立してきます。
 志賀高原地区を共有地とする住民たちは、鉄道が開通したその年に(財)和合会を発足させて、長野電鉄に対して沓打茶屋から熊の湯におよぶ60万坪を20年間無償で提供するという貸借契約を結んだのです。
 こうして志賀高原がスキー場としても知られるようになったころ、政府(鉄道省観光局) は外貨獲得のための国際レベルの観光地開発を掲げ、スキー場をそなえた国際観光ホテルの建設計画を発表しました。候補地は霧ケ峰、奥日光、菅平、志賀高原、妙高高原と発表され、本命は志賀高原か妙高高原か?と新聞は報じました。長野県側は内部調整によって候補を志賀高原1本に絞り、新潟県が妙高高原を強力にアピールしたのです。
 結局、これは両者で勝ちを分けることになります。『20年のあゆみ』には次のように書かれています。
 ――昭和10年12月わが国初の国際スキー場として指定されたのである。鉄道省観光局は志賀、妙高、菅平を含む一帯を「上信越国際スキー場」に指定し、その中心地たる志賀、赤倉に国際観光ホテルを建設することも決定した。ここにツアースキーコースの志賀から、ゲレンデスキー場への素地ができ、また「上信越国際スキー場」は、昭和24年に上信越高原国立公園に指定されたのである。――
 冬季オリンピック開催の候補地としても志賀高原は名乗りを上げます。こちらは札幌との一騎打ちの結果、札幌が1940年(昭15) の第5回冬季オリンピック開催地と決まりました。この札幌冬季オリンピックは同年の第12回東京オリンピックとともに中止になりますが、その後、冬季オリンピックが札幌で開催され、いよいよ今度は長野、というのはご存じのとおりです。
 戦前に「国際スキー場」であったが故に、志賀高原は戦後、米軍に接収されます。『20年のあゆみ』はこう書いています。
 ――終戦後の昭和21年6月30日に志賀高原ホテルおよびその敷地、丸池スキー場その他の付属施設を含めて、44,043坪が進駐軍に接収された。翌年には50,532坪となった。料金は1坪当たり10銭であった。時を同じくして上林ホテルも接収された。
 その年の10月初代志賀高原ホテルの隊長として赴任して来たラフェンス・パーカー大尉は、日本の終戦処理に基づく賠償業務の一環として、丸池スキー場にスキーリフト1基を架設するよう終戦処理委員会(特別調達庁) に申し入れると同時に、同ホテル支配人を通じ地元の関金三郎を招き、スキー場設定とスキーリフト建設の計画書を作成するように要求してきた。
 その調査計画は同年10月27日より2週間の予定で始められたが、パーカー隊長は、関金三郎のアシスタントにアメリカの鉱山関係に経験をもつ兵士1人をつけてくれた。2人は丸池中心はもちろん志賀高原一帯をくまなく調査し、報告書をまとめ提出した。これが今日の志賀高原のマスタープランとなり、ここにツアースキー場からゲレンデスキー場へと大きく転換をするのである。――
 1952年(昭27) に丸池一帯の施設が接収解除となって地元に払い下げられ、長野電鉄が日本で最初の“リフト付きスキー場”を経営することになりました。長野電鉄対和合会という対立が生じてきました。
 ――こうした社会情勢の変化の中で、地主の和合会は長野電鉄に無償で貸している広大な土地に対して、地主としての権利を主張、会員の観光施設(スキー場および宿舎・リフト等) を建設させるに至った。和合会員の多くは沓野を中心として、出稼ぎ人や農家が多いこともあって、生活の向上を期し、またその次三男対策としても、志賀高原への観光業進出が一般化することになったのである。開発以来、長野電鉄、長野県(県営ホテル) 、国、国鉄(山の家) 等を媒体とする他力本願的な考えが後退し、志賀高原の観光レクリェーション開発は和合会のみという自力開発の基本線を確立し、その主体性のもとに地域社会の発展を図ろうというのであった。――
 この間の状況をもうすこしくわしく見てみます。
 ――昭和27年10月進駐軍の接収解除と共に丸池スキー場、スキーリフト並びに付帯施設一切の払い下げを長電が引き受け、同年12月丸池第1リフト(273m) を新設、29年12月に第2リフト(148m) を架設するに及び、戦後の復興と共に折からスキーブームが巻起り、日本最初の民間リフトに向けてスキーヤーは殺到した。
 その将来性を認識した地元の春原正明、佐藤正三等が中心となり法坂スキー場にリフト架設する会社の設立を和合会に申請するに及んだ。当然長野電鉄は競合リフトとして架設反対の立場を強めたが、地主和合会の指導もあって昭和30年遂に地元民による出資で法坂リフト(株)が設立された。それと時を同じくして木戸池に両面リフトが出来、従来の宿舎・茶店事業・寮の管理人として入植することから更に多角経営へと乗りだし長電主導型から地主和合会主導型へ大きく脱皮していった。
 次いで昭和31年には児玉環、関金三郎、渡辺義正、児玉藤三郎が中心となり長電も株主に加わり志賀山リフト(株)が生まれ、アルペン競技の殿堂を作り上げ昭和32年から36年まで、国体をはさんで連続5年間全日本スキー選手権大会が行われ競技スキー場としてもゆるぎない地位をかため、更に32年には熊の湯にも、リフト架設ブームに乗り佐藤正勝の提唱でこれまた長電を含めた新会社が出来、広域スキー場としてますます名声を高め、昭和33年には小林信義・児玉喜蔵・佐藤武七等が中心となって横手山リフト(株)が設立されるに及んで地主和合会としても、これ以上一部会員に占有されては会員全体への利益享受が不公平となり、また個々の開発では統一性も欠くおそれなしとしないとの意見や将来の大計からしても格調ある開発を望む声があがり、山本角三郎理事長はじめ役員一同で公益性のある総合開発に着手することになった。――
 かくして公益法人の和合会はみずから出資して収益事業を行なう別会社として志賀高原観光開発(株)を設立したのです。志賀高原が基本的に県内の地元資本によって開発されてきた背景にはこの地主組織・和合会の意志があったのです。

●上流階級の超高級別荘地

 1921年(昭10) に志賀高原とともに国の国際スキー場に指定された妙高高原こそ、日本のスキー発祥の地でした。厳密にスキーの発祥地というと新潟県の高田(上越市) になりますが、妙高高原はその後背地にあたるのです。
 1911年(明44) の1月からオーストラリアのレルヒ少佐によるスキー指導が行なわれたのは高田の第13師団においてでした。歩兵第58連隊の将校に対する1カ月の講習は、高田の金谷山で行なわれました。そして練習は妙高高原にまでおよんだのです。
 たちまちスキー場がつくられます。1914年(大3) に妙高温泉近くの畑地につくられたのが馬場スキー場でした。翌年の1915年(大4) には東京帝大教授で後に全日本スキー連盟会長となる河本禎助が20人ほどの学生を引き連れて、“大学スロープ”でみごとな滑りを披露します。
 この東京帝大の学生たちのスキー術はどこから伝えられたのかというと、これもレルヒ少佐の直系であったようです。『妙高高原町史』では、次のように説明しています。
 ――高田の師団で参謀をしていた山口十八少佐の熱心な説得を受けて、学習院・東京帝国大学・慶応義塾大学等の山岳会や山岳同好会の人々は、スキーが冬山の雪中でどれだけの利用価値があるかを試すために妙高高原に来たのである。――
 日本におけるアルペンスキーの開幕です。
 そのころ、札幌では北海道大学の講師ハンス・コラーによって紹介された北欧式のいわゆるノルディックが主流となっていました。そこで両者の優劣を決めようという機運が高まり、1923年(大12) に小樽で行なわれたのが第1回全日本スキー選手権大会、翌年に高田で行なわれたのが第2回大会。これは、いずれも地元選手の圧勝であったようです。要するに決着はつかなかったのです。
 しばらくすると、1930年(昭5) にオーストラリアからハンネス・シュナイダーがやってきます。全国各地のスキー場をまわってシュテムクリスチャニアという最新技術を披露します。妙高高原のカバヤスキー場では500人がシュナイダーの講習を受けたといいます。テレマークからシュテムクリスチャニアへ、日本のスキー術は完全にオーストリア派になるのです。
 かくして昭和の初期、妙高高原は日本の最先端のスキー場を自認していました。1934年(昭和9) から翌年にかけて、鉄道省国際観光局が国際スキー場選定をすすめたとき、「志賀高原に決定?」と新聞が報じるや、妙高高原側は猛烈な反撃を開始したのです。
 当時の名香山村が記録した「妙高高原国際スキー場赤倉観光ホテル獲得運動経過報告」(『妙高高原町史』による) は以下のように記しています。
 ――長野電鉄、湯田中、渋、安代、志賀高原の高頭藤平を中心とする積極的で機敏な長野県勢に対して、県庁との連絡タイアップにも妙高山麓はこれに対抗するに泣き落とし戦術に出、赤倉、妙高と縁故ある名士、県人とみればその力を求めて最後の敢闘をしていく事になった。
 岸本助役、広島久松、村越義次、茂原市太郎、長崎圭、土肥民治等8人は上京して、赤倉に別荘をもった人や妙高の縁故を尋ねて次々に陳情していった。
 入沢達吉、正金(銀行) 頭取児玉謙次から殿様の細川護立は、広島久松等の赤倉(別荘地) の顔でじかに押し入っての懇請。加嶋屋、小林旅館宿泊の縁故をたどって、大倉喜七郎に押しかける。新井尭弥(国際観光局) が赤倉の田中徳兵衞の親戚と知れば田中氏を介して陳情していった。
 ついにこれらの人々の応援とともに、芳沢兼吉、大倉喜七郎等をして新潟県人会あげての一大運動となし、田局長が登庁すれば間髪を入れずの陳情で、ついに志賀高原と予算を折半して、2カ所建設ともっていったのである。――
 このような人脈攻勢を展開できたところに、妙高高原の、志賀高原との大きな違いがありました。
 妙高高原の赤倉温泉(一本木新田村赤倉温泉場) は1816年(文化13) に開かれ高田藩が出資し、温泉奉行所の管轄として経営・監督された半藩営的な温泉で、上越地方の人々の湯治場でした。
 明治時代になってからの湯治客は1872(明5) に17,000人という数字が残っており、1883年(明16) の21,000人をピークに減少していきます。
 もともと湯治客の7〜8割は自炊であり、営業も夏場だけのものでしたが、赤倉温泉はいちおう温泉街を形づくっていました。宿が軒を並べていたのです。1884年(明17)、そこに火事が起こりました。6軒の宿が焼け、共同浴場も1棟を失います。これによって湯治客は半減するのです。
 そのような斜陽の温泉村に外部から大資本が入ってきます。1886年(明19) のことですが、東京の土建業者・鹿島組の社長・鹿島岩蔵が赤倉温泉の存在を知り、10分の1の湯量を内湯として引き入れる近代的な温泉旅館を建設します。この香嶽楼が東京の名士を招き寄せることになるのです。
 鹿島組は信越本線の敷設工事を請け負っていましたが、鹿島岩蔵は高田に高田貯蓄銀行を設立するなど事業家としての手腕を発揮していました。信越本線は1887年(明20) に長野から関山までが開通して、関山のひとつ手前が田口駅(現在の妙高高原駅) 。1893年(明26) には上野から直江津までがつながります。
 小説『金色夜叉』を書き上げた尾崎紅葉が“赤倉の香嶽楼”に2泊したのは1899年(明32) でした。赤倉温泉の集落のようすを、紀行記「煙霞療養」に次のように書きました。
 ――凡そ己の知る限に、此処ほど山水の勝を占めた温泉場は無いのであるが、又、此ほど寒酸の極に陥った町並を見た事がない。1日遊園鴬語を聴き、兼ねて温泉碑を読み、古池の名残をも尋ねんと、湯宿の軒を並ぶる通を過ぎたが、町にも村にも、此の一条の往来と両側の家居との外に一本木新田(村) は無いのである。
 2、3の店を除いては皆自炊宿の棟低く、屋根は朽ち軒は傾き、格子窓さえ破れて見る影もなき散々の体、此うち異しく感ずるのは、外湯の浴場の不相応の荘重しく新築されたのが3箇所に聳えて、五色硝子の欄間に満目の荒涼を照らすのである。――
 新築された外湯(共同浴場) のうちの2棟は1891年(明24) の建築で、起死回生の最後の手段として、北白川宮や新潟・長野両県知事などを招待し、盛大な完成祝賀式を行ないました。尾崎紅葉が見たのはその8年後の姿です。
 1906年(明39) になって、赤倉温泉を訪れた岡倉天心は、しかしここがすっかり気に入って「赤倉山荘」を建てます。建物は高田の料亭・富貴楼を移築したもので、その背後で動いたのは鹿島組の重鎮で高田貯蓄銀行や赤倉の香嶽荘の経営もまかされていた三舘一郎次であったといわれます。岡倉天心は1913年(大2) にこの赤倉山荘で亡くなります。
 天心の山荘が建った頃、赤倉温泉分湯(株)という会社が設立されています。これが後に妙高温泉となるのですが、赤倉温泉から10分の6の分湯を得るものでした。この新会社には鹿島岩蔵や前島密の名があります。社長には東京の星野錫が就任するという外部資本の温泉開発となりました。この赤倉温泉分湯(妙高温泉) には加島屋、湯本館、石田館などが開業します。
 別荘では岡倉天心に続いて東京の弁護士・小出五郎が白雲荘を建てます。そして小出は当時侍医頭だった入沢達吉らと「妙高倶楽部」を設立して、今でいうリゾート会員権システムを宣伝しました。
 一流名士の温泉つき別荘が続々と建ち始めます。なかでも1919年(大8) に細川侯爵、1925年(大14) に久邇宮家の別荘が建つと、赤倉は上流階級の温泉避暑地として名を知られるようになったのです。1934年(昭9) から翌年にかけて国際スキー場指名獲得運動で名香山村(旧一本木新田村) が強力な運動を展開できたのは、この高級別荘地の人脈をたぐってのことでした。
 また、妙高温泉土地(株)が1923年(大12) に関川村の草刈場を買収して池の平温泉を開発すると、ここは企業の寮や個人の別荘分譲地として発展します。
 最後に、国際スキー場の指定をようやく獲得した結果はどうなったか。町史から引用しておきます。
 ――国際観光ホテルの誘致に成功した村では、ホテルの建設と経営を県知事のあっせんで帝国ホテル会長の大倉喜七郎に依頼することになった。大倉は建設費40万円のうち30万円を鉄道省のあっせんで大蔵省預金部から融資を受け、残り10万円を経営者負担で工事を行なうことにしたが、これに先立って自らスイスへ行って山岳ホテルの実情を視察したり、赤倉でスキーを習うなど、この事業にかける熱意はなみなみならぬものがあった。
 村では建設候補地として熊堂山、田口山、三ツ山を示したが、大倉はヨーロッパに比べ遜色のないスキー場付き山岳ホテルにするため、標高1,000m以上、20万坪の用地確保を強く要望した。また、既存の温泉旅館の営業を妨げたくないという理由から三候補地に難色を示した結果、田切山の山の神(現在地) に決まった。――
 1937年(昭12) 12月12日12時にオープンした赤倉観光ホテルは、我が国では例をみない3階建ての本格的な山岳ホテルで「白亜の殿堂」と呼ばれました。客室は50。従業員60人のうち女子はすべて高田高等女学校の卒業生で、開業前に帝国ホテルで3カ月の訓練を受けたといわれます。
 明治になって凋落の一途をたどっていた赤倉温泉は、日本の上流階級を迎え入れることですこしずつ自力を高めていったのです。

●のべ10,000人の野尻湖発掘

 いま、野尻湖の湖畔近くに野尻湖博物館があります。この30年間にのべ1万人以上の人々が手弁当で集まって、掘って、掘って、すこしずつ明らかにしつつある石器時代のヒトとオオツノシカとナウマンゾウの生活史の研究拠点です。
 発掘調査の主体は「野尻湖発掘調査団」ですが、これがきわめてユニークな組織なのです。最高の意志決定機関とされる運営委員会について、『1万人の野尻湖発掘・たのしい仲間づくり』(野尻湖発掘調査団著、築地書館、1987) ではこう説明されています。
 ――運営委員会は、友の会代表、専門グループ代表、団長、顧問、調査団事務局員など約80人で構成されていますが、オブザーバーも多く、その数は合計100人以上になります。参加者に若い人が多いこと、さまざまな職種の人がいること、これが野尻湖発掘調査団運営委員会の特徴であり、誇りでもあります。運営委員の平均年齢は25歳前後でしょう。大学生が圧倒的に多く、高校生も若干おります。つぎに多いのは小・中・高校の教員で、やはり若い人が目だちます。そのほかに、大学・研究機関の教員・研究員、会社員、自営業、病院職員、医師といった顔ぶれが毎回みられます。出席者の野尻湖発掘歴は25年から1年未満とさまざまで、男女比は7対3くらいになります。――
 この発掘調査団には参加資格に制限がないといいます。全参加者は基本的に対等・平等で、全員が発掘の主催者、発掘の成果は全参加者のもの、というのが“憲法”になっています。
 このきわめてオープンな姿勢が、運営委員会の決定方法を全会一致にさせているというのです。『1万人の野尻湖発掘』はこう説明します。
 ――運営委員会は、形式的な民主主義に、あまりこだわっていません。たとえば、友の会、専門グループ選出の運営委員は、1人であったり3人であったりしますが、その人数は、各友の会・専門グループで決めています。全体で人数の割りふりなど決めていないのです。これは、民主主義の形式にこだわるとじつに変な話になるのですが、実際にはなんの支障もないのです。運営委員会での決定は、十分に論議をつくしたうえ、全会一致であり、多数決ではないからということです。意見の違いはあっても、十分に論議をつくせば理解しあえるし、行動では一致できるのです。この連帯感、信頼感が、もしなくなるときがくるならば、それは、野尻湖発掘も終わるときといっていいすぎではないでしょう。――
 この発掘は1962年(昭和37) に始まりました。地元の人が湖岸で拾い上げた“湯たんぽの化石”が、1956年(昭32) にナウマンゾウの上顎の第3大臼歯であると発表されたのがきっかけです。
 このとき、このナウマンゾウの化石は「立が鼻火山礫凝灰岩層」からの出土であったと報告されていました。この地層は第四紀の豊野層(長野市から野尻湖方面に分布する) につながることから、第四紀の研究者たちによって注目されたのです。とりあえず湖畔を掘ってみようということになりました。
 このあたりのことは、これも野尻湖発掘調査団がまとめた『増補版 象のいた湖』(新日本出版社、1992) にくわしく書かれています。
 ――第1回目の発掘(第1次発掘) は、不安と期待のなかで、昭和37年(1962) の3月の末におこなわれました。3月の末といえば、里では春の気配がただよっていますが、野尻湖はあたり一面、まだ真冬の景観です。日によっては、吹雪にみまわれることさえあるありさまです。
 どうして、こんな時期が選ばれたのでしょうか。野尻湖は毎年、この時期になると、水位が5メートルちかくさがり、岸から100メートルから200メートルの幅にわたって湖底が干あがるのです。というのは、近くの発電所で、冬場には水が不足して、野尻湖の水を使うようになるからです。それに、3月の末は、どこの学校も休みにはいっていて、先生も学生も生徒も、発掘に参加しやすいのです。
 こんなわけで、最初は湖畔を掘る予定だったところが、理想どおり、湖底を発掘することができるようになったのです。
 発掘は、団体研究の方式をとり、各地から集まった専門家や、小・中・高校の先生、それに大学生や高校生に中学生もまじえて、総勢70名の手によってすすめられました。――
 発掘は第1日目にナウマンゾウの化石の破片と、オオツノシカの臼歯がそれぞれ1個ずつ発見されされました。2日目には湖底を1.5メートルの深さまで掘り下げて地層を調べることができました。そして最終日の第3日目、夕暮れもちかく、これで発掘もおわりか、と思うころ、湖岸から10メートルほどの地点で、高田城北中学生のグループが、ほぼ完全にちかいナウマンゾウの大腿骨(ももの骨) を掘りあてたのです。
 ――まず実践、という第1回目の発掘によって、これらの化石は、今から80万年から200万年もまえにつもった豊野層ではなく、その上に新しくつもった地層に含まれていることが実証されました。そしてこの地層には、新しく「野尻湖層」と名前がつけられました。野尻湖層は、おもに砂がつもってできた地層で、発掘地点の近くでは、厚さが約1.5メートルあり、地層がつもった時代は、氷河時代(第四紀) の第3間氷期(リス・ウルム間氷期) にあたる、6万年から12万年まえであろう、と考えられました。――
 発掘は4年間連続して行なわれ、7年たった1973年(昭48) に、大きな転機となる第5次発掘が行なわれます。3月25日から31日におよぶ7日間の参加者総数は1,107名で、日帰り参加者がそのうち689名。発掘の延べ参加人数は2,743人/日となりました。『増補版 象のいた湖』では参加者は5のタイプにわけられたと書いています。
 ――第1のタイプは、研究者・先生・大学生で、まえもって参加申込みをして、十分に学習をつみ、準備をととのえてきた人びと。第2のタイプは、第1のタイプの人びとに引率されてきた中学校と高校の地学クラブや、学校ぐるみで参加した新潟県の小・中学生で、やはりまえもって学習会をもち、まとまって参加した人びと。
 第3のタイプは、地元の小・中学生で、自分たちで数名のグループをつくったり、または兄弟そろって、当日、受付にきて、参加したいと申しでた人びと。第4のタイプは、テレビや新聞のニュースを見て、電話で参加申込をして、やってきた東京などの子どもとその母親。第5のタイプは、スキーや観光を目的にして野尻湖を訪れたけれども、日程を変更して発掘に参加した、という高校生・会社員・地学を専攻していない大学生など。
 大ざっぱにみると、第1と第2のグループが、まえもって参加申込をしていた600名で、第3〜第5のグループがとびいり参加の500名ということになります。――
 こうして市民参加、全員手弁当、成果は地元に還元、というユニークかつ本格的な発掘活動はいよいよに動きだしたのです。

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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