毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・5・霧島屋久国立公園」
1993.7――入稿原稿


■国立公園物語…霧島屋久

●巨大火山の博物館

 日本の火山帯には、海を越えてはるか遠くに伸びるものがあります。北に向かう千島火山帯、南に向かう富士火山帯、そして南西に伸びて台湾にまで至るのが霧島火山帯です。
 霧島火山帯では、活・休火山が北から南に、阿蘇山(1,592m)、霧島山(1,700m)、桜島(1,118m)、開聞岳(992m)、硫黄島(704m)、口永良部島(657m)、中之島(979m)、諏訪之瀬島(790m)と連なっています。
 このうち霧島屋久国立公園に含まれるのは霧島山、桜島、開聞岳の3つですが、じつは桜島は鹿児島湾北部全体をしめる姶良カルデラの中央火口丘といわれます。また薩摩富士として名高い開聞岳は鹿児島湾南端部をカルデラとした阿多火山の周辺活動のひとつで、池田湖(カルデラ)や山川港(カルデラ)とは兄弟関係にあたるようです。
 そのさらに南方海上に国立公園に含まれる屋久島があるのですが、霧島火山帯はその西脇をすり抜けて南下していきます。
 屋久島に近い硫黄島では、海に面した断崖から温泉が湧いています。その酸性成分が海面に黄色の浮遊物となるところから、もとは黄海島、あるいは鬼界島と呼ばれていたといいます。平清盛の討伐計画に失敗してこの島に流されたのが僧・俊寛。能や歌舞伎では有名な島です。この島と、となりの竹島とが外輪山の一角となる海中の大カルデラが発見されて鬼界カルデラと名づけられています。
 霧島火山帯は北端の阿蘇山からして世界最大級のカルデラで知られますが、それにまさるとも劣らないカルデラが、姶良、阿多、鬼界と続いているのです。そして25の火山からなる霧島山も、東西27kmにもおよぶ加久藤カルデラの周辺活動にすぎないというのが専門家の常識となっているようです。
 このように、霧島屋久国立公園の中心は巨大なカルデラ群なのです。ですからここでは、桜島は日本でもっとも巨大な火山の一部で、今なお活動している部分ということができます。それも50万都市鹿児島の市内で火山灰を噴き上げ続けているのです。
 今回はまず、桜島について、元鹿児島大学教授・石川秀男さんの『桜島―噴火と災害の歴史』(共立出版、1992年)を一読してみます。
 親にあたる姶良火山については、その姿を関東ローム層の調査から描き上げた町田洋さん(東京都立大学教授)の労作、『火山灰は語る』(蒼樹社、1977年)や『火山灰アトラス―日本列島とその周辺』(東京大学出版会、1992年)によって追跡してみます。
 鹿児島湾という火山性海湾については鹿児島大学の早坂祥三さんの論文がありましたし、活火山とともに生きる人々の夢については、鹿児島市の南日本新聞の火山取材班がまとめた『火山と人間』(岩波書店、1989年)という好著がありました。
 巨大火山列とは直接関係ありませんが、樹齢1,000年以下のスギの木は「小杉」としか呼ばれなかった屋久島もこの国立公園の半分の重みを支えています。
 屋久島は「サル2万、シカ2万、ヒト2万」といわれたほどに野生の濃い島ですし、九州地方の最高峰・宮之浦岳の標高1,935m付近は北海道とほぼ同じ気候区分に属します。すなわち日本列島の南から北までの気候帯を圧縮して閉じ込めた島なのです。
 この島の最大の「開発」事業は林業でした。国有林伐採という観点からスギとヒトとの関係をあきらかにしておこうとしたわたしの古い友人・津田邦宏さんの『屋久杉が消えた谷』(朝日新聞社、1986年)を紹介します。ここでは南日本新聞屋久島取材班の『屋久杉の里』(岩波書店、1990年)も参考にしています。

●桜島噴火

 桜島の噴火については、古くから、たびたび記録されてきました。安永8年(1779)の大噴火を石川秀雄さんは『桜島』のなかでつぎのように再現しています。
 ――安永8年10月1日(1779年11月9日)の14時ごろから、南岳南山腹の有村の丘(高さ700m)付近から、大音響とともに爆発が起こった。地震とともに黒煙が立ちのぼり、12kmの上空にまで達した。2時間後の16時ごろになって、今度は北東山腹の高免の上(高さ650m)の地点からも爆発した。噴煙と降灰で暗夜のようになり、無数の雷光が走って雷鳴もすさまじかったという。
 地震と降灰は翌日までつづいたが、噴火がとくにはげしかったのは、翌日2日の早朝5時ごろからで、二俣村に噴石も落下し、これについで溶岩の流出がみとめられた。――
 ――2日、3日は噴煙や降灰で、まったく月の光もわからないほどの闇の世界であったが、4日過ぎごろになって、だんだんと噴煙も薄らいで、7日からは住家の残っている者は帰ることができた。しかし、火山灰は家の軒端まで積もって、それをかきわけなければ、家に入ることができなかったという。――
 軽石が水に浮いて、ドラマを生みました。
 ――1日、2日後には、家を焼かれた古里、有村、脇、黒神などの部落の人たちは、みな瀬戸村に集まってきた。しかし、瀬戸海峡は軽石が厚く海面に浮かんでいて、舟で渡ることもできない状態であったという。
 はじめて、ここを渡ることができた者が、瀬戸村のようすを話したので、それを聞いた家老の伊集院兼東は、急ぎ海潟までいき、舟でこれらの人たちを救出しようとしたが、これもまた、軽石のため舟は進むことができなかった。軽石の厚さは、鹿児島湾内のとくに風下に当たるところでは、6尺(約1.8m)もあった。どうにか軽石を押しわけ押しわけ進み、数百人の人たちを残りなく救ったという。救出された人たちは、みな灰をかぶり、化粧をしているように真っ白で、噴石に打たれ血を流している者もいた。なかには、自力で海上の軽石をふんで、3里(約12km)の瀬戸海峡を垂水や福山まで渡った者もいたという。――
 大正3年(1914)の大噴火は「世界の火山噴火史上に残る大規模なものであった」と石川さんは書いています。くわしい記録が得られているので、この噴火については、前兆現象に注意がはらわれています。
 ――大噴火の2日前の1月10日から、鹿児島市付近でも有感地震が群発して、噴火当日の12日午前6時までに、417回の地震を記録し、その間、マグニチュード4.9から5.1の火山性地震も10個連続して発生した。――
 ――噴火の前日の1月11日には、横山、赤水の東方山上付近から、岩石がたえず崩れ落ち、また、強震にともなって崩壊する音響と地鳴りで、百雷が落ちるようであったという。――
 ――1月11日午後3時ごろ、小池の東方の権現のあたりには、一条の白煙が上がってすぐに消えた。――
 そうして、1月12日。いよいよ噴火です。
 ――午前8時ごろ、東桜島の鍋山西方から噴煙が上がった。数分後には、今度は西桜島村の上方、海抜500m辺りからも噴煙が上がり、約2時間後の午前10時5分になって、そこから大噴火がはじまった。
 まず西桜島村赤水の直上、海抜350〜400mの中間の谷間から、突然に黒煙が上昇し、轟音とともに噴火した。5分後の10時15分には、火尖がその先端から噴き出し、7〜9m大の噴石が落下した。噴煙は7,000mの高さまで上昇し、電光が無数に走った。――
 ――午後6時29分になって桜島と鹿児島市の中間に震源をもつマグニチュード7.1の大地震が発生した。――
 ――午後7時30分には、鹿児島市一帯の海岸で津波もあり、交通や通信網も破壊され、鹿児島本線の重冨―鹿児島間、川内線の武―伊集院間では、各所に路面の欠陥を生じて不通になり、通信もまったくとだえた。――
 こうして12日は暮れていったのです。
 ――前日からの爆声は次第に強大となって、13日に絶頂に達した。この日の午前1時前後、もっとも猛烈な爆発音が起こって、日中も間断なく大鳴轟がひびき、午後4時ごろには噴煙は8,000mの上空に達した。
 午後5時40分に横山の上方噴火口から火焔が噴出し、午後8時14分には、さらに大噴火が起こって、天高く大火柱がたち上がり、北東にたなびき、閃光が縦横に走った。真っ赤な噴石も光芒をひいて無数に落下した。この噴火で火砕流が発生し、小池、赤生原、武部落は全焼、藤野、西道の一部でも火災があった。同8時30分には噴火はややおさまり、溶岩の流出がはじまった。――
 ――1月14日午前7時には、昨夜流出した溶岩は、袴腰の上方約550mあたりまで押し出し、袴腰から沖小島の海面は軽石でおおわれた。15日になると、溶岩は赤水、横山の部落を埋め海岸に達した、翌16日、溶岩はゆっくりと流下して、ついに海中に突入して白煙をあげた。18日には、海岸から約1.6km沖にあった海抜23mの烏島を埋没し、溶岩はゆっくりと流動して、2月上旬に停止した。――
 ――東部の鍋山方面から流出した溶岩は、黒神、瀬戸部落を埋没して、さらに瀬戸海峡に突入し、ほぼ500mあった海峡を次第に埋めていった。1月24日には、わずか幅2〜3mの狭い海峡にし、29日にはまったく海峡を埋めつくして、大隅半島と陸つづきになった。――
 噴火は収束に向かいましたが。大きな変化は、むしろ目に見えにくいかたちで起こりました。そのことについても石川さんは触れています。
 ――一般に大噴火が起きると、その周辺地域では地盤の変動が発生する。大正大噴火でも、地盤の沈降が起こったが、その中心は桜島を中心としてではなく、姶良カルデラの中心から同心円状に沈降して、最大2.6mにもなった。――

●姶良カルデラ

 ここにでてくる「姶良カルデラ」を「鹿児島湾の地質構造」という観点から明かにしようとした論文を鹿児島大学の早坂祥三さんが書いています(地学団体研究会・専報33号「九州の後期新生代火山活動をめぐる諸問題」1987年)。
 そこではまず、鹿児島湾の特異性が述べられます。
 ――南部九州のほぼ中央部に、南から北へ向かって深く湾入する鹿児島湾(南北約75km、東西約25km)は、国内各地に存在する同程度の大きさの海湾にはみられない、いくつかの特徴をそなえている。――
 というのです。それを列記すると次のようになります。
1) 湾内北部に活火山桜島を擁している
2) 湾奥部(桜島の北側)と湾中央部に水深200mを越す海盆があり、海底地形の縦断面にはげしい起伏がみられる
3) このような地形的特徴によって特異な海水循環機構をもつ
4) 海盆底からそそり立つ独立した堆(バンク)がところどころに存在する
5) 湾奥部東半部では海底噴気活動が継続して、その海域の水質や生物分布に特異な現象をもたらしている
 早坂さんは鹿児島湾を湾口部、湾中央部、湾奥部の「三海域」に分けます。
 ――湾奥部は、桜島西岸と鹿児島市街地の間の、水深約40mの西桜島水道でのみ湾中央部とつながっている。湾奥部海域は、他の海域と比べて際立って特異な海底地形を呈する。この海域の海底地形は、海岸線から沖へ向かって水深約140mの平坦面に至る急斜面、東部に位置する水深200m前後の凹地、およびこの海域の西半部と東部南半部を占める水深140m前後の平坦面などに大別される。――
 ――この海域は松本唯一の姶良カルデラに相当し、東側の大隅半島と西側の薩摩半島の海岸線にみられる海崖はカルデラ壁と考えられてきた。海域の南側には桜島火山が存在し、その北側に接して安永諸島を乗せる海台がある。桜島火山の噴火活動は、閉鎖的環境であるこの海域の底質に種々の影響をもたらしている。――
 鹿児島湾の生みの親というべき存在が姶良カルデラということになります。もっとも早川さんはそのカルデラの位置について、新しい調査データによる修正も示唆しています。
 ――従来、湾奥部は全域が姶良カルデラを代表するものとされているが、湾奥部海域の音波探査記録によると、その西半部の海底下約150mの範囲は、わずかに西傾斜の、明瞭な層理面をもった堆積物によって占められており、カルデラ性陥没構造とは考えられない。
 それとは対照的に、湾奥東半部の海盆底の地下には、かなり複雑に断層に切られて出来た数多くのブロック状のパターンがあり、火山性ないしカルデラ性陥没に伴う構造と判断される。
 同様のパターンは、阿多カルデラの位置とされる湾口部ではなく、湾口部北部に接する湾中央部の南半部を占めている。それらがそれぞれ、姶良・阿多カルデラの(少なくとも最終段階の)構造と位置を示すものであるとすれば、両カルデラとも鹿児島地溝東縁にまたがって存在することとなる。そのことは、その後にくる現世の火山活動(霧島、桜島、指宿火山群など)の位置が、ほぼ地溝内に限られていることとくらべて興味深い。――

●関東で発見された姶良火山

 姶良火山の存在を発見したのは熊本大学の教授だった松本唯一さんでした。息子の松本幡郎さん(熊本大学)、松本征夫さん(山口大学)と父子2代にわたるしらみつぶしの地質探査によって、九州の火山構造が急速に明かになってきたことは本シリーズの「阿蘇くじゅう国立公園」で触れました。
 ところが一般の目に触れにくかった姶良火山が、日本の最大級の巨大火山として再発見されることになりました。
町田洋・新井房夫共著の『火山灰アトラス』につぎのような一節があります。
 ――広域火山灰あるいは広域テフラの語がしばしば使われるようになったのは、姶良Tn火山灰(ATとも略称。約2.2万年前南九州姶良カルデラから噴出したテフラ)が日本列島とその周辺海域という広域に分布することがわかった1976年ころからである。――
 ここでいうテフラとは、ギリシャ語で「灰」という意味で、アリストテレスが火山灰の意味で使ったところから、最も広義の火山灰として使われるようです。日本語でいう「火砕物」にあたり、降下テフラは白色の降下軽石、黒色の降下スコリア、径2mm以下の降下火山灰に分類されます。これら降下テフラのほかに、火砕流堆積物と火砕サージ堆積物を合わせてテフラと総称するのだそうです。
 ともかく「姶良Tn火山灰」は20年近く前に発見されたのでしたが、このTnというのは南関東一帯に見られる火山灰層「丹沢パミス(TnP)」に由来するというのです。その発見のいきさつが町田さんの古い著書『火山灰は語る』(蒼樹書房、1977年)に書かれています。
 ――1975年6月11日、島根大学の小畑浩さんに案内された新井房夫さんと私は、ひとつの崖の前に立ち止って1枚の火山灰層に見入りつつ、ぞくぞくする期待に胸をふくらませていた。それは初夏の陽ざしがまぶしい、鳥取県大山の麓であった。
「似ている、実に似ている。しかしまさかねえ」
 2人がつぶやきながら眺めていたのは、大山山麓で地元研究者が「キナコ」と愛称している、粒の細かい黄色がかった火山灰であった。新井さんと私が話題にしたのは、そこから東へ800kmも隔たった南関東の地で、富士山噴出のスコリア層中にはさまれている「丹沢パミス」と呼んでいた火山灰層との間のおどろくべき類似だったのである。ルーペでみると、その火山灰は、細かい砂粒の大きさで、するどい縁をもったひらべったくて透明な火山ガラスを主体としてできていた。重鉱物は輝石、角閃石などであるが、ガラスにくらべてほんのわずかしか入っていない。
 この「キナコ」は、東は鳥取砂丘から西は中の海周辺まで、東西80kmの広い地域で知られていて、「20cmパミス」という別名をもつことからもわかるように、この範囲では厚さの変化がほとんどみられない。大山または島根県の三瓶山から噴出したものなら、当然その山に近づくにしたがって厚くなっていくはずである。だから、この火山灰はもっと遠くの火山に由来するものと考えた方が自然である。――
 町田さんたちはここで、想像もつかない巨大な火山噴火を歴史的事実として認めなければならない立場になるのです。2人は「キナコ」と「丹沢パミス」の類似性の謎を追い始めます。
 ――大山から帰るとすぐ、新井さんは採取してきた火山灰試料の火山ガラスや斜方輝石の屈折率特性を実験室にこもって調べ出し、私は私で、京都・大阪方面における火山灰についての情報を集めはじめた。
 新井さんからは早速、「鉱物も屈折率もまったくよく似ている、ほんとうによく似ているよ。これはえらいことになったぞ」という電話をかけてくるし、私はそれに似た火山灰層に心あたりがあるという大学院生の森脇広君に案内してもらって、近畿地方へ探索の旅にでかけた。そしてたちまちのうちに、琵琶湖畔の彦根、京都、奥丹後、三方など数カ所で「キナコ」や「丹沢パミス」と酷似している火山灰をみつけたのである。――
 ――いよいよテフラの日本縦断も絵空事ではなくなってきた。とすると、この火山灰の噴出源はいったいどこなのだろうか。――
 しかし、専門家であるがゆえに、町田さんは直感的には九州にたどりつくことができなかったようです。
 ――中部九州の阿蘇カルデラや九重火山から2万年前頃に大容量のテフラが噴出したという報告はこれまでなされていなかった。阿蘇の大カルデラに関係した「阿蘇―4」と呼ばれる大火砕流は、これよりももう少し古い。霧島火山もこの頃さほど大容量のテフラは出していない。
 そのときハタと思い当たったのは、南九州の有名な「シラス」(地質学的には入戸火砕流と呼ばれている)だった。この火砕流は容積150立方キロというベラボウな噴出物で、南九州のほぼ全域をおおってシラス台地をつくっている。しかもその直下に(大噴火活動の初期の噴出物として)大隅降下軽石という名の大規模なテフラもある。私はこの数年前から折にふれて宮崎から鹿児島にかけての調査を行ない、すでにそれらの試料を持ち合わせていた。
 そこで早速ケースから鹿児島県志布志の入戸火砕流の試料をとり出し、ざっと水洗・乾燥して砂粒を顕微鏡で見たところ、あるある!見慣れた透明ガラス片がワンサとあるではないか!
 私は興奮してすぐに新井さんに電話をし、高精度の屈折率測定を依頼した。折り返し寄せられた測定結果は、上首尾で、斜方輝石の最大屈折率や火山ガラスの形態と屈折率も、また班晶鉱物組成も「丹沢パミス」と全く同一とみられるとのことだった。――
 この発見ドラマはその直後に書かれただけにリアルです。15年後の『火山灰アトラス』では、そのまえがきがつぎのように始まります。
 ――あれは1975年の夏であったか、私達は姶良Tn火山灰の広域性を見出した頃、同僚や後輩をつかまえて「東京にも鹿児島のシラスがあるよ」と得意顔で吹聴して回ったことがある。シラスとはあの南九州シラス台地を構成する姶良カルデラの大火砕流堆積物である。そのときの友人たちの反応はいろいろであった。頭からそんな馬鹿なと信じない人、からかわれているのではないかという反応を示す人。しかし野外でくだんの火山灰と比較したりすると、故中村一明氏のように「まるで麻薬を嗅がされているみたいだ」と半信半疑ながら私たちの主張を認める人が増えてきた。
 そのころ、私たちは姶良Tn火山灰のように日本列島をすっぽりおおうような分布の広い火山灰は例外的なものではなく、ほかにも沢山あるのではないか、と漠然と考えていた。そして次第に発見例が増えるにつれて、火山灰(テフラ)は本来広域に分布する性質をもつものであって、同定する技術が進むにつれて、沢山見つかるに違いない、これから広域火山灰の時空にまたがるネットワークを張り巡らす必要がある、と考えたことを記憶している。――
 姶良Tn火山灰は約2万2000年前のものですから、旧石器時代の重要な時間指標層となり、考古学にも貢献してきました。そしてつぎに町田さんたちが明かにしたもう一つの広域テフラが縄文土器文化の指標層として活用されます。かつて松本唯一さんが発見、命名した鬼界カルデラからの巨大噴火による鬼界アカホヤ火山灰(K-Ah)で、約6,3000年前のものです。
「アカホヤ」というのは宮崎県での呼び名で、地下数十センチのところに見られる赤い火山灰層。固くしまって作物の根を通さない典型的な不良火山灰土だそうです。熊本県の人吉盆地で「イモゴ」、四国では「オンジ」と呼ばれているものと同一でした。

●火山灰を資源に

 今から約2.2万年前の姶良火山の大噴火は『火山灰アトラス』では次のように再現されています。
 ――一連の噴火はまず大規模なプリニアン噴火(多量の軽石、スコリア、火山灰をガスとともに爆発的に噴出し、火口上に高い噴煙柱を定常的に形成するタイプ)にはじまり、多量の「大隅降下軽石」をもたらした。つづいて水蒸気マグマ噴火による火砕流「妻屋火砕流堆積物」が噴出し、わずかな時間間隙をおいて破局的噴火により「入戸火砕流堆積物」と呼ばれる膨大なテフラが噴出した。「姶良Tn火山灰」は主にこの火砕流の上部を占めていた多量の火山灰が風に送られて広大な範囲に降下堆積したものである。――
 これら噴き上げられたマグマの量は、地上の体積物の厚さと範囲から計算して、大隅降下軽石が100立方キロ。妻屋火砕流堆積物が約6立方キロ、入戸火砕流堆積物が約200立方キロ、姶良Tn火山灰が150立方キロ以上と見積られているそうです。合わせて450立方キロは、姶良カルデラの直径が20kmといわれますから、単純計算で深さ1400mの円筒にあたる量となります。
 このように大量のマグマを放出する爆発的噴火では、内部にできた空洞に向かって陥没が起きてカルデラになります。それに対して富士山のような大きな山体を残す火山は小規模な噴火を繰り返してこつこつと積み上げた結果ということになります。同じ巨大火山でも、浪費型と貯蓄型とがあるということのようです。
 その巨大噴火の姶良Tn火山灰は日本列島と日本海のほぼ全域をおおって、直線距離で最大1,400kmの地点でも確認されているといいます。
 火山灰を含めた降下テフラは噴煙柱の頂上部まで噴き上げられた比重の小さい粒子が、風に乗って水平方向に運ばれて終端速度(重力と空気抵抗がつり合う速度)に達すると落下し始めるのだといいます。
 それに対して噴煙の柱の部分では、地下の火道から上がってきたガスが火口で急に膨張してジェット流を発生するガス・スラスト部があります。放出されたガスは周囲より高温であるため、大気中に局部的な対流を起こして上昇します。かくして噴煙柱の高さは熱エネルギーの放出量の4分の1乗に比例するといわれます。
 その上昇気流で噴き上げられた噴出物が重力に引かれて落下しはじめると噴煙柱の崩壊となるのです。火山灰となる頂上部を残したまま崩れてきた軽石、火山灰、岩片が「熱雲」「火砕流」「火砕サージ」などと呼ばれる現象を引き起こすのです。『火山灰アトラス』はこう書いています。
 ――高さ数十キロの噴煙柱が崩壊すれば火砕流は数十キロを走り、途中で比高数百メートルの尾根を乗り越えられることが理論計算から示された。――
 南九州で広く「シラス台地」と呼ばれているのは、姶良Tn火山灰の下で崩れた噴煙が火砕流となって尾根を越え、谷を埋めて広がったもので、学名を入戸火砕流堆積物というのです。
 この「シラス」はこれまではいわばやっかいもの。それをなんとかして“資源化”できないかという研究がすすめられてきました。南日本新聞社の火山取材班がまとめた『火山と人間』では「あすの資源」という章をもうけて開発技術の最前線(1987〜88年当時)をルポしています。
 そのひとつが宮崎県工業試験場の中島忠夫さんによる「シラス多孔質ガラス(SPG)」の合成(1979年)でした。
 ――SPGは、ハイテク時代の新素材として最近、大変な脚光を浴びている。微生物固定、除菌フィルターなどバイオの分野をはじめ、ファインセラミックスやセンサー基板、あるいは血液濾過などその応用の可能性は原子力、電子工学、宇宙開発、医療と、ほとんどの先端産業を網羅する。実用化をめぐり、日本だけでなく、米国の学会まで問い合わせてくるほどだ。あのやっかいもののシラスに。信じられない話である。――
 そのシラス多孔質ガラスは、たとえば透析用注射針に採用されたのです。
 ――その注射針こそ、SPGの特性を生かし、62年(1987)2月に開発したばかりの製品だった。全長12〜13cmはあろうか。針の部分が約8cm、その後ろの部分に直径1cm足らずの透明なカプセルがついている。
 砂原所長(医療器具メーカー・メディキット・東郷工場。宮崎県)がカプセルの部分を指さした。見ると直径2mmほどの白い小さな粒が1個、はめ込んである。紛れもなく、宮崎県工業試験場で見たあのSPGだった。
 これがどうして画期的なのだろうか。砂原部長は待ってましたとばかりに「この小さな粒にある無数の細孔こそが、血液と空気を分離する働きをするんです」と説明する。――
 ――SPGの細孔は1ミクロン(1,000分の1mm)以下。これに対して、赤血球など血液成分は2〜8ミクロンと大きいから細孔を通らない。かくして空気は通すが血液は通さない貴重なフィルター役をSPGの粒子は担っているのだ。――
 つぎは空気を微細な泡にするフィルターの例です。
 ――装置には長さ20cm、直径10mmのSPG管1本が使用されている。この管の中に5度以下の冷水を通し、外から圧縮空気をかける。するとSPGの無数の細孔を通った空気はごく微細な気泡となり、多量に冷水に溶ける。その結果、通常の2倍の酸素濃度を持つ水となり、この中にしおれた野菜を数十分浸すと、酸素による新陳代謝の促進効果で野菜は吸水力を取り戻し、鮮度が復活する、という仕掛けだ。岩崎さん(清水鉄工。宮崎県延岡市)は「一度収穫された野菜は産地から消費者のもとに届く過程でどうしても鮮度が落ちる。この装置を使えば新鮮で、うまい野菜を口にできるわけです」と効能を自信たっぷりに説く。――
 シラスを新素材として利用する先駆となったのはシラスバルーンでした。1965年に開設された通産省工業技術院の九州工業技術試験場でシラスの資源としての利用を研究テーマに掲げたのです。『火山と人間』のなかで陣内和彦さん(九州工業技術試験場)は語ります。
 ――当時私たちは九州に広く分布するシラスを、なんとか資源利用できないかという問題に取り組んでいました。そのひとつが選別し、加熱処理したシラスを炭鉱排水の濾過助剤として利用し、その結果できる粘土状の副産物で軽量骨材を作ることだったんです。ところが、シラスを加熱すると風船状に発泡し、水に浮くじゃありませんか。――
 こうして開発されたシラスバルーンは、まずプレハブ建材の軽量素材として脚光をあびました。また教材用の紙粘土に増量材として入れられていますが、軽くなり、乾燥してもヒビ割れしにくくなるのだそうです。自動車や家電製品の塗料にも混ぜられていて、一度で厚塗でき、軽量化できるという利点を発揮しています。
 比重3.2のセメントに比重0.2のシラスバルーンを混ぜ、鉄筋の代わりにガラス繊維を使うと、従来の鉄筋コンクリートにくらべて軽量で耐久性の高いものがつくれるといいます。たくさんの気泡を内部に封じ込めているために断熱性や防音性も向上します。壁が薄くて軽ければ、建物のデザインの自由度も大きくなるわけです。
 シラスのガラス含有量は60〜70%ですが、場所によっては含有量が90%というシラスもあります。鹿児島工業試験場ではシラスバルーンを作るときより高温にしてガラス化し、ガラス繊維として取り出したり、凝結剤や軽石などを混ぜて焼いてレンガやタイルにする実験を続けています。また九州工業技術試験場では耐熱性にすぐれたシラス特殊ガラスや、超高硬度のガラスも開発しています。
 シラスの資源としての利用のもっともシンプルな例をもうひとつ『火山と人間』から紹介します。
 ――社長の大迫繁さん(株式会社サンドエール。鹿児島県東市来町)が説明してくれた。「当社ではシラスを砂質と軽石、ガラス質微粒子の3つに分けて利用しています」
 パワーショベルで削られたシラスは、ベルトコンベヤーに乗せられ、グルグル回る円筒形のふるいの中で、粒の大きさに応じて順次選別される。まず軽石は、直径40mm以上と40〜20mm、20〜5mm、5〜1.2mmの4つに。
 40mm以上の軽石の用途が面白い。ジーンズを洗うのに引っ張りだこというのである。硬い布地のジーンズは、ある程度洗いざらさないと着心地がよくないし、商品価値も出ない。そのためには洗濯機に軽石を入れて洗うのが一番よいというわけで、国内はもとより、中国、韓国など東南アジアへ輸出している。
 また40mm以下の軽石はスポーツ施設のグラウンド材、農地の土壌改良材として重宝がられている。陸上競技場、テニスコート、ゴルフ場のバンカーやグリーンの下に軽石が敷きつめられているのをご存じだろうか。軽石の持つ通水性で、雨が降ってもすばやく排水し、プレーができるようにしてあるのだ。
 逆に軽石は、水を吸って蓄える保水性も併せ持ち、硬い粘土質の土壌には直径1.2〜5mmの小さな軽石を混ぜることで改良できるという。
 軽石を取り除いたあとの直径1.2mm以下のシラスは、さらにふるいにかけられる。比重0.3以上と以下に選別できる機械で、水を利用し重いものと軽いものとに。重い方に微粒の軽石を混ぜた砂を同社では「重砂」と呼ぶ。
 この重砂が、いまや建設業界で「無塩砂」として重宝がられている。生コンやブロック、セメントがわらなど、コンクリート製品には砂は不可欠だが、最近は川砂が取り尽くされ、海砂を使うようになってきた。そこで代替品として、シラス製無塩砂が脚光を浴びているのだ。
 また軽い方のシラスは「軽砂」と呼び、現在橋梁会社がサンドブラスト(砂吹きつけ)として使っている。鉄工所から運ばれた鉄板には、油やサビなど付着しがちだが、この軽砂を圧縮空気で吹きつけるときれいに取れる。
 ところで、1.2mm以下のシラスを比重別に分けるさい使った濁り水は、いったん沈殿層にためられる。底にたまった沈殿物を水切りし、乾燥して粉にしたものをふるいにかけると、ガラス微粒子分だけが残る。これを大手自動車メーカーが車体の研磨剤として、いま検討中という。――

●屋久杉という奇跡

 九州南方海上にそびえる屋久島は世界に稀な特異な自然を残しています。その象徴が有名な「屋久杉」で、屋久島のスギは樹齢が1,000年を越えると、急にその性格を変えていくといいます。『屋久杉の消えた谷』で津田邦宏さんはこう概説しています。
 ――現存する屋久杉の中で最も大きい縄文杉も、発見が遅れたために伐採をまぬかれた巨木だ。宮之浦岳の北東、標高1,3000mの地点にヤマグルマ、ナナカマド、アセビなど十種を超える植物をからませる。根回り43m、地上から1mのところの直径は5.1mもある。高さは30m。樹齢7,200年といわれてきたが、58年(1983)の環境庁の総合学術調査では6,300年前に九州と屋久島の間で大火山爆発があり、溶岩が全島を覆った、という報告がなされた。林野庁が放射性炭素で調べた結果でも2,170年だった。しかし樹齢論争はまだ続きそうだ。
 屋久杉が育つ理由はいくつか考えられる。雨が多くて太陽の光が強烈なこと、台風や冬の降雪で余分な枝葉がもがれること、木根にからんで共生するシャクナゲ、ナナカマドなどから養分を吸収すること、などだ。大阪市立大の依田恭二教授は「亜熱帯の多雨多湿の中で、土地がやせた尾根筋に生長した屋久杉は、猛烈な台風のたびに幹が折れ、高くならない。枝も幹化して番傘を広げたように葉が広がり、光をたくさん利用できるようになる。スギは年をとると葉が少なくなって枯死するが、屋久杉の場合は葉による光合成のバランスがよく、巨大さを保ち、生長を続けることができる」とみる。
 その年輪幅は1mm前後で非常に密になっており、秋田スギなどと比べると、違いがよくわかる。秋田スギは樹齢200〜300年で直径が1mを超え、千年以上生き続けた屋久杉と同じ太さになってしまう。屋久杉は伐採後数百年をへて、なお生きている。コケで覆われた切株や倒木を掘り起こすと、新鮮な香りが漂う。幼木には1%の樹液しかないが、巨木には本土の他のスギにはみられない6〜8%もの樹液があり、それが天然の防腐剤になっているのだ。
 しかし、このスギも、屋久島だけの固有種ではない。鹿児島県・大隅半島にある鹿児島大演習林に育つ縄文杉の実生のクローンも、やはりなんの変哲もない普通の若いスギである。「千年を超えると、忽然と変容する」と島の人がいうように、生き物とも精霊とも言い難い一つの存在になる。――
 島では古くから樹齢1,000年以上のスギを「屋久杉」とよび、樹齢数百年の古木でも1,000年以下のものは「小杉」をよんではっきりと区別してきたといいます。それは正確な樹齢というより、姿かたちから存在感まで、決定的に違うものであるらしいのです。
 津田さんは続けます。
 ――屋久杉が島に何本残っているかは確かめようがない。全島をチェックすることが不可能なうえ、空からの調査も周囲の木々との区別がつかない。国有林を管理する熊本営林局は1〜2万本としているが、自然保護団体などはせいぜい2,000本前後ではないかという。
 いずれにしろ、一つの地域で1,000年を超えて生き続けるスギが何本となく生えている所は屋久島をおいて他にない。
 屋久杉を生んだ森はカシ、シイ、スギなどを中心をした照葉樹林である。九州本土の山々は、照葉樹林帯より高度が上がるとブナ、ミズナラなど冬に落葉する夏緑樹林帯になるが、これが屋久島にはない。その分を照葉樹が埋め、すぐ草原帯につながる。鹿児島大の田川日出夫教授は「これは熱帯型垂直分布と非常に似ている。屋久島でそれが見られることは世界的にみて貴重なことです。ブナ林の南限である鹿児島県・大隅半島の高隅山と屋久島は100kmしか離れていない。かつては陸続きだった屋久島でも、高山帯にブナ林があってもおかしくないが、ブナなどが南下を始めたのは最終氷河期。大隅半島まで来たときに気温が上昇して南進にストップがかかった。来てもいいはずの木がこない、さあどうするんだというので頑張ったのが、屋久杉たちです」と説明する。――
 屋久杉を代表する縄文杉については、南日本新聞社・屋久島取材班がまとめた『屋久杉の里』に次のような解説があります。
 ――縄文杉が巨大な樹貌を初めて見せたのは、南日本新聞の1967年(昭和42)1月1日付の紙面であった。発見されてから間もなくの時点で、本紙のペンとカメラが屋久島の原生林に分け入り、汗を流してとらえた写真を、第1面を全面さいて掲載した。――
 この縄文杉を発見したのは上屋久町役場の岩川貞次さんで、発見者の命名が「大岩杉」であったのを南日本新聞社の紙面でいつのまにか「縄文杉」となってしまったというのです。
 その縄文杉の樹齢について、『縄文杉の里』はつぎのように書いています。
 ――一般に杉の寿命はせいぜい400年といわれている。屋久杉になると、1ケタ違ってくる。縄文杉が発見されるまでウィルソン株と並んで最大、最高齢とされていた大王杉の樹齢は、推定3,000年。縄文杉はそれより一回りも二回りも大きい。発見当初は推定樹齢3,000年から4,000年と、かなり大ざっぱな言い方がされていた。
 7,200年説は昭和52年(1977)九州大学工学部の真鍋大覚教授(気象学)による推定だ。木の大きさの比較データ、縄文杉の生えている環境条件などから割り出したが、これまで最大、最長寿といわれた北米カリフォルニアのセコイア(スギ科、推定樹齢3,000〜4,000年)をはるかにしのぐ数字となった。
 実際に縄文杉の威容に接すると、7,200年でも1万年でもおかしくない気がしてくる。が、この推定を他の客観的な方法で裏づけることはできないのだろうか。
 実は昭和57年(1982)に行われたエックス線による断層撮影(CT)でも、また放射性炭素年代測定法でも、理解し難い若い数字が出てきた。どうにも一筋縄ではいかない。――
 かくして樹齢は推定の域を出ないまま、火山学の方向から目盛が1つ示されました。屋久島の北方約40kmの海面下の鬼界カルデラの大噴火があったのが6,300年前だったのです。『火山灰アトラス』によれば鬼界アカホヤ火山灰は南は沖縄から北は東北地方にまで広がっていますが、火砕流(幸屋火砕流)堆積物は北は鹿児島近くまで、南は屋久島のさらに南方海上にまでひろがっています。
 屋久島がこの火砕流に襲われたとき、縄文杉はすでにそこに立っていたのかという問題です。『屋久杉の里』ではこう書いています。
 ――赤ホヤは屋久島でも全島に厚い層がみられ、尾根筋でもこの年代の炭化した木片が見つかっている。島の植生が大きな打撃を受けたのは疑いようがない。
 花粉の化石の分析から、いったん壊滅した森林は4,000年ほど前に回復したとの見解もある。死の世界から、自然の意志につき動かされた再生のドラマのなかで縄文杉がよみがえったとすれば、樹齢は4,000年を越えないことになる。
 むろん異論もある。山口大学の松本征夫教授(火山学)は、南側の斜面に生えた縄文杉は火砕流の直撃から免れたとみる。――
 屋久島で確認されている植物は約1,500種といわれます。日本の植物種の70%以上がそこにあり、屋久島の固有種が60種もあるといいますから、屋久島の自然が、たかだか6,300年前に全滅していたなどとは考えられるはずがないのです。縄文杉がその火砕流を直接体験しているかどうかはともかく、縄文杉を育てた環境が、完全には破壊されなかったのは確かなはずです。
 その屋久杉をいためつけてきたのは、ここでもやはり人間でした。
 神木とされてきた屋久杉に初めてオノが入れられたのは1586年(天正14)といわれます。京都の方広寺建立のため豊臣秀吉が島津氏に対して用材の調達を命じます。そのときの伐採跡のひとつが有名な「ウィルソン株」といわれています。『屋久杉の里』にはつぎのように紹介されています。
 ――大正3年(1914)アメリカの植物学者ウィルソン博士の一行が雨宿りのために走り込んだ岩屋が、実は樹心部の朽ち落ちた屋久杉の切り株だった。推定樹齢3,000年、根回り32mの巨大な株は、往時の屋久杉伐採の光景をしのばせる。――
 島津藩は1642年(寛政19)になると屋久島に代官を置きます。1695年(元禄8)には奉行に昇格して、屋久杉の本格的伐採を進めたのです。全島におよぶ伐採跡が島津藩の時代に残されました。
 ――ウィルソン株を含め、当時の切り株はどの屋久杉も地上3〜4mもある。郷土史に詳しい上屋久町楠川の山本秀雄氏は「オノだけが頼りの時代。平木にするには竹のように割れてくれなければならない。真っすぐ伸びた部分だけを切り出すために、やぐらを組み、それを足場にオノを打ち込んだ。切り口が高いほど腕がいいとされた」と説明する。――
 この島津藩時代の伐採は林業用語でいう“択伐”です。必要なものだけを選んで切り出したのです。『屋久杉が消えた谷』で、津田さんは次のように書いています。
 ――島津藩の伐採事業は200年間続いたが、その間にどれだけの木が切られたかについては確かめるすべはない。「屋久島林政沿革誌」では約2万ヘクタールに残存する屋久杉や伐採された後の根株などから150万立方mから200万立方mが伐採されたと推定している。島には樹齢300年から800年ぐらいの小杉が少ないことから、島津藩時代に樹齢500年前後の小杉があらかた伐採されたのでは、という見方もある。根株はほぼ全島に及んでおり、人が踏み込んだことのない文字どおりの原始林はほとんどないとみられる。このことをもって屋久島には原生林はないとする意見もあるが、斧1つで切り続けることと、チェーンソーでの短期間の皆伐とではおのずと性質が異なる。斧で伐採した後の山は200年かけて、深い森を再び形成するにいたっているのである。――
 屋久島の森は明治になると地祖改正を期に国有林に編入されます。そして長い反対運動にもかかわらず1920年(大正9)に国側の全面勝利で終わるのです。
 こうして国は、島津藩が「お止め山」として手をつけずに残しておいた安房川流域の小杉谷に本格的な伐採作業基地を建設します。朝日新聞鹿児島支局の記者・津田さんはこの谷の50年を「緑の炭鉱」というタイトルで連載したのです。ちょうど、石炭を掘り尽くして炭鉱が閉山するのと同じように、屋久杉も小杉も、広葉樹もなにもかも、切り尽くされた小杉谷の日々の追跡となったのです。『屋久杉が消えた谷』はふりかえります。
 ――大正12年(1923)の開設時の屋久杉の扱いは「伐採してしまえば容易に造成することはできない天然記念物なので、学術上の参考にするため生木は禁伐とする。屋久杉材の需要に対しては島津藩時代の切株や伐採後に放置した伐倒木をあてる。大量に市場に出して貴重材の価値を半減させないために枯木の伐採も禁止する。また、伐採にあたっても1ヘクタールに樹齢200年以上の小杉20本を残して、屋久杉の後継樹とする」(第1次施業案編成)というものだった。――
 戦前は、この方針が一応守られていたようです。
 ――昭和6〜7年(1931-32)の第1次検訂案でも屋久杉の立木伐採はできる限り避けることとし「再生不可能な世界の至宝」とみる考え方は営林署員らに定着した。
 昭和4年(1929)に小杉谷に赴任した事務職員の日高為夫は「山の材木量を調べる検知調査で屋久杉に限っては、検知野帳にその材木量を書き込まなかった。屋久杉は切らないという方針だった。太りが悪く木目が緻密ということは、それだけ成育条件が厳しいことを意味し、結果的に非常に足の悪い場所に多くなる。採算がとれないこともあったのかもしれない」と話した。――
 しかし戦時下、増産号令がかかります。
 ――熊本営林局に割り当てられた昭和18年度(1943)の生産量は素材が5万立方m(18万石)、木炭が2万7000トンで、通常の2倍を超えた。それだけの量を確保するためには同営林局で最大の蓄積量を誇った屋久島の森を切り倒していかねばならなかった。
 事実、小杉谷事業所の生産量は熊本営林局管内でトップの1万6000立方mを記録した。屋久杉1本が20立方m前後ということを考えると、のこぎり伐採の時代としてはものすごい伐採量といえた。――
 しかし、戦時中のその乱伐も、効率的な機械力をそろえての一網打尽主義とは比べものにならなかったようです。
 ――30年代(1955-64)に入ると、増産態勢は、ますます加速していった。30年(1955)の国有林の長期生産計画の主な基本方針は人工造林の可能な地域は皆伐し、針葉樹を植え、大径木は木曾のヒノキ、魚梁瀬(四国)のスギ、屋久島のスギに限定する、というものだった。2年後の国有林経営合理化大綱は、今後40年間で人工林面積を110万ヘクタールから320万ヘクタールに拡大する生産力増強計画を盛り込み、熊本営林局は屋久島が主な対象地域である第1次南西島経営計画(33-36年度)で年間標準伐採量を従来の5〜6万立方mから7万6000立方mに引き上げた。――
 そして追い撃ちをかけるように……
 ――36年(1961)国有林生産力増強計画(32年)をさらに上回る林野庁長官通達が各営林局長に出された。当時の河野一郎農相による国有林増伐大号令に基づくもので「わが国経済のめざましい発展に伴う木材需要の増大で木材価格が急上昇し、ひいては消費物価にはね返る」という状況のもとで「技術の改善で伐期齢(伐採年齢)の短縮と成長量増大をはかり、長期の安定的な木材の供給体制を整備する」意図だった。造林量、造林時の植栽本数もふやされた。
 屋久島の年間標準伐採量はこの年、戦前の2倍近い9万立方mにはね上がり、第2次南西島経営計画(37-41年度)では17万5200立方mという膨大な目標値が設定された。伐採対象地区も島全体に拡大された。――

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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