毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・13・足摺宇和海国立公園」
1994.3――入稿原稿


■国立公園物語…足摺宇和海

●3人の男

 足摺岬から宇和海までの海岸線を国道でたどると120kmほどになりますが、大きな町は3つしかありません。一番南にあるのが足摺半島の根元にあたる土佐清水、愛媛県と境を接する高知県の宿毛*スクモは南から3分の1あたりのところです。そして北の端が宇和島になります。国立公園はこの海岸線の大半と、沖に点在する島々をつなぐ広がりです。
 北から3分の1ほどのところに、昆布がゆらめいているような形の由良半島があります。いまでこそ車で入れますが、以前は陸路はほとんどなきに等しいものだったようです。その最奥の網代という集落を拠点とした一代の風雲児・浦和盛三郎の伝記がありました。
 犬伏武彦さんの著書で『南海僻隅*ヘキグウの痴蛙*チアなれど――浦和盛三郎伝』(1992年、松山市・創風社出版) です。その巻末に盛三郎の血につながる加藤朋子さんがつぎのように書いています。
 ――海と共生した浦和盛三郎は私の曾祖父です。曾祖父のことは子供の頃より断片的に話を聞いた記憶があり、時折研究資料のための問い合わせがあった程度でした。彼に強い関心を持つようになったのは、昭和43年明治百年記念事業として「農林漁業先覚者顕彰」(県下2名、農1、漁1) に選ばれ東京で農林大臣表彰を受けた時からです。これがきっかけとなって、曾祖父のことをもっと詳しく知りたい、何か形あるものとして残しておかねばと心に決めることになりました。そしてそれは私には語り継ぐべき子供がない所以*ユエンでもありました。
 浦和家は盛三郎の没後、人の好い祖父盛馬の代に先祖が築き上げた巨万の富も家屋敷も一切きれいに無くしてしまいました。不運は続き、その時期流行の風邪で曾祖母、祖母、父の兄と一度に失い、記録をはじめ何1つ残らない結果となりました。――
 ――ところが平成2年1月地元誌『ジ・アース』掲載の「愛媛歴史“ロマン民家は語る”」の中で盛三郎が建てた魚類製造家屋のことが書かれてありました。これは犬伏武彦氏(愛媛県立松山工業高等学校建築科教諭) がライフワークの1つとして研究の民家の調査をシリーズとして発表されたものでした。私は驚き感激しました。盛三郎が心魂入れて建てた一番思い入れの深いものにスポットライトを当ててもらえたからです。これはきっと盛三郎が先生を私に引き合わせて呉れたと固く信じました。
 こうして犬伏武彦先生と出合えました。早速参上して思いをお願いしました。先生はたいへんなご多忙の中、休日を利用して幾度も幾度も現地に足を運ばれ、又県下をはじめ高知、東京等労をいとわず資料調査をして下さいました。
 こうして今日浦和盛三郎伝が没後百年を機に出版のはこびとなりました。――
 宇和海の豊かな幸によって、実業の世界へとのりだした宇和島の快男児は、かくしてよみがえってきたのです。
 一介の漁民から歴史に名を残した人物がもうひとりいます。足摺半島西岸の小さな漁村・中ノ浜の万次郎です。これについては4代目の中浜博さんの著作があります。『私のジョン万次郎――子孫が明かす漂流150年目の真実』(1991年、小学館) の中で、中浜さんは若き日の曾祖父の漂流の軌跡を、昭和62年4月15〜30日の観測によって描かれた海上保安庁水路部の海流図に重ね合わせて、推理していきます。
 ――1月8日、明け方に室戸岬の人家の見える所を過ぎる。人家も見えているので、午前6時頃とみてよいであろう。足摺岬から室戸岬までわずか8時間で行ったことになる。直線距離にして約120kmであるが、漂流開始の時、『漂巽紀略*ヒョウソンキリャク』には「辰巳*タツミの方に流され其*ソノ疾*ハヤきこと箭*ヤの如し」とあり、はじめ東南に流されたので実際には直線ではなく、これ以上の距離を走ったことになる。
 かなりの速度となるので、この時すでに黒潮に乗ったものとみられる。実際に足摺岬をかすめて通る黒潮の記録もあるので、その可能性は十分に考えられる。室戸岬には鯨の見張り小屋があったので、そこで発見されることを期待していたがそれもむなしく過ぎ去ってしまう。
「室戸岬モ過*スギ、紀伊ノ山ヲ霏*チラト見テ瞬*マタタク間ニ洋中遥*ハルカニ漂*タダヨイ行ケバ」とあるのは、紀伊半島の50kmぐらい沖を通過したものと考えられる。それは海上で山が見える距離が50kmといわれ、これもまた、その近くを通る黒潮の海流図が実際にある。そして、「瞬ク間ニ洋中遥ニ」大洋に押し出されてしまうのも、ここではもうすでに黒潮の大蛇行(A型) に乗っていたことが推測される。――
 こうして絶望的な旅立ちをするのです。万次郎は強い意志で12年目に帰国を果たしますが、故郷に身を落ち着けたかと思うと、1853年のペリー艦隊の浦賀来航。すなわちアメリカの外圧によって、当時日本で唯一の知米知識人として幕府に登用されるのです。
 この中浜万次郎を日米交流の起点とする最新の評伝が宮永孝さんの『ジョン・マンと呼ばれた男――漂流民中浜万次郎の生涯』(1994年、集英社) ですが、ここには土佐藩の軍艦を買い付けるために長崎に向かう途中、後藤象二郎と万次郎が宇和島に立ち寄っているという記述があります。
 ――封建制度そのものがゆらぎはじめた時代にあって、後藤は殖産興業によって勢威を養い、天下国家のために尽くそうと考えていた。まず手始めに船を購入して、南方の島々を探検し、有事の際には軍用にしようとの意図から、とりあえず金3,000両を持って長崎へ向かったのである。長崎へ向かう一行は荷かつぎを含めて総勢123人の大所帯で、慶応2年(1866) 7月7日高知を出発し、途中伊達藩の宇和島に数日滞在している。その間に後藤象二郎と万次郎は藩主伊達宗城*ムネナリに招かれ登城した。とくに万次郎はアメリカでの体験談、航海運用、捕鯨業などについて話をした。――
 幕末から明治維新にかけて国政の表舞台に登場する宇和島藩の伊達宗城は開明派の大名のひとりでした。中浜万次郎が宇和島に立ち寄ったその前月には、宇和島には英国が誇る3,129トンの巨大戦艦プリンセス・ローヤル号が、表敬訪問しています。
 そのとき、宇和島の町で剣道を学び、学問に励んでいたのが漁師のせがれ浦和盛三郎でした。盛三郎の視野が一気に広がったのはこのときといわれます。
 宇和島がもっとも日本の中央に近かったこの時代を藩主・伊達宗城を中心に描いた歴史作家・谷有二さんの『うわじま物語――大君の疑わしい友』(1986年、未来社) では、歴史の糸が複雑怪奇な結び目を作っていきます。そこには多くの歴史上の人物が登場しますが、浦和盛三郎の名も発見できます。
 かくして足摺〜宇和の海によってかろうじて結ばれた3人の男、浦和盛三郎、中浜万次郎、それに宇和藩主伊達宗城の海とのかかわりを、これらの本から拾い読みしてみたいと思います。

●宇和海の漁師のせがれ

 『浦和盛三郎伝』によると、その日、慶応2年6月24日(西暦では1866.8.4) の光景は次のようでした。
 ――雨の降る中、群衆は何時間も待った。七ツ時、“ドン”と樺崎砲台から砲が打たれた。群衆はどよめいた。
「日振島沖まで来たんじゃ」と事情にくわしい藩士が説明した。「宇和島の防備は完全での。港へ入ってくる敵艦には、樺崎と恵比寿の砲台から十字砲火を浴びせるんじゃ」藩士は鼻高々に言った。
 半時ほど人々は恵比寿の鼻の海を注目しつづけた。やがて水先案内の見なれた藩の船が姿を現わし、しばらくして対岸の群衆が大きく揺れ、どよめいた。黒々とした鋭角のへさきが現われたかと思うと巨大な船がその姿を現わした。6月の雨の中、島かげをかくす程の大きさである。
 舷側には黄金色に光る砲が並び、マストは空に伸び、直線的な船の形は戦慄を覚えるような不気味な姿である。プリンセス・ローヤル号、長さ245フィート、幅59.5フィート、高さ240フィート、3,129トン、乗員850人、大砲73門。
 その時、樺崎の砲台から雨空を突き破るように“ドン”と一発打たれた。
「樺崎の砲台とイギリス艦とでの、互いに15発応砲することになっとるんじゃ……」
 と話の終わらぬ内に、黒い船体の砲からパッと煙が上がり、数秒後に鋭く“ドン”と音が聞こえた。次は樺崎からと群衆はそちらへ目を移したが、2発目もまたイギリス艦から打たれ、次々と15発の祝砲が打たれた。
 それが終わったあと、間延びしたように樺崎から2発目が打たれ、また忘れた頃に1発と計15発の応砲が宇和島側から打たれたのである。
 宇和島の軍備や兵力を自慢していた藩士に声はなかった。眼の前のたった1隻の軍艦が宇和島とイギリスの差をまざまざと見せつけたのである。
 盛三郎にとっての衝撃は人一倍のものであった。網代から宇和島に出、大きな世界をみたと思いこんでいたものが、たった1隻の船、1発の砲の音がそれまでのものを打ちくだいた。――
 盛三郎が宇和島に遊学できたのは、僻村の出とはいえ網元の末っ子だったからです。由良半島は中央部の魚神山*ナガミヤマという漁村が最奥でした。その奥の由良山に半農半漁の村を開拓することになったのが魚神山の儀右衛門でした。1808年(文化5) に開拓許可を得ていますが、儀右衛門は志なかばで急死してしまいます。これが盛三郎の祖父に当たる人になります。
 ――その時、儀右衛門の妻キヌ39歳。その子萬蔵10歳。
「おばあからよう聞かされたもんよ。“盛、よく憶えとけよ、先祖の苦労あって今日の網代があることをの。魚神山へ帰っては望みが絶える。本谷の小屋のようなあばら家で萬蔵と暮らしてな、猫の額ほどの畑に芋植えて食うや食わずの毎日でなーし。ヒジキ採ったり、わずかな魚釣って魚神山へ売りに行ったりの。仕事があれば雇われて、盛、先祖の苦労忘れてはならんぞ”よう聞かされたもんでな」――
 網代に尋常小学校ができたとき、教員として招かれた藤井茂光という人が盛三郎から聞き書きした「網代開拓由来」からの再現です。開拓は12年の中断の後、成人した萬蔵によって引き継がれます。
 ――畑を開墾することが新浦開発の基盤を築くものと山林を切り拓くことに重点がおかれたが、猪鹿の害を除くことができず難渋する年月が続く。
 しかしそんな月日の中、文政7年(1824) 春、萬蔵にとって忘れられない日が巡ってきた。その頃、畑はかなり山の上まで開墾が進んでいた。暮れかかった夕刻、ふと手を休めはるか下の海を見た時である。沈みかけた太陽に海は橙色に染まっている。その波の中に渦巻くように魚の群れがゆうゆうと岬を回遊している。湧いていると言えばよいほどの大群である。
「何故気がつかんかった。漁が先じゃ、漁の他に何がある」――
 ――翌日から萬蔵と與助は山に登り、海を観察した。漁群の回遊する位置を確かめ、そして網を入れた。魚は大量に獲れ、開発に入って以来初めて皆の顔に喜びの表情があふれた。
 やがて魚の回遊する時期には網を回し、漁閑期には畑を耕作するという網代の1年のサイクルが出来上がってきたのである。――
 10年あまりで開拓事業は完結します。宇和島藩の開拓事業はこの時期、漁村において著しいものがあったようですが、由良半島の網代もそのひとつであったわけです。萬蔵は正式に検知を受けて弘化3年(1846) 4月に網代長として浦和の性(浦和盛次兵衛) を名乗ることを許されます。そしてさらなる飛躍のきっかけをつかみます。
 ――「うまく運べばな、何もかもうまく行くもんでなーし。その年の春のことよ。安芸の国から漁師が来てな、網代の漁業みてこう言うたんじゃ。“漁業の地多く、漁具も色々あるがどれも論ずるに足らぬ、九州五島、長門北浦の敷網がこの地には最もじゃ”と。この一言が網代の発展のもとになったんじゃ」
 盛次兵衛は漁師の話に興味をもった。その漁法は大敷網といい、一度にブリ、マグロ、どんな魚でも一網で数千匹を獲ると言う。盛次兵衛が文政3年(1820) 開墾の手を休め見下ろした海に見た魚の大群、それを一度に捕獲する方法はと長年胸にあった思いを果たしてくれるような話だった。――
 明治2年(1869) に網代に呼び戻された盛三郎は26歳、病弱な兄に代わって父の仕事を継ぐことになります。

●僻村の起業家

 盛三郎が最初にしたのは、集落を波からまもる石垣を本格的に積み直すことでした。それから村人にユニークな苗字をつけています。
 これについては谷有二さんの『うわじま物語』のほうに次のようなエピソードが紹介されています。
 ――欧米を廻った末広鉄腸は、明治23年(1890) 7月、待ちにまった第1回衆議院選に、愛媛第6区より自民党から立候補する。名声は隆々たるものだったが金がない。選挙人、被選挙人の資格条件、地祖15円以上を収めてなかったから、旧の御殿様の伊達家にたのみ込んで土地を借り受け、自分の名義にして地祖を納めての当選であった。
 いささか余談にわたるが、この時鉄腸に対抗して敗れた、南宇和郡網代の大網元浦和盛三郎は、改進党の大隈重信にくどかれての出場だったが、面白い逸話を持っている。明治3年(1870) 9月18日に、政府は「平民も苗字を称するべし」という大政官令を出したので、多くは文字の読めない網代の村民はとまどって網元の旦那である盛三郎に名付け親をたのんできた。そこで太古*タコ、浜地*ハマチ、鈴木*スズキ、鱒*マス、岩志*イワシの魚類から始まって、麦田*バクダ、稗野*ヒエノ、粟野*アワノ、大根*オオネ、真菜*マナ、根深*ネブカの野菜まで動員して、片っぱしから苗字として届け出たものである。途中で気が付いたり、注意されたりして訂正されたものはよいが、放っておいた人は未だにそのままである。――
 このことはもちろん『浦和盛三郎伝』にも書かれていますが、ニュアンスは違います。網代の3集落のうち、荒樫集落の人々には野菜名、本網代の人々には魚名、そして本谷の人々には大目、木綱、目関、立目、松綱、有請など、これは漁具からとった名をつけたというのです。
 地の果ての運命共同体のような村の中で、ゴッドファーザーとしての盛三郎の姿が浮かび上がってきます。網代開拓の本拠の本谷には盛三郎の身内や開発当初からの同志がいて、網元の集落ということから漁具の名をつけ、漁名や作物名は豊漁、豊作の祈願という考え方です。それは南海の一僻村を日本一にしようと夢見た男の生産共同体、すなわちカンパニーの表現であったようです。
「浦和家の農地開放」といわれるものも、同じ考えから出ているようです。1872年(明治5) に網代の開拓地主である浦和家は村人たちに農地を解放しているのです。『浦和盛三郎伝』はこう解説しています。
 ――藩政が崩落していく中、“世直し”にめざめた農民が改革を求めて各地で騒動が起った。
「力を合わせて漁に出る村じゃ、騒動は起らん」と言っていた漁村にもついに騒動が起った。
 それも由良半島に近い、宇和島三浦の庄屋田中九兵衛が村人の攻撃の対象になった。田中家は幕末から明治初めにかけて3帖のいわし網をもつ網元である。
「庄屋宅は金戸棚をはじめ諸道具は残らず外へ引き出され痛められ、鉄砲10丁御座候分も石にたたきつけられ……ただ家のみ立っているという有り様」という状況で庄屋の一族は夜、船で高田村の親戚まで逃げた。
 網元である田中家はまた田畑を村外も含め約27町歩を所有。その畑をいわし網の網子に小作させていた。網子を土地にしばり、そして漁に従事させる。網船、網、手船、網干場と生産手段のすべてを庄屋がもち、魚をとることを網子にあたらせる。海という自然の恵をうけることに平等であるはずなのに、網元と網子の間に大きな差を生んでいた。
 田中家はさらに文政13年(1830) には質屋を、文久3年(1863) には酒屋の営業も始めていた。田中家は網元であると同時に金貸し、地主。百姓は小作人であり、網子であり、利貸の対象。海の恵みを前にして田中家はふとり、村人は搾取されつづけていた。“騒動”に至る村の構造である。
 三浦騒動のことが内海(村) に知れた時、網元達は「まさか」と驚きの声を上げた。しかし盛三郎は当然起こるべきものが起きたと冷静に受けとめた。百姓が変わっていく。盛三郎はそれはとりもなおさず自分にとっても有利なことだと思った。――
 これは旧来のいわし網に対して、投機的な大敷網によってのしあがってきた新勢力としての浦和家の、的確な認識というべきものです。
 そして網元と網子の新しい関係をつくりだそうとするのです。
 ――彼は土地解放と同時に浦和憲規と後に呼ばれる村人のきまりを作った。そのきまりは、従来の封建的な網元と網子の関係からは考えられないものである。
 浦和憲規 其の1 農業
網代の土地はことごとく浦和氏の家の払い下げを受けたもので、居住者の数ほぼ予定に達したとき、其の戸数に応じて分割し、「クジヌキ」により分配したもの故、浦人はこれに報ゆる為網代浦における漁獲物は其の高の1割を氏の家に贈呈すること
 其の2 漁業
浦和家が許可をうけた漁業権は(網代の鼻より由良チヌ碆の海岸及び地先全部) 他に使用することは許されず、資本は氏の家より労力は居住者より之を出し一致団結他を顧みることなし、分配は前項の高1割を引き、残りを労資平分すること
男子は漁労に従事し、女子は製造の助手に従事し、1人の女子は必ず製造の助手たる義務あること――
 これによって網代の村民が抜きんでて豊かになったというわけではなかったようですが、労働の基盤は明かに違ったようです。起業家・浦和盛三郎は事業規模を拡大していくことを、一貫して考えていきます。具体的な行動のひとつがつぎのエピソードです。
 ――盛三郎は漁期の最中でも間をみては御荘、岩松、宇和島、吉田へと船を出した。1軒でも多く鮮魚店とつながりをもち、1匹でも多く魚を売る販路を開拓しようとした。
「ハツや赤身の魚はの、新しさじゃ。鮮度が落ちると売れんで……」
「運搬に工夫すりゃええんじゃ」
 盛三郎にとって網代から宇和島へはとるに足らない距離だが、魚の運搬となると網代の地理的な不利を認めざるを得ない。押し船を漕いで魚を運ぶにも限度があった。何度も通う熱心さに、漁期には網代まで船を出す仲買の魚屋も増えたが、たかがしれている。
 ある日、魚屋が塩ザケをぶらさげて言った。
「これは塩ザケ言うての、北の遠いところから来とる。塩づけにすりゃ腐らん。そうすりゃ、遠いところから買い付けにくるで」
 魚をとって売ることばかり考えていた盛三郎の目を覚まさせるような言葉だった。――
 盛三郎は加工販売という領域に乗り出します。北海道に塩ザケの製造法を聞き、土佐へカツオ節の製法を見に行きます。盛三郎は大敷網の中心漁種であるハツ(キワダ、キワダマグロ、シビなどと呼ばれる) をいかに売りさばくかに腐心するのです。キワダを関西でハツと呼ぶのは、関東の初鰹のごとく、冬の初モノが求められたからといいます。もちろん刺身で食するのが最上。盛三郎が最初、鮮魚としての販売にこだわったのは当然のことでした。
 ――初期に行われた保存は、海から上げたハツの腹ワタをとり、4つに分解し、塩づけにするというものだった。それだけでも以前にくらべると出荷の調整が可能になり、本網代の裏山に掘った穴蔵にハツを貯蔵し、漁獲による収入は飛躍的に伸びた。
 そして網代の漁業は単に男だけで魚をとるというだけでなく、魚の加工に女子供まで働くようになり、賑わいと活気に満ちた村となる。――
 明治17年(1884) にはハツを蒸して油を抜く蒸製法を完成して、カツオ節やサバ節に似た「ハツ節」を商品化しています。こうしていよいよ、総仕上げ。現在に残る「魚類製造家屋」が建設されるのです。『浦和盛三郎伝』はその光景を再現しています。
 ――この日(棟梁の) 利八は岩松から材木を積んで御荘*ミショウに運ぶ船に便乗して網代に来たのである。
 利八が浦和盛三郎の名を聞いたのは仕事仲間の世間話からだった。
「宇和島運輸がの、大阪の船会社に乗っとられかかったこと知っとろ、大方は合併話がすすんどったらしい。ところがの、重役の中に1人、がいな奴がおっての、“合併話にのるなら、ここで会社の葬式出せい”と反対したんじゃ。浦和盛三郎言うての、それで大阪方も引き下がっての、ほれで宇和島運輸の今の羽振りよ。世の中にはがいな奴がいるもんじゃ。それも網代言うての、岬の先の小さな村の網元らしいんじゃ……」――
 こうして宇和島から呼ばれた棟梁の叶利八は、網代で盛三郎と会うのです。
 ――「この先、こまかいことは大目(盛三郎の甥大目種三郎。この姓は漁具シリーズのひとつ) と相談してくれ。叶と言うたの、魚の製造場作ってほしんじゃ。“魚類製造家屋”……」
“魚類製造家屋”初めて聞く言葉だ。これまで請け負った仕事は家普請や長屋門がほとんどで、それらの建築には自信もあったが、魚の製造場というのはすぐには頭に浮かんでこない。
 けげんそうな表情を察した盛三郎は、
「大目、ちーと説明してやれや」
 大目は利八の方に膝を乗り出して話し始めた。
「ハツ言うての、マグロじゃ。ここらあたりでようけ獲れての。水揚げしても昔は浜に並べて腐らしてしもうての。それをの、蒸して節にしたり、塩漬けにしたり、そがいなことする工場を建てるんじゃ」
「そがいに魚が獲れるん……」
「大きいものでは30貫(約113kg)。 10貫(約38kg) 位のはザラでなーし。それがかかる時は1網で1,000から2,000匹……」
「へえ、そがいな大きな魚がここらにおるんで」
 利八の驚きぶりに大目と盛三郎は顔を見合わせ笑った。
「それで、家はどの位の坪数ですらい」
 盛三郎はその時初めて腕組みを解き、身をのり出してきた。
「100坪はこえるのお……」――
 こうして、10坪そこそこの粗末な家が4〜5軒並ぶ小さな村に144坪の大建築は着手されたのです。
 ――大目(種三郎) との相談で建物は最終的には24間に6間という大規模なものになった。
 建物の前には長州から運んだ畳石が80坪ほど浜辺に敷かれた。そこには“魚切場”と呼ばれ、浜から上げた魚の腹ワタを取り出す作業場である。そこにある井戸は10間(約18m) の深さに掘られ、浜に近いのに塩分が少なく、日照りが続いても枯れることがない。
 処理した魚は浜小屋の大釜で蒸し、節にするものもあれば、塩蔵処理するため工場へ運ぶものもある。建物の裏には乾場があり、3間半の土間の通路が設けられた。事務室も3間半もとった。
 納屋や乾場、作業員の休み場など10棟ほどの建物が600坪の敷地に並ぶ大規模なものとなった。――
 これが明治22年(1889)、 浦和盛三郎46歳の事業でした。振り返れば盛三郎は明治10年(1877) 初めての愛媛県議会に南宇和21大区の代表として出席しています。そして同じ年、由良半島以南の愛媛県第23区漁区の取締となり、明治15年(1882) には宇和4郡合同の漁業組合の頭取となるのです。
 明治16年(1883) には南宇和の中小企業金融の「御荘為替店」を開いて新規事業者への融資を開始します。さらに明治21年(1888) 7月から約半年、地元資本の宇和島運輸の頭取に就任しています。網代で“魚類製造家屋”が建設されていたちょうどそのころのことです。
 そして明治23年(1890)、 盛三郎は仲間を募り、宇和4郡、すなわち旧宇和島藩領の物産を直接販売する伊豫物産会社を設立。この年には第1回衆議院選挙に立候補して末広鉄腸との一騎打ちで敗れますが、年末には大阪に「伊豫物産会社」の看板を上げ、産地直販会社をどうにか軌道に乗せます。そして明治25年(1892) 秋、久しぶりに故郷に帰るその途中、松山で倒れ、息を引きとるのです。50歳になる直前のあっけない死でした。

●土佐漁師の世界2周旅行

 土佐の中ノ浜の万次郎は鳥島で142日間の無人島生活ののち米国の捕鯨船ジョン・ホーランド号に救われます。船頭の伝蔵以下4人はハワイに滞在することになりますが、万次郎はホイットフィールド船長に気に入られてマサチューセッツ州フェアヘイブンに移りすみます。船旅はもちろん南米大陸最南端のマゼラン海峡経由です。
 マサチューセッツで16歳にして小学生となり、17歳で船員実業学校に入学して数学、航海術、測量術などの専門教育を受けるのです。フェアヘイブンは当時の米国の捕鯨の中心であったニューベッドフォートの後背地ですから万次郎は当時の遠洋航海の先端地域で学んだということになります。
 それから彼の3年に及ぶ大航海が始まります。『ジョン・マンと呼ばれた男』には次のように書かれています。
 ――すでにアメリカに来て3年の歳月が流れており、いつしか望郷の念が募り、帰国を考えるようになっていた。1846年の春、かれはニューベッドフォードへ出かけ、ジョン・ハウランド号(中浜家ではこれをジョン・ホーランド号と呼んでいる)の船主の1人ジョン・ハウランドと会った。そのとき日本近海へまで行く捕鯨船の有無を尋ねたが、返事は思わしくない。が、万次郎の落胆を見たハウランドは他の会社へも照会してみるといってくれた。その言葉に勇気づけられた万次郎は、いちるいの望みをたくすことにした。
 吉報は思いがけずやって来た、3月某日のこと、捕鯨船に乗らないかという誘いがかかった。話をもってきたのは、以前銛打ちとしてジョン・ハウランド号に乗っていたアイアラ・デイヴィスである。ニューベッドフォードのフランクリン号(273トン) の船長となって捕鯨に出ることになったデイヴィスは、万次郎を勧誘しにきたのである。さらにデイヴィスは、最近の航海において、太平洋上で日本の難破船と遭遇したという。この話を聞くと、帰心がむらむらと起こり、祖国帰還の夢がふと脳裏をかすめた。
 その夜、夕飯がすむとかれはホイットフィールド夫人に、相談を持ちかけた。万次郎としては、船長から留守中、農場のことをよろしく頼むといわれていた手前、主人の家族を打ち捨てて航海に出るのは気がひけたのである。けれど夫人は、主人がいたらきっと船に乗ることを勧めるだろうし、私たちのことなら心配ないわ、と励ましてくれた。――
 かくして、万次郎は日本沿岸で上陸できそうなら下船させてほしい、という条件をつけて乗り組むことになったのです。
 このフランクリン号は1846年5月に出港。ボストンに寄港したのち大西洋を横断してアフリカ大陸の西海岸を南下、喜望峰をまわってインド洋に入ります。インドネシアのスンダ海峡を通過して南太平洋に出て、翌1847年3月にはグアム島で薪水・食料の補給をし、船の修理もしています。
 日本近海での捕鯨は小笠原諸島→琉球→鳥島→三陸沖と動いたようですが、デイビス船長のはからいもあって琉球では上陸、三陸沖ではボートを下ろしてカツオ漁船に漕ぎ寄せます。しかし残念なことに万次郎の土佐弁がうまく通じません。異国人と思われてしまうようです。
 万次郎は下船して帰国するというきっかけをつかめないまま1847年10月にハワイに到着します。日本人がいると聞いて訪ねると、それはいっしょに漂流した寅右衛門でした。重助が亡くなっていて、伝蔵と五右衛門は半年ほど前、日本方面に向かう捕鯨船に乗り組んで帰国したということでした。
 その伝蔵と五右衛門が便乗したフロリダ号が出港したのは1846年の11月でした。1847年の春、八丈島で上陸をこころみますが天候が悪く成功しませんでした。それから北海道沿岸に進みます。『ジョン・マンと呼ばれた男』はそのときの情景をつぎのように描いています。
 ――フロリダ号は八丈島の海域を離れ、北東をさして航海をつづけた。北に進路を転じ、蝦夷地*エゾチに向かい、岬を左折し、太平洋より津軽海峡に入る。船が松前(北海道南西部) に近づくにつれて、時々、海岸からのろしが揚がるのが見えた。それは明かに外国船が日本の領海に入ってきたことを知らせるためのものであった。夜になると海岸の至る所にかがり火が見えた。伝蔵は、外国船がやって来たとき、警戒と防衛のためにこのような火を焚くことを知っていた。
 船長は伝蔵と五右衛門を伴ってボートで上陸した。が、さきほどまで岸辺にいた者は皆逃げ出しており、人影はなかった。「吾*ワレは日本人なるぞ」と叫んでも、何の返事もない。
 3人は2軒の小屋を訪ねたが、草鞋*ワラジや鍋釜が散乱しているばかりであった。住人は遠くから異人とおぼしき人影を見て、あわてて逃げ出したものであろう。このとき伝蔵は船長に、「われわれはもはや日本の属国に来たのですから、われわれをこのまま残して出帆してください。本船がここを去れば、人々も姿を見せるやもしれません」といえば、船長はすぐ首を振り、「諸君らは、私がホイットフィールド船長から預かった者である。船長の護送書を添え、役人に渡し、受け取りをもらわぬうちは諸君らを手渡すわけにはゆかぬ」といった。
 伝蔵らは、コックス船長より蝦夷地上陸を思いとどまるよう説得され、釈然とせぬまま、むなしく本船に引き返すことにした。――
 伝蔵と五右衛門がホノルルに戻ってきたのは1848年の11月でした。
 万次郎のほうは、1カ月の滞在で1847年12月ホノルルを出発。1848年3月ごろにグアム島に入ります。ところがそのころ、デイビス船長が精神異常をきたすようになったことから船室に幽閉し、選挙で新船長を選びました。その船長選挙で2番目の票を獲得した万次郎は副船長格の一等航海士となったのです。
 船はクジラを追いながら太平洋を南下して、インド洋、大西洋を横断して1949年9月に母港のニューベッドフォードに帰港しています。。
 1949年といえばアメリカ人なら知らぬ人のないゴールドラッシュ。メキシコ戦争で獲得したカリフォルニアから良質の金が発見されたのです。3年半の捕鯨航海から帰った万次郎は、サンフランシスコ行きの船に乗客兼船員という条件で便乗、ケープホーンを回って西海岸に出ました。
 サンフランシスコから外輪船でサクラメントまで川を遡り、さらに鉄道で600km、シェラネヴァダ山脈のふもとに着きます。そこで4か月ほど採金して600ドルを稼ぐと、船でホノルルに向かいました。帰国したいという思いが、いよいよ強くなっていました。
 ホノルルには寅右衛門のほか、帰国に失敗して戻っていた伝蔵・五右衛門の兄弟もいました。寅右衛門は残り、3人が再び帰国を試みることになったのです。
 支援者のデイモン牧師が「ポリニージアン」紙に書いた呼びかけを『ジョン・マンと呼ばれた男』は紹介しています。
 ――日本への遠征。
 読者は御承知のことと思われるが、時折、難破した日本人がサンドウィッチ諸島(ハワイの旧称) に連れてこられた。現在、日本人が3人いるが、かれらは1841年にW.H.ホイットフィールド船長が当地に連れてきたものである。3人のうちの1人、ジョン万次郎はホイットフィールド船長に連れられアメリカに渡り、桶製造術を修得したほか、立派な公立学校教育を受けた。
 かれはサンドウィッチ諸島に戻り、昔の水夫仲間を見いだした。そのうち2人は、ジョン万次郎に同行を申し出ており、もしできれば帰国したいという。
 ジョン万次郎は立派な捕鯨用ボートと装備一式を求めた。アメリカ船セアラ・ボイド号のホイットモア船長は、メキシコのマサトランから中国の上海へ赴く途中であるが、琉球諸島のどこか沖合に万次郎を下ろしてやることを快諾した。かれらはそこから日本へ向かいたいと思っている。
 完全な装備とするには、羅針盤、上等な鳥撃ち銃、2〜3着の服、靴、1850年度の天測暦などが必要である。善意のある方は、かれらの計画を促進するために援助の手を差し伸べてほしい。署名者は、今述べた品々を安全に運ぶ責任を負います。 S.C.デイモン――
 万次郎は出発間近、恩人ホイットフィールド船長に最後の手紙を書いています。
 ――ホノルルにて。
 子供の時分から大人になるまで育てていただいた御親切を決して忘れるものではありません。今日に至るまで、御親切に対して何ら報いることができませんでした。今、伝蔵と五右衛門といっしょに故国に帰ろうとしております。御挨拶なしに帰国することは許されることではありませんが、世の中がどんなに変わろうとも、善意だけは失わず、また再びお目にかかれる時もあろうかと思います。平生貯えた金銀と衣服をお宅に残してまいりましたが、どうか有効にお使いください。書物と文房具等は、私の友人にでも分け与えてください。 ジョン・マンより――
 1851年2月1日は日本の暦では嘉永4年元旦にあたりますが、その日セアラ・ボイド号は沖縄の宮古島付近を通過しました。翌日沖縄本島南端部で自分たちのボート「アドベンチャー号」を下ろした万次郎たちは、摩文仁*マブニの海岸に上陸したのです。ここは約100年後の第2次世界大戦で、沖縄本島に上陸したアメリカ軍が日本軍を最後に追いつめたところとしてあまりにも有名です。
 万次郎たちは琉球政府から薩摩藩に引き渡され、長崎奉行による取り調べののち、ようやく土佐藩に引き取られます。嘉永5年(1852) 11月5日に生まれ故郷の中ノ浜に戻って母親と11年10か月ぶりの再会を果たしたのです。万次郎は地球をちょうど2周する大旅行を、強い意志で完結させることができたのです。
 このとき、万次郎は日本で唯一のアメリカ通であり、航海術の専門家でしたから時の政府が放っておくわけがありません。しかし、万次郎は日本で教育を受けずにアメリカに渡っていますから、いまでいう帰国子女と似ています。英語では分かっていても日本語に直せないことだらけでした。
 もちろん辞書もないため、けっきょく土佐藩では絵師で蘭学の心得のある河田小龍に万次郎をあずけます。そこで河田は万次郎に日本語の読み書きを教えながら、自分は英語を学ぶという方法によって、絵入り4卷本の『漂巽紀略*ヒョウソンキリャク』を完成させるのです。
 万次郎は堂々たる知米派知識人となって幕末の国際政治の中心に活躍の場を移していきます。

●幕末、開明派の拠点

 万次郎の体験的知識は土佐においてだけでも多くの人々に影響を与えています。『ジョン・マンと呼ばれた男』には次のようにまとめられています。
 ――万次郎の講話を聞いた(土佐・教授館の) 塾生の中には、後年、新生日本の政財界、芸術の分野で大きな貢献をした者も少なくない。その中には若き日の後藤象二郎(土佐藩参政、幕末・明治の政治家)、 岩崎弥太郎(明治期の実業家、三菱財閥の創始者)、 坂本龍馬(幕末の志士)、 河田小龍(土佐の絵師) などがいる。
 後藤象二郎は長じて藩主の山内豊信(容堂) に登用されて藩政の中心人物となり、のちに土佐藩をして大政奉還を幕府に建言した影の人物として知られている。象二郎の義兄にあたる吉田東洋がある日万次郎から外国事情を聴取していたとき、14歳の象二郎もそばで熱心に耳を傾けていた。万次郎はこの少年の殊勝なる心がけに心を打たれ、たった1枚だけ手もとに残っていた世界地図(1846年ロンドン製) を与えた。――
 この後藤象二郎と万次郎が軍艦購入の旅の途中、宇和島で藩主・伊達宗城に招かれて数日滞在したのは1866年(慶応2) のことでした。後藤たちはその後長崎へ出てオランダ人レーマンや英国人グラバーと交渉しますが、結局上海まで足を伸ばして英国人貿易商から15万5000ドルで砲艦と汽船を購入します。
 万次郎たちと前後して英国の軍艦プリンセス・ロイヤルが宇和島を訪問していることにはすでに触れましたが、宇和島藩主伊達宗城を中心した『うわじま物語』ではその背景をこう書いています。
 ――こんな状況下に、イギリス軍艦がなぜ西南四国の片隅にある、わずか10万石の宇和島藩を訪問したのだろうか。生麦事件を発端に薩英戦争をひきおこした薩摩藩は、イギリスの強力な近代兵器に着目して、これまでのゆきがかりをすて、進んで友好関係を結ぶためにイギリス公使パークスの薩摩訪問を希望していた。
 これを強力に支援したのが、長崎を基地にして西南諸藩と手広く貿易をしていたイギリス商人グラヴァーだった。長州と幕府の戦争で、長州との取り引きが出来ず痛手をこうむったグラヴァーは、薩長の提携に大いに期待し、イギリス公使パークスを薩長びいきにさせるためにも、薩摩訪問をぜひとも成功させなければならない。
 当時、グラヴァーは薩摩藩へ利子1割4分をつけた30万両の貸をもっていたから、これをこげつかせないためには、薩摩を日本のトップにすえる以外にない。潰しては元も子もなくしてしまう。慶応2年2月頃、鹿児島をたずねたグラヴァーは、パークスの鹿児島訪問についてほぼ話をまとめる。そして3月に入ると、パークスと薩摩の江戸藩邸の間で正式な取り決めがかわされた。
 4月28日(1866.3.14) 付で、パークスが本国のハモンド外務次官に出した書簡には「出来れば、薩摩以外の1〜2の大名にも会ってみたい」と書いている。他の1〜2の大名が誰になるかは、長崎に行って各藩の代表と打ち合わせてみなければわからなかった。やがて長崎に到着したパークスは、6月3日(1866.7.14) に薩摩の新納刑部の出むかえを受ける。
 ここで改めてパークスは、「友好訪問が薩摩だけに限られることへの誤解」を恐れ、福岡、佐賀、宇和島の有力諸藩へも出むきたいむね打診したのだが、即座にパークスの提案を受け入れたのは、宇和島藩家老松根*マツネ図書だけだったのである。他の諸藩は幕府の疑惑をはばかって、「後日、お受けいたす」とはぐらかしてしまった。――
 パークスは英国の外交官として、グラバーのソロバン勘定とはちがう行動原則によって動いています。そして宇和島藩は10万石の小藩ながら、幕府に対して独自の路線を堅持できる特別な環境にあったのです。
 この薩摩訪問の英国艦隊は旗艦のプリンセス・ロイヤルとパークスを乗せた快速戦艦サラミス号、そして測量船のサーペント号の3隻でしたが、長崎にもどったパークスはフランス公使ロッシュとともに幕府の下関封鎖の視察に向かい、プリンセス・ロイヤル号と測量船サーペント号が宇和島に先行したのです。
 3日遅れでパークスが宇和島に到着したようすを、『うわじま物語』はこう書いています。
 ――6月27日(1866.8.7) 火曜、朝といっても宇和島の夏は暑い。パークス公使を乗せたサラミス号がモクモクと蒸気をたてて宇和島湾に入ってきた。
 この時、パークスを驚かせたのは、美しい入江のたたずまいよりも、旗艦プリンセス・ロイヤル号が無数の小舟の群にとりかこまれ、甲板が男女の見物客であふれかえっていたことだった。
 武士もいれば、そうでない人々もいる。着かざった御殿女中らしい一団はにぎやかにはしゃいでいる。
 礼砲発射で冷汗かいた平井直もその中の一人だった。
「船内は市民一般に開放されていたので、老いも若きも群をなして乗り込み、その設備の整頓、清潔さにはたまげました。中でも、アッと声を出したのは、舳*トモの方には本物の大砲の間に、見せかけの木砲数門があったことです」と平井は回顧している。
 艦内がいかに自由に開放されたとはいえ、一般市民に婦人たちまでが加わって、大勢が押しかけてくるなど前代未聞のことだった。――
 パークスはイギリス本国のクラレンドン外相に宛てて1866年7月4日付の報告を書いています。
 ――「宇和島の前藩主、伊予守(宗城) は、外交問題についての考え方が寛大なことで、日本人のあいだでよく知られている。かれは、1858年(安政5)、 現在の将軍(徳川家茂) の就任にたいして、他の多くの大名たちとともに反対を唱えたため、かれの領地の行政を免じられ、それ以後藩政を弟(宗徳) にゆずることを余儀なくされてきた。しかし後者の支配は名のみであり、他方、前藩主の意見は、幕府と朝廷の双方にかなり尊重されているように思われる」(『遠い崖』萩原延寿訳)
 ここでは、14代将軍継嗣問題で、伊達宗城が一橋慶喜を推したため、井伊大老ににらまれて藩主の座をおりた事情と、現藩主、伊達宗徳と隠居の力関係が容量よく語られている。――
 じつはもうひとり、このパークス訪問の背後には重要な人物が隠れていました。『うわじま物語』は続けます。
 ――プリンセス・ロイヤルの艦内では、ある噂話がささやかれていた。
「どうも、ウワジマにはシーボルト君の姉さんがいるらしい。それも、とびきりの美人だそうだ……」
 シーボルト君とは、この船に乗っている20歳の日本語通訳官アレキサンダー・シーボルト青年のことで、彼の父親は長崎に鳴滝塾を開いて、高野長英や二宮敬作に蘭学を教えたかの有名なフランツ・フォン・シーボルト博士なのだ。そのシーボルトが日本女性との間にもうけたのが、世にいう「オランダ・おいね」こと楠本イネで、シーボルトが帰国後、本妻との間に生まれたアレキサンダー・シーボルト君は、まぎれもなくイネの異母弟にあたる。
 長崎で生まれたイネは、安政元年(1854) に、父の愛弟子二宮敬作(宇和島藩士) から宇和島に招かれて、村田蔵六、すなわち後の大村益次郎宅に寄宿して蘭学の基礎をみっちりと学んだ。――
 ――その後イネは長崎に住んだが、宇和島藩主一族の侍医待遇を与えられ、時おり宇和島に滞在していたらしい。この時イネは36歳の女盛りで確実に長崎にいた。なぜ、こんな噂話がひろまったのかといえば、イギリス艦隊が宇和島に来るようになった特殊な事情が火種になったためである。
 前にも話したように、幕長戦争が勃発しようとする直前に、長州に肩入れを表明している薩摩1藩だけを訪問することはいかな理由をつけても英国の態度は誤解をうけかねない。そこで、他に、佐賀、福岡、宇和島にも訪問を打診したわけだが、特に宇和島には6月4日に、シーボルト君からイネを介して長崎丸山の煙草屋に滞在中である宇和島の家老、松根図書につなぎがつけられたいきさつがひそんでいた。
 これが、後年、宇和島で多少の誤解をうんで、パークスはイネから隠居の伊達宗城の開明性を聞いて、1度、宗城に会ってみたいと宇和島へ向かったと語られたりするが、すでに国際情勢は、そんな単純な状態ではなかったのである。
 それはともかく、イネに楠本の姓を名乗らせたのは、伊達宗城であり、イネの娘、つまりシーボルト博士の孫娘タカも、宇和島御殿の伊達宗城夫人に養育されたのだから、シーボルト家と宇和島は切っても切れない間柄にある。――
 そうこうするうちに、隠居の伊達宗城が国政の表舞台に再び登場することになります。『うわじま物語』を読んでいきます。
 ――慶応3年(1867) 2月、西郷隆盛が薩摩の汽船三邦丸でやってきて、宇和島の伊達宗城と土佐の山内容堂に、「ぜひ上京して、薩、土、宇、越の4候会議を開き時代の進路を決めていただきたい」と説いた。内実は、薩摩の討幕派が岩倉具視*トモミと画策して、諸外国からうるさく迫られている兵庫開港を支点に、15代将軍徳川慶喜を窮地に追い込んで、薩摩、宇和島、土佐、越前の4候を中心とする雄藩連合に政権を握らせようと計ったものだった。――
 日本の進路を大きく変える力の対決です。
 ――3月5日に会議が始まると、薩摩は予定通り、兵庫開港を保留にして、まず長州の処分を寛大にすることを打ち出した。それがうまくゆけば長州も雄藩連合に参画させて内政を握ろうとしたわけである。宗城は問題なくその路線に乗って薩摩案を支持する。
 しかし、将軍慶喜もさるもの、薩摩の腹を見ぬいているから、兵庫と長州問題を同時に決着することを強硬にとなえてゆずらない。島津久光は、西郷、大久保から離れてしまうと全く迫力を欠いて、慶喜からすっかりなめられる始末。山内容堂と松平春嶽は薩摩のやり方には反感をつのらせていた。
 5月27日、山内容堂は突如帰国してしまう。薩摩の討幕派、西郷、大久保の手にのらぬため4候会議の分裂を計ったのである。
 実のところ、この時点までの薩摩の討幕派も、「武力を行使することなく、要するに天皇が将軍に変わって事実上の統治者にかえりざき、自分たちのダミーとして雄藩連合が政務を担当する」というもので、この直後に打ち出される大政奉還論とは、紙一重のものだった。
 ことここに至っては、藩主クラスの人物を表に立てるという、間接的手段の限界をさとり、薩摩の討幕派は長州と結んで武力討幕に傾いてゆく。――
 日本史年表を見ると、慶応3年(1867) は激変の年です。
6月…坂本竜馬「船中八策」
9月…薩長芸3藩、討幕を約す
10月…山内容堂(豊信) 幕府に大政奉還を建白
10月…天皇からの討幕の密勅、薩摩に下る
10月…徳川慶喜、大政奉還
11月…坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺される
12月…王政復古の大号令
 ――大政奉還とは、土佐の後藤象二郎が坂本竜馬からさずかった策であるが、要するに、伊達宗城とアーネスト・サトウ(慶応2年11月にパークスの代理として宇和島を訪れたイギリス公使館付日本語通訳官) が語りあった、ミカドを中心にした連邦国家のことであり、将軍が君主としてではなく、天皇の下で諸公会議の議長に就任することだ。そのためには、将軍慶喜は政権を朝廷にかえさねばならない。そして、これは薩長の武力討伐に肩すかしをくわえる良策でもある。――
『うわじま物語』はそう書いていますが、坂本竜馬の「船中八策」については『ジョン・マンと呼ばれた男』にこう書かれています。
 ――ところで、万次郎がアメリカ滞在中に知り得た民主主義思想とその発露としての民主政治についての知識は、意外なところでわが国の政治の流れに影を落としているようだ。万次郎が開陳した民主主義理念は、土佐藩の御目付所で河田小龍の取り調べを受けたあと、小龍を経て坂本龍馬、後藤象二郎、山内容堂へと伝わり、激動の幕末の時局打開策の1つとして結実してゆくのである。
 万次郎との関連で見過ごすことができないのは「船中八策」(王政復古の素案) である。慶応3年6月9日、龍馬は土佐藩参政後藤象二郎とともに長崎より土佐に向かう藩船「夕顔」に搭乗した。兵庫への船中で後藤と協議のうえ龍馬が起草したのが「船中八策」である。「船中八策」は、薩土盟約や大政奉還に関する建白書などの基案となり、明治新政府の綱領「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書という。――
 10月の大政奉還の際、徳川慶喜は各藩の京留守居役を二条城に呼んで「何か意見のある者は申し出よ」ということになったのだそうです。『うわじま物語』は明治末年の慶喜自身の記憶をもとに、こう書いています。
 ――宇和島側の歴史でも、ここは見せ場である。「その時の宇和島の代表はまだ23歳の都築温*ツヅキアツシであった。性質は大へん気概に富み、薩の小松(帯刀)、安芸の辻(将曹)、備前の牧野、土佐の福岡(藤次)、後藤(象二郎) と共に大政奉還に強く賛成し堂々たる意見をのべて維新の推進力になった」と大いに市民の血を湧かせる。
 慶喜は「この(小松、後藤、福岡、辻の4人の)他に、なんでも備前と宇和島に会ったことは確かに覚えている。これは別に議論もなにもない。宇和島はだれだったか、どうもちょっと思い出せぬ。まだ若い男だった。備前は花房ではなかったように……」
 すでに75歳になっている慶喜だが、都築が若い男だったことを記憶していたのはさすがである。備前ももちろん花房義賢ではなかった。慶喜が、都築の名を知らないのも無理はない。ここに登場してくる都築以外の人物は、みな世間によく名の知れた人達だった。
 都築は平伏したまま「なにとぞ、万世不朽の御国体をたてさせられたく存じ候」と大政奉還のすみやかに行われるよう、夢中で藩論を弁じた。慶喜は、「なるほど」と一言うなずいたのが真相である。
 薩、土の意見具申は別にしても、ほとんどの留守居役が「いずれ藩論を聞いた上で」と即答出来なかった中で広島、岡山、宇和島のみが即応したわけだが、中でも、宇和島のそれは、パークスの訪問打診に対して即座に、松根図書が受諾した故事が思い起こされる。――
 この都築温の名が『浦和盛三郎伝』に登場してくるのです。明治10年(1877) の第1回愛媛県議会のときのことです。
 ――盛三郎は24番、正面からみて右側7番目、その後方には70名の傍聴人席がある。右隣の25番には宇和島20大区から選出された都築温が座っていた。その都築に目礼をし、盛三郎は席に着いた。
 都築は宇和島藩の維新三功臣の1人とも言われた人物で、23歳の時、宇和島藩を代表して将軍徳川慶喜に大政奉還の急務を力説し、一躍その名を高めた。明治元年には明治新政府にあって、外国条約改革調掛、外国官憲判事として内外交渉の事務にあたり、翌年宇和島に帰ってからは大補事、軍監、大属を勤めた。
 都築はこの時盛三郎と同じく32歳であったが、網代の学区世話掛を経験したにすぎない盛三郎とは比較にならないほどの華々しい経歴の持ち主であった。――
 旧藩の要職にあった議員たちのなかで盛三郎は新しい時代の理想を求める発言をしたと記録にあるそうです。そしてついには第1回衆議院選挙に立候補するところまで突っ走っていったのです。

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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