毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・21・富士箱根伊豆国立公園」
1995.1――入稿原稿


■国立公園物語…富士箱根伊豆

●富士山山体構造の謎

 富士箱根伊豆国立公園は、富士山と箱根と、伊豆半島の観光道路沿いの帯状の部分と、青ヶ島を除く伊豆七島の範囲です。それぞれの魅力を私は比較的よく知っているつもりですが、ここでは富士山に絞りました。さすがに日本一の山だけあって、ぜひ取り上げておきたいテーマが2つあるのです。
 まず富士山がどのような構造の山で、どのような生い立ちなのか、それが明らかにされてきた道筋をたどってみたいのです。
 じつは、富士山を総合的に明らかにしようとした最初で最大のチャレンジが、昭和の初めにありました。富士宮市の富士山本宮浅間神社が刊行した全6冊の『富士の研究』です。
 この本は古いので入手が困難ですが、1973年(昭和48) に名著出版から復刻されました。この復刻版によって書くことのできた文が私の著書『富士山・地図を手に』(1980年、東京新聞出版局) にあります。これは「岳人」という山の雑誌に連載したものの単行本です。
 ――河口湖のあたりから富士山をながめると、正面中腹に輪郭のはっきりしない、あいまいな盛りあがりがあります。富士スバルラインの終点をその最上部とする小御岳*コミタケとよばれる突起です。
 いまから50年ほど前、地理学者の石原初太郎という人が、この小御岳を観察しています。昭和3年から4年にかけて官幣大社*カンペイタイシャ富士山本宮浅間*センゲン神社(富士宮) によって編纂・刊行された全6冊の「富士の研究」の第五巻『富士山の地理と地質』をまとめるための調査でした。
 石原さんはそこで「火口の尋ぬべきものが無いのと、附近の富士山本体の構成すると同様の礫*スコリアから成るを以て、側火山としてやや疑あれど」と書いています。側火山のひとつに加えるのに、いささか疑問がないわけではなかったのです。
 しかし、彼はその疑問を打ち消してしまいます。とにかく小御岳は富士山腹の「明瞭なる一大山瘤をなし」ていて、「もし此の小御獄が側火山に非ずとせば、此の山瘤の成図は一に侵蝕に帰せざるべからず」というのです。つまりその成因が側噴火によるものでないと仮定するなら、侵食作用と考えられないわけではないと、疑いの部分の注釈を加えてはいます。加えてはいますが、彼自身がつづけて述べているように、小御岳の部分だけが、それほど顕者な侵食作用を受けたと考えるのは、非現実的なことだときめつけてしまうのです。
 ここで論理の飛躍、というよりも、疑問の封じこめがおこなわれてしまったといっていいでしょう。「故に側噴出に帰因するものとするほか説明できない」というのですから、はじめから側火山ときめつけたのと、たいした差はないのです。
 しかし、さすがに第一線の学者だけあって、石原さんの(論理展開はともかく) 観察は紙一重のところまで事実に肉迫していたようです。「憶ふに」と彼は文をつないでいます。小御岳はきわめて古い岩滓*ガンサイ(色の黒っぱい火山砕屑*サイセツ物、スコリア) 火山で、火口はすでに崩壊して消減し、その長い年月のあいだに「周囲には輻射谷をさへ生じたるものであらう」と的確にしるしています。
 のちに富士山の研究をライフワークとすることになる津屋弘逵*ツヤヒロミチさんは、そのころ、まだ地質学専攻の学生でした。津屋さんは石原さんの本が出た直後、昭和6年ごろに学術振興会から補助金を受けて富士山の岩石調査をはじめ、戦前に1万点の標本を採集します。そして78歳の現在もなお、富士山と縁の切れない生活がつづいているということです。
 津屋さんもまた、富士山の円錐形の山体に調和しない小御岳の地形に注目し、その疑問をさぐりました。そして小御岳にたいへんな発見の鍵が隠されていたことをあきらかにするのです。
 小御岳のコブは側火山でもなく、もとより侵食によってそこだけが残された突起でもありませんでした。富士山の内部に包みこまれた古い火山の頂上部の一角であって、津屋さんはそれを、富士山の南にある愛鷹山とほぼ同時代の、いってみれば兄弟火山と想定したのです。
 私は、河口湖のあたりから何度となく小御岳の斜面に目を向けてみました。のちには、そこに登ってもみました。もちろん小御岳が富士山の骨格をなす古い火山の頂上部であることは、今ではどんなガイドブックにも書かれている「常識」です。しかし、そういわれてみたところで、私の目に見える小御岳は「おかしなコブ」というあたりまでが限度で、側火山でないと納得することすらできないのです。
 50年前に、石原さんは「疑問」を感じるところまではいきました。しかし「発見の予感」まではもちえなかったのです。石原さんの厚い本をしろうとなりに読みとおしてみると、それが石原さんの観察能力の限界であったとは思えません。たぶん、石原さんがあらたに提案しようとしていた富士山の構造に関する仮説になじまなかったからだろうと思うのです。自分の仮説をもひっくりかえすような大きな発見の糸口になりえた小さな疑問を、その仮説が消し去ってしまったというべきでしょう。
 石原さんの時代には平林武さんという人が富士山の構造について、すでにひとつの説を立てていました。富士山は火山泥流(集塊岩質泥流) とよばれるものを山体の基礎にして、それに各種の溶岩流や火山灰がかぶさったものとしていたのです。それに対して石原さんは、集塊岩や泥流がほとんど地表にあらわれていない事実を平林説にぶつけたのです。
 石原さんは、富士山の溶岩が流動性の高い玄武岩であることの証明に力をそそぎます。猿橋や三島にまで流れくだった溶岩流を舌端とする巨大な溶岩台地の存在を考えたのです。彼はそれを基底溶岩と名づけ、その上に溶岩や火砕物が何層にも積み重なって成長したものだとしたのです。
 平林説と石原説とは、ともに津屋さんの綿密をきわめた調査によって論破されます。しかし、それは同時に、2人の先輩の観祭が正当に生かされることでもあったのです。
 津屋弘逵さんの業績は、小御岳が古い火山の頂上部だと気づいたことと、古富士の発見であるといわれます。彼は富士宮周辺で広く露出している(集塊岩質) 火山泥流が、それをおおう(玄武岩質) 溶岩流と年代的に相違していることから、「もうひとつの山体」の存在を予想したのです。そして宝永山火口の赤岩にその姿を確認して、その山体(古富士火山) が標高2,700mを越えるものであったことをあきらかにしたのです。昭和46年(1971) に富士急行が刊行した『富士山――富士山総合字術調査報告書』の中で、津屋さんはこう書いています。
「平林の集塊質泥流によって代表される部分を古富士火山、石原の基底溶岩噴出によってつくられた部分を新富士火山と命名した」
 つまり富士山は、愛鷹山とほぼ同年代の小御岳火山に接して古富士火山が噴出し、その2つを溶岩でおおって現在の姿になったというのです。
 学問というものの素晴らしさのひとつは、このように着実に知識が積み重ねられていくことだろう、と私は思うのです。研究者たちはそのために膨大なエネルギーを調査にそそいできたわけです。私などには想像もできないこまかなことがらの、ひとつひとつが厳密にチェックされ、体系に組みこまれる長い道程を経たうえで、ダイナミックに、ドラマチックに展開していくということになるわけです。津屋さんなどは富士山を山頂からふもとまで、それこそしらみつぶしに歩いているといいます。ハンマーで露岩を打ち欠き、岩片や砂礫を採集し、目で見たこと、研究室で分析したことを、40年以上も積みあげてきたのです。
 そういう地道な努力があってはじめて、富士山が3つの山体から成り立っているということがあきらかにされたのですが、そのとたん、私たちはじつにみごとにその新知識をとりこんで「常識」にしてしまいます。冷静に考えてみれば、私たち自身には、その「常識」がどれほど究極的なものか、どれほど事実に肉迫しているか、道すじをたどって確かめる能力さえありません。つまり、研究者たちの膨大な調査体験と思考の“うわずみ”だけを“うのみ”にしているにすぎないことが、あまりにも多いようです。それだけに、おなじとき、おなじように膨大なエネルギーをそそいで、おなじ問題をさらに先へ進めようとしている別の人たちがいることを忘れてはいけないと思うのです。
 たとえぱこの、富士山の構造についても、現在、知織はもう1歩前進しつつあるように感じられます。それは富士山そのものへのダイレクトなアプローチによるものではなく、富士山が噴きあげて遠くに飛ばした火山灰(降下火砕物) から、富士山の歴史を聞きとる丹念な作業によるものです。
 その中心人物は町田洋さんといって、津屋さんから30年ほど世代がさがります。町田さんは昭和34年(1959) に富士山の大沢崩れの地質調査に学生として参加し、そこで見た1枚の火山灰層に興味をひかれたというのです。それは大沢崩れの堆積物の下にあって、大沢崩れがはじまる前の時代をしめし、同時にまた、西麓から南麓にかけてひろがって、縄文の遺物を出土する地層ともなっていたからです。
 火山灰層のひとつの特性が、ここでは大きな意味をもってきます。火山が噴出した降下火砕物は、地質学的な年代からいえばほとんど一瞬にして堆積し、しかも広い地域に分布して、同一の層として検出できるほど明瞭な層をつくり出します。
 富士山のように、深く内部にまで切れこむ谷や、大きな露頭のないところでは、ボーリングする以外に内部のようすを直接知る手だてはありません。ボーリングによる地下の岩石採集をレントゲンや胃カメラによる診断にたとえれば、津屋さんがハンマー片手におこなった露岩採集は、聴診器や血圧計程度の器具でおこなう診察といえるでしょう。そのたとえでいえば、町田さんがおこなうことになった方法は、いわば血液や尿の化学検査ともいうべき火山灰層の分析でした。富士山の体内から噴出して体外に降り積もった火山灰がなにごとかを語りはじめる……。町田さんの「発見の予感」はそこにありました。
 富士山の東麓には、厚さ110mにもわたって火山灰、つまり降下火砕物層が観察できる地点がありました。御殿場の北方15kmの湯船原です。そこでは1枚の厚さが10cmから30cmの層が500枚以上も識別できたといいます。
 しかし、町田さんの調査は、むしろ富士山を離れて、一般に関束ローム層とよばれる広い範囲の火山灰層を相手にして進められます。たとえば神奈川県の大磯丘陵では、いくつかの露頭をつなぎあわせることで、厚さ210mにもおよぶ地層を観察することができました。そういう調査を何十という地点でおこなっていくと、広い範囲にわたって同一と確定できる層が検出されてきます。それを地層分析の鍵として、さらにそのあいだにあらたな「鍵層」を見つけていきます。そうして、大磯丘陵では、じつに120枚もの層が鍵層として識別され、その素性もあきらかにされてきたのです。降下火砕物中の黒曜石をつかって、フィッション・トラック法という年代測定ができるようにもなり、火山灰層は過去の40万年を3,000〜4,000年ごとに目盛った「時計」の役目もはたしはじめます。――
 ――こうした新しい調査が、いま急速に展開されているわけです。そして町田さんは『火山灰は語る』(1977年、蒼樹書房) という本の中で、富士山の歴史を最新のデータでまとめています。それによると、いまからほぼ8万年前に、古富士火山が噴火をはじめ、それからおよそ7万年のあいだに、おもに爆発的な噴火が500回以上くりかえされました。それによってできあがったのが町田さんのいう「古期富士火山第1期」の山体で、標高2,700mの宝永山火口よりは高くなっていただろうというのです。
 そしてつぎに、粘性の低い溶岩を多量に流す「第2期」の活動に移行します。それは1万年前ごろのことで、噴火の期間は数千年におよぶといいます。河口湖がせきとめられたのはこの時期で、石原さんが基底溶岩とよび、津屋さんが新富士火山初期溶岩としたのが、これにあたるものです。
 その後、富士山は「静穏期」にはいります。噴火が完全になかったわけではありませんが、山体は侵食が進んで何本もの谷を刻み、山すそには扇状地も出現しました。そしておよそ5,000年前になって「新期富士山」の活動が開始します。これは縄文前期にあたり、そのころ、南麓一帯には人びとの生活が営まれていたことが考古学の発掘調査によって知られています。
 この時期の噴火のタイプは溶岩を流すものと爆発性のものの両方があって、20回ほどの大噴火で現在の富士山の姿ができあがったと考えられるといいます。そして現在60ほど数えられている側火山(寄生火山) の噴火は、この新期富士山の造山活動の、もっとも新しい時代のものなのです。
 ほんとうの意味での「発見」というのは、たぶん、こういうものなのでしょう。目に見えるものの確実な積み重ねが、目に見えず、手で触れることさえできない(内部や過去の) ものの姿まで、はっきりとえがき出してくれるのです。――

●小御岳への新しい疑問

 これが「岳人」誌に連載されたのは1979年(昭和54) ですから、もう15年も前のことになります。いまも富士山に挑んだ地質学者の系譜を、
1)石原初太郎さん…『富士山の地理と地質』(「富士の研究」第5巻、1928年)
2)津屋弘逵さん…『富士山――富士山総合学術調査報告書』(1971年)
3)町田洋さん…『火山灰は語る』(1977年)
 とするのが妥当なところであることは衆目の一致するところでしょうが、町田さんは日本全国の火山を相手にした火山灰編年学(テフロクロノロジー) の第1人者となったために富士山にテーマを絞った一般書の執筆はまだのようです。そこで火山学者の諏訪彰さんを編者とする大著『富士山――その自然のすべて』(1992年、同文書院) に寄稿した町田さんの原稿によって富士山の過去がどこまで明らかになっているのか読んでみたいと思いますが、その前にまず、諏訪さんの「序」に目を通しておきたいのです。
 ――富士山の自然についての科学的解説書は少なくなく、私の本棚にも数十冊が並んでいるが,率直に言って、いわば帯に短し、たすきに長しのように思われる。その中で、1971年(昭和46) に富士急行KKが創立45周年記念事業として刊行した『富士山――富士山総合学術調査報告書』は、多数の専門学者達の多彩な研究成果を集大成した豪華本である。しかし、発行部数がごく限られた,非売品の学術論文集なので、一般の人々はほとんど入手できず、かつ、難解解で親しみにくい上に、発刊から既に21年もの歳月が流れ去った。
 この間に、来るべき東海地震と富士山噴火の結びつきが懸念されたり、特に近年は、1983年(昭和58) の三宅島噴火や、1986年の伊豆大島噴火、1987年の富士山頂での有感地震、1989年(平成1) の伊東沖群発地震・海底噴火、1990年からの雲仙岳大噴火、1991年からのピナトゥボ山大噴火(フィリピン) などに関連して、富士火山の今後の動静が一段と注目されたりしている。
 それで、この本では、富士山に様々な角度から自然科学のメスを入れてきた第一人者の人達を結集して、それぞれの立場から、“富士山の自然と科学”の全容を、最新の研究成果をとり入れて、解き明かそうとした。――
 これが編纂にあたっての自負の部分。続いて悩みの部分です。
 ――専門学会誌の特集号などとは違い、それぞれのテーマについて予備知識がない読者でも、なじみやすく、興味深く読み進み、結果的に、「なるほど」とうなずけるような本にしたい、というのが編集者の念願である。
 各著者も、同じ思いでペンを進めたことは言うまでもないが、編集者としては、読者の方々にわかりにくかったり、誤解されかねないと判断されたことは、遠慮なく、じっくり著者と話し合い、手直しするように努めた。もっとも、角を矯めて牛を殺すようなことは避けた。例えば、富士山の生い立ち、成り立ちについては、この山が一代で築かれたものではない点は著者達の考えが一致しているが、詳細な点ではかなり相違している。しかし、各人がそれぞれ真面目に富士山と取り組んで到達した研究結果なので、それらをむやみに調整するようなことはしなかった。医師達が患者を診察する時と同様に、当面、かなり違った研究結果がでてきても、やむを得ないであろうと、考えられる。――
 諏訪さんは第1章「富士火山を診断する――その氏・素性をさぐる」で「富士山は3段に重なった活火山である」という見出しを立てて従来からの説を紹介させているるのですが、町田さんは第3章「富士山の生い立ちはテフラ(火山灰など) からわかる」で大胆な論を展開しています。以下、町田さんの最新の見解です。
 ――神奈川県中部の台地で、関東ローム層を下から上に詳しくみていくと、地表から深さ約15mのあたりで、それより深い地層の主体をなす箱根火山起源の多数の軽石層が急にまれとなり、かわって富士山起源のスコリア層が主体となる。このことはある時期に箱根の爆発的火山活動が下火となり、代わって、富士が活発な活動を開始したことを物語っている。こうした転換期がいつであったかを知る上で重要な役割を果たしたのは、木曾御岳の第l軽石層(On-Pm1) である。このテフラは富士山の活動史解明のみならず、海面変化史や川の侵食史などを論ずる上でもきわめて重要で、日本の第四紀の編年研究上第一級の鍵層である。その噴出年代は、含まれているジルコンのフィッショントラック法による年代、およびイオニウム法による年代などの放射年代から、およそ8万年前と考えられたが、最近の研究ではやや古く9〜10万年前と考えられる。
 富士山は、御岳第1軽石層の噴火のころから約10万年の間に、およそ1,000枚に達する膨大なテフラを噴出(約1,000回もの爆発的噴火を) するとともに、それを上回る回数の溶岩噴出を行って、高く大きな山体を中央火口の回りに築き上げたのである。約10万年前のころといえば、大型成層火山の多く(箱根、赤城、榛名、大山など) は、すでに今と同様な大型火山に成長していたことがわかっている。したがって、富士山はまさに青年期にある大火山なのである。
 ここで興味があるのは、富士山形成以前のこの付近の地形である。富士山の噴出物の下に埋もれている火山としては愛鷹山火山と小御岳火山とが知られている。愛鷹山はそのテフラが箱根火山の古期外輪山の噴出物と互層をなしているので、すでに25万年前には活動をしており、15万年前頃には活動を停止したものと思われる。一方小御岳火山がいつごろ活動していたかは、今のところほとんど手がかりがない。富士東麓にある古いスコリア層のうちのどれが小御岳の噴出物なのかはわからない。小御岳の噴出物は津屋によると愛鷹山のそれと似るとされたが、浅岡(浅岡伸之「小御嶽火山の地質と岩石」1986年) は必ずしも似ていないという。小御岳火山の山体をつくる噴出物と似た岩質のテフラを、遠方に降下堆積したテフラ中から見つけるのが今後の課題であろう。――
 つまり町田さんは恩師・津田さんの説をこの段階で明確に否認しはじめているのです。つまり解明されたはずの富士山の山体構造が、じつはよくわからないというように後退するのです。しかしそれは、別の道への分岐まで戻ろうという主張です。町田さんの原稿がここで急に難しくなるのはそのためです。わかりにくいのですが、スリリングな場面です。
 ――それはさておき、最近富士東麓の御岳第l軽石層の下位にあるテフラ群について、いろいろ興味のあることがわかってきたので、ここで簡単に記しておくことにする。
 詳しく観察できる場所は、静岡県小山町生土西沢おくの林道沿いと谷底で、いわゆる神縄断層の露頭の約200m上流である。図4にこのテフラ層序を記す(ここでは省略)。ここで最も持色的なのは、富士系のスコリア質テフラの堆積が早いために、西日本〜中部日本からの遠来のテフラがよく保存されている点である。すなわち、御岳第l軽石層の上位には、上から大山生竹軽石(DNP)、阿蘇4火山灰(Aso-4)、御岳伊那軽石(On-In)、鬼界―葛原火山灰(K-Tz) の各広域テフラがみられる。また下位には阿蘇3火山灰(Aso-3) がある。
 これらの遠来テフラはいずれも細粒ガラス質の火山灰薄層であるが、このほか、近くの火山に由来する粗粒軽石の厚い層が御岳第1軽石層の下位に数枚ある。図4にP-B、P-Aとしたものが代表的なもので、これらの給源として箱根火山は考えにくい。なぜなら、箱根の北北西方向にあるこの場所では、御岳第l軽石層より上位のテフラ群の中に存在する箱根起源のテフラはごく薄く、あまり飛来しなかったこと、さらにそれらの分布と鉱物の種類は箱根火山のそれと異なることなどのためである。P-Bはこの地点の北方11kmの山伏峠にも厚さ約lmで見られるので、その噴出源は富士山方向に求められる可能性が大きい。またP-Aは角閃石やカミングトン閃石を特徴的に含む。角閃石やカミングトン閃石は箱根火山の噴出物にはまったく包含されていない。これに対して愛鷹山や富士山の古期の噴出物(たとえば吉岡軽石) には少量だが角閃石が伴われるので、これらの厚いテフラの給源は富士山の下にあった火山の噴出物の可能性がある。その火山が古い時期の富士山か、小御岳なのか、それとも別な火山なのかは不明である。ただ、この火山は厚いテフラ層を噴出したことからみて、新しい富士山のそれと違ってかなり爆発的な活動をする癖のあるものであったらしい。なお、おそらくもっと古い層準と考えられる箱根火山系の軽石層の間にも、上位の富士火山系のものと似るスコリア層がはさまれている(たとえば約11万年前のKmP-1とKlP-13とのあいだ)。
 以上のような観点からみると、約10万年以前に現在の富士山付近には何らかの火山が存在したと考えられる。小御岳火山はその1つの候補である。その火山は、新しい富士山のように玄武岩質のスコリアや溶岩を少量ずつ噴出し成長した火山ではなく、やや爆発的噴火をする癖のある、したがって、火口の大きな火山であったと想像される。――
 このような状況証拠をさらにいくつかあげたあと、町田さんは時代ごとに富士山の活動を語りますが、それらについては近い将来、町田さん自身の著作としてじっくりと読ませてもらいたいものです。

●浅間神社の系譜

 富士山を歩き回って、もうひとつおもしろいと思ったのは、富士山そのものを神とする「浅間神社」の系譜をたどってみることでした。それができたのも「富士の研究」の復刻版があったからでした。私の著作『富士山・地図を手に』からそこのところを読んでいただきたいと思います。
 そのとき私は河口湖の南岸を歩いていて、岸辺にしゃがみこんで、シジミをとっていたお姿さんの姿を見つけたのです。和服にゴム長靴をはいて、ザルを手に、水ぎわの砂利をひっかいていました。
 ――大雨で湖面がうんと上がったこともあったでしょうと聞いてみました。するとお姿さんは後方の10mほどある崖の上にこんもりと見えている森を視線で追います。その森が「里宮*サトミヤさま」で、お婆さんの家はそのすぐわきにあるのだそうです。そしてその家まで水があがった話を聞いたことがあるそうです。
「嫁にくる前のことだから、くわしくは知らないがねえ」
 水上スキーをひいたモーターボートが「うの島」のむこうを走りぬけていきました。
 私がお婆さんと出会った浜は、勝山村と河口湖町小立*コダチ(旧小立村) の、ちょうど村ざかいのあたりでした。「里宮さま」はその村ざかいにひっかかるような感じで建っているのです。正式には御室浅間*オムロセンゲン神社里宮といって、おおらかにしげった森の中に、草ぶきの本殿があります。説明の立札によると祭神はコノハナノサクヤヒメミコトで、漢字で書くと木花開耶姫命となります。
 この神社が里宮とよばれる以上、別のところにも神殿があるはずです。「本宮*ホングウ」というのが吉田口登山道の2合目にあって、699年(文武天皇3年) に藤原義忠という人がそれをまつり、里宮のほうは958年(天徳2) に村人たち(氏子たち) によって現在地に建てられたと、立札には書かれています。――
 ――この神社がそれなりの由緒をもつものであろうということは、社殿のたたずまいからも感じられます。しかしなぜ、村外で、しかも12kmも離れた吉田口登山道2合目の神社を「本宮」としているのでしょうか。おまけにその本宮のほうは、5万分の1地形図では「小室」浅間神社となっているのです。それだけならまだしも、御室浅間神社というのが須走口登山道の3合目あたりに、もうひとつあるのですから、いったい、どうなっているのか、わからなくなってしまいます。
 御室浅間神社里宮と小室浅間神社(本宮) の関係がさぐり出せないかと地図をながめまわし、2つの点をひとつに結びあわせた理由をなんとか見つけだそうと試みてみたのですが、むだでした。皆目わからないのです。ただ、そのあとで買った昭和52年修正の新しい5万分の1地形図では、小室浅間神社の一角が(富士吉田市の中で)「勝山村飛地*トビチ」と明記されていました。
 その小室浅間神社(本宮) から地形なりにくだっていこうとすると、やはり登山道をたどって富士吉田に出るのがいちばん自然に思われます。そしてそこには(富士吉田の)「富士浅間神社」がひかえていて、それもまたコノハナノサクヤヒメをまつって、「北口本宮」とよばれているのです。
 こちらの「本宮」は里宮に対する本宮ではなくて、富士山全体を見たときに富士宮の富士山本宮浅間神社とあい対するという意味での、(富士山の) 北口の本宮であるようです。参道に立ち並ぶ杉の巨木といい、石燈籠の列といい、勝山の浅間神社とは、その規模がひとけたちがいます。
 社伝によるとヤマトタケルが東征のおり、この地で富士山を遥拝したのにはじまるというのですから、古さもなかなかのものです。私の歴史感覚では太古のむかしといってもいいくらいです。そして788年(延暦7年) に甲斐守藤原当興が、はじめて現在地に社殿を建てたということです。そして1223年(貞応2年) には執権北条義時が修築(あるいは再建) し、1561年(永禄4年)、つまり川中島の戦いの年には武田信玄によって再建されたともいわれます。
 歴史も古いけれど、登場する役者も一流です。それだけに、「お山」への登り口ともいうべき2合目の小室浅間神社を、勝山村の神社にとられてしまったようなかっこうになっているのが不思議でならなかったのです。
 勝山の浅間神社でいだいた疑問から、私はしちめんどうくさい神社の系譜調べにのめりこんでしまいました。もともと、浅間神社というのが日本全国あちこちに散らばっていて、気になってしかたなかったのです。富士宮の富士山本宮浅間神社と富士吉田の富士浅間神社がビッグ2といった印象ですが、ほかに須走、御殿場、須山、村山など、各登山口に浅間神社はあるのです。
 それを一気に全国にひろげてみると北海道から九州まで、大正時代に、なんと1,317もの浅間神社があったというのです。もちろん、それらはすべてコノハナノサクヤヒメを祭神とする浅間神社に限定しての話です。その数もすごいのですが、それだけの数の神社が調べあげられていたというのは驚くべきことです。前章でも触れた「富士の研究」は富士宮の富士山本宮浅間神社が編纂したものですが、その第2巻『浅間神社の歴史』(昭和3年) がなかったら、もちろん私が神社について考えてみるなど不可能なことでした。
 その調査では、1,317の浅間神社が「社格」によって分類されています。「官幣*カンペイ社」「国幣*コクヘイ社」「県社」「郷社」「村社」というランク分けにしたがって見ていくと、官幣社は静岡県に1社、国幣社は静岡県と山梨県に1社ずつあります。そして県社は5社あって、静岡県に2社、山梨県に3社となっています。これで上位8社は地元の静岡県と山梨県で4社ずつ分けあっていることになります。
 その下の郷社は15社あって、静岡8、山梨3、東京2、愛知1、滋賀1という分布です。村社になると225社もあり、静岡90、千葉31、山梨19、埼玉19、神奈川10といったぐあいになって、関東地方で全体の4分の3をしめることになります。その結果残された1,000社あまりの浅間神社は「無格社」「摂社」「末社」「境内社」とされるもので、いわば「その他大勢」といった感じのものです。そこにはきっと私などの目には神社とは見えないような小さなほこらまで、含まれているのでしょう。
 それにしても、神社というのは妙に形式ばったところがあるわりに、あんがい簡単に建立できるもののようです。「分霊」を勧請することでふえていくところなど、まるで株分けやさし木のようです。なかには富士登山のおりに持ち帰った石ころを勝手に御神体としたものもあるといいます。いいかげんといえば、かなりいいかげんです。しかしそういう手軽さがあったからこそ、コノハナノサクヤヒメをまつる浅間神社は驚くほど広い範囲に散りひろがっていったのでしょう。
 私は、上位8社の相互関係から、何かさぐり出せないかと思ったのです。まず、その8社を社格の順に並べてみます。
1)静岡県・富士宮の浅間神社
     官幣大社(明治29) ←―国幣中社(明治4)
2)山梨県・甲府一宮の浅間神社
     国幣中社(明治4)
3)静岡県・静岡の浅間神社
     国幣小社(明治21)
4)山梨県・富士吉田の浅間神社
     県社(明治12) ←―――郷社(明治5)
5)静岡県・須走の浅間神社
     県社(明治19) ←―――村社(明治8)
6)山梨県・河口の浅間神社
     県社(大正13) ←―――郷社(明治5)
7)静岡県・村山の浅間神社
     県社(大正13) ←―――村社(明治8)
8)山梨県・勝山の浅間神社
     県社(大正14) ←―――村社(明治5)
 ここにつけられた「社格」は明治4年以後、全国の神社を官幣(大・中・小) 社、国幣(大・中・小) 社、府県社、郷社、村社などに叙したものです。明治政府は全国17万社といわれた神社の台帳を完備したといいますから、国家神道の確立は新政府にとって、大プロジェクトだったといえそうです。官幣社というのは神祇*ジンギ官(天神と地祇、つまり朝廷の神や諸国の神をまつる官職) から幣帛*ヘイハク(神にそなえる品々) をあたえられるという意味だそうですが、神社においては「国」よりも「官」のほうが上であったようです。

●アサマの神とフジの神社

 神仏分離から神社制度の改草にいたる事業が王制復古の基盤づくりであったわけですが、神社に位階をおくることは、きわめて古い時代からのものです。現在の浅間神社群につながってくるものが、はじめて歴史に登場するのは平安前期、879年(元慶3) に撰進された国史『文徳(天皇) 実録」と901年(延喜1) 撰進の『(清和・陽成・光孝) 三代実録』だということです。それらの文書によると、864年(貞観6) に宮士山が噴火して青木ヶ原丸尾*マルビの溶岩が流れた事件を伝えるなかに「富士郡正三位浅間大神*アサマオオカミ」と出てくるのだそうです。浅間*アサマ神社(富士宮) はそのとき正三位であったわけですが、その10年前に従三位に叙せられ、5年前に正三位になっていたのです。
 正三位となったとき、近辺でそれより位の高かったのは従一位の香取神宮(千葉県佐原市) と鹿島神宮(茨城県鹿島郡)、正二位の熱田神宮(愛知県名古屋市) の3社だけで、同じ正三位には三島神社(静岡県三島市) と安房神社(千葉県館山市) があったにすぎません。
 また927年(延長5年) に撰進された『延喜式』の「神名帳」によると、浅間神社は全国176の「大社」のひとつにかぞえられているそうです。そして、さらに時代がくだって鎌倉時代になると、各国それぞれに一宮*イチノミヤ、二宮、三宮などが定められます。浅間*アサマ神社、つまり富士宮の富士山本宮浅間神社は、それによって駿河国の一宮とされたのです。
 こで念のために……“あさま”と“せんげん”が混在してすこしうるさい感じになってきましたが、“あさま”とルビをふったもの以外は“せんげん”と読んでいただきたいと思います。
 さて、明治になって、あらためて全国統一の社格が定められるのですが、このとき富士宮の浅間神社は、一宮であったことから事務的に国幣中社とされてしまうのです。甲斐国の一宮であった一宮浅間神社と同年、同位の叙位であることは、上位8社のリストのところを見ていただけばわかります。そして明治29年(1896) になって、一気に最高位の「官幣大社」になるわけです。――
 ――明治21年(1888) になってはじめて、静岡市内の浅間*アサマ神社が国幣小社に叙せられます。しかも同時に、同じ賤機山*シズハタヤマ(浅間山*センゲンサン) にあって駿河総社とよばれた神部*カンベ神社と大歳御祖*オオトシミオヤ神社も、それぞれ国幣小社とされたのです。この静岡浅間神社は「浅間*アサマ新宮」あるいは「富士新宮」とよばれ、平安後期に富士宮の浅間神社から分霊した由緒正しいものだといわれます。そして徳川3代将軍家光によって造営された社殿は、のちに焼失してしまいますが、日光東照宮と並び称される壮麗な建築だったと伝えられています。
 いっぽう富士宮の浅間神社の、国の重要文化財となっている本殿(浅間造り) は徳川家康の寄進によるものといわれています。このような徳川家との深い関係を前提として考えてみれば、静岡市の「新宮」が明治21年になってようやく国幣小社の列に加えられたことも、富士宮の「本宮」が明治29年に4階級特進で官幣大社となったことも、背後に大きな政治的理由があったと考えるのが当然でしょう。
 富士宮の浅間神社と静岡の浅間神社とは、いわば親(本宮) と子(新宮) のあいだがらであったわけです。それとはちょっとちがうのですが、富士宮の浅間神社と特別な因縁をもつ、もうひとつの浅間神社が甲大国に建てられました。864年の貞観の噴火を伝える『三代実録』によると、噴火の翌年に甲斐国八代*ヤツシロ郡に「浅間*アサマ明神祠」を建立したとあります。なぜそれが記録に残されたかというと、富士山の大噴火(青木ヶ原丸尾の溶岩の流出) にさいして、甲斐国が駿河国の浅間神社の神官たちの怠慢(浅間大神*アサマノオオカミの怒りを招いた) だと非難して富士山の噴火をしずめるために甲斐側にも官社を建てさせてほしいと要望したからです。
 この八代郡の浅間*アサマ神社は『延喜式』の「神名帳」では大社とされているのですが、そののち、公的な文書に顔を出すことなくときが過ぎて、現在のどの神社にあたるものか、まったくわからなくなってしまったというのです。のどもと過ぎれば熱さを忘れる、といったことなのでしょうか。いまのところ甲府盆地の一宮の浅間神社と河口湖北岸の河口の浅間神社が、いずれも社伝でその正統を主張していますが、決め手はないようです。
 富士山の噴火をしずめるためには、おそらく多くの神社が動員されたにちがいありません。中央に報告された「、八代郡浅間*アサマ明神祠」というものが、そもそも看板だけといってもいいような、象徴的なものであったのかもしれないと考えてみたりするのですが、どうでしょうか。
 幻の「八代郡浅間*アサマ明神祠」の直系かどうかはともかくとして、鎌倉時代になって甲斐国の一宮と定められたのが現在の一宮(甲府盆地) の浅間神社です。もちろん武田家の厚い信仰を受けたわけで、明治になって国幣中社に叙せられたのはこの神社が一宮であったからです。富士山からいくぶん離れた物理的な距離といい、政治的な環境といい、さまざまな点で静岡の浅間神社との類似が目につきます。――
 ――そこで残された5社に目をむけてみるわけですが、それらはいずれも郷社や村社から県社に格上げされたものばかりです。静岡県にはそのうちの2社があって、そのひとつは須走の浅間神社です。それは富士浅間神社と名乗って、「東本宮」ともよばれてきました。社伝によると807年(大同2) の創建となっていますが、確かなのは、この神社が古い登山道である須走口(東口) にあったことで発展してきたということです。須走口登山道は、おそくとも室町時代前期にはひらけていたといわれます。
 しかし富士登山ということでは、富士宮(大宮) からの大宮口登山道を5kmほど登ったところ、というより、むしろ村山口登山道の起点というべき村山の浅間神社が「元祖」です。
 時代はさかのばって飛鳥時代に、高名な呪術者で、699年(文武天皇3年) に伊豆に流された役小角*エンノオヅヌ(役*エンノ行者ともよばれる) が富士山をひらいたという伝説があります。夜ごと島ぬけしては空をかけ、富士山に登ったというのです。その役小角が富士山に登ったかどうかはともかく、平安時代には役小角を開祖とする修験の道者*ドウシャたちが富士山を修行の場としていたことは事実のようです。
 そして平安時代末期になると末代上人という人が出るのです。彼はそれまでの富士山信仰に真言密教を結びつけ、山頂に大日寺とよぶ堂を建てます。そして村山の地で成仏して肉身仏(ミイラ) になったといわれています。末代上人が富士山の初登頂者であったかどうかもさだかではありませんが、その後、時代を追うにしたがって盛んになる信仰登山の大きな基礎をつくったのは確かなようです。それはまた、浅間大神*アサマノオオカミの信仰から浅間*センゲン大菩薩(浅間大菩薩木花開耶姫、本地身*ホンジシンは大日如来) の信仰への一大転換点ともなるものでした。――
 神社の由緒をたどっていくと、同じ浅間神社でもアサマ神と(浅間大菩薩の) コノハナノサクヤヒメと、本来の神様が違ってくるように思われてなりません。ここは一番、戻れるところまで戻って出直してみようと思ったのです。
 ――まず最初に間題にしなくてはならないのは、富士山そのものを神としたはずの時代に、それがなぜアサマという名でよばれたのかという素朴な疑問です。
 そこで、富士山のフジという名について調べてみます。富士山の名が最初に文献にあらわれるのは奈良時代といわれており、『常陸国風土記』には福慈、万葉集には布士、不尽、不自、布時、布自の字で見え、『日本霊異記』では富岻。そして平安時代のはじめに撰進された『続日本紀』ではじめて富士とされ、以来、公式の文書では一貫して「富士」になるというのです。
 もちろん、その後もさまざまな人がフジの名に意味をこめて不二、不死、富慈などの字をあてていますが、これらは万葉仮名と同列にあつかうわけにはいかないでしょう。はっきりしているのはフジという名が山名としてまず最初にあり、富士という文字が中央政府によってそれに与えられたと考えられることです。
 ほんとうに知りたいのは、けっきょくフジという音にこめられた意味なのです。しかし残念なことに、それに対する明解な答は、まだないようです。急な斜面のところをさすフチという言葉や、尊いとか気高いという意味のムチ(貴) という言茉からフジという名がついたという説が最近のものとしてあるようですが、どの説も仮説の域を出ないのであれば、私はアイヌ語のフンチ(火山) にその起源をもとめる説に共感をおぼえます。英語でいえばザ・ボルケイノ。「火を噴く山」といった素朴なよび名こそ、富士山のふもとに生きた人びとには、もっともふさわしいものであったと思うからです。そしてそれは、もちろん平穏なときの名ではなく、荒らぶる神に対する畏れをもこめて語りつがれた名と考えることができます。どう見ても、富士山が慈愛に満ちた山であったとは考えられません。ある日突然、天地がゆれ動いて火を噴くとき、人びとは、それが天の神の怒りだと考えたにちがいないと思うのです。
 富士山のふもとに生活の場を見いだした日本人(あるいは原日本人) が、ただちにそれを神のいますところと考えた、と想像するのは、たぶん、それほど無謀なことではないはずです。で、そのとき、その山の名がフジであったのなら、その神もまたフジの名でよばれた、と考えてみるのも、それほど無理のない方向だといえるでしょう。
 その「フジ神社」と思われるものがあるのです。こともあろうに「アサマ」神社であった富士山本宮浅間神社(富士宮) の摂社として残っているのです。それは富知*フチ神社で、不二神社、福地明神ともよばれるものですが、大宮、つまり富士宮の中心地区の地主神であるというのです。しかも平安時代中期の『延喜式』の「神名帳」にあらわれる富士郡の3つの神社、浅間*アサマ神社、富知神社、倭文*シドリ神社のうち、あとの2つが、ともにいま浅間神社の摂社となっている富知神社と倭文神社だといわれているのですから、そこに名門神社の合併吸収のドラマを想像したくなるのは人情というものです。
 もしその富知神社の富知がフジのことであり、地主神であるということがその土地に根ざした古い神社であったことの証明となるなら、かつて、それが「フジ」の神をまつった神社である可能性を考えてみたくなります。しかも(中央の) 歴史への登場が、いかにもそれらしいかたちになっているのです。
 浅間*アサマ神社は垂仁天皇の時代に、富士山の噴火をしずめるために「山足の地」に建てられたということになっています。それをヤマトタケルが山宮*ヤマミヤ(富士宮市山宮宮内) におろしてまつり、平安時代前期の806年(大同1) に征夷大将軍坂上田村麻呂がそれを現在の場所に(もう一段おろして) 遷移したというのです。そしてそのとき、そこには古くからの地主神として、富知神社があったというのです。
 アサマという名の意味もまた、あいまいなのですが、すくなくとも「アサマ」の神をまつった浅間*アサマ神社は、歴史上に一貫した姿勢をもっているようです。それは中央政府の息のかかったものであり、富士山の噴火をしずめることを「国の鎮め」ととらえていることです。
 806年の坂上田村麻呂による遷宮が史実として確認されていないとしても、50年後の853年(仁寿3) には、浅間*アサマ神社は、従三位という高い位を与えられているのです。その叙位の背景に、800年(延暦19年) と826年(天長3) の、史書にしるされるほどの噴火があったとするのは、その後の浅間*アサマ神社の歴史と考えあわせてみれば、まちがいではないでしょう。そして浅間*アサマ神社の目を見張るばかりの位階の上昇が、その背後に、中央政府の影響力の浸透をもともなっているとすれば、「アサマ」の神によって土着の「フジ」の神の大きな役目が奪われてしまったと考えるのも、けっして不自然ではないように思えるのです。――
 コノハナノサクヤヒメがアサマ神と違うのは、神仏混淆*シンブツコンコウによって、大衆のひとりひとりの救済をかかげる大日如来とダブってくるところではないかと思うのです。とにもかくにも個人の信仰を受け止めてくれそうな印象なのです。
 ――木花之佐久夜毘売*コノハナノサクヤヒメは『古事記』に登場する絶世の美女で、天からくだってきたニニギ(天照大神の孫) の后となる人物です。父はオオヤマツミといわれています。このコノハナノサクヤヒメの名が浅間神社とからんでくるのは江戸時代のはじめといわれ、富士宮の浅間神社の社記にその名がはじめてあらわれるのは、じつに江戸時代も後期だということです。しろうと探偵としては、ここで江戸時代の国学者、本居宣長、賀茂真淵といった名を思いうかべてみたりするわけですが、富士講の御師が烏帽子・狩衣というスタイルの神職として、京都の吉田神道につらなるものだということになれば、コノハナノサクヤヒメは、富士山に押しよせたもうひとつの時代のスーパー・ヒロインといえそうです。
 しかし、もともと富士山には女神の姿が見え隠れしていたようです。山上に白衣の女神が舞っていたという言い伝えが、すでに平安中期に、『本朝文粋』におさめられた都良香*ミヤコノヨシカの「富士山記」にしるされています。そしてその150年ほど前の900年ごろには、有名な『竹取物語』がまとめられており、だれでも知っているそのストーリー展開では、「かぐや姫」が天の羽衣をまとって天上に去ったあと、帝は手元に残された不死の霊薬を、天にもっとも近い山のいただきで燃やすように命じたのです。物語はこう結ばれます。
「その山をふじの山とは名づけける。その煙いまだ雲のなかへ立ちのぼるとぞ言ひ伝へたる」
 こうした物語の世界をうけて、学者たちが大まじめで、富士山の御神体が「かぐや姫」であるか「木花之佐久夜毘売」であるか詮索したこともあったというのです。
 そして明治になると、1,300余の浅間神社から仏教の臭気は吹きとばされて、その祭神の名はコノハナノサクヤヒメノミコトに、みごとに統一されるのです。大半はそれを木花開耶姫命としたのですが、本家本元の富士山本宮浅間神社では「浅間大神*アサマオオカミと御名をたたえまつる木花之佐久夜毘売命」としています。――

●富士山への素朴な信仰

 ――さて、上位8社の浅間神社のうち、山梨県で県社とされた3社が残りました。そのひとつは河口の浅間神社で、これは甲府から鎌倉往還をたどって御坂峠をくだった河口湖の湖畔にあります。同じ湖畔でも、勝山の浅間神社が南岸の溶岩上にあるのに対して、こちらは河口湖の北東のすみになります。
『延喜式』によると、平安時代中期にはすでに河口は宿駅として馬3頭を置いていたといいますから、その時代には表街道の重要な地点であったことが想像できます。そしてまた、この旧河口村が周囲に先がけて発展したであろうということは、早くから水田がひらかれていたことからもうかがえます。
 そういうことから考えて、河口の浅間神社が、このあたりでは、現在の印象よりはずっと重要な存在であったのはたしかでしょう。しかしやはり、河口の浅間神社のもっとも特徴的なところは、富士吉田の浅間神社とともに、富士講によって発展したことです。河口湖からの船津口登山道は、江戸中期までには吉田口にはとてもかなわぬほど水をあけられてしまいますが、それでも河口には130軒余の富士講の御師がいて、明治に至るまで、檀家まわりと富士登山の宿坊経営とで生活を成り立たせていたといいます。
 河口湖の中心集落ともいうべき河口に130軒の御師がいたのに対して、江戸後期の富士吉田は400〜500軒であったといわれます。ちょうどそのころ、滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』を書き、杉田玄白が『蘭学事始』をあらわしたころに富士山に登る人たちの数は毎年(夏の開山期だけで) 一万五千人ぐらいだったようです。そのうちの半分が吉田口(と船津口) からの登山者で、残りを須走口、須山口、大宮口で分けあっていたといわれます。それだけの圧倒的な実力を背景にして、宮士吉田の浅間神社はおおいに発展したということができるでしょう。富士宮の「本宮」に対して「北口本宮」をとなえたのは、やはり富士講の時代であったと思われます。
 ただ、奇妙なことに気づきました。富士吉田の浅間神社「富士浅間神社」のある場所には、もともと地主神として「諏訪神社」があったというのです。現在、浅間神社の摂社として境内にある「建岡神社」がそれで、有名な「吉田の火祭り」は、もともとこの諏訪神社の神事だといわれます。そして浅間神社の背後の森は、いまもなお「諏訪の森」とよばれています。
 それだけではありません。富士吉田にあるもうひとつの浅間神社との関係もおもしろいのです。現在、富士吉田市浅間町に下吉田浅間神社というのがありますが、これは「新倉浅間神社」とか「小室浅間神社」ともよばれたものです。新倉というのは元禄年間の河口湖排水トンネルの完成による新田開発とかかわる名前であるように思われますし、小室というのが登山道2合目の(勝山の御室浅間神社の本宮とされている) 小室浅間神社と同名であるのに注目したくなります。この種のニックネームは歴史の断片を固定させたものと考えることもできるからです。
 この下吉田の浅間神社は明治5年に上吉田の「北口本宮」とともに(つまり、あい並んで) 郷社とされました。そして上吉田の浅間神社だけが、のちに県社に昇進するのですが、一方では下吉田の浅間神社はもともと上吉田と下吉田、それにそのあいだの松山とをあわせた3ヵ村の産土神*ウブスナガミであったといわれているのです。のちに各村ごとに神社を分けたために、下吉田1ヵ村の氏神となったというのです。
「さすればその鎮座は、上吉田の浅間神社よりも古いことになる」
「富士の研究」第2巻の著者(宮地直一、廣野三郎) はカッコでくくってそう述べ、さらに『甲斐国志』の一文を紹介しています。それによると、その神社が下吉田1ヵ村のものとなったのちも、上吉田で子供が生まれたときには、100日目に氏神におまいりするにあたって、まず下吉田の浅間神社からまいったということです。
 そうしてみると、勝山の浅間神社(御室浅間神社里宮) というのは、性格的には下吉田の浅間神社と似ているように思われます。それははじめ河口湖を中心とする旧6ヵ村、つまり船津、小立、勝山、長浜、大石と鳴沢の産土神であり、のちに勝山村1ヵ村の神社となったといいます。そうだとすれば勝山の浅間神社は村ざかいにあったというより、その広がりの中心点にあったというべきでしょう。
 地主神としての諏訪神社といい、村々の産土神といい、北麓の浅間神社には土地の人びとの素朴な信仰のありさまが色濃く伝えられているようです。そういう素朴な信仰を主軸にして、私は勝山の浅間神社の成り立ちを、私なりに想像してみました。
 いつの時代にか、だれかが富士山中にほこらを建てました。それは社記にしるされているように699年(文武天皇3年) という遠いむかしであったかもしれませんし、あるいはまた、『甲斐国志』に触れられているように、貞観の噴火(864) のあとの「浅間*アサマ明神祠」であったかもしれません。(問題のその神社がどこに置かれたとしても、祈祷所のひとつは山中にもうけられたと考えるのが妥当でしょう)
 または、各種の史科に見えるように、鎌倉時代初期に覚実覚台坊という人が願主になって、ヤマトタケルの神像をおさめたものにはじまるのかもしれません。
 いずれにしても、それが深い信仰からにせよ、一時の気まぐれからにせよ、社殿を建てるのはそれほど困難なことではないはずです。困難なのは、それを維持していくことです。いくら由緒があっても、社領や氏子をもたない神社で、しかも山中にあるとすれば、ほどなく朽ちてしまうことでしょう。
 参詣する人もなく、朽ちかけたやしろだけがそこにあったとします。地元の人たちにとって、それは平気で放置できるものであったでしょうか。なにか悪いことが起きたとき、そのことを思い出さずにすませられたでしょうか。建て直すだけなら、やはり、それはそう困難なことではなかったでしょう。しかしそれを維持しつづけようとするのであれば、どの神社がそれを管理するか決めなければ、気まぐれだけではとても無理なことだったにちがいありません。
 私は勝山の「里宮」で、あらたに移築再建されたというキンキラキンの「本宮」神殿をながめたときのことを思い出します。こんな大金をかけて、なんてバカバカしいことだと思わずにいられませんでした。もとからあったその場所で、朽ちかけたままのやしろを見るほうがもっといいと思いました。しかしいま、そのとき読んだ石碑の文が、まったく別のニュアンスで理解できるように思います。
「(吉田口登山道2合目の) 本宮神殿は湿地帯のため、(スバルラィン開通による) 登山道荒廃による管理困難のため、かかる文化財の汚損腐朽をおそれ……」
 つまりそれは、「本宮」の維持に対する地元の人びとの努力の、最終処置として受けとるべきだと思うのです。これまでは人びとの努力によって、吉田口2合目の「本宮」はそこにありつづけることができたのです。いまその神殿は「里宮」の境内に移転されて、そのかわり、本宮のあった神域は「勝山村飛地」として5万分の1地形図に明示されて、末ながく安堵*アンドされることになった、と私の目には見えました。――

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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