毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・23・山陰海岸国立公園」
1995.3――入稿原稿


■国立公園物語…山陰海岸

●松葉ガニの季節

 冬の山陰海岸といえば海の幸、とくに味覚の王者といわれる松葉ガニが魅力です。取材をした初冬の日曜日にはどの港でも朝市が開かれ、車で近づいていくと交通整理のおじさんたちの指示によって、有無をいわさず大駐車場に誘導されてしまうのです。早朝には、まだそれが大げさな感じでしたが、9時を過ぎると来るわ来るわ、京都、大阪、和歌山からのマイカーと、兵庫県では神戸ナンバーの車が列をなして、どの港でも駐車場はなかなかの混乱でした。
 山陰海岸国立公園は西は鳥取県の鳥取砂丘、東は京都府の丹後半島にかかっていますが、大半は兵庫県の日本海岸、但馬の海です。地元の車は姫路ナンバーをつけていますから、それに気づくまでは道という道が松葉ガニを求めてやってきた京阪神の車で埋め尽くされてしまったというふうに見えたものです。
 その日曜日の昼食どき、カニフェアだのでにぎわう観光レストランを敬遠して、静かな町で食堂を探してみるとほとんどが休み、とりつく島もない感じです。少々奮発してもよさそうな上品な和風レストランを見つけたので飛び込んでみると予約でいっぱいとか。ようやく半開きの食堂でカツ定食にありつけました。
 海岸一帯の温泉旅館や民宿も松葉ガニ景気にわいているようでしたから、私は城崎*キノサキ温泉の内陸にあたる豊岡市でようやくガラガラのビジネスホテルを見つけて、そこに泊まったものでした。
 国道沿いの港町は松葉ガニフィーバーなのに、それ以外の町や村は静かな冬の休日という鮮やかなコントラストの中をさすらっているうちに、だんだんと山陰海岸のさびしさが身にしみてきたのです。ひとたび白いものが落ちてくれば、それはひたすら、厚く降り積もっていくといいます。
 車を走らせながら感じるそのさびしさは、あるいは圧倒的に人家が少ないというところから来るのかもしれません。西のはずれにあたる鳥取砂丘から海岸に沿う国道178号を走ると、町らしい町の最初は浜坂。鳥取から約30kmです。次の町の香住*カスミまでは国道で約20kmですが、浜坂から断崖上の僻村三尾*ミオを経て有名な余部*アマルベ鉄橋のところまで展望絶佳の林道ツーリングを楽しむと約30km。
 香住からは有料の但馬海岸道路の20kmを含めて約30kmで円山*マルヤマ川下流の城崎温泉に至ります。そして京都府に入って、久美浜を経て網野までがやはり約30km。
 このように30kmごとの目盛りで山陰海岸を測っていくと、その間に出てくるのはほんとうに小さな漁村ばかり。山陰本線でつながれる前は「陸の孤島」という感じの村が点在するばかりであったと想像するしかありません。
 その中で浜坂という町に、私は特別な印象をもちました。車が1台やっと通れるような狭い道に入っていくと、どの道もまっすぐということがありません、見通せない路地を不安な気持ちで進んでいくとたいていT字路があって、かろうじて抜け出られるのです。
 伊勢志摩国立公園の古い漁村で同じような迷路を体験しましたが、どこか印象がちがいます。どの道も狭いだけでなく、とてもすがすがしいのです。
 道の掃除が行き届いているというのもあるでしょうが、どの家もきちんと暮らしているという感じがそのすがすがしさを支えているということに気づきました。
 他を圧して立派という家が見えなかった代わりに、生活の張りを失ったような、傾きかけた家も見えません。商店にしても、シャンとして日々の商いをきちんとやっていることが一目でわかるたたずまいなのです。惰性で商売をやっているのではなくて、つねにお客さんの目を意識してエリを正しているという感じが、駅前の表通りから裏道まで、どの店にもあるのです。
 国立公園の取材旅行もすでにこれが23番目、これほど表・裏のない町を見たことはありませんでした。町立の加藤文太郎記念図書館をのぞいたのは、それが『単独行』で知られた登山家を記念するものであると知ってのことではありましたが、それよりもこの「浜坂」という町の素性を知りたいという気持ちのほうが先でした。
 残念ながら図書館の郷土に関わる本のコーナーには見るべきものがなかったのですが、となりの「浜坂町先人記念館・以命亭」でいろいろなことがわかりました。

●山陰道三大祭りの川下*カワスソ祭

「以命亭」で購入した本の中で出会った前田純孝*スミタカという歌人についてはあとでたっぷり触れたいと思いますが、その前に、この「以命亭」に10代続いた七釜屋森家の5代目五源太が庄屋のときに起こった川下*カワスソ祭の騒動の一部始終をよみがえらせたという小説を読んでおきたいと思います。事件は幕末の嘉永2年(1849) に起きたのですが当時の浜坂村のようすが随所に再現されているからです。本のタイトルは『風の祭・川下祭博打*バクチ騒動記』(1990年、鳥取市・スペース企画) で著者の岡田一衛さんは浜坂の呉服屋のご主人、日本海新聞但馬版の連載小説の単行本化だそうです。
 まずは、久美浜(京都府) にあった代官所から老役人・大庭金蔵が博打の取り締まりに派遣されたという場面です。
 ――金蔵は立ちどまり、浜坂村を一望に見る。浜坂村は美しい。三方を低い山にかこまれ、海に面した村が樹々のごとくに息づいて見える。金蔵には不思議な光景であった。蝉の声が浜坂村にとどくようだ。
 浜坂村庄屋へ立ち寄ることはやめよう。まず、あの幟*ノボリのはためいているであろう海辺に行くことだと、伴のものに命じて、浜坂村への坂をおりた。
 浜に着いた金蔵には驚くことばかりであった。まずは30間(約54m) にもおよぶであろう長屋である。何するものと問えば、博打小屋だという。この長屋に入るものの数はと重ねて尋ねれば、諸寄村より案内をしてきた番太が200〜300人は軽からぁでと、悪びれたふうもなく答えた。つづけて、このような建物はここだけのものかと、きつく迫れば、これほどのものは建てようにも建てれるものではなく、2つとないと番太は首をちぢめて頭を下げた。
 金蔵は、自らが博打長屋にとうてい力およぶものではないと思い知らされて、どっと疲れにおそわれ、砂にへたりこみそうになった。
 長屋と海の間にある勧進相撲の土俵に立つ四本柱は隆*リュウと天をむかえるようにそびえ、金蔵を威圧する。土俵からわずか離れてすえられている御旅所には、数人の宮司が太鼓を打ち鳴らし、笛さえ吹いている。その周りにきものを尻までからげた女たちが、両脚を股間まで砂に埋め海をながめている。その数は10人や20人ではない。
「何をしてるぞ」
「熱*アツなった砂で尻をぬくめておるですだぁ。女の病いにかからんやあに。なんせ、川下*カワソツ大明神のご神体は鮑*アワビですけえ」
「まことか」
[へえ、昔からの習わしで。効きますけぇ」
 老若の女たちが並び、なかには身ごもった女さえいた。金蔵はこれらの女にさえ、おびえるようであった。
 砂が舞いあがっているとおもえるような混んだ人出のなか、金蔵たちは芝居小屋をのぞいた。筵*ムシロにかこわれた阪東花十郎の呼びこみの激しさに誘われてのことであった。
 入れば花十郎が藤の花を片手に踊っていた。小屋のなかは夏の暑さはもとよりであるが、人の熱気でむせかえり、潮と汗の生ぐさい臭いが鼻をつく。金蔵は袂*タモトで顔をおおい舞台を見ていたが、辛抱できなくて、早々に引きあげた。小屋を出れば海からの風が涼しい。やれやれと扇子であおぎながら、浜坂村中*ナカへつづく浜からのだらだら坂の道を上*ノボる。
 坂の道の両脇には香具師*ヤシ、大道芸人などが並び、大音声*ダイオンジョウにて客を呼ぶのがやかましい。坂の道は浜へ向かう人波がゆるぎないほどに流れ押し寄せ、流れに逆って進んでいる金蔵たちは、人の波をかきわけるのが精一杯で、何ひとつのぞくことさえできない。そればかりか、かえって押し戻されそうにさえなった。金蔵はあえぎながら、
「えらい人出であるのう」
「まんだまんだ、これからで」
「これらのものは、かの博打小屋へ参るのか」
 やかましさで聞こえぬのか、諸寄村の番太は、すれちがいざまの男をさして、
「あのものが、今日の小屋を差配いたしておる、飛鳥野の七兵衛で」
「飛鳥野とは、聞かぬ名じゃが」
「へええッ。飛鳥野を知らんちゃあ。飛鳥野はこの祭りの親分で」
「博打の親分か」
「そうで。七兵衛は2代目の一の子分で」
 金蔵は、七兵衛をとりかこみ人の流れに乗るようにやってくるものたちを見て、とんでもないところへ入りこんでしまったのではないかとおもった。もう引っ返すわけにもいかないが、押し進んで行くには気おくれがした。――
 なぜ浜坂にこれほどのにぎわいが訪れたのかというと、この川下祭が浜坂にイベント景気をもたらしていたようです。町の百貨店・戸田屋の店先が描かれています。
 ――店先に並べていた物のにわかな片づけを見ておれば、近ごろ急に品数も増え、去年の正月前に比べれば品物の種類も200は越えたとおもわれた。但馬の国中でも、これだけの数をそろえている店はない。和平の先を見る目と度胸を据えた仕入れで戸田屋は大繁昌をきわめ、諸寄村に寄った他所*ヨソの国の船方なども、わざわざ浜坂村の戸田屋まで故郷*クニへ持ち帰る土産を求めにやってくる。村のもんはもちろんのこと、近在のもんらまで、珍しいものは戸田屋へ行けと出かけてくるのであった。
 戸田屋は児島屋屋敷の前にあり、村の勢いがだんだんと東へ伸びていったため、浜坂村の中心になろうとしていた。番頭が4人、手代、丁稚*デッチ、女中、飯炊きなどを入れれば奉公人も20を越し、近在一の大店である。
 久七は感慨にふけっている。弘化(1844年) に入って戸田屋の商いは伸びに伸びた。村のもんの暮らし向きも凶作のわりにぜいたくとなり、褌*フンドシ一つをとっても麻のものから綿の晒*サラシとなり、裸足でいたものが草履をはくようにさえなったり、娘たちも下駄をはくものが増え、思いもよらぬ世の中になってきた。驚くことは米、酒、油、醤油、味噌までも仕入れて村のもんに売りはじめ、身を飾るためのぜいたく品が売れはじめたことも、久七には思いがけぬことであった。――
 時代の変化に合わせるように急激に規模を拡大してきた川下祭の行く末を心配していたのは庄屋の七釜屋五源太でした。場面は「以命亭」。呼ばれたのは年寄役の和泉*イズミ屋助右衛門、清富*キヨドノ屋新左衛門、藤田屋丈七、それに百姓代木実*コノミ屋平助の4人です。
 ――五源太は、あらかじめ申し伝えようと考えていたことを述ベ、ひと息入れると、
「さて、ことし川下祭*カワソツサンのことですが、さっきから話しておりますように、ことしは格別、村中が倹約しなければならん年でもあり、華美なること、派手なことは禁じられてもおりますゆえ、慎まなければなりますまい。村のもんらに触書を出したいと、かねてより思っておりましたが、いかがでしょうかな」
「そうですなあ、川下*カワソツさんの博打もこう派手になってきますと、さすがの代官様もお目こぼしというわけにはいかんやぁになりまひょう。去年までは岡崎様がほどのええお人だったけぇようしたもんの、今度の増田様はなかなか融通のつかんお人と聞きますけぇ、こりゃこのへんでいっぺ慎*ツツシまんといけますまい。庄屋さんのいいなることはもっともでしょう。なあ、清富屋はん」
 助右衛門は庄屋五源太の提案に順じた。清富屋新左衛門は、ここで賛意を続けるのはたやすいことであったが、去年の川下*カワソツさんの脹わいを想うと、触書ぐらいでおさまる事ではないこと、また、もはや祭りを楽しみにあれこれと想いを巡らしている村のもんの気持ちを簡単にしぼめることなどできることではない。むしろ触書でもすれば、かえって村役は不評を買い、これから秋にかけての諸々*モロモロの務めが難しくなるのではなかろうかと案じた。
「庄屋はんのおっしゃることはもっともでございますが、これは一度、村役のみの話ではなく、児島屋はん、越前屋はん、仲屋はんらの気持ちもうかがったうえのほうがええと思いますが」
「うん、清富屋はんはええことをいいなる。触書だけでは村のもんらはいうことを聞きますみゃぁ」と助右衛門は新左衛門を助けた。
「川下*カワソツさんは村のもんらの祭りだけでは、もうなあなっておる。山陰の祭りじゃ。まさか、山陰道全部の村々に札を立てて歩くわけにもいかず、たとえ村のもんが慎んだとしても川下*カワソツさんに来るもんたちをとどめることはできますまい。これはなかなかの難儀じゃ」
 藤田屋丈七は暑さのために息苦しいのか、巨漢を波打たせ、とぎれとぎれにいう。このとぎれとぎれが、いかにも難儀であるかのように伝わり、一同はそう納得した。丈七は時世*トキとともにここまできた賑わいであるから、時世にまかせてとことん川下*カワソツさんを賑やかし、賑わいのてっぺんを見るまでやってみるのもええではないかと思っていた。
「出石*イズシの初午*ハツウマさんの博打で負けた者が、お礼参りをする。因幡*イナバのかくれ弁天さんの博打の続きもある。近在のもんも、この日が楽しみで1年を暮らしているといやぁ大袈裟*オオゲサだが、ここまでくれば手のつけようもありますまい。浜坂村はこの川下*カワソツさんで潤ってきた。この近郷でこれだけの村になったのも川下さんに落とす銭*ゼニで潤ったけえです。庄屋さんもわかっておられることだ。使う銭を抑えて村をようするか、入る銭を稼いで、ええ村にさせるか、こりゃ天秤*テンビンだ。ここでだ、銭遣うほうが勢いがあるに決まっとる。遣おうと思っとるもんらの懐を閉めるのは、よっぽどの骨の折れることじや。庄屋はん、いかがでしょうかな」
 丈七は五源太の意向をよく知っていて反論した。――
 こうして祭りのエネルギーが大きなピークへと向かっていくのでした。浜坂はそのとき、たしかに但馬海岸の中心であったようです。

●よみがえった絶望の歌

「以命亭」には『復刻版・翠渓*スイケイ歌集』と『前田純孝*スミタカ(40周忌追悼記念刊行) 復刻版』(いずれも浜坂町・前田純孝の会発行) がありました。
 この前田純孝という歌人を全国的に有名にしたのはテレビドラマでした。早坂暁*ハヤサカアキラシリーズの脚本集の中に『新・夢千代日記』(1984年、大和書房) があって、そのあとがきは前田純孝のことで終始しています。
 ――『夢千代日記』は、いつも余部*アマルベの鉄橋からはじまる。
 城*キの崎をすぎて、いくつ目かの小さなトンネルを抜けると、いきなり空中に投げ出された思いがする。それが余部の鉄橋である。41mの高さに、鉄サクもなく裸の橋がむき出しになっている。
 息をのんで見おろすと、小さな漁村がある。数十軒の家々が身を寄せ合うように建っており、可憐とも見える防波堤を日本海の荒海に突き出している。それだけである。それだけであるが、なんとも胸の痛くなるような風景である。
 列車は葬列のようにゆっくり鉄橋の上を進む。横なぐりの風を受けているからだ。ひときわ強い風が吹く時はトンネルの中で待つのだという。
 ここを過ぎると夢千代の住む里はもう間近い。
 余部の鉄橋は、明治44年に完成している。山陰線の最大難所として最後の工事であった。数千人の人夫たちが全国から集まってきた。
 人夫たちは鉄橋の高みから戯れに猫を落した。猫は死ぬ。そんな荒くれた人夫たちが夜を徹して作業をした。
 工事に使う鉄材や木材は近くの諸寄*モロヨセの港に船で運ばれてくる。いつも淋しい漁港であった諸寄は昼となく夜となく人夫たちの騒がしい声に満ちあふれている。その騒がしい声を聞きながら血を吐いて死んでいった歌人がいた。その人の名は翠渓*スイケイ――前田純孝である。
 私はある日、諸寄の海辺を歩いていた。日本海の淋しい漁村には珍らしい石碑が立っている。遭難の碑かと思った。冬の日本海は荒ぶれて毎年のように漁船が沈む。ところがそれは歌碑であった。自然石にこう刻んである。
   いくとせの前の落葉の上にまた
   落葉かさなり落葉かさなる
 なんとも淋しい歌である。
 署名が前田純孝となっている。残念だけれどその名前に記億はない。東京に帰って文芸辞典などをひいてみても、その名前はない。地元に訊いてみて、やっと判った。
 前田純孝は明星派の歌人であった。明治13年(1880)、あの諸寄の港に生まれ、表日本へ出て東京高等師範を卒業した。与謝野鉄幹、晶子の門下となり、東の啄木、西の純孝と呼ばれ、のちには西の啄木とも言われている。
 大阪夕陽ヶ丘高女の教師となり、陽光にあふれた生活にふみ出した頃、肺結核になった。そのころの肺結核は不治の病である。
 純孝は新妻と、うまれたばかりの娘を表日本に残し、ただ一人故郷諸寄に帰ってくる。闘病とはいうものの、死ぬのを待つだけの帰郷であった。
 諸寄の家には、継母がいた。誰もが忌み嫌う業病とはいえ、純孝はロクな食事も与えられなかったようだ。
   病めるもの 世に用はなし
   かくの如*ゴト 我は思へり
   汝*ナレも思ふや
 純孝は辛い日本海のひと冬をすごし、明治44年(1911) 9月に死んだ。血とシラミにまみれながら、それでも短歌をつくり続けている。吐血の歌といっていい。
   悲しみが来て 骨かぢる
   その響うつす
   即ちわが歌はなる
 私は、この忘れられた歌人と、夢千代とを重ね合わせて『新・夢千代日記』を書いた。夢千代の病いも、不治の病である。
 夢千代の里と諸寄の港とは車で十数分である。
 また、山のほうから夢千代の里に入る峠にも、前田純孝の歌碑が建っている。その峠の名は春来*ハルキ峠。
   牛の背に 我ものせずや草刈女
   春来三里は あふ人もなし
 夢千代はことしの冬も、どうやら生きて越したようである。――
 いまは浜坂町に入っている諸寄は但馬でもっとも早く開けた港といわれ、いまはもちろん水深200mの海底から松葉ガニをからめとる底引き網の中心漁港となっています。前田純孝はその諸寄村の庄屋の家系に生まれ、但馬出身の秀才として東京高等師範に進み、浪漫派の先駆『明星』で絢爛たる才能を披露します。
 しかしそれを支えたのは没落してほとんど無一物になっていた実家ではなく、地元の教員となった1歳違いの異母兄の、ささやかな給料からの援助でした。その兄が結核で倒れ、つづいて純孝。純孝は東京高等師範の仲間に頼んで唱歌を作詞、その原稿料で惨めな日々を送るのですが、その病の日々を支えた歌が、ここでいう前田純孝の歌なのです。
『夢千代日記』を書いている間、早坂暁さんも病に翻弄されていたといいます。『新・夢千代日記』のあとがきが前田純孝との出会いに終始している謎は、『夢千代日記』のあとがきを読むとわかるような気がします。
 ――もう一つ、正直に白状すると、夢千代を死なせると、私自身も死んでしまうような気がしていたのです。
 夢千代を書きはじめてから、これでもか、これでもかといわんばかりに病気になった。胃を切り取り、胆嚢癌*タンノウガンと診断され、心筋梗塞*シンキンコウソクで倒れた。何度も、これまでだと、本人も思い、周囲もそう考えた。その中で「続・夢千代日記」「新・夢千代日記」と書き続け、夢千代が「やっと今年の冬も、生きて越せたようです」と語る時、それはそのまま私自身の実感でもあったのです。――
 そのような決定的な出会いがあった陰に1冊の歌集がありました。歌人・前田純孝をよみがえらせた『翠渓歌集』(1913年、葛原滋) には学友の矢澤邦彦さんが次のような経緯を書いています。
 ――「文学だけは御互に忘れぬ様に」斯*コういふ常套*ジョウトウ語を言ひかはして君は大阪へ私は福井へと東京の地を離れねばならぬ時が来た。明治39年(1906) 4月。東京を去る事の忌さは誰も同じ事である。君に若*モし学校経営者といふ様な実際的方面が無かつたなら君は或は4年間を棒に振る考を起したかも知れぬ。明治の文壇はもつと明かにもつと大きな詩人前田翠渓を認識し得たかも知らぬ。
 けれども事実は事実である。「伊賀先生が来いといふから行く事にした」と君が淡い愁を面に浮べて私に語つた通り大阪夕陽丘高等女学校の首席教諭となつた。これからの前田君は永久に直接私の前に現れることが無かつた。極めて遠々*トオドオしい手紙の往復とそれから君の歿後に残した遺稿とによつて君の個性が如何に発展したかを忍ぶのみである。
 夜に入つても果てぬ執務−唾眠不足−勤労過度−結婚−新家庭。元来蒲柳*ホリュウの質であつた君に如何してこれだけの重荷が負ひきれよう。肋膜*ロクマク炎の再発の果が肺結核と宜告せられて令閨*レイケイの実家、明石の町へ転地したのは明治42年(1909) 10月の事であつた。
 学校を放れても幾許かの金は旧生徒の義侠から贈られはした。併し肺結核といふ大火坑を控えてゐてはそれ等は殆んど何等の足前にもならなかつた。生活難は忽ちに水雷を喰つた船底へ潮の寄せる様に押しよせた。そこで君は必然的に詩歌にもどつて来た。詩歌を以て生れ詩歌を以て死ぬ。是が君の運命であつたのだ。
「葛原滋」「佐々木信綱」この2人の名は晩年の君に最も深い印象を残したに違ひない。君の短歌は「心の花」に、君の歌詞は色々の雑誌や出版物に絶間なく載る様になつた。小供の為めの気軽な気の利いた小曲は幾個となく成つた。君は此等によりて辛じてパンを得られた。
 明治43年(1910) 5月。突然君の歌が「教育」誌上に載つて来た。君が郷里但馬に帰った事を私は初めて知つた。君の哲学が悲しい悼*イタましい色を滞びて爛熟して来たのに先づ驚かされた。勿論君は初めから一種の哲学者であつた。一種皮肉な徹底的な人生観は君のあらゆる詩歌の上に特異な影を漂はしてゐる。殊に38年(1905) 以後本郷弓町の寄宿舎に孤独の寂寞*セキバクを味ひながら、蝸牛庵と取り澄した頃からは一層の鋭さと寂びとを加へては来たが、不治の病と生活難を相手にして悪戦苦闘を統けた今、非常な天才にして初めて到達し得る如何にも深い鋭い烈しい真摯シンシな切迫した人生観に、大飛雌を遂げてゐた。最早や彼の遊戯の跡は何処にも見る事が出来ない。君は人生其物*ソノモノの詩人となつた。云術の為めの芸術から、生の為の芸術に達する為めに、君は払ひ得る犠牲をば悉く捧げたのだ。
 とこれまでは考へた私も、君の生活難や家庭の事情がどれほど暗澹*アンタンのものであるかは知り得なかつた。洞察の明を欠いた月並文句の私の手紙に、君は下の様な返事を呉れた。
「その後とてもまづ経過は悪い方でなく、1日づつの生活を繰返し繰返して暮してゐます。明日はどうなるか? こんな事を考へる余裕を持つてゐません。私には今日のことを考へることが必要で、しかも充分の重荷であるからです。元来私の家は十数代とつづいて代々荘屋をつとめて居ましたが、今では見る影もない様に零落し、漸く父が村長の給料を以て衣食してをるといふ活計です。それに私が2年越の病気ときてをるから、とても話になつたものではありません。然し貧といふものは、心の持ち様で、左程苦にもならないものです。
 唯一つ私を絶えず悲しませ怒らせるのはホームの風波といふことです。之を話せば、自然、子たるの礼を失ふことになりますから、私はこれをお話しいたすのを憚*ハバカりますけれど、我が○とよばるるものは、我を産んだ人でもなく、我を育ててくれた人でもなく、身元を洗へば一漁夫の娘といふので大抵はお察し下さい。

   この六月有りは有りけり
   ガラスもの壊れし上を踏む心地して

   我が床に針など立ちてあらざるや
   かかる事思ふその夕より

   似てあれば人と思ひしあやまちを
   悔ゆる計りぞ我れが涙は

   介抱をするせぬといふむつかしさ
   蓆*ムシロにのせて途*ミチに捨ておけ

これ等の歌をご覧下さらば、鋭敏なる兄の頭には、何物か響くものが有ることと存じます。(下略) 」
 字書には「火宅」といふ文字が載つてゐる。君は正しくその空しい詞に内容を充たす為めに生れたのである。私は此手紙を読むと共に、直ぐに、さう思つた。けれども其想像も1年の後、遺稿として病間の苦吟600首と、色々な手帳に飛び飛びに記された日記とを読むまでは実際の100分1にも及び得なかつた。
 日あたりの悪い物げない裏座敷。病人はもう2年越、髪は延び放題のびて肉気と言つたら全くこそげてて取つた様。細い面は灰の様に蒼い。目の球は天井を見つめたまま。黴*カビの生えた古畳には所々赤黒い斑点がある。取り散らした書物の上にも原稿用紙の上にも赤黒い斑がベタベタとある。「あんなものは早く……」表の方で棘らしい声が言ふ。病人はつと骨ばかしの手を伸ばして原稿用紙に触れた。「自分は自分で生きて見せる」物言はぬ唇がふるへる。……こんなにして君は生きて居たのだ!
自分は自分で生きて見せる。此考は非常に強かつた。
「寝てゐて出来る仕事ならばどんな事でも世話をしてくれ」
 これ以上には葛原氏にも頼まなかつた。私が同窓からの醵金*キョキンを送りはじめた時も如何にもそれを受取るのが心苦しい様であつた。其中で君は44年(1911) の1月には到頭家庭から逃げ出して乳母の家に入つた。郷里なる寓居といふ矛盾した語がかくて出来た。
 7月以後には全く音信が絶えてしまつた。送金の受取りも来なかつた。9月になつても便りがない。月末になつて、病の為めに明石に残つたまま、かつて病床をも見舞得なかつた令閨の所から手紙が来た。「25日に息を引き取りました」かくて君の一生は幕を閉ぢた。後には美津子といふ女の子1人がある。
   なれを見て汝が父母は
   霊魂の不滅を信じ涙流しぬ
 君は最後の瞬間まで此歌を忘れ得なかつたらう。
 半年ほどすぎて遺稿が全部葛原氏の所へ送つてこられた。見まじと思ひながら遂*ツひ幾冊の日記にも目を通した。書いては消し消しては書いた其文字は1字毎に碧血の凝結であつた。
 歌集も詩集も高師在学中のはすつかり整理が出来てゐた。晩年になるほど纏*マトまつてゐない。それでも最後の2年間のはチヤンと番号が打つてあつて如何にも其*ソノ衰へはてた全力を此の一面に籠めてゐたことがわかる。
 東京時代はむしろ長詩に重きを置いてゐた芸術の為めの芸術時代。大阪時代は最も持徴のない時代でまづ低徊時代とも言ふべき時。郷里時代が最も徹底した人生の為めの詩歌時代。かう明瞭に作物の上で区別せられる。出来るならば此*コノ三時代を区別して世に公けにしたい。
   唐錦赤い地は皆恋の花
   最後にポタリ本当の血が
 君の一生を私は此*コノ1首の中に見る。君の詩歌の変遷も亦其歌で蓋ふことが出来る様に思ふ。此歌集を読む人もどうか君の本当の血の赤さを見逃さぬ様にして欲しい。――
 義兄亡きあと、孤独な純孝を支えたのは高等師範時代の親友・葛原茂(童謡作家) で、1冊の歌集が世に残されたのは彼の努力のおかげでした。この『翠渓歌集』には上田敏、よさのひろし(与謝野鉄幹)、佐佐木信綱、与謝野晶子といった人々も追悼の文を寄せていますが、歌集は学校時代の友人たちの小さな輪の中で作られ、ひっそりと姿を消していったのでした。
『翠渓歌集』の復刻版には歌人の木俣修さんが序文を寄せています。
 ――前田翠渓(純孝) その文名を知り、その人が明治39年(1906) の東京高等師範学校の国語漢文部の卒業生であることを確認したのは、学校を了えて、富山高等学校在職時代、近代短歌史を書こうと志していた昭和10年前後、『明星』を東京の図書館で見る機を持った時であった。私はこころ動くままに翠渓を知ろうとつとめたが、何の手がかりもないのでその生涯のことなどを詳しく知るよすがもなかった。『翠渓歌集』を見たのは、まだそのあとのことであったが、この歌集は稀覯本*キコウボン中の稀覯本で、いろいろ手を尽したが、手に入れることができなかった。やむを得ず珍本を集めているという某氏に会い、その人から借覧したのであった。その歌を通読して、私はその歌境の特異性に眼をみはった。同時にその作品を通して、あるいは、その集に序した上田敏、与謝野寛、佐々木信綱、与謝野晶子の翠渓推挙の文章、『明星』において親交を結び、行動を共にした平木白星の思い出を綴った友情にみちた文章、そして高等師範学校時代の学友葛原滋(葛原は2級下の英語科学生) の、翠渓への私淑敬慕に発する交遊の中で翠渓よりうけた書簡を公開しての追悼の文章などによって、翠渓の32年のあまりにも悲惨な生涯を知って、異様なまでの感動と同情を覚えたのであった。
 同時に私はかかる悲境の中で、苦闘して励んだその文業の一部が辛うじて、その没後1冊の歌集によって、顕彰されはしたものの、その真価は、当時ほとんどかえりみられることもなくて終り、それからの60年、近代文学史家の史的記述の中にはほとんどその名さえもとどめられなかったことに対して、憤りを感じないではいられなかった。
 ところが昭和33年(1958)、私は未知の西村忠義氏から、翠渓評伝ともいうべき『永遠なる序章』という一本の贈をうけた。吸われるような思いで息もつかずそれを読んで、さらに詳しく翠渓を知ることができたのであった。著者が翠渓と同郷人でかつ歌人、文筆家であるためにその人となりや閲歴に対する記述詳密を極めていて、貴重なものと感銘した。私の翠渓に対する関心はいよいよ深まりを加えたのであった。
 そういった矢先、葛原氏からの電話をうけたというわけである。
 葛原氏は古びた風呂敷包みのずっしりと重い翠渓の遺稿の一束をさげて、茅居に見えられた。久しい30年の疎遠を詫びたあと、早速その遺稿の包みを開いてもらったのであるが、私は名状しがたい感動にふるえた。
 その大部分は和本仕立、墨書の未刊詩集、そして学生時代のレポートと思われる小論の綴り、歌の草稿、それに最晩年の日記と思われるノートといったものである。詩集といっても、各冊それぞれに題名が附されているが、1冊1冊は完成したものではなかった。しかし何とかして詩集を編みたいと考えていたのではなかろうかという意図の推量されるものであった。その一部は、西村忠義氏がその著執筆に際して、葛原氏から借覧されたことのあるものであることも知られた。
 葛原氏はこれを一切君に寄託するから、大へんだろうが調査して、遺稿集を出すことにしてもらいたい。出版費は当時親しかった同窓のものが全部まかなうべく準備しているからよろしく頼む。なおそのあとこの遺稿は君の手許に保管して貰いたい。翠渓の霊も、直系の後輩歌人の君の手に委ねることによって、安らぎを得ること必定だと思うというようなことを、細々と話して帰られたのであった。
 私はその包みを書庫の棚に蔵って、暇あるごとに検するべくつとめたが、その大部分が未定稿のため、どうすれば葛原氏の希望に添うことができるのかと悩んだのであった。――
 結局、その遺稿は編集されることがないまま現在に至っていますが、歌人としての全貌はしだいにあきらかになってきました。
 私が浜坂町の「以命亭」で購入した『復刻版・前田純孝(40周忌追悼記念刊行) 』を見ると、西村忠義さん(当時・神戸新聞但馬総局長) のあとがきがあります。
 ――このたび前田純孝の会の藤田耕葆会長の願いにより、純孝を初めて知ったその本をぜひ見たいという多くの求めに応えて復刻版を出すこととなった。35年目の再版である。すでに私の手許にもない、ざら紙に印刷された、貧しくも充実したその原本を手にし、全文を読み返してみた。当時、地方の一教師であった私の手紙にも誠実に、すばやく応えて下さった著名な筆者たち。その遥かなる人徳を偲びながら、いま復刊の意義の大きいことを改めて、感じさせられたのである。
 前田純孝は、この40周忌から花開いたのである。1字1字が純孝を生のままで知る人々の得がたい生きた資料である。純孝顕彰の原点として、多くの人々に読んで頂きたいと思います。
 なお、文中の明らかな誤植、年代、引用文の誤り等は、私が責任もって訂正しました。――
 昭和55年(1980) に前田純孝生誕百年記念事業として実現した『翠渓歌集』(1913年) の復刻版のあとがきには次のような一節があります。
 ――純孝についてはすでに、西村忠義氏(現神戸新聞但馬総局長) の『永遠なる序章』によって評伝風に、弓削豊紀氏(元神戸新聞但馬総局長) の『虱のうた』によって伝記小説風に、詳しく紹介されております。この両書なくしては純孝を知ることはできないといっても過言ではありません。その意味において、両氏の熱意とご努力に心から敬意を表する次第であります。
 今回この書を発刊したのは、前記両書とは趣を異にし、純孝唯一の著書である『翠渓歌集』が、大正2年にわずか1000部発行されたのみである事実を惜しみ、原本の内容をそのまま復刻することにより、多くの関係者、愛好者にご愛読いただき、広く純孝の人間および文学研究への足がかりとなることを期待したからであります。――
 私が購入したのは復刻版の4版で、これにも西村さんのあとがきが加えられています。
 ――生誕百年を記念する前田純孝顕彰の催しは、大きな波動となって予想外の成果を収めた。55年(1980) の生誕百年祭(4月29日浜坂町諸寄・集落センター) を皮切りにこの年は前田純孝遺作展(5月9日から県立但馬文教府、6月15日から八鹿町民会館)、前田純孝の遺徳を偲ぶ文化展(6月3日から兵庫県民サービスセンター)、56年(1981) には、文化講座・前田純孝を語る(8月25日から村岡町公氏館、講帥は西村忠義・安本恭二) と、しだいに波紋を広げていった。
 59年(1984) には湯村温泉を舞台とする早坂暁作のNHK連統ドラマ「新夢千代日記」(1月15日から10回) の中に、前田純孝の晩年と短歌が放映され、NHKの「兵庫史を歩く」(10月7日)、「前田純孝の生涯」(10月21日)、60年(1985) にはサンテレビ「明治の歌人前田純孝」(l月6日) と続き、NHKラジオでも「話題の招待席」(59年12月21日)、「人生読本」(60年3月l日) で放送された。そのたびに全国各地から歌人・前田純孝のことをくわしく知りたいと、歌人の資料を求める手紙や電話が地元へ殺到してきた。その数は3000通を越え、手持ちの遺歌集の類はたちまち底をついてしまつた。
 この復刻版は、こうした事情から拙著「前田純孝評伝」(健友館刊)、「愛蔵版・前田純孝歌集」(むなぐるま草紙社刊)、「前田純孝年譜書誌資料集大成」(同) とともに、純孝を敬慕する人々の願いに応えて刊行したもので、すでに4版を重ねている。
 再版(復刻) に当たって、大正2年刊「翠渓歌集」の原本および故人の筆稿をも、可能な限り全文を読みなおし、原本の誤植を正し、難解な文字を一部当用漢字になおし、ルビを付している。――
 前田純孝は華やかな明星派の歌人の時代、経済的な面では1歳年長の異母兄加藤貞雄さんに完全におぶさっていたようです。この異母兄の一生はまるで純孝の影のような存在に見えてなりません。不治の病に倒れてからは学友の葛原滋さんの奔走によって唱歌の作詞家として収入を得ており、純孝の歌はそのときに純化の高みに達したのです。葛原さんによって唯一の歌集が刊行され、遺稿が保存されたのです。
 そして死後、郷土の後輩歌人・西村忠義さんの半生をかけた努力によって、前田純孝は真のデビューを果たすことができたのです。
 ひとりの不遇の歌人をめぐって山陰の風土が見えてくるように私には思えます。

●2人の“但馬牛”

 但馬地方で飼われている和牛の黒牛を「但馬牛」と呼ぶのだそうですが、神戸に出て神戸牛となり、松阪に出ると松阪牛となるのがその但馬牛。但馬牛こそ但馬人のイメージであると結論づけているのは森功さんの『但馬の自然と人物』(1994年、豊岡市・但馬文化協会) です。
 ――但馬人のイメージとしては礼儀正しい、友情が厚い、朴直、忍耐心、慎重な行動、節約心、働き者などプラスイメージが定着しているようであるが半面封建性、決断の鈍さ、非創造性、吝嗇家などと強調し指摘する面もある。
 総合的にはやはり但馬人は「但馬牛」と表現するのが妥当な気がする。但馬牛のイメージとしては頑健、忍耐力、勤勉、牛歩、温厚等の資質であろうが個人差の大きく現れることは言うまでもない。――
 この本には名僧・沢庵以下の15人が取り上げられています。前田純孝ももちろん入っています。そして驚くことに、山国ではあっても低山ばかりのこの山から日本有数の登山家が2人も名前を並べています。国民栄誉賞の植村直己さんの名は広く知られていますが、加藤文太郎という名は一般の人にはほとんど知られていないかもしれません。しかし山登りにあこがれた人は、必ずといっていいほどこの人の『単独行』を手に取ったことがあるはずです。なお、今回気づいたのですが、この本は二見書房の山岳名著シリーズの1冊として現在も版を重ねているのですが、その中に『単独行』初版の発行に関するデータはありません。新田次郎の『孤高の人』でも、最後に――参考文献としては加藤文太郎著「単独行」を使わせていただいた――としかなく、出身地浜坂町の町立加藤文太郎記念図書館のパンフレットには『単独行』さえ出てきません。遺稿集ともいうべき『単独行』は、いつ、だれがまとめたものなのでしょうか。きちんと調べてみなければいけないと思いました。もっとも最近は新田次郎の小説『孤高の人』によって広く知られているいるわけですが。
 その『単独行』のなかに「単独行について」という1文があります。
 ――我々は何故に山へ登るのか。ただ、好きだから登るのであり、内心の制しきれぬ要求に駆られて登るのであるというだけでよいのであろうか。それなら酒呑みが悪いと知りつつ好きだから、辛抱ができぬからといって酒を呑むのと同じだといわれても仕方があるまい。だから我々は山へ登ることは良いと信じて登らなければならない。山へ登るものが時に山を酒呑みの酒や、喫煙者の煙草にたとえているのには実に片腹痛いのである。
 もしも登山が自然からいろいろの知識を得て、それによって自然の中から慰安が求めえられるものとするならば、単独行こそ最も多くの知識を得ることができ、最も強い慰安が求めえられるのではなかろうか。何故なら友とともに山を行く時はときおり山を見ることを忘れるであろうが、独りで山や谷をさまようときは一木一石にも心を惹かれないものはないのである。
 もしも登山が自然との闘争であり、自然を征服することであり、それによって自然の中から慰安が求め得られるとするならば、いささかも他人の助力を受けない単独行こそ最も闘争的であり、征服後において最も強い慰安が求めえられるのではなかろうか。ロック・クライマーはただ人が見ているだけで独りで登るときよりはずっと気持が違うというではないか。――
 この慰安という言葉は、現在では「幸福感」とか「充実感」という言葉に置き換えたほうがいいかもしれません。より大きな満足を求めるに単独行がその極に位置するというわけです。
 その、闘争心にあふれた単独行者のイメージについてはこう語っています。
 ――わが国にも多くの単独行者を見いだすが、大部分はワンダラーの範囲を出でず、外国のアラインゲンガーの如く、落石や雪崩の危険のため今まで人の省みなかったところを好んで登路とし、決して先人の後塵を拝せず、敢然第一線に立って在来不能とされていたコースをつぎつぎとたどる勇敢な単独登攀者(水野氏著岩登り術) とは似ても似つかぬほどの差があるであろう。
 さてかくいう単独行者はいかにして成長してきたか、もちろん他の多くのワンダラーと同じく生来自然に親しみ、自然を対象とするスポーツへ入るように生れたのであろうが、なお一層臆病で、利己的に生れたに違いない。彼の臆病な心は先輩や案内(人) に迷惑をかけることを恐れ、彼の利己心は足手まといの後輩を喜ばず、ついに心のおもむくがまま独りの山旅へと進んで行ったのではなかろうか。
 かくして彼は単独行へと入っていったのだが、彼の臆病な心は彼に僅かでも危険だと思われるところはさけさせ、石橋をもたたいて渡らせたのであろう。彼はどれほど長いあいだ平凡な道を歩きつづけてきたことか、また、どれほど多くの峠を越してきたことか。そして長い長い忍従の旅路を経てついに山の頂きへと登って行ったに違いない。すなわち彼こそは実に典型的なワンダラーの道を辿ったものであろう。
 かくの如く単独行者は夏の山から春−秋、冬へと一歩一歩確実に足場をふみかためて進み、いささかの飛躍をもなさない。故に飛躍のともなわないところの「単独行」こそ最も危険が少ないといえるのではないか。――
 この文章はここだけ読むと加藤文太郎という人物がかなり傲慢に見えるかもしれません。しかし周囲の人の目には、他人に不愉快な思いをさせるのを避けたいがゆえに1人でやろうとする控えめな青年であったにちがいありません。そしてそれは36年後輩の植村直己さんの実像と大きくオーバーラップしてきます。
 20年以上も昔のことですが、植村直己さんに名前の確認をしたことがあります。「なおみ」の「み」は本当に己でいいのですかと聞いたところ、戸籍では直巳だったのにだれかが間違えたのがそのまま通用してしまったので己でけっこうですという話でした。確認をとっていないので植村さん一流のはぐらかしだったのかもしれませんが、犯人をさがしたら毎日新聞の担当記者が浮かび上がってくるかもしれないと私はひそかに考えています。加藤文太郎さんも植村直己さんも、相手がしゃべることを聞いてしまうと、それをうまくかわせなくて無用なエネルギーを使わされるという共通点があったのではないかと思います。
 もうひとつ両者に共通なのは、垂直の壁に対する闘争心と同じくらい、水平の距離に対する好奇心をかきたてることができたことです。加藤文太郎さんの場合は17歳の大正10年(1921) に職場(神戸・三菱内燃製作所) の遠足会に参加して神戸の山を歩き始めるや、県下の国道・県道を歩きつぶしながら低山をことごとく登り尽くしていったのです。踏破した道路の総延長は1,600kmというところまで地図上で計算していたようです。神戸から浜坂に帰省するときには徹夜で100kmを歩き、かつ山に登ったともいわれます。
 北アルプスなど県外の有名山域に歩を進めるのは大正14年(1939) から、そして昭和3年(1928) 以降には冬山の単独行によって「決して先人の後塵を拝せず、敢然第一線に立って在来不能とされていたコースをつぎつぎとたどる勇敢な単独登攀者」へと成長していったのです。
 加藤さんは単独行という行動スタイルを確立することによって、それまで上流階級の貴族的な遊びの範疇にあった本格的な登山を、1人の労働者が与えられた休暇をフルに活用することによってできるものであることを示していったのです。町の社会人山岳会のパワーが伝統ある大学山岳会を超えるのは第2次世界大戦の後のことですが、加藤文太郎の功績は、サラリーマンの休日登山家としての超人的な軌跡でした。
 植村さんの場合には、最初に飛び込んだのが名門の明治大学山岳部でした。植村さんは本格的な登山訓練からスタートしたのでした。
 植村さんがラッキーだったのは卒業した年の4月1日から「海外渡航の自由化」がおこなわれ、500ドル以内の外貨と往復の運賃があればだれでも外国に出られるようになったことです。植村さんは片道切符組の開国第1陣としてアメリカに渡りました。東京オリンピックが開かれる年のことです。
 大学の山岳部に所属して文部省の外貨枠を利用しないと外国の山を夢に描くことすらできないという時代が終わったのです。植村さんは自分の意志によって世界の山に挑戦できるという新しい可能性のトップランナーとなっていたのでした。登山と無銭旅行とがセットになった単独行によって、自分の行動スタイルを発見したのです。
 4年半ほどの放浪から帰ると、明大ヒマラヤ登山隊に現地参加して登頂者となった実力を買われて、日本山岳会のエベレスト登山隊の隊員となります。1次偵察、2次偵察、越冬隊、本隊とすべてに参加し、とうとう登頂隊員として日本人として初めて世界の最高峰に立ったのです。下積みの雑用からいっさいをこなしてはいあがり、実力で第1アタックの挑戦権を確保したのです。「アニマル植村」というニックネームはまさに「但馬牛」と同意語です。
 植村さんはここで登山家として一流と認められ、以後も登山活動は続きます。しかし南極大陸の単独横断(3,000km)という夢を描くようになると、日本列島縦断3000kmの徒歩旅行を皮切りに、3000kmという目盛のモノサシで単独行の極地探検に進出していくのです。グリーンランドでの犬ゾリ修業の仕上げは3,000kmの単独行でしたし、北極圏12,000kmの踏破は南極大陸単独縦断の資格アッピールのためでもありました。
 日本では犬ゾリによる単独北極点到達が大きく評価されていますが、探検の本場イギリスなどでは、その後のグリーンランド単独縦断(3,000km) こそ超弩級の極地探検と評価されています。しかし植村さんのすごいところはその2つを連続技でやってしまったところです。公平に評価して20世紀の世界的な極地探検家の一人となったのです。
 植村さんは「冒険者」という肩書きにこだわっていました。加藤さんが「単独行者」というのと、それは同じように、私には思えます。深い意味でそうであるというほかに、謙遜と自負とからくる手っ取り早い看板でもあったと思うのです。薄い仮面であったといえます。
 また「食」というものに対する考え方と、それを実行できる胃袋とは、どちらの場合も登山家のものというより明らかに探検家の資質です。
「但馬牛」を代表するこの2人の単独行者は私にはまるで兄弟のように似て見えてしかたありません。

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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