毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・25・利尻礼文サロベツ国立公園」
1995.5――入稿原稿


■国立公園物語…利尻礼文サロベツ

●最北の2つの島

 昭和3年(1928) にレコード会社のビクターが設立されたとき、大蔵省の役人から文芸顧問となって転職したというのが利尻島出身の作詞家・時雨音羽さんです。かなり高齢のなら「どんと、どんと、どんと」で始まる「出船の港」や、名曲「君恋し」をご存知でしょう。その時雨音羽さんが昭和23年(1948) に『島物がたり』という厚い本を書いているのです。
 ガイドブックに多いB6判ながら600ページを超える大著で、発行は稚内町(現稚内市) の宗谷観光協会ですから、全編が微に入り細をうがった利尻・礼文の紹介で埋まっているかと思うとさにあらず、日本各地の島々から欧米の島までが神出鬼没の『島物がたり』なのです。はしがきに「2つの島を世界の島と同じ線上に並べてみた」というのは作詞家一流の比喩ではなくて文字どおり著者の姿勢を示しています。
 発行が戦後の混乱期ということを考えてみると、日本の北のはずれを起点にして世界の島をめぐり歩くといういささか無鉄砲な企画になっているのです。ここでは利尻・礼文に直接触れた部分だけを選びに選んで引用しておくことにしますが、引用にあたって、旧かなづかいはそのままにして、漢字は新字体に直しました。
 ――海水の流れには2つある。1つを潮流と呼び、もう1つを海流と名づけてゐる。潮流は朝夕即ち引き潮や上げ汐によつて起る水の運動である。従つて一定の時間を置いて、その流れが反封になるものである。
 阿波の鳴戸はこの潮流の激しさを示す例としても有名だが、これは潮汐のために、太平洋の水と、瀬戸内海の水との高さが異つて来る。それが水平にならうとして、一方から他方へ流れるところから起こる。
 鳴門の潮流の激しいのはあの狭い海峡を、大きな海水が急に押し通らうとするからで、自然、渦を巻き音を発し、物凄い勢ひとなるのである。
 この現象はひとり鳴門に限らず大小の差こそあれ、海峡といふ海峡のどこにでも起つてゐるのである。
 門司と下関をへだてるあの馬関海峡も、潮時には急川のやうに潮の流れが早いし、対馬海峡も相当なものだが、これは広いからさほどに感じない。しかし広くても津軽海峡の潮流などは、昔から航海の難所といはれるくらゐだ。それはこの海峡を、太平洋の方から黒潮がのぞき、日本海の方から親汐がこれに突進して太平洋へぬけ、たださへ潮の早い岬が、汐首(北海道亀田郡戸井町) 、大間(青森県下北郡大間町) 、龍飛(青森県東津軽郡三厩村) 、白神(北海道松前郡松前町) と4つもあって、それぞれの潮流を噛み合わせてゐるからで、俗に此処の潮流は「三潮の流れ」の名があり、そのときは三角波が立つといはれてゐる。
 鳴門の急潮は時速10哩(約18.5キロメートル)を数えるときがあるとゐふ。10哩といへばてぐり網中の高速船の早さである。この高速船がホスペ(最大馬力) をかけて駆ける早さである。いかに凄いかわからう。
 それほどでない津軽海峡の、潮流の凄さがどんなものか、この海峡を昔の船で渡った人の記事をのぞいてみやう。
「四方より大浪もみ合はするゆゑ、遠く之を望めば絮をちらしたるごとくにて、水面1〜2段も高く見ゆるなり此時に乗り掛かりたる船は、順風といへども、うごく事なく、其以て難儀に及ぶ」(蝦夷行記)
 宗谷海峡も汐はなかなかに早く、わけてもノトロ岬の潮流などは、その時刻になると音鳴りをたてて流れる。
 利尻島と礼文島の間の水道なども、相当早い方であらうが、この程度のものは、潮流としては問題にならぬもので、挙げればあの波静かな瀬戸内海の音戸の瀬戸にさへも「船頭可愛いや音戸の瀬戸で、一丈五尺の艪がしなる」(古謡) といふ歌さへあるのである。――
 そしてもうひとつの海流について。
 ――海流は潮流とは反対に、海の水が絶えず一定の方向に向かふ流れである。この海流には、暖流と寒流の区別があつて、暖流は南の方から北に向つて流れ、寒流は北から南へと流れる。従つて暖流は暖かく、寒流は冷たいから、その受ける影響も自然ちがふことになる。
 日本群島附近の暖流には、有名な黒潮がある。黒潮は台湾の東側を北東に進み、九州の南側で2つに分れ、1つは四国を経て本州の東側に沿ひ、犬吠岬あたりから沖に向つて流れ去る。もう1つは九州の西側から、津島海峡を抜けて、日本海に入り、東へ進んで津軽海峡を太平洋へ抜けるものと、その一部は北海道の西側を通つて宗谷海峡からオホーツク海に抜け、あるものは樺太の西側を更に北へ向かうものもある。
 寒流では北海漁業に最も重要な関係のある親潮をはじめ、オホーツク海にオホーツク海寒流があり、沿海州から朝鮮にかけてはリマン寒流、北鮮寒流などがある。
 親潮はカムサツカの東側から、千島及北海道の東側を下つて、三陸地方の沖合で、南から来た黒潮と衝き当つて混合する。
 親潮系統の水は、水温が低く塩分も少い上に、水が濁つてゐて、緑色を帯びてゐるが、黒潮系統の水は水温も高いし、塩分も多く、非常に澄んでゐて藍黒色を帯び附近の海水とハツキリ区分が出来るのでこの名がある。
 元来海流といふものは、漁業と密按な関係にあるもので、親潮には親潮特有の水族(魚族、藻族、具類其他) があり、黒潮には黒潮特有の水族が居る。
 また異つた海流の境目(俗に潮目といふ) には魚や其の他の水産動物が多く集る。
 宗峡海峡や利尻、礼文両島が世界有数な大漁場であるのも、結局はこの海流がさまざまに入り混んでゐるからである。
 潮目は水の面に浮かんでゐる流れ藻や、水の泡や流氷などが、長く帯状をなして連なるから、船の上からでも容易に知ることが出来る。
 黒潮系統の代表的な魚はカツオで、カツオは水温18度以上の黒潮の中に棲んでゐる。従つてカツオの漁場は、黒潮とともにかはるが、北海道方面へは先づ来ない。
 また暖流系統に属する海藻の代表的なものは、テングサやフノリなどである。ところがこのテングサやフノリが利礼両島の産物になつてゐるから、この両島の海岸を、暖流がめぐってゐることがわかるのである。
 親潮と密接な関係にある魚の代表的なものは、サケと鱈、それにサンマがある。サンマは8月頃千島付近に現はれ、次第に南下して10月、11月頃福島、茨城の沖合で産卵するのである。
 サケも親潮に乗る魚で、カムサツカから千島、北海道へかけて多数にとれ、寒流とともに犬吠岬沖まで回遊してゐる。
 親潮系の海藻では、コンブが代表的なもので、北海道が最も多く産し、津軽半島の付近まで分布してゐる。利礼両島のコンブは、世界的に有名だから、親潮にも恵まれてゐみことがわかる。斯うして島には、2つの潮が交流してゐるので、魚族も多く海藻も多いといふことになる。――
 海流が気候に与える影響も小さな島にとっては圧倒的なものとなります。昭和47年(1972) に刊行された『礼文町史』にはこう書かれています。
 ――当地方の気候は、日本最北端の宗谷地方の気候、すなわち、総じて北洋の気象に支配されることは当然であるが、宗谷地方でも日本海側のため、対馬暖流の影響をおおいに受けている。
 対馬暖流は日本列島に沿って日本海沿岸を北上し、その主流は本州、北海道を距てる津軽海峡に流入するが、一部はさらに北海道西岸に沿って北上し、礼文島、利尻島を囲みながら宗谷海峡を通ってオホーツク海に入り、樺太東岸を南下する東樺太海流と合流して、北海道オホーツク沿岸を南東進し、北見沖で消えている。
 さらにこの暖流の一部は樺太西岸を洗いながら北上するが、間宮海峡南部でリマン寒流と合して消滅する。
 このような暖流の影響により、当地方は我が国の北端にありながら、内陸の気候に比ベて比較的温暖であり、各漁港とも冬期間凍ることはない。また、オホーツク海から流入する流氷の影響もほとんどない。このような気侯は稚内と同等であり、夏期は冷涼であるが、冬期は道東の網走、釧路などに比較して温暖である。
 反面、道北地方の特徴である四季の区別のない気候となっている。――
 このことは、この最北の地が意外に住みやすい土地柄ではないのかと思わせます。
 時雨音羽さんは『島物がたり』の中で比較的近い過去の風景について次のように書いています。
 ――利尻島も礼文島も、今から50年前には、現在のやうな樹木の乏しい島ではなかつた。殊に利尻は森林の島といはれるくらい、大きな樹木が欝蒼と茂つてゐて、それが海際までだつたと、筆者の母は語つていた。現にその松が到る処に黒々残つてゐるのをみても、それが事実であったことがわかる。
 島を拓くことは先づ樹木を伐り倒すことであると思はれるやうに、人々は無闇と木を伐り倒した。しかもその多くは使用されず、腐るにまかせたものである。筆者の子供の頃、木はだんだんと伐りまくられ、林までは村から相当の距離があつたが、樹木はなほ幹だけが使用され、枝や葉は打ち棄てられて、腐るにまかせてあつたことを記憶してゐる。この良い処を贅沢に使ふといふ習慣は、僅か20〜30年間のうちに、あれほどの森林を、ごらんの通りの殆んど裸山にも等しいものにしてしまつたが、若し海岸線にその頃の古木や樹木が、多少残つてゐたら、島の風景は一層の輝きを増すであらうことは疑ひを入れないのである。
 森林は気候や風士の調和、水源の涵養、士砂防止、防風、防潮、防水、防雪、魚附、或は風致などに必要で、住民の生業をたすけ、保健を増進し、心理的方面にも好影響を与へるもので、島などでは特にその影響が大きいことは、松島の松が島全体を生かしてゐることや、利尻島沓形の自然林が、いかに溌剌とした印象を与へるかを見てもわかる。――

●礼文島のタイムトリップ

 明治32年(1899) 生まれの時雨音羽さんの時代に島の風景は激しく変貌したようですが、それまで島が無人だったというわけではありません。
 時雨音羽さんが語る島の歴史はアイヌ時代にまでしかさかのぼりませんが、となりの礼文島に関しては上下2冊で1,300ページを超えるみごとな発掘報告書が刊行されています。北海道大学の大場利夫さんと大井晴男さんによる『香深井遺跡』で東京大学出版会の「オホーツク文化の研究」というシリーズに加えられています。これは1968年から1972年にかけての調査・発掘の報告書で上巻が1976年に、下巻が1981年に刊行されました。(この報告書は大冊であるためかひとつの段落がたいへん長いので、ここでは引用にあたって、途中で息継ぎのための改行をほどこした部分があります)
 大場さんたちが礼文島でオホーツク文化の核心のひとつと出会う経緯が上巻の序文に書かれています。
 ――すでに『オホーック文化の研究l・オンコロマナイ貝塚』中に詳述したごとく、われわれ北海道大学文学部附属北方文化研究施設は、1966年のその創設以来、オホーツク文化の研究を当面の研究の対象とし、特に北海道北部地域を中心として一連の調査・研究を企画し、実施してきた。1967年、大場はたまたま礼文町教育委員会の招きを受けて礼文島を訪れ、当時香深中学校教諭であり、同佼郷土研究部の指導にあたっていた古川嘉克氏の採集資料によって、ここに報じようとする香深井遺跡がオホーツク文化の研究にきわめて重要な役割を果しうるであろうという予測を抱くにいたったのである。
 こえて1968年、われわれは利尻・礼文両島のオホーツク文化遺跡の一般調査および香深井遺跡の予備的な調査を目的として、礼文・利尻の両島を訪れたのである。以下にも述べるごとく、香深井遺跡の予備調査は、本遺跡の保存状態がきわめて良好であり、予想をはるかに超える重要な知見を堤供しうるであろうことを明らかにした。
 こうした結果に基いて、われわれは、続く1969・1971・1972年度に、引続いて香深井道跡の発掘調査を実施したのである。――
 ――また、われわれは1969〜1972年度の発掘調査期間中にも、断続的に礼文島内の遺跡の分布調査をおこなっている。
 さて、如上の多くの調査によって明らかにされた遺跡は、礼文島内ですでに40に垂んとする数に達している。それらは縄文中期以降、続縄文期、オホーツク・擦文期を経て、近世アイヌ期にいたるものを含んでいる。以下、これらの遺跡について略述しておくことにしたい。以下の記載は、いうまでもなく多くの点で遺漏をまぬがれないであろうが、ほぼ礼文島の避跡群についての概観を果しうるであろうと考えている。――
 このようにして礼文島内の39の遺跡がひとつひとつ紹介された後、礼文島の古い姿が語られます。まずは約20,000年前から8,000年前ぐらいまでといわれる先土器(旧石器) 文化。
 ――いわゆる先土器時代に関しては、これまでのところ、本島からは何らの資料も報じられていない。しかし、北海道本島と利尻・礼文両島の間にある利尻水道・礼文水道は、ともに水深60メートルにみたないのであり、洪積世末の推測される海水面低下によって、宗谷海峡とともに、これらの水道が陸化していたことは当然考えられてよいであろうし、したがって、今後本島でも、先土器時代に属する資料が発見されることは、けっして考えられないことではないと思われる。――
 次は約8,000年前から始まるといわれる縄文文化。
 ――礼文島では、現在でも、また後に述べる香深井A遺跡のオホーツク期の資料によってみても、狩猟の対象となる陸獣は、きわめて貧寒であるといわなければならないようである。そうした状況は、おそらく縄文期においてもほとんど変りがなかったと思われる。そして、それは、同じ時期の北海道本島との看過しえない環境の差であったにちがいない。
 これらから考えると、オションナイ遺跡群(礼文島) を遺した人間集団の経済的基盤は、必然的に、北海道本島の同時期的な人間集団のそれとは大きな差をもっていた可能性があろう。――
 本州では2,000年ぐらい前から弥生時代に入りますが、北海道では米作が行なわれないことから続縄文文化の時代に入ります。
 ――続縄文期の礼文島(あるいはおそらく利尻島もふくめて) については、北海道本島との関連を示す資料よりもカラフト南端部につながる資料が、その主体的な位置を占めているといって差支えないであろう。むしろ、ここでは、北海道の大部分の地域のそれとは異なる、地域的なグループの展開が、カラフト南部〜北海道北端部〜利尻礼文両島の地域にあったことを推定してよいと思われる。――
 北海道では1,200年ほど前になって土器の文様に大きな変化が見られ後のアイヌ文化に連なると考えられる人々が北海道全島から東北地方にまで広がります。この人々を「擦文アイヌ」と呼ぶのだそうで、この時代を擦文文化の時代と呼びます。しかし平行して「オホーツク文化」が栄えます。オホーツク海沿岸に「アジアのバイキング」ともいわれるオホーツク人が現われて定着したのです。
 ――オホーツク期には、礼文島が、利尻島とともに、南カラフトから北海道のオホーツク海岸にひろがる、いわゆるオホーツク文化圏に含まれるにいたったことは周知のとおりである。筆者がかつて論じたように、このオホーツク文化圏は、おそらく数百年にわたって、道央・道南部を中心とする擦文文化圏と対峙する形であったものと思われる。――
 礼文島で発見され本格的に発掘された香深井遺跡は、このオホーツク文化の代表的なものとなったのです。
 ――さて、礼文島内でこれまでに知られているオホーツク期の遺跡は、さきにみるようにけっして少なくない。しかし、それらはかならずしも同様な態様・性格を示すわけではないようである。それらのうちでは、本書にその詳細を報じようとする香深井A遺跡が、その規模において群を抜いて大きいのである。
 われわれの調査は、なお、本遺跡のきわめてかぎられた一部を発掘したにすぎないが、われわれはその範囲であわせて6戸のオホーツク期の竪穴住居趾を発見し、またほぼその全期におよぶ厚い・重複した魚骨層の存在を確認している。これらの結果から推すと、本遺跡は、おそらく百を以て数える竪穴住居祉と、膨大な量の魚骨層を含む包含層を蔵しているものと思われる。
 すなわち、本遺跡の残された地点には、この地域におけるオホーツク文化の盛行したほとんど全期間にわたって、中断することなく、相当数の人間集団が竪穴住居を営んでいた、いいかえれば定住的にあったことが推定されてよいであろう。――
 しかしこの「アジアのバイキング」たちは最後にはすっかり姿を消してしまいます。アイヌ民族による北海道の統一がなされたと考えていいようです。
 ――これらの遺跡によって示される時期を最後として、オホーツク文化・その荷負者達は、礼文島からその姿を没するのである。これにかわって礼文島にあらわれたのは、擦文文化・その荷負者達であった。
 われわれは、香深井A遺跡の最上層に、一部オホーツク期の魚骨層を切って営なまれた、2基の擦文期の竪穴住居趾を確認している。おそらく、香深井A遺跡には、さらにいくつかの擦文期の竪穴住居祉が遺されているものと思われる。しかし、全体として礼文島における擦文文化にかかる遺跡は、質量ともに豊富であるとはいえないようである。とくに、オホーツク期の遺跡と対比してみるとき、その感が強い。そうした例としては、聚落の規模不明の香深井A遺跡の他には、鉄府イナウ崎の住居祉を伴わない散布地、詳細は不明であるが沼ノ沢チャシがあげられるにすぎない。その他、確認していないが、沼ノ沢竪穴群も擦文期のものである可能性があろう。
 こうした礼文島の擦文期遺跡の貧寒さは、おそらく、この島にあった擦文文化の荷負者の絶対数が少なかったことに起因するのであろう。そして、それはさらに、礼文島の自然環境が、たとえばクマ・シカ等の狩猟獣の棲息しないこと、サケ・マス等の遡上するような河川を欠くことなど、想定される一般的な擦文文化の荷負者の生産活動のためにきわめて不適当な、あるいは貧寒なものであったことに由来するものと思われる。それにもかかわらず、ここでオホーツク文化・その荷負者達が礼文島から姿を消し、擦文文化・その荷負者達がそれにかわった事実は、おそらく、礼文島あるいは利礼両島のみでなく、より広い、いわば日本列島北半でのコンテクストのうちで考えられるべき問題なのであろう。
 とにかく、礼文島はこの時期以降ふたたび北海道的な伝統のもとに立ちかえることになったようである。――
 そして時代は中世にあたる「アイヌ文化」からおおよそ江戸時代に対応する「近世アイヌ文化」へと続くのです。
 ――これに続く時期、いわば近世アイヌ期に関しても、こうした状況はそのままに受けつがれたようにみえる。重兵衛沢貝塚は、ここに加えられてよい遺跡であろうと思われるし、また名取氏によって報じられている時間的に近世に降るであろう遺物も、断片的ではあるが、礼文島における近世のアイヌの足跡をうかがわせる材料であろうと思われる。なお、われわれは充分な踏査を果していないが、これまで諸先学によって述べられているいるいわゆるチャシの多くは、やはり、この時期に当てられてよいものと考えている。
 しかし、礼文島がアイヌ・モシリであった期間は決して長期におよぶものではなかったであろう。l7世紀末葉の「宗谷場所」の開設、そしてl706年礼文島をふくめた初代村山伝兵衛の宗谷場所請負といった経過のうちで、その水産資源の豊富さのゆえに、礼文島はいち早く和人による植民地的支配の枠組みの中に組みこまれてしまったのである。――

●北海道全体に視野を広げて

 東京大学常呂研究室の宇田川洋さん(東京大学文学部助手) が北海道の考古学に関する概説書をいろいろ書いています。その中で「子供のための考古学参考書」と銘打った『やさしい考古学・大昔の北海道』(1984年、北海道出版企画センター) が、それぞれの時代の人々の生活を再現しようとする適切なガイドブックになっています。それによって北海道という視野から過去の姿をもう一度見ておきたいと思います。この本は小学生にも読めるようにふりがなをたくさん振っているほか、難しい漢字は極力ひらがなにしています。ここでは不必要と思われるふりがなは省略し、ときにひらがなを漢字に戻しておきます。
 まずは約8,000年前に始まる縄文土器の時代。最後の氷河期が終わって温暖化は5,000〜6,000年前にピークとなります。北海道では海面が現在より3〜5メートルも高くなったと宇田川さんはいいます。「縄文海進」の時代の北海道の姿です。
 ――そうなると、あちこちの海岸の平野に湾ができますね。たとえば、釧路地方の「古釧路湾」、網走湖付近の「古アバシリ海」、常呂付近の「トコロ湖」、石狩地方の「石狩湾」などがそれです。
 その当時の縄文人は、これらの湾のふちに生活するのがふつうでした。海の幸を求めたのでしょう。そして、貝もとって食べていたようです。それが貝塚となって残っています。
 貝塚には、貝だけでなく、動物の骨も入っています。そして人間の骨も残っていることがよくあります。ですから、貝塚はゴミ捨て場ではないといえます。食べた残りを天の世界に送り返すという儀式をしてから、1ヶ所にまとめて置いたのでしょう。神聖な場所だったから、人間もそこに埋葬したといえるのです。――
 宇田川さんは各地の縄文人の食べ物を列記していきます。
 ――縄文時代の中ごろの4,000年くらい前の、常呂町トコロ貝塚をみますと、貝はほとんどがカキです。ほかに、ベンケイガイ、タマキガイ、ホタテ、エゾイガイ、ウバガイ、オオノガイなどがあります。暖かい地方のウネナシトマヤガイ、ハマグリもありますし、バイといわれるヒメエゾボラなどの巻貝もあります。
 ほ乳類では、トド、アシカなどの海獣が多く、家犬、クマ、クジラもありました。ヒラメ、ボラ、スズキ、ウグイなどの魚の骨も出ています。
 ここで6,000年から4,000年前くらいの貝塚から出てきたものをみてみましたが、これらのものはほとんど縄文人の食料となっていたと考えてよいでしょう。
 土器を使って、貝のスープを作ったり、魚を塩味にして三平汁みたいにしたり、あるいは、動物の肉を焼き肉にしたり、ルイベのように刺身で食べたりしていた
と思います。また当然、山の野菜もいっしょに料理していたことでしょう。――
 2,000年ぐらい前、すなわち紀元前後に、北海道にも鉄器が入っていきます。南からと、たぶん北からも……。
 ――本州では、縄文時代のつぎは弥生時代ですね。縄文時代が終わるころ、中国から米作りが伝わってきましたが、これが弥生文化の基本になったのです。ところが北海道は、米を作るには少し寒かったのです。ですから、縄文時代と同じような狩りと採集の生活が続きましたので、「続縄文時代」と呼ぶわけです。――
 ――続縄文人は、今までの石器だけとちがって、おもに本州から鉄器を手に入れるようになりました。鉄器と石器の両方を使う文化のはじまりです。ですから、わざわざ縄文文化と続縄文文化を分けているのです。
 ところが、シベリア大陸では、鉄器文化はもう少し早くからはじまっていました。今から3,000年も前からすでに鉄器が使われていました。北海道では縄文時代の後半ころです。沿海州ではポリツェ文化という初期の鉄器文化が、紀元前後くらいに栄えましたが、これは北海道にも影響をあたえたかもしれません。――
 ――そして、1,200年ほど前に、擦文時代になるわけですが、全道的に同じ文化が広がり、東北地方の北部にまで達しています。この文化を作り上げた人こそ、北海道アイヌといってよいと思われます。「擦文アイヌ」と呼んでおきましょう。――
 ――国の史跡に指定されている釧路市北斗遺跡という擦文アイヌの集落があります。横2.5キロメートル、幅500メートルくらいのところに300をこえる竪穴住居の跡が残っています。そのうち擦文アイヌが残したものは140軒くらいです。
 集落に住む人たちが、食料を手に入れるための縄張りは、ふつう歩いて1時間くらいの、距離といわれています。半径5キロメートルくらいでしょう。北斗遺跡でこれを計算してみます。遺跡を中心にこの面積を出しますと、7,850へクタールになります。この中で、ふだんの生活の食料を手に入れていたと思われます。台地の下は川になっていますので、そこにはサケなどがいたことでしょう。山のほうにはシカがいたと思います。山の部分の面積は、その地形からみて、約4分の1に当たり、1,962ヘクタールと考えることができます。
 動物学のほうで、温帯地方のシカは、1頭について12〜20へクタールの草地が必要であるといわれています。これを使いますと、98頭から168頭ぐらいが、北斗遺跡の裏山で生きていくことができた計算になります。
 また別に、そのシカの集団をとりつくしてしまわないためには、どのくらいまでとっていいのかを考えた場合があります。それは、おとなに成長したアカシカをとるときに、1年にその6分の1以下にしておくと、シカの集団の数は10年以上安定しているというものです。これを使いますと、北斗では、多くて27頭くらいとることが許されます。
 もう少し考えてみましょう。シカ1頭の中くらいの大きさの重さを100キログラムとしますと、肉の量は、60キログラムくらいあります。牛に27頭をとったとしましたら、1,620キログラムの肉が手に入ります。1日に4.4キログラムとなるわけです。
 さらに、カロリー(食べ物の場合1Cal=1kcal) の計算もしてみましょう。アカシカの肉の場合ですと、肉1キログラムについて平均2,097カロリーといわれています。これをあてはめますと、1日に9,226カロリーとなります。
 ひとつの家族が、大人2人、子供3人と考えてみますと、お父さん3,000カロリー、お母さん2,400カロリー、子供3人で6,000カロリー、合計、11,400カロリーが、1日に1家族が必要とするカロリーです。これでは、シカだけでは少し不足していますね。でも、シカだけを食べたわけではなく、ほかの山の動物、そしてサケやマス、山の野菜などをとって食べていたのですから、問題はないでしょう。ふつう、狩猟や採集でくらしている人たちが、狩りで手に入れる食べものは、全体の約30パーセントといわれています。
 サケやマスの場合はどうでしょう。中くらいの大きさで4キログラムです。サケはぶつ切りにしてよく煮るとぜんぶ食べられますので、肉量も4キログラムとしていでしょう。生のサケで1キログラムについて1,650カロリーといわれていますので、1匹で6,600カロリーがあります。1家族で、1日に2匹食べたら栄養がとれるという計算になります。――
 この山と川からの恵みを享受した「擦文アイヌ」の人々の広がりの範囲と見ていいかどうかは明らかではありませんが、擦文文化は北海道の南に広がっていたといいます。同じ宇田川洋さんの『アイヌ文化成立史』(1988年、北海道出版企画センター) には次のように書かれています。
 ――ところで、この北海道独自とみえる擦文文化は本州東北地方の北部にまで文化圏をひろげていたことが証明されている。ここでその様子を少しみておくことにしたい。最近の発掘で良好な資料を出土している遺跡としては、青森県碇ヶ関村古館遺跡、同県蓬田村大館遺跡がある。青森県を中心として東北地方北部において擦文土器を出土する遺跡は50か所ほどとされるが、竪穴住居址にともなう例は僅少で、前の2遺跡のほか、むつ市将木館・蓬田村小館・青森市三内遺跡くらいといわれる。――
 本州とのつながりを持っていたらしい「擦文アイヌ」に対して、「オホーツク人」の生活はどのようなものであったのでしょうか。再び『大昔の北海道』から。
 ――このように、擦文アイヌが北海道全道で豊かにくらしていましたころ、オホーツク人と呼ばれる人たちがやってきました。正しくは続縄文時代にすでに入ってきていました。彼らは、北ヨーロッパの海賊といわれるあのバイキングとだいたい同じころに北海道のオホーツク海岸に進入してきましたので、「アジアのバイキング」といわれることもあります。
 彼らはまた「モヨロ人」ともいいますが、それは網走市モヨロ貝塚の発掘で有名になった名前です。
 このオホーツク人たちは、北海道では、おもにオホーツク海岸にだけしか住んでいませんでした。つまり、オホーツク海を自分たちの庭のようにして、生活していたのです。だから、海からとれるものが、彼らのおもな食べものであったといえます。――
 ――では、オホーツク人の食べものと道具をみていきましょう。
 さいわいに、彼らは貝塚や骨の塚(骨塚) を残しています。それは縄文人と同じで、食べた残りをまとめて天に送り返したり、家の中にまつっておいた神聖な場所だったのです。
 もっとも有名なモヨロ貝塚の場合をみましょう。
 貝塚から1番多く出てきたのは、やはり海の狩人らしく、海獣の骨でした。いろいろな種類のアザラシが多く、トド、イルカ、クジラ、オットセイ、アシカ、シャチ(サカマタ) などがあります。
 陸の動物では、シカ、クマ、キツネ、ウサギ、家犬などが出ています。ほかの遺跡ではブタも出ています。これも家犬と同じ「生き保存食」でしょう。
 貝には、今でも網走地方の名産のホタテ、カキ、シジミなどが代表としてあります。魚も、今もオホーツク海でとれるもので代表されています。ニシン、サンマ、サケ、マス、カスベ、ブリ、ソイ、ホッケ、キンキン、ウグイ、オヒョウ、ヒラメ、カレイ、タラなどです。ウニもよく食べられたようです。アカエイは、今はオホーツク海にいませんが太平洋にいるそうです。――
 このオホーツク人の祖先に関してもさまざまな意見があるようですが宇田川さんが『アイヌ文化成立史』の中で紹介しているさまざまな説の中に次のようなものがあります。
 ――藤本氏は、このようなオホーツク人の葬制を北方諸族のそれと比較して、オホーツク文化の葬制にもっとも類似しているのは、いわゆる近世アイヌと結論し、とくにサハリン、北海道東部、クリールに居住するアイヌであるとしている。そして、オホーツク文化をのこした人々は、今日の南サハリン・北海道東部・南クリールに居住しているアイヌの「直接の祖先」であったことは確実であろうとのべている。――
 この後、私たちが一般にアイヌ文化と呼んでいる「近世アイヌ文化」の時代になるのですが、それは民族叙事詩「ユーカラ」の時代であり、和人が進出して圧迫を加えつづけた時代でした。その、和人が侵入してくる直前の近世アイヌの生活様式は『大昔の北海道』では次のように紹介されています。
 ――北海道の地に和人が入ってくる前のころをみましょう。そこには、アイヌが住み、自然を大事にして調和をとって、その自然とともに豊かにくらしていました。しかも、力がある者だけが富むというようなことはなく、みんなで力を合わせてえものをとって、それを平等に分けあっていたのです。これを河野広道先生は「始原共産制」(古い形の共産制) と呼びました。
 彼らは、「コタン」と呼ぶ集落を生活の拠点にして、だいたい川筋を中心に、そこにある自然のめぐみを食料としていたようです。図(省略) は、渡辺仁先生が考えた食料を手に入れる季節と男女の仕事のちがいを示したものです。男は、川の上流のほうや山にいるクマ、シカをとるのがおもな仕事でした。春先と秋から冬にかけての季節です。女の人は、食用の植物をとることが仕事です。ノイチゴ、ハマナス、ハスカップ、クワの実、サクランボ、コクワ、ブドウ、サンナシなどの実を食べるもの、シコロ(キワダ) 、クリ、クルミ、ドングリのように乾かしてから煮物に使うもの、ヨモギ、ウド、フキ、ギョウジャニンニクもいろいろな食事に使われました。ウバユリやカタクリはでんぷんをとって団子にします。乾燥すると保存食になります。ヒシの実(ペカンペ) やキノコなども食べていました。
 また、植物栽培といって、ヒエ、アワ、キビ、ムギ、ソバ、ダイズなどの栽培も少し行っていました。これもおもに女の人の仕事です。
 そして、川ではサケ・マスを主体にした魚とりが行われましたが、男女が参加したようです。サケなどをとるには、マレックという鉄のかぎのついた突き棒を使ったり、テシと呼ばれる魚止めの柵とかウライ(やな) を使ってとったりしました。――

●遠山の金さんもやってきた

『礼文町史』によると、江戸後期の文化元年(1804) には利尻島に55人、礼文島には289人のアイヌが住んでいたといいます。そして、――翌2年、宗谷地方で猖獗を極めた天然痘におそわれ、18年後の文政5年(1822)「蝦夷人別覧」で礼文116人、嘉永6年(1856)「東西蝦夷地勤番書上惣目録」によると66人と減った。そして、いつしか完全にその影を没してゆく――という運命をたどるのです。
 そこには和人によるアイヌの搾取というような直接的な問題もありましたが、ここでは桜吹雪の入れ墨をしていたかどうか、旗本・遠山の金さんと関係する大きな国際問題のところから見ていきたいと思います。『礼文町史』にはこうあります。
 ――文化元年(1804) 10月、ロシアの遣日特派大使ニコライ・レザノフが軍艦ナデジュダ号(450トン) で長崎を訪ね通商を求めてきたので、翌2年3月6日、幕命をうけた目付遠山金四郎景晋が長崎奉行所でレザノフを引見、幕府の方針で通商を絶対拒否する旨を説明し強引に退去させたところ、ナデジュダ号は宗谷近海に姿をみせ、5月10日、宗谷のノシャップに上陸したり、樺太南部をうかがうという事件が起きた。
 レザノフはロシアを発つにあたって、商務大臣ロマンツオフ(後に総理大臣) からうけた訓令の一つにカラフト探検があり、住民の種別、日本国の所属か、支那の所属か、また通商の道を開くことができるか否かといった内容があったため、長崎を追われる際「我国に近き島々などにも決して船繋すべからず」と厳達されていたにも拘らず、宗谷海域に姿をみせたものだった。
 ナデジュダ号の艦長グルゼンシテルンは水路学、地理学、航海学の世界的権威者であるが、宗谷沖に沖がかりしたナデジュダ号から、士官を伴ってノシャップ岬に上陸してアイヌたちと接触した。――
 これは、その後さらに緊張を高めていくカラフトをめぐる日本とロシアとの領有化競争の幕開けのエピソードとなります。幕府は翌文化3年(1806) に遠山金四郎景晋と村垣左太夫定行を今度は宗谷に派遣します。
 ――両人の宗谷見聞は5月のことであり、直ちに江戸に戻ったが、両人の巡視報告は、東蝦夷地につづく西蝦夷地の幕府直轄の潤滑油の役割を果たす。
 しかし、両人が去って間もなくの9月11日(陽暦10月22日) カラフトにロシア船が1隻やってきて、乱暴狼籍の限りをつくし、北方に危機到来の感を深くしたが、これが宗谷に伝えられ、幕府の箱館(函館) 奉行羽太正養の耳に達したのは翌文化4年(1807) 4月10日のことだった。――
 北海道は古くから松前氏の支配下にあったのですが、当初、和人はシャモ(人間) 地、アイヌは蝦夷地に住むという隔離政策がとられたようです。
 ただ江戸時代を通じて松前藩の北海道における経済活動は拡大の一途をたどります。その象徴が「場所」と呼ばれる交易拠点の設置で、「宗谷場所」が設置されたあたりのことは『礼文町史』にこう書かれています。
 ――寛永12年(1635) 松前家臣・村上広儀が全島廻りの途次宗谷に滞在、また佐藤加茂左衛門、蛎崎蔵人らの家臣もカラフト検分に向かい、翌13年甲道庄左衛門がやはりカラフトに出かけるなど慌だしい地図作成の動きがみられた。これは松前藩の行財政の基礎づくりが急を告げていたことを物語るものだろう。
 ここで注目されるのは、甲道庄左衛門がカラフト検分を行なった翌年の寛永14年(1637) 、松前氏が樺太アイヌに対し、宗谷で交易することを申し渡しているが、これは宗谷が北方における松前氏の行財政の要衝であることを示すものとみてよかろう。
 事実、それ以降、単にカラフトだけでなく、網走、斜里方面アイヌも交易のため、宗谷に舟を寄せ、幕府直轄時代も含め宗谷の行政区域はそれらオホーツク沿岸ぞいを含める広大なものとなった。
 次いで場所時代をむかえるが、宗谷場所の開設は貞享年間(1684〜87) といわれる。――
 カラフトを経由する北方貿易の存在は東シナ海を舞台にした南蛮貿易と対比させることができるかもしれません。
 ともかく、開かれた宗谷場所では、和人とアイヌの間での交易が行なわれただけでなく、時代とともに商業資本が投下されて、中国向け輸出品としての煎海鼠(ゆでて干した海鼠) の生産基地へと変貌していったようです。そのあたりの流れを、また『礼文町史』で。
 ――宗谷場所は松前藩の直領場所として貞享年間に開かれたが、これは松前商人のアイヌ相手の交易を主としたものであった。
 穀類、酒、鉄類そのほか古着をはじめ日本にある諸品を積んできて、アイヌの干鱈、干鮭、鱒、鰊、石焼鯨などと交易していた。松前船には上乗りとして士格の人1人、足軽目付1人が乗船しているのが普通であったといわれるが、これはとかく松前商人がアイヌを欺す傾向にあるための目付役人であり、偶々悶着が起きたことも事実だった。――
 ――当時、ウラヤシヘツといわれていた網走や常呂アイヌも遥々やってきたものであるが、利尻は宗谷場所とは別格に扱われ、家老内記の預り地として、年に1回100石程度の船を送り、藩主に年100両を上納する定めになっていた。ここでは礼文島アイヌは利尻に出かけて交易している。利尻の産物は串貝、煎海鼠、棒鱈だった。
 陰暦3月末か、4月初めの天気のよい頃が交易の時期に選ばれた。
 藩では松前に集る内地商船から交易物資を仕入れ、図合づくりの120〜130石程度の藩船に積み、年1回宗谷にやってくるわけであるが、アイヌたちもその頃合をみて、西は抜海、東は網走、斜里あたりから縄綴船を仕立て宗谷に集り、海辺に丸小屋を組んで泊り込み、平穏裡に取引を行なった。――
 平和裡に共存できた時代もしだいに変貌していきます。
 ――場所は、やがて商人の請負制がとられることになり、それに伴いアイヌとの交易がアイヌの雇用による漁業開発に結びついてゆく。
 原始的な交易体系にも変革のきざしがみえはじめ、商人の才覚が優先するようになったのと、貧しい藩は商人からの借財を負うことが多くなるなどの事情が重なって商人の手に委ねられ、開発されるわけであるが、礼文の属する宗谷場所は宝永3年(1706) 、能登国羽咋郡安部屋村に生れ松前において回漕業で名をなした初代村山伝兵衛が留萌と一緒に請負ったのがはじめであった。
 伝兵衛は屋号を生れ故郷からとって安部屋といい、店しるしを丸に十五と決め、将来15隻の船を持つことを日標に置いたが、15隻の持船どころか、26〜27隻にもなるという商運が開け、しかも、場所における漁業振興にも実をあげた。
 これによって宗谷アイヌは漁網の製法や海鼠引具の使用法を教え込まれたのである。
 宗谷場所漁業の中で特筆すべき進展をみせたのは、鮭、鱒もさることながら海鼠漁であり、これを煮て干したいわゆる煎海鼠の品質と生産量にはみるべきものがあった。
 初代伝兵衛時代にこの漁法は八尺網を用いられるようになり、好漁のときは1綱に120〜130個もかかり、1人で1日に2,000個くらいもとるアイヌがいた。また、加工法もそう手数はかからない。大鍋に湯をわかして海鼠を入れ、しばらく煮た後これを引きあげ長さ1尺ばかりの串に10個ずつ刺し、10本を1連として囲炉裏の上につるし、4〜5日乾かすか、天に乾燥すればそれで出来上がりとなった。
 この煎海鼠は古くから神饌または内膳に供され、また幕府は鎖国後も長崎1港をみとめオランダや支那に限り貿易を許していた関係から、煎海鼠は支那に続々と積み出されていたが、津軽、南部産のものに比べると蝦夷産のものがよく、同じ蝦夷産のものでも宗谷産の品質が格別によかったといわれ、後々までも重要産物の座を守ってゆく。――

●最初のストーブ

 北方領土の脅威を除くために、幕府は北海道への支配力を強めるとともに、さらにその先の千島、カラフト方面に探検隊を送り込みます。松浦武四郎や間宮林蔵といった職業探検家が排出します。
 と同時に、幕府は各藩に北方警備を命じます。しかし北海道の気候に慣れない藩兵たちの中には、たったひと冬を越すことができずに命を落としていったものも多かったようです。『礼文町史』によると最初、――西蝦夷地の警備線は、日本海側はシャコタンからオホーツク海側は斜里にわたり、中心は宗谷に置かれ、吟味役鈴木甚内が総指揮にあたった。そして宗谷に230人、斜里に100人の津軽藩兵が分駐した――とありますが、文化5年(1808) のこの正月に宗谷駐在の津軽藩兵の54人がビタミン欠乏による水腫病の重症患者と記録されており、2月には健康なものはたった2人であったといわれます。冬が明けたとき、斜里詰めの100人はわずか31人に減っていたといいます。
 そういう「北海道駐屯」の悲惨を乗り越えて「北海道転勤」への最初の1歩を踏み出したエピソードとして知られているのが宗谷の「クワエヒル」なのです。『礼文町史』には次のように書かれています。
 ――安政3年(1856) 、箱館奉行支配調役下役元締・梨本弥五郎が宗谷に着任した。
 この人は宗谷の一角から日本最初のクワヘヒル、いわゆるストーブの煙りを立ちのぼらせた人である。まず指を折って置かなければならない先覚者の1人といってよかろう。
 また弥五郎は、婦女子を乗せた舟は必ず難破すると恐れられていた日本海側の神威岬沖合を、妻を伴って突ッ切って宗谷に着任したことでも知られる。
 如何に迷信とはいえ、そして、箱館奉行も奥地開発の障害となっているこの禁令を解いて「妻子召連れ引移り侯こと勝手たるべし」と達したとはいえ、当時その尖端を切った勇気は大したものであったが、何といっても、弥五郎の偉大さはすぐれた研究心と果敢な実行力をもってクワヘヒルを叩き上げたところにあったといえよう。――
 ――弥五郎はクワヘヒルに関心を払い、また、製作に自信を持っていた。
 奉行も後退越冬、たとえば宗谷詰が増毛や留萌にきて越冬することにたいして対策を練っている最中だったので弥五郎提案をみとめた。
 宗谷赴任に先立ち、弥五郎は奉行雇の蘭学者武田斐三郎と一緒に箱館港に碇泊中の英国船を訪ねてクワヘヒルの実物を些細に調ベ、写生図をとって設計をまとめた。
 全部鋳鉄製で設計どおりだと23貫(約86キログラム) という代物だった。そのかわり構造は簡単であった。
 床の上に台石を世き、その上に直径1尺8寸(約54センチ) 、厚さ3分(約9ミリ) の台を据え付け、そこに高さ2尺3寸(約63センチ) 、直径1尺6寸(約48センチ) 、厚さ1分5厘(約4.5ミリ) の胴を乗せ、椀形の蓋をかぶせ、これに6分(約18ミリ) 厚の中のスカシ(ロストル) を入れ、煙筒の差口をつけ、内径3寸5分(約10センチ) 、厚さ1寸(約3センチ) 、長さ2尺(約60センチ) の土管6本を漆喰でつなぎ合わせ煙筒とするものだった。
 何せどれ1つ取ってみても重量のかかるものであったから取りつけが大変であった。
 1器12両2分余、奥地の天塩から斜里までのあいだに少なくとも22器が必要とされた。
 箱館大町の源吉がこれを請負い、鋳物職人孫右衛門と瓦師利三郎らが製作にあたったが、弥五郎はその見透しをつけたあと勇躍して北の新任地に向かった。――
 ――しかし、クワヘヒルの製作は思うようにはこばず、宗谷送り11器のうち、冬を眠の前にして6器ができたにすぎない。それも時化早い晩秋の海では運搬もできない。結局、宗谷で首を長くしてクワヘヒルを待っていた梨本弥五郎は、意を決して現地において製作することになった。
 有能な助手を物色するまでもなく、ここに鍛冶の巧みな帰俗アイヌ景蔵がいた。松前藩時代には同藩の、また秋田藩が警衛に就くと秋田藩の武器修理に当たり、周囲から確かな腕を見込まれた男だったが、弥五郎が厚紙で模型をつくってみせると、要領よく呑み込んで赤く焼けた鉄を打ち上げ、見ている間に1つ1つの部品を形づくった。
 これは鋳物とちがい打ち物なので丈夫であるうえ、箱館の鋳物に比べものにならないくらい軽く14貫300匁(約57キログラム) 。費用に至っては3分の1くらいだった。
 かくて出来上がったクワヘヒル、いわゆるストーブ第1号は、配下大塚良浦の臨月近い妻のためにその役宅に取り付けられた。――
 鍛冶屋の景蔵は宗谷で最初に和人に帰属したアイヌであったそうで、弥五郎は小使い格であった景蔵を昇進させて村役人同様に麻上下の着用を奉行に認めさせたといいます。北海道への和人の本格的進出の始まりを象徴するエピソードです。
 そして明治新政府のもとで、北海道はきわめて重要な植民空間となるのです。北海道教育大学名誉教授榎本守恵さんの『侍たちの北海道開拓』(1993年、北海道新聞社) は明治新政府が幕藩体制を清算
して新しい中央集権を確立するために有効に利用したのが北海道であったという立場に立っています。まえがきの部分にはこう書かれています。
 ――明治維新は、日本の近代化をすすめるうえで必要な大変革であった。それまでの半ば形式的な封建割拠と、身分秩序による農業生産を経済的な基盤として、いわゆる幕藩体制に安住していた人びとにとっては、考えもおよばない大きな転換だったのである。変革には、つねにさまざまな障害や、予期しない矛盾に直面することが多い。
 北海道は北辺の国防的国際的要地であったばかりでなく、明治新政府が予期し、あるいは予期していなかった矛盾を緩和するのに、最も適当な地域として活用された。いわば、洪水をコントロールする貯水池・ダムのようなものであった。
 もともと、和人(この用語がいつから使われるようになったか、古いものではない。ある研究者は江戸後期だろうという) が北海道に松前藩を形成するよりまえから、アイヌ(アイヌ語で「人間」の意) が住んでいた。北海道はアイヌモシリ=人間の国であった。かれらの生活は狩猟中心でまだ農業段階に達していなかった。一例をあげると、砂鉄は豊富であっても鋳鉄の技術をもたず、数観念に之しく、人間的に正直で素朴すぎた。
 松前藩を中心とする和人は、文化段階の差を政略に、さまざまな方法でアイヌを利用し、酷使し、結果としてアイヌは半ば隷属化され、人口は減少していた。つまりは、明治の和人たちの北海道への移住、活動のために地ならしをしておいたといえよう。
 むかしから、へき遠未開の北海道へ本州から移住したのは流罪人であり、また奥羽地方の戦いに破れた敗残の武士たちがおもなものであった。
 近代化への順序からいえば、北海道開発の移住者は、封建制度がくずれて農氏が解放され、自由に土地から移動できるようになってからはじまるはずであった。だが、事実はそれより早く、明治維新の戊辰戦争によって、士族、とりわけ東北朝敵藩の一部解体による士族移住からはじめられることになった。
 明治維新によって、政府はすっぽり北海道をみずからの手に収めることができた。東北・北陸地方を合わせたほどの大島に、アイヌをふくめて人口は10万人前後である。北海道が北方枢要な地であることは政府にもわかっていた。思い切った維新の改革を断行しながら、権威だけで開拓使を創設してみても、力不足ば免れない。やむなく諸藩分領政策、つまりは旧制度の藩の力を利用した。もっとも、藩の利用は同時に藩の力を弱め、中央集権への道を早めたともいえる。――
 このような事情をふまえた上で、熱血考古学者の宇田川洋さんは『やさしい考古学・大昔の北海道』の巻頭で子どもたちにこう語りかけています。
 ――最近、北海道のいろいろな市町村で、開基100年のお祝いの行事を行っています。たとえば、1984年(昭和59) で開基100年としますと、1884年(明治17) から数えたことになります。自分たちが住んでいる市や町が生まれてから100歳というわけです。でも不思議に思いませんか。学枚の教科書には、何千年も前から人が住んでいたと書かれているはずですし、自分たちが住んでいる近くの畑からも、何千年も前の土器や石器が出てくるこどがあります。変ですね。
 じつは、市や町の100歳のお誕生日は、前からそこに住んでいた人たちのことは忘れて、新しく住みついた日本人(和人) のものなのです。とくに、北海道は、それぞれの市や町に、和人が入ってくる前に、アイヌの人たちが住んでいましたので、開基100年のお祭りというのは少しおかしいわけです。当時は、アイヌをばかにして、侵略者の和人がアイヌをしめ出すのは当然だと考えられていました。そのことへの反省がない限り、100年のお祭りはあってならないはずのものです。まずそのことを忘れないでいてほしいと思います。――

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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