毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・28・小笠原国立公園」
1995.8――入稿原稿


■国立公園物語…小笠原

●鯨を見なかった?

 東京の竹芝桟橋から定期船「おがさわら丸」に乗って1泊2日、正味28時間の船旅で小笠原諸島父島の二見港に着きました。慣れた人に聞くと、棚の荷物が動くほどではなかったから、わりとおだやかな航海だったそうですが、私はその時間のほとんどを寝て過ごしたのでした。
 出航が午前10時。霧雨の東京湾ではずっと船首側のデッキに立っていました。1時間で羽田空港の沖を通過し、2時間で東京湾を抜け出ました。食堂で軽い昼食を食べたころからしだいに船の揺れが大きくなり、父島が見えるまでほとんど寝たままの生活となったのでした。
 2等の船室(いわゆる大部屋)には1畳に2人という間隔で毛布が並べられていて番号札が置かれています。乗船の時に与えられる番号の毛布に寝るという一種のくじ引きによって、私は両側に若い女性という幸運(?)を引き当てたのです。
 小笠原には飛行機の便がありません。この「おがさわら丸」が2日がかりで1,000キロ南に走り、また2日かけて戻ってくるのですが、その間父島に2泊か3泊とどまるのです。ゆえに最短コースで4泊5日か5泊6日。私の場合は5泊6日でした。
 私のようにスケジュール表がほとんど白いフリーランスでも、1週間空けるとなるとひとつぐらいはまずいことと重なってきます。そのため取材が5月の連休直前の週になったのでした。むしろ連休の方が私には都合が良かったのですが、連休中の切符はもう売り切れて、前の週ならまだあります、という状態でした。
 ほとんどの人は父島で上陸しましたが、何人かは「ははじま丸」に乗り換えて母島の沖港まで直行。私もまっすぐ母島まで行ったのですが、特別な理由があったわけではありません。いつもの例で、ほとんど何も調べずに出かけましたから、まずは行けるだけ奥まで行ってみるという探検用語の「偵察」の大原則に従ってみただけです。
「おがさわら丸」(定員1,041人)を観光バスとすれば軽自動車というぐらいの「ははじま丸」(定員143人)は湖水の観光船といった風情、後部デッキのベンチに座れば船の周囲全体に目配りが利くという感じでした。
 ですからそこに座って、2時間の航海の最初から最後まで、近づいてくる母島列島を眺めていたのです。海はすっかり凪いでいて、陽光は強く、心地よい潮風に包まれた至福の航海であったのですが……隣に座ってきたオッサンがとんでもないことをいいはじめたのでした。
「いいカメラ持ってるじゃない。さっきのクジラ撮れたかね」
 着ているウインドブレーカーの文字からして、ダイビングスクールの親分か、番頭さんか、小使いさんといった感じなのですが、甲板にほんの10人ぐらいしかいないこの船上で左手を見ていた私にまったく気づかれずに、クジラは右舷に堂々と姿を見せていたというのです。
 あとになってクジラを見たときの一般旅行者の反応がどのようなものか分かってみると、このときにクジラの姿が見えたとして、見たのはそのオッサンだけだったようにも思います。
 というのはいよいよ小笠原を離れて東京へと向かう日、「おがさわら丸」が二見港を出てまもなく右舷にクジラが見えたのです。「ただいま進行方向右手にクジラが発見されました!」という船内放送があり、デッキに重なった人々が大きな歓声を上げました。それは、はるかかなたに潮吹き(ブロー)の白い噴霧と、次の瞬間、潜水状態に入るために見せる黒い体の背中の丸み(ペダンクルアーチ)が、一瞬、広い海面のはるかかなたで、ゴマ粒のように見えただけでしたが、船上の騒ぎはたいへんなものでした。大騒ぎモノなのです。
 オッサンが私を軽くからかったのかどうかはともかく、小笠原に着いたとたん、定期船の上からもクジラが見えた、と聞いたときの衝撃的悔しさは相当なものでした。たちまちにして「クジラ」がこの旅のキーワードになってしまったのです。ですから母島から父島に戻る船旅では、太陽がギラギラと照りつける上部甲板に一人立って、カメラと双眼鏡を首からぶら下げ、右舷から左舷、左舷から右舷へと「クジラを見ずにおくものか」という意気込みで2時間を過ごしたのです。海は穏やか一辺倒、なーんの変化も見せませんでした。(あのオッサンが私の張り切りようを見たら、クククと笑ったかもしれません)
 父島でもクジラは私のキーワードでした。島の北東の断崖の上に標高227メートルの三日月山というのがあって、ウェザーステーションというレーダードームがあるのですが、そこがクジラ見物の最適地らしくクジラ観測用の大きなあずま屋があって、いつ行っても何人かが双眼鏡を構えていました。このあずま屋(ホエールウォッチングステーション)は100人いても雨をしのげそうなほど大きいので涼しい風に吹かれながら昼寝をしたり本を読んだりするのに最高なのです。レンタバイクを走らせて何度もいってみるうちに、だんだん仕掛けが見えてきました。
 ここにはいつも、小笠原ホエールウォッチング協会のスタッフがいて、双眼鏡をのぞきながらどこかと無線で連絡をしているのです。父島から兄島にかけての西側の海域を一望しながらブロー(呼気)の出現を見張っているのです。その足元から広がる海域にとどまっている挙動不審の数隻の船がホエールウォッチングボートで、ボート同士がお互いに連絡をとりつつ、ウォッチングステーションからの情報も合わせてクジラを探し回っているのです。
 みんなの真剣さからみて、クジラがいるのは確かなのだとは思いつつ、いつ行っても私にはクジラの姿は見えませんでした。
 もちろんホエールウォッチングのボートにも乗りました。個人の船もあるようですが、一般旅行者の普通の選択として、小笠原ホエールウォッチング協会に申し込んだのです。
 午後からの半日コースに集まったのは15人ほどでしょうか。掲示板によると昨日は何頭か出たようですが、今日は朝からまだ1頭も発見されていないとのこと。朝からの船に乗らずに、午前中海水浴場のハシゴをやっておいてよかったな、と思ったまではよかったのですが、「シーズンも終わりなので、海に出てもクジラは見られないかもしれません」という正式の発表。乗らない人には、この場で全額払い戻しますという、かなり希望薄の状態でした。それでも10人ほどは船に乗ったのです。
「ダメで元々」を承知での出航を直前にして、兄島の東にクジラが出たという無線が入りました。朝から探し回っていた1日コースの船からの情報でした。船長は見るからに元気づいて「ちょっと飛ばしますよ」といって、父島と兄島の間の兄島瀬戸を突っ走ったのでした。
 東アフリカのナショナルパークを思い出したのは、船をさがせば、そこにクジラがいるということでした。合計3隻のホエールウォッチングボートが海上で動きを止めます。船が急に波にもまれ始めます。潜ったクジラが船の正面に出れば12時、右手なら3時、左手なら9時と方位の示し方を教わって、乗客たちはそれぞれに自分の守備範囲を持つようになります。私は身を引いて船尾方向の6時に目配りしていました。
 結果的に分かったことですが、百戦錬磨の船長は自分なりの読みで船首をある方向に向けているわけです。クジラがどのような行動をしているところなのかを推理しながら、浮上方向に船を向けるということに関しては相当の読みができると思えました。
 問題は距離ですが、人が早歩きするぐらいのスピードで10分から、ときには20分も潜っていられるのですから数百メートルから1キロを越える移動があるわけです。同じ場所にとどまって何かしているのでなければ、潜ってから次のブローがあるまでの時間がそのまま距離につながってくるわけです。
 船の前方(かなりの距離のところ)で、2回、3回と続けてブローして、それから潜水にかかります。丸い背中(ペダンクルアーチ)が見えて、最後におまけのように尾ビレが上がりました。フルークアップダイブというのだそうです。
 かえって現像してみると300ミリの望遠レンズで画面中央に米粒程度の背中ですから、近いとはとてもいえませんが、見たという感激は船の上に広がるに十分な近さです。そういうウォッチングが2度、3度と体験できましたが、「行動目的がはっきりしないね、このクジラは」という船長の判断でした。
 船長は船を移動し、エンジンを止めてしばらく操舵席から姿を消すと、「歌ってますよ」といいながら戻ってきました。水中マイクをセットしたというのです。
 なんと書いたらいいのでしょうか。
「ブォウ、ブォウ、ブル、ブル、ブル」
「ギーッ、ギーッ、ギュルル、ギュルル」
「ブィーン、ブィーン、グル、グル、グル」
「ケッ、ケッ、ケッ、キッ、キッ、キッ」
「オーイ、オーイ、クックック」
 最初はまるで宇宙人の声のようですが、聞いているうちにこちらの感情移入が始まります。下から見上げて笑っているような、こしゃくな感じにも聞こえてきます。
「船の真下ですよ。100メートル以内です。今年最高の歌声だ。録音しときゃよかった」
 船長がいうと私たち乗客はとたんに幸せな気分に満たされたのでした。
 しかしこのときにかぎって、クジラはなかなか浮上しません。15分経っても歌は同じ調子で続き、だんだん遠ざかっていくように聞こえるのです。
「まずいなこれは」
 船長がいうまでもなく、幸せな気持ちは、残念ながら急速にしぼんでいきます。そのクジラ(のはずです)がはるか彼方の海面に音もなく小さな噴煙を上げたのがそのホエールウォッチングの最後でした。
 それでも私たちはみな、ものすごく満ち足りた気持ちで帰途についたのでした。帰途、マイクを通して語る船長のこんな話が全員の気持ちを満足の方に大きく引っ張っていたようです。
「ザトウクジラは夏に北太平洋で食事をして、冬に南の海で恋愛と出産と育児をするのです。3月、4月が子連れのクジラの見られる最盛期で、これまで5月10日以降にこのあたりで見られたことはありません。今日のクジラはシンガー(歌を歌うのは雄だけ)で、北へ帰る最後の何頭かの1頭なのだと思います。姿を見られてラッキーでしたね」

●捕鯨から観鯨へ

 小笠原で入手できた本の1冊に『小笠原ホエールウォッチングガイド』(1991年、サンエイティ)というのがありました。もっともこれは単行本ではなく、月刊誌「DIVER」の平成3年2月号の別冊として刊行されたものですから、一般書店ではもう入手できないものかもしれません。しかしいまのところ、小笠原でのホエールウォッチングに関してもっとも適切なガイドとなっています。編集制作が月刊「DIVER」編集部、制作協力に小笠原村役場の名があって、著者としては水中カメラマンの望月昭伸さんと、望月さんが主宰するMOCH PROのスタッフ・友松こずえさん、小笠原のザトウクジラ研究の中心人物であるという東海大学大学院生の森恭一さんという3人の名前があがっています。
 この本の「発刊に寄せて」というところを見ると、小笠原の、というより日本のホエールウォッチングのスタート地点が明らかになりました。
 ――小笠原返還20周年を迎えた1988年は、小笠原と小笠原近海に来るクジラたちにとって歴史的に意味のある年だった。この年、国際捕鯨委員会の決定に基づき商業捕鯨が全面禁止、〈鯨者連〉率いる目本初の本格的ホエールウォッチングツアーが来島、WWFJapan(財団法人・世界自然保護基金日本委員会)が西海岸クジラ類研究所のジム・ダーリング博士をリーダーとした「ザトウクジラ生態研究」を小笠原で開始……と、まさしく、小笠原とクジラの新しい時代の幕開けの年となったのである。――
 その後の動きは毎日新聞の記事をデータベースで読んでいくのがよさそうです。
 まずはその翌年、「鯨者連」は小笠原の人々を巻き込んでハワイに出現します。1989年1月24日の朝刊です。
 ――日本の自然保護グループがホエール・ウオッチング(鯨観察)のメッカ、ハワイ・マウイ島に繰り出し、本格的な観察会を行う一方、アメリカ、カナダの学者の参加を得て「鯨の保護」をテーマに日米加合同のシンポジウムを開く。また国内でホエール・ウオッチングができる小笠原島の村役場職員や商工会員らが同行、村おこし計画の秘策を練る。
 このグループは、漫画家の岩本久則さん(50)や自然保護の書籍を出版している「野鳥社」社長、玉井昭彦さん(42)ら自然愛好家で作る「鯨者連(げいしゃれん)」。昨春、小笠原で日本初のホエール・ウオッチングを行った。この時のメンバーはカルチャーショックに近い衝撃を受けた。10メートルを超える鯨が大海原を悠々と泳ぎ、潮を吹く。海中にマイクを入れると、一定のパターンをもった鮮明な鯨の声が聞こえた。
 日本国内でもバードウォッチングの流行が野鳥保護を根づかせたように、実態を見ることが保護につながると「世界中の鯨を観察しよう」とその第一弾として今回のハワイ・ツアーを企画した。参加者は鯨者連の呼びかけに応じたサラリーマン、主婦、そして小笠原村関係者計30人。24日に出発、4泊6日の日程で、うち2日間、100トン級の船を2隻チャーターして鯨の観察会を行う。
 観察会終了後に行うシンポジウムにはカナダの「ウェスト・コースト・ホエール・リサーチ財団」で鯨観察を続けているジム・ダーリン博士とハワイ鯨類保護財団のジェームス・ラッキー博士を招待。ダーリン博士は鯨者連の小笠原ツアーにも同行しており、この時、鯨者連メンバーと一緒に調べた鯨の特徴とハワイで観察したものを比較した調査結果を発表する。
 世話人の玉井さんは「国内で調査捕鯨の是非など鯨の論議は盛んに行われているが、実際に鯨を見たことがある人はごくわずか。論議のためには、まずその実態を自分の目で見ることが大切だと思う」と話す。――
 見て楽しむだけのはずのホエールウォッチングですが、これが始まると、それまでは捕鯨関係者にしか見えなかったクジラが、あちこちで見つかっていったのです。1990年12月1日の朝刊によると、日本でも3カ所で受け入れ体制が整い初めています。
 ――クジラ・ウオッチングが盛んになってきた。日本でも、クジラは「捕る」時代から「見る」時代に変わってきた。しかし、観光用の船を仕立てても、相手は野生動物なのだから、必ずしも見られるとは限らない。クジラの生態などを説明できる専門のガイドをどうするか、ウオッチングできなかった場合、観光客への“アフタケア”をどうするか、新しい課題も生まれてきた。
 現在、クジラ・ウオッチングは東京の小笠原村、高知県の室戸市と大方町の3カ所で行われている。
 最初に始めたのは小笠原村。ここでは太平洋を回遊する体長十数メートルのザトウクジラが見られる。観察できるシーズンは2月から4月。15〜30人乗りの漁船で沖へ約3キロも行けば、宙に舞うようなジャンプやイルカの群れが見える。
 昨年3月からウオッチングを始め、昨年の観光客は2,500人、今年は5,000人と人気は上昇している。クジラが見られなかった場合には、翌日無料でまた船を出しているが、東京から出ている定期船の便が悪いのが最大の難点。
 小笠原ホエールウオッチング協会は「ここと同じザトウクジラが見られるハワイでは、お客が乗船してからクジラを見つけるまでの間、専門家がじっくりとクジラの生態などを説明してくれる。ここではまだ専門のガイドがいない」と今後の課題を話す。
 昨年7月から町ぐるみでスタートさせたのは大方町。シーズンは4月〜10月で、体長十数メートルのニタリクジラが観察できる。イワシクジラにそっくりで、一年中、
沖にいる。7〜12人乗りの小さな漁船で出かけるが、見られる確率は6〜8割。船がエンジンを切って待っていると、近づいてくる場合もある。
 ニタリクジラはザトウクジラのように鳴かないため、見られなかったときに、どんなアフタケアをするかが大きな課題。専門ガイドが乗船していないのも悩みの一つだ。そこで、少しでもみんなにニタリクジラのことを知ってもらおうと、いま地元の若者グループが水中写真集の出版を計画している。
 室戸岬沖ではゴンドウクジラの他、メルヴィルの小説「白鯨」に出てくるマッコウクジラが見られる。1,000メートル近くの深さまで潜るといわれるマッコウクジラが肉眼で観察できるのは世界でも珍しいが、ここでは8〜9割の確率で見られる。
 ガイドをつとめている山田勝利さんはかつて南氷洋で捕鯨船に乗った漁師。「マッコウクジラが船と一緒に泳いでくれると本当にうれしい。ただ見えなかったときにどうするかが問題だ」と語る。――
 ホエールウォッチングの努力のひとつは、一体全体、全部でどれくらいいるのか? という疑問に向けられていきます。年が明けて1991年の2月19日の朝刊には「乱獲で一時激減のザトウクジラが日本近海に約1,000頭生息」という見出しが立ちました。
 ――乱獲のために一時は激減したザトウクジラが日本近海で生息数を回復、最大で約1,000頭いることが世界自然保護基金日本委員会(WWFJ)の調査で18日明らかになった。これまで生息数は約300頭前後といわれ、WWFJは「回復の兆しは朗報だが、重要な繁殖区域を中心にした保護対策が全く行われていない。早急な取り組みが必要」としている。
 この日発表された調査班リーダーのジム・ダーリング米国西海岸クジラ類研究所研究員(40)の中間集計によると、3年間で183頭を識別。繁殖海域は、小笠原諸島(東京都小笠原村)と慶良間諸島(沖縄県座間味村)の両沖合。このうち2頭は、両海域を行き来していることが確認された。この結果、調査班は、海域の面積、同一個体の出現数などから最大で1,000頭、少なくとも500頭が両海域を回遊していると推定した。
 生息数の推定は、ハワイやメキシコなどで行っている方式による。
 また、オスのクジラの鳴き声のパターンや親子連れの行動から、両海域とも単なる通過点ではなく、一定期間滞留し、交尾・繁殖が行われていることが分かった。同調査班は「北太平洋では最も北側の繁殖海域と思われる」としている。
 慶良間諸島沖での繁殖はこれまで、一部の学者が可能性を指摘するだけだったが、今回調査で初めて確実になり、「群れ行動についての今後の調査が進めば、さらに生息数が増加する可能性もある」(ダーリング氏)としている。――
 こうなると、ホエールウォッチングとなどういうものかを読者に知らせる体験ルポが登場するのは時間の問題です。同じ1991年の5月24日の夕刊のTOP50(東京港開港50周年記念事業)特集で、イベントのひとつだった「太平洋くじらウオッチング」が再現されました。(文・原剛)
 ――「十時の方角、注意! さあ、飛び出すぞ」。アイランドクイーン号の山田捷夫キャプテンが指す海原に視線が移った瞬間、紺青のうねりを割って巨大なクジラが全身、宙に舞った。
「ウワーッ。でた、でた、でたぞーっ」
 へさきの若者が波しぶきを浴びて叫ぶ。ラテン語で“大きな翼”の学名をもつザトウクジラの、ジェット機離陸の瞬間を思わせる迫力に満ちたブリーチ(ジャンプ)だ。体長15メートル、体重40トン。たけだけしい海流にのって何頭ものクジラが潮を噴きあげながら浮上してきた。「子連れのメスとエスコート役、それにもう一頭、全部で4頭いる」と山田キャプテン。クジラの群れから注意深く距離を保ち、生態を解説する。
 純白の胸ビレが波間にスックと伸び3度、4度「おいで、おいで」を。優雅なペックスラップ(胸ビレの打ちつけ)だ。タタミ3畳ほどもある尾ビレがヌーッと海面に逆立つ。滝のようにほとばしる海水。豪快に波頭をたたき砕くテールスラップ(尾ビレの打ちつけ)に歓声があがる。
 4月4日、父島・二見港から6キロの弟島・スモール沖。ギザギザの岩の海底、水深70メートル。南転した上げ潮の海にザトウクジラが続々と現れ、遠来の客に素晴らしいパフォーマンスを演じてみせた。
「大きい。本当に大きい。感激!」「同じほ乳類の仲間としての親近感すら感じ、胸がつまる思いがした」
 海路28時間、超高層ビル街から抜け出してきた東京の高校生たち150人は、クジラとの出合いをそう記した。
 アメリカから返還20年目の88年4月、東京都小笠原村は「村おこしに」と日本で初めてホエール・ウオッチング・ツアーを売り出した。「あっという間のブームです。今年はもう4,000人近くがクジラ見物に。島おこしの効果は絶大です」(小笠原村村民課、渋谷正昭さん)
 国際捕鯨委員会の勧告で北太平洋のザトウクジラも禁獲とされ、絶滅寸前から蘇(よみがえ)る。いま小笠原諸島の近海でおよそ500頭が12月末から5月初旬にかけて繁殖、子育てをしている。――
 観光としてのホエールウォッチングが盛んになるのと平行して、調査研究も進んでいきます。1992年2月6日の朝刊には次のような記事が載っています。
 ――世界的に捕獲禁止のザトウクジラ(ヒゲクジラ類)が小笠原諸島や沖縄本島の周辺海域を繁殖海域にし、ハワイ海域へも回遊していることが、世界自然保護基金日本委員会(WWFJ、事務局・東京)が5日公表した「日本近海における回遊実態調査」で分かった。
 調査は1987年から91年まで実施。小笠原、沖縄の沿岸約8キロ以内に小型ボートを出し、延べ586頭を観察、尾ビレの模様を写真撮影して個体識別した。
 これと米国の民間海洋研究所が収集した206頭分の尾ビレ写真を照合した結果、1頭が同一と判明。この個体は90年4月に父島で観察され、10カ月後の91年2月にハワイ・カウアイ島に現れていた。両海域間の距離は約6,000キロ。過去の調査では沖縄〜ベーリング海(約5,000キロ)を回遊した例が報告されているが、今回はそれを上回る長距離移動が確認された。
 また、今回の調査では生後間もない子クジラを連れた群れがあり、繁殖期の雄が出す鳴き声(ソング)も初めて収集された。――
 記事はまだいろいろありますが、ホエールウォッチングが小笠原をまったく新しい観光の島に変えつつあるという5年目の中間報告(1993年5月8日夕刊)。
 ――ボニン(無人)アイランドと呼ばれる小笠原諸島は、捕鯨基地として開拓された。5年前、商業捕鯨中止の翌年に日本で最初のホエールウオッチングが行われた島でもある。同時に始まったザトウクジラの研究では、これまでに381頭を識別。ハワイで確認されたのと同じ鯨がみつかり、ザトウクジラの系群や回遊の解明に成果を上げている。鯨にストレスを与えないようウオッチングの自主ルールを制定するなど、人間と鯨の新しいつきあい方の模索が続いている。(社会部・山手秀之)
 北太平洋のベーリング海付近から毎年12月ごろ回遊してくるザトウクジラは、暖かい小笠原諸島周辺海域で冬を越す。2月ごろには、1頭のメスをめぐってオス同士が争い、水面近くで体をぶつけあう交尾集団が観察される。出産や子育てをして、5月ごろには親子連れで北の海に帰っていく。
 調査は1988年4月、カナダの鯨類研究学者、ジム・ダーリン博士が来島して始まった。ザトウクジラの個体を識別するには、人間の指紋に相当する尾ビレの裏側の模様が決め手になる。潜水する時に見せる尾ビレを1頭ずつ写真撮影し、それぞれの鯨のIDフォトを作成する。繁殖期のオスの鳴き声を、水中マイクで録音する作業も続けられた。
 その結果、周辺海域の推定来遊数は500〜1,000頭。オスの鳴き声は、メキシコやハワイで録音された“歌”と似ており、北太平洋で群れ同士の交流があること、旋律は数年で変わり、鯨の世界にも流行歌があることなどが分かってきた。――
 ――観光の目玉になったウオッチングは、小笠原諸島返還20周年事業として88年4月、漫画家の岩本久則さん(53)らが音頭をとって、「鯨者連」を結成、ツアーを組んで乗り込んだのが始まり。昨年からは夏の海水浴客を上回るようになった。
 小笠原ホエールウオッチング協会では、鯨の繁殖に悪影響を与えないよう、「鯨の50メートル以内に近づかない」などの自主ルールを定め、会員以外の船にも守るよう要望している。
 渋谷正昭事務局長(35)は「ウオッチングは人間が鯨に思い入れを寄せて、一方的に感動しているだけ。鯨にとっては人間がいないほうがいいに決まっている。ストレスがかかれば、繁殖海域を変えてしまうかも。人間の方で規制して、少しずつ見せてもらえばいい」と話す。
 海に適応し、進化の頂点に立った鯨の巨体は、地球の生命の多様性の象徴。異文化に対する寛容と人間の価値観の多様性を問う存在でもある。小笠原では「見る鯨」のサステナブル・ユーズ(持続可能な利用)を目指し始めている。――
 このような新聞記事で生態学的な基本データを提供してきたWWFJの調査に最初から参加してきたのが東海大学大学院生の森恭一さんで、最初に紹介した『小笠原ホエールウォッチングガイド』では「小笠原のザトウクジラ研究経過リポート」という章を立てています。1990年までと初期の段階の報告ですが、これもまた立ち上がりの様子をみごとに再現してくれています。
 ――我々は、l988年より小笠原海域で世界自然保護基金日本委員会(WWFJ)と小笠原村から助成を受けて、ウミガメの研究で知られる小笠原海洋センターの協力のもとに、このクジラの生態調査を行ってきている。さらに1989年からは小規模であるが沖縄の慶良間でも調査を開始した。
 私は、ジム・ダーリング博士(西海岸クジラ類研究所)をリーダーとしたこの調査にl988年の調査開始より参加し、現在では小笠原海城での調査を担当している。ここでは我々の調査の概要と小笠原海城で今までの調査で分かってきたことを紹介する。
 この調査は、日本近海に回遊してくるザトウクジラの回遊動向および生息数の推定、ハワイやメキシコなど他海城との交流の有無を調べることを目的としている。
 ザトウクジラの尾ビレの裏側の模様や傷跡は個体ごとに異なり、深潜水の前にはしばしば尾ビレを水面上に上げることから、これを同定の形質として個体を識別することができる(Katona et al. l979, Darling and Jurasz l983)。調査では、この部分を撮影して特徴を記録し、カタログ化する。そして、同一海城あるいは他の海城との間で、写真で識別された個体どうしを照合し、交流の有無などを調べる。他の海域の写真は、北太平洋のザトウクジラの場合、アメリカの国立海産哺乳動物研究所に一括して登録され(Mizroch et al. l990)、必要に応じて研究者に堤供される。もし、同一個体が異なる機会に確認された場合には、その個体の回遊実態や成長、また系統群を知る手がかりとなる。また、識別個体の再確認される割合からその生息数を推定することも可能である(Darling and Morowitz l986)。
 ソングと呼ばれる鳴音の旋律は、異なる海城間でも完全に一致していればそれらの集団間に何らかの交流があり、全く異なっていれば交流がないと考えられている(Payne and Guinee l983)。したがつて、水中マイクを使ってこのソングを収録し、他の海城と比較すれば、それらの海域間の交流などを知る手がかりとなる。
 我々はこの尾ビレの写真と鳴音データを集めるため、父島と母島周辺海城を小型のボートを使用して調査した。探鯨は、この船からおもに目視によって行い、条件が良ければソングの強弱からクジラの位置を割り出す方法も併用した。さらに、父島では海ぎわの高台にあるウエザーステーションに待機している観察者からクジラの発見情報を受け、無線による誘導でクジラに接近した。クジラを発見したときには、まずその位置、頭数、親仔連れであるかどうかの確認、およびその行動を詳細に記録し、可能な限り個体識別用の写真撮影とソングの収録を行った。また、ウエザーステーションからは継続的な観察を行い、発見したクジラの位置や遊泳方向、群れの構成頭数などを記録した。l988年と89年の調査では、3〜4月に調査を行ったに過ぎないが、l990年からは、小笠原海洋センターがこの調査に参加したことにより、調査努力量が格段にアップし、ザトウクジラの回遊盛期を中心に、12月から5月の幅広い期間の調査が可能となった。
 ザトウクジラは、父島と母島の周辺海城では毎年l2月から5月にかけて来遊し、特に2月下旬から4月上旬が回遊の盛期であることが分かってきた。調査船の限界により、沖合いを調査することはできなかったが、漁船などからの情報も総合すると、岸近くから沖合い約10キロ以内におもに出現することも分かった。
 3年間の調査で、我々が個体識別できたザトウクジラはl50頭を越えた。調査開始以来、毎年観察される個体もある。照合作業の途中であるが、東部北大平洋で識別されている約2,000個体と89年までに小笠原海域で識別された60個体の間には、尾ビレの裏側の特徴が一致する個体は見つかっていない(Darling l989)。現在、1990年の小笠原および沖縄海域の写真も加えて、他海域との間で同一個体の発見がなかったかどうか調べている。
 ソングの予備解析では、小笠原海域とハワイ海域のものとの間でその旋律が非常に似ていることが判明した(Darling l989)。
 3〜4月に小笠原海域で観察されたザトウクジラの群構成は、親仔連れ、親仔連れとそれに同行する1頭ないし数頭のエスコート、1頭(シンガーあるいはシングルトンと呼ばれる個体)、2頭連れ、3頭から5頭連れ、およびl0頭前後におよぶ交尾行動をとる集団であった。この時期、1頭あるいは2頭でいる群れを見かける割合が最も多く、次いで仔を連れている群れを見かける。
 調査のリーダーであるダーリングの予備的な結論(Darling l989)によれば、1989年までの結果では、この海域にザトウクジラがどのくらい来遊してくるのか詳細に推定する段階には至っていないが、再識別される数が少ないので、まだかなり多くの個体が来遊しているはずである事。また、この海域で親察される群れの社会的組成と行動様式は、この海域が本種の交尾および育児海域の一部であることが示唆された。他の海域との関係は、ソングの予備解析によると、同じ時期のハワイ海域およびメキシコ海域で収録したものと非常に類似しており、小笠原海域とこれらの海域との間に、ある程度の交流があることが推測される。しかし、日本近海のザトウクジラと中部および東部太平洋のそれとの間に本当に交流があるかどうかは、写真による識別では同一個体の発見は今のところなく、現在のところ判断できない。今後もこれらの海域間で照合作業を続けることにより、この問題はやがて解決するであろう。――

●BONIN(ぶにん=無人)の島の歴史

 小笠原諸島は東京から約1,000キロ南に位置しますが、さらに南にあるマリアナ諸島(グアム島、サイパン島など)から見れば中間地点という感じになります。歴史上最初の定住民は英国人と米国人とハワイのカナカ人などの一団であったといわれます。1830年(天保元年)のことでした。
 小笠原水産センター所長だった倉田洋二さんという人が地元の各家庭から集めた写真で構成した『寫眞帳小笠原・発見から戦前まで』(1983年初版、1993年改訂第2版、アボック社)はなかなか見応えのある小笠原写真史となっています。その最初、明治以前に関しては各種文献などの挿図をこまめに集めています。年表と合わせてそれらの図版を見ていくと小笠原の独特の歴史が見えてきます。まずは最初の定住までの年表項目から小笠原諸島の発見・上陸に関するものを抜いてみます。
1543年――サン・ファン号(船長ベルナルド・デラ・トーレ)、フィリピンから東航中、無人島(硫黄列鳥)を望見、ロス・ウォルカスと命名。――
1639年――オランダの航海者マチアス・クワストが、東インド総督の指令で航海中、無人島(沖ノ鳥島・北硫黄島・小笠原列島)を望見。――
1670年――2月阿波国(徳島県)海部郡浅川浦船主勘右衛門、船頭安兵衛、紀州藤代から江戸へ蜜柑を輸送中、暴風に遭遇し母島に漂着。――
1675年――幕府船(船頭島谷市左衛門)が無人島に渡航し、調査し帰着、幕府はこの島に「ぶにん島」と命名した。――
1824年――英国捕鯨船「トランジット」号、船長ジェームス・コフィン、母島来港。――
1825年――英国捕鯨船「サプライ」号、父島二見港に寄港。――
1827年――英国軍艦「ブロッサム」号(艦長フレデリック・W・ビーチー)、聟島、父島列島に来航、父島洲崎に英国の領有宣言の銅板を掲げる。――
1828年――ロシア軍艦「セニャーヴィン」号(艦長リトケ)来島。――
1830年――イギリス人マテオ・マザロ、アメリカ人ナサニエル・セーボレーら5人の白人が、ハワイのカナカ人15人あまりと父島に移住、最初の定住者となる。――
 これに関して本文には次のような解説があります。
 ――鯨を迫って捕鯨船が、しばしば小笠原に来航した。文政6年(1823)トランシット号(米国)が寄港し、船長にちなんで母島列島をコッフィン諸島と命名した。文政8年(1825)サプライ号(英国)が父島に入港した。
 文政10年(1827)ビーチー艦長の指揮する英艦ブロッサム号は父島に入港。英国皇帝の名において小笠原島の領有宣言を行い、英領である事由を銅板に刻んでタマナの木に打ちつけ英国旗を置いたという。そして、ビーチー艦長は、父島をピール、兄島をバックランド、弟島をステープルトン、聟島列島をパリー、母島列島をベーリーと名をつけて去った。――
 1820年代というのはアメリカの帆船捕鯨の全盛期で、マッコウクジラを追う捕鯨船が「ジャパングラウンド」と呼ばれた日本近海にもかなりの密度で出没していました。日本沿岸の各地にようやく登場してきた大資本型水産業である捕鯨に大きな打撃を与えることになるのがこのアメリカ捕鯨船の沖捕り捕鯨だったのです。
 そのような状況のなかで小笠原諸島は太平洋の西に位置する絶好の補給拠点として各国の注目するところとなったのですが、そのはるか前、1675年に島谷市左衛門の小笠原探検がありました。この探検隊の「無人島大小八十余山之図」という実測図は、のちに林子平の『三国通覧図説』に記載されるなどして、ヨーロッパに伝えられていたことから、日本領有の基礎的な根拠となるのです。
 黒船騒ぎはこの後です。日本の領土であることが確定するまでの年表から、やはり直接的な項目だけを抜き書きしてみます。
1837年――英国軍艦「ローリイ」号入港。――
1840年――1月4日陸奥国(岩手県)気仙郡の中吉丸が父島に漂着、島民に助けられ63日間在島、3月7日出帆、下総国(千葉県)銚子浦に着く。――
1851年――英国軍艦「エンタープライズ」号来島し、住民に英国旗や武器弾薬を与える。――
1853年――6月14日アメリカ東インド艦隊4隻は日本へ来る途中沖縄へ寄港し、そこから司令官ペリーはサラトガ、サスケハナ号で父島二見港に来島、島民に牛、羊、山羊、野菜の種子を与え、石炭補給所の敷地165エーカー(約67へクタール)を購入した。当時父島には31人の居住者がいた。――
1853年――7月25日ロシアのプチャーチン提督、軍艦パラウダ号で日本訪問途中、二見港に寄港。――
1861年――12月4日幕府外国奉行水野忠徳以下92名、小笠原調査のため咸臨丸を派遣、12月19日父島に着船。居住者に日本領土であることを知らしめる。小花作之助ら6名は島務をとるため島に残る。――
1862年――幕府は朝陽丸、平野船(捕鯨船・平野一番丸)、千秋丸と続いて食糧、移民38名を運ぶ。――
1863年――5月幕末の国内事情のため朝陽丸で官民総引揚げ、開拓中断。小笠原の領有をめぐり英国との間で論争がさかんになる。中浜万次郎、米式捕鯨を小笠原で試みる。――
 江戸幕府による小笠原領有の外交施策は咸臨丸によって行なわれたのでした。本文の方には次のように書いてあります。
 ――小笠原に他国の開拓者が入りこんでいることは小友船(天保11年・1840)の報告や、その他の種々の情報で判っていた。
 そこで、万延元年咸臨丸遺米の往復路に、小笠原調査を計画したが果たせず帰国した。その時贈られた「ペリー提督日本遠征記」の書中に、小笠原の記事があり、イギリス領有の宣言の事実や、英国製地球図に小笠原が英領(1860年版)となっているのに驚いた幕府は、朝陽丸、威臨丸、オランダ航傭船と種々派遣する計画をたてたが内外の諸事情でなかなか果せないでいた。しかし、ついに文久元年9月外国奉行水野忠徳が小笠原開拓御用を命ぜられ、12月に出航となった。外国奉行直々の任命は、幕府が小笠原対策をいかに重視していたかが判る。水野忠徳は巡検にとどめず邦人を移住させ開拓すべきを進言し入れられた。幕府は文久元年(1861)11月16日、各国公使に小笠原島開拓に着手することを通告した。米国は自国の住民の権利を尊重するよう要請し、英国は1827年の英領宣言に触れ、日本は小笠原島を放置し英米両国の開拓にまかせていたので、小笠原島は各国共有地だと述べている。
 威臨丸は文久元年12月7日浦賀を出航、12月19日父島に到着した。上陸した水野忠徳は開拓者たちを集め、日本領であることを宣言し、開拓者の既得権は保護尊重する旨を伝え、日本の政治のもとに安心して業に従うよう勧めている。そして開拓計画、治安維持、入港等の規則を作り、英訳しては島民に布告しているが、これらの仕事に中浜万次郎が大いに活躍しているのである。一方、島内の探検も行い島々の探検の様子は「小笠原真景図」によくえがかれている。――
 時代は大きく変わります。
1873年(明治6)――明治政府は小笠原を領有統治する方針を固める。――
1875年(明治8)――11月21日官船明治丸で外務省官吏田辺太一らの調査団が父島と母島に派遺された。小笠原の住民(欧米系のみ)は日本の所管に従うことを諒承した。英国軍艦「カーリュー」号は11月23日明治丸の後を追い、父島に向け出帆、26日入港、1827年ブロッサム号が洲崎に掲げた英国領有宣言の銅板を回収し、12月3日帰路につく。――
1876年(明治9)――10月諸外国に小笠原の日本領有統治再開を通告。この時、諸外国からの反対がないため日本領であることが確定。12月小笠原島内務省出張所長小花作助一行が大平丸で父島に着任、扇浦に仮庁合を建設。東京〜父島間の定期便船(年3回)を開設(郵便汽船三菱会社、のちの日本郵船)。――
 明治11年(1878)に213人だった人口は徐々に増え始めて明治17年(1884)に500人を突破します。以後、
明治21年(1888)……1,000人突破
明治23年(1890)……2,000人突破
明治27年(1894)……3,000人突破
明治28年(1895)……4,000人突破
明治32年(1899)……5,000人突破
となり、以後4,000人弱から5,000人強のあたりで増減しながら大正時代に入り、大正年間は5,500人から6,000人でほぼ安定します。再び増え始めるのは昭和10年を過ぎてからで、
昭和10年(1935)……6,729人
昭和15年(1940)……7,361人
 そして昭和19年(1944)には欧米系帰化人も含めて6,886人が本土に強制疎開して小笠原は完全な要塞となったのでした。
 太平洋戦争後、アメリカの統治下に置かれたBONIN ISLANDSには昭和21年(1946)に欧米系の島民だけが帰島を許され、小笠原の日本への返還は昭和43年(1968)を待つことになります。
 アメリカ統治下で人が住んでいたのは父島だけでしたが、返還後には母島の集落も復活し、現在では父島に約1,400人、母島に約200人が住んでいます。

●東洋のガラパゴス

 日本復帰後の昭和47年(1972)に、母島診療所の初代所長となった松木政雄さんが書いた『新しい小笠原の唄』(1975年初版、1980年再版、五月書房)は「半島民」でなくては書けないエッセイ集ですが、ここでは「天然記念物」にまつわる3話を読んでおきたいと思うのです。
 まずは天然記念物オガサワラオオコウモリについて。
 ――小笠原大こうもりは、世界広しといえども、この小笠原以外にはいない、完全な固有種であり、貴重な天然記念物である。
 黄昏時になると、山の方から人里の近くに、数羽が連らなって、悠々と飛んで来るのを見るが、実にのんびりとした風景である。
 竜舌蘭の花の蜜を吸い、桑の熟した実を喰ベ、タコの実を、その鋭い歯で噛じり、時には、農家が丹精して作ったパインアップルや、バナナ、パパイヤなどを集団で喰べてしまう事もあるが、兎に角、美食家で知られている。その為に、アメリカ占領時代には、グアム島が比較的近い関係もあって、グアム島からの注文で、この小笠原大こうもりを、大量に捕獲して、氷漬けにして、送ったそうである。
 当時から住んでいる父島在住のエーボさんと云う欧米系島民によると、1羽が2ドルで売れるので、夜、懐中電燈で捜して歩き、鉄砲で射落して、100羽、200羽と輸送したと、話してくれたが、大こうもりの肉は、美食の為非常に美味で、香りが良いので、グアム島では、高級料理として1羽10ドル以上で、喰ベられていたそうであった。
 そんな関係からか、父島には、非常に数が少なくなってしまっている様だが、山の深い母島には、農家の一部では、作物が荒らされたりするので、害獣だと云う声さえ出る程、沢山住んでいる。
 私も、飛んでいるのは、良く見るが、一度はぢっくりと、近くで観察したいと思っていたが、最近、非常に珍らしい事が起って、その望みがかなえられたのであった。
 昨年の9月の下旬の事である。私の住居の2階の台所の窓の外に、漁師から貰ったムロアジを干物にする為に、ぶら下げて置いたまま取り込むのを忘れて夜になってしまった。
 その頃は、毎晩、裏の桑の実を喰べに、大こうもりが、ギャアーギャアーとないて集まっていた。
 その夜も、10時過ぎて、訪問客も帰えり、そろそろ寝ようかと、台所の電燈を消しに行ったところ、トントンと窓ガラスをたたく音がするので、何気なしに近寄って見た途端、私はびっくりして、一瞬、ギョッとした。
 気を取り直して良く見ると、黒い羽根の様なものが動いているのだ。
 やっと、しばらくして、それが、大こうもりであるのを見届けると、私は、そっと、窓を開いた。途端に、にゅうと、大こうもりが、茶色のくりくりした愛矯のある眼で、私を見乍ら、丁度、洗い熊の様な顔を突き出して、けげんそうに首をかしげたのであった。
 その姿は、全身が房々とした黒い毛に覆れて、大きな羽根をたたんで、何んとなく手長猿にも似ている感じであった。
 大こうもりは、私よりも、冷静なのか、驚いた風もなく、案外ぢっと落着いていた。
 私も、こんなにおとなしいのなら、一つ、掴まえてやろうと云う気になったが、何しろ、良く見ると、たたんだ羽根にも、足にも、鋭い爪があるので、うっかり手は出せないと思案している中に、私の心が判ったのか、もそもそと、方向を変えて、やがて、暗い闇の中に去って行った。
 翼を拡げた訳ではないので、よくは判らないが、恐らく、翼を拡げると70〜80糎はあるのではないかと思った。
 翌朝、何故、台所の窓などに顔を出したのかと不思議に思って調べて見たら、ムロアジの干物に、大こうもりの爪の跡と、肉を喰べた痕を発見して、やはり、それが原因だったのかと合点がいったが、それにしても、花の蜜か、果物類しか喰べないと云う島の人達の話も余り当てにはならないと思って、この話を島の人達に説明したのだが、誰も信用しないので、不愉快な
気分でいると、そのうちに、一人が、多分、大こうもりも、天然記念物に指定されてからは、殖え過ぎたので、食糧難の為、たまたま、魚を喰べに来たのだろうと、もっともらしく解釈をしてくれた。
 私もなんとなく、納得のいく様な、いかない様な気持であったが、兎に角、あの夜の、台所の窓から顔を出した、大こうもりの、愛矯のある姿が、今でも、はっきりと眼に浮ぶのである。(昭和49年3月2日)――
 つぎは天然記念物オカヤドカリ。
 ――やどかりと云えば、普通は、海辺にいるのを想像するだろうが、小笠原には、海やどかりの他に、陸やどかりが沢山いて、標高400米もある高い山の中にも、這い廻っている。
 先日も、学校関係の出版社の取材班の人達が母島に来て、本来は、海辺にいる筈の、やどかりが、山の頂上の方まで登って、住んでいるのを見て、驚いたり、不思議がったりしていた。
 然も、相当大きなものも多くて、10糎以上もある殻の中に入っていても、それでも尚窮屈そうに見える位のが居る。
 その為、他では見られない珍しさが禍いして、内地に持ち帰えると結構な土産にもなるので、父島では、大部乱獲された様であるが、天然記念物に指定されてからは、島民の自覚と、観光客に対する注意が行き亘り、保護化も順調の様である。
 アフリカ・マイマイの天敵である事は、既に、紹介したが、その事だけを取っても、貴重な存在なのだから、一匹でも多く殖やして欲しいものだ。
 その点、母島に於ては今の所、観光の波が押し寄せて来ないので、到る所にのんびりと、やどかりが住んでいるのは、楽しい限りである。(昭和48年9月8日)――
 海の貝ではカサガイが天然記念物に指定されています。
 ――小笠原の海岸線の岩には、傘貝、嫁傘が、沢山へばり着いている。丁度陣笠に似た恰好で、貝の中身はあわびに似ている。
 歯の丈夫な人だと、生のまま塩水をつけて喰べたり、殻のまま焼いて喰べたりすると、香ばしくて美味である。
 然し、小笠原が返還されて間も無く、傘貝は天然記念物に指定されて採取する事が出来なくなった。
 嫁傘と云うのは、傘貝にくらべると、やや楕円型をしていて、小振りであるが、これは天然記念物では無い。それと云うのも、この種類は、小笠原独特のものでは無いからである。
 然し乍ら、島民達が磯遊びに行くと、穴蛸や宝貝などと一緒に、傘貝も取って来ているのを見かける
 天然記念物だとは云っても、沢山いる事だし、喰べれば美味なのだし、この島で育った子供の頃から、何の抵抗もなしに取っていたのだから、喰べる位は、仕方がないさと云う位の、簡単な気持なのである。
 確かに、島民が取る位では、この貝は現在の所は、無くならないだらうし、むしろ、殖え続けるだらうが、何時までも、そのままにして置いては困るので、最近になって、小笠原支庁が中心となって、自然保護プロジェクトチームなる組織を、島民と一緒に編成して活動を開始したので、その成果が期待されるわけである。
 貝細工は、海のある所なら何処でも作られているが、この傘貝をかぶった嫁傘人形は、誠に風情があって、私の好きな貝細工の一つであるが、小笠原の土産品にするには、天然記念物と云う制約があって、永久に望めないのは残念である。(昭和年9月10日)――
 小笠原の緑に関しては母島育ちの星典さんの『小笠原は楽園 森と農地のボニノロジー』(1995年、鎌倉市・アボック社出版局)があります。復帰直後の昭和46年(1971)の夏、島との再会の日誌からこの本は始まります。
 ――7月23日
 午前8時、重装備で北村を出発。
 庚申塚、ヤシ台、桐浜を経て石門山へ向かう。
 一気に標高300メートルの石門山鞍部まで登るつもりで出かけたが、25年の歳月は山登りの勘まで鈍らせたせいか気息奄々、約3時間を要して、12時30分頃、鞍部へ到達する。
 途中、臥龍桑(オガサワラグワ)の撮影をする。林内に入ると何か分からないが異様な感じを受ける。
 昼食のため水を求めて一路、小屋の沢への林道をたどる。林道の跡形ははとんどなく、何時の頃か大がかりな山崩れがおきた跡がところどころに見受けられる。
 1時20分頃、小屋の沢へ到達。
 旱魃期の今頃としては割合に水があり、20〜30人の宿営が可能と思われる。途中、大イチビ(テリハハマボウ)の撮影を行う。昼食後、石門山の心臓部「上の段」の森林内へ入る。2時30分頃、大桑の根株を発見する。
 この頃になって、山内の異様な雰囲気の原因が判りかけてきたような気がしてきた。
 それはかつて、石門山の鬱蒼たる林相を形成し、熱帯林特有の板根を拡張して、王者の偉容を誇っていたアカテツ(島名クロテツ)、ホルトノキ、ムニンエノキ、ウドノキの大木など、主だった樹木のほとんどが地上からその姿を消し、第二次林的存在だった木々が主林木の地位を獲得しているが、これとて、生存競争のためにあまりにも密になり過ぎたためか、モンパ病が大発生して次々と倒伏しつつあるため、山が非常に浅くなり、加えてアフリカマイマイが大発生して、幾千幾万とも数知れぬマイマイが幼植物を片端から喰い倒し、特にオオバエビネ(後のホシツルランと思われるもの)、チクセツランなどは好むらしく、1〜2年にして絶滅するものと思われる。
 また、小笠原産、羊歯植物の中でも珍品のヒメタニワタリは、すでに絶滅したものと思われる。
 以上のような状況から、植生保護の難しさをあらためて思い知らされるような思いがする。いかに自然の植物とはいえ、人類の力をもって保護育成をはからなければ、その生命を維持することは出来ない。このことをあらためて認識させられる。
 5時30分頃、「中の段」を経て「下の段」のオガサワラグワ(小笠原桑)の造林地に達する。
 造林地の広さは約12町歩位、栽植本数は約1万本位あるように思われるが、生育はあまり良いとは思われない。大きなもので直径35センチ程度で、樹高は約12〜13メートル位である。
 モクタチバナ、ムニンエノキ、ホルトノキなどが密生し、このままではモンパ病(白モンパ病)が大発生する恐れがあるので早急に間伐されたい。ここでも、アフリカマイマイが大発生している。
 帰途が思いやられるので調査は行わず、一部の写真を撮り、早めに帰途につく。
 9時30分頃、北村に帰る。――
 星さんは島を林業で自立させようという立場から、高級建築・家具材としての臥龍桑(オガサワラグワ)、白檀、褐檀(アカギ)の植林を進め、あるいは各種香料、香辛料、薬用植物の植裁実験を続けてきました。まえがきに次のような一節があります。第2次世界大戦以前のことですが。
 ――時代がもうひとつすすむ。国が非常事態を準備していく過程で、この孤島が、資源植物栽培の実験基地として注目を浴びはじめる。その使命を帯びて、日本を代表するような先生方が続々と来島する。
「必ず引っ張りだされるんだよな。キャラメルー箱もらってさあ、山を案内しろって。なにしろえらい先生方だから、迷子にさせたらたいへんなことになる。俺も必死だったよ」
 道すがらの植物を先人たちは少年にくりかえして教える。
「これは世界にこの島にしかない。大事にしなさい」と。
 先人たちとのこうした邂逅をとおして、少年は森の案内人に成長し、その目は外にむかって大きく見開かれていく。
 大戦がはじまり島は激変する。敗戦、そして24年の長い占領時期。昭和48年春、この時著者は、まだ受け入れ体制の整っていない島に帰郷を強行する。
「すぐにシュロッパで家をつくった。そしたら、退去だ、家はつぶせと役所の連中が来ていきまく。わたしゃね、あんたらの世話にならないんだよって、平然としていたね。なにしろ、村再建のためにすぐにやらにゃならんことが山ほどある。山だって荒れ放題で俺を待ってるんだ」
 シュロッパ家とは屋根をオガサワラビロウの葉で葺いた著者ご自慢のマイホームで、これをわずか5万円でつくる。
「いいだろう。だから、小笠原は楽園なんだ」――
 星さんは小笠原の無人島時代の姿を想像できる人ではないかと思えます。「資源植物導入の歴史」という一文があります。
 ――小笠原への外来植物の移入は、天保元年(1830)マテオ・マザロを首長とする一行が農業の目的をもってハワイ島より労働者17人を連れて父島に渡来、この際、若干の疏菜、果樹類を携行し植栽したことを初めとする。また、文久2年、徳川幕府の本島開拓当時、水野筑後守が、杉、檜、蜜柑等を移植した。
 その後、内務省勧農局出張所が設置され、明治12年、同所長・武田昌次氏はインドに渡り、コーヒーノキ、ゴムノキ、モクマオウ、ココア、アノナなど多数の植物を持参し移植した。これは本島の本格的な熱帯植物移入の初めである。
 その後、交通の発達、渡来者の激増につれて移入植物の種類は多くなったが、現存する外来植物の大部分は、明治38年以降に移入したものがほとんどである。
 その主な国内からの導入先は、農林省林業試験場、東京都立農事試験場、東京大学付属小石川植物薗、内務省東京衛生試験所、京都大学付属小曽部園芸場、その他各種試験場、研究所、諸学校等であった。
 明治42年以降は、男爵・岩崎禰之助氏、元日本郵船株式会社社長・近藤康平氏、昭和年代に入ってからは、伯爵・林博太郎氏、相馬子爵等が熱帯果樹ならびに有用植物、観賞植物等を中心として多数を寄贈され、また、台湾総督府中央研究所林業部、元農林省林業試験場長・白沢保美博士、同・藤岡光長博士、元東京大学名誉教授・中井猛之進博士、元九州大学教授・金平亮三博士、元東京衛生試験所・刈米達夫博士等、多くの学者より有用・薬用植物の種子が寄贈され、育成繁殖された。
 このような経緯をもって、小笠原産の植物は、151科、653属、1253種に及ぶことになる。
 この中で、小笠原諸島の自生種は、当時、93科、257属、401種とされ、総数の32.06%に当たる。このことは、いかに多くの有用植物が短期間に外部から導人されたかを物語っている。
 この間、島内の植物調査も進展し、その後の書き換えがあったとしても、当時の小笠原固有属のほぼ全容が解明される。それは、シロテツ属(プランション氏設立)、ムニンヤツデ属(中井博士設立)、ワダンノキ属(中井博士設立)、ヒメタニワタリ属(早田博士設立)、シマウツボ属(マクシモウイッチ氏創定)の5属であり、種としては202種を数えられた。
 この数は、自生植物総数の50.49%に当たり、小笠原諸島は世界の植物分類の上でもきわめて貴重な位置を与えられることになる。――
 小笠原諸島が「東洋のガラパゴス」と呼ばれるゆえんをわかりやすく説明してくれているのは、小笠原自然環境研究会が編者となってまとめられた『フィールドガイド小笠原の自然――東洋のガラパゴス』(1992年、古今書院)です。総論の部分に「東洋のガラパゴス」という一節があります。この部分の執筆担当者は駒澤大学文学部自然科学教室の清水善和さんとなっています。
 ――小笠原のように島の成立以来,大洋中に孤立して存在し、一度も周辺の大陸と地続きになったことがない島を大洋島とよんでいる。大洋島の生物は、何らかの方法で(鳥に運ばれたり、海流や風に流されたり、流木に乗ったり付着したりして)島に偶然たどり着き、島の環境に適応して生き残ったものの子孫である。そのため、大型で海を越えにくい生物や海水に弱い生物は島に渡るチャンスがきわめて低く、一般に大洋島では大型の哺乳類や両生類、爬虫類、淡水魚類などを欠いている場合が多い。小笠原では在来の哺乳類はオガサワラオオコウモリのみ、爬虫類もオガサワラトカゲだけであり、在来の両生類や淡水魚類(ただし、オオウナギなどの二次的淡水魚は除く)はいない。猛毒へビのハブのいる沖縄と比べて、人に危害を与えるへビや毒虫のいない小笠原の山歩きはまことに気楽である。植物についても同様のことがいえる。沖縄や本土の森林では主要樹種となっているブナ科の樹木(ドングリの実をつけるシイ・カシの仲間)が小笠原にはまったく欠けている。また、マングローブ植物も存在しない。
 このような理由で大洋島の生物は、同緯度の大陸あるいは過去に大陸とつながりのあった大陸島と比べて全体の種数が少ないという特徴をもつ。例えば、沖縄と小笠原で類似の森林を比較すると、小笠原の植物は沖縄の2分の1から3分の1の種数しかない。そのため、大洋島では一つの種が幅広い環境条件の場所に進出する例がみられる。小笠原の森林に普通にみられるアカテツやモンテンボクは、乾燥した岩場では高さ30センチほどの盆栽のような形となるが、土壌の深い湿性の場所では樹高l5メートルに達する大木になる。また、動物では一つの種が本土の数種の役割を兼ねる例も知られている。母島特産の鳥メグロは、樹上ではメジロやヒヨドリのように花蜜を食ベ、シジュウカラやキツツキのように幹の表面を上下に移動し、地表では小型のツグミのようにピョンピョンはねながら昆虫をさがして食ベるという多様な習性をもっているという。
 大洋島に定着した祖先種は、その後本土の仲間とは隔離された状態で長期間独自の進化の道を歩むことになるので、本土のものとは異なった新しい種に変わる場合がでてくる。こうしてできた新種は世界中でその島だけにしかいないので固有種とよばれる。大洋島ではさまざまな生物のグループで固有種の占める割合がきわめて高くなる特徴がある。小笠原に自生する約400種の植物のうち約40%が固有種であり、樹木に限れば約70%の高率になる。さらに、約l00余種記録されている陸産貝類では、その約90%が固有種とされている。
 また、一つの種がいろいろな環境条件の場所に進出するうちにそれぞれの場所で新しい種に変わり、一つの祖先から出発して島のなかでいくつもの新種に分かれる種分化の現象も特徴的である。小笠原の植物ではあまり頭著な例がないが、トベラ属の4種、ムラサキシキブ属やハイノキ属の3種などがこれに当てはまる。小型で移動能力が低く種分化が起こりやすいと考えられる陸産貝類では、小笠原固有属のエンザガイ属で一つの祖先からl2種4亜種に分かれた例が知られている。
 捕食者となる哺乳動物がおらず、島の外へ長距離の移動をする必要もなくなった大洋島の鳥には、有名なモーリシャス島のドドのように羽が退化して飛べなくなった例が報告されている。小笠原でもすでに絶滅したオガサワラマシコやオガサワラガビチョウは飛ぶのが得意ではなかったと考えられている。林縁に腰を下ろしていると、メジロやウグイスなどがすぐ目の前までやってきてびっくりすることがある。捕食者のいない小笠原では警戒心が薄れているのであろう。また、大洋島の昆虫においても同様に羽の退化した例があり、一方、植物でも種子が巨大化したり、散布のためのカギ状のトゲや冠毛が退化したものが知られている(小笠原ではまだこのような例は確認されていない)。大型の草食動物を欠いた大洋島では、防御のためにトゲで武装したり有毒成分を含んだりした植物の割合も低い。さらに、地味な色の生物が多いのも大洋島の生物の特徴とされている。
 このような「温室育ち」の生物からなる大洋島の生態系に、外から生活力旺盛な生物が持ち込まれると、在来の生物にとっては大きな脅威となる。大型の哺乳動物のいない島にヤギやブタが持ち込まれ野生化すると、植生は致命的な打撃を受ける。また、捕食性のネコやイヌが野生化すると鳥類をはじめ在来の小動物を絶滅に追いやる恐れが大きい。小笠原では聟島列島、父島列島の各島に戦後野生化したヤギが繁殖しており、植生に対する食害が大きな問題になっている。弟島ではたくましい野生化ブタもみられる。また、移入陸産貝のアフリカマイマイや肉食性でアフリカマイマイの天敵として導入されたオカヒタチオビガイが固有の陸産貝類に悪影響を及ぽしている可能性が高い。植物でも移入種のギンネム、アカギ、リュウキュウマツなどが在来の森林のなかに侵入している。
 以上述べたように、大洋島の生物のあり方にはさまざまな特徴が認められており、本土や大陸島のものとは異なっている。世界的にみるとダーウィンの進化論との結びつきで有名なガラパゴス諸島や北米大陸から4,000キロも離れて孤立しているハワイ諸島などが典型的な大洋島である。
 小笠原は規模こそ小さいが大洋島の生物のあり方の特徴をほとんどすべて備えており、その意味で「東洋のガラパゴス」とよばれるのにふさわしいといえる。――

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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