キヤノン通信――12号 第3のトップランナー────500 万台を突破したキヤノンの複写機技術──1989.6(入稿原稿)


【キヤノン通信 12号 1989.6.30】

【特集】第3のトップランナー────500 万台を突破したキヤノンの複写機技術


 20年前、日本の複写機は青焼とよばれるジアゾ複写機が一般的でした。時代はようやく静電電子複写機に向かって動きはじめたところでした。
 当時、普通紙複写機(PPC=プレーンペーパー・コピア)は米国ゼロックス社の独占状態にあり、それに対抗するには米国RCA社のEF(感光紙を使用するエレクトロファックス複写機)の特許を使って、比較的シンプルな構造の複写機を作るしかなかったのです。
 そこに新しく参入したキヤノンは、大胆にも「将来の複写機は普通紙複写機でなくてはならない」というトップの大方針を掲げ、ゼロックス社の特許の厚い壁を独力でくぐり抜けることを決意したのです。
 NP方式はRCA社のエレクトロファックス方式、ゼロックス社のゼログラフィ方式につづくキヤノン独自のニュープロセス方式として、静電電子複写機の主流のひとつをかたちづくることになりました。アリの入り込むすきまもないといわれたゼロックスの特許を完全に突破して、その独自技術は、特許使用料だけでもすでに数十億円を売り上げています。
 今号では、そのNPシステムの誕生から、生産累積 500万台の技術史をたどります。

●技術の壁を破るのは技術

【1】複写機の発明

 複写機といえば、カメラもまさに複写機です。風景画の下絵をとるための暗箱(カメラ・オブスクラ)に感光性のキャンバスを開発したのがその初めだからです。しかしここでいう複写機は、紙に書いた文字や図をそのまま写し取れる平面複写専用機のことになります。
 複写機としては最初に、ジアゾ複写機が世に出ました。1924年のことです。紫外線を当てると分解して無色になるジアゾ化合物の感光紙を使う密着複写方式で、それが現在もなお、複写機の流れのひとつになっています。
 続いて1938年に米国のカールソンが静電電子複写の方式を発明します。これは光導電性の半導体の上に起こる静電気の働きを利用したものでした。
 光導電体にコロナ放電などで帯電させておいて原稿からの反射光を当てると、光の当たった部分が導体となって電荷がなくなります。そこに反対の電荷をもつトナー(着色粉)をふりかけると、光の当たらなかった部分(電荷が残っている)に静電気によってトナーの画像が作られます。静電潜像が可視像になるわけです。そのトナーを固定(定着)すれば、原稿と同じ画像が記録されるというものでした。
 このカールソンの方式を直写式として継承したのがエレクトロファックスで、1954年にRCA社が開発しました。これは紙の上に光導電性の物質(たとえば酸化亜鉛)を塗った感光紙を使います。
 それに先立つ1950年にゼロックス社が開発したゼログラフィは、感光体の表面にできたトナーの可視像を紙に転写するものです。紙の裏側からコロナ放電して、トナーを紙のほうへ引きつけてしまうのです。これを転写式といいますが、感光体をドラムにすることで繰り返し使用することができるので、普通紙が使えます。これはゼログラフィ方式と名付けられました。
 ゼロックス社は 600件におよぶといわれた特許に守られて、この普通紙複写機の独占をはかります。そこで多くのメーカーはRCA社の特許を使ってエレクトロファクス方式の複写機を作ることになります。

【2】第3の電子写真方式−−NP

 1964年に複写機の開発を決定したキヤノンも、最初はエレクトロファクス方式を採用します。1966年に発売したキヤノファックス1000がその第1号で価格は60万円、最大B4サイズで5枚/分(A4換算の処理速度表示)は当時としては画期的なもので、かつ高画質の全自動乾式複写機でした。
 複写機は普通紙使用でなければいけないということは、もちろん当初から明らかでした。エレクトロファクス方式の感光紙はかさばって重く、書き込みなども自由にはできません。ランニングコストが高くなるので、将来の大量コピー時代には適応できず、しかもコピーの高速化に限界が出てくる。どう考えても、普通紙を使うPPCでなくてはならないのです。
 普通紙複写機の実現に向かって、さまざまな方向からの道を丹念にたどっていくのが技術開発の基本でした。高感度材料としてCdS(硫化カドミウム)を使う道が開かれてきたのもそのひとつです。カメラの露出計に使われるCdSは、いわばキヤノンの得意技でした。
 CdSの粉末をさまざまなバインダー樹脂と組み合わせていく材料テストによって、高感度で色感性に偏りがなく、かつ廉価で長寿命の感光体を作りあげました。CdSのパンクロマチック特性によって色ものや中間階調の再現にもすぐれた高画質が可能になったのはラッキーでした。
 CdSの使用によってゼロックスのSe(セレン)感光体にかかわる特許をクリアできました。しかし低抵抗で静電像を保ちにくいという欠点がありました。そこで表面に高抵抗の透明絶縁膜をかぶせて、露光時に二次帯電をおこない、さらにその後、全面露光によって高電位の静電潜像を形成するシステムを開発したのです。
 それは2層構造の感光体を使うゼロックス方式の特許にまったく抵触しない機能分離型の3層感光体として完成したのです。
 そして1970年に「第3の電子写真方式キヤノンNPシステム」によるキヤノンNP−1100が発売になりました。最大B4サイズで10枚/分の自動給紙。高感度CdSの使用で蛍光灯照明を可能にして88万円でした。

【3】奇想天外の“液乾式と“スクリーンプロセス

 このNP方式は簡易化の方向への適応性ももっていました。感光体ドラムが透明絶縁膜におおわれているために、液体現像方式を採用しても感光体を傷めることがない。加えて、固着トナーのクリーニングに対しても十分な強度をもっており、高い静電コントラストが処理時間の短縮を可能にする……ということで、常識では考えられなかった普通紙の湿式複写機キヤノンNP−L7が登場します。当時PPC(普通紙複写機)といえば乾式で、湿式といえばエレクトロファクスと相場が決まっていましたから、キヤノンではこれを液乾式PPCと呼びました。
 NP−L7は1972年の発売で68万8000円、卓上型でありながら最大A3サイズのコピーが可能で、ブックモードで15枚/分、シートモードで30枚/分という性能でした。CdS感光体の性能がいいために画質もよく、キヤノンの複写機はこの液乾式PPCで完全にトップの座を占め、この液乾式のシステムはPPC複写機の過半に採用されるまでになるのです。ゼロックス社の特許に触れない唯一のPPCで、かつ最高の画質ということで、米国の事務機メーカー・サクソン社へのNP技術供与を100 万ドルで契約したのはNP−L7の試作段階でした。これは米→日の技術輸入の逆流として、大きな話題になりました。
 並行して、乾式の複写機も、1975年には最大A3サイズ、22枚/分の大量コピー用キヤノンNP−5000が120 万円で登場します。さらに2段縮小機能がついて26枚/分の高速化NP−5500が1977年の発売で158 万円。これは月に600 台という大ヒットになりました。
 大型機になると高速化が大きな課題になってきました。日本の複写機が1970年に10枚/分(キヤノンNP−1100)、1974年に30枚/分(キヤノンNP−L7)が最高であったとき、ゼロックスは120 枚/分、IBMが75枚/分、イーストマン・コダックが70枚/分と、米国勢は圧倒的な優位を保っていたのです。
 PPCの性能は、A4サイズで1分間に何枚のコピーが取れるかというスピードによって計られるのが一般的でした。日本で作られる複写機は米国勢から見れば小型・低速機ということになるわけです。キヤノンは“技術で売るという精神から、高速化に挑戦します。
 米国のエレクトロプリント社が開発したメッシュ状感光体(スクリーン)をNP方式に導入してみると、一度静電潜像を作れば数十枚の連続コピーが得られることがわかったのです。それを連続的に100 回送り出すことができるようなドラムに改良しました。つまり原稿からの直接露光を毎回繰り返すのではなく、スクリーンドラムをアナログの画像記憶装置とした工夫でした。
 これによって1978年にキヤノンNP−8500が誕生。500 万円の超高速PPCとして77枚/分を達成してゼロックスに次ぐ世界第2位の位置を確保したのです。1981年にはこの改良型、キヤノンNP−8500 SUPERが135 枚/分の世界最高速機となります。

●圧倒的な2つの技術

【1】ジャンピング現像の発見

 キヤノンの複写機の心臓部を完全に変えたのは、1成分現像方式です。その開発チームが編成されたのは1976年でした。
 それまで、乾式複写機では導電性のトナーと鉄粉などのキャリアをかくはんして使う2成分現像法が一般的でした。トナーとキャリアの摩擦によってトナーをマイナスに帯電させます。それを磁石で拾い上げると砂鉄を吸いつけたような状態の「磁気ブラシ」ができます。その先端のトナーが感光体ドラムの表面に接触して、プラス電荷の部分に吸着されていくのです。
 この方式の欠点は、キャリアとトナーをきちんとかくはんする装置が必要であること、消費されるトナーを適切な配分で補給するための濃度監視が必要なことでした。装置は大型化し、高価でした。
 キヤノンでは根本的な解決のために、あえて磁性絶縁性トナーを使いこなすことから研究を始めました。絶縁性のトナーをスリーブと呼ぶドラム(これも非磁性)の表面に摩擦帯電によって薄く付着させておいて、感光ドラムの電荷部に転移させようというのです。トナー溜りからの出口に固定磁石と磁性ブレードの狭いゲートを作ってみると、トナーがそのすきまをくぐるときに薄く均一にならされることを発見しました。非磁性のトナーが磁性ゲートで整列させられる不思議な現象でした。これによって絶縁性トナーの使用は可能になったのです。
 トナーで覆われたスリーブドラムから感光ドラムに微細なトナーを移さなければなりません。スリーブドラムと感光ドラムを等速度で回転させながら接近させると、トナーは感光ドラムの電荷に引かれて移ります。
 しかし、そのとき、スリーブドラムの内側に磁石を置いて非画像部(感光ドラムの電荷のない部分)に付着してしまったトナーを引き戻すようにすると、なぜか、トナーの画像部への飛翔も助けることが発見されたのです。天の助けというのでしょうか。
 その位置に特殊な交流の電圧バイアスを加えてみると、今度は階調性が著しく向上したのです。まず最初に画像部へのトナーの飛翔が起こり、次に激しい往復運動となり、最後に非画像部についたトナーが飛んで戻ってくるという複雑な運動になったのです。画像部、非画像部どちらへもトナーが飛びかうことによって、適度のエッジ効果(画像の輪郭をクッキリ見せる)を発揮することも確認されました。
 それまでの2成分現像をシンプルな1成分現像にできたばかりでなく、画質の根本的な改善という思わぬおまけもついてきました。このジャンピング現像による1成分現像乾式複写機の第1号機は1979年のキヤノンNP−200 Jで、A3サイズで世界最小、ファイバーレンズを採用して59万8000円でした。原稿台移動方式で20枚/分を維持しました。

【2】心臓部の小型カートリッジ化

 複写機にはメンテナンスサービスがあたりまえですが、これを家電製品なみのメンテナンスフリーにできないかという課題が掲げられました。補充の必要なトナーや、メンテナンスの必要な感光ドラムまわり……、いわば心臓部を一体化して交換式にする。
 このときの検討目標が記録されています。
1)目標原価5万円のパーソナル市場
2)使い捨て感光体の開発……有機半導体の採用は?
3)使い捨て現像器の開発……カラーの1成分現像剤も
4)インスタントスタート定着
 パーソナル複写機の開発プロジェクトは1980年に正式にスタートしますが、これが全社の横断的な組織としてXタスクフォースに発展します。総勢200 人に近い強力な態勢から、たとえば高感度、低コスト、かつ無公害のOPC(有機光導電体)の感光ドラムが開発されます。それを支えるドラムシリンダーも、それまでの引き抜き材からの加工を捨てて、缶ビールのアルミ缶と同じ製法で高精度のものを作れるようになりました。もちろん使い捨てにかなう安価なものになりました。
 そしてこのカートリッジには最初からトナーが内蔵されており、黒のほかにセピアとブルーのカラートナー入りカートリッジもあって、その差し替えで色刷り、あるいは多色刷りが簡単にできるようになったのです。
 このパーソナル複写機は1982年に世界同時発表をおこなって発売されます。重さ10.8kgで24万8000円のミニコピアPC−10と、重さ21.1kgで29万8000円のミニコピアPC−20。PC−10はそれまでの最小の複写機に比べて価格で2分の1、重量は3分の2でした。このPCシリーズは爆発的なヒットとなり、月3万台を記録します。商品トラブルが皆無に近かったのも、品質評価で従来機の10倍以上の信頼性を持たせた結果でした。発売後4年間は完全な独走態勢を続けることになります。
 このシリーズは1984年に登場するミニコピアPC−25で縮小拡大機能がつき、全5色のカートリッジがそろいます。最大B5サイズで原稿台固定、それで価格はPC−20と同じ29万8000円というコストパフォーマンスのよさでした。

【2】感光体ドラムの行き着くところ

 しかしこのカートリッジ化は、また一歩飛躍します。1986年にはさらに小型・軽量のファミリーコピアFC−3とFC−5が登場して、FC−3が重さ12.75kg で、常識を破る9万9800円、FC−5はマルチフィーダーがついて12万9800円となりました。A4サイズ以下の等倍複写機ですが、ハンドルがついて持ち運ぶことも、立てて置くこともできるため、キャリングケースも用意されました。使わないときには押入に放り込んでおいてもいいというスペース効率のいいパーソナルマシンとなったのです。
 このFCシリーズでは、PCシリーズに使われた直径60mmの感光体ドラムが一気に30mmにまで小型化されました。PCシリーズのためにビール缶のインパクト加工が採用されましたが、60×260mm のアルミドラムを一発のインパクト形成で精密な鏡面にまで仕上げることはできず、仕上げ加工を加えることで精度を維持していました。
 しかしさらに安定した加工法を求めて、インパクト方式から絞り方式に転換して、DI方式で一発形成の方法を確立します。これによってさらに細いドラムを作ることもできるようになり、外形30mmという超コンパクトドラムが登場するのです。
 したがって、PCシリーズに対するFCシリーズは単なる低価格機ではなかったのです。この高精度・超小型カートリッジの技術はレーザービームプリンターの大ベストセラー機となるキヤノンLBP−CXにも生かされることになりました。また開発過程でドラム周辺部だけでも470 件の特許がとれ、競合他社へのOEMも始まるなど、圧倒的な技術力を発揮することになります。

●デジタル化とカラー化

【1】カラー複写機の開発

 写真が白黒から始まってカラーに進んだように、複写機も最後にはリアルカラーに到達しなくてはならないのです。カラー印刷ではアカ、アオ、キ、スミの4版で合計4回刷るのが一般的です。トナーの色を変えて3〜4回重ね刷りすることができればとりあえずカラー化できるのですが、各色のバランスがどのような色相、明暗においても整っていないと、満足な色にはなりません。きわめて高度な制御技術を要求されるのがカラー化なのです。
 1970年代には日本の各メーカーもカラー複写機の開発に乗り出し、つぎつぎにデモをおこないました。明日にでもカラー複写機の時代が到来するかのようなにぎわいでした。キヤノンでも、1971年にカラープロセスの検討を開始して、1973年にはCC−1と呼ぶ普通紙複写機の試作を終えました。当時他社のカラー複写機はエレクトロファックス方式が主流でしたが、キヤノンはあくまで普通紙使用のPPCとして、NP−L7で確立した液乾式を採用しました。
 しかしその年の第1次石油ショックで油剤を使用する液体現像は見直しを迫られ、乾式のカラー複写機CC−2が作られます。これが1975年に試作を完了、改良型のキヤノンNPカラーCC−3を1978年に完成します。
 これは国産初のPPCカラー複写機ですが、NP階調制御法によって色再現性と階調性は群を抜くものでした。この階調制御はキヤノンのカラー技術のその後の展開の序曲ともいうべきもので、リアルカラー複写機の重要なポイントとなるものです。
 2次帯電器のグリッドを前半と後半に2分割してバイアス電圧を変え、さらに像露光の光量を前半と後半で差をつけることによって階調を軟調に制御するという方法です。さらにそのグリッドバイアスを色ごとにコントロールすることによって中間調部の色調整も電気的におこなえるようにしたのです。
 カラー複写機としての成熟を確認したため、ただちに東京、大阪にNPカラーショップを開店、予想外の需要があって、試作課で130 台を生産してショップ網を拡大していったのです。1983年にはOHPフィルムへの複写もでき、イージーメンテナンス化をいっそう進めたキヤノンNPカラーTを市販するまでになりました。これは895 万円という高価なものになりましたが、1985年末まで、NPカラー複写機の合計生産台数は1000台に達しています。

【2】デジタル複写機の時代を拓く

 将来の複写機はコンピューターを中心とする複合的なデジタル情報処理に対応できるものでなくてはならず、画像処理機能をもち、ワードプロセッサーなどの文字情報も扱えるものへと進むべきだとの認識に立って、新しいデジタル複写機の開発にかかったのは1978年のことでした。そしてもう1点、ディジタル制御なくして今後のカラー複写機の発展はないという認識もありました。
 開発チームは当初、従来のアナログタイプの露光をおこない、それをレーザーで追記するハイブリッドタイプを構想したのですが、最初から完全デジタルで行け、という指示によってその道を閉ざされたのです。翌1979年にはミニコンと大型磁気ディスクを結合した試作機が完成しましたが、システム価格は2000万円と見積もられ、しかも1枚の画像処理に数分もかかりました。
 当時のレーザープリンターは10本/mmの操作密度(250dpi)でしたが、これでは複写機としての画像は満足なものにはなりません。16本/mm(400dpi)程度の密度が必要なのは明らかでした。そのためにはあらゆる部分に水準以上の精度アップをしなければならず、成熟の域にあるアナログ複写機の画質を超えるだけで難題でした。
 ところが試作機に対して、売価は200 万円以下、シンプルな複写機に徹せよという指令が下ったのです。それから5年、1984年に発売になった世界初のデジタルレーザー複写機キヤノンNP−9030は価格が198 万円、A−Si(アモルファスシリコン)の感光体をそなえ、電子ズームによる縮小・拡大は50〜200 %。30枚/分の処理速度をもっていました。
 コンピューターの画像処理をはるかに超えるスピードを実現したのは、5000ビットのCCD(固体撮像素子)からの画像信号をデジタル信号に変換すると、それを18メガビット/秒という高速でリアルタイムに処理する方法を採用したからです。
 たとえば最大サイズのA3判原稿を16本/mmの解像度で読みとった画像情報は4メガバイトにもなります。そのメモリーだけでも当時は数百万円もしていましたし、記録のための時間もそうとうなものでした。そこで画像メモリーを使わないという“複写機に徹したのです。ソフトウェアでは画像処理時間の短縮が実用域に到達しないとして、2000ゲートのゲートアレイ5個を含む約100 個のIC、LSIで、ゲートアレイの処理スピードの限界といわれた20メガビット/秒に限りなく近づけたのです。
 しかしこれでは2倍拡大(200 %)時の36メガビット/秒はカバーできません。そこで等倍画像の処理に要するビット数のラインメモリーを用意して、拡大時にはメモリーからの読み出しの際に原稿の読み出し速度を下げるような逃げ道を見つけたのです。
 技術的な飛躍のもうひとつはレーザーユニットからの光線を感光体ドラムに精密に走査させるポリゴンミラーの製作でした。16本/mmの高解像度(400dpi)で45枚/分の高速プリントの能力を持たそうとすると、ポリゴンミラーを毎分約1万7000回転させ、しかもミラー面の倒れを±1.5 ミクロン(0.0015mm)以内に押さえなければならないのです。このために空気を媒体とする動圧軸受をもち、ホール素子を使ったDCホールモーターを採用しました。もっともこれは複写機の技術というより、世界のトップブランド、キヤノンのレーザープリンターの先進技術ということになります。
 アモルファスシリコンの感光体はコンパクトな小型半導体レーザーの800 ナノメーター前後の波長域に感光する素材の追求の結果ですが、硬度が高くて長寿命であり、高画質で無公害材料という素質のよさをもっていました。

【3】デジタル&カラー

 1987年に発売になったキヤノンカラーレーザーコピア・ピクセル(CLC1)は、デジタル技術をさらに大幅に飛躍させます。Y(イエロー)、M(マゼンタ)、C(シアン)に墨(ブラック)を加えた4色機で、縮小・拡大は50〜400 %、5枚/分で、ネガカラーフィルムからのカラーコピーも可能にしました。価格は388 万円と低価格で、他社の追随を許さぬものになりました。
 工夫のひとつは16本/mmのカラーラインイメージスキャナーで、密着型CCDに色分解フィルターを最初から組み込んで、スキャニングごとに電気的に切り換えるようにしたため、原稿の読み取り部分が小型・簡素化できました。
 しかしこのマシンでもっとも力を入れたのは階調の豊かさでした。もともと複写機での階調表現については、米国では日本ほど重きをおいていなかったようです。タイプ原稿をクリアなコピーにするには、中間階調、すなわちハーフトーンは不要です。ところが日本では手書き原稿が多いためか、階調表現が厳しく求められてきました。キヤノンが終始こころがけてきた高画質も、まさにその点にありました。
 デジタル化してアナログ複写機の画質を超えるのが難しかったのは、碁盤の目のようなドットのひとつが0か1かというデジタル処理のために、それを組み合わせて中間階調を再現するしかなかったことです。ディザ・マトリックス法などによって2値化情法を処理しなければいけないのです。たとえば16本/mm(400dpi)の場合には0.5 mm四方の中の8×8ドットのマトリックスを使って64階調を再現するところまでは到達していました。キヤノンの最初のデジタル複写機NP−9030もそうでした。
 そこでカラーレーザーコピア1では独自の画像処理技術であるレーザーDIPS(ディジタルイメージ・プロセッシング・システム)によって、各ドットを8ビットでA/D変換することによって2の8乗、すなわち256 階調のデータ化を実現し、レーザー光の照射時間をコントロールして、実際の階調数で64階調以上の再現を可能にしたのです。同じ64階調でも、8×8の64ドットで再現する2値化処理と、各ドットがそれぞれ64階調以上で再現されるこの多値化処理とでは鮮鋭さがまったく違います。
 世界のカラー複写機の技術レベルを大きく超えるこのマシンは、発売したその年に国内3000台、海外3000台の合計6000台を出荷することになったのです。
 高画質と同時にデジタル画像の処理技術も多彩です。カラーモードでは4色フルカラーに3色フルカラー、7色の単色指定ができて、その場合はネガ/ポジ反転も可能です。指定の部分色を変える機能では、指定色変換、7色の標準色変換、事前に登録した8色の変換が簡単にできます。ペイントといって、原稿上の指定範囲を希望の色で塗りつぶすことも可能です。
 カラーコピーの色バランスのよさが十分に発揮されるのはカラーバランス調整で、4色フルカラーのそれぞれの濃度を個々に調節できます。あるいは写真原稿などをシャープな感じにしたりソフトな調子にしたりするシャープネス切り換え。
 複写機はもともと原稿と同じものを作り上げて最高のマシンと考えられていたのですが、ここでは原稿の必要な部分だけを8カ所まで指定して取り出すことができますし、その反対に白か黒で消去してしまうこともできるのです。また指定範囲の内側と外側とで、色を変えるなどの画像分離もおこなえます。そして2枚の原稿のはめ込み合成といったものも。
 ズーム機能では50〜400 %という縮小・拡大率によって、名刺を切手サイズに縮めたり、A3サイズにまで拡大したりできるほか、その変倍率をタテ、ヨコどちらかの方向にだけ使うことも可能です。
 これはもう「複写」の概念を超えています。グラフィックデザイナーはピクセルがないと仕事にならないといわれたほどです。それに応えて1989年には298 万円の普及価格機キヤノンカラーレーザーコピア・ピクセルII(CLC−II)が登場するのです。白黒専用のデジタル複写機も1987年にはレーザーDIPSを搭載したキヤノンNP−9330になります。

【4】2つの最高峰

 1988年にカラー複写機の変わり種が登場しました。これは1200万円というマシンで、キヤノンカラーバブルジェットコピア1・ピクセルPROといいます。世界最初のA1サイズのフルカラー複写機で、新聞の見開きサイズが毎分6枚という高速でコピーできます。しかも名刺を一気にA1サイズに拡大する1200%の拡大が可能で、その機能を使って原稿を分割拡大し、A1サイズをタテ・ヨコそれぞれ12枚並べた7×10mの巨大なカラーコピーを作ることができるのです。35mmのネガ/ポジフィルムから、一発でA1サイズのカラープリントを取ることも可能にしました。
 カラーレーザーコピアがキヤノンのレーザープリンター技術とデジタルの画像処理技術の結合から生まれたのに対して、こちらは各色のインクをノズルから吐出するインクジェットプリンターの技術が開花したものとなりました。
 キヤノンのインクジェット技術は、最初グールド社のライセンスでピエゾ圧電素子を使ったピエゾジェット方式でした。電卓やパソコン用のプリンターを作っていたのです。ところがある日、ノズルに間違ってハンダごてを当た瞬間、インクが飛び出すという失敗があったのです。それがきっかけになってキヤノン独自のバブルジェット方式が開発されます。
 ノズルの一部を瞬間的に300 〜400 ℃に熱すると、その場所のインクが気化して泡(バブル)が発生します。その圧力でノズル先端からインクが吐出するのです。この開発は1979年に始まり、85年発売のパソコン用BJ−80プリンターが完成します。ノズルの詰まりや、高温による変質などの基本的な問題は完全にクリアして、ワイヤードットプリンターより1桁多い2億字の耐久性を示したのです。
 そしてこの技術がカラー複写機に採用されて、各色256 本、4色分1024本のノズルを並べて16本/mmの高解像度を実現するのに成功し、各色64階調をコントロールするものになったのです。
 バブルジェットで大判化したのとは別に、高画質・高精細にインテリジェント機能を拡充して、おまけにシステム対応を実現したカラーステーション・ピクセルDiO(キヤノンカラーレーザーコピア500)が登場したのは1989年6月。生まれたての最新版です。カラー複写機の技術では、ピクセルの初代がまだ世界の先頭にいます。しかし進むべき道は歩まなければなりません。
 まず第1に、階調コントロールを理論値の256 階調にまで上げました。これによって色の再現力が大幅に向上したわけですが、合わせて感光ドラムへのレーザー光のスポット径を約50%まで絞り、そこに乗るトナーも従来の3分の2の小粒径にしてあります。そのため、出力側での階調表現や鮮鋭度が高くなり、従来の印刷物とほとんど見分けがつかないものになりました。
 複写機が小部数印刷機になったと同様、このピクセルDiOは電子式カラー印刷としてもプロ仕様になりました。印刷における製版のさまざまな技をデジタル化することで、ピクセル初代機以来のイメージクリエイト機能を大幅に拡大しました。
 各色の色変換だけでなく、階調の細かな調整もおこなえます。原稿がカラーかモノクロかを判断するACS(オートカラーセレクション)機能と像域分離機能によってカラー原稿中の黒の単色を自動識別して黒トナーでクッキリと複写します。絵や文字の輪郭だけを取り出したり、鏡像処理をしたり、絵に文字を毛抜き合わせで合成したりとさまざまな新技法が加わっています。
 この本体が555 万円ですが、それにIPU(インテリジェント・プロセッシング・ユニット)を接続すると、まさにシステムカラーステーションとなるのです。ちなみに愛称のPIXELは画素 Pictue Element にちなむものであり、DiOは Disital Integrated Output の意味になります。
 まず第1にコンピューターとの間で画像情報のやりとりが可能です。その場合、ピクセルDiOはイメージスキャナーとプリンター機能を合わせもった装置ということになり、しかも高度な画像編集機能つきです。
 またIPUにはビデオインターフェースが用意されていますから、ビデオカメラ、ビデオデッキ、TVからのビデオ画像を取り込むことができるようになりました。また、スチルビデオカメラの電子写真は1枚の紙に1面、4面、6面、9面、25面のインデックスプリントをすることができます。
 この装置には画像メモリーが入っているので、そこにいったん登録した画像と、新しく読み取る画像とを合成する「カラーinカラー」も可能になりました。このIPU(Intelligent Processing Unit )には48メガビットのフルカラー画像メモリーと16メガビットの2値テキストメモリーが搭載されています。もちろんこれらのメモリーは増設することが可能です。
 そしてもうひとつ、このピクセルDiOでは写真の複写機能を重視しました。従来のフィルムプロジェクターに加えて35mm専用の高精細デジタル・フィルムスキャナーが用意されました。これは132 本/mmという写真製版なみの精度をもつもので、写真を35mmのネガやポジからダイレクトに取り込むことで、小部数カラー印刷機としての性能をグンとアップしました。
 キヤノンが最初の複写機を作ってから23年、キヤノン独自のNPシステムから19年。いまや複写機は平面複写に限定されるものでもなく、原稿の複製を取るだけのものでもなくなりました。しかしその発展を支えたのは、より鮮明に、より豊かな階調でという“ありのままのコピーの追求でした。


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