キヤノン通信――13号 EOS-1に至る50年────キヤノンのカメラ技術史(1989.8)


【キヤノン通信 13号 1989.8.30】

【特集】EOS-1に至る50年────キヤノンのカメラ技術史


 キヤノンのEOSシリーズはすでに35mmAF一眼レフの分野でトップブランドの地位を保っていますが、今回、その基本能力をフルに発揮したプロ仕様AFカメラEOS-1を発売することになりました。自動化の先にリアルタイムの“リモートマニュアルを実現するという新しい地平をひらくカメラです。過去50年にわたるキヤノンのカメラ技術を振り返るとき、「最高のカメラをつくる」という精神がEOS-1に結実していることがわかります。個々の使い勝手から評価されることの多いカメラが、じつは技術進化的にも明快に追い求められてきたものだということが明らかになるはずです。

【1】和製ライカを夢見た青年

 キヤノンの出発点は、一人の青年技術者の夢でした。1900年(明治33)生まれの吉田五郎はカメラ少年から映画青年となり、昭和の初め、20代のころには映写機の修理や改良の仕事をしており、機材の購入などのため上海にしばしば往復していました。
 1932年(昭和7)にドイツで3つの名機が誕生しました。映画用フィルムを流用した高性能35mmカメラではライカII型とコンタックスI型、ブロニーフィルムを使うタイプでは6×6判の二眼レフカメラ、ローライフレックス・スタンダード。これが吉田を発奮させたのです。ドイツ人にできて日本人にできないはずはない……。かれはあるとき「トーキーの映写機から音が出たのにビックリして、アメリカ人につくれて日本人につくれなかったことがシャクだった」とも語っています。その心意気がかれをカメラづくりに熱中させたのです。
 当時のライカやコンタックスは、日本では400円以上していました。一流企業の大学卒の初任級が70円前後。今でいえばマイカーの値段に相当するわけですが、当時はライカ1台で家が建つといわれたものです。そのライカを吉田は入手して分解しています。小さくても高価、真似ようとしてもそうは問屋が卸さないというこの精密機械をみずからの手でつくりたいと思ったところから、キヤノンの歴史は始まるのです。
 吉田が相談を持ちかけたのが妹の夫で東京帝大法学部出の証券マン、内田三郎でした。内田はカメラには興味がありませんでしたが、資源の乏しい日本の将来は技術集約型の産業にあるという考えから、カメラ製造というこの危うい事業に足を踏み込んでいったのでした。
 2人のベンチャービジネスは六本木の高級アパートの一室から始まりました。1933年(昭和8)の初冬のことです。名前は精機光学研究所。翌春には工作機械も入り、6月号の「アサヒカメラ」には早くも「潜水艦は伊号、飛行機は九二式、カメラはKWANON、皆世界一」という広告が登場します。日本光学工業製ともいわれるカサパ50mmF3.5付きが200円、テッサー50mmF3.5付きが285円と出ています。しかしこれが発売されることはなく、試作機の段階にとどまりました。
 吉田のKWANON(観音)カメラはいわば個人技でつくられたといえるでしょう。しかし、当時日本ではまったく例のないこの企てに、技術と人が結集しはじめます。国内最大の光学メーカーであった日本光学工業(現在のニコン)も積極的な応援をしてくれました。日本光学工業はレンズとファインダーの開発依頼を受けて立ち、以後、多くの技術者が移籍してくるほどの関係になります。吉田のKWANONカメラを火口にして、ライカを追う“精機光学プロジェクトが立ち上がったのです。
 ベンチャー企業・精機光学研究所は彗星のごとく登場したのですが、吉田はその最初の秋に去ってしまいます。事業はすでに“個人の夢の範囲を超えていたからでしょうか。しかし、東京のめぼしい工場を片っ端から訪ねて、精度の高い部品発注を可能にしたかれの努力は、精機光学研究所の活動を支えます。1935年(昭和10)12月号の「アサヒカメラ」にはHANSA CANON(ハンザキヤノン)という名のカメラの予告広告が登場します。このカメラはニッコール50mmF3.5のレンズをつけ、「その機構にコンタックスの影響を見逃すことは出来ないが、大部分はライカと類似している」と「アサヒカメラ」で論評されたものでした。ちなみに、このニッコールレンズは日本光学工業最初の35mmカメラ用のレンズであり、「ニッコール」の名の最初のものでありました。

*HANSA CANON(ハンザキヤノン)
1936年2月発売。
市販第1号機。
国産初の距離計連動式35mmカメラ。
ファインダーは単独のガリレオ式で
距離計連動による二重像合致式。
布膜フォーカルプレーンシャッターは
Z(バルブ)のほかに、
1/20秒から
1/30 1/40 1/60 1/100 1/200 1/500秒まで。
巻き上げはノブ式で、
フィルム装てんは底ぶた取り外し式。
レンズはニッコール50mmF3.5で
レンズマウントは特殊バヨネット式。
価格はレンズ付きで275円。

 吉田が去って、内田はKWANONをCANON(判断基準の意)と変えます。ライカの約半額のこのカメラは、ハンザを商標とする近江屋写真用品によって市販されました。
 このカメラは国際都市上海でもよく売れました。そして1939年(昭和14)に陸軍九八式小型写真機として軍用に指定され、F2レンズ付きの最新型は海軍の小型写真機二型として採用されています。その最新型は1939年4月に発売になったもので、1/8 〜1秒のスローシャッターが加えられ、レンズはニッコール50mmのF2つき550円、F2.8付き480円、F3.5付き395円、F4.5付き335円。同時に標準型から距離計を省いてピント合わせを目測式にした普及型がF4.5レンズ付き195円で登場しています。そしてこれらは戦後にも、S型、J型として販売されるのです。
 キヤノンカメラは、その市販1号機から、国産最高級機の地位を確保したのです。

【2】レンズの自社生産と、X線間接撮影カメラの開発

 肺結核の早期発見のための集団検診においては、1935年(昭和11)に東北帝大の古賀良彦助教授によって開発されたX線間接撮影法が世界をリードしていました。蛍光板上に投影された像を35mmカメラで縮小撮影するという方法です。当時、日本の死因別死亡率の第1位を占めていた肺結核に対する防衛のため、ただちに普及して1940年(昭和15)からは徴兵検査時に実施されるようになりました。
 そのためにはF1.5クラスの明るいレンズが必要なので、ライカやコンタックスを使うしかありませんでした。当然、キヤノンカメラへの期待も大きくなったのです。
 そのような新しい状況のもとで、後に社長となる御手洗(みたらい)毅が表面に出てきます。1901年(明治34)に大分県で生まれた御手洗は北海道帝大の医学部を卒業して、日本赤十字病院の医師から国際聖母病院産婦人科部長となっていました。精機光学研究所の創設期から内田の友人として資金面での援助をおこなっており、1937年(昭和12)に研究所が精機光学工業株式会社となったときには内田に次ぐ主要株主として監査役についています。その御手洗が医師としての立場から、X線間接撮影カメラの開発を強く推したのです。
 とくに、御手洗の知人で横須賀海軍病院の横倉軍医大佐が本格的な専用カメラの開発を望み、その指導のもとに海軍型X線間接撮影装置が完成します。このカメラは1941年(昭和16)から本格的に製造されるのですが、当初はドイツ・ツアイス社のゾナー50mmF1.5やニッコールレンズが使用されたものの、1941年(昭和16)には自社製のRセレナー45mmF1.5が完成。つづいてRセレナー50mmF1.5も用意されて、陸軍にも納入されるようになりました。

*海軍型X線間接撮影装置
1941年発売。
キヤノンの知られざる主力分野である
X線映像機器の、
第1号X線間接撮影用カメラ。
35mmフィルムで50枚撮り。
画面サイズは24×25.5mm、
フィルム巻き上げは鎖による。
レンズは蛍光板を遮光するフード部に固定、
カメラ本体を着脱する方式とした。
レンズは自社生産の
Rセレナー45mmF1.5
Rセレナー50mmF1.5

 社長の内田は1938年(昭和13)ごろに日本光学工業に対してレンズの自社生産を訴え、協力を要請しています。日本光学工業の主力は軍用の光学機器であったため、民生用カメラの開発を積極的に応援してくれていたわけですが、戦時下ということもあり、この時期にベテラン技術者を送りこんでくれ、レンズ生産に必要な新鋭機械の斡旋もしてくれたのです。日本光学工業は精機光学工業に対して資本投資もしており、役員の派遣もありました。
 取締役の御手洗は1940年(昭和15)には独立して御手洗産婦人科病院を目白に開いていましたが、1942年(昭和17)にシンガポールが陥落すると内田はシンガポール司政官の民生担当顧問となるため、御手洗に後事を託して去っていきます。この突発的な状況変化が、御手洗を実業の世界に引き出したのです。
 1944年(昭和19)には双眼鏡メーカーの株式会社大和光学製作所を合併します。これは日本光学工業から受注した大量の軍用双眼鏡の製造とかかわるものといえますが、その他軍用光学機器の製造を通じて、精機光学工業はレンズ生産の技術を完全に手中に納めたのです。

【3】米国向けカメラの生産

 戦争が終わった年の10月に、精機光学工業は156人の社員で再開した。工場がほとんど戦災にあっていなかったこと、軍の制式兵器に指定されたことによってカメラの生産を細々とながらつづけることができ、技術と人材を温存できたことが幸いでした。
 部品をかき集めて組み立てたキヤノンJII型(戦前のキヤノン普及型)を進駐軍向けに納品することから始めて、1946年(昭和21)には新製品のキヤノンSII型を発売した。このカメラは一眼式連動距離計という方式を採用しましたが、これは“和製ライカがライカの特許を突破しようとして工夫した戦前の設計によるものです。ライカはファインダー窓と距離計窓を別にした二眼式でしたが、キヤノンカメラはファインダーカバー内に二重像合致式距離計とビューファインダーを同一光学計内にまとめて、後の距離計連動式カメラの標準となりました。

*キヤノンSII型
1946年10月発売。
戦後開発の第1号機。
一眼式距離計連動式を採用して、
ライカより使い勝手をよくした。
自社製のセレナーレンズを開発し、
レンズマウントはライカと同じにした。
価格は、
セレナー50mmF3.5付で、
2万940円(1947.9現在)。

 そしてこのタイプからキヤノン独自のマウントを廃止して、いわゆるライカマウントを採用することになります。レンズは一部にニッコール50mmF3.5をつけたましたが、大半は自社製のセレナー50mmF3.5で、1947年には大口径のセレナー50mmF2も完成します。日本光学工業は独自にカメラの開発に手を伸ばすことになり、精機光学工業側のレンズ生産力もそなわったことから、1948年(昭和23)にはレンズの供給を停止しました。
 35mmカメラ用セレナー交換レンズには、戦前の設計で1947年(昭和22)に発売された135mmF4(目測距離合わせ)がありますが、翌年にはこれが距離計連動になり、つづいて初のコーティングレンズとなります。
 キヤノンカメラの特徴は、独創の一眼式連動距離計ファインダーに示されました。1949年(昭和24)に発売になったキヤノンIIB型ではそれを「3段変倍」にグレードアップします。ファインダー視野倍率を0.67倍(50mmレンズ用)、1.0倍(100mmレンズ用)、1.5倍(135mmレンズ用)としてファインダー機能が改良されたのと同時に、望遠レンズ使用時に要求される距離計精度の向上も実現しました。この連動距離計方式がキヤノン独特のものとしてライカをおびやかす存在になるのです。

*キヤノンIIB型
1949年4月発売。
SII型の一眼式連動距離を、
キヤノン独自の3段変倍にした。
ファインダー視野倍率を換えることにより、
レンズ選択にあわせて測距精度が上がる。
価格は6万円。

 これらのSII型、IIB型は進駐軍に好評で、1949年(昭和24)には月産1000台の増産計画を立てて設備の拡充に着手しました。しかしキヤノンの進むべき道を決定したのは御手洗社長の渡米です。1950年(昭和25)にシカゴで行われた国際見本市を視察し、アメリカ各地の近代的な工場や見学し、進むべき道を確認したのです。不燃工場の建設と近代設備の実現に向かって、理想肌で合理主義者の御手洗は特異な経営手腕を発揮することになります。
 すでに1947年(昭和22)に社名をキヤノンカメラ株式会社として1949年(昭和24)には株式を上場していましたが、製品名と会社名は同じほうが明快であるという合理性が、当時はまだ珍しいカタカナの社名となってあらわれたのです。そして不燃工場が良いとわかればそれを探し求め、1951年(昭和26)には大田区下丸子の旧富士航空計器の工場を改装して本社工場としたのです。
 また1950年(昭和25)には英国の貿易商社ジャーデン・マセソン社の申し入れによって、異例の50万ドル借款と合わせて総代理店契約が成立しました。これによってキヤノン製品の70%が、まず米国の8000の小売店に流れるネットワークがつくられたのです。1952年(昭和27)に、日本で7万7000円のIVF型(50mmF1.8レンズ付き)が米国では(IVS型として)284ドルで販売されました。それに対してライカIIIfは50mmF2レンズ付きで345ドル。その距離はいよいよ縮まってきたのです。
 なお、このセレナー50mmF1.8というレンズは、ガウスカイプのレンズ構成で世界をアッといわせた傑作となりました。大口径にしやすく、各種収差をバランスよく補正できるために高性能レンズをつくりやすいという利点をもちながら、開放性能が劣る欠点があったガウスタイプを、独自の理論解析でクリアしたのです。その理論を適用して大口径の広角・望遠レンズを製品化する道が開け、キヤノンレンズ(1953年にセレナーから改称)は世界のトップレベルに達したのです。

*キヤノンIVF型
1952年1月発売。
III型で1/1000秒高速シャッターが付き、
IV型で、ボディ側面に
レールによる直結型フラッシュ接点と
フラッシュ回路自動切り換えが加わった。
さらにIIIA型で、
フィルム感度のインジケーターが付いた。
これらの改良点をすべて組み込み、
さらに“不滅の名作
セレナー50mmF1.8レンズを標準装備。
価格は7万7000円。

【4】ライカを追い越せ

 戦後早くから、御手洗は「ライカに追いつき、ライカを追い越せ」というスローガンを唱えるようになりました。キヤノンカメラの目標はあくまでもドイツの最高級カメラであり、その先に世界最高のカメラをつくるという夢が語られたのです。
 それは掛け声だけではありませんでした。戦前に日本に輸入されていた優秀な工作機械や精度の高い測定機を探し求めて、積極的に購入したのです。ドイツのカール・ツアイス社製万能測長機、スイスのライスハウア社製ねじ研削盤、ドイツのデッケル社製フライス盤、ドイツのユング社製平面研削機、米国のモナーク社製旋盤、スイスのスチューダ社製円筒研削機といった名だたる精密機械が手元に集まったのは、志の高さの現れでした。そして最高の工作機械を導入して最高の精度を実現するという方針は以来、現在までキヤノンの基本姿勢となっています。
 キヤノンIIB型を発売した1949年(昭和24)には化学部が新設されています。その最初の大仕事が不純物のない真鍮材を開発するプロジェクトでした。レンズ鏡胴をつくる際、真鍮材に含まれる硬い不純物が切削時に刃先にひっかかって傷をつくるのを防ぐために、古河電工との共同で新しい素材を開発しました。また化学部ではほかに、レンズのカビを防ぐ研究、レンズヤケの防止、レンズの研磨材、接着剤、潤滑油、ヘリコイドラッピング剤、塗料などの改良がおこなわれました。
 こうして1952年(昭和27)に名機キヤノンIVSb型、1954年にはキヤノンIVSb改(良)型が登場します。IVSbは35mmカメラではスピードライト(ストロボ)に同調する世界初のX接点内蔵機となり、IVSb改型では、それまで機構上困難とされた1/15秒シャッターを実現して、1、1/2 、1/4 、1/8 、1/15、1/30……秒といったシャッタースピードの倍数系列を整えました。しかもシャッター中軸指標をそなえ、セットしたシャッタースピードがいつでも確認できるというあたりまえのことを可能にしたのです。このカメラは、低速用と高速用のシャッターダイヤルを別々にそなえた“旧ライカタイプで、ライカを超えたと評されたものです。

*キヤノンIVSb改
1954年3月発売。
IVSbがIVF(IVS)型の改良後継機で、
大口径F1.5のレンズが付き、
スピーライト用X接点が内蔵された。
IVSb改型では、
低速シャッターと高速シャッターの境界の
1/15秒を実現。
難しいとされていた
シャッタースピードの倍数系列を完成。
加えて、シャッターを切った後でも
シャッタースピードを確認できる
画期的な中軸式シャッター指標を採用。
キヤノン50mmF1.5レンズ付で、
価格は8万5000円。

 もっとも、ライカはさすがでした。1954年(昭和29)に革命的な新型カメラ、ライカM3を世に出したのです。キヤノンも旧タイプのIV型シリーズから脱して、M3対抗機のV型シリーズへと全面展開していったのです。
 このV型シリーズは1956年(昭和31)発売のキヤノンVT型からはじまります。Tはボディ底部に速写型の巻き上げ用トリガーを付けたタイプで、ボディ上面にレバーを付けたL2型、L1型、L3型、VL型など、V型シリーズは7種類にもおよびました。さらにこれを発展してライカM3と同様の一軸不回転シャッターダイヤルを装備したVIT型とVIL型が1958年(昭和33)に発売になります。
 このV型、VI型シリーズによってキヤノンの35mm距離計連動フォーカルプレンカメラは成熟しました。V型の開発には設計段階から工業デザイナーが参加し、キヤノンL1型は1957年(昭和32)に通産省が設定したグッドデザイン賞の最初の受賞カメラとなりました。
 このシリーズにおいてシャッター膜に1000分の18mmの厚さのステンレスが採用され、一軸不回転倍数系列等間隔目盛のシャッターダイヤル、新型の3段変倍式アルバダファインダー、裏ぶた開閉によってゼロ復帰するフィルム駒数計、外部連動式のセレン露出計などが開発されていったのです。
 しかし最も重要なできごとは、VIL型をベースにしたP型の発売です。キヤノン・ポピュレールという愛称をつけたこのカメラは50mmF2.8レンズ付きで3万7000円という普及価格で10万台という大ヒットになりました。
 ライカを追い越せという大目標をかかげてひたすら高級化を追ってきた結果、果てしないマイナーチェンジの悪循環に陥っていたのです。1957年(昭和32)に創設された企画室が生産と販売を含む総合的な戦略を立てていくという新しい方針をたててP型を開発し、それがみごとに的中したのです。キヤノン・ポピュレールの成功はキヤノンの進むべき新しい道をひらき、空前のヒット作キヤノネットの開発へとつながっていきます。
 しかしその前に35mm距離計連動フォーカルプレンについてまとめれば、1965年(昭和40)に発売のキヤノン7S型が最後になります。そして交換レンズシステムは25mmF3.5、28mmF2.8、35mmF1.5、35mmF2、85mmF1.8、100mmF2などの大口径によって完成されており、ミラーボックスによって一眼レフ的に使用できる望遠レンズでは135mmF2.5、200mmF3.5、300mmF4、400mmF4.5、600mmF5.6、800mmF8、1000mmF11、2000mmF11などがラインアップされていました。

*キヤノン7S
1965年4月発売。
35mm距離計連動式カメラの最終機種。
7型で搭載したセレン式電気露出計を
CdS(硫化カドミウム)に変更したもの。
7型では、
ブライトフレーム4段変換式の
ユニバーサルファインダーが内蔵された。
これは撮影距離による実画面とのズレである
バララックスを自動補正し、
35mm、50mm、80+100mm
および135mmレンズの視野を、
切り換えることができるもの。
従来のライカマウトレンズのほかに、
バヨネットマウントをそなえ、
50mmF0.9という、
世界最高の明るさの標準レンズも開発された。
価格は50mmF0.9レンズ付で
8万7000円。

【5】ベストセラー機キヤノネットの裏側

 高級カメラ一筋だったキヤノンが中級機とよばれるレンズシャッター式カメラの分野で最初につくったキヤノネットは、1960年(昭和35)には全量が輸出され、国内販売は翌年1月からとなりました。これは新製品予告で「発売価格は2万円を割る」と発表したことから業界内に強い反発が出たための回避措置でした。
 キヤノネットは中級機とはいえ、45mmF1.9という大口径レンズを付け、距離計連動のファインダーはパララックス自動補正。そしてシャッター速度優先式のEE(自動露出)機能をそなえていました。それだけの高いスペックで価格は1万9800円。高級機メーカーのキヤノンがつくった本格的なEEカメラということで人気も高く、生産台数は1961年(昭和36)11月までに20万台を突破し、1963年(昭和38)7月には100万台を記録しました。1969年(昭和44)にニューキヤノネットにバトンタッチするまで、シリーズ全体で360万台を生産しました。

*キヤノネット
1961年1月発売。
距離計連動式で、
シャッター優先EE。
キヤノン初のレンズシャッターカメラ。
45mmF1.9レンズ付で、
価格は1万8000円。

 当時、大田区下丸子の本社工場では、加工における自動機化、専用機化が進んでいました。世界の最新鋭の工作機械がつぎつぎに導入されていったのが昭和30年代でした。精密な部品がつくれるということは、組み立て時の調整が少しずつ不要になっていくということです。それによって、熟練者の腕に頼ってきたカメラの組み立て工程に、未熟練の女子作業員が加わってきたのです。1958年(昭和33)にはキヤノンV型の組み立てに初めてコンベアが導入され、翌年のヒット作キヤノン・ポピュレールもコンベアシステムで、組み立てがおこなわれました。キヤノン・ポピュレールが月産5000台を突破したころから女子の臨時作業員の大量採用が始まっています。
 キヤノンはカメラ業界では最も早いコンベア導入を果たしたわけですが、そのシステムがキヤノネットに生かされたのです。生産ラインは下丸子の本社工場で立ち上げたあと茨城県取手の新工場に移すという方針から、量産試作という方法を初めて実施したのです。以来、設計・生産技術・組み立て、検査・生産管理・外注などの担当者で構成される“量試チームを組むのが新製品開発の基本になっていきました。

【6】世界最強の35mm一眼レフシステム

 キヤノンの35mm一眼レフカメラは、そのレンズマウント部の仕様から大きく5つの時期に分けられます。第1期は1959年(昭和34)のキヤノンフレックスに始まるRシリーズ。これにはスーパーキヤノマチックと称した完全自動絞り機構を組み込んでいましたが、少々複雑でもありました。そこで将来性を考え、シンプルな自動絞り方式を採用して、キヤノンの基本方式を確立したのです。それが第2期のFLシリーズで、1964年(昭和39)に発売になったキヤノンFXから採用されました。半透明固定ミラーを採用して国産3番目のTTL測光カメラとなったキヤノン・ペリックスもこのシリーズに入ります。1966年(昭和41)発売のキヤノンFTQLは可動ミラーのTTL機(絞り込み測光)になりました。

*キヤノンフレックス
1959年5月発売。
キヤノン最初の35mm一眼レフカメラ。
キヤノンR50mmF1.8レンズ付で
価格は5万9500円。

 1971年(昭和46)にプロ用最高級機キヤノンF-1が、膨大なシステムパーツとともに発売になります。「やがて、世界の高級カメラはF-1を追う」というキャッチフレーズは、5年の開発期間と、通常の10台分の開発エネルギーを投入した自信にあふれていました。
 事実、キヤノンはこのF-1で“ライカ打倒の悲願を達成したのですが、35mmカメラはすでに“日本の時代になっていました。キヤノンの50年史の折り返し点を過ぎたところで、名実ともに頂点に立ったといえます。
 F-1システムはキヤノンの総力を上げて構築されたものといえます。連続10万回の耐久性能、全システムの無調整即時互換性能、−30℃〜+60℃の温度環境性能といった基本仕様だけでも画期的なことでした。すでにキヤノンはかなりの電子技術をもっていましたが、この時点ではまだメカニカルな要素が強く押し出されています。したがって多機能内蔵型のシステムではなく、本体は必要最小限のシンプルネスを保ち、必要に応じてその目的に合ったパーツを加えていくという一種の“合体メカ型システムを採用しました。

*キヤノンF-1
1971年3月発売。
開放測光可能な
高性能FDレンズシリーズをそろえ、
システムパーツは約180種におよんだ。
そのシステムによって、各方面待望の
完全無人自動撮影を可能にした。
キヤノンFD50mmF1.4レンズ付で
価格は10万円。

 しかもその基本能力として、 1TTL開放測光、 2サーボEE自動露光、 3モータードライブ、の3つによって無人撮影を可能にしました。これを基本として銀行用の6台接続無人撮影セットや、電子ビューファインダー付きの戦闘機搭載システムなどがつくられました。米国軍用規格に合格して2500セットを納入したのも、すぐれた精度と耐久性が評価されたものでした。
 また、1972年(昭和47)にはF-1を母体にして、毎秒9.5コマという世界最高速のF-1高速モータードライブカメラも誕生。スポーツ写真などに威力を発揮することになりました。
 このF-1システムはシステムパーツを同時開発するという徹底的なものでした。F-1のネーミングは「フレックスNo.1」から来ていますが、これまでのカメラのように、売れ行きを見ながらアクセサリーパーツと追加開発していくとのとはちがっていました。
 もちろん旧タイプの付属品も可能なかぎり使用できるようにしてあり、それはレンズにおいて特徴的でした。旧レンズ40種類と新開発のFDレンズを合わせて54種類が用意されていたのです。
 F-1とともに登場したFDシリーズのレンズは、異なる口径比のレンズでTTL開放測光を可能にするため、レンズの開口f値を伝える開口信号ピンと実絞りf値を伝える絞り信号レバー、AE切り換えピン、それに予備信号ピンまで備えていました。
 加えて、レンズそのものの画質もプロが要求する光学性能を実現するため、以後10年間トップレベルの性能を維持するという目標で設計しました。投影解像力は中心解像力100本/mm、周辺部も開放から1段絞り込んだときに100本/mm。無限遠はもちろんのこと、至近距離撮影にいたるすべての領域でバランスのとれた収差減少をはかり、有害ゴーストやフレアーは徹底的に除去するという方針をとりました。そしてカラーバランスについても従来からのスペクトラコーティングを徹底して、交換レンズ群のすべてのカラーバランスをそろえることを目標としたのです。
 この時期の技術革新で特筆すべきは、レンズ開発に見られます。ひとつは35mm一眼レフ用レンズで初めての非球面(アスフェリカル)レンズの導入です。FD55mmF1.2ALがその第1号ですが、非球面を採用したレンズは大口径の開放時にフレアーが少なく、高コントラストの画像が得られるというメリットがあります。1975年(昭和50)にはFD24mmF1.4SSC(スーパースペクトラコーティング)アスフェリカル、1976年にはFD85mmF1.2SSCアフフェリカル、1978年にはFD24-35mmF3.5SSCアフスフェリカルとつづきます。
 また広角・標準系レンズにはフローティング方式を採用しました。これはレンズの繰り出しにともなってレンズ群の間隔を変化させるキヤノン独自の方式で、大口径レンズでの近距離での像面湾曲や球面収差を減少させ、画質劣化を防止するというものでした。
 コーティング技術もまた、レンズ設計の重要な要素になっていました。キヤノンの薄膜コーティング技術は1948年(昭和23)のソフトコーティング、50年代のハードコーティング、1957年(昭和32)のスペクトラコーティングを経て、1967年(昭和42)にはテレビカメラのズームレンズ群に採用されたスーパースペクトラコーティング(SSC)へと進化してきたのです。多層反射防止膜のSSCは面当たりの反射率を0.2%程度にまで減少させました。この高透過率のSSCは1973年(昭和48)以降はFDレンズの標準処理となりました。
 もうひとつの重要技術は人工蛍石を使用した超色消し望遠レンズの拡大です。1969年(昭和44)に蛍石を使用して二次スペクトルを極限まで減少させた高画質のFL-F300mmF5.6を発売したのが最初ですが、1975年(昭和50)にはFD300mmF2.8SSCフローライトが登場しました。さらに蛍石に準じる性能をもつUDガラスも使用できるようになり、1978年(昭和53)のFD300mmF4L、1979年のFD500mmF4.5Lなどへと展開していきます。この“Lレンズは現在もなお、キヤノンのプロ仕様レンズとして絶大な支持を得ています。
 このような新素材の開発と合わせて、地味なところでもレンズ革命は進みました。FDレンズの開発にあたって、新しい反射防止塗料として黒色無反射性超微粒子塗料を開発しました。光学系レンズの外周に溝を入れて有害光をカットする方法や、有害光線を遮断するためのナイフエッジ型固定絞りも採用しました。つづいて鏡胴内面反射防止の静電植毛を実用化し、絞り羽根自体にも専用の超微粒子無反射塗料を使用するなど、内面反射防止は徹底されたのです。
 このようなレンズの高性能化の陰には、光学機器メーカーとしての蓄積がありました。たとえばキヤノンはすでに1958年(昭和33)に国産初のTV用ズームレンズで世界最高のズーム比6.7倍のキヤノン・フィールドズームIF-I型60-400mmF4を発売しています。その後、国内でのキヤノンズームの市場専有率は95%を超えるほどになり、1960年(昭和35)にはズーミングとフォーカシングを1本の棒で操作できるキヤノン・スタジオズームISIIIを出して、日本のTV用ズームレンズの基本型を完成しました。
 さらに1984年(昭和59)には超高解像力の14倍ズームをハイビジョン用に製作し、1987年(昭和62)にはズーム比50倍でF1.4という世界最高のフィールドズームを発売します。
 もうひとつのレンズ技術には超高解像力レンズ(Uレンズ)の開発がありました。これは半導体ウエファー上にICパターンを投影転写するためのレンズで、1967年(昭和42)に完成したキヤノンU100mmF2.8は、倍率1/30で直径36mmの範囲に焼き付けるもので、その解像力がセンターで520本/mm、コーナーでも250本/mmというものでした。つづいて翌年にはキヤノンU16mmF1.8を出しましたが、これは焼き付け面が直径わずか3mmで倍率1/10ですが、解像力は740本/mmを実現しました。このような特殊レンズの製造を通して、コンピューターによるレンズの自動設計と製造精度の向上がはかられていったのです。
 F-1システムにはもう、ライカの影はありません。キヤノンはカメラ製造から派生したさまざまな精密加工技術や電子技術を駆使して多角化しており、その成果を再びカメラにフィードバックするという方法でキヤノン独自の道をひらくようになったのです。

【7】最初のコンピューターカメラAE-1

 1971年(昭和46)にF-1と同時に発売されたキヤノンFTbは、FDレンズを使用するTTL開放測光になりました。これは1966年(昭和41)発売のFTQL(QLはクイックローディング)の後継機で、基本機能はF-1に準ずるものになりました。キヤノン独自の部分測光(画面中央の約12%の面積を計る)を継承し、TTL測光は、測光ごとに実絞りで露出を計る絞り込み測光から、ピント合わせと同時に測光できる開放測光になりました。もちろんFL、Rシリーズの旧レンズも従来の絞り込み測光で使えるという互換性は確保されていました。このキヤノンFTbは発売3年半で100万台を突破し、主力機種として人気を博します。

*キヤノンFTb
1971年3月発売。
F-1と同じ
高性能FDレンズシリーズを使用でき、
F-1開発の成果を基本性能に取りこんだ
普及タイプ
測光方式は開放部分測光追針式。
Rシリーズ、FLシリーズの旧タイプの
レンズも絞り込み測光で使用できる。
ブースターを装着すると、
EV-3.5 の暗さまで測光可能。
キヤノンFD50mmF1.4レンズ付で
価格は5万7000円。

 もう1機種、1973年(昭和48)発売のキヤノンEFについて触れておかなくてはなりません。これがレンズ交換式一眼レフカメラではキヤノン最初のAEカメラになりました。FDレンズには絞りカム機構をボディ側から操作できるAE切り換えピンをもっているので、シャッター速度を指定して、露出に合わせて絞り値が変わるシャッター優先AEを実現することができました。他社の場合はシャッターを電子制御して適正露出を保つだけの絞り優先AEでしたから、その差がつぎのAE-1で決定的になり
 その萌芽が、キヤノンEFにはすでに見られます。新しい受光素子SPC(シリコン・フォトセル)と、カメラ用としては初めてBi-MOS型ICによるLogアンプ(対数増幅器)を組み合わせてフレキシブルプリント板上に回路網を形成し、ペンタプリズムの周囲に配したのです。これによって測光限界はEV-2まで拡大されたのです。また、測光方式ではAEカメラに適した中央部重点測光が採用されました。
 一眼レフカメラのAE化は、技術の新しい流れを求めていたといえるでしょう。すでに各社からAE一眼レフは発売されていましたが、価格はいずれも10万円を越しており、技術的な革新なしには突破できないところにありました。
 それを痛感していたキヤノンは、当時すでに身につけていた電子技術、精密機械技術、光学技術、あるいはコンピューターの利用による設計、超精密加工、生産など、持てる力を総動員して、本格的な「複合技術」製品の開発プロジェクトとして「Xタスク」をスタートさせたのです。1974年(昭和49)のことでした。当然、電卓開発以来のエレクトロニクスの蓄積をカメラに大胆に投入するという方針もとられました。
 こうして1976年(昭和51)に発売になったAE-1は、完全電子制御AEカメラとなり、世界で初めてマイクロコンピューターを内蔵したカメラとなったのです。そのために動員された技術者は、メカ設計、電気設計、光学設計、外観デザインなどの開発部門、生産技術、検査、組立、生産管理、治工具などの工場生産部門におよび、総勢250人というキヤノン始まって以来の大規模な開発態勢になったのです。しかもそのメンバーは全社から集められました。そして、その製品構想においては、 1だれにでも失敗のない自動化(ここではAE化)、 2ボディ単体だけではなくシステム全体におよぶ自動化、 3普及価格を実現するためのコストパフォーマンスの追求、がかかげられました。最新の技術を最善の方法で組み合わせていけば、最高のカメラでできるという開発思想はキヤノネットの信じがたいほどの大成功によって支えられていました。

*キヤノンAE-1
1976年4月発売。
世界で初めて、
マイクロコンピューターを搭載。
CPUが
AE撮影を完全にシーケンシャル制御する。
ワインダーやスピードライトなど、
システムパーツもまた
CPUがコントロールする。
ユーザーが求めている
gハイレベルで格安への新たな方法を、
キヤノンはこの成功によって確信する。
キヤノンFD50mmF1.4レンズ付で
価格は8万1000円。

 誕生したキヤノンAE-1は、シャッター優先式AE機能を測光から撮影までにわたってCPU(中央演算処理装置、マイクロコンピューター)でコントロールするものです。加えてカメラ底部に直結式に取り付けるパワーワインダーAによって、秒間2コマの連続撮影が可能になり、「連写一眼」というキャッチフレーズが浸透しました。
 また直列制御方式のスピードライト(ストロボ)も完全制御されるようになりました。ホットシューにセットすると、充電完了時にカメラ側のシャッター速度が自動的に1/60秒にセットされ、絞りもまた、あらかじめ設定された調光絞り値に自動セットするという“おまかせオートを実現したのです。
 これは、カメラ内動作をチェックしながらシーケンシャル制御するCPUの活躍によるもので、パワーワインダーもスピードライトも本体側のCPUで集中制御するという本格的なものになったのです。それに応じてメカとエレクトロニクスのインターフェースが必要になり、厚膜利用の双曲線関数抵抗器や、永久磁石と電磁石を組み合わせたコンビネーションマグネットなどを開発しました。この世界最初のコンピューターカメラはすでに映像ロボットへのスタートを切ったのでした。
 生産面でも新しい領域が開発されました。内蔵したマイクロコンピューターは米国TI(テキサスインスツルメント)社との共同開発に負うところが多かったとはいえ、当時最新の電子光学理論にもとづいたLSI技術を導入して、カメラ内部に大規模な電子化を実現することに成功したのです。もちろん設計、部品加工、検査などすべての工程にコンピューターを活用しました。その結果、部品は5大ユニットと25のサブユニットに分割構成されて、組み立て工程の自動化を可能にしたのです。
 生産技術面での自動加工、自動組み立てを可能にするために高精度を追求したということになります。その最終目標は無調整組み立てとしましたが、カメラにおける自動組み立ては当時、実現困難とされていたものです。というのは、組み立ての最終段階でこまかな調整や手直しをおこなう余地を残しておかないと完成しないというのが常識だったのです。しかし部品加工の省力化が進むと、コストに占める組み立て費用の割合はしだいに上昇し、同時に量産体制におけるネックとなってきたのです。
 キヤノンが組み立ての自動化への具体的な一歩をしるしたのは、1964年(昭和39)発売のキヤノンFXに使用したプラスねじでした。直径3mm以下の小さなネジの締めつけをエアドライバーによって迅速、かつ安定した締めつけ力にするために、ねじメーカーの日東精工と共同開発して、それが後に「精密機械用十字穴付小ねじ」として日本写真工業規格に制定され、カメラ業界に普及しました。
 1970年代に入ると、自動ビス締めや、2部品の加締めをおこなう程度の自動化などから、すこしずつ準備を整え、AE-1開発の「Xタスク」によって自動組み立てを一気に実現するのです。
 そのために、カメラの自動組み立てについて、4つの設計条件をかかげました。 1機能別のユニット化、 2一方向からの組み付け、 3位置ぎめ基準穴の設定、 4パーツフィーダーで供給しやすい形状、というものです。各ユニットが自動的に組み付けられたとき、相互に機能するためには、それぞれのユニットが設計どおりに接続されて一体化しなくてはなりません。それを保障するためには、部品精度を向上する必要がありました。
 たとえば本体と前板ユニットとの組み付けにあたって、基準となる穴の位置精度は±0.02mm、その穴径の精度は±0.01mmと設定されました。これは高級カメラの部品加工に使用した治具(工作補助具)の精度をそのまま製品精度としたのに匹敵する高精度化でした。そしてその精密な位置ぎめを維持するための専用工作機材は社内で設計、製作されました。
 さらにその精密さを支える公差が各ユニットに合理的に配分される理論式も確立し、カメラを支えてきた“熟練による精密組み立てをほぼ一掃するものになったのです。加えてシャッター精度、自動絞り精度をはじめとする各種の自動検査もAE-1の組み立てラインにおいて完成しました。
 このような大胆な自動化は、キヤノンのその他の製品にも波及し、磁気ヘッド、マイクロモーター、複写機カートリッジ、薄型電卓などのラインに、つぎつぎに応用されていきました。つまり全社規模でおこなったAE-1の開発が、全社規模でフィードバックされていくというキヤノン独特のタスクフォース方式において、AE-1はひとつのエポックとなったのです。
 もうひとつ、どうしても触れておかなくてはいけないのはプラスチック化でした。カメラ外装のプラスチックメッキ技術を本格的に採用したのがAE-1だったからです。カメラのプラスチック化は時代の流れではありましたが、精密機械にふさわしい金属加工の美しさもまたカメラの魅力でした。AE-1の開発に当たっては、 1薄肉プラスチック外装へのメッキ密着力の安定、 2メッキ応力によるプラスチックの変形防止、 3下地メッキ層に梨地加工をして密着性を失わない、という課題を解決していきました。従来の金属素材の外観以上の高級表面処理をプラスチック素材上に実現したのは、じつは表面の見てくれの問題ではないのです。金属加工としては機械工程の多い上蓋、底蓋、レンズマウントをもつエプロン部などをワンショットで形成できるプラスチック素材の導入を高級機においても可能にしていく過程で、どうしても解決しておかなければいけない問題だったのです。
 このプラスチックメッキの技術は、つぎの段階で塗装調モールドに進化していくことになります。つまり成形時に型のほうにメッキしておいて、その塗装の感じまでを忠実に転写する精密な成形技術が登場してくるのです。オートボーイや一眼レフのTシリーズ、そしてAF一眼レフのEOSシリーズへと、カメラボディのプラスチック技術は驚くほど進歩していくことになります。
 一眼レフカメラになくてはならないペンタプリズムの加工もまた、ダハ角の精度を維持するためには手間のかかるものでした。そこでこれは独自のタスクフォースによって自動化系列を確立しつつありました。4年の歳月と約5億円の投資で大規模な製造装置を完成して、これがAE-1に生かされました。
 このように、カメラを精密機械から先端技術製品に脱皮するためには、従来のやりかたにとらわれない合理性が必要でした。AE-1をワンタッチ無調整組み立てにするというテーマは、キヤノンが新しい先端技術を駆使するのに必要な精密加工ラインを完成することでもあったのです。この革新的な生産体制によって、キヤノンAE-1は小型軽量・高性能で、約30%のコストダウンによってレンズ付きで8万1000円という普及価格で登場したのです。そして発売から約1年半で生産台数は100万台を突破。世界中でブームを巻き起こしました。
 商品として当たるか当たらないかという神頼みのようなつくり方ではなく、全力で新技術を投入してパワーのある製品を送り出す。キヤノネットにつづいてキヤノンAE-1もまた、グローバルなベストセラー機となったことは、技術に生きるキヤノンの進むべき道を明らかにしたという意味で運命的なものでした。ちなみに、AE-1が発売された1976年は、ドイツのイハゲー社が世界最初の35mm一眼レフカメラ、キネ・エキザクタを発売してちょうど40年目のことでした。

【8】デジタル制御電子一眼レフA-1

 コンピューター内蔵カメラのキヤノンAE-1は、必然的にキヤノンA-1を生み出すことになります。なぜならAE-1はアナログ式の制御であるため、さらに高度な電子化をすすめようとすると、デシタル制御にまでいかざるをえないのです。A-1はその、デジタル制御電子一眼レフカメラとして登場するのです。
 ただ、正式に開発が決まったのがAE-1の発売後わずか7か月後の1976年初冬、発売は約2年後の1978年(昭和53)。AE-1フィーバーはまだつづいており、キヤノンの電子化のテンポの速度は他社を驚かすに十分でした。
 このA-1は5つのAEモードをデジタル制御することにポイントがあり、AE-1のシャッター優先AEに、絞り優先AEを加え、両方式を組み合わせたプログラム式AEを実現しました。ほかに特殊レンズを使用したさいに便利な絞り込み実絞りAE、スピードライト(ストロボ)AEを組み込みました。

*キヤノンA-1
1978年4月発売。
完全デジタル制御による
初の5モードTTL-AE機。
ダイヤル入力で、
7セグメントのLED表示機能。
多機能電子カメラの
基礎を確立した。
キヤノンFD50mmF1.4レンズ付で
価格は11万4000円。

 おおざっぱにいえば、このためにAE-1の3倍以上の大規模な電子化が必要でした。電子回路には5個のICを使用し、CPU(中央演算処理装置)からは毎秒3万回の基準パルスを発信して、その周波数を2分の1にする分周回路をもとに全デジタル方式としたのです。
 デジタル制御とした理由は、 1温度や湿度の影響を受けにくく、経年変化もほとんどないという耐久性、 2アナログ制御方式に対して回路構成が単純化できるため、高密度実装化が可能、 3測光情報などの表示器のソリッドステート化が可能になって、信頼性が向上する、 4表示できる情報量を飛躍的に増大させることができる、 5アナログ制御方式に対して部品点数、および調整個所を減少でき、IC化もしやすくなるためコストダウンの可能性を秘めている、といったことでした。
 情報量が増えたために、その配線を単純にし、かつ情報の伝達速度を上げるために、8ビット信号のバスラインシステムを採用しました。時分割方式による情報伝達をおこなうのです。したがってCPUにはさまざまな信号が送りこまれるので、万能論理素子のPLA(プログラマブル・ロジックアレイ)が判断して、適正な演算処理をおこないます。デジタル処理をPLAにまかせることによってモード設定や設定変更など、外部からの情報入力はダイヤルインプット方式をとることができました。A-1がカメラとしては例のない高度なコンピューターを内蔵していながら、ユーザーには従来のメカニカルなカメラと区別がつかないものになったのは、このPLAの採用のおかげです。これがキヤノンT90で電子ダイヤルに発展的に継承され、EOSシリーズでさらに進化する出発点となるものでした。
 A-1はまた、IC内蔵のモータードライブMAによって秒間最高5コマの連続撮影を可能にし、モータードライブ使用時に連続耐久5万回の耐久性も確保しました。AE-1、A-1を中心とするAシリーズは1982年(昭和57)発売のキヤノンAL-1まで6機種で合計1100万台の生産累計を記録しました。

【9】オートボーイの誕生

 35mmレンズシャッターカメラでは、1961年(昭和36)にキヤノネットがEE化を一気に進めたあと、1975年(昭和50)には小西六写真工業(コニカ)がストロボ内蔵のピッカリコニカ(C35EF)を発売、しばらく低迷していた35mmレンズシャッターカメラに再び人気がもどってきました。つづいて1977年(昭和52)には同じ小西六写真工業から世界初のオートフォーカスカメラ、ジャスピンコニカ(C35AF)が発売されて、35mmレンズシャッターはたちまちAFの時代に突入したのです。
 キヤノンは当時すでにAFの研究開発はすすめていましたが、1979年(昭和54)になってようやくキヤノン・オートボーイ(AF35M)を発売するにいたりました。

*キヤノンAF35M(オートボーイ)
1979年11月発売。
キヤノン初のAF全自動カメラ。
近赤外光投射型のアクティブ三角測量方式の  オートフォーカスを独自に開発。
フィルムの巻き上げ、巻き戻しも自動。
ストロボ内蔵で
オートマチックコンパクトカメラの
代表機種としてベストセラーになった。
38mmF2.8レンズ付で
価格は4万2800円。

 すでにこの分野では6機種ものAFカメラが発売になっていましたが、それらはすべて米国ハネウェル社が開発したVAF(ビジトロニックAF)モジュールを搭載したものでした。距離計連動装置の二重像合致部にセンサーを置いて、左右両眼から入ってくる被写体像のパターンを比較する方式です。
 キヤノンではすでに1963年(昭和38)にAFカメラの試作品を発表しており、AFシステムに関しては先端を走っていたはずなのです。あらゆる方式を検討して、あとは市販機に乗せられるデバイスの開発を待つというところまで来ていました。1972年には当時は高価なLEDを光源にしたアクティブ方式AFシステムをNHK総合技術研究所に納入しています。
 1975年に米国ハネウェル社のビジトロニックAFモジュールが商品化されました。それは受光素子と信号処理回路をオンチップ化したLSIでした。それに対してキヤノンはDIC(2値化像相関法)によるSST(ソリッドステート・トライアンギュレーション、可動部のない三角測量)方式を開発中でした。これは左右両眼からCCD上に投影される被写体像のパターンの間隔が距離に応じて変化するのことから測距する受動(パッシブ)方式でした。当時はまだ、CCDを民生品に用いる例はほとんどなく、しかもまだ性能的に暗いところや、コントラストの低い対象に弱点をもっていましたが、連続フォーカスが可能なため、まず8mmシネカメラに搭載され、順次性能を高めていきます。
 もうひとつは近赤外線を使うアクティブAF方式で、当時、光通信用に開発された高輝度近赤外発光ダイオード(IRED)が赤外光を投射しながら被写体を回転走査すると、その反射赤外光を検出して電気信号に変換して、ダイオードの回転量から距離を検出するというものでした。
 この方式は、 1被写体の明るさやコントラストに関係なく機能する、 2かなり近距離まで測距が可能、 3基長線を長くとれるので測距精度の向上が計れる、 4測距とフォーカシングが同時にできるので作動時間が短い、 5距離信号が明確、 6受光素子と検出回路が単純、 7デバイスの形態、配置の自由度が高い、といった利点があって、オートボーイはたちまちAFコンパクトカメラの代表的な存在になり、フィルムの巻き上げ、巻き戻しの自動化やストロボの組み込みと合わせたオートマチックカメラとして5年間に400万台という大ヒットになったのです。他社の方式も順次アクティブ方式に転換していくことになります。
 しかし1981年(昭和56)に発売になったキヤノン・オートボーイスーパー(AF35ML)にはパッシブ方式のSSTを採用しました。その理由は、 1可動部がないため耐久性にすぐれている、 2測距結果を事前に知ることができる、 3アクティブのように投射距離に限界がない、 4連続測距をおこなえるので、測距成功率が高い、といった点にありました。そしてこれはさらに発展して、1985年(昭和60)発売のキヤノン・オートボーイライトには近赤外光を投影するアクティブ方式のSSATが登場し、1986年(昭和61)発売のキヤノン・オートボーイ3、オートボーイテレからは、さらに精度の高い位置検出素子(PSD)を採用したアクティブSSATとなりました。
 オートボーイは精度が高く、応答スピードの速いAFシステムによって信頼性を獲得して、全自動コンパクトカメラの主流の座をしめることに成功したのです。

【10】電子化のNewF-1

 キヤノンF-1の登場からちょうど10年目にあたる1981年(昭和56)に、キヤノンNewF-1が発売になりました。キヤノンの電子技術はこのNewF-1にも生かされることになりますが、そのネーミングにも明らかなように、F-1のすぐれた面を失うことなく発展的後継機とするという方針が貫かれました。
 NewF-1に搭載された電子回路は、その素子・ゲート数においてAE-1の約1.5倍の規模ですが、その位置づけはAシリーズとはすこしちがって、プロ用カメラとしての信頼性の向上と、機能の拡大をもたらすものとしています。そのため、高速処理用のアナログ回路とデジタル回路のハイブリッド回路構成として、本体の電池電圧:巻き上げ完了、モータードライブの電池電圧、スピードライトの充電完了などをチェックし、正常なら次の動作に進むチェック&ゴー方式の制御によって撮影者の負担を軽減するという役目をになうものになりました。

*キヤノンNewF-1
1981年9月発売。
F-1の発展型後継機で
機械式・電子式制御の
ハイブリッドシャッターを搭載、
シンクロスピードを1/90秒にした。
システムAEの採用をおこない、
ファインダースクリーン交換による
3測光感度分布切り換えを可能にした。
NewFD50mmF1.4レンズと
アイレベルファインダーFN付で
価格は18万1000円q

 そのようなプロ使用を前提とした信頼性重視の設計は、最高1/2000秒のシャッターにおいて、X接点(1/90秒)より高速側を機械式制御とし、低速側は8秒までを電子制御とするハイブリッドシャッターとして、電気回路が死んでも機械式制御の高速側シャッターでの撮影がつづけられるようにしてあります。
 また、電気回路を守るため防滴・防水対策には万全を期して、主要付属品を含めて約40か所にラバーシール、プラスチックシール
 これらの測光はファインダースクリーンに組み込んだMBS(マイクロビーム・スプリッター、微細格子構造)によって焦点面でとらえた光を受光素子SPCに導くもので、3種類の測光感度分布は、このMBSの回析格子の位置とサイズ、反射率を変えることによって選択できます。そのため、使用目的別のファインダースクリーンのバリエーションとで13種類32枚の交換スクリーンが用意されました。

【11】不遇の時代のTシリーズ

 6年間に1100万台を生産したAシリーズの後を受けたのがTシリーズの一眼レフです。しかし、Tシリーズほど不運なめぐりあわせで生まれたカメラはありません。
 日本写真工業会の統計でみると、35mm一眼レフの国内生産台数は1981年度(昭和56)がピークで767万台といわれます。国内出荷台数をみると、前年の1980年度が128万台でピークとなり、以後107万台(81年)、86万台(82年)、70万台(83年)、と凋落の一途をたどり、1984年(昭和59)には52万台まで落ちてしまいます。これは1960年代の水準です。そのドン底を1985年(昭和60)に60万台にまで回復するのはミノルタが発売したAF一眼レフカメラα-7000です。
 この時代、キヤノンのTシリーズは、ノンAFのさまざまな個性を追求しながら、来るべきEOSの時代への萌芽を育てていったということになるのでしょうか。Tシリーズ開発のねらいで重要なことは、機能の単なる自動化や多機能化ではなく、ユーザーの意志にこたえる自動化、意味のある多機能化を追求する、ということでした。
 Tシリーズの第1号は1983年(昭和58)に発売したキヤノンT50(オートマン)。これは国産初のモノ(単一)プログラムAEのオートマチックカメラで、おまかせオートの入門機。軽量・小型の35-70mmコンパクトズームを標準装備して8万円(本体価格4万5000円)という普及価格を実現しました。ボディを支える右手を補助するホールディンググリップをそなえ、1983年度のグッドデザイン大賞を獲得しました。
 つづいて1984年(昭和59)に発売したのがキヤノンT70(インテリジェント・シューター)で、これがAシリーズのAE-1、A-1の後継機と目されました。したがって従来の35mm一眼レフカメラの概念を超えることを目標として、撮影者の意志に応える多機能と自動化を徹底的に追求しました。

*キヤノンT70(インテリジェント・シューター)
1984年4月発売。
Tシリーズの主力機で
大型液晶表示とキータッチ入力を採用。
測光感度切り換え機能を内蔵。
NewFD28-55mm
F3.5-4.5付レンズ付で
価格は10万8000円。

 その主な仕様を列記すると、(1)中央部重点平均測光と中央部部分測光の2方式測光感度分布切り換え機能、(2)ノーマル/ワイド/テレの3方式マルチプログラムAE、安全シフト機能付のシャッタースピード優先AE、絞り込み実絞りAE、マニュアル測光といった方式選択を可能にし、(3)フィルムの装てん、巻き上げ、巻き戻しも電動、(4)プリ発光によって最適の絞り値を選択するプログラムスピードライトAEや日中シンクロの自動化、(5)データ写し込みも可能なコマンドバック70、(6)レンズはFD35-75mmF3.5-4.5(3万5000円)、またはFD28-55mmF3.5-4.5(3万9000円)の選択式標準装備、といったものでした。そして大型液晶板による情報パネルを採用して、プッシュ&スライドのキータッチオペレーションによる新しい操作感覚を提案しました。つまり、このカメラからは従来のダイアル類は一掃されたのです。本体価格6万9000円は、コストパフォーマンスのすぐれたものといえました。
 そしてさらにその翌年、1985年(昭和60)に、AF機能をもったキヤノンT80(オートロボ)を発売します。このカメラにはキヤノンが独自に完成したパッシブコントラスト検出方式のAF機能を搭載してあり、AC50mmF1.8(3万円)、AC35-70mmF3.5-4.5(4万3000円)、AC75-200mmF4.5(6万8000円)のコアレスモーター内蔵レンズによってAF撮影が可能になりました。価格は本体が8万5000円でした。
 しかし、このT80オートマンはAF一眼レフでは前史の存在になっています。ほぼ同時期、1985年2月に発売されたミノルタα-7000が、東芝製のAFセンサーを搭載してさっそうとデビューし、新しい時代をひらいたからです。ミノルタは同じ年の9月に上級機α-9000を出し、翌年の6月にはスペックダウン機α-5000を追加します。
 一眼レフのAF化という新しい道が見えて、各社いっせいに走りだしましたが、最初に追いついたのはニコンでした。米国ハネウェル社のAFセンサーを搭載したニコンF-501が1986年4月に登場、10月には同じセンサーを搭載して、オリンパスOM707。ミノルタとほぼ同じ東芝製のセンサーで京セラ230-AFが発売になったのは12月でした。
 丸2年遅れて、1987年3月にNECのセンサーを搭載したペンタックスSFXが登場、そして同じ3月にキヤノンEOS650が、自社製のセンサーBASISを積んで、ようやく戦線に加わったということになります。そして5月に発売した兄弟機EOS620とのラインナップで、たちまちトップの座を奪います。
 キヤノンT80オートマンからキヤノンEOS650までの丸2年のことが重要です。 もちろんキヤノンはミノルタα-7000を超えるAFカメラの開発にかかってはいましたが、Tシリーズの最高級機T90(タンク)を1986年(昭和61)に発売します。これはAE-1にはじまった電子化カメラでプロ仕様にまで登りつめるものとして、先端技術の複合的集大成を果たすべきものでした。
 基本デザインは西ドイツの工業デザイナー、ルイジ・コラーニとの共同開発によるもので、CAD/CAMによるコンピューター設計技術を駆使しておこなわれました。これがEOSのデザインの原型ともなったのは、ご存じのとおりです。

*キヤノンT90(タンク)
1986年2月発売。
マルチモードTTL-AE機で、
3モード測光感度切り換え機能を内蔵。
3モーター内蔵によって、
単3電池4本で最高4.5コマ/秒の
モータードライブ機能を実現した。
1986年度の
日本カメラグラプリ受賞。
NewFD50mmF1.4レンズ付で
価格は18万円。

 ノンAF機の最後を飾るにふさわしい多彩な測光・露出制御機能を搭載したのも特筆すべきことでした。これはあらゆる作画要求にも応えることができるように、多機能の極みを追求したものといえます。(1)中央部重点平均測光、(2)中央部分測光(視野中央の13%の部分)、中央部スポット測光(中央の2.7%の部分)の3測光感度の切り換えをカメラ本体内でおこなえ、(3)のスポット測光では最高8回までマルチスポット測光というプロ技法が簡単にできるようにしました。また、シャッターボタンの第1ストロークでAEロックができ、その後さらにH/Sボタンによって白を白く、黒を黒く再現する露出補正をおこなうことが可能になりました。
 露出制御は8モード13種の自動制御に、2種のマニュアル制御を加えました。それを列記すると、(1)シャッタースピード優先AE、(2)絞り優先AE、(3)絞り込み実絞りAE、(4)標準プログラムAE、(5)7段階可変バリアブルシフト・マルチプログラムAE、(6)専用スピードライトによるA-TTL自動調光AE、(7)スピード撮影時にAEロック、FE(フラッシュ露光)ロック機能、(8)接写用スピードライトでのTTL自動調光スピードライトAE。
 とくに(6)のアドバーンストTTL調光は初めて開発されたもので、プリ発光と同時に画面全体を中央部重点平均測光で測光し、シャッター速度や絞り値を計算して自動セット、日中シンクロ撮影なら調光レベルも判断します。撮影時はフィルム面反射測光によってリアルタイムでおこない、適正光量になると発光を停止します。ここまでの機能が本体側にあり、スピードライト300TL側にはまた、次のような機能が搭載されています。充電完了信号を送信し、近赤外光をプリ発光して得た距離情報を本体側に伝えます。
 このような下ごしらえによって、A-TTLによる自動調光撮影はプログラムオートでコントロールされますが、ほかにシャッタースピード優先A-TTL、絞り優先A-TTL、あるいはマニュアル設定のA-TTLも可能になりました。
 シャッッターは最高速1/4000秒から最長30秒までを完全電子制御し、シャッタースピードは 1/2段ずつ35段階の設定を可能にしました。そのようなこまかな情報入力のために、キヤノンT90は独創的な「電子ダイヤル」をもうけたのです。従来からのメカニカルダイヤルとT80で採用したプッシュボタンの長所をとって、大量の情報を速く、かつ正確におこなうためのフリーダイヤルで、2ビットデジタル信号による入力数は撮影モード設定などを含めて7機能121種類にもおよびました。
 そのような徹底的な電子化を支えるのが6個のLSIと4個のICで、測光用IC、TTL自動調光用ICなどを除き、すべてをデジタル信号で処理することにしました。回路の規模はトランジスター素子に換算して約13万素子となり、A-1の30倍、T70の7.5倍という大規模なものになったのです。
 そのような電子化に対応するアクチュエーターとしてのモーターを、T90は3個使って作業効率を上げ、単3電池4本で最高秒間4.5コマの連続撮影まで可能にしました。これは小型のコアレスモーターをメカニズムチャージ専用、フィルム給送専用、フィルム巻き戻し専用としたものです。モーターを3つにして、ボディのコンパクト化も実現されました。そしてこのT90が、生まれ出るEOSの骨格を完成させていたということができます。

【12】イオスの誕生

 完成度の高いAF一眼レフの開発を決定したのは1985年(昭和60)3月31日のことでした。ミノルタα-7000発売直後の、いうなればAF元年のことです。開発期間は2年とし、開発3原則を以下のように定めました。(1)AF機構によって従来の販売価格を大幅にはみ出してはいけない、(2)300mmF2.8レンズを使用して手持ちでバスケット競技(屋内)を追従撮影できること、(3)測光感度と同等の明るさの測距感度にすること。
 この開発計画は Entirely Organic System (完全有機体システム)と名付けました。その略号EOSはギリシャ神話の曙の神であり、新AFカメラシステムにふさわしいものとして、それがそのまま商品名となったのですが、EOSの意味はその段階で、Electro-Optical System と改められました。そしてその新システムの発表は、キヤノン創立50周年にあたる1987年(昭和62年)3月1日と決定したのです。
 キヤノンの35mm一眼レフカメラは1959年(昭和34)のキヤノンフレックス以来四半世紀にもおよびますが、EOSはその過去にとらわれず、将来の展開を先取りするシステムとして開発されるべきものとしました。
 第1弾のキヤノンEOS650、およびEOS620では、開発コンセプトをつぎのように決めました。(1)一般アマチュアを対象とする、(2)最新の要素技術を積極的に導入して高機能を実現する、(3)カメラ本体と主要アクセサリーの接合部から一切のメカニカルな要素を排除し、撮影に必要な信号伝達と制御を完全電子化する。
 もっとも重要なAF測距についてはTTL二次結像位相差検出方式を採用しました。その原理は先行他社のものと基本的に同じなので、センサーの性能が勝負でした。キヤノンが独自に開発していたBASISはフォトトランジスターのベースに光信号を電荷として蓄積することから、Base Stored Image Sensor と名付けられたものです。蓄積された電荷をアンプ(増幅器)をとおしてスイッチングによって順次読み出していくため、他社が採用したMOS型センサーのように読み出した後で増幅するよりS/N比(信号とノイズの比)がずっとよくなるという特長をそなえていました。
 このBASISは48ビットのラインセンサー2本と、その増幅回路を一体化したLSIです。センサーは幅30μm、高さ150μmで1ビットを構成しているので、1本あたりの有効受光部は幅1.44mm×高さ150μmとなりました。その各ビットをそれぞれ増幅して読み取るため、明部輝度がEV1あれば信号検出が可能となって、理論上はCCDセンサーの4倍までの高感度が可能になる方式でした。

*キヤノンEOS650
1987年3月発売。
TTL二次結像位相差検出方式による
本格的AF機で、AFセンサーは自社開発のBASIS。
レンズ駆動方式を採用した。
レンズ駆動用の超音波モーターは、
世界最初の実用化となった。
完全電子マウントを採用。
AFとAEが融合して、
深度優先AEが実現した。
EF50mmF1.8レンズ付で
価格は10万3000円。

 またAFシステムは測距データを本体CPUが演算してレンズのフォーカシングをおこなうことではじめて完結します。コンピューターからの指令で正確に動くアクチュエーターがレンズをどれだけ速く正確にコントロールするかが、システムの基本能力となるわけです。そこでキヤノンではカメラ本体とレンズの接合部であるマウントからメカニカルな要素を完全に排除する新しい電子マウントを採用することに決定しました。したがってレンズのフォーカシング用アクチュエーターは、仕事の現場に置くという合理的な方針が確定したのです。つまりEOSシステムを構成するレンズは、個々にモーターを内蔵し、そのモーターをレンズごとに最適なかたちで使うということになったのです。
 それをレンズ内駆動といいますが、EOS用交換レンズには3種類のアクチュエーターを用意しました。ひとつは世界初の実用化となった超音波モーター(Ultrasonic Motor、USMと略称)で、リング状の振動体に分極した圧電セラミック素子を接合し、振動体の上面にローターを加圧接触させたシンプルな構造ながら、実用化にはさまざまな困難のともなうものでした。圧電セラミック素子に共振周波数の電気入力を与えると、極性によって素子が伸縮するため、振動体を含めたたわみ振動が発生します。共振周波数に90度の位相差をもたせるとたわみ振動の進行波が発生してローターを駆動するという理論です。これはレンズ鏡筒内に置くには最適な形状であり、音が静かという利点もそなえています。
 もうひとつは円弧形モーター(Arc-Form Drive、AFDと略称)で、駆動装置を円弧状に並べたブラッシレスモーターで、レンズ鏡筒内の6mmのスペースに納めることに成功しました。
 3番目のアクチュエーターは電磁駆動絞り装置で、これは変形ステッピングモーターと絞り羽根をユニット化したコンポーネントになっています。電子制御のステッピングモーターによって手動の絞り環とは比べものにならない精密な絞り値制御が可能になりました。
 これらの操作をおこなう電気信号回路はボディ側8ピン、レンズ側7接点の電子マウントによって接続されるのですが、伝えられる信号の内容をまとめると次のとおりです。(1)レンズ制御信号=CPUから出力されたレンズ制御信号をレンズに伝達する、(2)クロックパルス=レンズ側AF制御用電子回路を駆動するためのクロックパルスをレンズに与える、(3)レンズ作動モード信号=ワンショットAF、サーボAF、マニュアルなどのレンズ作動モードの状態をカメラに伝える、(4)GND、(5)レンズ作動停止信号=カメラが露光作動中にレンズの作動を停止させる、(6)電源=レンズ側AF制御用電子回路やモーターの駆動電源の能力を知らせる、といったものです。

*キヤノンEOS620
1987年5月発売。
EOS650の上級機種で、
自動段階露光機能(オートブランケッティング)を搭載。
照明に、カメラでは初めて
EL(エレクトロルミネッセンス)を採用。 シャッター速度は最高1/4000秒。
EF50mmF1.8レンズ付で
価格は13万3000円

 そしてこの新しいレンズマウントは、はめあい径54mm、フランジバック(フィルム面までの距離)44mmと大型にしたため、35mm一眼レフでは例のない超大口径F1.0のレンズを実現可能にし、視野率100%でミラー切れのないファインダーを開発することも可能にしました。
 測光方式においては中央部重点平均測光に代わって、画面全体を6分割して測光し、その各領域の輝度レベルと輝度分布の状態から撮影シーンのパターン分類をおこなって最適な露出を判断する6分割評価測光を採用しました。しかしまた、画面中央部の約6.5%の範囲をはかる中央部分測光も用意して、自在に切り換えることができるようにしました。
 一眼レフの進化の道すじにあったAEとAFが融合したところにあらわれたものに、EOS650に備えられた「被写界深度優先AE」がありました。これは写したいシーンのうち、ピントを合わせる範囲を手前と奥の2点でAF測光して記憶させて撮影すると、レンズはその中間位置にピントを合わせ、前後をピントの許容範囲(被写界深度内)に入るような絞り値を決定し、それに応じたシャッター速度で撮影するというものです。ピントが合う範囲を指定できるカメラは、このEOS650が初めてでした。

【13】EOSの発展

 EOSは日本の主要カメラメーカーのものとしてはどん尻に登場したAF機ということになります。しかしEV1の明るさ(暗闇の中でローソクの光で照らしだされる程度)でAF機能が働くという高感度と、速い応答速度によって、たちまち高い評価を得たのです。
 翌1988年(昭和63)10月には普及タイプのキヤノンEOS750クオーツデートとEOS850が発売になります。EOS750はペンタプリズム部にオートリトラクティブTTLストロボを搭載して、必要なときに自動的にポップアップして発光し、また収納されるという使いやすい全自動カメラとなりました。しかもAFセンサーのBASISや、AE測光の6分割評価測光はEOS650の基本性能そのままにして、深度優先AEも省かれませんでした。このEOS750クオーツデートは本体価格6万2000円で、EF35-70F3.5-4.5Aレンズ付で9万2000円。
 EOS850はオートリトラクティブTTLストロボとオートデート機能を省いて、本体価格を4万8000円という驚異的なものにしました。EOSシリーズは“EOS軍団とよばれるようになり、AF一眼レフのトップブランドの地位を確保するのです。
 そして1989年4月には、EOS630クオーツデートが登場してさらに性能をアップします。ハイスピード・スーパーマイクロコンピューターの採用によってAF測距演算とシーケンス制御の高速化をはかり、合焦スピードを約2倍に向上したのです。合わせてAFのグレードアップ機能というべき動体予測AF制御機能を搭載。カメラに対して近づいたり、遠ざかったりする対象を的確にとらえることができるようになりました。シャッターの最高速度はEOS650と同じ1/2000秒ですが、最高秒間5コマまでの連写機能、最大9回までの予約多重露出機能、 1/2段刻みで最大5段の露出補正間隔でアンダー/標準/オーバーの3コマ連続撮影ができるオートエクスポージャー・ブランケッティング機能、そしてもちろん深度優先AEなどを内蔵して、EOS650とEOS620の後継機となり、「ハイパワーEOS」となりました。

*キヤノンEOS630クオーツデート/同メタリックグレー・クオーツデート
1989年4月発売。
EOS650、620の後継機種で、
ハイスピードの
スーパーマイクロコンピューターを使用。
AF合焦スピードを約2倍に向上した。
合わせて移動する被写体の動きを分析して、 シャッターが切れる瞬間のピント位置を
予測する、
動体予測AF制御機能を搭載。
従来の高度なAEモードに加えて
7種類のイメージセレクトモードを内蔵。
初心者にも撮影状況に応じて簡単に
最適なAEプログラムを選べるようになった。
また、超音波モーター内蔵のレンズでは、
AF合焦後に
電子リングによってマニュアルフォーカスを加えることが可能など、
マニュアル操作を拡大する
7項目のカスタムファンクションを装備。
アマチュアからプロまで、
幅広いユーザーに使える
“ハイパワーEOSとなった。
EF28-70mm
F3.5-4.5IIレンズ付で
価格は12万4000円。
本体価格は2色いずれも8万5000円。

 このハイパワーEOS(EOS630)に示された進化のひとつは、AEモードにあります。従来のインテリジェントプログラムAE、シャッタースピード優先AE、絞り優先AE、深度優先AE、TTLプログラムストロボAE、A-TTLプログラムストロボAEといった多彩なモード選択はそのままにして、プログラムAEに7種類のイメージセレクトモードを内蔵したことです。(1)フルオート、(2)スナップ、(3)風景写真、(4)スポーツ、(5)ポートレート、(6)クローズアップ、(7)室内パーティ、といったわかりやすい内容で撮影場面を選ぶと、それに最適なプログラムAEを設定できるというものです。これなどは基本機能をいじらずに、コンピューターのソフトウェアで自在になるという意味で、EOSの潜在力の高さを示すものでしょう。
 また、自動化のうちユーザーの意志によって解除したり選択できるものをカスタムファンクションとしてまとめました。(1)フィルム終了時の自動巻き戻しをしない(しかるべき場所で巻き戻しをしたい場合)、(2)巻き戻し時にフィルム先端部をパトローネ内に巻き込まない(フィルムリーダー部にメモを付けたり、自分で現像する場合)、(3)DXコードによるISO感度自動セットの解除(フィルム感度を表示どおりにセットしたくない場合、あるいはDXコードのない特殊なフィルムを使用する場合)、(4)部分測光ボタンを単独AF測距ボタンに変更し、シャッターボタン操作によるAF測距を解除する(AF機能を画面中央で使わない場合に、AF測距とAE測光を分離してマニュアルフォーカスに近い使い勝手にしたいとき)、(5)マニュアル絞りセットを電子ダイヤルの単独操作でおこなう(マニュアル撮影時、絞り操作は電子ダイヤル、シャッター速度はマニュアルスイッチ+電子ダイヤルでリモート操作できるようにする)、(6)電子ブザーによる手振れ警告音の解除、(7)超音波モーター(USM)レンズ使用時、AF合焦後の電子リングによるマニュアルフォーカス自動切り換え(AF機能をピント合わせの下ごしらえとして利用しつつ、最後の瞬間に自分の目で確認してピント位置を決定したい場合)、の7項目を内蔵しました。
 EOS630はいわばEOSシリーズの集大成となりました。電子機器の多くがそうであるように、ハードのポテンシャリティが高い場合には、ソフトがしだいに洗練され、高度になっていきます。EOS630がその「イメージセレクト・モード」において初心者に使いやすいものとする一方、「カスタムファンクション」によってアドバーンスト・アマチュアやプロカメラマン、あるいは専門用途に使われる場合に要求される“自動化の解除を内蔵したというように、両極端への機能拡大をおこなっているのはその一例といえましょう。

【14】プロ用AFの結論 EOS-1

 1989年(平成1)9月に発売されるEOS-1はハイパワーEOS(EOS630)の電子回路をベースにし、NewF-1のタフネスとを合わせたプロ仕様のAFカメラです。
 プロの場合には“熟練が“腕前という価値観がありますし、撮影結果を撮影時に予測できるシンプルな機材を望むという傾向があります。一眼レフのAE機能に最後まで抵抗したのもプロカメラマンではなかったと思われます。つまり初心者用の“おまかせオートとはまったく次元のちがう自動化を達成しないかぎり、オートとマニュアルの併用という安易な方法から抜け出ることはできません。
 完全自動カメラとしての能力を追求してきたEOSシリーズの進むべき道は、素朴なマニュアルではありえません。それは工作機がそうであるように、高度なロボットであり、オートの先に実現する精密でフレキシブルなマニュアルモードでなければならないのです。
 EOS-1はそこで、作画にかかわらない操作は徹底的に自動化して、撮影者が作画に集中できる条件を整えることにポイントを絞りました。そしてもう一点、撮影者の意志どおりに動くようにするために、わかりやすい表示と使いやすい操作法を追求しました。これらはいずれも特殊なことではなく、人間工学的な視野からは正統的な進化の道筋ということにすぎません。
 そのうえで、プロフェッショナル・ツールとして、撮影チャンスの拡大に貢献できなければなりません。速写性や携帯性において十分信頼できるだけでなく、耐環境性を確保するため、ボディ強度や構成部品の耐久性、防滴・防湿構造においてNewF-1と同レベルを維持しました。その結果、性能保障環境温湿度は−20℃〜+45℃/85%になり、ボディ本体はプラスチック成形で軽量化しながら、金属ダイキャストと同レベルの剛性を確保しました。また重要な電気接点は2極化して、万に一つの接点不良もカバリングする安全対策を施しています。雨の中で使えないカメラはプロ仕様とはいえないからです。
 たとえばEOS-1の“速さをひろってみます。まずシャッターの最高速度は1/8000秒。膜速が上がってX接点は 1/250秒になりました。ボディ内2モーターシステムによるモータードライブ速度は秒間最高2.5コマにすぎませんが、パワードライブブースターE1を装着すると最高5.5コマ/秒の高速連続撮影が可能になります。しかもこのモータードライブユニットは標準装備と考えてよく、縦位置で構えたときのグリップ形状をととのえ、シャッターレリーズボタンとAEロックボタンが縦位置用に用意されているので、高速連写以外にも不可欠なパーツになります。しかもあとで述べるサブ電子ダイヤルが横位置・縦位置を問わず、親指で同じ感覚で操作できるため、マニュアル撮影のしやすさは抜群によくなりました。

*キヤノンEOS-1
1989年9月発売。
プロ仕様のEOSで、
EOS630のAF機能に、
十字線測距方式を加え、感度を上げた。
最高1/8000秒の超高速シャッターで
X接点は1/250秒。
AF、AEともに、
オートの先に
リアルタイムのマニュアルを加えた。
従来の電子ダイヤルをメインとし、
ボディ背面に新設したサブ電子ガイヤルで
AEデータ1/3段刻みで随時補正可能。
超音波モーター内蔵レンズ使用時には、
AF合焦後の
マニュアルフォーカシングも可能。
視野100%のファインダーには
視度補正機構を内蔵。
過酷な条件で使用できる堅牢さを
軽量プラスチックボディで実現。
性能保証環境温湿度は
−20℃〜+45℃で85%。
本体価格は18万9000円。
パワードライブブースターE1付で
23万9000円。

 しかもAF機としての基本性能というべき連続AFでは、秒間最高4.5コマの追従スピードを実現しました。これによってAFモードのモータードライブ撮影において、プロレベルでの実用域をクリアしました。
 精度という観点からは、たとえば絞りもシャッター速度も 1/3段階のセッティングが可能です(カスタムファンクションで1段ごとと目を粗くすることが可能)。これは従来のマニュアルでは設定不可能なことでした。しかもそれを、シャッター速度はシャッターボタンわきのメイン電子ダイヤルで、絞り値はボディ背面に新設されたサブ電子ダイヤルで操作できます。しかも使い勝手によっては、これを逆にして絞り値セットをメイン電子ダイヤルで、シャッター速度セットをサブ電子ダイヤルでおこなうようにカスタムファンクションで選択することが可能です。
 またこのサブ電子ダイヤルは、AEモードでの撮影の際に露出補正を自由におこなえますから、各測光モード、各AEモードの特性を熟知してしまえば、最後に 1/3段ステップで露出補正することで撮影者の経験と判断を加算することが可能になります。
 同様に、超音波モーター内蔵レンズの電子リングは、フォーカシングをメカニカルにおこなうのではなく、リモートコントロールするため、ワンショットAFの合焦後にピント補正を加えることが可能です(カスタムファンクションで解除することも可能)。従来のマニュアルフォーカシングと比べると最後の微調整で済むことと、電子リングの回転角度と実際のフォーカシングの“感度を変えることも可能なため、撮影対象の意外な動きにもリアルタイムに対応でき、しかも肉眼で確認してシャッターを押すことができます。必要がない場合は、もちろんAF合焦のままシャッターを切ればいいのです。
 このAF機能についてはEOS630と基本は同じですが、AF測距センサーをこれまでの水平タイプから十字線測距のクロスタイプにしました。しかも測距感度を−1EVにまでアップ。撮影条件の悪いところでのAF撮影の範囲が拡大しました。
 考えてみれば、メカニカルなシャッターや絞りも、アナログ的なリモートコントロールであったわけです。ダイヤルやリングから歯車などによって直接力を加えてセットするより、精密なアクチュエーターにデジタルな命令を与えてセットさせるほうがはるかに正確だということは自明です。それだけの精密さを、むしろ後退させてマニュアルのしやすさを実現する。EOS-1のAE補正量が 1/3段を基準とし、必要に応じて1段ごとの設定に精度を落とせるというあたりに、高精度のオートから、操作のしやすいマニュアルを実現するひとつの方向が見えてきます。
 超音波モーター内蔵レンズの電子リングにしても、じっさいにレンズのヘリコイドを動かすわけではありません。車でいえばパワーステアリングのようなものですから、その回転の滑らかさを自在に設計できるようになりました。電子化の先にあるマニュアルは、“人にやさしいというキヤノンの人間工学的デザインを存分に発揮させることにもなります。
 プロ用EOSはハイパワーEOSを超える電子技術と、NewF-1のタフネスを合わせもって、まったく新しい境地をひらくカメラとして誕生しました。それは操作の99%をカメラにまかせ、作画の99%を撮影者のものにしようとする点で、“意志に従った自動化の実現といえましょう。
 和製ライカを夢に見てから50年、キヤノンのカメラづくりは、ついに電子技術と人間の共存というとてつもない時代の先端を切りひらくところまできたのです。


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