軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座004】机上登山のすすめ――2005.12.10


●山好きの3タイプ

 山を歩いていないとき、そのひとが山とどのようにかかわっているかを考えると、写真派、書斎派、地図派という3パターンに大きく分類されるのではないかと思う。
 いちばん目立つのは写真派だ。地図を見ながら山の姿がリアルに想像できるというひとは、ほとんどまちがいなく写真派だ。地図は骨格を呼び起こすことはできるが、目鼻立ちはあまり描けない。だから地図によって山の姿がリアルに立ち上がってくる人は、コンピューターの3Dソフトで骨格に画像を貼りつけているのと同じ。貼りつけるべき絵をたくさん記憶しているひとだということだ。槍ヶ岳の姿など、地図からは絶対に呼び起こせない。
 書斎派とはどういうひとかというと、簡単にいえば情報通。とくに登山の歴史や、登山ルートに精通しているひとを思い描いていただきたい。登山の大きな技術体系では、登山道をたどる登山はその底辺をささえるものにすぎない。岩場であれ、沢筋であれ、藪山であれ、あるいは雪氷の山であれ、「ルート」はあっても「道」はない。
 すなわち先鋭的な登山領域は一般の登山地図や登山ガイドからはずれたところにあるので、独自の調査を展開しなければならない。さらに新しい「ルート」を開こうとなると、いつ、だれが、どこをどう登っているかを明らかにしておかなければいけない。膨大な情報検索とそれを地図上にプロットするという作業をこなせるひとが、はじめてそれを可能にする。山の会にはかならずそういう人物がいるはずで、もちろん地図扱いの達人ではあるが、その前に書斎派といっていい。
 そこで地図派だが、残念ながら私自身は地図派とはいえない。周囲のひとはすでに、あきらかに疑っているところだが、あきらかな地図オンチに入るかもしれない。
 1983年、朝日カルチャーセンター横浜の登山講座に「地図担当講師」として参加させてもらったのが、当時ブームとなりかかっていた「中高年登山」への最初の関わりになるのだが、(あまり)山を知らない地図講師としての苦闘がつづいた。地図による空間把握から始まるものをいろいろと試みたが、けっきょく能力的な欠如を感じた。地図を記憶できないのだ。
 かつて私の近くにいた人物では、地図の専門家としては文句なしの第一人者、五百沢智也さんがいる。『登山者のための地形図読本』(山と渓谷社1967)や『地図を読む』(岩波書店1995)などで知られるが、国土地理院で地図つくりを体験したあと、フリーの氷河学者となったひと。地形図の向こうに「地形」そのものを見続けている。
 もうひとりはオートバイツーリングの世界では「神様」と呼ばれているそうだが、世界というより、地球を縦横無尽に走り回って、もうすぐ還暦だというのにとどまるところを知らない賀曽利隆さんだ。かれは最初のころ、アフリカ大陸を走り回ったり、世界一周をしたりするとき、中学校で使った『高等地図帳』をもっていた。日々のツーリングにはほとんど役に立たない地図帳だが、それをひらくことで「明日に希望が湧いてくる」と語っていた。地図という空間に自分の分身をたたき込んで、そこから夢を立ち上がらせる。これほど地図を利用尽くした例を私は知らない。そして、賀曽利さんは、走った場所と、そこで起きたことを(日記に詳しく書き続けてきたからでもあるだろうが)じつにくわしく覚えている。体験した光景が頭の中の地図に張りついているかのようだ。


●「地図をにらむ」ことについて

 前項に「山好きの3タイプ」と掲げたが、なんのことはない、写真派だって、文字派だって、つきつめれば地図派と重なってくるではないかと思われる。
 そこでちょっと切り口を変えて、「地形図をにらんでいると実際の地形が浮かび上がってくる」という迷信について語っておきたい。
 私自身がどうしてもそうならないからわかるのだが、地形図は地形を2次元に記録したものではあるのだが、その2次元記録からオリジナルの地形が再現されるという保証はあまりない。等高線情報から鳥瞰図を描くということをずいぶんやった。いまではパソコンで簡単にそれができる。ところが、目で見た印象に近いものを作ろうとする場合は、高さを2倍から3倍に強調してやることになる。肉眼の印象と地図の記録とは、元来その程度隔離している。山の起伏については人間の目のほうにゆがみがあるのだ。
 現在一般に手に入るもっとも精度の高い「2万5000分の1地形図」の情報によって、尾根と谷の起伏が立ち上がってくる。ゆがみはともかく、骨格に関して地形図はかなり(というか驚くほど)精密な復元力をもっている。しかし、歩きながら目の前に広がる風景がどこまで……、ということになると、そこにも限界が見えてくる。
 「実際の地形が浮かび上がってくる」ということが神話ではなく、現実に限りなく近かった例がなかったというわけではない。かつて明治20年代から昭和の10年代までにつくられて昭和40年代まで流通した「5万分の1地形図」(陸軍参謀本部製作に代表される国土基本図)は山のこちら側はすばらしくリアルで、裏側は滅茶苦茶ということがよくあった。理由は簡単で、三角点や水準点が骨格で、等高線は(極端にいえば)手書きのスケッチだったのだ。点描ではなく、等高線によるスケッチと考えていただきたい。そこに岸壁や崩落地形を(与えられた記号で)表現していった。樹林のようすも針葉樹と広葉樹、あるいは荒れ地や篠地などといった記号によって描いていった。高山でははい松の記号がじつに的確に置かれていることが多かった。
 すなわち地図を描くひとが、現地を見ながら、与えられた記号をいかに配置するかという手法によって描いていったといっていい。だから五百沢さんのように北アルプスに氷河の痕跡を見つければ、それを地図上でも表現しようとしたし、表現しえた。
 つまり、地形把握に優れた技術者のつくった地図は、見る人が見れば、そこに深い情報が隠されていた……といえる。樹林のようすと、岩場や高山帯のようすが地図的に表現されていたといえる。
 ところが空中写真測量によって地図がつくられるようになると、図化機によって、等高線を精密に描くことが可能になった。空中写真は地形を真上から見ているので、山の表も裏もない。等高線のレベルで骨格を描き出せるようになったのだ。
 ところが今度は崖の記号や植生の記号が画一化されて、スケッチ的な表現を禁じられた。極端にいえば誰にでもつくれて誰にでもわかる地図になったのだが、いくらにらんでも細部が浮かび上がってくることはなくなった。
 私たちはいま、2万5000分の1に縮尺された地形の2次元情報を全国すべての場所について見ることができるけれど、昔のような「細部の表現」は失った。そういう意味で地形図はアメリカ的であって、スイス的(やフランス的、ドイツ的)ではなくなった。


●等高線の間隔

 写真で見る山の表情を地形図から浮かび上がらせようとするのは理論的に無理になったが、等高線情報が地形図の骨格になったことで、登山者がえられる情報は格段に飛躍した。
 それにもかかわらず、登山道に関する情報更新が速やかにできないお役所の地形図より、民間地図会社の登山ガイドマップが圧倒的な支持を受けているのはどうしてだろうか。民間の地図会社は国土地理院の測量データを使用することからか、(たぶん遠慮して)等高線情報を思いっきり間引いている。すなわち平地の地図の延長というテイストの地図に仕上げている。だから、「つきあたったら右」みたいな読まれ方になっていく。
 山の骨格を限りなくシンプルに描こうとするなら、飛び出した尾根と、へこんだ谷を陰影によって浮かび上がらせばいい。さらに具体的に日本の山の標準的な構造をいえば、林道が(あれば)奥へ奥へと延びていける谷と、林道が(あれば)大きなジグザグを切って登っていかなければならない尾根とに分けられる。
 谷道は水が(川のように)流れているかぎり、車で上れる程度の勾配にしかならない。ところがそういう林道が行き止まると。そこから上は滝の連続のような急傾斜になる。
 いま、登山口はそういう場所にあって、そこから尾根へと登る急峻な斜面にジグザグ道がついている。長い林道歩きのあと、急斜面を登って尾根道に出るというパターンになる。
 地形図に描かれた登山道を細かく見ていくと、等高線間隔の粗密によってそのことがわかる。地形図を扱いなれた人は、(まさにここで)じ〜っとにらむと、褐色の等高線の色の濃淡が傾斜の緩急として見えてくる……というわけだ。
 そこで私は、2万5000分の1地形図では標高50mごとにあらわれる太い等高線(計測線)と交差するところに半径50mの円を描いてみた。シミュレーションマップの赤○がそれにあたる。円が接して並ぶとすると100m先で50m上がる(下がる)勾配ということになる。目見当で、これを約30度と考える。1個おきに並ぶという場合には200m先で50メートル上下するというわけだから15度という目安になる。登山道の勾配分布を見やすくすると、登山道の性格がだんだん明らかになってきた。


●等高線とどのように交わるか

 さらにもうひとつ、登山道が等高線とどのように交差しているかということにも気づいてくる。谷道を奥へと入り込み、左右に迫る急斜面のどこかを一気に登り、尾根をたどって山頂に至るという場合には、(小さなジグザグを直登に含めれば)登山道は終始一貫、等高線を直角に横切っていく。
 ところが大きなジグザグになると、山の斜面を巻くような動きが加わる。水平に巻く(水平トラバースいう)か斜めに巻くかだが、進行方向どちら側が山側(高い方向)になっているか、斜めトラバースの場合には登り勾配か、下り勾配かもわかる。
 すなわち登山道と等高線の関係は、1)直登、2)直降、3)水平トラバースの右手山側、4)同左手山側、5)登りトラバースの右手山側、6)同左手山側、7)下りトラバースの右手山側、8)同左手山側という8パターンに分類できる。標準的な日帰り登山では登りは3時間前後だから、地形図で明らかなこの8分類を意識すると、「山と登山道」の関係によって、登山道がいくつかのブロックに分けられる。山はそれぞれ千変万化の表情を見せているが、人工的な登山道は、意外にシンプルな構造として見えてくる。
 そこでもし、地形図上での道と等高線との組み合わせが現実と違ってきたら、道を間違ったか、地図が間違っているかだ。そのことに気づいたときに、およそ何分あれば、地図情報と登山道とが一致していた場所にもどれるかも、すぐにわかる。ワンブロック戻ればいいだけのことなのだ。道迷いの事故はこのことをきちんとチェックするだけでほとんどなくなる。――ただし、登山道をたどっている限りにおいては。
 ところが国土地理院の地形図は、しばしば登山道の表示が現実とちがっている。「信用できない」ということで嫌われる場面が多いのだ。かつて登山道の開発ラッシュという時代があった。地元の山岳会などが「自発的」にルートを開き、標識をつけて、利用をうながしたものが多かった。それが近年、事故防止という観点からだと思うが、通行止めの表示をして「一般ルート」の整理・限定化が進んでいるように思う。地形図に描かれた登山道のなかには、そういうかたちで廃道とされたものが多い。あるいは登山道整備のさいにとりつき点を変えていたりする。
 「登山口」の確認はできるだけしておかなくてはいけないが、さいわいインターネット情報がそのへんのことに細かいので、かんたんに確認できることが多い。歩き始めれば、登山道は「道なり」に目的地へと導いてくれる。平地の道と違って、登山道と斜面の関係はシンプルだ。同じ斜面と同じ関係を持っている2本の道があることは原則的にありえない。だから、1ブロックで道が違っていたとしても、次のブロックで予定した斜面へと入っていければおおよそ問題ない。国土地理院の地形図はときどき小さなズレを見せるだけなのだ。


●「1時間モデル」というモノサシ

 山は千変万化なのに登山道はあんがい単純なパターンに分類できるという目で見始めると、登山道を造ったひとの考え方を想像しながら歩けるようになってくる。昔の山仕事の道が残っている道は、プロフェッショナル仕様だから急勾配に対する配慮があまりない。まっすぐ登ってまっすぐ下るのを基準にしている。しかし軟弱な都会の登山者のために整備された道は、しばしば登山者もおどろくほどていねいなジグザグをつらねて勾配をゆるめていいる。尾根道も、どのくらいの勾配でジグザグが始まるかによって対象をどのようにイメージしているかが想像できたりする。登山道の整備基準というようなものがあるわけだから、歩き始めてそれがわかると、安心したり、ちょっと緊張したりする。
 整備された登山道もいろいろだが、登山道を歩く限り、おおまかな予想は立つ。それを昔から、「1時間に300m登る」という目安にしてきた。
 その「1時間に300m登る」という目安をきちんとしたモノサシにしてみようと考えたのは、日本の山の登山道がことごとく富士山の5合目以上と(構造的に)酷似しているということに気づいてからだ。
 登山道を造るひとは、見当でいえば20度を超える勾配になると道をジグザグに振って道をなだらかにしようとする。富士山の5合目以上は30度の斜面に20度の道をつくっている。30度は私のシミュレーションマップでは赤○が数珠繋ぎになっているところで、スキー場なら上級斜面にあたる。赤○がひとつおきという感じに並んでいれば15度と先に述べたが、そこでは道は(地形なりに)まっすぐのびているはずだ。ジグザグを切り始めるのは20度あたり(スキー場なら初級の斜面)からというのを標準的なスタイルと考えた。
 「30度の斜面に20度の登山道」という基準をいろいろな山で当てはめてみると、30度以上の急斜面に滑りやすい道があったり、岩場があったりすることもわかってくる。30度超の斜面(赤○が重なりあっている)が長く続いたり、何度も登場したりするところは、難易度が高いかもしれないというサインとなる。
 登山道は目見当での「20度」を基準にしてチェックすると、意外に単純な構造として見えてくる。
 そして次に、算数遊びに進んでいった。「1時間に(高度差で)300m登る」という経験則をモノサシにしてみると、水平に1,000m進んだときに垂直に300m上がっているわけだから、平均勾配は30%、すなわち0.3となる。約17度だ。この17度を15度に近いと見ても、20度に近いと見てもいいというぐらいおおざっぱな話なのだが、そんなことより大きな価値が見えてきた。「時間」という要素が加わってきたのだ。
 山支度で平地を「時速4km」で歩くエネルギー出力で標準的な登山道を歩く(とりあえず登る)と、「時速1km」ということになる。水平距離の1kmは平地では15分だから、残りの45分ぶんのエネルギーはどこへ行ったかというと、高度を300m上げるのに使ったことになる。すなわち高度を100m上げるのに15分ということになる。
 すると私のシミュレーションマップの赤○は高度50mごとだから、時間目盛りとしては2個で15分、8個で1時間となる。
 ついでだから、距離目盛りも入れようということで水平距離500mごとに青◇を加えてある。これも2個で15分、8個で1時間となる。このことで、地図上の任意の2点間のおおよその時間が速読できるようになったのだ。
 地図上で、しかも山岳地帯の道を計るとすると誤差が多い。いかに精密に計るかを最初は考えたが、じつは紙片に500m目盛り(2万5000分の1では2cm)をつけて、登山道にはわせていくという簡便な方法でいいという結論に達した。現場でも地図の端をちぎって、ペン先で軽く抑えながら道をはわせていけばいい。
 地形図の登山道は描かれたものにすでに大きな省略がある。最大20%もあると考えている。そこに計測の誤差が加わって、(大胆に)50%もの誤差が生じたとしよう。実際の1kmが1.5kmになったとして、それを時間目盛りとして使うなら7.5分が11分ちょっとにふくれる。高度情報も加えれば、1時間に約4分のオーバーという程度。つまり登山道においては、標準的な20度の勾配でも4分の3は体を持ち上げるために使われて、距離の占める役割は驚くほど低下している。なにしろ「時速1km」の世界なのだ。
 距離情報が粗雑ということが気になって仕方ないひともあろうかと思うけれど、「時間目盛りに変換」というマジックが便利……なのです。画期的なのです。
 それに加えて、距離目盛りを加えたことで、地形図の扱い方の古典的な常識がまたひとつクリアできた。それは「距離感」。私は「5万分に1地形図」で育ったから「2万5000分の1地形図」での空間把握になかなかなじめなくてずいぶん苦労した。指を開いて10cmのモノサシにして、5万分の1なら5km、2万5000分の1なら2.5kmという見当を得ていたが、道筋に距離目盛り(一里塚やマイルストーンに相当する)をつけておくと、直読できる。おまけに、シミュレーションマップがここでは縮尺自在になっているが、地形図を「縮尺」という縛りから開放することができたのだった。地図のベテランが地図をじ〜っとにらんでいるときには、何分の1かのエネルギーで縮尺調整をしているはずだ。
 おおよそ、このくらいのことを頭に置いて、地形図上の登山道を色ペンでたどり、メモを書き込んでいく。地形図を白地図のように使うことで机上の登山はそのひとなりの関心を呼び起こしていくはずだ。想像をめぐらしてから山に行く、ということの楽しさは(たぶん)(絶対に)奥が深い。


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