軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座015】ストックとステッキ――2006.5.25



■奥多摩・蕎麦粒山の下り――2000.5.13
うまいぐあいに下りの傾斜がうまく写った。ほぼ45度のこの急斜面をダブルストックではからだにストレスを与えずに、かつ安全に下れる。



■安達太良山系・箕輪山の雪渓――2002.4.28
もちろんここでは軽アイゼンをつけているが、下りの前傾姿勢のチェックに雪渓の急斜面は得難いチャンスを与えてくれる。



■大台ヶ原・大杉谷で――2002.10.16
断崖のクサリ場では、谷側の手にストック、山側の手はクサリや岩、木などのホールドを利用すると安全性と迅速性がえられると考えている。



■八ヶ岳・横岳の岩場で――2005.6.25
夏の横岳は高山植物の宝石箱のような楽しさがある。谷側ストックかストックを使わない3点支持かが、各自の安全判断でこまかく選択される。


●最初の期待は下りのスピードを上げるため

 日本語ではステッキは杖と訳すのが一般的だろう。ストックはどうだろうか。スキー用のストックは昔の1本杖スキーの時代には「杖」だったが、2本そろえて使うようになってからは「ストック」のままではなかろうか。
 英語ではどちらも、棒状のもので、突き刺したり、突き出したりする「スティック」というようだ。菓子や生野菜にも「スティック」と呼ばれるものがある。棒状ならいいわけだ。
 だからどうだというところだが、私は以前、「山で杖を使う」のは反対だった。なぜだかよく分からないけれど、杖を使っている人の多くが、からだがよじれているのが気になってしょうがなかった。
 杖といっても山伏が錫杖をついて登る姿などにはそういうゆがみをあまり感じない。だから「六根清浄御山は晴天」などと唱えながら歩く人たちも、背筋を伸ばしてまっすぐに歩いているような気がする。
 で、ある日突然、「ダブルストック」の信奉者になった。
 正確にいうと1996年9月14日。23人というかなりの大部隊で西丹沢の檜洞丸(ひのきぼらまる。1,600m)に登っていた。そして下り、西丹沢自然教室始発の最終バスの時刻がしだいに迫ってきた。
 雨上がりの急な下り。浮き上がった木の根から大きな段差を下りるようなところで、何人かの女性が急にスピードを失った。
 しかし、せかしてはいけない。もし軽くでも転ぶ人がいたら、時間の遅れはたちまち決定的になる。道路に出るまでに闇が迫ってくるかもしれない。
 そのとき、「杖」をもつ人もいた。体を大きくよじって、杖になかば助けられながら下っていた。
 それを見ながら、全員にダブルストックを持ってもらおうと決めたのだ。
 LEKI(レキ)のストックがまだバラ売りが原則だった時代だけれど、石を突いてみて、確信を持ったのだ。石突きの超硬合金の歯は岩への食い込みが驚くほどよかった。いつか、その一撃が命を救ってくれることもあるかもしれない。
 下りで大きな段差を安全にスピーディーに乗り切るだけで、チームとしての能力は大幅にアップする。たったそれだけの理由で、みなさんに購入していただく価値があると踏んだのだった。それは同時に、下りでヒザを痛める条件となるハードランディングをソフトランディングに変えるだけの効果も期待できるはずだった。


●下りは深い前傾姿勢で、登りは後ろ足の蹴りの代わり

 ダブルストックにこだわったのは、体にゆがみを与えないためにはダブルでなければいけないという勝手な思いこみがあった。私は「足のマメは飛び火する」と信じているが、片足にマメができて歩き方がほんのすこし変化しただけで反対の足にもマメができる。なにはともあれ、左右のバランスを崩さないということが長時間におよぶ山歩きでは最重要課題なのだ。だから「杖反対」から「ダブルストック必携」へと飛躍したのだ。
 使用法は、基本的にスキーのストック操作の延長で考えた。下りでは前方へ繰り出していく。登りでは後から押し上げていく。
 私はスキーはあまりうまくないけれど、ストックが肉体化する感じは知っている。だからリズムが重要だ。
 スキーストックに近い感覚は、走ってみると似ていると思う。しかし歩く速度とリズムではちょっとちがってくる。バランスをサポートするリズムと、パワーをサポートするリズムとではちょっとずれがあるようなのだ。
 それはスキーでいえば、ダウンヒルで軽快に滑る場合と、緩斜面をパワーで登ろうとする場合のストックの支えとの違いではなかろうか。
 山道では、下りの段差のとき、「3歩前方」でダブルで突いて、一瞬体重を預ける。すなわちスキーの滑り出しのように、深い前傾姿勢をダブルストックで作り出す。ストックは3歩先へついておいて、1歩、2歩まで進んだところで、ストックをまた前方へ。ストックを常に足の前方で動かすことで、石突きを溝に突っ込んだりしても曲げたり折ったりする危険を避けることができる。ストックは常に前に突いて、前から引き抜く。
 登りでは多くの人がストックを前方に振りだしている。私の周囲の人たちもいくら説明してもだめ、だったりする。するとストックが長すぎて扱いにくくなるものだから、登りは短く、下りは長くなどと考える。考える前に使用説明書にそう書いてある。
 ここのところが「杖」と「ストック」の分岐点だと考える。
 下りで長く、登りで短くしたいという考えは、体の姿勢にストックの長さを合わせるということが根っこにある。はっきりとそう説明する登山のプロもいる。しかし私はダブルストックをスキーストックの使い方で肉体化しようと考えているので、長さは変えない。下りの傾斜や段差が大きくなれば、なっただけ深い前傾姿勢で踏み込んでいく。
 登りではどうするか。スキーでストックをV字形に構えるのを強調して、肩幅に持って石突きが接するほどのV字に構えて腕を自然に振ってみると、腕が前方に出たときにはストックの石突き部分が足に触れる。意識的に触れるように歩いていると、ちょうどかかとの脇に石突きがくるようになる。
 わかりにくいところなのでもう一度戻って説明したい。ストックの握りを握らずに、ベルトでぶら下げた状態で自然に腕を振って歩いてみる。ストックをずるずると引きずりながら歩いてみるわけだ。つぎに軽く握って、石突きは相変わらず地面を引きずったままにする。
 ストックがいずれは手の延長になってくるし、感覚としては小指の延長という感じにもなる。ストックのグリップは小指で支えていると錯覚するくらい軽く持ってほしいのだ。
 ストックを引きずりながら腕は自然に振っている。そこで、腕を後に振るときに、ちょっと握りを意識して、石突きで地面を突いてやる。右、左、右、左、……と、ストックで突く瞬間がリズムの起点になってくる。
 ずるずる引っ張ってチョン、という突き方もあるけれど、軽くはねさせて引っ張り込んでチョンと突くとだらしなくない。
 そのチョンと突く位置が後に残った足のかかとの脇にピシッと揃うようになったら、段差の大きな登りでも混乱しない、後から引っ張ってきた石突きが後に残った足のかかとのところに置かれるから、後ろ足で蹴るかわりにストックを突く感じになる。
 ここではくわしく説明できないが、登りの段差で後ろ足で蹴るという動作を封印することで、山歩きの運動強度は完全にコントロールできる。後ろ足で蹴らないけれど、ストックで、腕の力で後から押し上げる。なんのことはない、クロスカントリースキーで上り坂を押し上げるストックワークと同じじゃないか……というわけだ。


●頭で使うか、体で使うか

 「杖」は人生の「3本足」時代でも分かるように、かならず体の前方で使う。頭で使っているのだ。頭が不安に感じるものを矯正するために「杖」が出る。どう考えてもバランスアシストが優先される。
 「ストック」はちがう。頭よりはやく、腕の一部、指の一部、肉体の第3、第4の手として無意識の領域まで肉体化される。もちろんバランスアシストにも利用されるけれど、それは肉体化に含まれて、むしろ意識領域ではパワーアシストが基本になる。
 ストックの説明書を見ると、ストックの長さは登り、下りにより、それぞれ適切な長さに調節して使えと書いてある。さらに命をかける道具ではないので、あくまでも補助的な使用以上の責任はとれませんという趣旨の説明もあるはずだ。
 そういう道具に対する責任逃れのお先棒をかついで、ベルトに手を通すのは危険などという専門家がいる。転倒したときにストックによって怪我をする危険があるからと説明されるのが普通だが、本当だろうか。
 まず第一に、転倒したときに一番骨折しやすいのは手首の骨……というのが常識だ。ストックを持っていようといまいと、転倒したら手が出てしまう。きれいに転べばいいものを、ズボンを汚すまいとしたりして、手を骨折したりする。ストックのベルトが巻き付いたからとか、ストックが折れて体に巻き込まれて凶器になったとかイメージする前に、ストックのとっさのひと突きが最後の土壇場で崩されかかった態勢を立て直してくれることはないのだろうか。スキーをおやりになる登山家や、ピッケルの滑落停止前の最後の一瞬のバランス回復への貢献などとストックワークはどうちがって、どう同じなのか。
 第二に、アイゼンだのピッケルだの、なれない人が使ったら簡単に自分に向かってくる凶器となる道具に対して登山家はどういう対応をしているのか。ストックが自分に対して凶器になる危険はもちろんある。しかし肉体化していない道具は、見た目がどんなに鈍重でも凶器になる危険が大きい。危険性があると思う道具ならまずは肉体化するということが前提であって、危険を感じたらいつでも離せるように……などという説明は、道具論としてはまったく許し難い。
 私はこう思うのだ。ダブルストックは体の動きにゆがみが出にくく、女性でも体重をかける動きが可能になるので、使用領域が大きくなる。かくしてパワーアシストの領域を大きく広げることに成功したら、バランスアシストはもちろん余裕幅を広げてくる。
 ところでストックを2本持っているからといって、私のいう「ダブルストック」でないひとはたくさんいる。こまかく見れば片手がほとんど遊んでいる。
 それを見極めるのは簡単だ。雨の日に、傘を差して、ストックを1本にしていつも通りに歩いてみる。「杖」ではなくて、「ダブルストック」のたまたま右手だったり、たまたま左手だったり。
 すると利き腕ではいつも通りなのに、逆の腕ではストックがまともに動かなくてもどかしいひとが出てくる。2本使っているときには気づかないゆがみが見えてしまう。
 鈍感な人や、もっと精密に調べたいひとは、土留めの階段のところで、横に渡した丸太があったら、石突きがそこに当たるかどうかやってみる。歩きながらその程度のターゲットに石突きが当たらない人がストックの使い方についていろいろいっても聞き流すこと。
 いずれあらためて書きたいが、岩場やクサリ場でもダブルストックの片手使用を私はいま積極的にすすめている。頭で使っている大方の登山者のひんしゅくを買うところだが、山側の手をハンドホールドのために空けて、谷側の手をストックで長く伸ばすという考え方だ。
 ストックが使えている範囲では自分にとっての難易度がコントロールされている。ストックの握りをはずしてベルトでぶら下げた状態で両手を使わなければならない場面では岩場の難易度があきらかに上がっている。そういう一般登山道の岩場での安全性を高めるためのメリハリの道具としてもストックはおおいに活用できると考えているのだが、長くなるのでここでは触れない。
 けっきょく、頭で命令して使える程度の「杖」だったら、危険な状況を突破できる可能性はあまりない。斜面の緩急に対して姿勢を変化させながらパワーをアシストし、当然それに含まれるかたちでバランスもアシストする道具として、ダブルストックは非常に高い水準の道具であると私は評価している。とくにヒザに爆弾を抱えている人は、(極端にいえば)最悪の事態での脱出にダブルストックと軽アイゼンほど有効な危機管理装備はない。
 ストックを1本持ったときに、「杖」として使う登山者と「ダブルストックの片側」として使う登山者とでは道具としてのストックはまったく違ったものになると指摘しておきたい。


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