軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座041】親子登山のすすめ――2007.6.25



■燕岳山頂稜線――1996.8.24
白い花崗岩の岩峰がそびえ立つ山頂からひと組の親子が下りてきた。足元の陰が伸びる方向の谷から霧が湧き上がってきそうな雰囲気。このあと、みごとなブロッケンが見られた。



■富士山の稜線――1999.8.15
三角定規を当ててみれば、富士山の斜面が30度であることがわかる。そこにジグザグを描く登山道を開いているので、その平均傾斜は20度。いま人が歩いているのは下山専用で荷揚げのブルドーザーも通る道。大きなジグザグを描いて傾斜はもっとゆるやかだ。


●燕岳でぶっつけ本番

 正直なところをいうと、ひとり、ふたりは「覚えている」という反応が返ってくることを期待しているのだが……日本エアシステム(現JAL)が松本空港乗り入れを記念して「信州・松本界隈」を特集した機内誌「アルカス1994.8」に「一発!免許皆伝 父と子の北アルプス登山・虎の巻」というのを書いた。

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 思い立ったが吉日といいますが、日本列島の上空1万mでこのページを広げたお父さん!
 もしお子さんが小学校の高学年でしたら、本気で読んでみてください。父と子で力を合わせて大きな山に登るという一大イベントに、今がもっとも適した歳まわりだからです。
 スピルバーグ監督の映画『フック』に登場するピーター・バニング氏(過去を忘れたピーター・パン)のように、携帯電話で24時間仕事につながれているようなお父さんにこそ、人生最大のチャンスだと訴えます。父親が父親らしくふるまえて、しかも子どもの体力が大きな仕事をこなせるまでに充実してきた。父と子の一生モノの共通体験が可能なのです。
 残りわずかなこの夏休みにでも間に合います。このとおりにやれば絶対にうまくいく!(と著者が自信をもってオススメの)北アルプス父子登山完全マニュアル。
 松本近辺で泊まって翌朝から1日半、丸36時間以内に下りてこられる短期決戦プランです。
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 そこで手取り足取り指南したのは燕岳。松本を早朝に発って、中房温泉から登って燕山荘泊まり。翌日松本まで帰って来るというもの。
 北アルプス表銀座の最初の1ページという感じの燕岳への登りは、ゆっくり歩くことと、ベンチで10分ずつ休むことさえ守ったら、だれにでも登れる。「北アルプスの三大急登」などと書いているガイドブックが今もあるようだが、これほどプロフェッショナルに演出されている登山道は少ない。山小屋が地域の学校登山に焦点を合わせてこまかな修復を続けているからだ。
 そしてもちろん、燕岳という品質。白亜の山頂は別世界を印象づけるし、槍ヶ岳が大きな風景のなかで主役を張っている。そして周囲の登山者の会話に耳をそばだてれば、穂高もあれば立山もある。劔もあれば鹿島槍も見えている。もし晴れていて夕方霧が湧き上がってくるようなら、高い確率でブロッケン現象があらわれる。日本語でいえば本来の御来迎、自分の姿が日輪に包まれる。光背を背負ったカタチになる。
 そしてかつて帝国ホテルの資本が入って、ヨーロッパの山小屋に匹敵するものをめざした部分を玄関まわりに残している燕山荘には、いまチーズケーキの出る喫茶室がある。
 ただ単なる北アルプスではなくて、子どもの目には十分にテーマパーク足りうる山といえる。
 ……そうそう、忘れてはいけないのは途中の合戦小屋で食べられる一切れ(8分の1カット)が800円のスイカ。私は何度も食べているが、はずれたことがない。高価だがこれほど記憶に残るスイカはない。もちろん登りで食べての話だが。
 子どもにとってオヤジがもっとも大きな存在として記憶される小学校高学年に通過儀礼としての登山をしていただきたいという気持ちを込めてガイドしたつもりだ。


●本命は富士山

 山国日本の通過儀礼としての登山の本命は、実は富士山。日本一の富士山に子どもを連れて登ることの価値をもっと強調しておきたい。
 ……、が、しかし、最近の私の周囲の環境からして、ここでは勝手ながら「子ども」を「孫」に置き換えたい。
 小学校高学年の子どもが富士山に登ったら、その記憶はどのように保存されるだろうか。将来、その富士登山がどのような映像としてよみがえることになるのだろうか。
 その映像の中に、スーパーお婆ちゃん(やスーパーお爺ちゃん)として刷り込まれる。中学生になるとそうはいかないだろうが、小学校高学年だったら、わかっているようでわからない子どもの部分を期待できるし、体力的にも「スーパー」を見せつけることが可能だ。なにしろ敵は元気とはいえ素人丸出し、こちらは老いているとはいえベテラン登山家という脚本だ。
 富士登山における子どもの最大の敵は生活リズムの狂い。昼間は暑いから涼しい夜に……などと考えずに、せめて過ごしやすい午前中を有効に使って、ゆっくりと登る。
 富士山は世界でもまれに見る登山支援システムを備えている。簡単にいってしまえば30分ごとに山小屋があって天候の変化や体調の変化に対応できる。行き当たりばったりで泊まることも可能なのだ。(休んでも頭痛や吐き気がするなら下山する)
 北アルプスの山小屋と比べると観光地的やらずブッタクリの悪弊があるけれど、とにかく金が有効な装備となる。その山小屋に1泊(現実は仮眠)して登ろうとするからリスクを抱えたままになるので、予備日を1日加えた2泊の予定で出かければいい。行き当たりバッタリ登山をほんとうに行き当たりバッタリにやるために。
 孫の記憶に自分を刷り込んで30年後、50年後に「お婆ちゃんは元気だった」と言わしめるための大作戦だから、2泊の投資は安いもの。子ども向けの富士登山のガイド絵本などもあるので、準備もしっかりやっておきたい。
 若い親だと、どうしたって神風登山になってしまう。子どもは賢いから親に合わせて喜んで見せるが、ほとんどは我慢してつきあってやったと思っている。その証拠に子どものころにいろいろな山に登らされた子どもで山好きになる確率は、私の周囲ではきわめて低い。
 しかしお婆ちゃんやお爺ちゃんなら子どもの感じ方もだいぶ違ってくるはずだ。半分は自分が守ってあげようという気持ちもあるだろうが、登るに従ってお婆ちゃんやお爺ちゃんがどんどん大きく見えてくる。
 どう考えても、富士山に登るとなれば、小学校高学年がねらい目だ。その時期を逃さずにぜひ実行してみていただきたい。
 ちなみに、富士山は天気予報の悪いときには日本人は少なくて外国人に占拠されたような気分になる。東京観光の延長でそのまま富士山を登り始めても大きな問題が起こらないのは点在する山小屋が安全弁の役割を果たしているから。そういう山小屋での非現実的な光景も演劇的空間として記憶されるのではないかと思う。
 夜、ライト無しでも登れる富士山の明るさは首都圏の明かりが照らしていることによる。雲が垂れ込めていると反射光でさらに明るくなるというような発見は21世紀に生きる子どもたちに環境問題の原体験となるかもしれないし……。


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