軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座070】経験則をどうあやつるか――2008.12.10



■危機にあるシカ――2004.8.25
西丹沢自然教室バス停から畔ヶ丸(1,293m)へと向かった。すぐにこのシカがいた。動けないらしい。顔のあたりにハエが飛んでいる。何を考え、どうしようとしているのか。



■ヒキガエルの運命――2001.4.12
丹沢の塔ノ岳(1,491m)から西に下って玄倉川の林道に出た。乾きつつある林道の窪みに水たまりが残っていて、アズマヒキガエルの卵がびっしりとあった。彼らに運は味方するかどうか。


●想定内と想定外

 2008年の6月から9月にかけて、日本経済新聞の木曜夕刊で小さなコラムを17回連載した。「今日からビギナー」という妙な名前のコラムで、私は「軽登山」というタイトルを掲げた。
 突然電話をしてきた担当デスクと会ったとき「盆栽」が連載中だった。4か月単位のこのコラムを、次は山でやろうと決めたらしいのだ。
 テーマが決まったので書店で本を買い込んで著者探しをしたらしいのだが、私に決めたのは学習研究社から出た『ゼロからの山歩き――もっとゆっくり歩きたい』(2003年)だったという。
 その本はランニング雑誌の編集者が単行本を作る立場になって、書店でいろいろ本を見て『がんばらない山歩き』(講談社・1998年)で私に電話をしてきたという。それだけに気合いが入っていて、編集者としての役割にとことんこだわって、図版などを凝りに凝ってつくっていた。その、ある種のわかりやすさが日経の担当者の目にとまったようなのだ。
 しかしよくあることなのだが、担当者氏は太めで、山に登るなんてことは考えてもいないタイプ。仕事をきっかけにして山歩きにも興味を持とうなんて、露ほども考えていないという。
「だいたい、読みたくて読む読者なんて、ごく一部なんです」という。
 エッ! どういうことか……と問うと、自分自身には関心がないけれど、一応目を通しておこうか、というビジネスマンのプロ意識に対して「今日からビギナー」らしいのだ。
 私はだいたい、登山というジャンルに対してアウトサイダーだから、頭で理解しようとする人にむしろ理解されやすい体質をもっている。逆にいえば山岳雑誌を読んでいる人たちとは、どこかで違和感を感じることが多い。山に対する愛情が違うのかもしれない。
 日経の連載はわずか600字。道具と技術を前面に出したハウツーなのだが、そういう立場で、そういう連載をするにあたって背後に流れるもの、バックボーンと言い切れる自信はないけれど、根っこといえるものだけははっきりしておきたいと考えた。
 それが、ここで改めて書こうとしている「経験則」からの解放ということだった。
 ある疑問に対して明快な答えを用意するのがハウツーなら、そういう疑問と向かい合う姿勢を考えるのがノウハウだ。登山に関するわかりやすいハウツーは無数にあって、それをたくさん知っている人がベテランと考えられることが多い。登山用品店にはそういうベテランで、かつプロがいて、明快に答えてくれるので、安心だと思われている。
 しかしハウツーの落とし穴は、失敗をしにくいことだと考えている。はっきりいえば失敗の権利を奪われやすい。とくに初歩的な失敗については、ベテランからすれば見ていられない状態が多いので、どうしても口が出る、手が出る。
 要するに教育の問題なのだが、初心者にしても、ベテランにしても、この十数年で千回以上山に出かけている私にしても、経験したことには限りがある。量が多いからといって、あまり威張ることはできない。
 昔、大学のクラブの後輩に、特異な才能を持った男がいた。トラブルに強いのだ。旅行業界で働いて、それからテレビの海外取材でディレクターになったのだが、彼の仕事の話はいつも波瀾万丈だった。なあんだ、けっきょくキミがトラブルメーカーなんじゃないかという結論になったけれど、行く先々でトラブルが発生し、ハプニングが起きた。
 ハプニングやトラブルに対処するには、マニュアルはあまり役に立たない。問題処理の能力とそのエネルギーは、現場で逃げないことを前提とする。他人に頼らないということも重要だ。ハプニングもトラブルも、それに直面した人間の、想定外の現実という意味では同じといえる。
 安全主義であればマニュアル化のできる想定内で行動を完結しようとする。想定範囲をどんどん広げていくことで、安全性は高まっていくし、広がっていく。
 それに対して冒険主義というのがある。企業活動でいえばベンチャーだ。アドベンチャーを単に命を危険にさらす行為と見るのは甘い。
 冒険主義は、もちろん自己責任の究極の姿といえる。やってみるに値するものに対して、突進してみる。どういう作戦をとるか、どういう準備をするかによって、ひとりひとり全然ちがうのだが、蛮勇でもいいし、臆病でもいい。理詰めでもいいし、感覚まかせでもいい。
 当初目標とした成功の確率はもちろん低いので、失敗をする。致命的な失敗もあれば、小さなミスに気づいてストップすることもある。
 つまり自分にとって「想定外」の世界に一気に切り込んで行こうとする行為が、すなわちアドベンチャーなのだ。芸術こそアドベンチャーといえるのも、まさに想定外への強い意志による。命をかけるということは、単に生き死にの問題だけではない。想定外の設定のユニークさに評価の重点を置けばギネスブックの記録になる。
 登山は、もちろん安全第一であるべきだ。しかしそれは肉体的な安全の領域に関してどこまで許容できるかということであって、許容できる範囲内では、おおいに冒険的でありたいと思うのだ。
 だから私はべったり安全主義はとりたくないと思うのだが、安全性の確保された冒険主義なんてあるのだろうか。その矛盾をどう解決しようとするのか。
 できると思うことが想定内だとするなら、できないかもしれないと思うことが想定外になる。できないと思うことと、できないかもしれないと思うことをそのニュアンスで分けてみれば、できるかもしれないし、できないかもしれないという境界領域が見えてくる。
 肉体トレーニングでも、有酸素運動領域と無酸素運動領域のあいだに同様の境界領域があって、そこにターゲットを絞ってトレーニングを組み立てるという方法がある。ただ闇雲にやればからだが壊れるし、怖がって力をセーブすれば飛躍しない。アスリートも、もちろん緻密な計算をしながら、やはりすぐれた冒険者といえそうだ。
 山では金が通用しない。人も当てにできないと考える。自分で自分の存在を護り切らなくてはいけないと考える。だから、想定内と想定外の境界がよく見える立ち位置になる。
 時間の流れと自分の行動力との不即不離の関係が見えてくる。歩き方の安定と道の状態でも想定内と想定外が行き来する。水分やエネルギー補給についてもうまくいったり、いかなかったりするし、体温調節もコントロールの範囲内に収まらないことがある。雨に濡れることだって、反省の余地があったり、なかったり。そうして、予定のルートを完璧にたどれたり、そうはうまくいかなかったりする。
 結果オーライではなくて、そういうこまごまとした行動のひとつひとつに想定内と想定外を見ていくと、それはすなわち検知能力の精密さにつながっていく。安全センサーの性能を高めていくことになる。
 冒険的であるということは、いったん守勢にまわったときには堅い守備に徹底するということと矛盾しない。できるかぎりたくさんの方向で想定外の領域に一歩踏み出してみることによって、じつは守りの能力を磨いていく。
 経験則はCPUとしてのアタマの想定内にとどまることが多い。だからアタマの支配から肉体を解放して、いろいろな想定外を体験させてやる。冒険的な試みをする。
 私は「登山道の歩き方」で、多くのみなさんの肉体をアタマの経験則から解放しなければならないと思うことが多い。ダブルストックを肉体の一部に同化させるという一事においても、かなりの難事業といえる。人間の行動力は、高齢者と呼ばれるみなさんの場合でも驚くほど大きな潜在能力を秘めている。ところが想定内の領域がおどろくほど小さいのだ。個々のハウツーが想定内で使われる限りにおいて、あまり大きなパワーを発揮することができない……のは当然だ。


●ドキッとしたらお茶、シマッタと思ったら飯

 歳をとるとだれにでも訪れるのが老化。整形外科にいったら「老化です、のひとことでした」というような例が周囲にいくらでもある。
 老化でなくても、歩き方にバランスの崩れの見られる人がいれば、たいてい「ひざに爆弾を抱えています」という。
 ある人は、腰痛から医者に安静を命じられた。「1年間守ったけれど、からだがダメになるだけだから」と山歩きに復帰した。
 安全主義ということを考えていくときに、いつも感じるのは「安全は100%」か、ということだ。99%の安全というあたりの論議はないのだろうか。
「100%の安全」ということこそ、私は「危険の始まり」だと思っている。国の安全保障という次元でさえ、それはいえる。100%の安全を求めると、仮想敵をどんどん強力なものと想定することになる。それに対して100%の勝ちを確保するためには絶え間ない軍拡が必要になる。軍隊というものが何度も歩んできた道だ。
 99%の安全という考え方をとるとなると、1%の危険についても考える。肉体についていえば、命を落とす危険が少ないのであれば、怪我は恐れない……という考え方も登場する。1%の命の危険をどのように想定するかは人によるとして、痛い思いを覚悟するという点では同じだろう。
 一番危険なのは、痛い思いをしたくないから、100%の安全を確保したいという場合だ。命を守るための100%の安全が、いつの間にか痛みを避けるための100%の安全にすり替わってしまったりする。
 100%の安全というのはそういう意味で安易で危険な思想と(冒険主義からみれば)いわざるを得ないのだ。
 山でダブルストックを使うときに、できればベルトに手を通さないほうがいい、という論を信じている人が意外に多い。転んだときにストックを素早く手放すことによって、手首を痛める危険を避けると識者が語っているという。
 これもストックが自分に対して凶器になるという可能性を100%除外しようと考えたら、放り出せということになる。
 ところが、もともと転んだときにいちばん傷めやすいのは、足よりも手だといわれる。手首の骨折の原因は、多くが転倒による。ご存じのように、転びそうになると無意識に手が出て、ズボンが汚れないようにガードしたりしてしまう。自己防衛本能というべき動作が、頭の命令を待たずに実行されてしまうようなのだ。
 その、ズボンの汚れだか、顔面の殴打だか、道脇への転落だかを防ぐために無意識に手が出てしまうのを防ぐための方法は、もちろんある。スキーで最初にやる転び方の練習だ。そこそこのサイズのザックを背負っている限り、きちんと後ろへ転べばアタマを打つ危険も少ないし、ズボンだって汚さずにすんだりする。
 しかし、いいたいのはそれとは別の方法だ。ダブルストックが肉体化して手が伸びた状態になっていれば、バランスを崩しかけてから、崩れるまでのあいだに手で守ろうとすることを、若干早いタイミングで「伸びた手」でやれる。ダブルストックは、じつはその一瞬、命を守る道具として機能する。
 ベルトをはずしていても同じことができると言う人がいるだろうが、それは違う。まったく違う。信頼していない部下に生きるか死ぬかの危機管理をまかせられるかという問題なのだ。
 100%の安全を求めると、結果として、どうでもいいときには有効だが、重大な場面では役立たずということになる。ヘビーデューティという概念の案外深い落とし穴だ。どんな素晴らしい装備を持つよりも、ペットボトル1本の水のほうが重要というようなことも起きる。
 さて、その「100%の安全」が崩れたときにどうするか……だ。
 一瞬、ドキッ!とする場合、それは単なるハプニング、なにかの読み違い、トラブルの始まり……だとして、それが山で起きたときには、お茶を1杯飲むことをすすめたい。休憩して水をひと口でもいいけれど、ザックを置いて、お茶を沸かしたい。
 いったん別の行動を差し挟むことで冷静になる。原点を確認する。流れが速くなっている時間を、自分の時間に引き戻す。想定内と想定外とをきちんと確認してみる。
 そんな軽い状態ではなくて、あきらかにトラブル発生、事故や遭難の入口にある場合はどうするか。
 もちろん、どうしたらいいかなんてわからない。わからないから考える。考えるために、大学時代の私のクラブでは「飯を炊け」ということにしていた。事態が悪い方に進んでいくのだったら、当然次の行動のための本格的なエネルギー補給が重要だ。
 危機からの大脱走にはならなくて、冷静になっていろいろな方法を考えているうちに、うまく、さらりと窮地を脱出できたなら、それも飯のお陰といっていい。
「この重要なとき」にこそ、ザックを置き、お茶を立て、あるいは飯を炊くべきなのだ。事態はもう自分たちには手の出せない状態にあるのかもしれないし、恐怖が圧力を増しているかもしれないけれど、せめて最後に、自分が自分であるところで仕切り直しして、できる範囲のことをしようとする。
 恐怖はアタマの経験則の内側からどんどんふくれあがってくるけれど、想定内と想定外の境界には危険と安全の境目がかすかに存在するかもしれない。恐怖と危険はほとんどの場合、セットにならない。恐くても後ろをきちんと振り向いて「見る」という観察ができるようなら、危険が見える。あとは運を味方につけられるかどうかだろう。


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