軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座083】薬不要論――2009.7.10



■鹿島槍ヶ岳の稜線で大休止。頑張りもするし、リラックスして休みもする。そういうメリハリに体が気持ちいいと感じている間は、大きな問題は起こらないと、楽観的に考える。



■白山の登り口に当たる中飯場での腹ごしらえ休憩。暑い夏の日の、これから始まる長い登りにそなえて、皆さんの動きを穏やかに眺めておく。


●すぐに出てくるバンテリン

 山でだれかが足を痛めると、すぐにだれかが「バンテリンつける?」と親切に申し出てくれる。足をつったというと、芍薬甘草湯が出てくる。
 私は山歩きを指導するという仕事を始めて以来、医薬品のたぐいを持ったことがない。非常食同様、非常用医薬品なら参加者みなさんのザック内を家捜しすれば、なんだって出てくる感じがしている。
 そういう薬の中で、一番怖いのは消毒薬だ。だれかが転んでどこかすりむいたとすると、すぐに消毒薬が出てくる。
 傷にバイキンが入ったら危険なので、消毒したほうがいいという正論だ。そういう親切を断るのはなかなか難しいので、私の目の前で進行している場合にはリーダー命令で「しまいなさい」という。
 登山技術には旧日本軍の軍隊経験に発する常識がたくさん見え隠れするが、傷口が化膿するのをひどく恐れるというのもそのひとつ。団塊の世代より上の人たちは子どもの頃、傷をするとすぐにオキシフルだ、赤チンだ、ヨードチンキだと塗りたくった経験がある。
 いま傷口が化膿したってあまり怖くない。ところが傷口を消毒するといって、適当な薬をつけて、その後空気感染を恐れて傷にふたをしたりすると、万にひとつの、命に関わる危険が生じてくる。破傷風だ。
 私も毎年南の国へ出かけていた頃には破傷風の予防接収をしていたけれど、もう何十年もやっていない。周囲のみなさんだって破傷風なんて考えたことがない。破傷風の致死率は1950年代の80%台から現在では20〜50%に下がっているというけれど、破傷風菌は土壌中にあたりまえに存在し、周囲をふさがれると嫌気性菌として増殖する。日本では2000年にわずか92人の発症とDTP(ジフテリア・百日咳・破傷風混合ワクチン)の予防効果が出ているというが、高齢者たちの危険が減ったわけではない。
 しかし、嫌気性の菌なので、空気にさらせば簡単に死滅する。もっと正確に言えば、傷口を水で十分に洗って土を落とし、そこをきちんと乾かせば死に至る危険の破傷風菌はほぼ100%排除できる。
 英国の熱帯医学書では毒蛇に噛まれたときの応急手当の第一は「水で十分に洗うこと」としている。なぜなら蛇に噛まれても、すべての毒が体内に注入されたわけではなく、傷口周辺に毒がついている。傷口を水で洗うことで、放っておけば体内に入っていくかもしれない毒を洗い流せる。
 熱帯医学書では傷口をナイフで切り裂いても百害あって一利なしと断言している。蛇に噛まれた、虫に刺されたという場合に重要なのは注入された毒を吸い出すことだ。虫毒の吸引器(インセクトポイズンリムーバーなど)を間髪入れずに使うのが好ましい。
 いずれにしても、水で素早く洗うという行為が、医療行為に先んじて重要だという認識はしておきたい。だから私は予備の水をつねにたっぷり持参している。それはラグビー場におけるヤカンの水に近いものだ。
 さてバンテリンは筋肉の痛みに効く代表選手だが、その痛みをとる効能が山では、私には危険と感じるのだ。
 プロスポーツの選手なら、痛み止めの注射を打ちながら試合に出てもいいだろう。からだを壊す危険を冒してでも手に入れたい成果があるにちがいないのだから。
 アマチュアだからそういう無理をしてはいけない……などといいたいのではない。痛みというのは複雑な人体構造の中で形づくられた精密な警告装置だという認識が必要だ。
 痛みを悪と決めつける人にはわからないはずだが、痛みには予告の痛みから最終通告の痛みまで、けっこう大きな幅がある。交通信号でいえば黄色もあれば赤もある。
 痛みを感じ始めたときに、その痛みの原因をさぐり、できれば解消するという自分の体の動かし方を探るという貴重な体験が始まる。
 たとえば片方の足に痛みが出たとしよう、いろいろな動かし方をして反対の足にも痛みがでるかどうか、確かめてみるいいチャンスだ。それによって自分では気づかないストレスが片側に蓄積していることを発見したりする。
 痛みにはかなり豊かな語彙のメッセージが含まれている。自分の体から発するメッセージを自分の体の動かし方を変化させることで会話できるとしたら、どうだろう。薬でその発言を封じてしまうほど愚かなことはない。
 足がつるという場合も、私は案外冷ややかだ。……というのは、足がつって、そのあと回復しなかった例を、まだ一度もみていないからだ。本人は痛いし、不安にもなる。原因も疲労だったり、冷えだったり、血液中のミネラル不足だったり、いろいろな原因があるだろうが、きちんとリセットして動き始めれば歩き通せる。
 そういう意味では、つった足を自力で回復させるという自信を獲得できれば、その価値はきわめて大きい。
 そういう例に近いのは筋肉痛だ。筋肉痛も痛いから悪だと思っていると不幸のどん底だが、じつは違う。筋肉が大きな仕事をしてあちこち破綻した後、血流がそれを修復してさらに強化してくれる痛みだと考えるようになると、印象はまったくちがう。筋肉痛が出ないようだと不満を感じるようにさえなってくる。
 体の痛みを即、赤信号だと決めつけるのはあまりにももったいない。黄色信号のときにこそ、自分のからだと繊細な対話ができると考えたら、痛み止めのたぐいはおじゃま虫ということになる。


●薬は持たないで……

 私は薬のたぐいは持たないけれど、救急用品にあたるものを持っていないわけではない。
 その基本的な考え方は、以前、日本赤十字の救急法担当講師と永く仕事をしていたので、そこにある。日赤の救急法では、医師以外の人物の診療行為を厳しく禁じている。極端にいえば風邪薬だって飲ませてはいけないのだ。
 最近ではAED(自動体外式除細動器)なども使用して救急救命活動が行えるようになったが、それも一度始めた胸骨圧迫(心臓マッサージ)や人工呼吸は勝手にやめることはできない。蘇生するか、医師によって死亡が確認されるまでは、いかなる判断もしてはいけないのだ。
 日常生活のなかにある医薬品の使用と比べるとあまりにも窮屈だが、じつはそのことが新しい目を開かせてくれた。
 ごくありふれた売薬であっても、薬を投与するということは病気や怪我を設定しているということになる。直るか、直らないかという直接的な行動に出ているわけだ。
 あるとき、元気に歩いていた人が、何でもないところでストンと倒れた。雪の上高地だったから、想定外の出来事だと思ったら、それはその人の想定内のものだった。糖尿病を抱えているので、血糖値をかなりこまかく管理しなければいけない体なのだ。真冬の上高地という日常とは少し違う環境であったからかもしれないが、糖分の補給が足りなくて、低血糖値に陥ったのだ。
 糖尿病を抱えている人はほかにもいて、血糖値を上げないために糖分のとりすぎに注意しているが、同時に糖分の欠乏に対して、いつでも対処できるように氷砂糖をもっていたりする。つまり血糖値の上下の運動を、こまかく管理できれば、糖尿病を抱えている人でも山に登れる。
 そういうことから、シャリバテも単なる空腹とは違って、低血糖という目で見なければいけないとわかってきた。シャリバテは、起こるときにはじつにあっけなく起こる。空腹に耐えながら行動したからといって、かならずしもシャリバテになるとは限らない。
 また、夏になると私のような立場では熱中症に対する警戒をかなり強烈に持つようになる。メンバーのだれかが熱中症になったら、その責任のほとんどはリーダーにあると考えているし、山の中で熱中症が発症したら、薬でなんとかなるという生やさしいレベルではない。生命の危険にまで直結する。死亡率のかなり高い状態に追い込まれてしまっている。
 だから夏には、休憩ごとに口に含んでもらう水の飲み方をできるだけこまかく観察する。汗の出方を見てもなかなかわからないが、休憩ごとに、とにかく水を含んでもらうということを律儀に実施していれば、なにかおかしな雰囲気の行動をしている人がいればすぐに目につく。
 水を飲むという行為を標準化しておけば、ふつうでない行動はかなり目立つ。熱中症と一口にいっても多様で、顔が赤くなったり、蒼白になったり、なんでもないのに突然失神したりするという。外気の高温や多湿に体温調節機能が追いつかないストレスが劇的な症状として現れるということだから、症状の出るずっと手前で、気持ちよく汗をかいているか、水をおいしく飲んでいるか、という観察を続けたい。
 吹く風が気持ちいいとか、冷えた飲み物が五臓六腑にしみわたるとか、暑い空気の中でこそ味わえる心地よさを感じている状態をできるだけ崩さないように行動する。
 そのように考えると、薬を飲んで直さなければならないような事態になったら、その人はひょっとしてものすごく危険な状態に陥っているかもしれない。薬など考えもしない段階で、歩く気持ちよさ、休む楽しさを維持し続けるという一種の健康管理が山では楽しくも高度なゲームとなってくる。
 薬を持たない勇気によって、体とのコミュニケーションはかなり高いレベルに進んでいく、と私は考えている。


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