軽登山講座────伊藤幸司
*この講座はBIGLOBE(NECビッグローブ)が公式に設置したstation50において2005年から2010年にかけて105回連載したものです。

【伊藤幸司の軽登山講座093】アラコキ(アラウンド古希)登山を考える・4――2009.12.10



■雨の一日だったが、ちょっと贅沢な湯につかり、バーラウンジで歓談し、これから街に出て夕食。今日もまた、いい一日が過ごせたようだ。丹沢七沢温泉・玉川館で。



■山では、多かれ少なかれ命に関わる行動をする。難易度が高かろうが低かろうが、そういう緊張感が、また山を輝かせる。カラダと薬の関係・あるいは距離感も、その延長線上で考えたい。


●「月イチ」死守

 私は1995年から今のかたちの登山講座を始めたのだが、それはみなさんに最低限、月に1度は山歩きをしていただきたいということだった。個人個人であれ、どこかのツアーや講習会であれ、ともかく山に出かけない月がないようにということを一番強く強調してきた。
 そのことを保証するために、私自身も毎月計画を立てたから、日帰りを軽いのと、重いのと、平日と週末というぐあいに用意して、小屋泊まりも月に1回ないし2回計画してきた。
 しかもすべて、第何何曜日というふうに決めて、1年12か月空きがないように設定してきた。
 夏になると、1回や2回は大物の計画をしたいので1泊が2泊になったりするけれど、重要なのは冬に計画をなくさないことだった。
 じつは太平洋岸では日帰り登山のベストシーズンは冬といっていい。晴天率が高い上に、冷たい風がカラダに緊張感を与えてくれる。では寒いのかというと、日だまりハイクという言葉があるように、ポカポカと暖かいのが行程の半分以上を占める。
 強い北西風が吹き抜けて寒々とした都市部から山岳地帯にいくと、ほとんどの場所は風を遮られて別世界という感じ。登りと下りのほとんどがそういう弱風地帯になっているうえに南斜面で日差しがあれば、Tシャツ1枚になろうかというほどのポカポカ陽気に包まれる。自然林では多くの木が葉を落としているので、夏よりもはるかに陽光豊かなのだ。
 日没が早いと心配する人もいるけれど、それもハズレ。秋の日は釣瓶落としというけれど、夏の気分が残っているのに日没時刻がどんどん早くなる10月〜11月がそういう危険をはらんでいる。厳冬の1月〜2月になると、日没時刻はどんどん後ろに下がっていく。
 その冬に、軽い山歩きでも毎月欠かさずに歩いていると、3月から春の気分を謳歌する山にスムーズに移行でき、夏の大きな山歩きへのカラダの準備も万全ということになる。
 ところがなにかの事情で1か月休んでしまうと、次の山で緊張する。カラダがうまく動いてくれるか心配な「復帰戦」になっている。そこでちょっとした違和感があると、アタマとカラダの調整がなかなかやっかいなことになるのだ。
 アタマのほうは、現状維持だといいながらも、できればいくぶんかでも右肩上がりでありたいと考える。カラダのほうは、アタマが心配すればするほど、下降線をたどってしまったかと考える。違和感が大きくなる。
 バイオリズムというのがあるけれど、体の調子も上り調子や下り調子があって、小さな曲線を描いている。多くの人が、月イチだとその山・谷の波に引っかかることがあるけれど、月2にすれば体長の変化ということでは不安はまったくなくなるという。
 月に1回山に行くだけで何が変わるかと思う人は多いだろうが、じつはこれがとんでもない魔法なのだ。この講座ですでに何度も語ってきたことだから詳しくは語らないが、カレンダーに○をひとつつけることで、生活がガラッと変わってしまう。体調を波の上下というふうにとらえるようになり、ターゲットの日にいろいろないい条件を揃えようとする。
 月に1度の山歩きがカラダの側にどれほどのトレーニング効果を与えてくれるか不明だが、カラダの活性化、あるいは元気ハツラツに驚くほどの効果を発揮する。還暦前後のいい老人が、まるで遠足の前日の小学生のように昂揚するという。
 その意味で、山には行くけれど、天気予報を見て決めるという行動合理主義は、月の1日を特別なターゲットにすることによって生まれてくる魔法の力を浅はかな知恵で失っているとしか思えない。予報天気と実体天気を同一視する愚かさについてもこの講座のどこかで書いているので時間があればお読みいただきたい。
 先日アラコキ(アラウンド古希)世代の人と話し合っていたら、肉体的に人生最強という人が何人もいたので驚いてしまった。毎月1〜2回の山歩きを続けてきただけで「健康感」旺盛な人が意外に多いということも新しい発見だった。
 そういうざまざまな周囲の観察から、私は「月イチの軽登山」を想像よりはるかに大きな存在として考えたい。


●薬離れ

 今年5月、すなわち7か月前にちょっと怪我をした。
 吾妻線の中之条駅から嵩山(たけやま)というのに登ったのだが、標高789mの岩山で、大きなザックを背負っていると登山口で笑われる。地元の子どもたちが気軽に登る山らしい。
 雨に降られたが、もちろん特別な問題なく下った。……正直に言うと、長いクサリ場でクサリを使わずダブルストックで下る体験をしていたとき、転んだ人が出た。あきらかに私の指導ミスだった。
 下山口のところに児童公園があって、長い滑り台がある。以前はローラー型の滑り台で、もちろんゴロゴロと下った体験がある。
 その滑り台は新しくなっていて、テフロン加工したような板が張られていた。カラダを起こすとブレーキがかかると注意書きがあった。
 後ろから全員が続いてくると想定しながら、滑り出したのだが、雨に濡れた滑り台は驚くほど滑りがよかった。姿勢を起こそうとしたけれど25kgという無駄なザックのお陰でうまくいかない。着地マットを飛び越えて、砂利の地面に放り出された。
 腕からずいぶん血が流れたが、両腕の肘をすりむいていた。水道で洗って、大判のガーゼつき絆創膏で止めた。
 それから約3か月、薬をつけずに放置してみた。かさぶたができ、膿が出て、またかさぶたができてと繰り返して、ようやく直ったという状態になった。そうしたら両肘に黒いあざのような跡が残った。
 この十数年、千回以上山に行っているが怪我のたぐいはあまり経験できない。病気もだが、得難い経験なので、放っておいたらどんな風になるのだろうかとやってみた。
 ばかげた実験ではあったけれど、とにかく自分のからだがまだ自分の傷を治せるということを確認できただけでうれしかった。
 基礎教養としては、山で擦り傷のたぐいをしたら、薬に頼ってはいけないのだ。まず水で傷口をよく洗う。そのときの仮想敵は破傷風菌だ。破傷風菌は珍しく嫌気性の菌なので、傷口を覆うと元気になる。水でよく洗って、空気に触れさせればほとんど危険はないのだが、土壌中のありとあらゆるところにいて、潜伏期間を過ぎて発症したら死亡率が非常に高い。いまの日本人はほとんど破傷風の予防注射を打っていないのでかかる危険をできるだけ避けたいのだ。
 そのときに適当な消毒薬や、油薬などをつけて傷口を覆ってしまうと、そのことによって増殖する危険が大きいともいわれる。滅菌ガーゼというのもほんとうは信頼できないという人もいる。山で傷をしたときの最高の消毒薬は水なのだ。
 昔は傷をするとすぐに赤チン(マーキュロクロム)とかヨードチンキを塗ったけれど、あれは第二次大戦中の経験から化膿を恐れてのことだったのではないだろうか。いまは傷が化膿しても、あまりあわてる必要はない。それよりも、死に至る危険のある破傷風に対する防衛のほうが重要なのだ。
 同様のことは、痛み止めの多用にも現れる。これについてもすでに書いているので繰り返したくないけれど、痛みは重要なコミュニケーションであって、性急に口封じしてはいけない。筋肉痛ならまだ傷は浅いけれど、関節痛を口封じしてしまうと、そのあと何が起こるかわからない。
 痛みは痛さの前に、かならず違和感を先行させる。痛みを感じるか感じないかという初期段階できちんとコミュニケーションをとってやることが重要なのだが、そこを素通りさせてガマンできそうもない痛みまで無視してしまうからいけないのだ。
 たとえばダブルストックを下りに使うことでひざへの負担をほとんど100%カバーすることが可能だ、などと私はオーバーにいう。実際に100%カバーできるはずなどないのだが、それが嘘ともいえない。
 というのは、ストックによってひざへのストレスをほぼ完全に吸収できると信じてもらえたら、ひざに痛みが出る前の、違和感の状態でストックの有効性を高めようとする。痛みの初期段階でいろいろ工夫することで、ストレスの集中を防ぐことは可能だし、なにかをいい方向に変える重要なきっかけをつかむことにもなるだろう。
 自分のからだに起こっていることを、すくなくとも山にいる間は、自分の全知全能によって解決しようと努力する。少々の手遅れでも、いまの医療技術ではたいていカバーしてくれる。日本赤十字社の救急法の基本も、まさにそこにある。医療資格を持たないものが、診断したり、治療してはいけないのだ。そのことを山の中ではもっときちんと、生身のカラダの権利として、主張しておきたいのだ。
 たとえばビジネスマンは仕事に差し障りがでるかもしれないということで薬を飲む。昔海外旅行で生水を飲む派と飲まない派を区別したことがあったけれど、ビジネスマンとツアー旅行者はもちろん絶対飲まない派。私たちはひとことでいえば「元気なときに飲んでおく派」だった。生水を飲まないで必要な水分を補給するというのは事実上不可能だったからだ。
 私たちが日常的にやっている善良な軽登山においても、かなり高度な探検旅行と通底するカラダの管理術は内在する。ほとんどの人は軽々と無視してしまっているけれど。


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