発見写真旅・展(116)――2016.8.13 大山(64パワー)<b> 発見写真旅・展(116)――2016.8.13 大山(64パワー)


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★糸の会山行 1000 大山(64パワー)────2016.8.13
*登り16p→下り32p→登り8p→下り8p

*武内正さんの労作『日本山名総覧』には「大山」は36山あって最高峰は標高2,220mの大山(おおやま)。奥秩父の十文字峠から甲武信ヶ岳に登る稜線に、小さなコブとして登場します。有名な「だいせん」(伯耆大山)はそこに含まれていませんが剣ヶ峰(大山)として1,729m。標高100mを超えない「大山」も3つあるなど、意外に近視眼的な命名が多いように思いました。その中では丹沢山地の大山は、標高1,252mながら、かつて江戸からは、丹沢山群を後ろに従え、かつ富士山の前衛として筑波山と競い合うランドマークだったようです。当時の富士登山には、例えば奥多摩の高尾山から大月経由で富士吉田へ。帰路には丹沢の大山に登るという標準ルートもあったようです。 *私は半年ごとに立てる計画では、大山にする理由を次のように書きました。「江戸の町民にとっては、大山は富士山の手前に控える特別な山であったようです。欠番などもありますが糸の会の千番目の山ですから、私としては山々に対してのお礼登山の気持ちです」 *でも本当の理由は、実は七沢温泉の元湯玉川館だったのです。ところが実際には、計画書には次のように書くことになりました。 *首都圏で私がもっとも好きな温泉は七沢温泉・元湯玉川館(ちなみに広域首都圏では伊豆の金谷旅館)ですから糸の会の1,000回記念にはなんとかうまく組み込みたいと漠然と考えていたのですが、日にちが悪かった……ということに気づきました。お盆休みの土曜日ですから、さすがに宿泊が満室のようで、入浴不可。夕食つきの日帰り入浴も予約できない状況でした。 *では、ということで広沢寺温泉・玉翠楼に振ってみると、そちらも最近、宿泊営業がうまくいっているらしく、日帰り入浴の終了時刻が前倒しになっていました。しょうがない……という気分で、七沢荘に決めました。以前、何の取材だったか、気功の名人をこの宿で取材したことがあります。その流れの「波動の湯」と天然温泉の「美肌の湯」が自慢です。ここで食事をしたことのある人も今回の参加メンバーの中にいるかと思いますが、食事は厚木に出てからにしましょう。真夏の暑さの中、厚木名物のホルモンですかね。 *そういうわけで、今回の計画は阿夫利神社から日向薬師経由、七沢温泉郷ということになります。

8月13日
・1000……大山ケーブルカーで下社へ
・1010-20……阿夫利神社下社(標高約700m)
・1040-45……休憩(標高約800m)
・1120-30……蓑毛への分岐(追分)で休憩(標高約1,000m)
・1200……縦走路分岐(標高約1,150m)
・1215-40……大山山頂で休憩+トイレ(標高1,252m)
・1335-55……見晴台で休憩(標高約750m)
・1435-40……林道(登山口)でトイレ(標高約400m)
・1450……県立青年の家で車道へ(標高350m)
・1540-1600……日向薬師で休憩(標高約250m)
・1640-50……日向山(標高404m)
・1720……車道(標高約150m)
・1730……七沢温泉バス停(標高約100m)


今回の写真出展メンバー(提出順)は以下の1人です。
伊藤 幸司(55点)


このalbumシリーズは糸の会の山行を参加者のみなさんと記録した写真集です。
(期間を限定せずに)ご覧いただいたみなさんのコメントをお待ちしています。
★メールはこちらへ ito-no-kai@nifty.com

撮影:伊藤 幸司























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【01】撮影:10時09分=伊藤 幸司
大山・阿夫利神社の下社への石段です。今日はオーソドックスに小田急線伊勢原駅からバスで大山ケーブルバス停へ。そこから大山信仰の御師(先導師)の坊に由来する旅館や土産物屋が軒を連ねる参道を抜け、ケーブルカーで下社駅まで上がって、いまここにいるわけです。糸の会1,000回記念登山「大山」の始まりです。
空が半端に大きいのは、雲がなければ大山が聳え立っている……はずだから。
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【02】撮影:10時10分=伊藤 幸司
標高約700mにあって「下社」です。奥社は大山山頂の標高1,252mにありますから、ここから登山を開始すると標高差は約550mということになります。ケーブルカーに乗っても、日帰りの山としては標準的なサイズです。丹沢山地の山々の中でも、大山はけっして小さな山ではありません。
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【03】撮影:10時16分=伊藤 幸司
下社の境内にある「日本三大獅子山・板東三獅子」の一場面です。江戸時代に大山講によって奉納された獅子像には名工の作もあったという由来の碑があり、それらが関東大震災で消失したのを惜しむ「篤志奉賛」の申し出があったことから、2012年の「皇太子殿下大山御登拝」を機に可能な限りの再現をしたとか。
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【04】撮影:10時23分=伊藤 幸司
登山口がこれ。大きな看板に「頂上登山口」とありました。そしてこの、鳥居の前の木の扉が登拝門。「普段は片側が開かれておりますが、開山期は両扉が開かれます」とホームページにありますが、昭和40年(1965)まではこの扉は基本的に閉じられていて、夏の山開き大祭(7/27〜8/17)のみ(明治20年からは春山開き大祭の4/5〜15も)開かれたそうで、元禄時代から現在に至るまでこの扉の鍵は大山三大講社のひとつという日本橋の「お花講」が持っていて開門を担当してきたとのこと。柱にある「奉納・東京日本橋・お花講」というのはまさにその、300年になんなんとする歴史を背負っているわけです。ちなみにその「お花講」とは日本橋小伝馬町の職人を中心に結成された大山講だそうですが、現在でも夏山開きには40人規模のお花講が参加。日本橋小舟町にある三喜工業という会社がホームページの「地域貢献」欄にその「大山開山」を掲げています。
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【05】撮影:10時25分=伊藤 幸司
登山道は神社ならではの石段から始まります。上方に見える「あそこ」まで。
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【06】撮影:10時29分=伊藤 幸司
石段は、すぐにこういうふうに変わります。
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【07】撮影:10時40分=伊藤 幸司
さすが江戸時代からの表参道……と感心していると、この巨木を回り込むようにして登山道はおよそ90度右に振られます。道は手前右手から登ってきて、ここで前方に向かうというその地点で撮っています。地形図にもそれは出ていて、下社から西に進んだ道はここでほぼ北に向かうのです。
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【08】撮影:10時41分=伊藤 幸司
その屈曲点にそびえているのが「夫婦杉」。「左右同形」で「樹齢五、六百年」と真新しい立て札に書かれていました。書いたのは「大山観光青年専業者研究会」という、きちんと読むとちょっと不思議な団体名です。
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【09】撮影:10時50分=伊藤 幸司
道際には登山道の石柱があり、二十八丁目まで。石柱の製作年代はバラバラのようですが「国定公園」などと書かれているのもあるので必ずしも古くはない、と思います。あるとき拾い集めて整備したというふうにも見えました。
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【10】撮影:10時51分=伊藤 幸司
大山のいいところは、下社から山頂までの標高差約550mが阿夫利神社の表参道という面影を残しながら、丹沢山地のほかの山の登山道と共通する、ときに少し荒れた表情の登山道となっていることです。
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【11】撮影:11時10分=伊藤 幸司
急登の場面。下ってきたこの女性は、この歩き方を見ただけで初心者です。この段差に不安を感じて、体重を後ろ足に残し、身体をひねっています。大きな山に行くには歩き方を変えなくては足がかわいそう。でも大山ならこの状態でのひとり歩きでも問題ありません。登山でよく言う「単独行」ではなくて旅行者の場合の「ひとり旅」に近い山だからです。土休日には老若男女、じつにいろいろな人とすれ違います。
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【12】撮影:11時11分=伊藤 幸司
これは説明板で「牡丹岩」と紹介されていました。平塚市博物館のネット解説では「東丹沢の厚木市七沢の鐘ヶ岳登山道などでは、幾重にもタマネギの皮をむいたような岩石がよく見られます。大山三峰や大山への登山道等にもよく露出し、ボタン岩等とも称されます。こうした石を一般にタマネギ石、この皮をむいたような構造をタマネギ構造といいます。こうしたタマネギ石は岩石の風化過程で形成されたものです」とあります。
「タマネギ石のできやすい岩相は、風化の進んだ、粒子の揃った塊状の砂岩質な岩石」なんだそうで、「一般に3方向の節理面(割れ目)で囲まれています」とのこと。節理面がこの写真でわかるかどうか、わかりませんが「丹沢では、風化して褐色を帯びた粗粒凝灰岩〜火山礫混じり粗粒凝灰岩〜火山礫凝灰岩、凝灰質粗粒砂岩〜細粒砂岩によく観察されます」とのこと。読んでいくとだんだんわからなくなくなってきますが、鐘ヶ岳でも大山三峰山でも「よく」見られるはずなのに、私は一度も見ていません。ここでこれに驚いているようでは、ごめんなさいということでしょう。
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【13】撮影:11時13分=伊藤 幸司
登りでストックを身体前方へ振り出すことを私は勧めませんが、指導は徹底していません。じつは登りの効果的な使い方を身につけてもらうには北アルプスの岩稜のようなところで、後ろ足の小さなステップにストックを突いて登るという体験をしてもらわないと徹底できないところから、私が求める使い方のできる人はごく少数なのです。ただかなりの人が「大きな段差をゆっくり登る」という使い方をマスターしてくれています。
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【14】撮影:11時16分=伊藤 幸司
ここには案内板があって「天狗の鼻突き岩」とありました。けっこうな文字数の詳細解説の最後は「……だといわれている」です。
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【15】撮影:11時18分=伊藤 幸司
二十八丁のうちの十六丁目。蓑毛の集落から登ってくる道との分岐「追分」です。標高でも半分という感じ。
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【16】撮影:11時24分=伊藤 幸司
ここがその追分のベンチ。奥に見える石碑は江戸時代に建てられたとか。
この日は完全にガスっています。でも私はガスという山用語を、じつはできるだけ使いたくない。……というのはガスには霧の場合と、雲の場合があるからです。どちらだって山では同じともいえますが、いま自分たちが「霧に巻かれている」のか「雲の中にいるのか」ぐらいは判断したいと考えるからです。気象学的にではなくて、自分たちをいま取り巻いている環境として。この日、たぶん山頂部は完全に雲の中にあって、いつ雨になってもおかしくない状態だと考えていました。
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【17】撮影:11時24分=伊藤 幸司
追分の広場に立派な木がありました。
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【18】撮影:11時29分=伊藤 幸司
これは丹沢山地に多い荒れた登山道のひとつです。足元は歩きやすくなっていますが、地表から人間ふたり分ぐらいの深い溝になっています。登山道になったことで大雨にえぐられて川底状態になっています。
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【19】撮影:11時30分=伊藤 幸司
深い川の底という感じの、前の写真とほぼ同じ時間です。人の背丈ほどのえぐられ方ですから首都圏の多くの山で見られる登山道風景といっていいでしょう。たとえ集中豪雨があっても、ここが川の激流にならないように、上流側で水を落とすようにしなければ、いけないのです。そういうふうに登山道が見られるようにならないといけないのです。
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【20】撮影:11時42分=伊藤 幸司
この登山道には意外と石仏が少ないと、これを見て思いました。そしてこれも、以前見た記憶が、じつはないのです。
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【21】撮影:11時52分=伊藤 幸司
道の雰囲気が頂上稜線になってきました。丹沢の表尾根の縦走路との合流点はカメラの記録で7分後になります。
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【22】撮影:12時03分=伊藤 幸司
最近アザミの葉っぱに目がいってしまうのですが、
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【23】撮影:12時11分=伊藤 幸司
いよいよ奥社の神域に入りつつあると感じさせる道……というべきでしょうか。
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【24】撮影:12時13分=伊藤 幸司
最後の道標です。
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【25】撮影:12時14分=伊藤 幸司
鳥居をくぐって登り切ったところにあるのが本社です。陰になって見えませんが手前に社務所、売店、前社があって、左手奥に進むと奥社があります。
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【26】撮影:12時34分=伊藤 幸司
長めの休憩をして、記念写真。
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【27】撮影:12時43分=伊藤 幸司
これはトイレ。東京都と神奈川県の登山施設はどこでもなかなか立派です。
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【28】撮影:12時45分=伊藤 幸司
見晴台方面への下り口にマムシグサのたぐいがありました。これが○○テンナンショウという名前なのかもしれないので調べてみると「丹沢大山総合調査学術報告書」(2007年)というのがあって、「丹沢の維管束植物相」にその記述がありました。丹沢山地には1627種の維管束植物(一般的にいう木や草)があって、1997年の調査で登録されたけれど削除された種のなかに「ヤマジノテンナンショウ(トウゴクマムシグサに変更)」という記述がありました。するとこの写真はまさにトウゴクマムシグサだということでしょうか。でも結局、マムシグサ群(テンナンショウ属マムシグサ節)という総称が穏当なのかもしれません。
そんなことより、マムシグサの実は見るたびにおもしろい……と思います。つい近寄ってしまいます。
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【29】撮影:12時46分=伊藤 幸司
最近気になってしょうがないアザミの葉です。この葉っぱの様子を手掛かりになんというアザミか名前だけでも知りたいと、今回も悪あがき。調べていくうちにどんどんわからなくなってしまうのです。
まずは、
丹沢山地で候補に上がってくるのは4種類という人がネット上にいました。トネアザミ(タイアザミ)、ホソエノアザミ、アズマヤマアザミ、フジアザミだというのです。アザミマニアという感じの人なのですが、誰が見てもわかるフジアザミ以外の3種については私が最初のよりどころにしている「山の花1200」(青山潤三・平凡社)には名前すら出てきません。
そこで保育社の「原色日本植物図鑑」を開いてみるとトネアザミ(タイアザミ)は「山野に普通な多年草で関東と中部地方南部にあって関東の秋に最も普通なアザミ」とありました。ホソエノアザミは関東及び中部地方の山林に生えて「特異な葉の切れ方が目立ち、太い刺針がある」とあります。その「自然色の図版」で見てみると写真のものと似ています。アズマヤマアザミは見つかりません。
平凡社の大著「日本の野生植物」のインデックス版というべき「フィールド版・日本の野生植物」の索引を見ると、ありました。トネアザミはナンブアザミの変種としてホソエノアザミ、アズマヤマアザミも。記述は簡単すぎてよくわかりませんが、3種とも写真があります。ホソエノアザミの葉はやはり似ています。そしてアズマヤマアザミの葉っぱも。
じつは最初に紹介したネット情報は丹沢の乱交アザミというタイトルで「今日訪れたところはフジアザミ以外はほとんど典型的なトネアザミ(タイアザミ)、ホソエノアザミ、アズマヤマアザミは見られませんが、ごく狭い範囲でさまざまな特徴を持ったアザミが見られます。単純に2種類の交雑とは思えない複雑な特徴を有しているものも多くありますので紹介したいと思います」とのこと。たとえば「タイプA:葉はトネアザミ、頭花のつきかたはアズマヤマアザミ、頭花はアズマヤマアザミとトネアザミ」などと紹介しています。一筋縄ではいかないということでしょうが、この写真、誰だかわかりませんが、精一杯自己主張している感じが好きですねェ。
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【30】撮影:12時46分=伊藤 幸司
下り始めた登山道に登場しました。なんですかね? これ。
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【31】撮影:12時47分=伊藤 幸司
以前どこかで見ている花だと思いますが、わかりません。こんな花を撮っているということは、真夏のこの時期、あんがい花が少ないということだったように思います。
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【32】撮影:12時47分=伊藤 幸司
リョウブの花のようですね。撮るときに木の幹を見ていませんから、定かではありませんが。
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【33】撮影:12時50分=伊藤 幸司
以前の印象とはまったく違う道になっていました。最近よく見かけるのですが、力わざでの道路工事。出来たてはたしかに歩きやすく見えますが、修理を重ねないと、維持できない登山道ということができます。道は人が踏み続けると何百年も生き残るのですが、ほじくるとたちまち脆弱になってしまいます。
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【34】撮影:12時51分=伊藤 幸司
おだやかな稜線の道になりました。この緑の雰囲気も、鹿に荒らされてちょっと悲しい雰囲気のところが多い丹沢縦走路としては落ち着いた感じです。
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【35】撮影:12時56分=伊藤 幸司
いかにも金をかけた道、という感じ……というべきでしょうか。
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【36】撮影:13時00分=伊藤 幸司
知恵を絞ってこんなふうに作ったのでしょうね。
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【37】撮影:13時05分=伊藤 幸司
ここなどは道普請そのものは登山者の足に任せたほうがいいのではないでしょうか。大雨の時の破壊的な水流を起こさせないために、右手の斜面に細かく水を流すようにすべきだと考えます。鍋割山荘の草野さんからは「50mごとに水抜きをすれば道は痛みません」と聞いたことがあります。
水抜きは箱根や奥多摩で見られるように箱形の水路を造るのではなく、路面の一部を谷側に傾斜させるだけでいいはずです。修理対象もそこだけですむようになればいいのだと考えます。登山道のいちユーザーの意見に過ぎませんが。
ちなみに偉大な成功例は、北アルプスの柏原新道です。現在は半割の塩ビ管を排水路にしていますが、長い年月を経て、谷側の路肩がまったく盛り上がらない状態を保っています。
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【38】撮影:13時06分=伊藤 幸司
じつはこの日、私はこの道に浮かれていたのでしょう。列のしんがりと決めていなければかなりのスピードで下っていたと思います。
たぶんその結果、終盤の日向山山頂から、最後の下りになったとき、ストックに頼らないとどうにも歩けないような、20年間に1,500回以上職業的な山歩きをしていて初めて、膝が壊れそうな痛みに襲われたのでした。たぶん、この歩きやすい状態の登山道を、はずんだ気持ちで歩いたからではないかと思いました。
当初、歩き方が問題なはずはないということで3週間ほど前の赤石岳での標高差約2,000mの一気下りが遠因かと思ったのです。でも、この日の、ほんのちょっとした歩き方のストレスだったと考えるようになりました。
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【39】撮影:13時15分=伊藤 幸司
白いキノコはいろいろあって、よくわかりません。テングダケの仲間のように思われますが。
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【40】撮影:13時21分=伊藤 幸司
なぜだかわかりませんが、丹沢の写真ではない感じ。歩いているときも新鮮な気分でした。
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【41】撮影:13時36分=伊藤 幸司
この日はお盆休みのど真ん中でしたから、見晴台のベンチは満席という感じでした。右奥に見える道標に従って右手に下るとケーブルの下社駅に出ます。このまま尾根道をたどると、登山者はほとんどいなくなります。
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【42】撮影:13時56分=伊藤 幸司
「ガス」に包まれた大山の山頂部。霧なのか、雲なのか、どうでしょう。
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【43】撮影:13時56分=伊藤 幸司
大山三峰山(標高935m)が見えました。
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【44】撮影:14時05分=伊藤 幸司
下社から見晴台を経て日向神社に向かう道は関東ふれあいの道になっています。この部分は神奈川県no.16「大山参り蓑毛のみち」で蓑毛バス停から阿夫利神社下社を経てトラバース道を見晴台へ。そしてこの道を私たちの次の目標地点となっている日向薬師バス停まで、8.7km・3時間30分となっています。
私は関東ふれあいの道の完成時に出された『朝日ハンディガイド・ふれあいの「首都圏自然歩道」』(朝日新聞社・1989.4)で埼玉・群馬・栃木・茨城の4県を担当しました。大半は既存のハイキングルートや登山道を利用するとはいうえ、接続ルートなどではミニユンボなど機械力で林道工事と同様に造った新しい道があり、ひと夏過ぎると雑草が生い茂って埋没してしまうという例を多く見たのです。
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【45】撮影:14時06分=伊藤 幸司
稜線の道から見下ろした植林地。大山の表参道から見上げた斜面にあたります。
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【46】撮影:14時09分=伊藤 幸司
いろいろ調べてみるとこれは幕末の嘉永6年(1853)に、日向越えの九十九曲りの下り口に建てられた勝五郎地蔵とか。地元の石工・勝五郎さんが作ったのだそうです。
さて、この道をだれが利用したのかというと、平成19-20年の伊勢原市教育委員会による調査では道標に記載のある「大山」以外の地名は日向、伊勢原、厚木、戸田、飯山、荻野、金目、田村、平塚、十日市場、大礒などとあり、大山道は大山を中心に放射状に広がり、関東地方の四方八方の道がほぼ全て大山に通じる状況であったとか。ここが日向薬師から阿夫利神社へと登る参拝ルートであったようです。
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【47】撮影:14時12分=伊藤 幸司
「九十九曲り」が始まりました。植林地に短気な人が作った道かと思いながら下ったのですが、古い名前が「九十九」なら、まさにこの道だったと思われます。しつこく、延々と続く小さなジグザグ道です。
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【48】撮影:14時57分=伊藤 幸司
日向川に下って、舗装された自動車道を下ります。渓流沿いにあったキャンプとバーベキューの施設では子どもたちが楽しそうな声を張り上げていました。
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【49】撮影:15時00分=伊藤 幸司
バーベキューセットが岸辺に並んでいるような場所で、都合よく焼き魚ができるのかどうか?
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【50】撮影:15時40分=伊藤 幸司
ずいぶん小さな感じに写ってしまいましたが、以前は屋根があきらかにゆがんでいたと思います。その屋根がきれいに復元され、葺き替えられた日向薬師の本堂(宝城坊本堂)です。鉈彫りの本尊・薬師瑠璃光如来など何体もの彫像が国の重要文化財。この建物も国指定の重要文化財となっていますが、これに関しての指定はごく最近のこと。
日向薬師のホームページには建築年度が書かれていませんが、伊勢原市のホームページでは「江戸時代の万治3年(1660)に旧本堂の部材(一部室町時代の古材)を利用して再建され、その後寛保3年(1743)から延享2年(1745)にかけて改修されるなど数回にわたって修理され、現在にいたっています。簡素ながらも中世的な趣を伝える広大な内陣と、近世的な華やかな外陣の構造などに見応えがあります」とのこと。今回の「平成の大修理」は2010年から始まって、今年の9月30日までとか。ほぼ完成状態です。
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【51】撮影:16時10分=伊藤 幸司
日向薬師でソフトクリームを食べたりして、それからもうひと仕事。日向山へと向かいました。
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【52】撮影:16時12分=伊藤 幸司
時間的に、こんな気分で登っていきます。
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【53】撮影:16時50分=伊藤 幸司
日向山の山頂です。この前後、私たちにはけっこうたくさんのヤマビルが忍び寄っていたようです。
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【54】撮影:17時42分=伊藤 幸司
本当はこの「1000回登山」は玉川館にしたかったのですが、お盆休みに当たって食事付き入浴どころか、日帰り入浴もだめでした。そこで七沢荘へ。昔、波動湯を設けたこの温泉宿に「波動」の取材に来たことがあります。
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【55】撮影:20時13分=伊藤 幸司
食事は本厚木まで出て、ホルモン焼きの名店・酔笑苑の予定が「あそこはもういい」という人もいて駅ビルへ。

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