発見写真旅・展(136)——2017.2.2 元清澄山(43パワー)<b> 発見写真旅・展(136)——2017.2.2 元清澄山(43パワー)


撮影者別写真索引へ
索引写真をクリックすると展示写真に飛ぶことができます。
戻るにはデリートキー(delete key、削除キー)を押してみてください。

写真先頭【01】へ
撮影者全員の展示写真が撮影時刻順に並んでいます。
写真キャプションもお読みいただけます。
ご覧いただいたみなさんからのコメントはキャプションの後に掲載させていただきます。


★糸の会山行 No.1021 元清澄山(43パワー)────2017.2.2
*稜線30p→林道13p

*千葉県の最高峰は房総半島にあります。愛宕山の標高408mです(千葉県には地形図に載せられた山そのものが少ないのですが、愛宕山は県内に4つもあるのです。なぜだか)。そして清澄山(377m)は第3位、元清澄山(344m)は第7位。有名な鋸山(329m)が13位ですし、糸の会定番の伊予ヶ岳(337m)が10位で富山(350m)は5位。これらはすべて房総半島にあるのです。
*もし房総半島が広々とした田園風景なら明るく穏やかな半島といえますが、なかなかやっかいな大地が広がっているのです。鬱蒼たる密林なのですが、それだけではありません。まっすぐ歩くことが不可能なほど、大地はギザギザに切り刻まれているのです。私たちは用意された「道」をたどるしかない世界、それも迷路のような「道」をたどるしかない世界です。……そういう気分を存分に味わえる異色の「関東ふれあいの道」といえます。


2月2日
・0945……金山ダム入口バス停を出発(標高約50m)
・0955-1005……金山ダム湖対岸で休憩(標高約100m)
・1010……金山ダム湖をもう一度渡って(水準点標高72m)林道終点へ(標高約100m)
・1045-50……休憩(標高約200m)
・1100……ゴルフ場に最接近(標高約200m)
・1120-25……休憩(標高約250m)
・1155-1200……休憩(標高約300m)
・1230-45……元清澄山山頂(標高344m)5度C
・1355……郷台林道に出る(標高約300m)
・1430-35……休憩(標高約300m)
・1525……清澄寺到着(標高310m)


今回の写真出展メンバー(提出順)は以下の3人です。
藤原 由香里(13点)
矢野 博子(8点)
伊藤 幸司(44点)


このalbumシリーズは糸の会の山行を参加者のみなさんと記録した写真集です。
(期間を限定せずに)ご覧いただいたみなさんのコメントをお待ちしています。
★メールはこちらへ ito-no-kai@nifty.com

撮影:藤原 由香里






撮影:矢野 博子




撮影:伊藤 幸司



















▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【01】撮影:09時45分=藤原 由香里
安房鴨川駅から金山ダムバス停へタクシーで。日陰に入ると風が冷たく、いそいそとダウンを着ることに ! …。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【02】撮影:09時50分=藤原 由香里
トンネルをくぐって、
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【03】撮影:09時51分=伊藤 幸司
金山ダム入り口バス停でタクシーを降りました。ジャンボタクシーがこの先で回れないかもしれないということで(実際は問題なかったのですが)、金山ダムへのトンネルを歩いて抜けることになりました。タイムトンネルみたいで、結果的には良かったと思いますが。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【04】撮影:09時52分=矢野 博子
鴨川駅から タクシーで金山ダムに向かい スタート。天気は 快晴だが 風が冷たい。先週歩いた奥多摩の雪の大岳山の時より 寒い。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【05】撮影:09時56分=伊藤 幸司
トンネルの先に橋がありました。ダム湖を渡って向こう岸に渡るのですが、地図で見ると林道はすぐに行き止まりになるようです。左へ行っても右へ行ってもいわゆる上流。ダムはこの橋の左後ろから、いまくぐってきたトンネルの脇に落とされているようです。なんだか不思議な構造です。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【06】撮影:09時56分=藤原 由香里
橋を渡って、
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【07】撮影:10時00分=矢野 博子
関東ふれあいの道だからか 道は 整備されていて (途中で 整備するおじさん達に出会ったけど) キケンな箇所はなかった。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【08】撮影:10時08分=伊藤 幸司
橋を渡ったところから右手に進みます。右手側に水面がある湖畔の道という感じです。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【09】撮影:10時15分=伊藤 幸司
湖面はすぐにしぼんでしまって、ごくありふれた沢になります。そこでこの橋を渡って沢の左岸(上流から見て左側)に出るのですが、そこで林道は終わり。軽自動車が1台止まっていましたから林道として機能しているのでしょうが、橋を渡っただけで行き止まり。登山道になります。どういう意図で架けられたのかわからないこの橋が、じつは元清澄山への、今日の道を象徴していたのかもしれません。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【10】撮影:10時15分=藤原 由香里
木漏れ日の中を出発です。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【11】撮影:10時19分=伊藤 幸司
一帯は本格的な植林地になっています。この鬱蒼とした森のなかに入り込んでいくという気分はなかなかの迫力です。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【12】撮影:10時25分=伊藤 幸司
このルートは「関東ふれあいの道」の千葉県22「モミ・ツガのみち」です。そのためかルートは驚くほどよく整備されていて、私たちはとりあえず眼前の登りにとりかかりました。この道がどんなふうに延びていくのか、まったくわからないままに。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【13】撮影:10時26分=伊藤 幸司
落ちていたツバキの花。この時期、他に花らしいものはありませんでした。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【14】撮影:10時27分=伊藤 幸司
この道ははっきりとした尾根道です。両側が落ちていて、道に迷うというような不安はまったくありません。その上、ご覧のように土留めの擬木がていねいに設置されています。幸い尾根が小さくて豪雨でも水流が道を破壊することが少ないらしく、歩けば歩ける程度に保持されています。でもこの道がどのように、どこへ通じているのかいよいよわからなくなってきました。道は登ったと思えば下り、下れば登り、右へ、左へと私たちをからかっているように伸びていきます。尾根とか稜線とかいうイメージは普通なら山の高みから下る山ひだとしてわかりやすいのですが、迷路という気分になってきました。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【15】撮影:10時28分=伊藤 幸司
歩きはじめには人工林だったのですが、すぐに房総らしい暖温帯林になりました。「モミ・ツガのみち」とわざわざ名付けられているのは暖温帯林としてのモミ・ツガ針葉樹林が貴重な自然として保護されているからだそうです。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【16】撮影:10時33分=伊藤 幸司
これがこのルートを印象的にしているシャープで小さな稜線です。左側はかなり鋭く切れ落ちていて、右側はいくぶんゆるやかに落ちています。こんな稜線が、なぜここに残っているのかわかりませんし、こんな道すじが本当につながっていくのかと疑っていると、ますます森の中の迷路の感じになっていきます。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【17】撮影:10時33分=藤原 由香里
良く整備された階段の、登り下りが繰り返し繰り返し登場する。その繰り返しに笑ってしまい、
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【18】撮影:10時33分=藤原 由香里
こんな標識があり、エェッ急勾配 ⁉︎ と思ったところ、
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【19】撮影:10時33分=藤原 由香里
ホントに急勾配で、また、笑ってしまった。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【20】撮影:10時35分=藤原 由香里
無視される階段に、またまた笑ってしまった。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【21】撮影:10時36分=伊藤 幸司
それぞれの樹木が何なのかはわかりませんが、隣接する東大演習林の解説によると「創設当初はカシ類、スダジイ、タブノキ、サカキなどの常緑広葉樹からなる低林とモミ、ツガなどの中林からなっていました」とあります。創設は明治27年(1894)のことです。「本演習林の植物相は、極めて豊かで、自生種は木本類が約280種、シダ植物約150種を含む草本類が約800種に達しています。また、植物相に対応して動物相も豊かです」とか。そういう自然をかいくぐるようにして、この道は延びているようです。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【22】撮影:10時38分=伊藤 幸司
小さな起伏が延々と続くなかで、稜線上からちょっと外れた道になると、土留めの丸太と杭(ここではセメント製の擬木)からの流土が進んで、歩きにくい状態になっていました。雨による浸食が起きにくいと考えられる小さな尾根筋の道でも、流路に当たるところではいつかかならず破壊される規模の水流が流れます。この場所で土留め工事の労力を無にした日、雨水はどのように集まって流れていたのでしょうか。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【23】撮影:10時40分=伊藤 幸司
右と左に斜面は下り、豪雨の日でもここでは登山道の浸食はほとんど考えられません。登山道の補修に関わる人には、集中豪雨の直後に路面状況の調査をしていただきたい(予算を使っていただきたい)と思います。その山を知っている人の意見が加えられている補修作業でないと登山道では「補修」が「破壊」になりかねないのです。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【24】撮影:10時44分=伊藤 幸司
雨の日、降った水が左右に落ちていくか、登山道を下っていくか、……私はそういう目で登山道を見てしまいます。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【25】撮影:10時57分=藤原 由香里
おや、これは何かに似ている… 星の王子さまに出てくるバオバブの木ですね。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【26】撮影:11時03分=伊藤 幸司
進行右手には大きな谷はなかったのですが。地図上に「切通」という名前の極小集落があって、そこから谷筋に鴨川カントリークラブのゴルフ場が広がっています。ゴルフ場とはここで隣り合わせになりましたが、樹間にこれだけ見通せたのはこの場所だけでした。
グーグルマップの衛星写真で見るとここに見えるような緑の岩山がびっしりとどこまでも広がっているらしいのです。そこに強引に作られた金山ダム湖と、このゴルフ場と、その向こうにある保台ダム湖が、鴨川市街の緑の魔境に人間の進出を見せています。私が持っている地形図は昭和のバージョンでちょっと古いのですが、保台ダムのところは「ダム建設中」となっています。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【27】撮影:11時14分=伊藤 幸司
道すじで見た中では、際立った古木の1本です。根っからの自然人、という雰囲気で立っていました。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【28】撮影:11時34分=伊藤 幸司
このあたりでは、この細い道がうねうねと続いているだけで、例えて言えば塀の上を歩かされているという感じがします。全体としては平坦な世界なのに、小さな上り下りが無数に連続し、左右に逃げられない一本道……という不思議な世界です。
房総半島は三浦半島とつながるさまざまな地質的要素が複雑に絡み合っているようで、「縦ずれ断層によって形成された地形的凹地として、地質学的に定義されるものである」とされていたのが最近新しい地震探査によって否定されたというレポートが「房総半島南部の組織地形とその成立過程──反射法地震探査からのアプローチ」(2007年・日本第四紀学会)としてネット上にありました。詳しくはわかりませんが、その中に次のような一文がありました。
「これらは, 差別侵食がそのような場所に発生し, 岩石における抵抗性の違いに由来する地溝状の凹地を生み出したことを示唆している. とくに, 風化の著しい頁岩部における選択的侵食低下が著しい. 推定される古水系や逆従断層線崖の存在に基づくと, かつて現在の嶺岡山地をおおう山地が存在し, その斜面上に必従河川の水系が発達していたと考えられる.」
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【29】撮影:11時37分=伊藤 幸司
進むに従って、森はだんだん深くなっていくように感じました。個性的な古木が間断なく現れるという感じです。例えばこの木、どのように生まれ育ってきたのでしょうか。人生前半に大きく伸ばした太い枝と、その先でなぜか2つに別れた……というより引き裂かれることになった大きな出来事。へし折られた後にふたたび天を目指した新しい人生があったのかもしれません。屋久杉を見るような目で見てしまいます。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【30】撮影:11時49分=伊藤 幸司
ふと気づくと、ここでは、ずいぶんあったかい気分になりました。何の木かわかりませんが、どことなくあったかい地方の香りが漂っていましたから。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【31】撮影:11時50分=伊藤 幸司
一か所、細いクサリを垂らした急坂がありました。根が張っていて、基本的に何の問題もありませんでしたが。これと比べればこれまで無限回数繰り返してきたように感じられるアップ&ダウンは可愛いもんだったといえます。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【32】撮影:11時54分=藤原 由香里
切り株の朽ちた中から、新たな木の芽が。淡々と世代交代しています。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【33】撮影:11時56分=伊藤 幸司
道の真中にしつらえられていた盆栽。全員が楽しんだと思います。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【34】撮影:11時56分=伊藤 幸司
だんだん、この道に慣れてきました。疑いの気持ちが薄れて、この緑の中に埋没している自分自身を素直に楽しむようになっていました。この木など、カメラのぐあいでこう写ったのではなくて、ほんとうにこんなふうにウェルカムの雰囲気を示してくれていたのです。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【35】撮影:11時56分=伊藤 幸司
この日は終日青空でした。見上げたときに、樹冠から透けて見える青空は、けっこういいもんだと思います。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【36】撮影:11時57分=伊藤 幸司
何の葉だか、真冬だというのにみずみずしい緑色を振りまいていました。山の道で、真上を見上げると、けっこう新鮮な気分を味わわせてくれます。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【37】撮影:11時58分=伊藤 幸司
その緑の葉っぱは、椿(ヤブツバキ)のものだったとわかります。この花、けっこう遠かったので、苦労しましたが、やっぱりうまく撮れていません。ポケットサイズの13倍望遠カメラを、(モニター画面ではなくて)ファインダーで撮れる50倍望遠のカメラに買い替えてみたいと考えるようになりました。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【38】撮影:12時08分=伊藤 幸司
画面の下に支柱と鎖がチラリと見えますが、この写真を見て初めて気づいたことを言えば、これまでは間違えようのない尾根道でしたが、ここではちょっとした木の並び方で左右どちらかへ下ってしまう危険なしとは言えない……と整備担当の人が思ったのでしょう。道すじを示すために、擬木の支柱を立て、鎖を張ったのだと思います。関東ふれあいの道としての整備だったと思われます。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【39】撮影:12時12分=伊藤 幸司
もういい加減、そろそろ元清澄山ではないかと思っていると、この下り。期待を細かく裏切ってくれるのが、迷路の楽しみかもしれません。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【40】撮影:12時16分=伊藤 幸司
緑の魔境とまではいえませんが、果てしなく続く緑、という気分にはさせてくれました。あいかわらずの小さな登ったり、下ったり……。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【41】撮影:12時20分=伊藤 幸司
突然、海が見えました。安房鴨川の海……というより太平洋。遥か彼方にはアメリカ、希望の国が……というのは大げさだとしても、海が「高く見える」ということに感激してしまいました。考えてみれば歩き出してから初めて見る外の世界。海が若干傾いているのは私の水平感覚のズレが原因です。水準器を使わない限り、1度前後の傾きが出てしまうのです。お金になる写真ならもちろんトリミングで修正しますが。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【42】撮影:12時26分=伊藤 幸司
一瞬でした。外界が見えたのは。また緑の魔境的空間を進むのです。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【43】撮影:12時39分=伊藤 幸司
最後にちょっとした登りがあったといえばあったのですが、小さなアップ・ダウンの果てに、元清澄山の山頂はありました。淡々と続いてきた関東ふれあいの道に、初めて「お休み処」という雰囲気が訪れました。
じつはこの地域は房総半島でも特異な場所らしく、ネット上には、たとえば「キノボリツノダケ」の記事がありました。茨城県のミュージアムパーク茨城県自然博物館に茨木大学名誉教授・佐藤正己さんが東京大学時代に採取したコケ植物標本が東京大学から寄贈されたのだそうです。それによると「千葉県はキノボリツノゴケの生育地の北限とされており,1896 年 4 月 6 日に牧野富太郎が清澄山で採集した標本に基づき,Dendroceros rugulosus Steph. の学名で 1909 年に新種記載された(Stephani,1909; Hasegawa,1980).しかし,その後千葉県内での確認はされておらず,現在では県内で絶滅した可能性が高いとされている(千葉県環境生活部自然保護課,2009).今回確認した標本は,標本袋に「Dendroceros 元清
澄 樹皮上 MAY 30 1937」と表記がある(図 1a).元清澄山は清澄山から西に約 10 km 離れた標高 344 m の山塊であり,標高 377 m の清澄山よりもわずかに低い.標本はタテヨコ約 10 cm の大きなもので(図 1b),当時,元清澄山に豊富にキノボリツノゴケが生育していたことが伺える.」とのことです。
ついでに「ヒメコマツ」というのも登場しました。「房総丘陵におけるヒメコマツ個体群の緊急調査」(2009 THE NATURE CONSERVATION SOCIETY OF JAPAN)というレポートで「千葉県房総丘陵に隔離分布するヒメコマツ(Pinus parviflora)個体群の分布調査を行った。調査の結果、生存個体は75本で最近の20年ほどの間に個体群サイズが2割以下に縮小したものと推定された。生存個体は清澄山から高宕山南部にかけての東西約15kmの範囲にみかけ上7つの小集団に分かれて分布していた。生存個体の中にも樹勢の衰えた個体が多かった。個体のサイズ構造や実生の少なさから、天然更新はほとんど起こっていないと考えられた。ヒメコマツ生存個体は尾根の肩や崖ふちといった地形的立地を好んで分布していた。群落組成からは房総のヒメコマツ群落は4つの類型が認識された。以上の結果から、房総のヒメコマツ個体群は絶滅の危機に瀕しているといえる。早急な保護対策が必要であり、そのための提言をまとめた」とあります。元清澄山は清澄山と高宕山のあいだにあって、山の山頂周辺に14本確認されているとのことです。それにしてもこの調査をした人たち(8人の名前が出ています)は、このあたり一帯を障害物競走みたいに走り回ったのでしょうか。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【44】撮影:12時49分=伊藤 幸司
元清澄山の「元」は当初ここに千光山清澄寺(せいちょうじ)があったということのようですが、清澄寺のオフィシャルページで「清澄寺略縁起」を見ると「千光山清澄寺はおよそ1200年の昔、"不思議法師"と名付けられた僧侶が千光を発する柏の木で虚空蔵菩薩の仏像を彫り、その仏像の前で21日間修行をしたことに始まります」とあって、さらに「承和3年(836)、天台宗比叡山延暦寺の中興の祖慈覚大師円仁師がこの地を訪れ、その仏像の前で21日間の修行をしました。それ以来、当山は天台宗のお寺となり次第に栄えていきました」とのこと。日蓮宗の大本山となったことについては「大正期に入り日蓮聖人の銅像が完成したことでお参りの信者さんが増え、真言宗智山派と日蓮宗との間で改宗の話し合いがもたれました。そして昭和24年、当山は日蓮宗に改宗し宗門直轄の大本山として現在に至ります」とあって、ここ、元清澄山と清澄寺との直接の関連はどうもはっきりしません。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【45】撮影:12時56分=伊藤 幸司
房総半島で絶滅の危機にあるというヒメコマツは、調査レポートの地図によれば、このあたりにあってもおかしくありません。……といってもこのときにそんなことは知る由もなく、樹木に関する知識もないので疑問が残るというようなことも皆無。でもレポートの図によればこのあたりに7本ぐらい残っているらしいのです。────どんな木? かというと、別名キタゴヨゥ。高さ30mの常緑高木だそうです。乾燥したものは狂いが少ないところから木型の素材として使われているそうです。しかも「尾根の肩や崖ふちといった地形的立地を好んで分布」ということだそうですから、知らないまますれ違っていた可能性大です。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【46】撮影:12時56分=伊藤 幸司
こういう道が、このルートを象徴しているのではないかと思います。大したことはないと、もうわかっているのです。が、あの先がどうなっているのかわからない、という仕掛けがナカナカなのです。最後まで楽しませてくれるのでしょうか。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【47】撮影:12時58分=矢野 博子
この天気なら 富士山は 絶対見えるはずと 執拗に左方向にしきりに目をやっていたら 予想通り出現。何故か富士山が見えるといつも 得した気分になる。真白き富士の嶺なのだが この写真は 残念ながら その姿を鮮明に捉えられなかった。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【48】撮影:12時59分=伊藤 幸司
突然、初めて、西側の窓が開いたという気分です。富士山が見えました。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【49】撮影:13時00分=藤原 由香里
やはり、富士山を見つけると気持ちが上がります。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【50】撮影:13時02分=伊藤 幸司
たぶん鋸山の方向を見ています。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【51】撮影:13時15分=藤原 由香里
元清澄山の痩せた山道は、大体、木の根に守られていた。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【52】撮影:13時20分=藤原 由香里
この階段はこの木の生え方に合わせて作られていた。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【53】撮影:13時32分=伊藤 幸司
緩やかに下る長いトラバース道が出てきて、元清澄山の下りはおおよそ終わりという感じがしました。それにしてもガッチリと作られた手すりです。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【54】撮影:13時58分=伊藤 幸司
東大演習林の中から出てくる郷台林道に出たのが13時57分。これはその直後です。現実に車が通っている舗装された林道を約5km歩けば清澄寺です。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【55】撮影:14時08分=伊藤 幸司
林道の片側の展望が開けたため、海辺の山という雰囲気になりました。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【56】撮影:14時48分=矢野 博子
幾重にも重なる房総の奥深い山が 光に輝いて まぶしい。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【57】撮影:15時22分=矢野 博子
一本みつけた桜。カンザクラだろうか? 青い空に寒そうに咲いていた。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【58】撮影:15時27分=伊藤 幸司
清澄寺(せいちょうじ)に到着しました。大堂と呼ばれていますがいわゆる本堂。ホームページには次のように書かれています。「摩尼殿(まにでん)と称し、天和2年(1682)の完成。中央宮殿には曼荼羅御本尊が勧請され、その前に天瑞和尚作虚空蔵菩薩像を安置しています。この像は能満虚空蔵菩薩といい、日蓮聖人が願をかけた不思議法師作虚空蔵菩薩像を胎内に安置すると伝えられています」
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【59】撮影:15時27分=矢野 博子
清澄寺。節分の準備がされていたが この日は 訪れる人も少なかった。ここの陽だまりで 帰りの タクシーを待った。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【60】撮影:15時33分=伊藤 幸司
国指定の天然記念物「千年杉」。高さ約47m、幹周り約15m、樹齢約800年とか。見た目が左右アンバランスなのは、1954年(昭和29)の台風で隣の大杉が倒れながら枝を払ってしまったからだそうです。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【61】撮影:16時54分=矢野 博子
お風呂は 鴨川グランドホテル。露天風呂に入ると 波打ち際のザボーンという波の音が 聞こえてきて 何故か懐かしい気分になった。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【62】撮影:16時55分=伊藤 幸司
鴨川グランドホテルで入浴のみ。ロビーでコーヒーを飲んだ人もいたようですが。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【63】撮影:16時59分=矢野 博子
火照った体に外の空気が気持ち良い。程よい疲労感と脱力感。夕焼けは どんどん色を変えていった。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【64】撮影:17時38分=伊藤 幸司
以前、磯料理の店に押しかけて大騒動になったことがありました。そこで今回は回転寿司……の店でしたが、実際には注文制。でもストレスなしに皿数を重ねました。
▼次の写真へ   
▼次の写真へ    ▲先頭ページへ

【65】撮影:18時38分=伊藤 幸司
寒い日でしたから列車の時間待ちのためにコーヒーなど飲みたいと思いました。回転寿司店で紹介されたセレクトショップに立ち寄りました。これは併設された喫茶テーブル。帰り際に。

★先頭ページに戻ります

★ホームページのトビラに戻ります