箭内 和子――山笑う・山眠る
福島県の山 2
あの山は・・・?



■あの山は・・・?

 私が、福島県郡山市に住むようになったのは、昭和54年4月でした。郡山市の西北部・大槻町というところです。新築の4階建の市営団地の1階が、夫・長男・次男・私の4人家族の新居でした。
 郡山市は、天気が良い日だと、高い所から安達太良山の姿を見ることが出来ます。49号線(いわきから、新潟へ走っている国道)や4号線(東京から仙台方面へ走っている国道)を北に向かって走ると左側に端正な姿を見せます。当時の私は、安達太良の名前も、姿も知りませんでした。新しい環境と、新しい仕事の準備と、4歳の長男、6ヶ月の次男の子育てに懸命の毎日でした。
 昭和56年10月、長男は幼稚園の年長組になっていました。次男は3歳の誕生日が、すぐの頃でした。
 次男が、鼠径ヘルニアの手術をすることになりました。入院初日に手術をして、翌日1日病院に居て様子を見て、順調なら3日目に退院出来るという、入院期間は、2泊3日だったと思います。
 当然、私は次男の付き添いで、次男と一緒に病院泊まりです。長男は、夫と留守番。手術の日、長男は幼稚園に行き、幼稚園から帰宅して、夫が仕事から戻るまで一人で、家で留守番。夜になって、夫と病院に見舞いに来ました。長男の心細そうな顔と、私の心配で一杯だった気持ちを思い出します。
 2日目、長男は幼稚園から戻ると一人で市内の路線バスに乗り、病院に来ました。次男の様態も順調だったので、3人で病院の廊下を散歩したり、自動販売機にジュースを買いに行ったり、次男のベッドの上で、本を読んだり、ゲームをやったりしました。夫が長男を迎えに来るまで、出来るだけ明るく時を過ごしました。
 病院の北側の窓から、外の景色を眺めると、大きな山が見えるのです。その山の姿を眺めると、病気の子供をかかえた母親の心が、晴れ晴れとするのです。その山の名前も知らず、ただ山の姿を随分長い時間、眺めていたと思います。今の流行の言葉で言えば、癒されたのです。元気を貰ったのです。
 数年後、自宅を建てようと土地探しをしている時に、この山の名前を知りました。随分後のことでした。その山こそ、安達太良山でした。私の山歩きの原点の一つです。

――2008.1.25 記


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