林 智子……あたまをつかったちいさいおばあさん
夏の日――2008.6.5



■夏の日――2008.6.5

糸の会の 8月の山歩きの 予定表の中に 真岡鉄道 雨巻山を 見つけた。
雨巻山の事は まったく 知らないのに 真岡鉄道という言葉に ふと
心が 動かされる。懐かしさが こみ上げる。
栃木には 親戚が 居り かつて その親戚を 訪ねたことが あったから。

その 親戚は 父の姉の 一家である。
父の姉は 若い頃 看護婦をしていた。津軽が誇る作家 太宰治も 入ったと言う
弘前高校に 若い叔父は 栃木から 来ていたが ある時期 叔母の働く病院に
入院した。
たちまち 二人は 恋に落ちた。 叔父は いいところのぼんぼん 叔母は身体は小さい 
ながらも 目の くりくりとした 可愛らしい女性だ。長女ゆえの
しっかり者である。これは推測ではあるけれど しっかり者の 多少 勝気な
看護婦さんに きっと 叔父の方が 先に 恋をしたのでは ないだのろうか。

叔父の 卒業は 別れを意味した。 叔父は栃木に帰らねばならない。
二人の結婚は 大波乱だった。
叔父は 栃木の豪農の 跡取りだ。一方 叔母の方はと言えば 本州
最果ての地 青森の 何処の馬の骨ともわからぬ 貧乏な教員の 娘。
しかも 親はもう いない。
さらに 致命的に まずいことは 叔母が 叔父よりも 7歳ほど 年上でもあったことだ。
猛反対を受けたのは 当然のことであったろう。
然し 猛反対を受けながらも いつしか 二人は 結婚し 弘前から 栃木に
移り住んだ。其のあたりの 詳しい経緯を 知る人は もう いないが。

二人には 4人の息子達が いた。私の従兄弟たちである。

当時 上の従兄弟 二人は 信州で 一人は医者 一人は 医療関係の会社員だったが
下の二人は ちょうど 私と同じ年ぐらいの 高校生と 大学生だった。

ある年 3番目の従兄弟 徳夫さんが サッカーの試合もかねて 弘前に 遊びに来た。
栃木の 叔母たちの 恋の お話は よく聞かされていたし 私の 姉たちは
上の 二人の従兄弟たちと 同じ年頃なので すでに 彼らとは 親しかったが
末っ子の私も 徳夫さんも 互いに 会うのは 初めてだった。

共働きの 我が家は 当然のことながら 母が留守がちなので もっぱら 夏休み中の 
私が あちらこちらと弘前を 案内した。話しているうちに 徹夜で おしゃべりということになったり
初めて会ったとは思えぬ 親しみやすさで 従兄弟との交友は 私にとって
その夏休みの 画期的な出来事となった。

私は 4番目の従兄弟にも 会ってみたかった。栃木の田んぼの中にあるという
豪農だという その大きな家なども 見てみたくて 翌年の夏休みに 一人で 栃木の
従兄弟たちに 会いに行った。
大雑把なことしか 今となっては わからないが 栃木のその家は 周りが すべて
広大な 田んぼだった。家自体は ジャングルのような 竹やぶに囲まれていた。
かんぴょうが ぶら下がる 畑も 周囲をぐるりと 板戸で囲む大きな家も
全てが 珍しかった。
そもそも 私は 農家の 家の中に 入ったことは 初めてだったし
夏休みで 帰省していた従兄弟たち4人 プラス叔父と さらに 作男なる使用人を
含めた 男所帯の 雑然とした ありさまは ワクワクするほど 面白かった。 

その大きな 息子たちの中に 埋もれそうになっていた おばは 幸せそうだった。
なぜなら 従兄弟たちの 叔母への接し方は なにやら 甘やかで ユーモラスで
小さな 母親を いたわるようだったから。
叔母もまた 叔父を とても 甘やかしていた。
叔母と 叔父の 間には <惚れたもの同士>とでも言えばいいのか 何か 大人の 
色合いが あった。 甲斐甲斐しい あねさん女房という 感じだった。 
叔父は 4人の息子たちよりも 一番 ハンサムだった。 
叔父が ハンサムな人だという事は 弘前側に 定評のあるところであった。
背が高くて やせており 雰囲気が 暖かい。 育ちが良さそうで 息子たちとの
会話が ユーモラスだった。
この 叔父さんだから 叔母さんが お熱を 上げたのだろう ことは
容易に想像できる 素敵さだった。
当時 まだ 現役で 高校の先生をしていた叔父は 私からみても まさしく
ロマンスグレーの 叔父様だった。
 
私は 毎日のように 4番目の いとこの オートバイの後ろに 乗せてもらって
鬼怒川に 遊びに行った。
何処にいくのも オートバイの後ろだった。
キラキラと 光り輝く あぜ道を とおって いつまでも いつまでも
続く 道を 果てしなく オートバイで 走った。
叔父に 一番 似ていたのが 彼だった。
やせて 背が高く 少し猫背で 目が潤んでいるよう・・ そして
まつげが 長かった。 
私は 彼の横顔を そっと見つめ 其のまつげの長さに ドキドキしていた。

3番目の徳夫さんが 真岡高校を 卒業したのだと言っていた。
彼の好きな 女の子がいて その子は 色が黒くて 美人なんだ・・と 話していた。
徳夫さんは 大学でも サッカーをしていたからか 腿が えぐれ 傷だらけだった。
また 全身 真っ黒の 歯だけが白い まさしく 腕白小僧 そのものだった。

上の従兄弟二人は もう 社会人だった。私にとっては 立派な 大人に見えた。
彼らは 私に <智子ちゃんは 決して 美人じゃないけど とても
チャーミングな 女の子だ>と お酒を一緒に 飲んだ時に 言った。
家族に 女性は 叔母一人・・という 環境では 津軽から やってきた
スカートなど はいている 可愛い いとこは きっと 天使のように 思えたことだろう!

徳夫さんからは<ただ ニコニコしている 女は駄目だ。
はっきり 自分の意見を 言わなきゃ 駄目だ>と 言われた。
髪の毛を 扇風機で 乾かす 私を 彼は まぶしそうに 見ていた。

その 翌年 4番目が 弘前に 遊びに来た時は 集まってきた 親戚中から
<和夫さんは おじさんに 似て ハンサムだねえ>と しばし 絶賛され
後の 語り草となった。

彼らと歩いた 弘前公園も おしゃべりしたベンチも 一緒に見に行ったねぶたも
栃木で入った 五右衛門風呂も オートバイで走った 長い 長い道も すべて 夢のようだ。
あれもこれも もう 40年も 前の ことになってしまった。
私が 彼らと 過ごした 輝く 夏の日々 だった。


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