・ビクトリアナイル川下りの準備・偵察段階で、ウガンダからボートでスーダンに入国するのがむずかしいとわかり、挫折。計画を変更、隊を分散し、行動は以下の6点になりました。
・ビクトリアナイル川下り(ほぼ、ボートテスト)
・ナイル河最長源頭点探査
・ナイル河最高源頭点探査
・ビクトリアナイル川流域パニヤンゴ村定住
・スーダン縦断ナイル河の現地船旅
・エジプトはナイルの賜物
*私はボート担当でしたから、ビクトリア湖のオーエン滝ダム下流でゴムボートと折りたたみボートの機材準備、川下りテストなどを行いました。
*計画を変更して隊を分散させてからは最年少の小川渉隊員(のちに深田久弥の最晩年の弟子)をサポートしてナイル河の河口から一番遠い源(最長源頭点)をルワンダ国内(現ニュングエ国立公園)で実地測量、さらに最高源頭点と考えたビルンガ火山群(マウンテンゴリラの生息地)の最高峰カリシンビ山(4,507m)に登頂しました。
*写真は隊員全員に配布した「保存版」からです。
【撮影】伊藤 幸司=006
淡水湖としては世界第2位のビクトリア湖の出口に位置するオーエン滝ダム。ただし湖の出口はこのすこし上流にある主要都市ジンジャの中心街にあるリポン滝。
ナイルの源がビクトリア湖から流れ出たところにあるリポン滝としたのは英国の地理的探検家スピークで、ビクトリア湖を周航してそれを確定したのは、米国のジャーナリスト探検家のスタンリー。1875年とされていて、19世紀の地理的探検の大きなエポックのひとつでした。
そしてナイル河の長さは、私たちがナイル遠征の準備を始めたときまで、全長5,760kmでミシシッピー、アマゾンに次いで第3位(理科年表)でしたが、東京天文台が編集するその「理科年表」の1970年版でナイル河は6,690kmとなり、世界一の大河となったのです。もちろんすでに米国地理学会の機関誌ナショナルジオグラフィックには「The River Nile」という単行本が刊行されていて、そこには「最長源頭」と「最南源頭」という記述があったのですが、ブルンジにある「最南源頭」に関しては写真もあるものの、世界最長の大河の長さの起点となる「最長源頭」に関しては記述さえ具体的ではなかったのです。
それはともかく、私たちは1968年12月13日からウガンダ国内のビクトリアナイルの偵察を行うと同時に、このダムの下流と、1kmほど上流にあるリポン滝(急流が残っていました)でボート類の機材準備などを進めました。
【撮影】伊藤 幸司=014
これはリポン滝から10kmほど下流のブジャガリ滝。キョウガ湖までの間の滝とサポート道路がだんだんはっきりと見えてきました。
【撮影】伊藤 幸司=156
私たちは国産のゴムボートと、折りたたみ式のアルミボート、それに小型の船外エンジン2台という基本装備で出かけてきました。後に島根県で政治家となる矢野潔が日本船舶振興会会長・笹川良一氏にアタックして、国産品ながら一式無料提供していただき、隊員全員に対しても、無事を祈念するありがたいおまじないまでいただきました。
【撮影】伊藤 幸司=099
私たちは1968年10月5日にインド洋のマグロ運搬船で清水港を出発。11月1日にマダガスカルのタマタブ港で下船。装備は大阪商船三井船舶のご厚意でケニアのモンバサ港まで送っていただいたので、通関の後ナイロビへ鉄道輸送。
じつは遠征計画に対する金銭的な支援がなかなか得られず、物品援助が膨大に膨れ上がって、現地で車が必要になり、1966年製のトヨタ・クラウンワゴン(約33万円。ケニア・ウガンダ国内で1万8000km走行後、約10万円で売却)を調達したのです。この当時、石原プロダクションの「栄光の5,000km」のロケが行われていて、その映画にニッサン車で出場して実写出演したジャミルさんの店で次から次へと調整・整備していただきました。
私は撮影担当でしたから朝日新聞社とNHK、他に平凡社、小学館からフィルムを受け取っていましたが、結果としてはすべて単純なレポート以上の記事にはなりませんでした。
【撮影】伊藤 幸司=240
『1968〜1969 早稲田大学 第一次ナイル河全域踏査隊』の「車輌」を見ると、購入時のようすが次のように書かれています。
———11.11 鈴木氏、井上氏、Mr.マリック、伊藤、田辺の5名で試運転。最高速度120km/h。エンジン音良好。ハンドルの遊び大。60km/h付近にて小さな振れ。右フェンダーに板金のあと。タイヤは1本が再生品。残4本のうち1本が坊主。次の条件で購入を決定。
(1)ホーンの接触修理、(2)フラッシャー右修理、(3)バックライト修理、(4)バッテリーチャージ、(5)ブレーキ調整、(6)キー作りかえ、(7)ジャッキ購入。———
【撮影】伊藤 幸司=06-09
たぶん、1969.4.21だと思います。ルワンダ南部の都市ブタレで西に約50km離れたキゲメに向かう小型トラックをみつけ、小川隊員とふたりで便乗。これはたぶん、その道中の光景だと思います。
【撮影】伊藤 幸司=07-09
ルワンダ南部のキゲメという小さな町だと思います。この母子は、そのスタイルから隣国ブルンジの主要民族であるツチ族だと思います。長身でかつて支配民族だったツチ族と、日本人に似た短足の農耕民フツ族との関係は、この当時はまだ表面的に穏やかで、紙幣にはルワンダ中央銀行総裁として服部正也さんのサインが入っており、ルワンダ開発銀行総裁の長田信夫さんはルワンダ全土のバス路線を整備していました。いわゆる「ルワンダ大虐殺」が勃発するのは1994年4月です。
【撮影】伊藤 幸司=08-11
私たちが町に入ると、ただそれだけですごいお出迎え。まるでシネマ・スターの登場みたいです。みなさんにはどういう噂が広がっていたのでしょうかね。
【撮影】伊藤 幸司=375
ナイル河の最長源頭があると考えられるニュングエ(豹)の森への道の最終集落はムシュビといい、教会のあるキゲメからは約20km。家の周りにバナナを植えれば主食だけは確保できるという家々が点在していました。
【撮影】伊藤 幸司=07
車が通れるような道があれば、その周囲には人が住んでいると考えていいのです。村などどこにもないと思っても、道をペタペタと歩いている人がいたりしますから、この人たちはそれなりの集落を構えているのだろうと思います。
【撮影】伊藤 幸司=09
赤道直下とはいえ標高2,000m超の山岳地帯が広がっていました。ニュングエ(豹)フォレストは現在ナショナルパークになっているそうで、小川隊員(2021年没)が近年水源問題に積極的に関わってきましたが、国立公園内での調査行動を認められずに、没後、早大探検部の現役部員たちの動きもむずかしくなってきたようです。
【撮影】伊藤 幸司=08
ニュングエ(豹)フォレストの最高峰はビググ山で標高2,997mのはずですから、このあたりはすでに高原地帯というよりは完全な山岳地帯。日本なら標高2,000mの美ヶ原高原からさらに伸び上がる高原です。戦後日本全国で開拓された帰国者の開拓農地は標高600mあたりがおおよそ限界で、酪農に命運をかけた富士山西麓の朝霧高原も標高700〜1,000mという標高です。これはアフリカ大陸中央部の、ナイル河とザイール川(コンゴ川)の水源が接する「コンゴ・ニル」ラインの風景というべきものになります。
【撮影】伊藤 幸司=339
キゲメには英国人医師のいる病院があって、その医師宅に泊めてもらうことができました。しかしナイルの水源に関する情報はありませんでした。もっとも首都キガリでわかったのはルワンダにナイル河の最長源頭があると考えていたのはドイツ人ばかりで、それは1898年にナイル河の水源地域として調査したドイツ人地理学者カントの存在があったからだと思われます。
最終集落というべきムシュビの教会で世話になったベッテントラップ神父もそういうドイツ人のひとりで、1961年にその「カントの水源」を探しに出かけてみたということでした。
【撮影】伊藤 幸司=392
ムシュビから十数キロ先にニュングエ(豹)の森の入口がありました。そこは山仕事をする人々の開拓村という感じでした。私たちには即座に家が与えられ、鶏料理に胎内のタマゴを大〜小きれいに並べるといったごちそうも。要するにガイドを求める外国人として勝手に受け入れられてしまったのです。
【撮影】伊藤 幸司=398
4月23日にガイドを雇って……すでに政府発行の地形図(植民地時代のベルギー製地図)をチェック済みでしたから、「ルカララ」という沢をたどって、「最初の一滴」と思われる泉に到着しました。ザイール川との分水嶺に達すればそれで十分、と考えていたのです。
小川隊員はその前に隣国のブルンジに小さなピラミッド型記念碑の立っている「ナイル河最南源頭点」を訪ねていて、その留守に私(伊藤)が首都のキガリで地図資料を集めていたのです。
だからそれをすなおにたどってみればいい……という気分でしたが、使用した地図(オフィシャルマップ)がまったく役に立たないということが判明して、きちんと確かめなくてはならないということになったのです。
私たちはキゲメの教会に戻り、ベッテントラップ神父から針金を10mもらい、分度器を借りて板にその目盛りを写しました。方位磁石だけは自前で、簡易測量の3点セットを用意して、ニュングエの森に引き返したのです。これで方位と距離をかなり正確につないでいける簡易測量が可能になりました。
【撮影】伊藤 幸司=395
豹の森とは神秘的でしたが、ヒョウはいないとのこと。……となると怖いのは毒蛇だと私たちは考えていましたが、地元の人たちにとって一番怖いのは兵隊アリだそうです。まちがって一歩でもその列に足を突っ込んだら、死ぬ苦しみだそうです。小川隊員が一度その危険に触れたそうですが、さいわい、わたしたちはそれ以上のハプニングを経験することなく、3日間の作業が終了しました。
【撮影】伊藤 幸司=397
測量人夫は1日目3人、2日目4人としましたが、みんな気持ちよく、一生懸命働いてくれました。
【撮影】伊藤 幸司=387
これが私たちが突き止めたナイル河6,740km(当時の日本での公称値)の「最初の泉」です。この奥へ少し進むと小さな尾根の向こうに流れ出た水はザイール川(コンゴ川)に注ぐのだ、という実感がありました。
【撮影】伊藤 幸司=03
私たちはそこに「ナイル河源頭」というプレートをかけたのです。
【撮影】伊藤 幸司=404
4月1日、私たちはウガンダ最南端部のニュングエ(豹)の森から最北端部のカリシンビ火山群のマウンテンゴリラの森に移動していました。標高約2,500mのキジョテという集落から標高4,507mのカリシンビ山への登山を開始したのです。
ルヘンゲリという町の博物館で出会った高校生・フランソワを通訳として、ガイドを2人とポーターを傭って出発したのです。パイプを吸うこのミヒゴはピグミーとバンツーの混血部族バトゥワ族の猟師だそうで、槍扱いの腕前には驚くべきものがありました。
*『アウトドア事典』(主婦と生活社・1984)この複写ページは拡大できます。
【撮影】伊藤 幸司=413
野営したのは標高3,500mを超えたあたり。簡単な小屋掛けをして、焚き火をたいて、ガイド2人は犬を連れて猟に出て、小型のカモシカ(ダイカー)を射止めてきた。
【撮影】伊藤 幸司=14
マウンテンゴリラの生息環境を備えたビルンガ火山群は遠くから見ると富士山を並べたような感じですが、なにしろ熱帯の山。森林限界は4,000mあたりにあって、この日は6時に起床して11時過ぎに登頂、下山しました。
【撮影】伊藤 幸司=ナイル河最長源頭点・実測図
【撮影】伊藤 幸司=ナイル河源頭部道路図(1/250,000)
【撮影】伊藤 幸司=道路実測図面1
【撮影】伊藤 幸司=道路実測図面2
【撮影】伊藤 幸司=道路実測図面3
【撮影】伊藤 幸司=ニュングウェ フォレスト水系図1/250,000
【撮影】伊藤 幸司=ルカララ川実測図面1
【撮影】伊藤 幸司=ルカララ川実測図面2
【撮影】伊藤 幸司=ルカララ川実測図面3
【撮影】伊藤 幸司=ルカララ川実測図面4
【撮影】伊藤 幸司=ナイル隊報告書
この報告書の「出発までの記録」を読むと、———1967年6月。若手OBによる「1967ナイル河探査計画」が実行不可能となり、現役側にその旨、報告があった」———なんですね。自分で書いたレポートなのに完全に忘れていました。
———1967年9月。上(上幸雄。後に日本の街や山小屋に新しいトイレを導入する運動体を日本トイレ協会として展開する)、伊藤の2名が中心となり、現役としての遠征を考え始める、実現性をめぐって、部内的な情報活動」———
そして———1967年12月。「1968年 早稲田大学ナイル河全域踏査隊」が発足した。———
そして約10か月後、1968年10月5日清水港からまぐろ中積み船(インド洋で釣り上げたマグロを集荷・運搬のための空船)で出発。帰路は1969年6月10日にマルセイユ(フランス)を出港したフランス郵船の格安客船に上幸雄、田辺武昭が乗船、6月10日にモンバサ(ケニア)で伊藤幸司、矢野潔、小川渉が乗船して、7月7日に横浜到着。隊としての行動は9か月となりました。
帰国後、私(伊藤)は撮影した写真の後処理のために出版各社との関係をもちながら、銀座一丁目にあったフォトエージェンシーに机をもらい、連絡オフィスとしながらこの報告書の編集作業をすすめました。そこにはデザイナーも事務所を置いていたので、そのアドバイスをもらいながら「簡易オフセット印刷」の本造りを初めて体験したのです。カメラマン志望でしたから文章にかかわるのは苦手でしたが、この報告書(全214ページ)をまとめたことで、「記録」や「報告」「発表」ということに関する興味を抱くことになったのです。
この報告書の発行日は1970年6月10日となっていますが、ちょうど刷り上がる日程で、全国の大学の探検部、山岳部によびかけられた「たんけん会議」(6月5〜7日)が白馬の法政大学白馬山荘で開かれたので、報告書を抱えて出かけたのです。東京農大探検部創設者の向後元彦さん(1988年・岩波新書「緑の冒険—沙漠にマングローブを育てる」)や上智大学探検部創設者の礒貝浩さん(ぐるーぷ・ぱあめを主宰。1963年「ヨーロッパをヒッチる」、平凡社カラー新書「風船学入門」、「東西国境十万キロを行く!」など)が主催者側の中心でした。私はまず向後さんの日本観光文化研究所に20歳代後半どっぷりつかり、同時に礒貝さんのぐるーぷ・ぱあめで写真編集の仕事に関わることになるのです。……おかげで古巣の早大探検部ではOB会組織を固めたあと、しだいに疎遠になりました。