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★アムカス探検学校アフリカ・カメルーン
1972.7.29-8.28

★2011年に「アムカス探検学校」の資料をデジタル化したようですね。すでに永いことホームページの「未整理・糸の会のいろいろ」欄に置いてありましたが、今回それを写真中心にリメーク。いまや自分で読んでも記憶のはるか向こう側に行ってしまったような【伊藤 幸司の日記】もページ末にそのまま再録しておきました。


エジプト・カイロ

*7.29(14:45)羽田→7.30(06:15)カイロ
*7.29〜30 カイロ滞在



あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=001

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=003

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=004
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あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=005

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=008

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=010

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=011

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=019

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=021

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=022

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=027

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=029

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=031

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=033

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【撮影】伊藤 幸司=034

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【撮影】伊藤 幸司=035

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【撮影】伊藤 幸司=037

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=038

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【撮影】伊藤 幸司=039

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【撮影】伊藤 幸司=041

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【撮影】伊藤 幸司=043

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【撮影】伊藤 幸司=044

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=046

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=047

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【撮影】伊藤 幸司=050

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=052

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【撮影】伊藤 幸司=054

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=055

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=059



ナイジェリア・ラゴス

*8.1(10:00)カイロ→(13:25)ラゴス(ナイジェリアの首都)
*8.1…午後と翌日ラゴス滞在。
*8.2(18:30)ラゴス→(20:00)ドゥアラ(カメルーンの商都・旧英領)



あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=062

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=063

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【撮影】伊藤 幸司=065

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【撮影】伊藤 幸司=066

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【撮影】伊藤 幸司=070

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【撮影】伊藤 幸司=073

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【撮影】伊藤 幸司=074

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【撮影】伊藤 幸司=076

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【撮影】伊藤 幸司=078





カメルーン・ヤウンデ

*8.3(20:30)ドゥアラ→8.4(07:00)ヤウンデ(夜行列車)
*8.4〜8首都・ヤウンデ滞在
*8.7 午前中に各人、旅程に従って行き先国のビザ取得。A班は9.2にドゥアラからまっすぐ帰る3人で、B班の2人は西アフリカへの完全な自由旅で9.25にカイロに到着できない場合には連絡するという約束。私たちC班(13人)は8.25にドゥアラに集合して、ザイールへ。ザイール川をさかのぼって東アフリカへ。……と確定。
*なおカメルーン国内では、4人が別行動となって、旧英領のカメルーン山の麓、ジェラルド・ダレルが動物園に送る動物を集める仕事の顛末を書いた『積みすぎた箱舟』(1960年・暮しの手帖社)の舞台を見にいきました。



あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=081

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=083

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【撮影】伊藤 幸司=084

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【撮影】伊藤 幸司=088

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【撮影】伊藤 幸司=091

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【撮影】伊藤 幸司=093

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【撮影】伊藤 幸司=096

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【撮影】伊藤 幸司=098



ヤウンデ→マルア

*乗り合いタクシー(同一運転手の1台で3日間通し)で最北の都市・マルアへ
*8.8(09:30)ヤウンデ→(24:30)メイガンガ
*8.9(07:15)メイガンガ→(11:00)ガウンデレ
*8.10(07:00)ガウンデレ→(12:15-13:40)ガルア→(17:40)マルア



あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=100

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【撮影】伊藤 幸司=101

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【撮影】伊藤 幸司=102

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【撮影】伊藤 幸司=103

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【撮影】伊藤 幸司=106

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【撮影】伊藤 幸司=112

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【撮影】伊藤 幸司=113

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【撮影】伊藤 幸司=116

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【撮影】伊藤 幸司=118

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【撮影】伊藤 幸司=124

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【撮影】伊藤 幸司=125

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【撮影】伊藤 幸司=127

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【撮影】伊藤 幸司=128

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【撮影】伊藤 幸司=129

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【撮影】伊藤 幸司=130

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【撮影】伊藤 幸司=133

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【撮影】伊藤 幸司=135

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【撮影】伊藤 幸司=136

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【撮影】伊藤 幸司=137

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【撮影】伊藤 幸司=139

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【撮影】伊藤 幸司=140

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【撮影】伊藤 幸司=143

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【撮影】伊藤 幸司=145

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【撮影】伊藤 幸司=146

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【撮影】伊藤 幸司=147

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【撮影】伊藤 幸司=148

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【撮影】伊藤 幸司=149

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【撮影】伊藤 幸司=150

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【撮影】伊藤 幸司=151

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【撮影】伊藤 幸司=153

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【撮影】伊藤 幸司=156

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【撮影】伊藤 幸司=158

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【撮影】伊藤 幸司=159

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【撮影】伊藤 幸司=162

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【撮影】伊藤 幸司=166

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【撮影】伊藤 幸司=167

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【撮影】伊藤 幸司=168

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【撮影】伊藤 幸司=169

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【撮影】伊藤 幸司=170

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【撮影】伊藤 幸司=180



マルア滞在

*8.11-17 カメルーン最北の都市・マルア
*ここは往路の乗り合いタクシーのオーナー兼ドライバー氏の地元。キャンプ場にベースを置いて自由行動。



あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=181

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【撮影】伊藤 幸司=183

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【撮影】伊藤 幸司=184

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【撮影】伊藤 幸司=186

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【撮影】伊藤 幸司=187

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【撮影】伊藤 幸司=188

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【撮影】伊藤 幸司=190

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【撮影】伊藤 幸司=191

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【撮影】伊藤 幸司=192

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【撮影】伊藤 幸司=194

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【撮影】伊藤 幸司=195

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【撮影】伊藤 幸司=198

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【撮影】伊藤 幸司=201

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【撮影】伊藤 幸司=204

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【撮影】伊藤 幸司=211

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【撮影】伊藤 幸司=213

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【撮影】伊藤 幸司=216

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【撮影】伊藤 幸司=221

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【撮影】伊藤 幸司=223

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【撮影】伊藤 幸司=232

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【撮影】伊藤 幸司=233

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【撮影】伊藤 幸司=235

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【撮影】伊藤 幸司=237

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【撮影】伊藤 幸司=239

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【撮影】伊藤 幸司=242

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【撮影】伊藤 幸司=243

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【撮影】伊藤 幸司=244

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【撮影】伊藤 幸司=246

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【撮影】伊藤 幸司=247

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【撮影】伊藤 幸司=248

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【撮影】伊藤 幸司=249

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【撮影】伊藤 幸司=261

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【撮影】伊藤 幸司=262

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【撮影】伊藤 幸司=265

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【撮影】伊藤 幸司=266

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【撮影】伊藤 幸司=267

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【撮影】伊藤 幸司=268

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【撮影】伊藤 幸司=269

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【撮影】伊藤 幸司=271

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【撮影】伊藤 幸司=273

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【撮影】伊藤 幸司=275

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【撮影】伊藤 幸司=277

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【撮影】伊藤 幸司=280

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【撮影】伊藤 幸司=281

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【撮影】伊藤 幸司=282

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【撮影】伊藤 幸司=284

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【撮影】伊藤 幸司=286

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【撮影】伊藤 幸司=289

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【撮影】伊藤 幸司=290

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【撮影】伊藤 幸司=293

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【撮影】伊藤 幸司=294

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【撮影】伊藤 幸司=295

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【撮影】伊藤 幸司=297

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【撮影】伊藤 幸司=298

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【撮影】伊藤 幸司=299

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【撮影】伊藤 幸司=301

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【撮影】伊藤 幸司=309

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【撮影】伊藤 幸司=321

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【撮影】伊藤 幸司=324

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【撮影】伊藤 幸司=326

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【撮影】伊藤 幸司=330

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【撮影】伊藤 幸司=334

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【撮影】伊藤 幸司=335

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【撮影】伊藤 幸司=336

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【撮影】伊藤 幸司=337

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【撮影】伊藤 幸司=338

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【撮影】伊藤 幸司=339

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【撮影】伊藤 幸司=340

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【撮影】伊藤 幸司=342

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【撮影】伊藤 幸司=347

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【撮影】伊藤 幸司=348

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【撮影】伊藤 幸司=350

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【撮影】伊藤 幸司=362

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【撮影】伊藤 幸司=382

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【撮影】伊藤 幸司=386

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【撮影】伊藤 幸司=389

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【撮影】伊藤 幸司=390

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【撮影】伊藤 幸司=391

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【撮影】伊藤 幸司=393

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【撮影】伊藤 幸司=395

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【撮影】伊藤 幸司=396

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【撮影】伊藤 幸司=398

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【撮影】伊藤 幸司=401

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【撮影】伊藤 幸司=405

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【撮影】伊藤 幸司=406

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【撮影】伊藤 幸司=407

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【撮影】伊藤 幸司=408

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【撮影】伊藤 幸司=411

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【撮影】伊藤 幸司=412

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【撮影】伊藤 幸司=413

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【撮影】伊藤 幸司=415

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【撮影】伊藤 幸司=416

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【撮影】伊藤 幸司=417

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【撮影】伊藤 幸司=418

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【撮影】伊藤 幸司=419

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【撮影】伊藤 幸司=421

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【撮影】伊藤 幸司=423

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【撮影】伊藤 幸司=424

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【撮影】伊藤 幸司=426

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【撮影】伊藤 幸司=427

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【撮影】伊藤 幸司=429

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【撮影】伊藤 幸司=431

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【撮影】伊藤 幸司=433

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=438

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【撮影】伊藤 幸司=439

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=440



マルア→ヤウンデ→ドゥアラ

*8.18-20 乗り合いタクシーでマルア→ヤウンデ
*8.21-25 首都・ヤウンデ滞在
*ここでカメルーン探検学校は終了。
*A=帰国組、B=西アフリカ組、そして私たちC=東アフリカ組とそれぞれが次のステージに向かうことになりました。
*8.26-28 C=東アフリカ組が鉄道で順次ドゥアラに集結。
*8.29 ドゥアラから飛行機で08:30キンシャサ(ザイールの首都)着。



あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=442

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=443

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【撮影】伊藤 幸司=444

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=447

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【撮影】伊藤 幸司=449

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=454

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【撮影】伊藤 幸司=455

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=460

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=461

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【撮影】伊藤 幸司=462

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=464

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【撮影】伊藤 幸司=468

あむかす探検学校1972・カメルーン〜ザイール〜ケニア
【撮影】伊藤 幸司=470



アフリカ探検学校1972・リーダーノート+α


7月29日(土)第1日

【伊藤幸司の日記】

●リーダー、集合に遅れる
 アムカスの事務所に寄って、昨夜帰京したアフガニスタン探検学校のリーダー西山さん(西山昭宣・1967−68西部ネパール民族文化調査隊)と神崎さん(神崎宣武・1967−68西部ネパール民族文化調査隊)に旅の様子を聞く。アフガニスタンがおさわりの本場であり、女性の中にはちょっと怖い思いをした人がいたらしいことは、昨夜参加者を車で送る途中に聞いていた。
 実際、初めのころ、女の子ふたりが車に乗せてもらったところ、言葉の通じないせいもあったらしいけれど、思わぬ方向へ連れ去られそうになって、走っている車から飛び降り、ひとりが頭を打って数日寝るという事故があった。
 また、帰京直前になってパスポートなどを盗まれた人が出た。幸いカーブル大使館には西山さんの同級生が居たため、写真を撮り、至急電報を東京に打って、3日ですべての書類を整えたという。役所回りの手順もなかなか大変だったらしく、手順がひとつ違えば、彼女とリーダーのひとりが現地に残ることになり、我々のささやかな事故対策費はゼロになっていたところだったという。

 出発直前にこのふたつのことを聞いたのは、ぼく自身の気持ちを引き締めるうえで貴重だった。が同時に、女性の多いグループをアフリカ狭しと引き連れ、しかもすべての国に日本大使館があるわけでなく、もっと悪いことには、予算を安く見積もりすぎたためにアムカスとしては全く不本意ながら、18名の正規参加者にリーダーはぼくひとりである。何か事故が起こったら小川渉君(1968−69早大探検部ナイル河全域踏査隊)が直ちに飛んでくれるように手はずは整っているものの、ただひとつのミスでこの計画はあらゆる点で無謀と非難されるだろう。
 ぼくが非難されても、もともと吹けば飛ぶような男だから道義的に最善を尽くす以外になすすべき何ものも無いのだが、なによりも18名の参加者に申し訳ない。45万円以上の費用と、42日、あるいは60日の期間を捻出するために、全員が苦しい思いを噛みしめてきたはずである。
 ぼくらのような正体不明の素人集団の頼りない企画に参加しようとする人たちは、例外なく金持ちではなかったし、それぞれ思い切った旅に出る必然を背負っている人たちだった。今回も恐らくそうに違いない。

 西山さんたちと話しながら、今まで何度かのミーティングで説明してきたこと、手渡したプリント類、そして一応確立させた連絡システムとチーム行動の原則論、そんなさまざまなことをチェックして、事務所の藁のはみ出したソファーを立った。
 12時25分。高速道路は渋滞によりいくつかのランプが閉鎖され始めたとカーラジオで聞いていたので、モノレールの時間ぎりぎりまでアムカスに居たのである。8月にセレベスに帰るグループ木子の森本孝さん(立命館探検部OB)が見送ってくれるという。
 13:10 何故か10分も遅れてしまった。「日時の約束を守ることが、ぼくたちのような寄せ集めの素人チームには最も大切なことです。大事な約束はお互いにメモを交わした上で、必ず予備費、予備時間をとってください」と、つい1週間前、ぼくははっきりと確認したし、全員の署名ももらった「確認書」の中でも丸印をつけてある。リーダーが真っ先に違反したのである。

 モノレールの中で、ぼくと森本さんはすでに全員が集まっているかどうか予想しあってみた。毎回ひとりは場所を間違えたりして遅れることがあった。しかし身勝手な言い分だが、ぼくは全員そろっていると半ば信じていた。
 JALの広いカウンターの奥に申し訳程度にエジプト航空の立て札があり、人混みの中に、チラリチラリと知った顔が見えた。
 皆のザックはどこに集めてあるのかな? と経験者面をして探すうちに、中井さん(中井実。早大探検部OBでアムカス探検学校の旅行手配担当。川崎航空サービスに籍を置くフリーランス)が出てきて「最後だぞ、もう全部チェックインしてしまったから、早くしろ!」と学生時代を思わせる恐ろしい眼差し。チェックインの前に分配しようとした一般薬品の扱いに手間取っているうちにザックだけがサッとカウンターの向こう側へ。リーダーがひとり仲間はずれにされたような鮮やかさであった。
 14:45発の飛行機に13時の集合。ぼくは30分の余裕を見て時間を決めていた。ぼくが遅れたのを考慮してもなかなかの手際よさなのに、時間はアッという間に過ぎてしまう。
 待合室でせかされながらコーラを飲み干し、渡航手続き担当の中井さんと最後の打ち合わせを終えると、もう出国手続きの時間である。今度は5分前に赤絨毯の端に立つと、時間通りに全員がそろった。

 全員がそろったかどうか必死に顔と名前を思い浮かべながら、やはり18人は多いなあとつぶやかずにはいられなかった。その代わり、メンバー全員がそのことを強く自覚してくれているのが、今までの1時間ちょっとでありありと感じられたので、以後、人員点呼はできるだけすまいと決心する。
 ぼくが時間に遅れ、その代わりチェックインがあまりにも迅速におこなわれたので、外国製品の携帯出国証明はできていなかった。もとより時計や宝石を持つお大尽がいるはずがないが、フィルムは心配だった。アフリカで2か月旅するとなれば、絶対にコダックの使用が好ましく、全員がその指示に従っていた。ぼくの180本、写真科学生のカメラ君、オットリ君の100本を始めとして、みんな20〜50本は持っている。帰りに税金をかけられるとバカにならぬ金額である。そこで通関テクニックの中で、20本ぐらいはショルダーバッグに入れて機内に持ち込み、残りは紙袋などに包んでさりげなくザックの奥に入れるよう指示している。とにかく今となっては仕方のないことである。
 探検学校カリキュラムの第一科は、図らずもリーダーの側にあった。「時間設定に関しては十分な予備時間を!」

 予想以上に出国通関が厳重で、全員が手荷物を開けられる。ポケットのたくさんついたズボンをはいていた編集氏はそこまで調べられ「ボクは日本で怪しまれる顔なのかなあ」としきりにつぶやく。
 税関、検疫、出国管理、この3つがどこでどうなっているのか混乱している。パスポートを慌てて取り出したり、役人に何か質問されてしどろもどろになったり、そういうお上りさん風景を眺めていると飽きない。
 彼らを、自由に国境を越えて歩けるようにするまでには、出国・入国を何回ぐらい繰り返せばいいのだろうか。リーダーが目に見える活躍のできるのはそういうテクニックの場面だから、今後のスリリングな場面を期待して思わずニヤリとする。全員が手続を終えたところで最初のミーティング。帰りは彼らだけで出入国してくる予定だから、今の手続を簡単に説明して、大ざっぱな流れを頭に入れてもらう。

 見送りの何人かがガラスの向こうに見えたので、全員でそちらに移動。アニメーションディレクターのアニメ氏は個人チケットを持つ準メンバーで、唯一の既婚者。彼の奥さんと風貌に似ずしんみりとした別れ。同じく準メンバーのテーラー氏は六本木の洋服屋さん。彼はハウサ語とスワヒリ語の類似語を探しては「西も東も同じような言葉を話しているぞ。これはおもしろい!」などと独特の鼻を利かせる人だ。途中で参加をとりやめたKUNIKOさんと話そうとして「これはひどい、いやらしいなあ」と会話用の窓をいじっている。小さな穴の開いたプラスチックの丸窓で、ご丁寧に2枚をずらせてはめてある、あれである。液体も粉末も、まず絶対に通せないようになっている。かれはKUNIKOさんをほったらかしにして、怒りと感激に満ちた観察をしている。
 ぼくはといえば、免税のパイプ煙草をしこたま買い占めようと用意してきた千円札何枚かが役立たずになって、空港の売店をさげすみの目で見回していた。

●飛行機は飛び上がった
 15:15 エジプト航空のMS865便は約30分遅れて離陸。バスでかなり遠くの機体まで運ばれたので、見送りの人たちにはどの飛行機かわからなくなったと思われる。緑の線が入った地味なデザインのボーイング707で、テーラー氏はグライダー乗りでもあることから、ここでも主翼の下を覗いて「機体ナンバーがない。どう考えてもおかしいゾ」と考え込んでいる。
 機内は予想通りのいやらしい狭さだ。エコノミーは左右3人掛けの座席が28列。168人である。ぼくらは19〜23列の20座席を占めた。19列目に非常口があるので、そこだけは足を伸ばせる空間があり、他人を立たせなくても通路に出られる。しかし主翼の中心部だから景色は見にくい。
 18名+2名。ぼくらのグループの中で、国際線の経験者は5人。それでも離陸順を待つ間にみんな読書灯をつけたり、風量調節をしたり、なかには肘掛けをはずすことまで知れ渡った。
 ところが Fastn Seat Belt のサインが出ているのでスチュワードに注意されたり、リクライニングを直されたり、テーブルを畳まれたり、やはり基本的なことがらは理解しておきたい。
 みなに救命具の使い方などの説明書を読むようにいおうとしたが、ベルトを締めたときの姿勢の取り方などのパンフレットがない。あちらでもこちらでも頭の禿げかけたアラブおじさんが同じ注意を繰り返しているのを見て、ボクは成り行きに任せた。いずれ滑走体勢にはいるまでには、彼がひとりひとり注意しいていくだろうから。

 ジェット機特有の加速の後、機はフワッとした感じを残して、もう東京湾上空にあった。
 やはり東京はよどんでいた。10分ほどで海が青々と見え始める。船の白い航跡を見つけて、初めて高度感がつかめる。内陸部は厚い雲で覆われ、富士山も見えなかったけれど、眼下の海岸線はよく見える。ただし、それがどこなのか、いつものことながら100万分の1の地図は持ってくるべきだったと思う。みな3人ずつがひとつの窓に顔を集めて夢中である。
 テーラー氏がまたまた彼の力を発揮した。若いスチュワードを腰掛けさせて、アラビア語会話の質問をしている。しばらくしてエジプト航空の有泉さんがやってきて、彼も知っている会話を教えてくれる。すぐにメモが回ってくる。あちこちでカタカナ発音の「サイーダ」「ショクラン」の声が聞こえる。

 機内でのぼくの仕事は、メンバーに対するインタビューである。アフリカのイメージ、アムカスとの出会い、参加を決心するまで、出発前の心理、45万円の重み、今までにした旅……などを聞こうというのである。これはもちろん、ぼくが仕組んだ実験データのひとつになるのだが、それ以上にメンバーの性格などを早くつかむためにも必要だと考えていた。今まで何回かのミーティングがあったとはいえ、ぼくはあくまで全員に向かって平均的な態度で話しかけたに過ぎないし、まだチームワークのできないうちから特定の個人と深く話し合うのは、どうもこだわりがあったのである。
 ぼくたち<18プラス2>がどのような人種かというと、まず大学生が4人。そのうちふたりは写真家の卵である。サラリーマンと呼べるのは3人いて、27〜29歳で、アムカスとしては非常に興味を感じる層である。ただ、3人とも工業デザイナー、編集者、アニメーション・ディレクターで、どちらかというと特殊な分野の人々である。
 それに対してオフィスレディと呼べるのは5人で、他に看護婦さんふたりと芝居の着付け屋さんがいる。稼業の手伝い兼花嫁修業が3人いて、これで18人。あとはテーラー氏と、いっこうに写真を撮らない自称カメラマンのぼく。
 男女の比率では8対12で女性が多い。年齢では20歳と35歳の間で平均25.5歳と出る。
 ぼくたち20人がこれからどこへ行き、何をしようとするのかは、ぼくら自身がよくわからない。ただ、リーダーであるぼくは「アフリカの空気を吸ったんだ」と思ってもらえればいい。

●参加メンバーとの堅苦しい会話
 エジプト航空MS865便は最初の寄港地バンコックに向かって飛んでいる。ようやくのことで、ぼく本来の仕事、機内でのインタビューを開始した

◎ヨシ子さん
 まず、隣に座っているヨシ子さんにいろいろ聞いた。彼女は農獣医学部で食品工学を専攻したという。ロイアル・インター・オーシャンというオランダ客船の一等で、友だちと2人、香港・マカオの卒業記念旅行をしたという。大学1年のときには動植物研究会という大仰な名のクラブで沖縄合宿に参加し、2か月間蝶を追いかけたり、草をむしったりしたそうである。ところがそれも沖縄合宿に参加したいために便宜上入部しただけで、べつに動植物に特別の興味があったわけではないらしい。
 かなり要領のいい人らしく、色気も多い。色気といっても女っぽさのほうではなく、わりと目移りのしやすい人なのだ。「蝶をとろうかな」と言ったかと思うと、今度は「インド洋のセーシェルズ諸島にはモンバサ(ケニア)からいくらぐらいで行くの?」と聞く。弟さんがここ1年ほどヨーロッパを放浪しているとかで、カイロで待ち合わせて、大金を手渡す手はずを整えている。お金持ちのお嬢さんらしいが、化粧もせず、ヒップのあたりがテレンとした乞食スラックスが、また妙に身についた人でもある。
 家が工務店らしく、今までは家業を手伝っていて、今回の旅に関しては父親をつまはじきにしてお母さんから大金をせしめたらしく「お嫁に行くから行かせてよ!」と啖呵を切ったという。

◎ミッキー
 リツコさんとミッキーは高校時代の同級生で、今回の参加者の中ではただひと組の友人である。
 「リツコとは高校時代からどこか、アフリカかアマゾンへ行こうと約束していたの。具体的には昨年の冬から東アフリカへ行こうと計画したワケ。もちろん家族に言っても駄目に決まっているから、既成事実をつくってしまおうというんで、一度は船の予約までしたの。そしたらちょうどアムカスの記事をリツコが見つけたというワケ」
 アフリカへ2人だけで行くなんて、全然不安はなかったのだろうか。
 「全然ないわ。行くんなら初めからアフリカか南米に決めていたから」
 彼女は大きな目をどちらかというとギョロつかせながら、恐ろしい言葉を平気で言う。若い女の子は恐ろしい。4年間で90万円を貯めたというのも、すごい。
 彼女はテレビ局でコマーシャルの時間を計る係であったという。
 「うちの会社は25歳が女子の定年でしょ。会社に2か月の休暇を申請したら、それが認められないんだ。家には1か月の休暇が認められなかったからと言って、ごまかして退職したの。どうせ25歳までしか勤められないんだし。でも4年間が2か月にも値しなかったのはショック。女は消耗品って感じ。男の場合だと1年間休職させることもあるのに。結局開き直って辞めたワ」

◎リツコさん
 「私も退職。会社は2か月の休暇を出して前例を作るのが怖いみたい。でも思ったよりは多く退職金が出たので、ちょっぴり感激した」
 「20日に会社を辞めて、10日近く時間があったけれど、その間に何度も送別会をやってもらったりして、家に帰るたびに行きたくなくなったりしたの」
 彼女は事務機メーカーに勤めて2年目。髪を短くしたら子どもっぽくなっちゃったと言う。さっぱりした性格らしく、まだまだ若い感じ。会社ではかなり可愛がられたのだろう。
 「会社を辞めたのに、社内報に紀行文を書いてくれといわれたし、みんなにお土産も買って行かなくちゃならないし、たいへんだァ。でも送別会のたびにカンパが集まったから仕方ない」
 「私は山とスキーだけが趣味。着るものなんてほとんど金をかけないし、山だって安いものよ。月に2回は行っていたから、ここ半年はそれも少しセーブするのがちょっと苦しかった」
 初めてアムカスに現れたとき、彼女たちはすでに東アフリカに行くと言っていた。いつ頃、どういうタイミングでこれに参加することを決めたのか?
 「あの日、帰り道で即決したの。2人だけで行くと言っても絶対親の反対があったから、こういうグループに参加するんだと言って認めさせなければならなかったから」

◎クリちゃん
 時代劇の衣装会社で着付けをやっているクリちゃんは、裏方のイメージとは違って、なかなか自己主張の強い女の子である。彼女も若い。夢中になると声が甲高くなって、早口になる。前の座席の真ん中に座っているのだが、風景を見ようとして肘掛けをはずし、Fastn Seat Belt の表示も、カーディガンかなにかでごまかして、離陸からずっと身を乗り出して外の風景を見ていたほどの人だ。
 初めに会ったときからアフガニスタンとチリに行ってみたいと言っていた。残念ながらアフガニスタン探検学校の募集が締め切られていたので、やむなくアフリカに参加したようなところがある。しかし見ていると彼女にはむら気なところがあって、口で言うほどに論理的な思考をしているのではなさそうだ。だから初めから、アフリカにでもアフガンにでも、行ければどちらでもよかったのだろうとぼくは勝手に考えていた。
 「みんな会社を辞めた人が多いでしょ。私は辞めたかったけれど、辞めさせてくれないので、3か月の休暇なの。仕事はとてもおもしろいわ。時代劇で役者さんの着付けを手伝うの。公演中は帝劇やコマ劇場なんかに詰めているんだけど、巡業もあるし、それに時代考証を教わりながら衣装を選んだり、時代や階層に合った帯の締め方を勉強できたりで、とてもおもしろい。でもああいう世界は職人的だし、封建的で、対人関係がむつかしいの。社会音痴になるって感じ」
 「今はやりたいことがたくさんあって、何でもやってみたいなあ。今年中には外国へは出たかったし、自分のお金を使うんならアメリカやヨーロッパには行く気がしなかった。アフリカはここが観光地だというようなところじゃないでしょう。流れるままに見てみたいの。アフリカそのものが観光地でしょ」

◎オットリ君
 スカGを乗り回している金持ちのボッチャンらしい。スキーに凝っていると言うから、恐らくロシニョールあたりをはいているのだろう。絵解きは簡単でロシニョールのシャツを好んで着ている。
 彼はもともと全体的に参加したのではない。彼のおじさんというのが一代で会社を興し、馬を10頭近く持っているという豪傑タイプで、アムカスによく飛び込んでくる50歳代のおじさんたちの例に漏れず、気持ちはめっぽう若い。彼はそのおじさんの通訳みたいな役回りで連れて行ってもらうことになっていた。
 ところが主役のおじさんが仕事の都合で参加できなくなり、彼ひとりがやってきた。幸運な人だ。大学の欧州旅行かなにかでロンドンとパリに2か月近くいたこともあったらしいが、芸術系大学の写真科の4年にもかかわらず、写真で金を儲けようなどという狭い了見はもっていない。実にオットリした人だ。
 「スポンサーが消えてから、アフリカに対するイメージがはっきりしてきたみたい。ぼくはあれを見たいとかこれを見たいとかはないんです。しいて言えば地面に立ちたいといった感じかな」
 隅田川からさらに荒川放水路を越えた低地帯の住人で、ぼくの家から車でひと走りのところである。ぼくのよく知っているわりと有名な都立高校の出身なのだが、彼のボンボンムードは、ゼロメートル人のぼくからすればかなり異質である。

◎ボンヤリさん
 オットリ君と同じような意味で目につくのが神田っ子の彼女。
 「わたし頭を使うのは苦手ですけれど、体力には自信があるの。大丈夫かしら」
 テニスとスキーにかなり凝っている。のっぽである。鷹揚なところを通り越して「すいません、ボンヤリしちゃって。わたしってダメなの」
 とにかく、独特のムードをもっている。
 「わたしは新聞で見た瞬間に行くことを決めました。今まで品行方正だったから、お金も両親の説得も確信があったの」
 「文明国以外に行きたいなぁと思ってはいたけれど、アフリカには行けないという感じだったわ」
 彼女にはこの旅の最初の配布資料「アフリカ文献目録——邦文単行本を中心として」のコピー用原稿を書いてもらった。

◎ベビーちゃん
 大学の4年生。文化人類学に興味を持っている心理学専攻。ボンヤリさんとかけあい漫才をして、ずっと笑い転げている。
 「自分しか頼れない旅をしてみたいんだワ。バカさと貧乏ってとこかな。土の匂いの中で自分を見直すのも悪くない。——かっこいいこと言うでしょ。ア・ハ・ハ・ハ」
 「私って、暗示にかかるとスンナリいくみたい。だけど生活の知恵として、今回は逆にうんと悲観的に構えたんだ。ショックを少なくするように。これがテよ。故郷に帰って1週間かかって親を説得させたんだから」
 「前から向後さんの名前や、アムカスの動きは知っていたけれど、本格的に行こうと動き始めたのは5月頃からかな」
 彼女はJAGAというグループの「タンザニアでンジャマ共同体に入ろう」という計画にも顔を出していて、そこでカメラ君とは顔を合わせていた。
 今回の参加者の中には、別の企画に顔を出していた人、アフリカ関係の講演会などに足繁く通っていた人、自分で安いルートを探してみた人など、さすがアフリカに行こうというだけあって活動家が多かったようだ。


7月30日(日)第3日

【伊藤幸司の日記】

●日本人観光旅行団となる
 羽田から22時間の長旅の倦怠を吹き飛ばすように、夜明け前のカイロ空港は紫色の大気に包まれていた。
 カイロ——ぼくのカリキュラムに従えば、ここは入国手続(イミグレーション)の概要を知ってもらう最初の関門である。エジプトでは、空港で1週間の観光ビザを取得できる。日本の「査証ハンドブック」によれば、団体の場合は日本でビザを取っておいた方がよいという注釈がついているが。
 それにかなり厳しいはずの通貨持ち込み申請。この国では闇ドルが少なくとも1.5倍になる。問題の通関(カスタムチェック)。大量のカメラ、フィルムなどがうまく通過するか。
 慣れてしまえば何でもない入国カードでさえ、満足に書けない人が大半のはずだし、英語で質問されても十中八九は聞き取れない人たちだろう。ぼくも英語はからきしダメだけれど、たいていのことは単語をいくつか聞き取って、相手の表情から大方の内容は読みとれる。スマートにやろうとするより、全体のシステムの中で、自分がいまどの部分をやっているのか。自分の側に弱みがあるとしたらどの部分か、それらを大づかみにしていれば、観光客はお客さんであるという恩典を上手く利用できるのである。

 検疫はイエローカードを見せるだけだから難なく通過。そこで入国カードを渡される。ぼくら20人が隅のほうで固まって辞書を片手に四苦八苦している間に、日本から同じ便でやってきた高校地理研究会の先生方はサッと通り過ぎた。機内でもう入国カードの記入を終えているのだ。ぼくたちは名前の書き方、日付や旅行目的や、とにかくすべての項目をどう書けばよいのか大混乱である。すでに日本の出国カードのときに一応の説明はしてあるものの、そんなものは全然頭に残っていない。やはり一度失敗してみないと身につかないものなのだ。
 見るに見かねてエジプト航空の有泉さんが飛んできた。団体のネームリストを渡すとすぐにパスポートと入国カードを集め、一括してイミグレーションに渡す。ぼくらはぞろぞろとカスタムに誘導され、すでに運び込まれているザックを確認してひとまとめにする。
 さあ、いよいよ問題の通関だと思っていると「玄関に出てください」とまたゾロゾロ。2台のバスが横付けされていて、先生方のグループは大きい方にすでに収まっている。ぼくたちを追いかけるようにザックが運ばれてきたのには驚いた。
 エジプト航空の課長さんに挨拶され、その場でグリーンバレー・ツアーのエジプト人や2人の日本人通訳を紹介される。「ムハマッドが今後のすべてをやりますから、何かあったら彼に言ってください」
 快調に飛ばし始めたオンボロバスの中で、ぼくは今の自分の位置をつかもうと、わずか20分ぐらいの出来事を何とか整理しようと焦っていた。定員オーバーで大きいほうのバスに乗せられた3人は「ホテルが違うから向こうの乗用車に移ってください」とまた降ろされた。ぼくはカイロのカリキュラムとして、町に出てから全員で安ホテルを探し歩いてみることを考えていた。——とりあえず、このバスはどこへ行くのだろうか?
 とにかく、ぼくたちは黄色い殺風景な大地を真一文字に走っていた。丘の上の建物から高射砲らしい銃身が突き出ていたりする。この風景もまだ砂漠というのだろうか。
 何となく生活の匂いが濃くなってきた。車が多くなり、沿道の建物の密度が増し、警笛にせかされながらも悠然と道を横切る人たちが目につくようになった。
 市内に入ると荷馬車がはうようにロータリーをまわっていたりする。早朝のカイロ。それでもバスはスピードを落とさず、警笛を鳴らし続けて走り抜ける。
 車が着いたのはナイルの岸辺だった。見上げると10階建ての大ホテルで、へえ、こんなホテルに一度は泊まってみたいなぁ、と思っているうち、突然降りろと言われる。さっき大型バスで「ホテルが違うから」と降ろされたとき「パック旅行の人たちとでは格が違うからなあ!」とちょっぴり差別を感じていた。シェファーズというそのホテルは、どう見ても一流の部類に違いない。ロビーに通されたぼくらは天井の高い品格あるムードの中で、かなりの違和感を感じさせられた。
 「あの先生たちは、ヒルトンあたりへ行ったんだろうか?」
 ここまで来ればもう、成り行きにまかせるしかない。ぼくらについてきたエジプト人と、上智の女学生で2週間前からバイトをしているという女の子に聞いてみても、ムハマッドが来るまで待ってくださいというばかり。
 10階の食堂に通されて朝食。天井はロビーと同じく2階ぶち抜きのような高さで、装飾も古いながら格調を感じさせる。眼下にナイルの流れがあり、ナセル橋の向こうにナイルタワー。シェラトン・ホテルのずっと向こうにピラミッドがうっすらと見える。初めてのカイロながら、今まで走ったバスのルートからすれば、ここはカイロの一等地のはずである。
 ヌビア人と呼ぶにふさわしい黒人のボーイたちは、洗いざらしていささかくたびれてはいるが、これまた風格ある優雅なローブをまとっている。レモンジュース、各種のパン、バターとジャム、それに紅茶。それだけで十分にムードある食事だった。
 食事の途中で役人らしい男が来て、全員のパスポートを返してくれる。7日間のビザが発給されている。別に30何冊かの日本人旅券も持っていたから、あの先生方の分だろう。
 再びロビーに降りた。9時である。部屋が空くまでにまだ少し待ってくれといわれ、街に出るわけにもいかずゴロゴロする。
 テーラー氏は再び大発見をした。添乗員の持っていた新聞の日付が、どう見ても左から右へ1972となっているのだという。
 「あれ、これはおかしいゾ。変だ。アラビア語は右から左へ書くはずなのに」
 すぐにエジプト人に聞く。通訳嬢がいるのでかなり楽。アラビア数字の書き方、読み方は、すぐに全員がメモってしまう。
 次は会話である。機内ですでにいくつかを教わっているから、エジプト人もかなり気をよくしている。外国語はまったくダメというおかあさん(独身です、念のため)は食いつくようにしてかな書きメモをとり続けている。2時間はアッという間に過ぎた。
 途中でムハマッドがちょっと顔を出す。30代に見えるエネルギッシュな男だが、カイロ大学の学生で心理学をやっているという。
 「ぼくらはこんな高いホテルに泊まるつもりはないけれど、いったい誰が金を払うことになっているのか」
 ずっと気になっていたことをしつこく聞いてみる。
 彼はアタッシュケースの中から「AMKAS Tour」というネームのついたファイルを出した。
 「東京からこの書類が来ているので、うちの会社がエアポート to エアポートのサービスをするのです」
 ぼくらはラゴスへの乗り換えでやむなくここで2泊しなくてはならない。ノーマルチケットの客なら当然エジプト航空がホテルを提供してくれる。しかしぼくらは団体チケットの上に、さらにどのような契約になっているのか、じつはよくわからない。
 「ひょっとするとエジプト航空が1泊のカンパニア・アカウントを出すかもしれない」
 出発前に手配担当の中井實さんはそう言っていた。1泊をせしめられるかどうかは、お前さんの腕次第かもしれない……という含みもある。
 半端なホテルならともかく、ぼくらにはどう見たって場違いな高級ホテルだから、エジプト航空がもってくれるかもしれないという気持ちにもなっていた。
 「ホテルはエジプト航空が出してくれるの?」
 ムハマッドは「イエス」と答えて、すぐに続けた。
 「ところで今日の午後と明日で市内観光をしますが、どうなさいますか? 11ドルです。もし希望のコースがあれば言ってください」
 「ぼくたちはお金もないし、勝手にカイロをぶらつくつもりなんだけど」——とは言ってみたものの、そのツアーを断固断る気持ちにもなっていなかった。
 初めて外国の土地に足を踏み入れた人たちが悪名高いこの観光都市で狙い定めたようにカモられるのがちょっと不安だったし、もうひとつ、何人かは絶対にピラミッドへ行くと言い出すだろう。お上りさんが言葉もわからずにノコノコ出かけていったのでは、いくらふんだくられるかわかったものではない。日本人観光客が大挙して押し寄せる場所は、じつはいろいろの小さな危険に満ちている。なにしろその道のプロが手ぐすね引いて待ちかまえているのだから。
 今日のこの豪華なホテルがタダになれば、11ドルは決して高くはない。そんな計算もしてみんなに図ってみた。しかしじつは、ぼく自身、外国でツアーに乗っかったことがない。世界レベルの観光地でツアーに乗ってみたいという気持ちがけっこう強かったのも事実だ。
 みんなの意見は、どうせ帰りにも寄るんだから、今回は市内観光をしておいてもいい、ということになった。10ドルで手を打つ。
 昼食の席待ちで30分遅れ、14:30に表に出た。驚いたことに大小2台のバスが止まっていて、先生方はぼくらの来る間、待たされていたらしい。
 ナセル・モスク、シタデルの城塞、モハメッド・アリ・モスクをまわる。観光地にしては精彩がなく、かといってエジプトの歴史を忍ばせるほどの匂いも残っていない。うるさくつきまとう土産売りは、添乗員がうまく追っぱらってくれる。
 夜、エジプト航空の課長が来た。ホテル代がこちら持ちであると知らされる。エジプト航空とグリーンバレー・ツアーの関係を聞いた後、適当な条件で折り合いをつける。とりあえずアムカスの予備費から1人5ドル分を払い、残金を各人の負担とする。明晩はもっと安いホテルに食事無しで泊まるよう旅行社に指示した。出国までパスポートを預かるというので、まだ誰も換金していないまま集める。


7月31日(月)第3日

【伊藤幸司の日記】

●観光ツアー
 翌7月31日。ツアーはカイロ博物館とピラミッドである。博物館は上野の国立博物館をひとまわり小さくしたくらいで、大方は年代別、テーマ別になっているようである。
 ラムセスの像から始まって、ガイドがアクセントの強い英語でかなり詳しい説明をする。学生通訳の女性はそれらのものにほとんど興味をもっていないし、知識もないから、10分の1もこちらには伝わらない。好みのものを見て回ろうとすると、とたんに「みなさ〜ん、集まってください」とくる。ガイドの英語は有名な名前や年代以外はほとんど理解できなかったけれど、彼の愛国的な口調には迫力があった。
 それでも「村長の像」や「ツタンカーメン」でさえ、何故か偽物くさく見えて仕方なかった。やはりガイドブックを片手にゆっくりと見て回るべきだろう。
 「まるで英語研修会みたいだった。通訳がぼくにもわかるような間違いをするんだから。ロバー(盗人)をロバ(ドンキー)と訳したときには実に愉快だった」
 編集氏は自分の英語のことは棚に上げてこう言った。

 ピラミッド。近づくにつれてどんどん小さく感じられる。それが世界の七不思議といわれるゆえんか。いるいる有名なラクダひきがバスをぐるりと取り囲んでしまう。
 まず、第一ピラミッドの王の墓に入る。背をかがめて狭い石段をどこまでも登る。日本でいえば破壊された観光鍾乳洞といった趣。違うといえば、どこまで行っても涼しくならないこと。墓というのはただの四角な空間、棺だけがあり、ガイドは小さな、ただの窪みの前でなにか一所懸命に説明している。昨日はシタデルで祈りの門というのが、ちょうどこんな気分。胎内くぐりみたいだった。
 外のギラつく太陽の中に出ると、またまたラクダ。モハマッドは「乗りたい人は25ピアストルですから申し出てください」とあらかじめ言っていたが、ぼくらの中に希望者はなく、先生方も乗り気ではないようだ。バスに戻るのを妨害するようなかたちで、腕ずくで引っ張られる人もいる。モハマッドもとうとう怒って、ラクダは完全に中止になった。
 第2ピラミッドには人影がなかった。ぼくらはバスを降りると丘の上に駆け上がり、向こうには何があるかと期待する。でも同じような荒れた土色のうねりが続いているだけ。別に美しい風景ではない。
 いよいよスフインクス。ごちゃごちゃと汚いところになんとなくそれらしいのがある。カメラを向ける気になれないのはピラミッドと同じ。
 「ぼくらのイメージにあるピラミッドやスフィンクスを撮ったカメラマンはたいした腕ですね。ぼくには撮れそうにない。サービス精神がなくては撮れないもの」
 カメラ君がつぶやく。
 ここで人気を集めたのはまとわりつく物売りたち。安っぽいアクセサリーやちゃちな石像を売りつけられるのだが、ボールペンで交換できた。タバコでもいい。売り子によって商売の上手い下手がありありと見えるのでおもしろい。子どもからあめ玉で石のとれたブローチをもらったのがおかあさん。ポンポン値切って「アクセサリー全部で2ドル」なんて喜んでいた人の場合は、目玉商品だけが「全部」から消えていた。見ているだけでとてもおもしろい。

 アル・ハチというレストランでの昼食。シシカバブはなかなかおいしかった。
 「アムカスの連中はみんなうまそうに食べていたでしょう。ところがぼくのテーブルは全部先生たちだったの。こちらは味がよろしくないわね、なんていいながら、ほとんど手をつけないんで、ぼくはおいしいとも言えず、立場をなくしちゃった」
 そのとき先生たちのバスに乗っていたのはカメラ君だ。
 地理研の先生方とはずっと大小2台のバスを連ねてまわっていたので、定員オーバーの3人は交互に大きいバスに乗った。ぼくもそちらに乗ってみると、4年間ヨーロッパを回っているという学生が通訳で、彼はさすがにガイドらしい口ぶりになっている。
 先生方はほとんどが都立高校の地理の先生だそうで、研修旅行的な雰囲気でしきりにメモを取ったりしている。カイロを振り出しにヨーロッパを回るのだそうだ。
 「実際にカイロを回ってみると、教科書の記述とはずいぶん違いますね。やっぱり一度は現地を見ておかなくては……」
 そんな声が聞こえる。
 「すいません、土の家の写真を撮りたいんで、30秒でもいいから止めてくれませんか」
 大変に熱心、といわざるをえない。

●夜のカイロ
 ようやく観光旅行は終わった。先生方の旅行団に加わったつもりになって、ちょっぴりパック旅行の味見をすることができた。
 ともかく、いまのエジプト人は古い時代の遺産を手にしながら、観光化することによってわざわざニセモノくさくしているように思える。国にしても、旅行業者にしても、群がる物売りにしても、もうすこし利口に立ち回らなければ100円の価値を10円で安売りしているような状態だ。旅行会社のやり方にしても、素人細工の泥縄で、これではいくらお上りさんの日本人団体旅行客でも欲求不満にならないわけがない。
 アムカスの連中はいらだち始めている。ところがモハマッドがパスポートを預かったまま、なかなか返してくれないのだ。空港から空港への完全サービスをするにはパスポートの保管は大事なポイントなのだろうが、少なくともそれはぼくたちのシステムとは相容れない。
 「完全に安全を保証するには、行動を完全に縛る以外にありえない」
 探検学校の校長というべき向後元彦さん(東京農業大学探検部創設OB)の言葉を印象的に思い出す。多分グリーンバレー・ツアーは日本流の現地エージェントなのだろう。
 ともかくパスポートがないのでみな一銭も換金していないのだ。グリーンバレーへの支払いもすべてエジプト通貨でしなければならないので、それを理由にパスポートを返してもらう。
 ぼくらがカイロで使った金は、1人分ビザ1.80ポンド、空港税1.00ポンド、観光旅行と昼食7.15ポンド、空港往復2.00ポンド、シェファーズ・ホテル(4食付き)5.70ポンド、カン・エル・カリリ・ホテル(食事なし)1.75ポンドの合計19.40ポンド。1ポンドが470円であるから9,000円ほどだ。5ドルをアムカスで立て替え払いをしても、ぼくらがグリーンバレーに払うべき金は1人あたりビザ・空港税・空港往復などの7ドルと、ホテル代の10ドル、観光と昼食が11ドルの合計28ドルである。5ドルは予備費で立て替えるので、各人23ドルを支払った。2か月の滞在・交通費の1割をたった2日で使ってしまったことになる。
 ぼくらはホテルで換金できるとばかり思っていたが、銀行の窓口のあるホテルでしか扱わないのだ。ナイル・ヒルトン、シェラトン、シェファーズ。時間からいってもこの3つしか開いていない。しかもぼくらは入国時に持ち込み通貨の申請をしていないのだ。パスポートだけで換金できるのはこの中でもシェファーズだけだという。結局、昨日のホテルまでぞろぞろと出かけることになった。
 ぼくらは各人の現地費用はすべて45万円の中から事前に払い戻してあるので、こういうときにはいささか不便である。パスポートをなかなか返してくれなかったのも、一般のツアーでは必要経費はツアーコンダクターが換金して払うためだろう。

 カン・エル・カリリというホテルはじつは先生方が泊まっていたところなのだが、一見してダウンタウンの中級ホテルである。地図を見るとシェファーズまではかなりの距離だし、しかもカイロの道は相当に複雑そうである。歩くのはかなりしんどそうだし、かといってタクシーに乗る金もない。グリーンバレーのバスもすでに帰ってしまっている。幸いぼくが、シェファーズの雑費を払うために換金した残りのコインがわずかに残っていた。ホテルの前の広場がバスステーションになっているし、市内電車も走っているので、それなら利用できそうだ。
 バスの値段を聞いてみると、これがよくわからない。
 「バスにはあまり乗らないほうがいいですよ。もし乗るのなら赤いバスでなく、蒼いバスにしてください」
 事前にそう言われていた。ぼくらはすでに、要注意人物になっているらしい。放っておけば、入口にぶら下がるただ乗りまでやりかねないと思われていたのだろう。

 ぼくは新しい町に着くと、バスや電車のターミナルを地図で確認しておく習慣がついている。そこを基準にして歩けば、タクシーでボラれることなく街を歩けるからだ。シェファーズ・ホテルに行くにはヒルトンホテルの前の大交差点で降りるのがいいと見当をつけていた。あそこはカイロの交通網の中心のひとつに違いないから。
 広場に出て「ヒルトン行きのバスはどれ?」と聞いて回る。ひとりの答えでは絶対に安心できないので、各人それぞれ近くの人に「ヒルトン」と叫ぶ。
 たちまち黒山の人だかりになってしまう。エジプト人たちは「ヒルトンだ」「シェラトンだ」と互いに言い合いを始める。誰かが「シェファーズへ行くのだ」と言ったものだからますます混乱。なぜそうなるのか? 
 そんなつまらぬことを解明するのも旅では意外におもしろい。少なくとも街の人たちのぼくらに対する態度を判断するひとつの材料にはなる。
 エジプト人たちの間で、ヒルトンかシェラトンかで言い争いが続いているが、良く聞いてみると、ぼくらが「ヒルトン」と言うと彼らには「シェラトン」と聞こえるらしい。ぼくがハッと気づいて「ニエル・ヒルトン」(ナイル・ヒルトン)と言うと「ああ、ヘラトンか」とうなずいてくれる。
 ぼくらの騒ぎで出発できないでいたバスの、後ろのバスに乗り込む。走り出すときに、とくに親切にしてくれた人たちに手を振る。昨日、シェファーズ・ホテルから一歩出ると、金をねだる連中がス〜ッと近寄ってきて、何となく嫌な思いをさせられたのに、そんな雰囲気は全くなかった。
 車掌がまわってきたので金を払うと、聞いた値段より安く1.5ピアストル、約7円であった。
 シェファーズ・ホテルのミスル銀行で換金を終えた。
 しかしこのとき、KABATAさんがバスの中でカメラと50ドル入りの財布を盗られたことに気づく。バスは走り出すとすぐに超満員になった。カメラを構えていた彼女は、それをショルダーバッグに入れたのだが、混雑の中で背中のほうに回ってしまったらしい。銀行へ着くとカメラと、それに多分カメラの近くにあったと思われる財布が消えていた。
 貴重品はすべてショルダーバッグに入っているのだから、とくに注意しておく必要があった。届けを出してみようと言っては見たものの、返ってくる見込みはゼロだ。ボンヤリさんが今朝、シェファーズを出るときに置き忘れた度入りのサングラスも結局出なかった。

 夕食代くらいの小遣いを得たぼくたちは、ホテルまで歩きながら帰ることにした。
 喉が渇いているので、マンゴーとレモンのジュースを飲む。完全な生ジュースだが味はまあまあといったところ。1杯20円。ベビーちゃんが3本45円のボールペンを買う。
 次の角で再びジュース屋に入る。1杯7円。氷水の中に赤い果物が溶けているやつで、実にうまい。
 「安いバザールがあるからお連れしましょう」
 そう言いながら寄ってくる男はいたが、街ゆく人たちはぼくらに会釈をしてくれる。なかなか快適な街に見えてくる。立ち食い食堂に押し入って食べている人に値段を聞いてみたり、チャパティづくりの職人が小麦粉を練った固まりをたちまちのうちに風呂敷みたいに敷く。大きく伸ばしてしまう妙技だ。
 クリーニング屋があった。道から石段を数段降りる半地下の仕事場でアイロンを掛けている。電気アイロンもなく、炭火を入れるやつでもなく、コテのように熱して使うものだ。職人たちの動きにつれて入口から顔を突き出した女の子たちが歓声を上げるものだから、彼らはすっかり気をよくして、ブリキの霧吹きで仕事場中に蒸気を振りまく始末。大熱演である。「ショクラン!」(ありがとう)といって引き上げる。
 マーケットに入ってみると、実に清潔である。東南アジアのような野菜くずを踏みつぶした強烈な臭い、神田の青果市場のあの臭いがないのだ。しかも野菜や果物の並べ方も日本の店のようにこぎれいである。西洋ナシをピラミッド形に積み上げたものなどはみごとと言うほかない。
 トマトを1kg買って歩きながら食べる。そのトマトを肉屋のおじさんに洗ってもらった人もいる。残った芯を捨てようとするが、下のたたきはきれいに掃除されている。聞いてみるとそこへ捨てていいとゼスチャーで言ってくれるのだが、申し訳なくて物陰にそっと置いた。

 すでに日はとっぷりと暮れた。カイロの下町は露天の裸電球に輝いて、人通りもぐんと多くなる。日本の縁日を思い出す。
 夜が更けるにしたがって、人の数はますます多くなるようだ。中東戦争以来造られているという防弾壁が、歩道のところどころにあり、それがちょうど茶店だったりすると、路上にまで椅子を持ち出して優雅に水煙草をふかす人々でいっぱい。車道ではライトをつけない車がガンガン走っている。それもまた夜の活気のひとつか。
 初めに抱いたカイロ観光の不安はすっかり消え「アタバのカン・カリリ・ホテル」という名を全員で確認した後はもう、思い思いに歩いた。いざとなればタクシーで帰れるからだ。
 野外スクリーンの映画館の隣が空き地になっていて、そこに人が集まっている。木立の間から見えるのはミュージカルだ。映画を見るとその国の美人、美男子の基準をつかむことができるし、言葉の美しさや音楽まで、多くのことを一度に感じとることができる。はからずもタダでエジプト美人を見せてもらえた。
 ノンビリ君とボンヤリさんは、カイロ大学の学生だという純情そうな学生とたどたどしい英語で話し合っている。そこを中心に黒山の人だかりができている。

 四散した連中が、結局誰ひとりとして車に乗らず、そのかわりまともな食事もとらずにホテルに戻ってきたのは23時ころ。とくにお祭り騒ぎの激しいこのホテルの一画はまだにぎわいの盛りが終わりそうもない。ぼくたちはおかあさんの部屋に集まって、ブドウ酒やら果物やら持ち寄ってそれぞれの体験を話した。
 「戦争中の国だぜ、ここは。これじゃあアラブはイスラエルに絶対勝てっこないよ」
 編集氏が口火を切る。
 デザイナー氏は細工物を見て回った。
 「工業製品にはろくなものがないけれど、職人仕事の飾り物には抜群にいいものがある。あのドア金具は見事だったね。1万円くらいだったけれど、日本だったら大変な値段だ」
 カメラ君はホテルを探してきた。
 「路地裏に入っていったら100円以下のホテルがありましたよ。今度カイロに来るときには、誰かが高いホテルに入って荷物を管理して、あとはあそこを利用すればいいと思います」
 「カイロはいいところだなあ。ここなら金がなくてもけっこう快適に生活できそうだ。街を歩いていても、生活のペースを侵さない空間があるんだなあ。ダメな国だと思うけれど、それなりにしっかりと根付いた文化があるんだなぁ」
 編集氏は日本で忙しい仕事をしていたせいか、しきりにカイロの良さを強調する。
 ばくらは夕方から夜にかけての数時間で、別に何を見たというわけではない。しかし、人の流れの中でカイロの人々のペースに巻き込まれ、街のムードにひたってきた。ただそれだけのことなのにカイロの街に充満するカイロの匂いをかぎ取ったような気がした。そこにはなにか、本物のカイロがあったように思われるのだ。
 昨日、今日と貸し切りバスで回ったカイロはすでに違う世界に思えるだけでなく、○○ランドといったイミテーションのような貧しさだけを思い出す。
 会話はまだまだ続く。
 「路地の奥まで入っていったんだけど、汚物が全然ないの。あれはすごい。落ちているものは紙くずや藁くずが少し。それに馬の糞なんか少しはあったけれど、絶対に汚物はないの。あれだけの人間がいて、そんなこと信じられる?」
 テーラー氏はひどく驚いている。
 「下町人情があるんだな。水パイプを吸っている連中が手招きしてやらせてくれるんだ。いいねえ、この街は。それにすごい美人がいたんだ。デザイナー氏とふたりでドキドキしてしまった。いいねぇ」
 編集氏はここに永住しそうな惚れ込みようだ。
 「でもエッチが多いわよ。何となくからだに触れてくるの。そのうちさりげなくヒップに触ったりして」
 おかあさんが、まんざらでもなさそうないい方をした。
 「おれの英語がちゃんと通じるとわかったね。けっこう自信を持った」
 またまた編集氏が発言して、お開きのムードになった。山盛りの果物くずを片づけ、最後のブドウ酒を分け、ある者は部屋へ、何人かはまた街へと出た。
 ぼくは編集氏とママちゃんを誘って、オレンジジュースを飲みに行った。50円ぐらいでちょっと高いが、大きなオレンジを2つ半、手動の絞り機にかけてコップ一杯のジュースにするのである。砂糖も水も加えず、純粋の100%果汁。たとえ腹をこわしても、飲み続けたいほどのうまさだ。
 そこで編集氏にエジプト式ホットドックを食べさせる。ひき肉をはさんだ中に漬け物の大きな唐辛子を1本入れてかじる。ぼくには好みの味だが、編集氏は複雑な表情であった。
 ジーパンにゴム草履でUSアーミーの布バッグを腰につけたアニメ氏と会う。お茶を飲んで帰ろうと、回り道をする。さすがに24時を過ぎると店も閉めはじめ、スタスタと土地の人間のように歩くアニメ氏に従って、彼の好みの店まで行く。
 男ばかりが集まってカードや、見たこともない不思議なゲームをしている。ここでも水パイプをみんなから飲まされるが、深呼吸で吸い込むのがちょっと怖い。まだ味はわからない。


8月1日(火)第4日

【伊藤幸司の日記】

●サハラ砂漠は雲の下
 8月1日。カイロからラゴスへ向けてサハラの上を飛んだ。朝10時から3時間半の旅。じつはぼくはこの飛行に大きな期待を抱いていた。座席指定ではないので、早く乗り込んで窓際に座るようにみんなに指示する。
 ところが、カイロの薄もやを抜け出れば、あとは黒々とした成層圏の下に、黄色い、果てしない大地が見られるものと思っていたのに、飛ぶほどに霞が濃くなり、とうとう完全に雲の上を飛ぶことになった。砂漠から見上げれば曇天のはずだ。そんな砂漠の風景が現実にあるのだろうか。
 「ああ、分かった」
 テーラー氏はまたなにか大発見をしたらしい。
 「逆転層なんだ。大気は上空にいくほど温度が下がるでしょ。それが夜は地表の温度のほうが下がってしまうから、朝のうちは上昇気流ができなくて、かすんで見えるんじゃないかな」
 なんとなく、そんな気もしてしまう。
 「そういうことに決定しましょう。アムカス流に」
 カメラ君の提案で難問は解決。とにかくサハラ砂漠にも雲のある日はあるのだろう。ひょっとしたら大雨かもしれない。アフリカというところは、ぼくらの常識を超えた何かがある、からだ。
 暇になってしまったので、やりかけの「堅苦しいインタビュー」を再開する。

◎KABATAさんとおねえさま
 2人は最初のミーティングのときから、東アフリカをまわりたいと言って、ぼくのノートにはいつも並べて書かれていた。歳も仕事も住所も、そして出身も違うので、どういう関係なのか、いつも興味をもっていた。
 「アムカスで初めて会ったのよ。2人で何となく意気投合してしまって、いっしょに歩きましょうと話し合ったの」
 おねえさまはほっそりとしたからだつきで、一見神経質そうにも見える。女性参加者を見るときに、ぼくは神経性食欲拒否を一番恐れる。ものが食べられなくなったら、旅では大きなピンチだからである。気が弱くなっているし、体力が弱って来るから病気になる確率も高い。そういう見方から、彼女はぼくの注意をひいていた。
 「自分のお金で旅行するんなら、アフリカと決めていたんです。ひとりではなかなか行けないと思っていたけれど、憧れだけではいつまでたっても実現しないと考えて、準備を始めようとした矢先にこの計画を知ったんです。今まで家業が忙しかったけれど、最近ひまができたので、その意味でもチャンスだったんです」
 「砂漠とサバンナとジャングルを歩いてみたいと前から思っていました」
 落ち着いた話し方をする人である。
 KABATAさんはこういう。
 「昨年のボルネオ探検学校の記事を見て、来年は参加しようと決心しました。会社は7年目だけれど、1か月までなら休暇が認められるけれど、2か月となるとどうしても無理なので退職しました。来年ならもう行けそうもなくなるので、最後のチャンスだと思って……」
 「私の仕事は現金出納だったから、いつお金が動くのか分からず、しかも毎日決算していかなければならないので毎日緊張している部署なんです。3年目くらいで辞めようと思ったけれど、上司からおだてられたりして、女子はやっぱり消耗部品だなと分かりながら、ずっと勤めてきたんです。
 最後の引継のときはミスがなかったけれどずいぶん緊張したので、それを無事に終えたら、ほんとうにホッとしました」
 「親の説得は前から計画預金をしていたので、仕方ないと認めてくれるようです」

●魔のイミグレーション
 雨のラゴス空港。飛行機を降りると、まとわりつくような湿気。「ああ、これが雨季のアフリカだなぁ」
 いよいよお預けになっていた入国手続の本番である。まず入国カードと通貨申告カードを記入する。書式にはカイロで慣れているので、各自バラバラに散って記入している。
 検閲を通って、その先のイミグレーションに行くと、ラゴスで泊まるホテルが記入されていないので、次々と突き返される。ぼくもうかつだったが、アフリカではそんなものは何とかなると思っていたので、資料を全部置いてきてしまった。いずれにしてもラゴスではそのトラブルが当然あるとは知っていたが、どういうふうに解決されるのか知ってもらうつもりだった。
 考えてみれば身勝手な教育方針だが、アフリカの国境を自由に通過できるためには、観光客がどのように扱われるのか、身をもって知ってもらう必要がある。それはこちらに落ち度がなくてもトラブルの起こった場合に必要となる技術である。
 時間をかければ解決するという原則どおり、役人が適当な名前を教えてくれて、ひとりまたひとりと通過し始める。今日は入国手続で時間がかかってもいいつもりなので、ぼくは最後尾で待っている。
 右端のカウンターではラゴスに残留してひとりでニジェールに飛ぶテーラー氏が2日間しかとっていないビザを延長してもらおうとやっきになっている。ワイロを要求されたが、かねてから仕込んでいたハウサ語を使って即座に2週間の入国を認められた。以後、このカウンターでは全員が2週間のスタンプを押されたのだが、もうひとついやな事件が起きた。
 シモヤンが通貨申請カードを記入しているとき、白いガウンの男が近づいてきて、トラベラーチェックの1,000ドルを200ドルと書いた方がいいと教えてくれたのだそうだ。そして弱みにつけ込んで3ドルをとられたのである。
 「なんとなく……言われるとおりにして……弱みができて……それで……払ったんです」
 かれは言語障害のような話し方をする。
 アニメ氏はそれを見ていて、おねえさまと「そんな男に金をやる必要ないよ」と言ったのだが、今度はアニメ氏が隅のほうに連れて行かれたという。
 「なんとなくトラブルを起こされるような気がしたんで、成り行き上2ドルを渡したんです。あいつは実にいやらしい感じだった」
 そしてまたまた、おかあさんが言葉の弱みで金を取られそうになっている。右のカウンターの前である。ぼくが駆けつけて「出さないでいいですよ」と言ったときには、もう男は金を握り、さっとどこかへ消えた。
 ぼくたちはホテル名がないのを突き返されて、かなりの不安に陥っていたのである。そこに得体の知れない男がつけこんで、合計7ドルもの大金をせしめたのである。少なくとも右側のカウンターの役人とは完全にグルであり、疑えば他の役人も黙認、あるいは協力することで仲間なのかもしれない。アフリカでいつも感じることだが、得体の知れぬ人間がこういうところにまで入り込んでいる不思議さである。
 もちろんぼくは最後だから何も言わずにパスポートをポンと出すと、スタンプがポンと押された。カスタム(税関)はほとんどノーチェックで、銀行で各人3〜5ドルの換金をした。

●ラゴスの街へ
 いよいよナイジェリアの首都。さて、タクシーにどうやって分乗しようかと考えていると、バスの運転手と称する男と役人らしい男が来て、ホテルのバウチャーを切ってあるからバスに乗れという。エジプト航空がそのバウチャーを切ったのだと言う。カイロでホテルのトラブルがあったばかりだし、何よりも明日ドゥアラに飛ぶ便はエジプト航空でなく、ナイジェリア航空だ。どう考えてもぼくらのホテル代がタダになるはずはないのだ。
 しかしこのままタクシーの群れの中にゾロゾロと出ていったら、ひと混乱起こるのは目に見えている。バスはと見ればホテルの名のついたマイクロバスだ。「あれをタダで使うだけでも得だ」と、また意地汚い気持ちになる。
 「われわれはホテル代を請求されても金を払う意志はない。それでOK?」
 勝手に念を押してバスに乗る。
 ホテルに着くと、ぼくは早速、宿泊料の確認をした。主人格の女性2人にチケットを見せても、それでもエジプト航空が払うから金の心配はないと言う。ホテルは簡素なものだが、清潔で一歩中に入るとなんとなく東アフリカのホテルの懐かしさがある。英領の国だなあと勝手に感心する。
 ホテルの車でパーム・グローブというところまで送ってもらう。このホテルは空港の近くにあるので、ラゴス島まではかなりの距離だ。
 ぼくたちはそこでバスに乗り換えてラゴスの中心街に向かう。
 車掌がもつ切符切りの機械はダイヤルを合わせてハンドルをぐるりと回すと、いろんなデータの印字されたチケットが出てくる。日本の自動販売機よりはるかにきれいな印刷である。これも東アフリカと同じ。小銭を入れた竹筒形のブリキ缶をカチャカチャと鳴らしながら、巻紙に印刷したチケットを器用にちぎってくれる。タイのバスと好一対の印象的な風景である。
 16時。1時間後に同じティヌブ・スクェアに集合することを決めて散る。文字通り散ってしまった。
 おかあさんなどはバスを降りたとたんに友だちを作ってしまい「スカーフを買ってくるわ!」と叫びながら、女の子の後を追って、小走りに路地裏に消えてしまった。
 バスが数珠つなぎに走っているメインストリート沿いに、お世辞にもきれいとは言えぬ家がごちゃごちゃと並んでいる。ラゴス人が、あるいはまたナイジェリアのお上りさんたちが買うお土産類が並んでいる。その混雑した道をのんびり歩いていくと、いるいる、われらの仲間があちこちで引っかかっている。ミッキーとリツコさんが木の実のネックレスをしきりと値切っている。しかし3ドルしか持っていない彼女たちに買えるはずはない。
 ママちゃんはアフリカ女性を優雅に見せる華やかなスカーフを手にしている。まるで長い黒髪を結い上げているように見せる秘訣は、スカーフの下にかぶる帽子のようなものなのだ。彼女はそのひとつをかぶって、鏡をしげしげと覗き込み、婦長さんに記念写真を撮ってもらい、「サンキュー、バイバイ」とあっさり引き上げる。生き馬の目を抜くラゴスの中心で、売り子嬢もあっけにとられる手際である。
 さらに先では、ショートパンツに白い長めのソックスをはいて熱帯旅行者らしい服装のボンヤリさんが道の真ん中で子どもたちに取り囲まれている。左手に辞書、右手にカメラを持って楽しそうに話しているのである。
 ぼくはある男に歯ごたえのある言葉を浴びせられた。彼は背を擦れ合うような人混みの中で、すれ違いざまにつぶやいたのである。
 「ジャップ! ジャップ! イエロー・ヤンキー!」
 ぼくは最後の言葉が即座に聞き取れなくて、彼と喧嘩する好機を逃した。
 腹を立てたわけではない。彼とわめき合ったらラゴスのインテリーのもつ「何か」が感じとれたと思う。ぼくは英語がろくに話せないのに、彼のような男と論争するのが好きだ。話の内容そのものより、彼らの考え方がよりはっきり解るような気がするからである。
 18:10、ティヌブ・スクェアに全員が集まった。広場の噴水のあたりで異様な連中がたむろしているものだから、学校帰りらしい子どもたちが50人近くも集まってきた。

●ホー・ホー・ホテル来い
 帰路の目標はパーム・グローブ(椰子並木)である。そこは空港方面では重要な停留所らしいと往路の道筋で見当をつけていた。事実「パーム・グローブ」と叫ぶと、ほとんどの人たちが「ああ、分かった」という表情をしてくれる。
 ところがホテルでは「ヤバ」という名前も聞いてあった。これが間違いの元だったらしい。パーム・グローブとヤバの名を一緒に言うと、たちまち情報の混乱が起こってしまった。仕方なくメリーランド・ホテルの名も出す。
 初めての土地で不自由な言葉を操って道を聞くときには、よほど注意しなければならない。とくにアフリカでは地図を読む能力がないのか、あるいは体系的にものを考えるのに慣れていないのか、地図を持ち出して聞いたり、略図を書いてもらったりすると、大きな間違いをすることがある。
 この場合も、地図を広げてパーム・グローブやヤバの位置を指さしてもらおうとすると、とんでもない方向の地名をひとつひとつ読みながら、いつまで経っても目指すところに行かない。しかし、だからといって、彼の言うことが信用できないとは言えない。ここが経験のいるところなのだ。
 ともかく、往きのバスで、テーラー氏がパーム・グローブとヤバへのバスが3番と13番であることを調べていた。あれほどたくさんのバスが走っているのに、どれも満員に近い。かなり強引に乗り込む。
 ラゴス島を出、イド島から大陸側に渡ったところで、運転手や乗客から降りろといわれる。そしてメリーランド・ホテルはあっちだと指さされる。道が違うのかと飛び降りると、今来た道の脇に「メインランド・ホテル」の看板があった。メリーランド・ホテルとはまったく違う。
 じつはこうなのだ。メインランド・ホテルの前を通るこの道をずっと行くと、道は二股に分かれて、それぞれ一方通行の狭い道となる。それが再びひとつになるあたりがヤバ停留所で、しかもヤバという名はこの地区の総称なのである。そこからさらに北に行くとパーム・グローブがあり、道はまた2本に分かれ、左へ行くと空港に至る。
 だからパーム・グローブで「メリーランド・ホテル」と叫べばRの発音がきちんとできていなくても間違いなど起こらなかった。
 6ペンスをただ取りされた感じのぼくらは、仕方なく次のバスを待った。待っても待っても20人が乗れそうな空いたバスはない。どうしようもないので、5ポンドでマイクロバスにぎゅうぎゅう詰めになった。
 ラゴスの交通渋滞はあまりにも有名で、日本を思い出させる。制限時速20マイル(36キロ)の狭い道は、まさにノロノロ運転。ぼくらのマイクロバスは横道から裏道へと入っていく。
 シャフトのあたりからコツ、コツ、コツと規則的な音が聞こえる。運転はじつにていねいで、悪路にさしかかると、まずブレーキを踏んで、ローギアでゆっくりと越えていく。そうでもしなければ定員オーバーのこの車は、スプリングが折れるかもしれない。
 20時、約束の夕食時間に1時間遅れてやっとホテルに着いた……と思ったらそれがまったく別物だった。メリーランドという地区はマンダリンという中華料理屋とネオン輝く教会がはっきり目印になっているのに、一歩入ると木立の中に邸宅が並んでいて、道が複雑にうねっているのだ。どのへんにいて、どちらを向いているのか全然分からなくなってしまう。
 それなのに、どうせ近くだからといって車を返してしまった。そのホテルの女性に案内されて、なおかついくつかの混乱を引き起こしながら歩いていくと、黒々とした木々と草むらの中で、ホタルが飛び交い、虫が鳴き続けていた。ラゴス島のティヌブ・スクェアから何キロだろうか。2時間半もかかって、食堂の最後の客となった。


8月2日(水)第5日

【伊藤幸司の日記】

●再び恐怖のラゴス空港
 滞在2日目は朝からラゴスの街を歩き回った。
 空港までホテルの車では2往復しなければならないので、全員が空港に集まったのは18時すこし前。30分しか時間がないのでチェックインをせかされる。今度は出国カードと、持ち出し通貨の申請である。
 税関に入ると、不思議なことにザックがずらりと並べてある。その前にカウンターがあって、入国時の赤い申請書と、いま書いた青い申請書を集めている。全員がここでひっかかって、また大混乱。今度は入国時のような時間の余裕を見ていないので、ぼくは緊張する。オットリくんはザックを開けて荷物を全部出されているし、アニメ氏は150枚近くの1ドル札を数えられている。
 申告書が乱雑に積み上げられたカウンターで、最終的に3人が足止めされた。おかあさんは餞別の日本円を入国時に申告していなかったのを追求されている。デザイナー氏はドルのつじつまはうまく合わせたのに、気の弱い彼は財布を開けさせられて、中にあった1万円札を見られてしまった。
 「ドルのほかに金を持っていないのかね?」
 敵は1万円札をちらりと見ながらいやらしい言い方をする。
 「私はすべての通貨を申告しました、とここにサインをしている。このYENはどうしてここにあるの?」
 ねちねちと迫ってくる。
 ボンヤリさんは、入国時に申請書類を渡してもらわなかったと勘違いしたほどポーッとしていた。そのときの記入が実際より多かった上に、銀行で換金したときに証明スタンプを押してくれなかったのだ。
 「あなたはブラックマーケットでドルを換えた」
 断定的な口調で決めつけられた。
 役人は3人を早口の英語で追いつめながら、ではどうするのか言おうとしない。
 3人はすでに一言も言える状態ではない。
 今度は助っ人のぼくに、3人がパスしない理由をくどくどと説明する。ぼくはバンコックで10万円もふんだくられた人の話を思い出していた。
 役人が金を要求しているのは明らかだが、こちらがどういう態度をとるべきか慎重に決めなければならない。こんな馬鹿げた厳しさは、ラゴスの役人の印象を決定的に悪くした。ぼくもバカな男だから本当に腹を立て始めていた。
 飛行機に遅れても、空港でのトラブルだからビザの不安はない。ぼく自身の体験のためにも、ひとつ正面から向かってやろうとふと思う。
 なぜなら、丸1日しか滞在していない通過旅行者のグループに対する仕打ちにしては、あまりにも暴力的ではないか。ミスに対して罰金をとるなら早く金額を出せ。
 弱みを握ってねちねちと脅しをかけ「ウィル・ユー・フォロー・ミー?」なんてぼくにはピンとこない言葉を繰り返すなんぞ、腐りきっている。ぼくは腰を落ち着けることにした。
 役人は業を煮やしてデザイナー氏の1万9000円を提出させた。机の中にはドル札がかなり入っている。そこに入れようとするから「ウエイト・ア・モーメント・プリーズ」と言いながら、金額の確認を要求して、ゆっくりと数える。役人はもったいをつけてそれを引き出しに入れる。
 デザイナー氏は日本語までオロオロして「あの金は取られてしまってもいいです。この場が通れれば」などと泣き言を言う。大半の日本人はこの手でうまくやられるのだろう。ぼくは言葉こそ話せないけれど、その代わりトラブルやハプニングがその国の一面を知る絶好の機会だと思っているから、いよいよ冷静になる。自分の置かれている立場を探りながら言葉の弱みを逆に生かそうとする。
 「彼らはオフィスへ行かなければならない」
 そんな脅しに対しては「フイッチ・オフィス?」となに食わぬ顔で聞き返す。
 「ウィル・ユー・フォロー・ミー?」
 またあの言葉だ。今度は「エッ」と聞き取れぬ振りをする。役人の指示を待つ哀れな日本人旅行者なのである。
 ほかの連中はすでに検疫を終え、出国手続きに移っている。ザックはもう運び出されてしまっている。18:40だ。
 この調子だとぼくらだけ残して彼らだけが先に飛んでしまうかもしれない。そうなると今回の最大の難関カメルーンの入国はビザなし、出国チケットなしで、彼らはうまくやれるかどうかと不安にもなる。ジェット機の音がいやに耳にこびりつく。
 手の空いた役人がこちらをのぞきに来る。チャンスとばかりぼくは大きな声で必死に単語を並べる。
 「申告書が正確でなく、私たちにミスのあったのは認めます。でも私たちのほとんどは外国へ出るのが初めてで、しかも英語が十分にできません。そのうえラゴスは1泊だけです。私たちはグループだから、ここで飛行機に乗り遅れるとスケジュールが狂ってしまいます。私たちはいま、いったい何をすればいいのですか?」
 それがどんな意味になっていたかは分からない。とにかく最後の一言を言うために一気に、大声でまくしたてたのである。
 そのとたん「OK、ユー・キャン・ゴー」。
 例のねちねち役人もいままでにないはっきり通る声でぼくらを解放してくれた。デザイナー氏の日本円を再確認して受け取る。
 出国手続きに向かう途中、人の良さそうな役人がデザイナー氏の置き忘れたナイジェリアの1ポンド紙幣を持って追いかけてきたが、ぼくはデザイナー氏に「私のではないと言ってください」と頼んだ。これ以上のトラブルは危険だから。
 待合室に集まったところで、ぼくは緊急のミーティングをした。今回の出入国に関してひととおりのまとめをして、今日これからのカメルーン入国に備えておく必要を痛感したからである。今度は本番、カリキュラムだなどとのんきには構えられない。1か月以上のビザがとれなければ、ぼくらの計画は根本的に崩れてしまうからである。時間がかかる覚悟で構えてもらうこと、ぼくが先頭に立つので、細かな指示に注意することを確認してもらう。

●ラゴスではどうだったか
 夜の短時間の飛行はかえって手持ちぶさたである。ぼくはラゴスの印象を聞いてまわった。
 「ナイジェリアは血走った国ですね」
 これは空港でイヤな思いをさせられたデザイナー氏。
 大半の人は「ペンス恐怖症だった」と通貨の複雑さを嘆いた。東アフリカで旧英領のシリングに慣れているぼくとは違って、1シリングは12ペンス、20シリングが1ポンドの実用的な把握に手間取ったらしい。
 1シリングを50円とし、あとは3ペンス、6ペンスがその1/4、1/2のコインと分かってしまえば何でもないことだ。ただ、来年の正月から始まる新しい通貨制度の先触れとして、1973年製の5コボ、10コボがもう出回っている。10シリングを1ナイラとしてそれを100コボに分けているのだから、これも10コボが1シリング、5コボが1/2シリング、つまり6ペンス貨と同じとつかんでしまえば、日本人の頭ならなんのことはない。
 ただ初心者にしてみれば、カイロのポンド〜ピアストル〜ミリアムとナイジェリアのポンド〜シリング〜ペニーに混乱があったのはやむを得ないだろう。
 「女性上位の国みたい。女性はあごをしゃくり上げてウンというでしょう。街を歩いていてもいかにも女性が強い感じ」
 これはおかあさんの印象。
 食べ物屋、ティールームのたぐいが少なくて苦労したのは全員一致の感想である。
 「ナイジェリアは日本とものすごく似ているんだなあ」と言うのは編集氏。
 「なにしろ派手好き。見栄を張って生きている。着るものにしてもピカピカの車にしても。ライトのつかないバスがどれもこれも扉の側がガクンと傾いて走っているカイロとは全然違う。
 それに本屋が多い。きっと勉強好きの国民だぜ。ナイジェリア人は。そのくせ一歩裏町に入るとドブは臭いし、家は汚いし、とにかく日本を見せられているようだった。ナイジェリアは絶対に発展する国だと思う。少なくともエジプトと比較すれば。
 近づいてくる奴はすぐにものの値段を聞きたがるし、おれと貿易をやろうと言ったバカがいたんだ。日・ナイ貿易だぜ」
 カイロを溺愛する編集氏はラゴスを皮肉な目で見ている。
 「私たちにとっては、バカにされた街ね」と言ったのはミッキーとリツコさんの二人組。
 「英語がダメで、フランス語もダメなのに、どうしてカメルーンに行けるの? って大学生に冷たく言われたの」
 ぼく自身は、ラゴスとナイロビを比べずにはいられなかった。服装も音楽も、サラリーマンの食事風景も、そして図書館で見た学生も、それらは同じ旧英領の大国という理由を越えて、むしろアフリカの画一性を西アフリカでも認めることになるのではないかという一種の恐れであった。

●カメルーン入国
 カメルーンではエジプトと同じように入国地点で10日間の観光ビを取ることが可能だ。そしてそれはさらに1か月の延長まで認められる。しかし厳密にいえば、カメルーンを出国する航空チケットを持っていなければならない。もし持たない場合には居住国の距離によって保証金を積まなければならない。日本は一番高くて13万円と定められている。
 ぼくたちの帰路のチケットはA班がラゴスから、B班がアビジャンから、そして過半数を占めるC班はナイロビからとなっている。その間はチケットに Surface となっている。
 日本でもフランス大使館を通じてビザは取れる。アフリカの場合、大使館のない国は旧宗主国の大使館で代行してくれるのがほとんどの例となっているのだが、一般にアフリカのビザを日本でとるのは、料金と期間と条件すべての点で得策ではない。
 ヨーロッパ経由ならパリやロンドンで取るのがはるかに楽なのだが、ぼくらのような場合にはアフリカに入ってから時間を見つけて先へ先へとビザを取りながら歩いた方がいい。
 たとえば隣の国で申請すると、陸路を旅する人も多いので、チケットなしで1か月とか3か月の長期ビザを出してくれる可能性が高いのだ。ただ、短期旅行者の場合にはひとつのビザのために何日もつぶしたりして、スケジュールの狂う場合があるので注意しなければならない。
 ぼくらの場合には出発までにナイジェリアのビザを押さえるのが精一杯だったし、ナイジェリアで無駄な時間を取られたくなかった。
 正直なところ、カメルーン入国時にグループであれば何とかなるさというぼくの甘い期待もあった。でもやはり不安ではあったし、フランス語でどこまでやれるかも全くといっていいほど自信がなかった。
 20時、ぼくらは暗闇の中に降りた。入国客はぼくら19人(テーラー氏とはラゴスで分かれた)のほかに10人ばかり。入国カードの記入では、フランス語に意欲を燃やしているベビーちゃんが大活躍。職業は全員学生ということにする。エチュディアンとエチュディアント。フランス語の男性名詞、女性名詞にここから悩まされる。やはりホテルの名は未記入。
 今回はぼくとベビーちゃんが先頭を切る。ほかの乗客の後から一番手前の窓口で英語を話してみる。立派な英語が返ってきた。まずひと安心。ここでぼくは例の気持ちだけ先走った大演説をぶつ。
 「私たちは日本人の学生19人のグループです。夏休みの2か月でアフリカをまわっているのですが、カメルーンで40日間を過ごしたいと考えています。
 日本ではカメルーンのことはほとんど知られていませんが、ぼくらは本でカメルーンはアフリカのミニチュアであると読んだので、旅の半分をこの国で過ごしたいのです」
 アフリカのミニチュアと言ったとき、役人が大きく頷いた。しめたと思う。
 役人たちの顔つきは、ラゴスとは全く違う。気のよさそうなおじさんたちで、顔立ちにもおっとりしたところがある。なによりも鼻筋が通っていて、目のかたちも品がいい。
 奥から上役らしい人も出てきてぼくの話を聞いてくれたのだが、何事か話し合うと「9月1日までのビザでよいか?」と思いがけない答え。
 「イエス、ムッシュー」
 たちまち後ろに並んでいた連中を手持ちぶさたの窓口にまわす。「どこへ泊まるのか」と聞かれたので「どんなホテルがあるか知らないので、教えてください」と聞き返すと、しばらく協議した後に Hotel ○○と書くようにと指導された。

 カメルーン。たいした知識も持たず、ただ地図の上で今まで置き忘れられたような国だから絶対に快適な国だと決め込んでいた。それが当たっていたかもしれないとホッとする。
 次は通関である。見ていると役人はかなり細かなところまで見る。ショルダーバッグもザックも進んで開いておくようにとパンフレットで書いたとおり、みんな並んで早く見てくれといった従順な態度である。もちろんフィルムや薬品は雑品のようなかたちで奥の方にさり気なく入れてある。
 役人がショルダーバッグをのぞいて「カメラ」と言っているのが聞こえたから、ぼくはすぐに進み出た。
 「私たちのほとんどは1台ないし2台のカメラを持っています。白黒フィルムとカラーフィルムを入れてあります。日本人はみなカメラ好きだから」
 英語だと白々しい言葉が出てくる。注意しなければならない。
 「ラジオは?」と聞かれた。
 「ラジオは1台もありません。ただ、彼がテープレコーダーを1台持っています」そう言って編集氏を指さした。
 これでOKだろうと、あとは成り行きにまかせる。役人のおじさんはひとり1人ていねいに見て、上の方に入っている袋を開けさせて「これは何か」と聞いたりしているが、あら探しのムードはない。みんな手振り身振りで化粧品だとか腹薬だとか言っている。
 ぼくが初めて通関らしいものに出会ったのはマダガスカルだが、あのときは役人たちがぼくらを取り囲んで、端から端から「これは何か?」と手に取った。フランス語はぼくらを世話してくれた漁業関係の方だけしか話せないし、ぼくらはかなり大量の高価な機材を持っていたので、冷や冷やした思い出がある。あのときもこんなムードだった。ただ、引っかかりそうなものがあまりにも多かったので、錦絵のカレンダーを開けられたときに1枚プレゼントして切り上げた。今回はフィルム以外に不安がないのでもう安心だ。
 さて、3番目はホテルである。時間はすでに21時。表にはタクシーしか止まっていないし、運転手以外に人影もない。荷物をひとまとめにしておいて、ぼくだけが運転手と話す。中の3人が英語が出来て、積極的に話しかけてくる。
 「安いホテルを知っているか?」と3人に聞く。いろんな名前が出たが、その度に値段を聞いて考え込んでいると、だんだん安くなった。結局、ホテル・デュ・ウーリが2人1,500フラン(1フランは約1.3円)で一番安く、街にも近いと知る。
 「1,500フランのホテルまで、車はいくら?」と聞くと、ごたごたした末、1台500フランだという。4人乗りの車だから5台だ。それで手を打つと、まわりにいた運転手がサッと荷物に手をかける。
 みんなに自分の荷物を持つように言って順次車に向かうが、4台はよかったものの、あとの2台がザックを2つずつ積み込んでいる。例の3人がどちらの車にするかと聞いてくるが、答えようがない。「サンク・タクシー」(5台)と5本指を出しているうちに、運転手同士でひと騒ぎあって、抜け目のなさそうな方が落とされた。
 街は暗かったが、田舎っぽいムードの上に、何よりも並木が印象的だ。フランス圏に来た! という感じがした。運転手にさり気なくCFAフランのレートを聞く。こちらのデータとほぼ同じであった。
 ホテルでは宿帳の記入をマネージャーが自分でやろうとするものだから全部終わるのに1時間以上もかかってしまった。


8月3日(木)第6日

【伊藤幸司の日記】

●ドゥアラの散漫な1日
 朝、まだアニメ氏がヤミ換金しているだけなので、全員で隣の食堂に入る。コーヒーと紅茶とフランスパンを頼む。
 トラブルは支払いのときに起きた。全員が2杯ずつ飲んだというのである。カップが11個しかないところへ、19人が押し掛けたものだから、空いたカップを集めては別の人にもってくる。それはレストランにしてみれば大仕事だったにちがいない。でもぼくらは誰も2杯は飲んでいないのだ。
 「ぼくらは19人。カップは11個。ひとり2杯なら使ったカップは38個」
 フランス語で話そうとするほど立場が弱くなってしまう。コムシ、コムサでやることにする。
 全員に座ってもらって、まず11個のカップを配る。次に、来ていない人に手を挙げてもらっている間に、それを1度回収してから再び配る。
 「1杯目終わり。あんたはぼくらが2杯飲んだと言った」
 もう一度11個を配り、引き上げて残りの人に配って、それも引き上げる。
 「2杯目終わり。大仕事だ」
 実際に出し入れの作業を繰り返してみて、彼らの勘違いを訴えようというのである。
 みっともない、稚拙なゼスチャーを繰り返しながら、彼らがぼくらからカモろうとしているのではないことは分かった。
 「4人は2杯飲んだ。……というのでもう打つ手がなくなって、ぼくらは1杯しか飲まない。だがあんたは4杯多く出したという。よし、4杯分はこちらからプレゼントしよう」
 滅茶苦茶なフランス語をうる覚えの単語を並べているのだから、言っている自分でも感情を込められない。どうしても迫力を減ずる。日本語でやったほうがいいくらいだ。
 金を持たぬまま町に出る。閑散とした並木の街だ。銀行が永い昼休みになっているので、海の方へ降りる。ドゥアラ港までくるが船の頭が見えるだけで、すべて壁に囲まれている。昨夜タクシーのおつりをフランでもらっていたのでファミリーサイズのコーラ4本を分けて食堂でねばる。市場で立派なエビが山積みにされているのを見、鉄道の駅に出る。
 換金を終え、ぞろぞろとホテルに帰る途中、ぼくはまたまたミスをしたのに気づく。10ドル替えておこうと言ったのだが、これで2泊分を払うと首都のヤウンデまでの鉄道料金が出ない。とすれば明朝の列車で出発するのは不可能だ。1日がまるまる無駄になってしまう。「夜行で発とう」と即決して、足を速めた。
 ホテルには下痢気味のクリちゃんと、途中ではぐれたアニメ氏、ボンヤリさんが待っていた。荷物だけを運ぶ車を探したがつかまらず、マイクロバスを交渉してみる。黒山の人だかりの中で喧嘩腰でやるのだが、3000フランまでしか落ちない。そんな大金を出してしまうと、全員が列車に乗れるかわからない。今度ばかりはもう逃げの手がないのだ。何人かが駅まで歩こうと言ってくれた。しかし3キロからの道をザックを背負って歩くのはまだ無理のようだ。
 「私たちは自分で背負えるだけの荷物を持ってきたはずでしょ。歩けないなんていえないはずよ」
 今朝からトイレを離れられずにホテルに残っていたクリちゃんが決然と言った。
 計画大変更のミーティングのときの編集氏の言葉と同じように、ギリギリのところでぼくの弱気を助けてくれるのはメンバーの言葉である。本当にうれしかった。歩いてみよう。
 ポカンと取り残された運転手たちやホテルの前庭に集まった人たちを後目に、ぼくたちはよたよたと歩いた。道は遠い。10分も歩くとクリちゃんはもう汗をポタポタたらしている。
 「気分は悪くならない?」「大丈夫です」
 いまにも落としそうなショルダーバッグを誰かが持ってくれた。
 途中、真ん中あたりと思われる街角で一度ザックを下ろさせたが「休むと苦しくなるからこのまま歩きたい」という女性軍の声で、ザックのパッキングをチェックしただけですぐに出発。ちょうどサッカーが終わったところで、群衆の中をかき分けつつ歩くことになった。ただでさえ異様な我々の行進なので彼らの視線が痛いようだ。
 小一時間で約3キロを歩いた。駅に着いたときのすがすがしさ。さっそく1,000フランでパンとジュースを買い、腹だけを満たす。今日はフランスパンを朝・夕合わせて1本ほど食べただけの最悪の日となった。
 1055フランの2等(1等と2等しかない)は超満員であった。もちろん木のシートで、3人+2人掛け。それが4人+3人掛けになったりする。ザックを積み上げてしまってから、半袖シャツ1枚では風邪を引く恐れがあるのに気づく。なにしろガラスのない窓があるのだし、熱帯の夜は思ったより涼しい。飛行機に乗ったときと同じように考える必要がある。
 込んでいて下手に立てばサッとだれかに座られそうな不安がある。列車が走り出してから、ひとりずつ来てもらって、そのたびにザックをひっくり返してセーターやアノラックを出す。
 アフリカ人は大人も子どもも赤ん坊までが強烈に強い。日本の混んだ夜汽車に子どもをぞろぞろひき連れたおばさんを加え、引っ越し荷物のような大きな包みを加え、車内で食べるパンや果物、サトウキビを加えれば、それがまさにカメルーンの2等列車だ。夜中じゅう女をくどく奴がいたり、ワッと湧き上がる合唱、ときには座席を取り合うわめき声も聞こえてくる。明け方近くには椅子の下でニワトリが鳴き始めた。とにかく音と臭いに満ちている夜汽車だった。


8月4日(金)第7日

【伊藤幸司の日記】

●アリ・ババ刑事
 朝のヤウンデ駅に到着すると、すぐにぼくとベビーちゃんで街に出た。小粋でフランス風の制服がよく似合う警官が親切にタクシーを呼んでくれる。ツーリストオフィスで地図とホテル料金のパンフレットを手に入れる。
 戻ってみると、くたびれた服装の若い男が警官と一緒に来てパスポートを見せろと言う。かれはアンスペクトゥール、英語のインスペクターのいやな響きが思い出される。
 19冊のパスポートをかかえて奥まった一室にはいると、3人がかりで氏名、パスポートナンバー、職業、生年月日などを記入する。あり合わせの紙切れにごちゃごちゃと書き込むのがいかにもアフリカ的。職業は全員が数次パスポートなので記載がないのをいいことにすべて学生ということにする。ネームリストは持っているのだが出さぬ方がいいと判断する。大学の専攻を聞かれてちょっととまどう。それよりもアンスペクトゥールにチェックされるのがこの国でどういう意味をもつのか分からないから不気味である。
 「ホテルは?」と聞かれて、調べ上げた名前のうちから街に近く、一番安いオテル・ドゥ・ラ・ペイの名をあげる。アリババと名乗る例の若い制服刑事がホテルまでついていくと言い出す。仕方ないので小型トラックを止めてもらってザックだけを先に運んでもらう。
 道々、彼はアイジョ(アヒジョ)大統領の名をあげて、しきりに称賛する。ぼくらは今、どういう立場におかれているのだろうかと、もう一度朝からの出来事を反芻してみる。
 オテル・ドゥ・ラ・ペイは3部屋しか空いていなかった。ダブルで1900フラン。2人以上は泊められないという。アリババがかなりしつこく交渉してくれる。彼は車をつかまえて、ぼくに乗れという。近くのカジノというホテルでまた交渉。つっけんどんなやせぎすの女が値引き交渉を鼻であしらう。ぼくの出る幕ではないので、アリババの言葉を必死に聞いていると、彼は1人当たりの料金を少しでも安くしようとしつこく迫っている。
 マダムが出てくる間、ロビーでしんみりとした話をする。ありふれたコールテンの上着がフランス製で8,000フラン(1万円弱)、ウールらしいズボンがやはりフランス製で4,000フランだとこぼす。こちらから聞こうにも言葉がないのでただうなずく。時間を気にしながら「これも職務だから……」といったあいまいな言い方をする。
 彼が真剣にぼくらの懐具合を心配してくれているのは明らかだ。しかしまだ、アンスペクトゥールという言葉が大きくのしかかっている。カジノが結局ダメで、アリババもかなり頭に来たらしい。ぼくにしてもできればこの辺で彼と手を切ってしまいたいと思う。道を歩きながらカドー(プレゼント)という言葉をぼくに分からせようとし始めたからだ。
 オテル・ドゥ・ラ・ペイに戻ると、朝から食事もとらずに延々と待たされている18人がホテルの中庭を占拠したかっこうでぐでんとしている。ぼくは再度ホテルの頑固そうなフランスじいさんにアタックする。結局ダブルの部屋に2人以上泊めると警察に挙げられるのだと知る。アリババはポリスではなかったのか?
 そのとき、回教風の白いガウンを着た老人がおれの車に乗れという。本来ならここでアリババと別れてタクシーでホテル探しに飛び出してしまおうと思っていたのだが、アリババに付き添われて古い黒塗りのベンツに乗り込む。
 ごちゃごちゃしたアフリカ人街の中に、シャワーと台所のついたこぎれいな家があった。アラジ・ママ・コラム(アラジはアル・ハジのことでメッカ巡礼者に対する尊称)と名乗るその老人は、商人らしい抜け目なさで1泊9,000フランと、きわどい値段を言う。ホテルの半値である。1か月借りる値段からすればとんでもなく割高だが、ぼくの弱みをグンと突いてきた。アリババ刑事立ち会いのもとに契約書を書かされた。


8月5日(土)第8日

【伊藤幸司の日記】

●日本人と出会う
 土曜日なので、午前中にビザの申請をする。C班はザイール、A・B班はナイジェリア。
 ザイールの大使館はバストスという有名な高級住宅地にあった。ベビーちゃんが交渉係を命じられた。色白のベビーフェースを紅潮させ、両手を突き出してRの発音のたびにからだ全体に力をこめている。
 ビザの申請書はアフリカの国々ではかなり厳密だ。ぼくらはナイジェリアの申請書にサインをしたことはあるが、あとは渡航担当スタッフの中井さんの方でタイプを打ってくれた。ザイールの場合も似たようなもので、A4判のザラ紙にびっしりタイプしてある。フランス語の穴埋め試験のようなものだ。
 上から順に進めていくのだが、まずベビーちゃんが辞書を引き、何を答えるべきかを「マダム・シルブプレ(プリーズ)」と館員に確認して、それからフランス語の綴りをみんなに伝えるのだ。
 2時間もかかって、各自3枚のコピーと3枚の写真を提出できた。即時1か月のビザを出してくれたのだから大成功といえよう。
 さわやかな丘の小道をだらだらと下り、まただらだらと登って街の中心と思われる方向へのんびりと歩いた。歩きながら雑草があまりにものびのびと繁茂しているのにまず驚いた。それがヤウンデ有数の邸宅街を三流別荘地のように感じさせる。
 アフリカで印象的な植物は? と聞かれたら、ぼくは日本の夏草と雰囲気がそっくりの雑草をあげる。バオバブより、テーブルツリーやソーセージの木、桜のように華やかに散るジャカランダ(これはオーストラリアからの輸入だそうだが)より、なんといっても野放図な夏草だ。東アフリカのナイロビやカンパラよりかなり強靱に見えるその草々は、手入れをした痕跡も感じられない。東アフリカでは日がな鎌を振り回していた除草人夫ももちろんいない。
 突然、車の中から東洋人の顔がのぞいた。ぼくは日本と合弁のカカオバターの工場がどこにあるのか調べてこなかったので、日本人は商都ドゥアラにしか居ないのだろうと勝手に決め込んで、皆にもそう言ってきた。みんなが一瞬、声もなく立ちすくんだのは無理もない。
 「コンニチワ」
 列の後ろの方で誰かがあいさつして、それで彼らがSOCACAOの八幡氏と八木氏であることを知った。じつはぼくも驚いたのである。ぼくは外国で東洋人の中に日本人を見つけだすのが得意だというつもりでいた。もちろん顔では判断しきれないので、身のこなしから予測するのだが、おふたりには大変申し訳ないけれど、瞬間的に日本人とは思えなかった。
 それは街で他の3人の方と会ったときにも同じだった。永く日本を離れている人はともかく、八幡氏などはここに来て3か月にしかならないのである。ぼくの自信もかなりいい加減だ。
 「ぼくはびっくりしたよ! 東村山あたりをハイキングしている一団に会ったようで」
 八幡氏は笑った。

 午後、八幡氏がぼくらを訪ねてくれて、いろいろ情報を与えてくださる。
 「ドゥアラでもここでも、ホテル代や交通費が思ったより高いんで、ちょっと憂鬱になっているんです。それにフランス語のハンディキャップがかなり厳しくて、英語の通じる西カメルーンへ逃げようかと思っているんです」
 ぼくの計画では、初めから西カメルーンで村に入る努力をしようと考えていた。しかし北へのサファリを希望する人もかなりいたのである。ここ数日の交渉ごとを振り返ってみて、何人かをフランス語圏に放り出すには、まだ不安があった。そこで全員で旅をしながら順次希望者から別れていくという分散方法もひとつの課題となっていた。
 「どうせカメルーンへ来たんだから、付け足しみたいな西カメルーンより、北へ行きなさいよ。この国の連中はおとなしいからそんなに不安はないよ」
 「ぼくは来たばかりでよく分からないけれど、ちょうど明日、ジェトロの吉田さんがここへ来るから、いろいろ聞いてみたら? 彼はこの国はほとんどまわっているからいい知恵をくれるかもしれないしネ」
 「明日は日曜日でブラブラしていてももったいないからモン・フェベまでハイキングしてみたら? 大統領の別邸もあるし、街全体を見渡せるから」
 八幡氏はぼくらにカツを入れてくれた。


8月6日(日)第9日

【伊藤幸司の日記】

●モン・フェベへのハイキング
 8月6日。ぼくが残って留守番をし、全員がフェベ山を目指した。モン・フェベはヤウンデ郊外の小高い山で、大統領別邸のほか、モン・フェベ・ホテル、モン・フェベ・サファリロッジなどがあって、ヤウンデの名所になっている。
 その道はちょうど、ぼくらの泊まっているカルチェからだらだら登りになっている。皆思い思いに弁当を持ったりして出かけていった。
 最初に返ってきたのはシモヤンであった。彼はフランス人の車に拾われて一気にモン・フェベまで登り、おまけに元のところまで送ってくれたのだという。自称自閉症のシモヤンにしては大成功である。
 日が傾くころ、みんなが帰ってきた。編集氏、アニメ氏、デザイナー氏、カメラ君、オットリ君の男性5人と、おかあさん、ベビーちゃん、ボンヤリさんの馬力組は結局となりの山に登ってしまって、電波塔の下で昼寝をしてきたという。途中バナナを盗もうとして失敗したり、変な洋服屋に会ったり、ヤシ酒をくらったり。ともかくでたらめなハイキングだった。
 そのほかの女性たちはまじめに歩いたようだ。その途中でシモヤンがフランス人とベトナム人とカナダ人の乗った車でサッと追い抜いていったので日本女性の面目丸つぶれといったところ。

●吉田氏とのミーティング
 午後、八幡氏と吉田氏が来られて、かなり詳しい情報を与えてくれた。
 吉田さんは日本人的な背格好で、眼鏡の奥からせわしなく問いかけてくる。20代後半の八幡氏とは歳がひとまわりほど違うとのことだが、やはりバイタリティーのある人だ。
 「また変なところへ来たね。ここは何もないところだよ。でもせっかく来たんだから、何をやりたいかひとりずつ話してくれない?」
おかあさん━━裸族を見たいんです
アニメ氏━━大ジャングルに入りたい
カメラ君━━マムフェあたりに居座って、そこからナイジェリアへ
編集氏━━子供の遊びを見たい。2週間ぐらい小学校に入学したい
デザイナー氏━━サバンナの生活を体験したい
婦長さん━━のんびりした生活をしたい
ボンヤリさん━━ホームヘルパーみたいなかたちで家庭に入れないかしら
 7名だけが意見を述べた。
 「カメルーンでは小型の遠距離バスが主な町の間を走っているから、それを利用して、まず、歩いてみたらどお?」
 吉田さんの意見もまた「やってみなさい」というものであった。
 八幡氏にしろ吉田氏にしろ、ぼくたちはよい人に巡り会ったといえる。アフリカのように旅行者の少ない土地では、そこに住む日本人の方々が何かと親切にしてくれるものだし、うっかりするとぼくたちはその好意にとことん甘えてしまう。そういう場合のけじめは実に難しいものだ。
 たとえば駐在員の方々はその国を旅したとしても、ぼくらのような気ままな貧乏旅行者とは明らかに違うから、実際にぼくらが欲しい情報は得られないことが多い。逆に言えば、ぼくらは十分な予算も持たず言葉も満足に出来ないのに、まるで偉大な冒険者のような口振りで話しているのである。日本人の方々にしてみれば、どんな事件を引き起こすかもしれない要注意人物である。冒険者たちはちょっとした事件で、メンツも何も捨てて、日本人に泣きつく例が多い。
 たまにやってきた同国人だから、ある程度の好意を受けるのはもちろんかまわないと思う。しかしいざ事が起きたときになし崩し的にその混乱に巻き込んでいくような汚い接し方をしてはならないと思う。
 八幡さんと吉田さんはそういう意味で、実にはっきりとものをいってくれる人だった。情報についても、自分で知っていることと、人から聞いたことをはっきり区別して話してくれたし、彼らがぼくに与えてくれる好意の範囲をはっきりとしてくれた。これは一見冷たい言い方になるのだが、じつは大変ありがたいことである。
 ぼくは八幡さんにカメルーン国内での連絡所を引き受けていただき、分散行動をとりやすい態勢をつくることができた。しかもさまざまな情報を与えてくれたにもかかわらず、ぼくらの行動に一言も強制的な指示はされなかった。


8月7日(月)第10日

【伊藤幸司の日記】

●ビザをとる
 午前中に、A・B班はナイジェリアのビザをとる。
 日本では非常に厳しいビザも1か月を即座に出してくれる。特にB班は陸路の入国を認められたので大喜びである。
 A班は9.1までのカメルーンのビザに対して、ラゴスへの飛行機が9.2だから、ビザの延長が必要かどうか、イミグレーションに行って聞いた。
 オフィスの奥に座っている役人は物腰からしてなかなか堂々たる紳士で、立派な英語を話した。その彼が「ファースト・セプテンバー(ここで寝るゼスチャーをして)OK!、2nd September (寝る真似をして、その上で手でそれをうち消して! OK!」と言ったと、帰ってきたオットリ君たちはその有様をユーモラスに繰り返して大いに笑った。
 その役人と話したことのあるぼくは、お互いのトンチンカンなやりとりの様子を一人で想像して、すっかり楽しくなった。あのおじさんに英語を話させず、ゼスチャーをやらせたところなぞ、さすがアムカスのメンバーである。
 C班は予備的に中央アフリカのビザを申請する。カメルーンのドゥアラから飛ぶ代わりに、中央アフリカのバンギまで陸路を行き、船か飛行機でキンシャサに向かうことも考えられるからである。交渉係のベビーちゃんの話では本国照会になるから3日目以降に来るようにとのことだった。それでもビザは2日間しかくれず、入国地点で再申請するようにとのことだった。案外厳しい条件なので、一応保留にしておく。
 午後は何組かに分かれてヤウンデからの遠距離バスの情報を集めることにした。市内にはいくつかのバス、タクシーの溜まりがあって、それぞれの方向への車が集まっている。北へ向かうバス・ステーションはブリクテリー・エストと呼ばれる黒人街にあり、西へのバスはその入口のホテル・オーロールの前にあった。ともにぼくらの宿舎から数分の距離である。

●今後の方針
 各人の情報を総合すると、
(1)北へのバスはヤウンデ→ンガウンデレ→ガルア→マルアが約1,600km、4,800フランで出発は毎日朝7時。(あとになってノートをひっくり返しみて気づいたのだが、シモヤンの情報では各町まで各々1泊で丸3日かかるとなっている。このデータを見過ごしたぼくたちは、バスに乗って初めてスケジュールの大原則を知ったのである)
(2)西へはヤウンデを午前3時に出て、バミリケ地方のバフーサンまで約13時間、1,500フラン。そこからバメンダまでが800フランである。バメンダから西カメルーンへはバスやタクシーが使える。
 このふたつの情報を中心に、各自どう動くかを話し合った。
 ところがここでやっかいな仕事がひとつ入った。昼間家主に言われて全員の名簿とパスポート、職業などを記入したのだが、その家主が再び現れて、警察でパスポートチェックがあるという。とたんにヤウンデ駅からのいやな1日を思い出した。
 家主のベンツで警察へ乗りつけると、日本で言えば吹きさらしのあばら屋にポリスが3人手持ちぶさたのようす。待たされる間の不安は大きい。途中で横柄な態度の上役が入ってきて、3人はかかとを鳴らして敬礼する。そんなささいなことも日記にこまかく記入していくらしい。
 にこやかに、ムッシュ・コミッセールが入ってきた。何となく向こうから会釈してくれたので、こちらもそれに合わせる。奥の一室に入って、彼が相当に偉い人物だと知る。なごやかなムードのうちにパスポートがていねいにチェックされる。じつに、彼は、ヤウンデ駅でぼくらのパスポートをチェックしたおっさんだったのだ。
 昼間のうちに、大蔵省、外務省情報部からイミグレーションまでまわって、A班の連中がこっけいなゼスチャーをやらせたあののおじさんにも会っている。ぼくたちはレセ・パセ(通行証)も写真許可証も必要でなく、パスポートとビザを見せるだけで国内のどこでも歩けると確かめていた。ただ、イミグレーションで何とかメモだけでもいいから署名入りの文書を手に入れようとしたが、それには失敗していた。
 今度こそチャンス! ぼくはムッシュ・コミッセールにたどたどしいフランス語で旅の予定などを話す。一割も通じないが、構わない。最後に、日本へ帰ったら手紙を出したいからとアドレスを聞く。彼は古い名刺をタイプで訂正してぼくにくれた。
 ヤウンデ第二警察署長・ベンジャミン・ンド・エビナ氏であった。サインはないが、いざというときにこれが役に立つだろう。

●再びミーティング
 家に帰ると話はだいぶ進んでいるようだった。
 西カメルーンへは4人が名乗りを上げ、残りは北に向かうようだった。というのは昼のうちに車体のチェックまでしてあって、24人乗りのバスに何人でも乗れることになっていた。西の方は4人しか定員がないというので、なかば物理的にそういうグループ分けになってしまったのである。
 編集氏は小学校に入りたいというし、カメラ君は17日にドゥアラ空港でマリから来るテーラー氏を迎える約束なので、それを機に西アフリカへ向かうことになっていた。クリちゃんは「パーティをいくつにも分けて、同じルートを別々に行ったら、途中で情報交換もできるし、おもしろいじゃない」とわめき出す。
 各人の行動をできるだけ自由にできるような集合体制を決めた。
(1)8.16までにSOCACAO 宛に電報を入れること。内容は日付、居所、氏名、予定の行き先。
(2)8.24までに再び同様の連絡をする。
 これによって事故対策を可能にする。
(3)C班(東アフリカまで行く13人)は8.25夜までにドゥアラのホテルに集合。
(4)A班(まっすぐ帰る3人)は9.2の飛行機なので8.29にドゥアラ集合とし、リーダーはドゥアラにメモを残しておく。
(5)B班(西アフリカへ向かう2人)はすべて個人にまかせ、9.25にカイロに到着できない場合の連絡体制を決めた。何かあればリーダーはすぐにコートジボアールに飛べるようになっている。
 今まではぞろぞろと団体で歩きながら、主に出入国手続や旅のコツなどを知ってもらうように努力してきた。これからはいよいよ本番だ。19人+1の寄せ集め大部隊が、個人とチームの間でどれだけ豊かな旅ができるだろうか。
 西へ向かうボンヤリさんとママちゃんが「あのお、もしいいところがあったら25日の集合を遅らせていいですか? 私たち2人だけで自由に歩いてみたいの」
 こういう発想はうれしいが、同時にリーダーとしてはビシッと締めておかなければならない。
「全員の確認で、個人と団体のけじめを決めたでしょ。たとえ残りたくても25日には絶対に集まってください。それに、あなた方が自由にやっているつもりでも、必ず男性に迷惑をかけているんです。できればアニメ氏やシモヤンの近くで何日か分かれて歩いてみる。そういう心づかいをしてほしいな」
 いつものことだが、大半の女性がどちらにしようかと迷って、ミーティングは延々と続いた。西へのバスは朝3時発、北へは朝6時にバスが迎えにくる。12時をかなりまわったところでシュラフにもぐりこんだ。西の4人は何度もバス停へ出かけて最後の交渉をしているようだった。


8月8日(火)第11日

【伊藤幸司の日記】

●北へ走る・第1日
 05:30に目を覚ますと、例の4人はもういなかった。無事出発したのだろう。
 06時、バスがくる。屋根に荷物を積んでターミナルへ。理由が分からぬままただ待たされるので、食堂に行かせる。ミルクコーヒーとパンと、肉の辛子煮がひとつかみでカフェ・コンプレという。約60円。米にその肉汁をかけたものがリ・サンプル。約90円。リ・サンプルにジャガイモ(ポム・ド・テール)の煮たのがつくと、リ・ポムといって150円ぐらいになる。アフリカ人食堂なのに、値段は安食堂のカレーと同じくらいだ。
 再びバスに乗ってターミナルに戻ると、また待たされる。客が5〜6人乗ってきた。
 07:30になると約束どおり銀行へ行ってもらう。ぼくらはバス代はおろか食費も満足に持っていない。3つの銀行に分かれたのだが、やはり換金は大作業になった。
 まず外貨扱いの窓口に行く。そこで氏名、パスポート、職業、カメルーンの住所を克明に記入した伝票を作り、それに換金額を記入する。ひとり10分はかかる。そしてキャッシュであれ、チェックであれ、事故ナンバーの表と丁寧につけ合わせチェックをするのである。サインしたチェックを渡すと、目の前でサインしなければダメとうるさい。
 次に支払窓口に行く。伝票が回ってくるのを待って、ようやく現金が渡されるのである。そこでは何フラン札を何枚渡したかをグラフに記入していく。とにかく書類作りは厳重をきわめている。植民地時代の名残だろうか。
 その割に、日本では厳しい数字そのものの書き方にはルーズで、書き違いはなぞって直してしまうし、末尾はゼロをいくつでも加えられる。
 そんなことより、ぼくらが気になったのは銀行によって交換レートが違うし、手数料も大幅に違う。ときには担当者によって変わってくることもあるのだ。おおざっぱにいえば1フランが1.3円というところ。
 1時間半もかかってようやく換金が終わった。09時である。運転手や他の乗客に謝ってバスに乗り込んだ。
 さあ、いよいよ出発! と思うとさにあらず。再びターミナルに戻って待たされる。
リツコさん────「ここの人たちは夜も強いし、朝も強いのね」
オットリ君────「だから目が赤いんだ」
編集氏────「昼間ろくな事をやってないじゃないか。全部中途半端なんだよ。それで暮らせるからいいよな」
 09:30、いよいよチケットも切って、今度こそ本当の出発。ここで初めて、中年の貫禄ある運転手が乗り込んできた。乗客はぼくたち15人のほかに軍人夫婦、女性2人、ゴルフクラブをステッキにした小粋なおっちゃん。そして助手席に金持ちらしい男。ぼくらも真ん中のフロントシートを使わせてもらったが、冗談半分に1,000フランの追加だなんていいやがった。後部はタテに3列のベンチになっていて、ルノーのSAVIEM-SG2 というこのマイクロバスでは座ると膝にほとんど余裕がない。助手が2人加わって21人が座ると1列7人、肩と肩をずらせなければ入らない。
 バスは舗装道路を快適に走った。メーターが動かないのではっきりとは分からないが、下り坂では90km/h以上は出ているだろう。アフリカを旅するときに一番気をつけねばならないのは自動車事故である。
 路面が悪いのにスピードを出す。ラテライトと呼ばれる赤土はいったん濡れるとまさに粘土となる。そうでなくとも、ヤギをひいたりするだけでも恐ろしい。
 ぼくは昨日、バスに試乗してみた。ブレーキはかなり甘いが、まずます及第。ハンドルの遊びも正常だし、タイヤもまだ新しい。セルモーターが動かないのはぼくらには関係ないことだ。ただ、運転手だという若い男の技術は要注意だった。もし危険だったら団体の圧力でスピードを落とさせる必要があった。
 しかし、中年の運転手、アラジ・アマドゥの運転を見て、ぼくはひと安心した。大きなカーブではスピードを出していたが、小カーブの前では必ず減速した。コーナリングを見ても、まず完璧である。彼は、たぶん対向車がないだろうといった見込み運転は絶対にしない。
 安心すると眠気が襲ってきた。真ん中のフロントシートだから舟を漕ぎ始めると運転手の方にもたれかかってしまう。何度かこずかれて、ぼくは後部座席に移った。

 車はしばしば止まった。街道沿いの家々が果物やたきぎを道端に置いている。オレンジ、バナナ、サトウキビなどが次々に手に入るので旅はかなり優雅である。優雅なくらいだから距離は意外にかせげない。
 12:40、約3時間走って168kmのナンガ・エボコ。ここで食堂に入って昼食。
 風景はヤウンデを出てからずっとサバンナなのだが、デザイナー氏は期待が大きすぎたのかなかなか認めようとしない。要するに藪の野っ原で、中にテーブルツリーなどが散在している。バオバブはまだ見ない。景色が変化しないものだから、みんな半分は居眠りしている。
 21:45、中央アフリカへの中継地ガルア・ブライに寄る。ここから首都バンギまでは2日、3,000フランだそうだ。闇の中にガソリンスタンドだけが浮かんでいた。
 真夜中の24:30、バスはメイガンガというところに着いた。ここで泊まるという。宿屋が満員だというので、ぼくは怒った。
 「ンガウンデレに着けなかったのはいい。しかしあんたは1人300フランで泊まれるといった。ぼくらはどうすればいいの?」
 バスの運行システムを知らないから、不満はいろいろとあった。それをここでぶつけたのである。いったいどうなるのか分からなかったが、とりあえず寝袋は必要だ。勝手に屋根に上り、シートをはずしてザックを全部降ろしてしまった。
 運転手はどこかへ消えてしまって、助手が動き回っているらしい。ぼくらは南十字星はないかと星空を眺めていた。
 1時間後、ぼくらは泥家の狭い一室に入った。もちろん無料だ。はみ出した何人かは軒下にザックを敷いて寝袋にもぐりこんだ。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.8早朝ヤウンデを発ち、バメンダ泊。


8月9日(水)第12日

【伊藤幸司の日記】

●北へ走る・第2日
 06時に荷物を積み、食堂へ。運転手だけ除いて、全員が集まっている。07:15、出発。運転手がハンドルを握ると出発だということに気づいた。
 町を出るとすぐに警官たちが乗り込んできた。自動小銃やカービン銃が運転席の後に不気味に光る。布袋に包まれているのは軽機関銃か。
 2人ずつ手錠でつながれた男が4人。それに警官が4人。後部シートは29人となった。1列10人である。腰と腰がピッタリついてもまだ後に助手が残っている。走り出すと運転手は急ブレーキを踏み、瞬間いくらか前の方につまったところで助手はさっと腰を下ろす。
 すでに上半身は斜めにしなければどうしようもない。向かい合いの席では膝を重ね合わすこともできない。
 風景は次第に平原になっているのだが、やはり期待ほどの変化はない。果物も少なくなって、車はただ赤い道を走り続けている。
 11時、ンガウンデレ着。他の乗客はさっと降りてしまう。まだ昼前だというのに、今日はここ泊まりだと聞かされる。
 「バカにしやがって!」と再び怒ろうと思っていると、運転手がかわいい女の子を連れてきた。かわいいというか、美人というか、3歳の女の子がぼくのカメラの前でポーズをとるのである。日本のジャリタレなど足元にも及ばない。
 運転手は彼女を抱いて顔をくしゃくしゃにしている。娘だと言われて見れば彼に似ているようにも思う。何よりも奥さんが美人なのだろう。彼はこことヤウンデに2人の妻がいて子どもは合わせて4人だという。アラジとこの辺で呼ばれるのはアル・ハジのことでメッカ詣でをしたモスレムに与えられる敬称だから、彼は金持ちの部類なのだろう。
 「これじゃあ、いくら尻をはたいても今日は出ないな」
 「しょうがない運転手ねぇ」
 とにかく1人300フランの約束を繰り返して2部屋を借りる。
 「1,000フランでもいいけれど、私の意見としては3,000フランを払った方がいいでしょう」
 運転手はそう言う。彼に連れられて奥に入ると、暗い部屋にゴザが1枚敷かれ、老人がふたり、静かに座っていた。
 運転手は入ってすぐひざまずく。長身で白いひげをたくわえた家主はなかなか威厳に満ちた顔立ちをしている。
「サイーダ(こんにちわ)」
 カイロでのアラビア語を使ってみると、これがじつに通じたのである。
 3,000フランを運転手に渡すと、彼はうやうやしく老人に手渡した。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.9-10バメンダ近郊の村バリで2泊。


8月10日(木)第13日

【伊藤幸司の日記】

●ホテル探し────マルア
 17:30、先発した10人(伊藤、オットリ君、婦長さん、ミッキー、リツコさん、ヨシ子さん、KABATAさん、ヨーコさん、クリちゃん、ベビーちゃん)がマルア到着。残りのメンバーを待つため、レストランに入る。
 このレストランは若い男連中がやっているらしいのだが、5〜6人のたむろしている連中の誰と誰がウエイターなのか、見当がつかない。というのは、注文をするたびに違う奴が奥から皿を持ってくるのだが、それが、こちらの望みをまったく無視している。
 18:30、雨雲からポツリ、ポツリと降り始めそうな薄闇の中に、残りの5人(編集氏、デザイナー氏、カメラ君、おかあさん、おねえさま)が到着。

 すっかり暗くなってしまうと、この町がどれほどの規模なのかまったく分からなくなってしまった。立派な並木のこのあたりには街灯がない。どちらを向いても道は闇の中に消えているのだ。
 この町に入る前、かなり前に、小さな飛行場があった。それからだいぶ走って、水たまりだらけのダウンタウンで何人かの客を降ろし、橋を渡って終点だった。もしあの辺に安ホテルがあるのだとすれば雨もよいの暗い道をテクテクと歩くのは無理だ。ぼくは最終的には、このレストランを占領してしまう腹づもりでみんなに言った。
 「ぼくが荷物番をするから、全員で手分けしてホテルを探してください」
 灯もなく、しんと静まりかえった町なのに、レストランの前にだけは子どもやら大人やらが集まっている。
 「安いホテルある?」と聞いてみる。
 「ウィ」という答えは返ってくるのだが、値段のことになるとまったく曖昧である。ホテルリストには1人4,000円のホテルと、たぶん同格だろうが価格表示のないもうひとつしか載っていない。
 とにかく、ぼくはどっかと腰を落ち着けていればいいのだ。レストランをぶんどるにしても、時間はまだ十分にある。
 編集氏が中心になってゾロゾロと出ていった。小さな男の子がホテルに案内するというのである。おかあさん、おねえさま、あとひとり(だれだったか)がタイミングを逸して残った。
 ぼくは並びにあるバーを覗いた。入口のたたきはレストランの土間よりは快適そうだったし、内部はカウンターの周辺がバーらしい雰囲気で奥は倉庫のようにガランとし広かった。ここを分捕る方が快適そうだ。その下ごしらえとして、またホテルを聞いてみた。
 中にいた連中はかなり人相が悪い。少なくともンガンデレで美人、美男に度肝を抜かれた後では、彼らの風体に貴族的なムードを求めるのは無理だろう。しかも何となく目つきが気に入らなかった。しかし彼らはあんがい人の好い世話好きだったようだ。
 「アタンデ・ア・モマン・シルブプレ」と言っていったん戻る。
 ちょうどカメラ君、ベビーちゃんのコンビが帰ってきたところだった。
 人垣の中にいた男の子が、自分の家に来いといったのだそうだ。15人全員が泊まれるし、シャワーもあるという。2人はタダ宿の情報を持ってきたのだった。
 しかし、小学生か中学生にしか見えないその男の子の言うことは、まだアテにできない。
 身のこなし、英語を若干なりとも話すことから家が貧乏ではないようだ。しかし初めて飛び込んだこの町で、複雑な人間関係に盲目的に飛び込むのもまだ危険だ。ともかく、最後の希望として何人かが泊まらせてもらう可能性は出てきた。

 ふたりを連れてもう一度バーに戻って話を再開する。
 話は次第に大きくなり、また表に人垣ができる。モーターバイクに乗った若い2人が案内してくれるという。ちょっと不安でもあったがフランス語のできるベビーちゃんとカメラ君にもう一度出かけてもらうことにした。
 30分ほどで帰ってきた2人はリーダーの決断だけを残すだけに条件を煮詰めてきた。最初に行ったのはバンガローの散在するホテルで、白人たちがバーに集まっていた。値段を聞くと1人3,000円で手も足も出ない。
 それからずっと奥の斑にある同様のホテルを見た。こちらは土壁の中に4つのバンガローとバラック建ての2部屋があるだけで、バラックの方は少々カビ臭いが、バンガローの方はシャワーにベッドひとつ付きで、コンクリートの床に4人は寝られるという。値段は1戸1,000フラン(1,300円)、5人詰めてもいいということだった……とのこと。おまけにタクシーも見つけてくれて、全員を運んでもらうという条件で、1人50フランだという。
 でかしたり、1人200フランでシャワーが使えれば申し分ない。明日になったら別のホテルでも探せばいい。
 ところで、あとの仲間は何をしているのだろう。早くつかまえて彼らの成果も聞き、ホテル探しに終止符を打とうと思う。
 彼らの行った方向へ30分の予定で歩き出したのだが、道は真っ暗、足元が見えないだけでなく、連中が歩いていても、まずは見つからない。すぐに引き返してベビーちゃんたちが乗せてもらったモーターバイクを借りようと、免許証を出して必死の説明。やっと200フランなら、との返事だ。リトルホンダのようなペタル付きでスイッチがない。どうやって始動するのか聞いていると、みなさんが現れた。
 「豪華なホテルでさ、ボーイなんか鼻にもかけない冷たさなんだ」
 「なんだ、ぼくらが行ったホテルだ」とカメラ君。
 「ぼくたち、あそこで大声をあげて値段の交渉をしたから、後から来た別の連中も同じだってすぐ分かったんだ。きっと」

 「さあ、ホテルに行こう」
 集合した仲間に声をかけて、タクシーに荷物を乗せ始めると、積み残しの問題が浮上した。
 「Can you speak english ?」例の小さな男の子がぼくの前に立った。
 「なぜぼくの家に来てくれないの?」
 脇にいた若い男は、たぶん帰ってきたみんなを案内してくれた男だ。
 「ホテルがダメなら、ぼくが民宿を世話します。何人かずつ分かれて来てください」
 男の子はその男につかみかからんばかりに叫び始めた。
 カメラ君の困惑した表情もあった。
 「ぼくはこのグループのリーダーです。好意はどうもありがとう。でも今夜は安いホテルが見つかったから、ぼくたちはまず、そこへ行って、明日また考えてみます。ありがとう」
 私はそういう気持ちを込めて、ゆっくりと英語の単語を並べていった。小さな男の子がかなり短いフランス語に言い直して、それでその場は何とかおさまった。
 世話になった人たちに誰かのボールペンをプレゼントした。関係ない連中の手を引っ込めさせて、最後の便にぼくは乗った。


8月11日(金)第14日

【伊藤幸司の日記】

●小学生ブバ・ワメ君のこと
 朝寝坊する。
 ぼくらが暗闇の中やってきて泊まったロッジは、大粒の砂の上に丸いかやぶき小屋が5つ点在する。土壁で囲まれた狭い土地で、伸び伸びと葉を広げた大木がさわやかな木陰をつくってくれる。
 この町では貸し自転車(1時間30円)、貸しバイク(1時間200円)が広く普及しているという。
 町に出て並木道を歩いていたときに近づいてきたのがブバである。この町で子どもが理由もなく近づいてくればたいていは「ボンジュール・ムッシュ・ドネモア・サン・フラン」(100フラン頂戴)とぼそぼそ言うのが決まりになっている。
 彼は立ち止まったぼくに真正面から話しかけてきた。何と言ったのかはまったく分からない。ただ彼は、ゆっくりとした口調で、自信に満ちた目をしてしきりに訴えているのである。
 「プレ・ブ・コネ・ラングレ?」
 この言葉で、彼が英語を必死にあやつって話そうとしていたことに気づいた。
 彼が話したかったのはこうだ。
 1948年の2フランアルミ貨を持っている。銀行へ行けば1個10フランで換えてくれるんだけれど、あなたは欲しくないか?
 2個出して20フランで換えてくれるとのこと。
 ぼくは彼の利口そうな目を見ながら、またひとりぼくの会いたい子どもが現れたと思った。
 後進国を歩いているときの楽しみのひとつは、彼のような頭の切れる子どもに出会うことだ。彼らと旅行者であるぼくとの出会いはたぶん詐欺師とカモのような関係から始まる。お菓子をくれ、金をくれ、あるいは写真を撮らせて何かをねだるというような子どもではなくて、大のオトナをカモってやろうと向かってくる子どもには、ある種の期待感と興味をもつのである。
 貧しい国の子どもたちは、学校へ行きながらも常に生活の苦労を背負っている。その中で真正面からぶつかってくる奴がいるとき、ぼくはカモにされてもいいと思う。
 結局、ぼくはコイン2つを10フランで買った。
 彼は小学校の8年だというが、手下の1年生と2年生を見比べてみても、どうしても4〜5年くらいにしか見えない。
 道を歩きながら、彼はぼくにいろいろな質問を浴びせてくる。
 「スズキの100cc のオートバイはいくら? ここでは12万フランだけど」
 「自転車は日本ではいくら?」
 ぼくはますます彼が好きになった。
 そのうち彼は町の案内を始めた。あそこにはレスリングの絵を描いた壁がある、とか、あの猫を写真に撮らないのか、とか、あげくにチェスをやっているオトナたちまでが彼のカモになりそうだった。
 ぼくは手下も合わせて3人のチビたちをキャンプに連れてきた。
 キャンプに帰ると、おかあさんがビニールのバレーボールを持っていて、表にいる子どもたちと遊ぼうということになった。もちろんぼくも参加した。
 真っ白なボールが高く飛ぶと小さな子どもたちがワーッと集まってきて、ボールを追って道であろうと庭であろうと、チビッコたちが駆け回る。ところがサッカーが盛んな国だから転がったボールを追いかけ始めるとキックするやらタックルするやら、たいへんな騒ぎである。しまいにはピーナッツ売りのおっさんの商品をひっくり返したりして、大いに汗をかかされた。
 そのうちにバレーボールのトスを上げるおもしろさも分かってきたようで、年長の子ども中でひとりリーダー格が現れてぼくのかわりにボールを押さえてゲームに区切りをつけたり、車がきたら道を空けさせたりするようになった。小さな子どもたちがまだキックしたりするのを見てボールが破れるのを心配している。
 初めの大混乱はこうして統制のとれた集団遊びになっていった。もしぼくが初めのように自分でボールを追いかけて、汗を流しながらルールを押しつけようとしていたら、カメルーンの子どもたちの楽しさはまったく違っていたかもしれない。

●チャド湖を見たい
 夕方、おかあさんが「チャド湖へ行きたい」と言い出した。ひとり旅をするという前提で、言葉のこと、旅の姿勢のことなどきちんと話し合った。
 ぼくが言ったのはつぎのようなことだった。
 あれも見たい、これも見たいと目移りしているみたいだけれど、それだったらカイロのときのツアーとあんまり違うんじゃないですか?
 もし見たいところがあるなら、まず自分で行くことを考えてみてください。
 あなたの場合、言葉が十分に通じなくてもなんとなくまわりで助ける人がいたし、あなたがたとえば何時間かけて聞いてみたいことがあっても、団体の中でなんとなく曖昧にすませてしまうことが多かったはずです。
 まずひとりになって、こちらが弱い立場になってみれば、すべて真剣に準備しなくてはならなくなるし、自分がすっきりしたいところではどれだけでも時間をかけることができるじゃないですか。
 フォール・フォローまでならバスがあることは分かったのだし、ひとりで行ってみたらどうですか。
 言葉だって、あなたの場合はフランス語もアラビア語もまったく同じぐらい初めてなんだから、それならカイロであれだけ勉強したアラビア語を使ったらどうですか。このあたりならアラビア語を話せば必ず通じる人がでてくるから。
 夜、おかあさんはひとり離れてキャンプのボーイや遊びに来た子どもたちをつかまえては「6か国語会話」を使ってフォール・フォローまでの情報を集めていた。たった3時間の間にかなりの言葉を正確な発音で話せるようになった。

 夜、全員で今後の旅の仕方を話した。詳しいメモは残っていないが、大きなテーマは3つだった。
(1)この地域に何日ぐらいいたいか。
(2)村へ入りたい人は、まず1〜2人になって歩いてみて、友だちをつくる。これまではかなり身勝手、強引な旅をして来られたけれど、このままでは村入りは成功しない。まず自分が無力になってみて、初めて相手の立場を考えられるようになる。
(3)見るべきものがあるのかしら? という発想はおかしい。見るべきものは自分で見つけ出してほしい。
 編集氏が意見を加えた。「もっと道に迷ったりしなくちゃ、ひとりで。やはりひとりになって自分流に歩いてみたい」
 ヨーコさんからはこんな話が出た。
 「バレーボールのとき、女の子たちに囲まれて、ショック! 女の子たちが私のことを『ほんとうにマドモアゼルか?』っていうの。胸に手を入れて『ないじゃないか!』って。それから女の子たちに囲まれて髪をいじられた。
 それから、この町にはレンタルバイクがあって、1時間150フランで借りられるということもわかったので、編集氏はさっそくそれを試してみた。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.11バメンダ→マムフェ。シモヤン以下バテたのでホテルで3泊し休養。グレートAIMエンタープライズという名のホテルは汚いが家族的。自炊3食。


8月12日(土)第15日

【伊藤幸司の日記】

●分散活動
 09時、おかあさんはキャンプのピエールに送られてフォール・フォロー行きのバスで出発した。言葉の特訓をしたとはいっても、彼女ひとりでどこまでやれるだろうか。行動派なだけに楽天的にチャド入国をしてしまわないだろうか、など、いろんな不安があった。しかし、そんな彼女をひとりで発たせた最大の理由は、やはり彼女の年齢であったろう。若い女の子だったらぼくも絶対にひとりで行かせはしなかったが、中年に入りかけている彼女となれば、女であることの弱さ、強さは十分に知っているだろう。フォール・フォローからの足取りが追えるようになっているのだから、4日目に帰ってこなかったら、すぐに現場へ向かえばいい。
 彼女は結果がどう出ようと、ここで思い切り自分の力をぶつけてみたほうがいいのだ。ひとりになれば誰でも身の安全には十分すぎるほど気を配るのだから。
 朝のうちにみんな出かけたが、昼ごろに何人かが戻ってきた。
 まず、ヨシ子さんとKABATAさん。
 この2人がどうしてコンビを組んだのかは分からないが、ともかくおねえさん・KABATAさん のラインが崩れたようなのだ。
 「どうでした?」
 彼女たちは並木道の向こう、牧場の近くにある貧しい土づくりの小屋を訪れたという。
 「女の人しかいないんで、村の中を歩いているうち、3人と友だちになって、泊めてくれる? と聞いて OKを取っちゃったの」
 「3時に寝袋を持って行きます。お礼には何を持っていったらいいかしら」
 お礼は何でもいいこと、そのほかに自分が食べたいと思う缶詰をいくつか持っていくことを指示した。缶詰は向こうに渡してしまって、出てくれば食べるし、出てこなければ出された食事を無理矢理にでも食べてくるように言った。彼女たちは一日限りの体験宿泊だから、貧乏な人たちに缶詰を買わせるような負担はさせるべきではない。もしこれが数日以上になるのだったら、「一緒に食べましょう」と出す方がいい。栄養確保のためにも。
 デザイナー氏はいつものホイ・ホイと声をかけたくなるような歩き方で帰ってきた。
 「スケッチしに行ったんですけど、なんとなくマルシェまで行ったので、これを買い込んでしまいました」
 中に十数本の弓の入ったヤギ革張りの矢筒と弓。それに作りたての小刀を見せてくれた。
 編集氏は帰るなりに「ああ、眠くなっちゃった」
 「どこへ行ったんですか?」
 学校で、ちゃんと授業を受けてきたんです。寝不足だから、つらい、つらい。算数以外はチンプンカンプンでしょ。7時半からだからどうしても居眠りが出ちゃって。
 ここの学校ではノートは先生が保管していて、授業中は黒い厚紙にチョークで書いて、何度も使っている。ノートには先生が赤で手本を書いて、毎日帰るまでに清書して提出するらしい。生徒ひとりひとりに対してきめ細かな暖かい味がある。
 休み時間に「青い鳥小鳥」を教えたら、全員で合唱できるまでになっちゃった。愉快、愉快。
 そして結論は「今日は早く寝なくちゃ」

●バイク事故
 まだ13時になる前だった。カメラ君が血相を変えて帰ってきた。ミッキー、ベビーちゃんのお転婆娘2人はカメラ君とバイクでサラクの方向に向かったのである。ガルアに戻る街道を20km 行った最初の町である。広々としたサバンナの道をアクセルいっぱいにふかして飛ばしたかったのだろう。
 「ベビーちゃんが転倒して顔をかなり切ってしまいました。通りがかりの車で近くの村で応急手当をして、ここの病院に運んでもらいました。バイクが1台ガス欠だから、ミッキーが残っています。ぼくは現場に戻ります」
 やったぁ。あれほど注意していた交通事故である。しかも巻き添えではなくて、自分の運転で。ぼくはすぐ、近くでバイクを借りて病院へと走った。
 病院には、たった今、クリちゃんが運び込まれたところらしい。現場にいるはずのミッキーが興奮で目をギラつかせて立っている。
 入口にはランプがゆがんでしまったバイクが1台置いてある。────となるとガス欠のバイクは現場に置いたままか。ミッキーがいないとカメラ君が今度は困る。
「ぼくのバイクでカメラ君のところに帰ってください」
 ぼくは彼女を出してしまってから、シマッタと思った。あれだけショックを受けていたら、二重事故にもなりかねない。
 ベビーちゃんは左上くちびるからほおにかけてグシャッと傷になっている。小柄な白人医師がぼくを表に誘い出して言った。
 「マドモアゼルは2針は縫わなければダメだけれどいいですか? 跡は残ります」
 もちろんぼくはOKした。とにかく傷を早く治さなければ、化膿などしたら目も当てられない。医者がわざわざ顔の心配をしてくれるのだから、丁寧にやってくれるだろう。
 結局3針縫って、大きな絆創膏で止めた。歯も1本折れ、両側の2本が欠けてしまった。
 「歯医者が休暇中だから、歯は治せない。糸は3〜4日で抜けるから、あとはヤウンデで神経を抜いて、東京へ帰ってから差し歯になさい」
 昼休みが遅れてしまった彼はぼくらを彼らの家まで連れて行ってくれた。ぼくは彼の家にあるセカンドカー、VWの軽ジープを見つけたので、仲間が事故の処理に行っているのでそれを手伝うため車を貸してくれないかと頼んだ。
 カメラ君は病院にもキャンプマンにも帰っていなかった。途中バイク屋で値段の交渉をしているオットリ君とヨーコさんがいたので、運転要員としてヨーコさんに同乗してもらう。
 ところが事故現場がどこなのか分からない。彼らは裏山の方(北の方)に行くと言っていたらしいし、その方向で会ったというので、とにかく走り回ってみる。
 むなしくキャンプに戻ると、カメラ君たちは帰っていた。方向は正反対だったし、しかもバイクは初めから2台だったから、人手もいらなかったのだ。
 そこでヨーコさんを看護婦として紹介する意味もあって、再び医者のところに戻る。
 ベビーちゃんはシャワーを借りてこざっぱりしていた。傷には薬をつけず、消毒だけで乾燥させるようにと繰り返し言われた。

 ヨーコさんとオットリ君のコンビは、始め南東の方向に行くつもりだったのが、町を出ないうちにパンクしてしまい。結局、南西の方をまわって帰ったという。
 マルアの地理はじつにややこしい。結局、どの道を、と言えなくて、東南だ、西南だと言うのだが、これはこの町の地理を確実につかむまではいたしかたのないことだった。
 町はカリアオ川の両岸に沿っている。しかもすぐ下流で南に平行してきた主流チャナガ川が合流している。
 ガロアの方から来ると、まず上流でチャナガ川を渡り、両河川の間を下流に向かう。このとき、両側に川があるとは気づかない。
 道はカリアオ川を渡ってバス停のある並木道に出る。この道は今度は上流に向かっていて、2kmほどで増水期には水をかぶってしまうコンクリートの徒渉橋を渡るようになっている。キャンプはそこから500mほどのところなのだ。そしてさらに200mほど先には2つの河川の間を通ってくるガロアからの道があるのだ。この地理感をつかむまでは南に行くと西に出てしまうという変なことになってしまうのである。
 婦長さんとリツコさんは北の山の方へ向かって歩いた。途中でバスに追い越されたときにおかあさんがちぎれんばかりに手を振っていたという。
 「村のお医者さんを見たの。白いガウンを着て、馬に乗って、助手がカバンを持っていたの」
 婦長さんはその堂々とした黒人医師に感銘を覚えたらしい。
 「野っぱらを越えて診察に行くのね」とリツコさん。
 この──彼女たちの見た美しい光景──は、残念だが後でそうではないらしいことを知った。恐らく2人はフルベ族の貴族と奴隷(と呼ばれている従僕)なのだろう。
 おねえさまとクリちゃんも珍しいコンビに思えたが、ふたりは山へ登ろうと、紅茶を前日から用意し、食料も持った。しかし、歩くほどに山が遠ざかるような炎天下の道。結局チョウを追いかけたり昼寝したりという登山隊であった。

【おかあさんの報告】
マルア発10時のプジョータクシー(乗合)でフォール・フローへ。15時到着。
ピエールに聞いていたキャンプマンはひどいところで、そこのパトロンがキャンプマン・フォール・フォローというところに連れて行ってくれた。
チャド湖を見たいと言ったら、フォール・ラミー(チャド共和国)に行かなければならないとのことで、リエントリー(再入国)の申請をする。
ところがフォール・フォローからもフォール・ラミーからもチャド湖へは行けないというのでビザ申請は捨てる。船なら3,000フランで行けると言われたがその後音沙汰なし。


8月13日(日)第16日

【伊藤幸司のメモ】
一日ブラブラ
夜半、すごい雨
23:30、おかあさん帰る

【おかあさんの報告】
フォール・ラミーへの渡しの近くで、ホテルで会った男と出会う。フォール・ラミーに行く途中だから一緒に行こうと誘われる。ビザなしでもいいというので、同行する。
08時、車でフォール・ラミーへ。アダマ氏の親戚の家。街の観光。映画も見る。13時にフォール・フォローへ帰る。
マルアに帰るバスは16時なので、アダマ氏の家に行く。食事をいただく。ヤヤ氏がガロアまで帰るというので彼のタクシーに便乗。しかし帰路は雨のため水浸しで、水に浸かるたびにストップ。それに2回のパンク。23時にマロア帰着。


8月14日(月)第17日

【アムカスへの報告文書】
カメルーン最大の市が立つと人が言うのでマルシェへ。
一部はフランス人医師の家族とフランス人クラブへ行き、水泳、卓球。
編集氏バイクで3回転ぶ。
ヨーコさん日射病のため留守番。夜ナイトクラブでダンス。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.14『積みすぎた箱舟』の舞台、エショビ村に入る。4泊。
登場人物のアンドライアは大人風になってしまってあまり面白くなかったが、欲の深そうな村長はじつにそのとおりで、その村長を女性たちは逆に困らせたというから立派。ジーグラー神父に教えられた湖の島に行く。

【伊藤幸司のメモ】
グランド・マルシェ、カメルーン一大きい
夜ミーティング
トゥモロー・オムレツ、レストランにて
夜ナイトクラブへ

【伊藤幸司のメモ】
水泳、卓球、氷入りコーラ、マルシェへ
関さん日射病、
編集氏、朝ベッドから落ち、オートバイで3回転ぶ
市場でロバ2,000フラン、牛2,000フラン


8月15日(火)第18日

【アムカスへの報告文書】
医師ドクター・アルゼール・ギーの車でモコロ、ルムシキ往復
VWの軽ジープにドクター、奥さん、フランシス(息子?)とベビーちゃん、オットリ君、伊藤の6人。
モコロで若い医師も同型の軽ジープで合流。ルムシキのキャンプマンへ。
食事、9時出発、6時帰着。2人の医師はそれからテニスの試合とか。
金属の前飾りの子どもはキルディ族の中のキャプシキ族

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)──8.15マルア発(バス)、8.18ヤウンデにて1泊、SOCACAOに連絡。

【伊藤幸司のメモ】
朝、カメラ君、デザイナー氏、KABATAさん、おねえさま、ヨシ子さん、クリちゃんの6人、ヤウンデに向け出発。17日にドゥアラにて西アフリカから来る野村氏と会って西カメルーンへ行く予定。
ベビーちゃん、オットリ君、伊藤はフランス人医師の車でナイジェリア国境の山岳観光地ロムシキ往復260km。
日射病のヨーコさんは留守番。
婦長さん、ミッキー、リツコさんは山登り……の意気込みで出発。あまりに強い日差しのため川で遊んで帰る。


8月16日(水)第19日

【アムカスへの報告】
全員ブラブラ過ごす。
ベビーちゃん、婦長さんはドクターの奥さんに家畜市場に誘われる。
その足で病院に寄り、ベビーちゃんは糸を抜く。
伊藤、アムカスへの最初の報告書(18日目まで)を送る。

【伊藤幸司のメモ】
SOCACAOに行動連絡
1日ブラブラ
ベビーちゃん、糸を抜く。
あとはヤウンデで折れた歯の神経を抜けばよい。


8月17日(木)第20日

【アムカスへの報告文書】
チャド湖を見たい編集氏、婦長さん、ミッキー、リツコさんと、もう一度フォール・フローへ行きたいおかあさんがプジョータクシー(乗合)で北へ向かう。

【おかあさんの報告】
15〜16時ごろフォール・フォロー着。すぐにキャンプマン・フォール・フォローへ。
おかあさんが8.13に世話になったアダマ氏がマッカリー氏というコミッセリー・ポリスを紹介してくれ、明日迎えに来るという。

【伊藤幸司のメモ】
ベビーちゃん頭痛激しくドクターにマラリアだと脅される。
ベビーちゃん、関、オットリ君残留


8月18日(金)第21日

【アムカスへの報告文書】
チャド湖組(編集氏、婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)はフォール・フローからシャリ川を丸木舟で渡り、チャド共和国のフォール・ラミーへ。チャド湖までのうまい交通がなく、街をぶらついて引き返す。

【おかあさんの報告】
ホテルのレストランで軍の宴会があり。アダマ氏とマッカリー氏も出席するというのでチャド湖行きの計画はダメに。
しかし、昼ごろ、みんなでバス乗り場にいたときチャド湖までの値段を聞くと1人5,000フランとか。話にならない。
おかあさんは借りていた自転車をホテルに返しに行くとまだみんな帰っていないので、チャド湖へ向かったのかと考えて、アダマ氏の家に行って留守を幸いに昼寝をしていると、夕方7〜8人が帰ってきた。彼らは3〜4時間で値切るがダメだったという。全員で夕食。後ダンスへ行き、ホテルの仲間を誰かが呼んできた。

【アムカスへの報告文書】
伊藤、ヤウンデにて各パーティの動向を把握するためひとりで出発。丸3日間バスの中で生活して、8.21朝ヤウンデ着。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.18エショビからマムフェに帰る。

【伊藤幸司のメモ】
朝銀行で換金の後、ヤウンデ行きバスに乗る。11:00マロア発、16:00ガロア着。
乗り換えて車中一泊、ヒゲをあたってもらう。
夜蚊に悩まされる


8月19日(土)第22日

【アムカスへの報告文書】
チャド湖組──今度はカメルーンの最北端でチャド湖を見ようとするが、タクシーが1人20ドルと言われて、終日値段の交渉に終始する。

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)──8.19朝の列車でドゥアラへ。エデアで事故のため下車。車でドゥアラへ。
*ドゥアラでカメラ君が合流。カメラ君は8.17にドゥアラでマリから戻ってくる野村氏と会う約束だったが、バスの遅れで迎えられなかった。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.19クンバに向かうが倒木やバスの故障で途中1泊。

【おかあさんの報告】
シャリ河の丸木舟で国境を越えてフォール・ラミー(チャド共和国)へ。行き1人50フラン、帰り1人200フラン。
フォール・ラミーでもチャド湖行きは不可ということで、街をぶらついて帰る。入国手続は川の手前で行った。

【伊藤幸司のメモ】
06時より出発準備。10時ガロア、15時ンガウンデレ着


8月20日(日)第23日

【アムカスへの報告文書】
チャド湖組──ワザ地区の軍司令官と友だちになり、有名なワザ国立公園まで彼の車に便乗。雨期のためカモシカぐらいしか見られない。ワザからは3人がおかあさんの友人の車でマルアに向かい、編集氏、ミッキーの2人はあてどなく車を待ち、深夜にマルアに帰着。

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)──8.20 13時の列車でクンバへ。モンテカルロ・ホテルに入る。
最初1部屋4ドル×2人=8ドルだったが、従業員の部屋に通されたら広かったので1ドル×6人=6ドル(ただしホテルで食事をするという条件)となった。
このホテルはクンバの社交場となっていて、バーや娯楽室があり、アメリカ人(平和部隊)やインド人が出入りしていた。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)──8.20クンバにつくとすぐ電報を月曜に打ってもらうよう人に頼んで、やはり『積みすぎた箱舟』の舞台であるバロンド・コトという湖に向かう。そこでも登場人物たちに会う。ママちゃんの本にはサインがいっぱい。

【おかあさんの報告】
朝、キャンプマンで編集氏の隣に泊まっていたワザのチーフがワザに行くというので全員乗せてもらう。ワザでタクシー待ち。食事を済ませたところで車を止めるとアダマ氏の友人の車だった。おかあさん、婦長さん、リツコさんが便乗、編集氏、ミッキーは別の車を見つめてフォール・フローへ帰った。

【伊藤幸司のメモ】
06:50ンガウンデレ発、深夜25:15ヤウンデ着


8月21日(月)第24日

【アムカスへの報告文書】
ヤウンデのSOCACAOにてメンバーからの連絡をチェック。
西カメルーン組──西カメルーンに向かった4人(アニメ氏、シモヤン、ママちゃん、ボンヤリさん)からの電報を見る。8.11にマムフェ発信のもので、8.17にクンバ着の予定。
マルア先発組──8.15にマルアを出た6人(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)は8.18にヤウンデに1泊し、8.19にドゥアラ経由クンバに向かった。
昼、歯の治療のためマルアより飛行機で飛んできたベビーちゃんを迎え、午後国立病院にて神経を抜き、セメントを詰める。あとは傷が完治するのを待って、帰国後の処置。
おかあさんは今日、婦長さん、ミッキー、リツコさんは明日ヤウンデに向けマルアを発つ予定だと知る。

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組──8.21女性4人(おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)はバメンダに向かい、1泊して帰る。その間、男性2人(デザイナー氏、カメラ君)は8.21〜22とクンバで留守番。6人部屋に2人となったら2ドル×2人=4ドル。
じつは8.20に列車の中で出会った見習い教師に会いにミッションスクールへ行ったところ、そこのシスターがバメンダがいいというのですぐに計画を立てた。行きは乗合タクシーで直行。バフーサンの港も見た。クンバへの帰りはローカル・タクシーを4回乗換。

【アムカスへの報告文書】
マルア後発組(婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)──8.21おかあさんがワザから車に乗せてもらった彼女の友人の車にそのまま便乗。フルベ族の上流階級の家々に泊まりながらの豪華な旅が始まる。

【おかあさんの報告】
昨日出会ったアダマ氏の友人・ムハメッド・ブバワの車でガウンデレに向かうがガロアの手前、ギデルで1泊。郡長の友人なので、翌朝の朝食は郡長の家で。ブバワ氏は仕事を終えると態度がていねいになった。カメルーンに住まないかとすすめられた。

【伊藤幸司のメモ】
午前中SOCACAOへ。昼八幡氏と空港にてベビーちゃんを出迎える。豪華なベトナム料理。ホテル・ANROREへ。15時病院へ。2時間で歯は終了。ホテルですべて洗濯。


8月22日(火)第25日

【アムカスへの報告文書】
西カメルーンの4人より「25日にドゥアラに集合できないが心配なく」と、ただそれだけの電報が入る。発信は8.21クンバ。
その直後、同じ8.22クンバ発のデザイナー氏、カメラ君の電報「モンテカルロホテルに滞在中」を受け取る。

【アムカスへの報告文書】
マルア後発組──8.22女性3人(婦長さん、ミッキー、リツコさん)バスでマルア出発。

【おかあさんの報告】
昼ごろからガロアの手前で川止め。15時頃まで待つことになり、レストランへ。いろいろな種族が川止めで集まった。8.22にマロアを発った3人と会う。川を渡って車はまたエンジンストップ。夕方ガロア着。
ブバワ氏の家が小さいのでキャンプマンを1,500フランで決めて3人を迎えたが、3人は値段が高いといって別のホテルへ。夕食はブバワ氏の家でごちそうになる。

【伊藤幸司のメモ】
朝から旅のまとめ。11時に八幡氏、八木氏来られ、アニメ氏の電話伝えられる。14:20八幡さん、カメラ君の電報。
終日机に向かう。
ベビーちゃん換金と食料買い出し。
夕食はオーロールで藤田夫妻が来られ、モンフェベ・マルセイユで話す23:00まで。


8月23日(水)第26日

【アムカスへの報告文書】
何もなし

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組──8.23クンバ郊外の湖で女性3人(おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん)が泳ぐ。だれもいなかったので。それから石けん11個でカヌーに乗った。

【おかあさんの報告】
マロアからガウンデレまでブバワ氏に同行(彼はガウンデレに転勤するところだった)。ホテルが高かったので、彼の友人の家、役人の宿舎で泊まる。

【伊藤幸司のメモ】
朝から旅のまとめ。
15時2人でSOCACAOへ。工場の方にカカオの木から製品まで見る。18まで話し込んで藤田氏夫妻に送られる。グランド・ホテルで話す。19時から21時までの長い夕食。ベビーちゃん心理学などの話。


8月24日(木)第27日

【アムカスへの報告文書】
何もなし

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)──8.24カメルーン山の麓、海岸の町ビクトリアへ行き、アトランチック・ビーチホテルに泊まる。海水プールで泳ぐ。

【アムカスへの報告文書】
マルア後発組(婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)
8.24朝、ガウンデレでおかあさんが3人と合流。バスでヤウンデに向かう。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)
8.24ブエアにて1泊。

【おかあさんの報告】
ガウンデレで3人と一緒になってバスに乗る。

【伊藤幸司のメモ】
SOCACAO に行動連絡。15時地図を買ってSOCACAOへ。連絡なし。メモを残す。17時ホテル。


8月25日(金)第28日

【アムカスへの報告文書】
06時、北からのバス溜まりで8.21、8.22にマルアを出た女性の消息を聞くが、未到着。
ベビーちゃんは25日夜のC班集合に間に合うよう、08時の列車でドゥアラに向かう。
事故発生に備えて国内線飛行機のスケジュールを調べる。

【アムカスへの報告文書】
マルア先発組(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)
8.25ドゥアラ帰着。

【アムカスへの報告文書】
マルア後発組(婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)
8.25本来なら深夜の1〜2時にヤウンデ到着の予定が、車の故障などで遅れて、08時10分前にヤウンデの手前で再び故障。そこからタクシーを飛ばして08時05分発のドゥアラ行き列車に飛び乗った。車内でベビーちゃんと合流。伊藤に知らせる余裕なく列車は出発した。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃん)
8.25ドゥアラ着。そのままキンシャサに向かう。

【アムカスへの報告文書】
西カメルーン組(アニメ氏、シモヤン、ママちゃん、ボンヤリさん)
8.25の集合を待たずに16:55発の飛行機でキンシャサ(ザイール)に飛んでいた。
「ママちゃん、ボンヤリさん、シモヤン、アニメ氏、の4名、25日2:00pm、ホテル・ドゥ・ウーリ着。会えないので金曜(25日)の16:55の飛行機でキンシャサに向かいます。日本の大使館に連絡をとっておくつもりですが、何分、土地不案内な為、御迷惑のかけっぱなしと思いますが、フショウの息子たちをもったと思ってがまんしてください。できるかぎりキンシャサで会いましょう。シモヤン&アニメ氏」

【おかあさんの報告】
08時の10分前にヤウンデの少し前でバスがエンスト。08時に列車が出るのでタクシーに乗り替えて駅へ。列車に飛び乗った。伊藤リーダーがヤウンデで待っていると聞いて下りようとしたら発車してしまった。
(この報告はザイール河の船旅の中で聞いたのだが)
旅を振り返ってみるとフォール・フォローが一番よかった。
ひとりで行ったとき、こういうところで生活できたらいいなと思った。人が多くない、のどか、会った人たちがよかった。
生活テンポが求めていたものにピッタリ。どうしたらもう一度来ることができるか、そればかり考えている。いまもやはり行きたい。
ほんとによかったのか、もう一度確かめたくて、夜中考えて、朝、みんなと一緒に行くことにしたのだけれど、やはりイメージは壊されなかった。
友だちになったアダマは警察のオフィサーで、新聞記者の友人もいる。私に接した人たちは上流階級の人たちだった。
辞書をひきながらの会話だったけれどフルベ族の彼らが友だちになってくれたのは、やはり私の肌が白かったから。でもただ珍しさだけではなかったと思う。帰ってから手紙で確かめたい。他の人は子どもに見られたかもしれない。私たちのように積極的に行動する女性は彼らの世界にはいないのだろうか。

【伊藤幸司のメモ】
夜C班集合。ホテル・ドゥ・ウーリ。
06時にバス停でチェック。22日に2人がマルアを出たという。21日には2人か。
到着はまだなのでベビーちゃん08時の列車でドゥアラへ向かう。


8月26日(土)第29日

【アムカスへの報告文書】
06時、バス停にて編集氏と会う。彼は8.23にマルアを出発し、女性4人(婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)がガルアを発ったところまでは確認していた。しかも途中で交通事故が起こっていないことは運転手たちが保証してくれた。
私は編集氏と2人で列車に乗り、ドゥアラに向かう。
夜7時、ドゥアラのホテル・ドゥ・ウーリには10人がいた。

◎マルア先発組──マルアから西カメルーンに入った6人(デザイナー氏、カメラ君、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)の行動は以下のとおり。
8.15 マルア発(バス)、8.18ヤウンデにて1泊、SOCACAOに連絡。
8.19 朝の列車でドゥアラへ。エデアで事故のため下車。車でドゥアラへ。
*ドゥアラでカメラ君が合流。カメラ君は8.17にドゥアラでマリから戻ってくる野村氏と会う約束だったが、バスの遅れで迎えられなかった。
8.20 13時の列車でクンバへ。モンテカルロ・ホテルに入る。
最初1部屋4ドル×2人=8ドルだったが、従業員の部屋に通されたら広かったので1ドル×6人=6ドル(ただしホテルで食事をするという条件)となった。
このホテルはクンバの社交場となっていて、バーや娯楽室があり、アメリカ人(平和部隊)やインド人が出入りしていた。
8.21 女性4人(おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん)はバメンダに向かい、1泊して帰る。その間、男性2人(デザイナー氏、カメラ君)は8.21〜22とクンバで留守番。6人部屋に2人となったら2ドル×2人=4ドル。
じつは8.20に列車の中で出会った見習い教師に会いにミッションスクールへ行ったところ、そこのシスターがバメンダがいいというのですぐに計画を立てた。行きは乗合タクシーで直行。バフーサンの港も見た。クンバへの帰りはローカル・タクシーを4回乗換。
8.23 クンバ郊外の湖で女性3人(おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん)が泳ぐ。だれもいなかったので。それから石けん11個でカヌーに乗った。
8.24 カメルーン山の麓、海岸の町ビクトリアへ行き、アトランチック・ビーチホテルに泊まる。海水プールで泳ぐ。
8.25 ドゥアラ帰着。

◎マルア後発組──チャド湖を見に行ったグループの女性4人(婦長さん、ミッキー、リツコさん、おかあさん)の行動。
8.21 おかあさんがワザから車に乗せてもらった彼女の友人の車にそのまま便乗。フルベ族の上流階級の家々に泊まりながらの豪華な旅が始まる。
8.22 女性3人(婦長さん、ミッキー、リツコさん)バスでマルア出発。
8.24 朝、ノガウンデレでおかあさんが3人と合流。バスでヤウンデに向かう。
8.25 本来なら深夜の1〜2時にヤウンデ到着の予定が、車の故障などで遅れて、8時10分前にヤウンデの手前で再び故障。そこからタクシーを飛ばして8時05分発のドゥアラ行き列車に飛び乗った。車内でベビーちゃんと合流。伊藤に知らせる余裕なく列車は出発した。

◎ベビーちゃん──マルアでもヤウンデでもほとんど動けなかったので、この日1泊の予定でヴィクトリアへ向かった。
◎西カメルーンを歩いた問題の4人(アニメ氏、シモヤン、ママちゃん、ボンヤリさん)は8.25の集合を待たずに16:55発の飛行機でキンシャサ(ザイール)に飛んでいた。
「ママちゃん、ボンヤリさん、シモヤン、アニメ氏、の4名、25日2:00pm、ホテル・ドゥ・ウーリ着。会えないので金曜(25日)の16:55の飛行機でキンシャサに向かいます。日本の大使館に連絡をとっておくつもりですが、何分、土地不案内な為、御迷惑のかけっぱなしと思いますが、フショウの息子たちをもったと思ってがまんしてください。できるかぎりキンシャサで会いましょう。シモヤン&アニメ氏」
◎カメルーンから直帰するA班────A班のオットリ君、ヨーコさんの2人は費用の節約のためもあってずっとマルアに滞在しており、8.29のA・B班集合に間に合うよう、25日頃、マルアを発ったはずである。
◎そして編集氏とぼく。
全員の消息が明らかになってきた。

【アムカスへの報告文書】
ベビーちゃん──マルアでもヤウンデでもほとんど動けなかったので、この日1泊の予定でヴィクトリアへ向かった。

【伊藤幸司のメモ】
06時バス停で編集氏と会う。08時の列車で2人ドゥアラへ。
西カメルーンの4人が25日にキンシャサへ向かい、オットリ君、ヨーコさん以外の全員が集合。


8月27日(日)第30日

【アムカスへの報告文書】
日曜のために何もできず、各人おみやげ探しに熱をあげる。
B班のカメラ君、編集氏は9.1までに陸路ナイジェリアに入国して、ビアフラを通ってラゴスに向かうことになる。出発は8.28 13時の列車と決め、A・B班の集合日は解消して、デザイナー氏が8.29までA班の2人を待つことになる。A班は9.2の飛行機でラゴスに向かう予定。
夜、婦長さんの誕生祝いと、A・B・C班のお別れパーティ。ホテルの玄関に車座をつくり、ワインを酌み交わしながら24時まで歌い続けた。

【伊藤幸司のメモ】
夜婦長さんのバースデー。A・B班とのお別れ会。
24時までホテルの前で歌う。酔っぱらいの軍人とトラブル。


8月28日(月)第31日

【アムカスへの報告文書】
午前中にドゥアラ〜キンシャサへの飛行機チケット購入。昼、B班の出発。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
カメルーン
13時 列車でドゥアラ発
16:30 クンバ着。

【伊藤幸司のメモ】
チケット購入。吉田氏にあいさつ。博物館。SOCACAOに電報。
夜、婦長さんの金が盗まれた事件の捜査。


8月29日(火)第32日

【伊藤幸司の日記】

●キンシャサの初日
 早朝、ドゥアラ空港へ。08:30キンシャサ着。UTAはさすがフランスの会社だけあって、エジプト空港とはムードが違う。


★以下は「アムカス探検学校アフリカ・ザイール〜ケニア 1972.8.29-9.27」へ





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