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★アムカス探検学校アフリカ・ザイール〜ケニア
1972.8.29-9.27

★2011年に「アムカス探検学校」の資料をデジタル化したようですね。すでに永いことホームページの「未整理・糸の会のいろいろ」欄に置いてありましたが、今回それを写真中心にリメーク。いまや自分で読んでも記憶のはるか向こう側に行ってしまったような【伊藤 幸司の日記】もページ末にそのまま再録しておきました。



フェリー乗船まで

*8.29(06:30)ドゥアラ(カメルーン)→8.30キンシャサ(ザイールの首都)
*8.31飛行機で(09:00)キンシャサ→(11:00)ムバンダカ
*ムバンダカで翌日のコンゴ河フェリー乗船まで滞在。




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フェリーに乗船

*9.1(05:30)ムバンダカでコンゴ河フェリーのKILI号に乗船。メンバーの4人はすでにキンシャサから乗船。
*9.7 キサンガニ到着予定。6日間の旅が始まる。



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バスでイツリの森を抜ける

*9.8バスで(08:00)キサンガニ→(21:15)ニアニア。
*9.9(06:30)ニアニア→9.10(05:50)コマンダ。
*この日、ピグミー族が住むイツリの森を抜けた。




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トラックでヒッチハイク

*9.10 トラックのヒッチハイクで、(06:30)コマンダ→(20:20)ブテンボ。
*9.11(18:30)ブテンボ→9.12(13:00)ルツル。
*9.13(11:30)ルツル→(16:15)ゴマ。
*ゴマからルワンダに入国した。




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ルワンダ北部を横断

*9.13(19:00)ゴマからルワンダのギセニィに入国。
*9.14 バスでカリシンビ山(4,508m)を最高峰とするビルンガ火山群の山麓を抜ける。
*キソロでウガンダに入国。




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ウガンダ〜ケニア

*9.15 ウガンダに入国して、(12:30)キソロ→(15:30)カバレ。
*9.16(07:45)カバレ→(14:00)カセセ。
*9.17 午前中タクシーでエリザベス国立公園へ。




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*写真はここまでです。以後突発的な戦乱に巻き込まれて道中いろいろあった末に警察車両で首都カンパラに護送?……され、中央警察の留置場へ。白人の神父、ジャーナリスト、ふつうの家族たち……の中に放り込まれて無料の1泊となった。アミン大統領がイギリス系インド人の追い出しを図っており、タンザニアに亡命していたオボテ前大統領との間で戦闘状態が発生したのだった。
*9.21 空路ナイロビ(ケニア)へ。
*9.23-27 ナイロビからカイロ、ボンベイ、ホンコン経由で日本へ。



アフリカ探検学校1972・リーダーノート+α


8月29日(火)第32日

【伊藤幸司の日記】

●キンシャサの初日
 早朝、ドゥアラ空港へ。08:30キンシャサ着。UTAはさすがフランスの会社だけあって、エジプト空港とはムードが違う。
 空港から街までタクシーは4ザイール(本当の値段は2ザイール)。
 全員でまず銀行に入る。その間、ホテルと地図を探す。Hotel du Pool が市の中心らしく、しかも安そうなので、ともかく一部屋に全員のザックを入れる。
 昼食と大使館探しが必要なのだが、食堂がまったく見当たらない。
 まず12番のバスに乗ってみる。6月30日通りをまっすぐ進む。ノークラッチの画期的な車のようだが、何しろ古くなっているので、シフトするたびに猛烈なショックがある。
 鉄道線路の終点で降り、バナナやピーナッツを食べる。午前中だけという国立公園事務所をのぞいて、タクシーでレオポルド二世像で落ち会うことにする。小粋で慌て者の運転手のおかげでスタンレー山から市の全景を見られた。
 今は取り外されてしまったレオポルド二世像から、レオポルド二世通りに沿って、ルワンダ大使館をさがしたが、誰もいなかった。
 さらにウガンダ大使館へ。いくつかに分かれて日本大使館、タンザニア大使館などへ。ぼくは港へ。
 港では「マダム」と呼べば分かる発券担当の白人女性と会った。
 キサンガニ行きの船は9.28(昨日)発ったこと。それに8人の旅行者が乗り、うち4人は男女2人ずつの日本人だったと。
 9.30(明日)ポールフランキ行きの船が出て、5日間で着く。そこからカレミエまでは鉄道で5日。
 その後の船はキサンガニ行きが9.11、ポール・フランキ行きが9.6。
 大使館でアニメ氏たちの手紙を受け取る。
 8.28の08:30~09:00に書かれたもので、9.11までキサンガニ行きの船がないので、8.30のポート・フランキ行きの船に乗る予定とのことであった。これからビザを取りに行くとのことであるが、恐らくビザをとり、チケットを買いに港へ行って、キサンガニ行きの船が出るのを知り、あわてて乗ったのであろう。
 彼らは25日集合の約束を破っているだけに、頼みの船に逃げられた我々は無念。
 夜、伊藤萬(イトマン)の岡さんのアパートで女性軍が料理をし、夜食会。

【アムカスへの報告文書】
ぼくらC班はドゥアラからキンシャサへ飛ぶ。銀行で換金を終えると昼。それから大使館まわりをしたがすべて閉まっていた。
例の4人の手紙を日本大使館で受け取る。8.28の朝には8.30発のポール・フランキ行きの船に乗る予定と書いているが、じつはその日にザイール河本流を遡るキサンガニ行きの船が出ており、港の出札部門の白人マダムの話から、彼らがその船に乗ったことを確かめた。
「一日、一日がとても充実しています。食べものはうまいし、人間はいいし、我々の行く手がすべて開かれているような気がする。じゃ又ね! ママちゃん」
「体力と図々しさで頑張っています。ボンヤリさん」

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
カメルーン
10時 タクシーでクンバ発
16時 バメンダ着。

【伊藤幸司のメモ】
A・B班集合
06:30ドゥアラ発。08:30キンシャサ着。ホテル探し。大使館探し。
夜、イトマンの岡誠氏、幡武氏のアパートで夕食。

【伊藤幸司のメモ】
キンシャサ→キサンガニ 1,734km
キンシャサ発8.28、9.11
1等49.79(2人部屋、食事つき)、2等10.60(6人部屋、食事なし)、3等?

8月30日(水)第33日

【アムカスへの報告文書】
14時までに陸路組はルワンダ、ウガンダ、ケニア、空路組の婦長さん、ミッキー、リツコさんはウガンダ、ケニア、タンザニアのビザをとる。
空路組は9.2の飛行機でウガンダ入りし、ケニア経由でタンザニアのモシに滞在。できればキリマンジャロに登る。
あとの7人は8.31の飛行機でンバンダカに飛べば8.28にキンシャサを出た船をつかまえられることがわかり、18時、滑り込みセーフで飛行機のチケットを買う。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
カメルーン
08時 バメンダ発
14:30 マムフェ着。

【伊藤幸司のメモ】
7人はウガンダ、ルワンダ、ケニアのビザ取得。
3人はウガンダ、ケニア、タンザニアのビザ取得。
夕方、7人は明日ムバンダカに飛ぶことを決定。

【伊藤幸司のメモ】
朝、全員でウガンダ大使館。別れて3人はタンザニア、ケニア、7人はルワンダ、ケニア。
午後4時、エア・ザイールにて国内線の時刻表を調べる。すぐに港に行き、28日発のキサンガニ行きの船をムバンダカでつかまえられるか聞くと、31日の飛行機でなら可能と知る。即時7人を集めてチケットを買う。6時の終業時間ギリギリでセーフ。
3人は土曜日の便でエンテベ(ウガンダ)に飛ぶことになった。

8月31日(木)第34日

【伊藤幸司の日記】

●ジャングルを飛んでいる?
 08:30の飛行機に乗るために06時起き。すぐに車がつかまったので07時に空港に着く。空港の国内線カウンターは大混雑で、アナウンスもなければ表示もない。ただ人々がカウンターに群れをなして各々チケットを振りかざしている。ルムンバシ行きの人々が多いようだが、言葉が分からぬうえに、国内線ではザイール方式に従わなければならないので、不安は大いに高まる。
 「私たちは日本からの7人のグループですが、どこに並べばいいのですか?」
 例によって裏から尋ねてみる。しかし期待したあたたかい反応は得られず、言われたカウンターの前で辛抱強く待つ。
 そろそろムバンダカ方向のチケットの人々が目につくようになってきたのでいっそう緊張する。ここで乗り遅れるようなことになったら、せっかくの大奮闘も水の泡だ。
 今度は人の善さそうな係員を探して、こちらに来るたびに「ムバンダカ・7人!」と繰り返す。
 やっとチェックイン。名簿を覗いたら30人くらいしかいず、しかも我々の名がそれにあったのでひと安心。
 すぐにザックを計量するが、7個のザックだけで140kgをわずかに割るところ。ほぼ20kg平均だ。もし機内持ち込みのバッグまで計られたら、超過料金で泣きの目を見なければならない。国内線ではどちらに振れるかわからない。
 その上、タグがムバンダカではなく、あり合わせの別の行き先のものをボールペンで訂正しているだけだから頼りない。本当に目的地に着くのだろうか。
 600円もの空港税を払っていよいよ飛行機に向かうときには、すべてを運に任せる気持ちだった。国内線の経験はこれが初めてで、しかも国際線のような一定の共通システムがないので大いに緊張させられた。
 時刻表では機種がフレンドシップとなっていたのに、目の前にあったのはDC4であった。先を争って窓際を占める。オンボロバスの風情だが、B707のエコノミー席と較べたら足のあたりには余裕がある。
 オンボロ飛行機にはかなり時間をかけてエンジン回数を上げてから、ようやく滑走に入った。すると意外に短い滑走で離陸したのでひと安心。
 窓にしがみついて下を見るのだが、雲が厚い。しばらくして雲は銀色に輝き始めた。コンゴ河はどこだ、ジャングルはどこだとただひたすら目をこらすうちに雲は切れ始める。しかし今度は上空の薄い雲が太陽を遮って影のないのっぺりとした景観だ。草原性サバンナの緑の中に黒いしみのような模様がしみこんでいる。岩石地帯だろうか。火入れの跡にしてはあまりにも数が多いし、人里からも離れている。
 ジャングルはないか。川筋から低地に沿ったようなかたちで樹幹の重なりが見える。それはいつか写真で見たコンゴの密林の航空写真とそっくりだ。────が、しかしそれはあまりに部分的で川辺の林といった感じに過ぎない。
 森林とサバンナの境界がじつにみごとに引かれているのには驚いたが、とにかく草原と森林と黒い大地のせせこましいモザイクがただ性急に繰り返されるだけである。
 コンゴ河はないのか。いつまで経っても細い蛇行しか見えないので、地図を広げてみた。そこでぼくは大失敗に気づいた。この飛行ルートからすれば、河は左手にあるはずだし、それに対岸はコンゴ・ブラザビルだから、向こう側を飛ぶはずはない。ぼくは左側に席をとらなければならなかったのだ。
 コンゴ河も大密林も見られず、しかも写真一枚撮れる光線状態にもならずに、約800kmを2時間で飛んでムバンダカ上空に来た。
 高度を下げながらコンゴ本流を飛び越えて旋回する。何本もの支流がめちゃくちゃに蛇行し、ささやかな森とありふれたサバンナだけがずっと続いている。その中で本流だけはさすがに大河の風格をそなえている。これから何日かこの河を遡るのだ。
 船は午後に着くと聞いていたから、できるだけ早く港へ向かいたかった。ところがここでも身分証明(ぼくたちはパスポート)と検疫がだらだらと続く。種痘の道具が机の上に放り出してあるから、その検査なのだろう。気ぜわしく荷物の到着を確かめるが、まだ誰も受け取っていない。
 いよいよ手続が終わって待合室に飛んでいくと、荷物は飛行機の下にあって誰も気に留めていないようだ。目を凝らすととにかくザックらしいものが7つそこにあった。冷たいコーラを飲みながらあきらめて待つ。

●港のあたりで
 1時間もして、ようやく荷物が来る。幸いぼくらの分は裏口からさっとタクシーに積めたので、逃げるように港へ向かう。町の周囲の住宅街は垣根囲いのなかにわら屋根の家があり、庭にはニワトリが餌をあさっている。のんびりした好ましいムードだ。
 中心街からすぐに河岸の港に出る。オフィスに飛び込むと船は明日だという。すでに港の人からもそう聞いていたのでだめ押しの確認だ。とにかく2等のチケットを切ってもらう。
 銀行が閉まっていてお金がギリギリなので、1km以上離れたホテル・ボロジャワに決める。鍵もまともにかからぬようなボロホテルだが、1人700円というのは物価高のザイールでは格安といえよう。トイレは悪臭に充ち、洗面台は配水管が切れているが、それくらいはガマンしよう。
 土地の連中がみんなシノワ(中国人)のところへ行けというので、さり気なくそのあたりに出かけてみる。あわよくば夕食にありつけるかもしれない。
 すると背が低く、それにもまして足が短く、それでいてガッチリした体格の人に出会った。まったく日本人と区別がつかない。
 4人の人が台湾からの技術援助でここに農園を開いているのだそうだ。日本語を話せるというあとの3人が不在で、ぼくらはビールをいただきながら、フランス語と英語と漢字でしばらく話しをする。さっと切り上げるのが礼儀である。
 さて、夕食に困った。レストランの少ないザイールの例にもれず、ここでもアフリカ人食堂はもちろん、高級レストランもまず見当たらない。食料品店を覗いてみるが、安くて腹に溜まりそうなものはない。結局港の近くで露店のおばさんからパンと煮魚を買ってわびしく食べるのだろうか。
 レストラン・ポール・ノール(北極レストラン)の張り紙の「午後5時30分より」という文字に賭けて、とにかく待ってみることにする。「顧客の要望により」という記述が気になったが、誰に聞いてもそこ以外に食事のできそうなところはない。
 待つ間に、ぼくはライターの石を探してインド人の店を飛び回ったのだ、そこでヤミドルのルートを見つけた。
 この町には赤い柱や緑の壁の商店が多く、ちょっと中国風でもあって、いままでの町とはいささか趣が違っていた。これがほとんどインド人の店なのだ。
 どの店でもインド人は英語を話す。すっかり東アフリカに来たような気になってしまう。その一軒で青い目のインド人がぼくにささやいた。
 「近くロンドンに行くのだけれど、ドルはありませんか。1ドル75マクタで買いましょう」
 ザイールの通貨管理が厳しいので20~30ドルしかないけれど考えてみようと言って引き返した。
 調べてみると130ドルを隠し金として持ち込んでいた。現地通貨は1人1,000円ぐらいしか持っていないので、ここでヤミを使ってもいいと判断して引き返す。
 「100ドル紙幣と10ドル紙幣があるけれど、100ドル紙幣なら1ドル80マクタにならないか?」
 彼はそれに乗らない。「10ドル紙幣でけっこう」と言って、10ドル札10枚を受け取った。前に、大きい札を望んだ中国人がいたので言ってみたのだ。しかしもともと100ドル紙幣はいまのぼくには大きすぎるので、改めてそれを渡す。メンバー6人に10ドル分(公定の15ドル分)ずつ分けて当座の費用は確保できた。

 北極レストランの食事は高かったけれど満足だった。900円のディナーは、まずスープがたっぷりと来た。肉は外見に似ずやわらかで、これも十分に量があってパンとバターのお代わりまで来た。女性たちはエア・ザイールの座席にあった例の紙袋を出してパンを入れる。肉サンドもいくつか出来たようである。

【アムカスへの報告文書】
早朝、ムバンダカに飛ぶ。おかあさん、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん、ベビーちゃん、そして伊藤。ザイール河はさすがに雄大。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ザイール
エア・ザイールでキンシャサ~エンテベ(ウガンダ)のチケット購入。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
カメルーン
マムフェ→エコク(国境の町)

【伊藤幸司のメモ】
06時起きで空港へ。09時発、11時ムバンダカ着。ホテル・ボロジャワに泊まる。
夕方台湾農場へ。夕食は北極レストラン。

9月1日(金)第35日

【伊藤幸司の日記】

●2等船客の現実
 朝、海岸の趣のあるヤシの並木道を港まで行進。14~15歳にしかみられない女の子たち(じつは10歳以上サバを読まれているわけだが)が大きなザックを背負って歩くのはかなりの見ものだったに違いない。
 港でひたすら船を待つ。おかあさんはじっとしているのが苦痛らしく、ヨシ子さんの釣り糸を持って子どもたちと魚とりに熱中する。体長3cmほどの獲物とオタマジャクシを2匹ずつ。
 18時入港と分かったので、知り合いになったベルギー人マダムを頼って教会に行く。一部屋を空けてくれたので、各自手紙を書く。北極レストランへ出かけたお金持ちもいたけれど、たいていは昨夜のサンドイッチで飢えをしのぐ。とにかくアフリカに来てから毎日1食半が平均した食事量になっている。質となったら1食分にも満たないだろう。

 夕方、18時ちょっと前、ちょうど落日の中に期待をこめた船は来た。思いのほか大きい、というより、長い。車を積んだ先端の甲板は黒人でいっぱい。次の2階建ての客船は1等だろうか。
 ぼくたちは物陰に隠れて船が接岸するのを見る。客船の3階にのっぽとちびの女の子がいる。ノンビリさんとママちゃんだ。向こうはこちらの姿にまったく気づかない。目が悪いせいもあるかもしれないが、ぼくらが居ようとは思ってもいないからだろう。2人の男性の姿はない。
 接岸と同時に、ぼくらは彼女たちの前に出現する。2等だという薄汚れた客室からアニメ氏とシモヤンが来た。油とアンモニアの臭いにのってやってきたという感じ。真っ黒な顔をしている。
 「集合日の約束を破ったでしょう。それで叱りに来たんだ!」
 シモヤンは逃げ腰で頭をかいた。
 まず2等船室に入ってみるが船員らしい男を捜しても見当たらないし、このままでは部屋割りもないままうやむやになりそうなのでアニメ氏に相談する。
 「ぼくも2等の船員が誰なのか分からないんです。空いているところへどんどん入ってしまえばいいらしい。とにかく1部屋あるから荷物を入れて!」
 彼らも彼女らもじつは2等の同じ部屋の住人であった。6人部屋と聞いていたのに4人部屋。そこに新たに7個のザックを入れる。彼らは留守番以外は甲板や1等で寝ているというから何とかなるだろう。
 「気持ちだけは1等なの」
 ママちゃんはこざっぱりした服装でそういう。どう見ても1等船客だ。
 1等は食事付き98ドル、2等は食事がなくて21ドルといのがキンシャサ~キサンガニの料金で、さらに3等もあると聞いていた。2等船客は1等の食事も食べられるというので、1日1食ぐらいは高いのをがまんして食べるつもりでいた。
 「とんでもない、ぼくらもそう聞いていたけれど、1等も食事はつかないんです。売店でパンや魚の唐揚げなんかを売るからそれを食べているんです」
 ぼくはコンデンスミルクとパンをすこし買い込んではいたけれど、船をまわってみるとろくなものがないので、あわてて600円もパンを仕入れた。大小のフランスパンが20本ほどになった。
 洗面所の水はタラタラしか出ないし、おまけに油が浮いている。
 「夕方ビールやジュースを売り出すので、それを飲んでいる」とアニメ氏はいう。
 おかあさんが気を利かせてポリタンに水を汲んでくる。舌にまきつくような、ちょっと癖のあるムバンダカの水だが、ここでは頼りになる。
 部屋の直前にあるラウドスピーカーから雑音だらけのコンゴミュージックががなり始めた。ボリュームいっぱいである。
 「これが朝から夜中の1時ごろまでガンガン鳴るんだからたまらない」という。
 とにかく4人部屋に女性6人が寝て、ぼくは1等の甲板の寝心地を確かめる。怪しげな水でジメジメしたトイレの前の青いシュラフはシモヤンのものだそうだ。
 「どうも1等で寝るのは気がひけるから……」
 アンモニア臭のなかで寝るなどぼくには絶対にできない芸当だと舌を巻く。
 シモヤンに連れられてキャプテンに会う。腹の突き出たいかにも人の好いおじさんで、1等の2階の一番手前の部屋である。
 「私はセカンド・キャプテンだから、ファースト・キャプテンに聞いてみて、ここのデッキを自由に使っていい」
 彼はやさしいフランス語とこっけいな身振りで好意的に言ってくれた。
 「もうひとりの船長は渋い顔をした人だから、この話はこのままにしておいた方がいい」
 シモヤンの言葉にぼくも賛成。事実、1等デッキにはシュラフが干してあるくらいだから、なし崩し的に潜り込んだ方がいいだろう。

【アムカスへの報告文書】
夕方6時、思ったより巨大な船が入港。例の4人の顔が見えるが、向こうはこちらに気づかない。
彼ら4人の部屋に全員の荷物を入れる。チケットの検査も部屋割りも全くない。彼らにならって一等の甲板も自由に使うことにする。

◎西カメルーンを歩いた4人の足跡
8.8 早朝ヤウンデを発ち、バメンダ泊。
8.9-10 バメンダ近郊の村バリで2泊。
8.11 バメンダ→マムフェ。シモヤン以下バテたのでホテルで3泊し休養。グレートAIMエンタープライズという名のホテルは汚いが家族的。自炊3食。
8.14 『積みすぎた箱舟』の舞台、エショビ村に入る。4泊。
登場人物のアンドライアは大人風になってしまってあまり面白くなかったが、欲の深そうな村長はじつにそのとおりで、その村長を女性たちは逆に困らせたというから立派。ジーグラー神父に教えられた湖の島に行く。
8.18 エショビからマムフェに帰る。
8.19 クンバに向かうが倒木やバスの故障で途中1泊。
8.20 クンバにつくとすぐ電報を月曜に打ってもらうよう人に頼んで、やはり『積みすぎた箱舟』の舞台であるバロンド・コトという湖に向かう。そこでも登場人物たちに会う。ママちゃんの本にはサインがいっぱい。
8.24 ブエアにて1泊。
8.25 ドゥアラ着。そのままキンシャサに向かう。
彼らは行動範囲が狭いことと、かなり居候的な生活・自炊生活が送れたことで、キンシャサ到着時点までに使った費用は飛行機運賃120ドルを含めて250ドル前後。北部まで往復4,000~5,000kmのバス旅行をした人たちより確実に100ドルは安く上げた。

朝港へ。しばらくして入港は18時とわかり、教会に部屋を借りる。
1730ごろKILI号入港。2等はものすごい混乱で部屋がどうなっているのか。アニメ氏たちの部屋に荷物を入れる。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ザイール
16時ホテルを出て、イトマンの岡さんの家に行く。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア入国。
08:20 イコム→エヌグ

9月2日(土)第36日

【伊藤幸司の日記】

●活気ムンムンの2等客船
 船はムバンダカで接続し直した。2等船のボンバンディ号の左舷に小型の客船ロケレ号をつけ、それを機関つきの1等船キリ号が押していくのである。
 1等はエンジンの響きでいかにも船旅のムードがある。川風は埃も塩分もなく爽快。人声もほとんど聞こえず静かである。
 2等船に渡ると、とたんに喧噪と臭いが襲ってくる。2階のサロンのラウドスピーカーがその中心だ。狭い通路はどこでも人であふれているから、行き交う人々を見ているだけで飽きない。
 ザイール人の女性たちはサロン姿が一般的だ。頭じゅうに小さな三つ編みをつくって、それを黒い紐で巻き上げ、ニョキニョキと枯れ枝のように伸ばしている。それにもいろんなスタイルがあるらしく、20cmほども伸びたのを頭の上でひとつにまとめているもの、平行な櫛目を何本も入れたトウモロコシ畑型など。若い娘たちはまだ髪が伸びていないので、それなりに娘らしい髪になっている。縄のれんをだらしなく垂らしたようなものもある。
 いずれにしても都会で見かけるようなアフロスタイルはひとりもいない。髪型でその人の社会的な地位とか、部族が分かるのかもしれないと思う。
 男たちは、その服装を見ていると飽きることがない。一応ズボンにシャツという世界的なスタイルなのだが、あり合わせの工夫がすべて成功しているように思う。なにしろ足が長くてヒップがプリッと上がっているのだから、それだけで体型自体が華麗なのだ。
 さすがにパンタロン(フランス語ではスボンのことだが、例のラッパ型のもの)が多い。それも端布で裾を広げたモノやら、膝で別布を継ぎ足したものなど、日本のデザイナーをうならせる着こなしである。
 キルティングの女性用ナイトガウンを着た奴がいた。色あせ、裾はボロボロになっているが、それさえもサマになっている。
 破れズボンの上からショートパンツをはくのも流行と見える。帽子もベレー、カンカン帽、船員帽までさまざまだ。破れセーターまでがファッションの中で光っているのだから幸せな連中だ。飛行機族がダブダブのフラノの背広を汗をふきふき着込んでいるのよりは生き生きと自由の匂いに充ちている。
 とにかく2等は活気にあふれている。缶詰、魚、パン、タバコ、石けん、古着、ノート、ペン……、ありとあらゆる品物が船内のわずかな場所を見つけては広げられている。めちゃくちゃな混乱の中で、ぼくは船がゆらりとも揺れないのに気づく。

●ザイール河の光景
 時速3~4kmと目測したザイール河の流れは幅2kmから4kmの河幅いっぱいに押し出すように流れているのだ。波もほとんどない。次々に流れてくる浮き草のかたまりが船の波でぐらりと揺れてすぐに後方に消え去る。
 次から次へと現れる丸木のカヌーは河岸沿いを遡っているから、当然そこに流れの反流池帯があるのだろうが、それさえも目では見えないほどにザイール河は全面に押し出すように流れている。
 今は雨期で水位が高いのかもしれないが、岸辺は水際ぎりぎりまで緑が生い茂っているのに、水中に没した木が見当たらない。ナイル河の上流部、ビクトリアナイルでは年間の水位変化が1mほどであったが、このザイール河では水位の変化が小さいのかもしれないと思う。不思議なことにナイル河ではどこにでも見られるパピルスが全然ない。
 生い茂る緑はジャングルか? 30mほども岸に近寄っても、それは恐ろしさのない森だ。樹高は2階の屋根ほどだから、せいぜい10m。タブの木のような葉がただびっしりと重なっている。ほとんどは雨雲の垂れ込める空と茶色の河面の世界である。
 「双眼鏡で見るとジャングルみたいな風景だわ」
 KABATAさんが言った。
 ぼくらは例外なくターザンのジャングルを求めてアフリカや南米、東南アジアへ出かけていく。しかしそんなイメージは本物のジャングルの中では味わえない。失望した目でもう一度ターザンを見るとそれはまさにコンゴの川岸やヤウンデの農業林なのだ。
 この長大な河船は時速10kmぐらいで悠然とザイール河を遡り続けている。その船に、あらゆるところからカヌーが接舷してくる。体長150cmもある大ナマズや、真っ黒な薫製魚を持って。2匹のサルも売りに出されていたし、30cmほどのワニも1匹見た。
 それらはこの船ですぐに売りに出され、彼らはビールや、なにがしかの雑貨を手に入れて、また船を離れていく。昼も夜も、夜も昼も、とにかくカヌーはどこからともなく現れ、どこへともなく消え去っていく。
 いくばくかの金を手に入れるためのその仕事は、あまりにも危険に満ちている。とくに接舷と離舷の瞬間はむずかしい。
 何艘ものカヌーが転覆したが、波間にただよう人とカヌーとパドルのあたりにパンや衣類がつかず離れずに浮いて、そのままどんどん後へ置き去りにされる。彼らはカヌーを起こし、水をかい出してなんとか村へ帰るだろう。だが週に1度か、月に2度の商売はまさに水の泡だ。後からあわてて飛び込んでカヌーを追った男たちは、金を受け取る余裕があったのだろうか。ビールを飲み込んだ河はそれでも静かに流れ続けている。
 ぼくらは船の旅でどんな動物を見たか? というのは、かなり重要な問題だと思うのだが、じつは魚と鳥以外には、甲板で売られていた生きた小さなワニと、薫製にされたサル2匹しか見ていない。この旅の最初からでも、家畜以外に野生動物のたぐいは一匹も見ていないのではないだろうか。このままでは、ワニもカバもその姿を見ることは絶望的だという感じがする。
 かつてビクトリアナイルを300kmほどボートで下ったとき、巨大なナイルパーチ(淡水スズキ)を釣り上げたりしたけれど、保護区以外で見た動物はワニらしい影を1回。それからパピルスの茂みでカバの声を聞いただけ。ルワンダのカリシンビという山ではダカーという小型カモシカの肉を夕食として食べたけれど、それはガイド役の猟師と猟犬がいたからのこと。
 もしアフリカで野生動物を見たかったら、ぼくらのような旅をしてはならない。そのかわり、アフリカにいるんだと感じたいなら、時間をかけ、金をかけずに歩いてみるのが一番いい。際限もなく続く単調な風景の中に身を置いてこそ、ぼくらはアフリカの大気を吸った気持ちになる。
 夕方から空はいよいよ低く厚く垂れこめてきた。ベビーちゃんが雨女のせいか、ぼくたちは青空のアフリカにあまり恵まれていない。飛行機で飛んだサハラ砂漠までが雲の下だった。
 ぼくは最後尾の屋根に上った。突風が吹く。スコールの垂れ幕がほの白い西の空に落ちている。
 河面と、河岸の緑と、そして空と雲とがしだいに闇に溶け込んでいく。船のサーチライトが左右に強烈な光を放つころ、とうとう雷光が走り始めた。
 音はない。一瞬、巨木の影が浮かび、空と雲が分離する。雷光はほとんど連続的にあらゆる方向に輝き、ときおり頭上を覆うように鋭い光線が走った。戦場の中を突き進んでいるような興奮。偉大なザイール河の恐ろしくも華麗な夜。船はあくまで静かに走り続け、サーチライトの光の中に白い矢印が浮かんでは消えていた。

【アムカスへの報告文書】
3隻の平底船をつなげた長いキリ号は昼夜を分かたず進む。両岸からカヌーが現れては魚を売って雑貨を買い入れていく。魚の中ではナマズが多く、体長150cmに達するものなどはさすが大ザイール河である。くだものもサルの肉も、すぐに売り出され、売り切れる。500人以上の人たちがともかくも生きているのである。
ただ、ザイール河の水はよくない。ナイル河のうす緑色の水とは違って、いかにも熱帯の川らしくかなり濁った茶色である。しかもそれに油が浮いている。
2等の食堂兼サロンでは一日中コンゴ・ミュージック(アフリカン・ミュージック)がガンガンと響き、人々は飲料水がわりのビールをラッパ飲みする。
夜、雷光が船のまわりで華々しくきらめき、コンゴの恐ろしくも素晴らしい夜にしてくれた。
一番安い両切りタバコのベルガ。3年前のルワンダを思い出させるこのタバコはやはりうまい。本当にうまいのダ。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ザイール→ウガンダ
05時に空港に向かう。
10:30 エンテベ空港着。荷物がナイロビまでいってしまい戻るまで5時間かかった。
天気は快晴、ヴィクトリア湖は海。
エクアトリア・ホテル泊まり。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
エヌグ滞在

【伊藤幸司のメモ】
夜、雷光
アムカスへ9.1までのレポート(no.2)

【伊藤幸司のメモ】
夕方、雲は低くたちこめ、突風が吹き始めた。川面と河岸の茂みと、空と雲がしだいに溶けあって船は闇の中へと進んでいく。
船のサーチライトが右に左に動き始めるころ、雷光が激しく光り始めた。
音はない。雲の向こう側がパッと明るくなる。暗黒の中に巨木の影が浮かび、空と雲が一瞬分離する。
雷光はほとんど連続的に、船のあらゆる方向に輝き、ときおり頭上にはっきりと光線が走るのを見た。
最後部のデッキにひとりで座っていると、まるで戦場をくぐり抜けているような恐ろしさに包まれる。
2等客船の喧噪はまったくない。ただ2隻の船を押しているエンジンの唸りだけが力強く伝わってくる。
偉大なるコンゴ河(ザイール河)の素晴らしくも恐ろしい夜。岸辺の小さな赤い灯の向こうに真昼のような閃光。
船はあくまで静かに進んでいく。サーチライトの光の中に白い矢印が浮かび、闇の中に消えていく。
この素晴らしい夜。やはり何艘ものカヌーが船に接舷しては離れていく。わずかな魚と雑貨の交換にしてはあまりにも危険な仕事。昼間見た転覆事故をまざまざと思い出しながら、生きることの厳しさを感じる。
ほとんど家影を見ない河岸に、確実に人が住んでいるのを知ったのは、次々に出現し、寄っては離れていく粗末な丸木舟だった。

9月3日(日)第37日

【伊藤幸司の日記】

●露店で買えるもの、売れるもの
 ポリタンの水もきれ、パンもなくなった。真剣に買い出しを考えなくてはならない。
 07時ごろ、売店でミルクティを売り出す。コップ1杯30円。それを並んで買う。次にパン(30円)と魚(一切れ30円)が出て、午後には肉(一切れ180円)も出る。
 ピーナッツ以外は非常に高い。しかもうっかりすると売り切れになる。甲板に出た露店では雑貨のほかに薫製魚、唐揚げの魚(一切れ60円)などもある。
 しかも主食類はすぐに売りきれるので、まったく不安だ。しかも水が油臭い。午後から売り始めるビールを飲むわけだが、アルコールに弱いぼくなどはジュースを買い入れるのにかなり苦労をする。ビールが90円、ジュースが70円である。
 この船ではちょっと上品に構えたらたちまち空腹と飢餓に襲われる。1等船客は付属の調理場で適当に料理をしているのだが、これも薫製魚を水で戻し、イモの類を煮るようなアフリカン・クッキングである。
 はからずも日本人11人、英国人2人、アメリカ女性1人という外国人旅行者はすべて2等船客だ。ところがボンヤリさんとママちゃんは1等船客のマドモアゼルと友人になってしまって、彼女の食客という感じ。夜も空いたベッドを使っている。彼女は一見してお嬢さんタイプ。キンシャサ大学で科学を学んでいるそうだが、親は裁判官、フィアンセがベルギーに留学中で近いうちに彼女も後を追うという。18歳である。

 11時ごろ、前甲板でクリちゃん、ヨシ子さんが不要の小物を売りに出した。要するに露店を開いたのだ。おかあさんがそれに加勢すると、たちまち黒山の人だかり。約30分で、250K、約1,500円の売り上げをものにした。
T字型のカミソリ────5K×6本
ブルーのワイシャツ────70K
粉シャンプー────5K
牛乳石けん────10K
金メッキの鎖────10K
香水(北海道のスズラン)────40K
化粧水の小瓶────30K
カーテン地────20K
ブラウス────30K

 船長から英国人を通じて注意が来た。
 「1等と2等の間を行き来するのは危険だから、白人客はどちらかに居所を決めてあまり出歩かないように」
 非常にありがたい忠告であった。クリちゃんとKABATAさんはすでに1等甲板に専用ベッドを出してもらっているから、2等船室の部屋には2人が寝るだけで、夜はほとんどが1等で過ごすことになる。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ウガンダ
ヴィクトリア湖でタクシーを待たせて昼寝。
18時 ナイロビ行きバス出発。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
06:45エヌグ→20:30ポート・ハーコート。鉄道で。

【伊藤幸司のメモ】
船はただ走り続けている。

9月4日(月)第38日

【伊藤幸司の日記】

●船上のフツーの日
 09時リサラに入港。なだらかな斜面に瀟洒な家が並んでいる。美しい町。この町は中央アフリカからキサンガニに抜ける道路の中継地でもある。
 かなりの人が下船。港の鉄条網の向こうにはオレンジやサトウキビ、ちまきのような餅、パンなどを売る人々が詰めかけている。貨物船が1隻停泊しているからだろうか、クレーンを使って陸揚げするのは大型のトラックだけである。14時ごろ出港。
 2等客船の夜は楽しい。例のラウドスピーカーの音楽でみんなが踊り始める。ビールが飛ぶように売れ、すごい熱気である。ここ数日の恒例としてヒッピー風の英国人教師とおかあさんが1曲踊る。するとみんなテーブルの上にまで鈴なりになって熱演を見守るのである。終わると大歓声と拍手。そして足を踏みならし、口笛が飛ぶ。
 一軒無秩序な群衆だが、そこに厳然たる秩序があるのに気づくのはこういう機会である。もうこの船では置き忘れたモノもまずなくならないし、いやな思いをすることもまずないだろう。初めは陰険に見えた売店のマダムも、毎朝挨拶する仲間になってしまった。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
08時ナイロビ着。アベイ・ホテル泊。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
ポート・ハーコート滞在。

【伊藤幸司のメモ】
昼、リサラ入港

9月5日(火)第39日

【伊藤幸司の日記】

●船上のフツーでない日
 早朝までブンバに停泊していたことを知らされた。
 朝食のときにシモヤンがパリッとしたカラーシャツは1等のマドモアゼルからのプレゼントだと知る。彼は自閉症だといいながら、とにかくモテる。カメルーンでも神父の前であやうく結婚させられそうになったという。
 とにかく18歳の、フィアンセのあるマドモアゼルがリサラで荷物だけ降ろして、自分はブンバまで乗ってきたのである。
 その意味がはっきりした。淡い恋を振りまいて旅する男、彼は幸せだ。ザイールにもひとり、ジャポネに特別な好意を感じ続けるであろう人間を残したのだ。

 生きたナマズが入荷した。体長20cmほどの小モノだが、ボンヤリさんが物々交換で手に入れたという。なんと50匹。それを1等の調理場を占領してケチャップ煮。丸のままだから髭もそのままついている。白米の上にのせて、リ・ポワソンというわけだ。例の4人はガツガツと食べた。
 ぼくの方の上品な女性たちにはあまり受けがよくなく、おねえさまあたりは「姿を見ただけで食べられないわ、私はもういいから、どなたか食べてくださらない?」
 たしかにグロテスクで生臭さもあるが、生きているのをアニメ氏やシモヤンが割いたばかりだから新鮮で身が締まっている。男連中は夕食と夜食を存分に食べた。

 夜、今晩はみんなで踊ることにする。おかあさんはおめかしして「ワタシ男性とじゃなきゃいやよ」
 ちびのママちゃんはなかなかの踊り手で、モンキーダンスの名手のようである。相手のペースにうまく合わせて大喝采を浴びている。
 アフリカを旅していながら依然太り気味のクリちゃんはピチピチと踊る。もうちょっとウェストが締まれば申し分ない。KABATAさんやヨシ子までが加わり、国辱的な日本人デーとなった。ふだんワイワイと騒ぐベビーちゃんは風邪気味と称して部屋に引っ込んでいる。いざというときに、現れない人だ。写真係のぼくもマドモアゼル? を押しつけられて2曲踊らされた。
 「今日はぼくも踊るぞ」なんて言っていたアニメ氏がただビールを煽っている。
 「一丁、やりましょうよ」「おお、やろう」
 なんと彼は阿波踊りをやり始めた。ムードとしてはドジョウすくいだが、おかあさんとぼくが脇役につく。すっかりノッたアニメ氏はマジックインキで髭まで描く大サービス。200人からの観衆がテーブルの上にまで立ち上がって大喝采。英国人のヒッピー教師も今日ばかりは隅の方で見物にまわっていた。

【東アフリカからの手紙】
9.5付けの東アフリカ3人組(婦長さん+リツコさん+ミッキー)の置き手紙(ナイロビにて)
皆様、お疲れ様でした。ようこそNAIROBIへ。
コンゴ川はどうでしたか。スタンレー山から見た様な素晴らしい落日を毎日見ながら来たのですか。
国境ではどうでしたか。無事すんなり行けるかどうか三人で心配していました。
こちらはまずまず予定通りです。ただ AIR ZAIRE がドジで間抜けでトンマなために、荷物だけ NAIROBI に飛んでしまうというアクシデントがありましたが、5時間待って、無事手元に戻って来ました。
とにかく、9月2日は KAMPALA の EQUATORIA HOTEL に一泊しました。3日、ビクトリア湖で一日遊び(抜群にきれいだった!)18時発の NAIROBI 行きバスに乗りました。国境もすんなり通って、4日08時 NAIROBI に着きました。
これからの予定は6日に鉄道かバスでキリマンジャロに向かい、一週間ぐらい MOSHI にいるつもりです。
天候によっては長びくかもしれませんが。帰る途中で MOMBASA に4、5日寄る予定です。NAIROBI には20日までには帰ります。(あくまで予定。一日ぐらい長びいても心配しないで下さい)
残り少ない旅を楽しんで下さい。
我々も頑張るどお!!

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
10時にサラーマ・ホテルに移り、大使館へ。平井宅に呼ばれる。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
11:30 ポート・ハーコート→13:30オウェリ。

【伊藤幸司のメモ】
夜、??に停泊していて早朝出港。シモヤンはマドモアゼルからオープンシャツをプレゼントされる。
夜、ダンスパーティに全員で繰り出す。アニメ氏の阿波踊り。ナマズ料理。

9月6日(水)第40日

【伊藤幸司のメモ】
河岸の村が、多くなり、立派になってきた。網を干している漁村も今日初めて見えだした。キサンガニまでの道路が通じているのだろうか。
カヌーは相変わらず丸木舟ばかりだが、せまい浜にたくさん並べてあって、子どもたちが水泳に興じている。元気な連中は船まで泳いで来ては、再び河に飛び込んで帰っていく。カヌーに乗った女の子たちも服を着たまま河に飛び込んで陽気な騒ぎがしばらく続く。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア→タンザニア
08:30 モシ(タンザニア)に向かう。
夕方、キボ・ホテル着。三食お茶つき、毛皮の毛布。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
オウェリ→オニシャ→ベニンシティ。

【伊藤幸司のメモ】
3度ほど小さな町に停泊。河岸の村が多くなる。子どもたちが抜き手で船に泳ぎ着いてくる。
夜、激しい雷雨。1等にいた5人は操舵室見学。

9月7日(木)第41日

【伊藤幸司のメモ】
08時にCVZのオフィスに行き、チケットを買えるまでとにかく待つ。
例によって昨日のイミグレーションの役人がぼくらのパスポートをチェック。バスに乗るすべての人の身分証明書をチェックするのである。
ベビーちゃんとクリちゃんが換金に行ったのはよいが、2時間経っても帰ってこない。キサンガニの銀行をたらい回しにされた後、ピープル銀行の白人デスクのところでようやく済ませることが出来たという。
11時、いよいよバスに乗り込むに当たって、ぼくらは向かい合わせの席をまず与えられた。ちょっとひけめを感じたが、そのまま居直る。

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
タンザニア
モシ滞在。
夕方、ボランティアに会う。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
ベニンシティ滞在。

【伊藤幸司のメモ】
09時キサンガニ着(時差1時間)
16時ホテル・オリンピア

9月8日(金)第42日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
タンザニア
モシのボランティアの家に移る。
キリマンジャロを見る。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
ベニンシティ→イフェ。

【伊藤幸司のメモ】
08時CVZへ。11時バス発。
21:15 ニアニア着。
18:00~18:30 バフワセンデ。雨の中、レストランでおかあさん、ボンヤリさん、ママちゃん、ベビーちゃん、男3人(アニメ氏、シモヤン、伊藤)眠る。

9月9日(土)第43日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
タンザニア
モシで遊ぶ。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
イフェ博物館。
13時 イフェ→14:40 イバダン。

【伊藤幸司のメモ】
06:30発。
09:00~09:30 スタシオン・デ・レプル
12:50~14:00 マムバサ
17:50 コマンダ着。

9月10日(日)第44日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
タンザニア→ケニア
09:30 バスで出発。ケニアに戻る。
18:00 モンバサ着。コラルディン・ホテルに泊まる。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
13:15 イバダン→15:30ラゴス。

【伊藤幸司のメモ】
06:30 コマンダ発。
20:20 ブテンボ着。ホテル・オアシス

9月11日(月)第45日

【東京からの手紙】
9.11付けのオットリ君からの手紙
A班の3人(オットリ君、デザイナー氏、ヨーコさん)と野村は無事に9月9日13:30に羽田に着きました。
野村はボンベイから乗り込んで来ました。
カイロではまたしてもグリーン・バレーの人がいて、例のとおり楽々と入国しましたが、強引に押しまくられてナイトツアーをすることになってしまいました。6エジプト・ポンドで食事付きのショーを見ました。
9月27日には羽田に迎えに行くとお伝え下さい。
それからカイロ空港の1ポンドの印紙は使えませんでしたから。
お元気で旅をお続け下さい。
みなさんによろしく!

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
モンバサ滞在。
渡部、熱を出す。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ナイジェリア。
ラゴス滞在。

【伊藤幸司のメモ】
18:30 ブテンボ発
20時ごろ 雨に濡れる
乗客のインド人2人はベンツに拾われて先へ
22:30~25:00 インド人の家にて夕食

9月12日(火)第46日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
モンバサ滞在。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ラゴス(ナイジェリア)→アッカ(ガーナ)。

【伊藤幸司のメモ】
03時~06時 仮眠
ヴィルンガ国立公園を通過
13時 ルツル着

9月13日(水)第47日

【伊藤幸司のメモ】
アニメ氏、シモヤン、ボンヤリさん、ママちゃんはウガンダに向かう。
キソロ着。湖の村に行くがまったく受け入れられず、そのまま夜行バスに乗る。
翌朝カンパラ着。エクアトリア・ホテル

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
モンバサ滞在。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ガーナ
アッカ滞在。

【伊藤幸司のメモ】
11:30 ルツル発
16:15 ゴマ着
17:00 ルワンダ入国。Hotel Regina
キンシャサからルワンダ国境まで1人150ドル

9月14日(木)第48日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
モンバサ滞在。

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
アクラ→アコソンボ→アクラ。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
編集氏と別れて
ガーナ
アッカ→ケープコースト

【伊藤幸司のメモ】
09:30 ギセニ発。Chanyica 経由でウガンダ入国、キソロ着。
トラベラーズ・レスト泊

9月15日(金)第49日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
モンバサ滞在。

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
06:00 アクラ→翌06:00 タマル。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
ケープコースト滞在。町を歩く。

【伊藤幸司のメモ】
12:30 キソロ発。
15:30 カバレ。
銀行閉まりKABATAさんのみ30ドル換金。
ヨシ子さん、KABATAさんがホテル・ラチキを発見

9月16日(土)第50日

【東アフリカ3人組(婦長さん、ミッキー、リツコさん)の足跡】
ケニア
09:00 乗合タクシーでモンバサ出発。
15:30 ナイロビ着。

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
06:00 タマル着。北部の町タマル滞在。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
14時 ケープコースト→18:30 クマシ。バスで。

【伊藤幸司のメモ】
07:45 カバレ。
14:00 カセセ。
タクシーでエリザベスNPへ。

9月17日(日)第51日

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
タマル滞在。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
クマシ滞在。

【伊藤幸司のメモ】
午前中エリザベスNP。
13時カセセ発。
14:30 フォート・ポータル。
21:00 夜行バスでフォート・ポータル出発。次々に警察の検問。
21:30 軍隊の検問にあい、一時拘束。ヨシ子さんが軍隊によって軽傷。幸いバスに戻り、カンパラに向かう。

9月18日(月)第52日

【カンパラ中央警察に届けられた・金医師からの手紙】
9.18午後2時付け、カンパラ日本人会の特別会員・金忠雄医師からカンパラ中央警察に差し入れられた手紙
伊藤様
 大変でしたね。どうぞ御心配なく。署長にも会って話をしてありますが、時期が悪いので、もう少ししんぼうして下さい。日本人会会長も骨を折って居りますから、ご安心下さい。
 午后後にはキャビネット会議により見通しがつくとのことです。午后にはずっと外で待って居りますが、もし釈放後私が外に居なかったらすぐ連絡下さい。
 ホテルはゴルフクラブの前に新しくできたフェアウェイ・ホテルというのがありますから、そこに落ち着くのがよいでしょう。
 昨日の未明からタンザニア軍がマサカ南方の国境から侵入しているので非常状態です。マサカ南方18哩に迫ったそうです。
 皆様なるたけ反抗をせずに、当たらずさわらず無事に過ごして下さい。白人が沢山収容される理由は、今この戦争のあとおしを英国がしているという放送が大きな原因だろうと思います。
 ではあしからず。おそまつながらさし入れもので元気をつけ、あとは坐って充分に休息して下さい。
 では又。

9.18
【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
タマル滞在。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
クマシ滞在。

【伊藤幸司のメモ】
06時、警察の検問でおかあさん、おねえさま、KABATAさん、ヨシ子さん、クリちゃん、ベビーちゃん、伊藤の7人全員が警察車両でカンパラへ。
08時、カンパラ中央警察署の留置場へ。多数の白人といっしょになる。
17時に開放されフェアウェイ・ホテルへ。

9月19日(火)第53日

【伊藤幸司のメモ】
9.19?
在ケニア日本大使館・三等書記官清水氏がホテルに残した名刺のメモ
明朝時間があればグランド・ホテル(124号室)に8時~9時の間に御連絡下さい。現在カンパラに来ております。

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
タマル→クマシ。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
08:00 クマシ→15:00 アクラ。3等列車。

【伊藤幸司のメモ】
チケット購入。4人のチェック。午後買い物。
夜、金先生43歳の誕生日。

9月20日(水)第54日

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
クマシ滞在。

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
アクラ滞在。

【伊藤幸司のメモ】
昼、エンテベに向かう。
22時スピーク・ホテル へ。

9月21日(木)第55日

【伊藤幸司のメモ】
朝、再びエンテベへ。09:25発。
ナイロビ着。プラムス・ホテル。
夕方から夜、婦長さんグループと話す。

【B班・西アフリカ(編集氏)の足跡】
ガーナ
クマシ→アクラ。
カメラ君とホテルで会う

【B班・西アフリカ(カメラ君)の足跡】
ガーナ
アクラ→テマ→アコソンボ→アクラ。
編集氏とホテルで会う。

【伊藤幸司のメモ】
3人組2組はモンバサ、4人組はアンボセリ(1人400シリング?)
ミッキー、病院で薬をもらう。

9月22日(金)第56日

【ナイロビ22日共同通信発の新聞記事(たぶん産経新聞から)】 *こわかったウガンダ旅行 *兵隊に連行されたり、殴られたり *日本人一行、やっと脱出  内戦状態がまだくすぶり続けていいるウガンダから、このほど初めて日本人の旅行者の一団がナイロビに脱出してきた。旅行会社アムカス探検学校(東京千代田区神田松永町、近鉄ビル内)に参加して、アフリカ大陸を横断中だった女性六人で、引率の伊藤幸司さん(東京葛飾区東立石一)は二十二日、次のように語った。  一、ザイールからルワンダ経由で十七日ウガンダに入り、クイーン・エリザベス国立公園を観光中、事件を知った。フォートポータルに出て、食堂で食事中、いつのまにかウガンダ兵に食堂を取囲まれ、現地軍の本部へ連れて行かれた。その際ほとんどの人がこづかれたり、けられたりした。  一、夜まで取り調べられたあと、カンパラへ向かったが、途中で八回も軍警の検問にあった。深夜ある山奥の兵舎へ連行されて調べられた時は全くこわかった。  一、在留邦人の努力で夕方、釈放され、話していると、ひと足先にカンパラ入りしていた他のグループの波多正美さん(東京・杉並区)が、市内で軍隊に取囲まれ、めちゃめちゃに殴られたといわれた。あとで会ってみると顔中がはれあがっていた。
【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
ガーナ
アクラ→レゴン。野口英世の像。
レゴン→アクラ。

【伊藤幸司のメモ】
リコンファームでフライト変更を知る。
婦長さんグループのみ飛ぶことになる。夜彼女らの部屋に集まる。プラムス・ホテル

9月23日(土)第57日

【伊藤幸司のメモ】
09:45 婦長さんグループ発。
夕方、全員ナイロビ。
21時ミーティング。

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
アクラ(ガーナ)→アビジャン(コートジボアール)。

【伊藤幸司のメモ】
? 23:45ナイロビ発→04:45カイロ着

9月24日(日)第58日

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
コートジボアール
アビジャン滞在。

9月25日(月)第59日

【B班・西アフリカ(編集氏、カメラ君)の足跡】
アビジャン(コートジボアール)→カイロ(エジプト)。

【伊藤幸司のメモ】
18:05 B班カイロ着

9月26日(火)第60日

【伊藤幸司のメモ】
10:00 カイロ発

9月27日(水)第61日

【帰国を伝える新聞記事(タラップを下りる写真付き。新聞社不明のスクラップから】 *「生きた心地しなかった」 *ウガンダサッ出の旅行団帰る  内戦状態のウガンダで「スパイ容疑」で現地政府軍に連行された日本人旅行グループ十五人が、二十七日午後二時二十分、羽田着のエジプト航空機で無事帰国した。  この人たちは東京・神田松永町の旅行グループ「アムカス探検学校」のメンバー。リーダーの伊藤幸司さん(27)の話によると─。  エジプトのカイロから三つのパーティーにわかれてアフリカ大陸横断を試みた伊藤さんと女性六人のパーティは、九月十七日午後、コンゴ国境に近いウガンダのフォート・ポータルで食事中、突然着剣したウガンダ兵に取り囲まれ、司令部への連行を命じられた。  「内戦」を知らなかった一行がビックリしていると、兵隊から銃でこづかれた。荷物を取りに食堂にかけ戻ろうとした女性などは、逃走と誤解されて顔を殴られる乱暴を受けた。  司令部では、日本人旅行客と判って二十四時間ぶりに「釈放」されたが、首都カンパラでも中央警察に連行される騒ぎがあった。いずれも「スパイ容疑」で、カンパラでは別のパーティーの仲間が殴られていた。  伊藤さんのパーティーの田中宏子さん(24)は「ウガンダ兵が、わたしたちを取り囲み、銃の安全弁をガチャガチャとはずしたときは、生きた心地がしなかった。言葉も事態もまるでわからないので、ウロウロしているとこづかれた」と、心配顔で出迎えた家族たちに、当時の恐怖を語っていた。

付記

【伊藤幸司の日記 7.29から】

 アフリカというところは、広大な砂漠やサバンナやジャングルが果てしなく続いているのだが、じつは日本人のイメージに合うそれらの光景はごく一部に過ぎない。石油がなければ他に使い道のないやせた岩の小山や、動物の影ひとつ見出せぬ、つまらぬ緑のうねりをこれでもか、これでもかと突き進んだ者だけが、より素晴らしい<アフリカ>を見ることができるのである。
「まったく、限度というものを知らないよな! アフリカという奴は!」
 こう何度もつぶやいた後に、初めてアフリカに触れることができたのではないか? と思うようになる。
 人類の最古の歴史が発見されているのに、現代の最も新しい国々がひしめき合うアフリカ。
 ほんの数種類にしか識別できないアフリカ人たちが、厳密には1,000以上の部族に分類できるというアフリカ。
 時速100キロで突っ走る街道から5キロも入れば1時間に4キロも進めない大自然のアフリカ。
 とにかくアフリカでは性急な期待は確実に裏切られる。

 もしアフリカを観光旅行として見たいのなら、アルジェリアの大砂丘や東アフリカのナショナルパーク、ギニア湾岸の密林を、イチ、ニ、サンと飛び歩けばいい。足を踏み入れるや帰路を心配するような砂山や、カバが芋を洗うように集まってぼくらをニタリと見てくれるナイル河の流れに沿って、絵葉書が真実であることを自分の目で確かめることができるからだ。
 だが、アフリカの旅はそれを見たから終わるというものではないとぼくは信じる。しいていえば疑問ばかりが積み重なってくるような旅のできる土地だ。アフリカ人の肌が黒いというのに、よく見れば白から褐色を経て純黒まで千差万別だし、それでもやはりすべてが黒だ。黒は黒だといいながら、同時に黒で白だともいえそうなそんな不思議さ。何ひとつ確信をもって語れなくなったとき、ぼくらはアフリカにいたんだなと信じられるような気になる。

 とにかくぼくは、カメルーンという国を第一目標とした。理由はない。しいて理由を挙げれば、別に特徴のない国で、動物も見られそうもないし、民族的に特異なものもない。何もなさそうだからこそ選んだといえる。おまけに言葉はフランス語だ。わからないついでに言葉までわからなければより徹底しているというものだ。
 ただ、地図の上で見る限り、ギニア湾の一番奥にあって、チャド湖を頂点とするおむすび型の国で、広さは日本よりちょっと広い。1か月をこの国で過ごせば、まず絶対に「アフリカへ行った!」と胸を張れるようなチンチクリンの国だ。
 一般的な読み物で日本語なっているものを挙げれば、旧英領・西カメルーンに動物を集めに行った学者の素晴らしく楽しい本「積みすぎた箱船」、アンドレ・ジイドの「コンゴ紀行」の続編「チャド湖の帰り」、最近訳本の出たミッシェル・レリスの「幻のアフリカ I」、日本人のものでは兼高かおるの「世界の旅・アフリカ」、NHK取材班による「アフリカを行く」あたりだろう。

 西アフリカの最高峰・カメルーン山のある国として、また現役の学生遠征隊としては最も遠いアフリカになるこのカメルーンという国に以前から若干の興味は持っていたものの、昨年ガイドブック(中央公論社版「世界の旅・8・アフリカ」)の仕事をしてアフリカ各地の事情を調べていくうちに、やはりカメルーンに行きたいと思うようになっていた。コンゴ水系とチャド湖水系、それにニジェール河との分岐になるこの国から西へと足を向ければかなりおもしろそうだ、と密かに思っていた。
 アムカス探検学校の第1回目でボルネオをマネージメントしたとき、すでに次はアフリカをやらせてもらうつもりでいた。校長先生ともいうべき向後さんに、マドリッドからカメルーン沖のサンタ・イザベルまで奇妙に安い飛行機があることを教えられて、可能性はぐんと高まった。もうカメルーンでなくてはならない。
 ぼくにとって、カメルーンでなくてはならなくとも、アフリカに夢を抱いている不特定の参加者にとっては、カメルーンなどまったく初めて聞く名前のはずだ。どういうふうに彼らをたぶらかせてその目をカメルーンに向けさせるか? その作戦を半年間あたためたわけである。

 ぼくがひねた大学生として、取り残した最後の授業で野沢にスキーに行っている間に朝日新聞の東京版に小さな記事が載った。帰ってみると30人以上の問い合わせがあった。直ちにひとりずつ呼びつける。アフリカくんだりに出かけたいと思うほどの人ならば、ぼくらのところまで来るぐらいの熱心さがなくては困るし、ぼくらとしても経費をかけずに計画を進めていくためにはその方法が最も効率的だと考えていた。
 呼びつけられた人たちにぼくは何を言ったか!
「カメルーンに関する資料はほとんどないんです。ぼくも知らないんで、まず行ってみなければどうしようもありませんね」
「動物を見たいのなら、まず駄目でしょう。東アフリカ以外のナショナルパークは乱獲されて、金をかけても見られないかもしれないから。ともかく8~9月のカメルーンは雨季の真っ最中だから、ワザ・ナショナルパークに行っても、動物は散ってしまっているはずです」
「45万円以上もかけるのは、ぼく自身高い旅行だと思うんです。だからよく考えて決定してください」
 本当に、本当に、こういう言葉を繰り返した。ぼくはウソはつきたくなかったし、ウソで人を集めても現地でそれを裏切ったら絶対の悪人だ。その上ウソにつられてくるような人はぼくら素人の手には負えない。何よりも全員のチームワークがあって初めて不可能が可能になる。ぼくらは「老若男女、年齢、経験の有無は問わない」といいながらも、こうしてある種のフィルターで選抜しているのである。

 今回の参加メンバーのうち、13人はこうして決定に至った。ラジオで聞いて即日神戸から電話をくれた人もいるし、以前からアムカスの活動を少しは耳にしていていつか参加しようと思っていた人もいる。週刊誌に流れた記事で参加した人もいる。
 ある輸出組合に勤めるママちゃんが正月をはさんでの1か月間、ネパールヒマラヤの全域をマウンテン・フライト(フリーの氷河学者・五百沢智也さんの氷河調査を、乗客を確保してサポート)し、エベレストの麓まで女の子2人で弥次喜多道中したけれど、それ以外にアムカスとの関わりをもっていた人はいない。しかも友達連れでやってきたのはリツコさんと美紀子さんの2人だけで、彼女たちは2人だけで東アフリカをまわろうと、すでに船まで予約していた実行派である。
 彼らのほとんどは友だちにも、家族にも話さずに参加を決めてしまったようだ。周囲の承諾を得るのはそれから。ともかく一般的にいえば「大金を払って、何をわざわざアフリカくんだりへ行こうというのか」というおかしな連中なのだろう。しかも頼りない得体の知れない「あるく・みる・きく・アメーバ集団=アムカス」の口車に乗って。

 ぼくは結局60人以上の人たちと話し合い、手紙を出し合ったことになる。そして費用が高いので今回はどうしても参加できないという人、知るのが遅かったので長い休暇をとれそうにないといって残念がった人が大半だった。そういう人たちには費用でも期間でも、ちょっと大きすぎる計画なのである。
 ぼくは物理的な条件で参加をとりやめる人たちの声を聞きながら、常にある種の罪悪感を感じていた。でも、これは探検学校としてもかなり思い切った実験なんだ、と思い直すことにしていた。

 ぼくらが最初に探検学校にとりかかったとき、いわゆる一般社会人が、どれくらいの費用で、どれくらいの期間なら参加できるのかまったくわからなかった。しかも最初は是非成功させねばならない。そこで昨年8月のボルネオ探検学校では2週間・22万円、20名に対して3名のリーダーをつけるという原則を立てて発表した。それが33名プラスリーダー5名の大遠征となったのは予期しない大成功だったし、パッケージ旅行のツアー・コンダクターに過ぎないと覚悟していたぼく自身が、その旅の予想以上の楽しさにひたることができた。
 ぼくらが遠征隊だとか探検隊だとか称してギラギラした眼で歩くのとはまったく違った別の楽しさがそこにはあった。たとえば女性といっしょにいるだけで、家の中にさらりと招き入れられてしまうのだ。大学の探検部や山岳部で遠征経験のある若手OBが主体のリーダーたちは例外なくそれを感じ、探検学校はその後「25万円1か月」という規模にエスカレートしていった。
 その経緯からして、かなり長期間で、かなり高度なもくろみをやりたいという欲求が出てきた。ぼくにしてみれば、それは当然アフリカであったわけだ。
 考えてみれば10人のグループでリーダーがひとりつけば、航空運賃の割引などを上手く利用して、各人の負担は10%以下でプラスマイナス・ゼロの予算が立てられる。これはアムカス流のどんぶり勘定なのだが、リーダーは予算内の行動をとるから、お金のない人はリーダーと同じ行動をしていれば当初予算以外に自分のお金をもたずに、一切の費用をまかなえるはず。なにか不足の事故が起きたら……、そのときは学生遠征隊の場合と同じように、何とか金をかき集めて、最終的にはその当事者に返済してもらうしかない。
「最大45万円の赤字だね。参加者が5人なら20万円の赤字か。やってみたらいいじゃないか」
 向後さんはいつものさりげない調子でぼくをたきつける。要するに何事もやってみなければわからないし、やってみれば誰でも一所懸命にやるのだし、不思議に運が開けるものだ。

 ぼくは「1か月30万円台」で様々な可能性を探ったが、往復の交通費だけでどうしても33万円はかかってしまう。1か月の滞在費は生活費、行動費をあわせて200ドル=6万円は必要だろう。もし物価が高ければあまり動かずに村に入り込んでいればいい。けっきょく45万円という予算を立てた。予算が高い。というのは30日=45万円だと1日あたり1万5000円の計算だ。これはどうしてもぼく自身納得がいかない。
 そこでパリ~マドリッド経由の航空チケットが1年間有効で、しかも個人チケットであることから「現地解散・西アフリカを自由に歩いてもよいし、ヨーロッパを見てもよい」とした。期間が長くなれば滞在費が増えるけれど、1日当たりの費用は確実に安くなる。しかも予算に見合った日数だけ、各自自由に居残れるというのは個人チケットの最大のありがたみである。
 すると5人の女性が、東アフリカを回り、さらに北上してカイロからパリに出るという大計画を練り始めた。キリマンジャロやナショナルパークの誘惑を絶ちがたいらしい。いささかあわてたぼくは、陸路をたどることの困難さを訴え、飛行機を最小限使った場合の予算をいろいろ提示することによって、とにかく物理的に難しいことを分かってもらおうとした。

 アニメ氏は奥さんを放ったらかしにして半年くらいは歩きたいという。カメルーンでは飲んだくれてゴリラを見たいという彼は、とにかく死にそうもない男だ。彼はとぼけた表情の中にもかなり繊細な神経をもった人らしく、人の好い穏やかさとともに、自分の考えをがむしゃらに通すような世界観をもっているようでもある。彼は地面をはいずって、東アフリカから北アフリカへ、のそのそと歩きたいという。彼なら知らない強みで、押し切ってしまうように思える。
 テーラー氏はなぜかマリ共和国にこだわっている。以前ソ連をまわったことがあり、それ以降の3年はアフリカの旅を夢見てかなりの資料も集めているらしい。いわく「マリは共産圏としてどうしても行きたいんです。そしてタンザニアもまた東の社会主義国として比較してみたいんだ。今までやってきたスワヒリ語を使えるしね」。彼は西アフリカの有名言語のひとつハウサ語の会話テープを見つけてきた。
 西アフリカをまわりたいと初めから言っていたのは写真を専攻しているアフロルックのカメラ君である。東アフリカの希望者が多い中で、必死に西アフリカの多様性を強調し続けて孤軍奮闘。いかにも世話好きな学生といった感じで、地図のコピーやら、パスポート写真の撮影やらを引き受けてくれた。
 デザイナー氏はどこに惹かれてアフリカに行きたいのかはっきり言ってくれなかったが「行けるか行けないかは課長の胸下三寸というところですね。最後手段をちらつかせながら、とにかく上手く作戦を進めなくっちゃ」とサラリーマンの弱みを訴える。

 3月中旬には主力メンバーのほとんどと面接を終え、4月15日に第1回のミーティング。説明会と称してミッシュランの400万分の1の大地図を3枚壁に貼ってアフリカのイメージを盛り上げる作戦である。一方的に喋り続けることで、分からないながらも各人の欲求をチラリとくすぐる方法をとった。
 5月13日に第2回のミーティング。そろそろメンバーが固まってきていて今回は個人の希望を探りながら、それぞれの希望ルートを語ってもらおうというのである。いくつかのグループができはじめた。
 そして6月24日。第3回目で最初の難関に直面した。7月下旬の安い航空ルートが予約のウエイティングをかけられたまま、なかなかOKにならなかった。それが20名の団体となると、今後キャンセル待ちをしてもラッシュ時期のためほとんど可能性のないことを知らされた。

 このルート(アエロフロート・ソ連航空)がIATA(国際航空運送協会)に未加盟で思い切った安い値段で商売していることは、もう一般に広く知れ渡っているため、ぼくらの指定した便には150名ものウエイティングがかかっているのだという。「安いルートは商売の上で、もうひとつ頼り切れない不安があるんだ」と繰り返しつぶやいていた中井氏の心配が現実のものになった。
 ぼくらは3~4社の見積もりを資料として、10人以上の団体割引でこの危機を乗り越えることになった。かなり重苦しいミーティングだった。夕方から終電ぎりぎりの11時まで、様々な角度から検討しあってルートとパーティ分けをした。何よりも痛かったのは、2か月以内10人以上のGV10という団体割引の条件に従わなければならないことだ。大きな夢を描いていた何人かは、期間の点で大きな譲歩をしてもらわなくてはならなくなった。その代わり、個人の希望ルートに従って、できるだけ細かなところから大きなグループにまとめるようにした。
 隣に座っている中井氏が「またしてもアムカス流の素人くさいスケジュールを立てているな」と渋い顔をしているのがよくわかる。
 「とにかく10人以上が往復同じ飛行機を使わなければ、60万円以上のノーマル運賃を払うことになるのですから、よく考えてください」
 中井氏はぼくらの計画が空中分解するのを心配してくれる。中井氏は周囲から「近江商人」といわれる商売人だが、探検部では1年後輩としてかなり近い関係にあった。近畿日本ツーリストの社長室に所属する研究所に出入りしながら、外部の中井氏に旅行手配を頼んでいるのは、キックバックといわれる利益をすべて(かどうかはわからないが)はき出してもらうためだった。
 結局30日の希望者はうまく40日までの休暇がとれそうなので期間を延長して欲しいということになりA班となった。西アフリカの希望者はカメラ君ひとりで「ぼくは行けるのかなあ」と不安顔である彼を一応B班とする。
 テーラー氏とアニメ氏は成り行き上個人のチケットを買うことでパーティから離れた。残る人たちは大半が女性だが、その中で5人はあくまで東アフリカ回りを希望。C班とした。残りの人たちは当惑しながら、ぐずぐずしている。当たり前だ。こんなミーティングをしなければならないのは、あくまでもリーダーの準備ミスなのだから。

 結局すべてのパーティが10名に満たないムードがはっきりしてきたので、ぼくはリーダーの役割で大きな譲歩をすべき時になった。
「とにかく10人のパーティができないと、ぼくらは出発できないことは明らかです。何しろ出発まで1か月しかありません。いずれも10人になりそうな人数ではないけれど、そこをあえて10人にするために、リーダーはカメルーンで1か月の旅をした後、東へのルート、つまりC班にしたがうことにします。その分の費用はできるだけ飛行機を使わない走り抜けルートで、45万円プラス200ドル、つまり51万円ですべてまかなえるルートを責任をもって歩きます。
 初めから東アフリカを歩きたい人は日数の点でもコンゴを横切るのは無理だから、直接飛んでください。航空運賃と観光費用でさらに200ドル以上はアップするでしょう。リーダーが費用の点で責任をもつことで、あとの人がC班に参加されるよう提案します」

 出版社に勤める編集氏が決定的な援護をしてくれた。
 「ぼくは、じつをいうと半ばフリーの身になったんです。カメルーンに2か月ぎりぎりまで居たいから、2か月間のB班に参加したいけれど、もしC班が集まらなければ、そちらに参加してもいいですよ」
 うれしかった。そういう言葉をかけてもらわずには済まないほどにぼくは哀れな立場にあっただけに、この一言は嬉しかった。
 それからはなし崩し的なスピードで、C班12人が決定し、編集氏もまた予定通りB班に参加できそうなところでミーティングを終えた。
 ネパール探検学校のとき、例のインパ戦争のため飛行機が飛ぶか飛ばないかわからず、出発4日前のミーティングで「行けなくなったとしても、ほかにどうするというあてもなし、出発の可能性が出るまでとにかく待ちましょう」と決定した、やはりひどくしんどいミーティングを思い出していた。
 7月22日。出発前1週間の最終ミーティング。いよいよ通関や出入国手続のパンフを渡して、技術面での説明をする。

 こうして4か月間の後に、ぼくらはとうとう日本を脱出したのである。予算はうんと苦しくなって、リーダーはひとりしか出せないし、リーダーの手元に残った予備費はわずか85ドル。アムカスでかき集めた事故対策費やぼく個人の金を合わせて1300ドル。それに、絶対に手をつけないアムカスの事故基金が100万円残っている。必要があれば小川君が1週間以内に日本を発てるだろうし。とにかく旅は始まったのだ。

【計画書────たぶん1972年3月】
AMKAS探検学校─―アフリカ あるく・みる・きく

カメルーンの村と小さな町(A班・42日・45万円)
そして……西へ! 東へ!(B/C班・60日・45万円プラス18日間の行動費)

もう忘れてしまったけれど……
こどものころ
ぼくらは偉大な探検家だった
豊かな行動力と
鋭敏な感覚をもった
探検家だった
あのころの みずみずしい心は?
旅に出よう!
遠い遙かな土地へ
大自然と見知らぬ人々のただ中へ
そして
人間であることを厳しく問われる旅へ

ギニア湾の際奥「ハート・オブ・アフリカ」と呼ぶにふさわしいカメルーンを歩きます。カメルーン山(4,070m)からコンゴ盆地につづく熱帯雨林、中央部の高原サバンナ、北のはずれは砂漠に追いつめられたチャド湖。純朴で陽気な人びとと、にくめない小悪党の中で、私たちはどんな足跡を残すのでしょうか。

マネージメント・リーダー
伊藤幸司(カメラマン)早大探検部OB

7.29 東京発─―カイロ、ラゴス1泊─―8.ドゥアラ着
A班 カメルーンの村へ、町へ、奥地へ
   9.6ラゴス発─―カイロ2泊─―9.9帰国
B班 A班から分かれて西へ。変化に富んだ西アフリカ諸国を歩く
   9.25アビジャン発─―カイロ1泊─―9.27帰国
C班 A班から分かれて東へ。密林のコンゴ盆地を抜けて東アフリカへ
   9.23ナイロビ発─―カイロ2泊─―

[I]スケジュール(予定)
7.25 Yokyo → Paris
7.29 Madrid → Douala
現地活動:カメルーン山とジャングル、北部サバンナ、近隣諸国、etc. フィールドとテーマは各自十分に練り上げて下さい
8.23-26 Fernand Poo 島にて全員による報告・討論。解散
8.26 Santa Isabel → Madrid(アフリカ残留者を除く)
8.28 Paris → Tokyo(8.29)

[II]
1.リーダーは世話役ではありません。他人まかせという人はご遠慮下さい
2.自然と生活の中にとびこんで、自分の足と目と耳で何かを発見したいという人を期待します
3.老若男女、経験の有無は問いません
4.募集は10名以上。多数の場合はリーダーを増やします

リーダー:伊藤幸司
早大探検部OB、カメラマン
1968-69 早大ナイル河全域踏査隊
1971 第1回探検学校・ボルネオ(マネージメントリーダー)

入手しやすく読んでおくとよい本
1.「積みすぎた箱舟」暮しの手帖社(必読)
2.「探検と冒険 1」朝日新聞社
3.「黒アフリカ史」AAA選書・理論社
AMKAS事務局には邦文雑誌のコピーがファイルされています

[III]費用と手続き
1.申込金 4万円。残額払込は6月末日迄
2.探検学校費用45万円に含まれるもの
 往復の航空運賃+解散(8.26)までの標準活動費用+AMKAS側諸費用
3.含まれないもの
 旅券・ビザ印紙代、注射代、手続料、I.R.C.航空使用税、解散後の行動費用、個人的な費用(特殊な行動・土産・酒・タバコ・特別食など)
4.手続に必要なもの
 写真10枚以上(5×5cmパスポート写真)、印鑑(使用中でないもの)、戸籍抄本1通(パスポート所持者は不要)

[IV]問い合わせ・申し込み
101東京都千代田区神田松永町19-2近鉄ビル
日本観光文化研究所 AMKAS探検学校
電話03-255-7111 内線274(担当伊藤)
東京近県の方は極力来室願います
日本観光文化研究所(国内)及び AMKAS(国外)の旅の資料・情報はどなたでも利用できます(観光地情報などの一般的なものはありません)
手続代行:中井実(早大探検部OB・川崎航空サービス)


【最初の計画書────たぶん1972年3月】
AMKAS探検学校
赤道アフリカ・カメルーン
期間:1972年7月25日~8月29日(アフリカ・ヨーロッパの自由行動期限は1973年7月24日)
費用:45万円(往復航空運賃+33日間の行動費+探検学校諸費用)

もう忘れてしまったけれど……
子供の頃────ぼくらは偉大な探検家だった
鋭敏な感覚と豊かな行動力をもった探検家だった
あんころのみずみずしい心と大きく開いた目は?
────いつの間に消え去ったのか
旅に出よう! 遠い遙かな土地へ
大自然と見知らぬ人々のただ中へ
そして、人間であることを厳しく問われる旅へ
旅する人と人、旅する人とその土地に住む人とを結びつけ、より個性的な旅を啓発する<運動集団>────それがアムカスです

[I]スケジュール(予定)
7.25 Yokyo → Paris
7.29 Madrid → Douala
現地活動:カメルーン山とジャングル、北部サバンナ、近隣諸国、etc. フィールドとテーマは各自十分に練り上げて下さい
8.23-26 Fernand Poo 島にて全員による報告・討論。解散
8.26 Santa Isabel → Madrid(アフリカ残留者を除く)
8.28 Paris → Tokyo(8.29)

[II]
1.リーダーは世話役ではありません。他人まかせという人はご遠慮下さい
2.自然と生活の中にとびこんで、自分の足と目と耳で何かを発見したいという人を期待します
3.老若男女、経験の有無は問いません
4.募集は10名以上。多数の場合はリーダーを増やします

リーダー:伊藤幸司
早大探検部OB、カメラマン
1968-69 早大ナイル河全域踏査隊
1971 第1回探検学校・ボルネオ(マネージメントリーダー)

入手しやすく読んでおくとよい本
1.「積みすぎた箱舟」暮しの手帖社(必読)
2.「探検と冒険 1」朝日新聞社
3.「黒アフリカ史」AAA選書・理論社
AMKAS事務局には邦文雑誌のコピーがファイルされています

[III]費用と手続き
1.申込金 4万円。残額払込は6月末日迄
2.探検学校費用45万円に含まれるもの
 往復の航空運賃+解散(8.26)までの標準活動費用+AMKAS側諸費用
3.含まれないもの
 旅券・ビザ印紙代、注射代、手続料、I.R.C.航空使用税、解散後の行動費用、個人的な費用(特殊な行動・土産・酒・タバコ・特別食など)
4.手続に必要なもの
 写真10枚以上(5×5cmパスポート写真)、印鑑(使用中でないもの)、戸籍抄本1通(パスポート所持者は不要)

[IV]問い合わせ・申し込み
101東京都千代田区神田松永町19-2近鉄ビル
日本観光文化研究所 AMKAS探検学校
電話03-255-7111 内線274(担当伊藤)
東京近県の方は極力来室願います
日本観光文化研究所(国内)及び AMKAS(国外)の旅の資料・情報はどなたでも利用できます(観光地情報などの一般的なものはありません)
手続代行:中井実(早大探検部OB・川崎航空サービス)

【伊藤幸司による注記】
 AMKAS(あるくみるきくアメーバ集団)の創設者・向後元彦(東京農大探検部創設者)が赤道アフリカのスペイン領サンタ・イザベル島フェルナンド・ポーへ、マドリッドから格安の国内線が飛んでいるということを発見した。
 AMKAS探検学校は、当時近畿日本ツーリストの社長室に所属していた日本観光文化研究所(所長宮本常一)にたむろしていた大学山岳部・探検部の若手OBたちがリーダーになって旅の実験をしようというもの。1971年夏の北ボルネオが第1回、ネパール・氷河調査フライトが第2回、1972年には第3回のコモドオオトカゲの小スンダ列島とこの第4回赤道アフリカ・カメルーンと続く。
 アエロフロート(ソ連国営航空)+スペイン国内線というアイディアは実現しなかったが、カメルーンという知識もなく、言葉(ほとんどがフランス語)も通じにくい国への旅は、退職覚悟の人たちの迫力もあり、実現に向けて進んでいった。けっきょく、リーダーは伊藤ひとりしか出せなかったけれど。


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