★ユーコン河 3,000kmをくだる
*探検部後輩の坂野皓(さかの・ひろし)さんがディレクター兼カメラマンとしてデビューする最初の仕事に、突然スキッパー(小型船の艇長)としての声がかかったのです。
*ユーコン河はほぼその全流域3,000kmが、1896年に突如始まったゴールドラッシュで交通路として利用されました。つまり冬にはソリで通行できたし、夏には船が行き来したのです。ゴールドラッシュの3年間は。
*私が大学の探検部で最初に川下りをやったのは富士川(ふじかわ)でしたが、とりあえず「日本三大急流」と呼ばれていたからです。最上川、球磨川もですが、それは貨物船が上り下りできる……という意味での「急流」で、激流なんかじゃなかったんです。いずれも物流のために江戸時代に角倉了以、西村久左衛門(最上川)、林正盛(球磨川)らが開削工事によって、陸路ではとても不可能な大量運搬を実現させたのです。ユーコン河はまさにそれと同様に、何か所かの急流を開削して蒸気船が往復できるという内陸部への大動脈となったのです。
*話はちょっとそれますが、アラスカがもとはロシア領だったことはご存知ですよね。ロシア帝国がアラスカを領土としたは1799年(寛政11)でした。ユーラシア大陸とアメリカ大陸を隔てるベーリング海峡は最狭部でわずか86km、冬には完全凍結するので、氷河時代にモンゴロイドが歩いてわたってアメリカ大陸の南端まで達しているのですから、北極海沿岸で生活するイヌイット(エスキモー)には何の苦もなく往来できる海峡でした。
*そこで探検部の先輩たち(のちに直木賞作家となる西木正明、船戸与一、朝日新聞記者から鎌倉市長となる竹内謙などのクセモノたち)が凍結したベーリング海峡を歩いてわたって「東西冷戦」に一石を投じたいという派手な計画をぶち上げて、私などはその新聞記事で探検部に顔を出し、のち、強制労働でその借金を返済させられたりもしたもんです。
*……で、ロシア領アラスカが米国領になったのは1867年、日本ではペリーが来航し、明治政府が成立した時代ですけれど、あちらではクリミア戦争で負けたロシアが、財政難をおぎなうために米国に「1平方キロあたり5ドル」で売却し、買った米国では「冷蔵庫に無駄金」と批判されたとか。
*ただ、20年後のゴールドラッシュはカナダのクロンダイク(ドーソン)では3年ほどで急速にしぼんだとはいえ、アラスカのあちこちで金鉱がみつかり、「アラスカのモーゼ」と呼ばれているという日本人・フランク安田がポイントバローのエスキモーをユーコン河のインディアン地帯に移住させてビーバー村を建設したのも、残り火のゴールドラッシュに助けられてのものだったようです。(新田次郎『アラスカ物語』で有名ですね)
*北極圏に迫りながら、タイガ(高緯度の針葉樹林帯)と呼ばれる大自然のなかをゆったりと流れるユーコン河は、波乱万丈の文明圏の川ではあるのです。3,000kmといえば植村直己が日本列島縦断(宗谷岬〜佐多岬で、当時計画していた南極大陸縦断の距離)を52日間で完歩したのと比べると、ユーコン河3,000kmの川下りは手漕ぎのカヌーでゆったり流れに身をまければ、解氷期の3か月でくだれてしまうのですから楽ちんなもんです。
*ただ、この、1970年代の私の写真は、古希をすぎてからの終活と引っ越しの際に、デジタル化したもの以外は全部廃棄して、ノート類も捨て、仕事の結果としてファイリングしたものしか残しませんでした。もちろん記憶もどんどん薄れていますから、中途半端なものを付け足すことはせずに、雑誌『あるくみるきく』(日本観光文化研究所)に書いた文章をコピペして「本文」とすることにしました。
★しかし、なぜか大問題がありました。自分で仕事中にすこしずつスキャニングしたためだと思いますが、画像が「撮影順」ではなくなっていたのです。もはやそれを撮影順にもどすことはできないのでスキャニングされた番号順に並べました。たぶん、それぞれのブロック(日付や場所)はほぼ信用できそうなので、そのまま並べてあります。撮影順であるかどうかで、写真から読み取れる情報は極端に変わります。「もうしわけございません」
*今回『あるくみるきく』を読み返すと、2年後輩の坂野さんと、その下の鶴見さんと3人での海外遠征という気分ですが、何回か登場する「隊長」は東京映像社の大滝勝さんです。三浦雄一郎の映画「エベレスト大滑降」でカメラをサウスコルまで運び上げて独立したのです。むかし福原フィルムという会社があって、その映画にはスキー界の二代巨塔のひとり三浦敬三(ちなみにもうひとりは猪谷千春の父・猪谷六合雄)の回りでちょろちょろ動きまわる三浦少年が写ったりしていましたが、大滝さんはそこの出身ですから山屋ですよね。坂野ディレクターのこの仕事も、冒険映画であることを求められていたはずですから、探検部時代の体育系と文科系のせめぎあいがこのチームでもいろいろなさざなみを起こしていたのはまちがいありません。坂野皓さんは若くしてなくなりましたが、その晩年には開高健に気に入られて海外取材を繰り返していましたから、文化系の体質も備えていたと思います。それだけに「激流にもまれない」ユーコン河は難物だったのだろうと思います。
6/12 carcross
詳しくは巻末の『あるくみるきく』(1975.2 96号)の「特集■ユーコンを下る」(拡大できます)を読んでいただくとして、ここではその本文から適当な部分を引用して当時の状況をいくぶんでも感じとっていただきたいと思います。じつは約40年ぶりに写真をきちんと見、「あるくみるきく」の文章を読んでみると、ほとんど他人の旅みたいな気分になっています。旅の骨格やら断片的な行動についての記憶はあるとして、その時々感じたものはやはり言葉による記録が重要だと思いました。「遠い記憶」は当時のレポートによって何度も修正されました。
———幸か不幸か、買いだし期間がわずか2日に縮められ、おまけにバンクーバーはロクな店屋のないいなか都市。迷ったあげくに買いこんだのは全長5.7m(19フィート)の米国グラマン社製アルミ・カヌー。カナダが誇る名品、チェスナット社のキャンバス張り木造カヌーは全国的な品不足ということだった。
予算の範囲で買えた船外エンジンはジョンソン社製の4馬力。私は6〜7馬力はほしかったのだが。テントは、砂漠の王子さまが喜びそうなカナダ製のレジャー・テントと、台湾製の安物の綿テントのどちらにするかで大論争のすえ、前者に決まった。———
———それから車で2,700kmを北上。東京出発以来わずか8日目の6月11日にはユーコン河源流の一隅で進水式を祝った。———
【撮影】6月12日=伊藤 幸司=20-025
カークロスは州都ホワイトホース上流にあってホワイトパス&ユーコン鉄道の途中駅。ホワイホースから車でもこられるのでここからホワイトホースまでのどこかで操縦訓練の撮影を予定。
ただ、急流部での操船能力を確かめるシーンで、一発でオシャカになりました。詳しくは「あるくみるきく」で。
【撮影】6月12日=伊藤 幸司=20-026
【撮影】6月12日=伊藤 幸司=20-029
【撮影】6月12日=伊藤 幸司=20-032
【撮影】6月12日=伊藤 幸司=20-033
【撮影】6月12日=伊藤 幸司=20-034
【撮影】6月12日=伊藤 幸司=20-037
【撮影】6月12日=伊藤 幸司=20-038
6/13 new-canoe
「あるくみるきく」の文章では、この旅の正体がよくわかりませんね。三浦雄一郎の「エベレスト大滑降」でサウスコルまでカメラを持ち上げた大滝勝さんの東京映像社に探検部後輩の坂野皓(故人)がいて、ディレクター兼カメラマンとしてのデビュー作として「ユーコン」が用意され、私がそのスキッパー(船頭)として呼ばれたのです。
ボスの大滝さんとカメラマンの矢野さんもいましたから北米の取材チームの分隊としてこのユーコン班は成立したのだろうと思いました。ユーコン取材班にはもうひとり、東京映像社に入社したての鶴見容一(探検部出身)もいて、探検部出身者3人で夏の3ヶ月、3,000kmの川下りを行おうということでした。
———事故の翌日、代わりのカヌーがあっさりと見つかり、水につかたエンジンも直った。エンジンの修理はともかく、カヌーさがしはほとんど期待できなかったというべきだ。ユーコン準州の州都で人口11,000人の都会とはいえ、私が希望する大きさのカヌーの売りものは1台もなかった。
私は町中しらみつぶしにさがしまわる覚悟でキャンプ場をでたが、すぐに運がむいてきたことを感じた。ひょんなことから知りあった男が、ポール・ルーシエ氏の助手であり、ルーシエ氏とその男に身をあずけただけで難問は解決していった。ルーシエ氏は貸カヌー屋のおやじであり、市長でもあった。彼が小耳にはさんでいたただ1台の売却情報をたどっただけで、値段と性能、それにスタイルにも満足できる中古品があらわれた。———
———こんどのカヌーは全長6m、幅1.2m。厚さ1cmのリブ板と側板でていねいに組み立てられた伝統的なカヌー。もちろんキャンバス布をはってある。「トゥエンティ・フッター(20フィート型)、フレイト(貨物)タイプ」といえば、かつては毛皮商や山師たちが、北米大陸を水路をたどって横断するほどの大旅行に用いたもの。———
【撮影】6月13日=伊藤 幸司=20-127
6/14 Whitehorse
州都ホワイトホースには「クロンダイク号」が展示されていました。その「クロンダイク」は下流のドーソン・シティに流れ込む小さな川の名で、1897に突如始まって「クロンダイク・ゴールドラッシュ」という名で呼ばれた歴史的事件を指す名称となっています。
その「クロンダイク・ゴールドラッシュ」は1899年(すなわちわずか2年後)にアラスカのノームで金鉱が発見されるやたちまち終焉したというのですが、ウィキペディアによれば「10万人以上がクロンダイクを目指したが、厳しい気候や地形の険しさのため到達出来たのは3万人から4万人、その中で幸運にも金を採掘出来たのは約4,000人と言われる。」とあります。
チャップリンの「黄金狂時代」はまさにそのゴールドラッシュを素材としているのですが、それは太平洋岸の港町スキャグウェイから標高約1,000mのチルクート峠に登って、そこからユーコン河を下る場合。同時にベーリング海峡に面する河口からユーコン河を遡ると標高370mというドーソン・シティまではこのクロンダイク号のような平底の船なら簡単(?)に遡ることができたのです。
大雑把にドーソン・シティが全長3,000kmのユーコン河の真ん中あたりと考えるとその下流側は米国のアラスカ州で、上流側はカナダのユーコン準州になるのですが、あとで訪れる「ユーコン河源流直下」の港町・スキャグウェイは米国です。
ともかく、標高約1,000mのところから流れ出しているといっても、水源の湖というべきベネット湖が標高642mですから、約3,000kmの前半・後半でそれぞれ標高差約300〜400mという勾配しかありません。
【撮影】6月14日=伊藤 幸司=20-063
【撮影】6月14日=伊藤 幸司=20-073
【撮影】6月14日=伊藤 幸司=20-075
【撮影】6月14日=伊藤 幸司=20-076
【撮影】6月14日=伊藤 幸司=20-094
【撮影】6月14日=伊藤 幸司=20-107
【撮影】6月14日=伊藤 幸司=20-110
【撮影】6月14日=伊藤 幸司=20-111
【撮影】6月14日=伊藤 幸司=20-112
【撮影】6月14日=伊藤 幸司=20-114
【撮影】6月14日=伊藤 幸司=20-116
6/15 White Pass & Yukon Railway
カヌーを源流のベネット湖まで運び上げるには鉄道の貨車に乗せるしかありません。カークロス駅からベネット湖駅まで。
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-131
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-135
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-142
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-144
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-145
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-147
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-149
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-158
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-160
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-169
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-171
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-173
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-191
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-214
6/15 Skyagway
スキャグウェイはゴールドラッシュの港町。いま、そのゴールドラッシュ気分を味わえるとしてアラスカクルーズでは欠かせない寄港地となっているようです。
わたしたちも、半世紀前とはいえ、(その当時)70年前のゴールドラッシュ気分にひたれる町として歩きましたが、よく考えてみればこれはゴールドラッシュへの入口で、ゴールドラッシュから戻る人がどれだけいたことか。……つまり、どれほどの金が落ちた町だったのか、という疑問が湧いてくるはずですね、今だったら。
ただ、この山岳鉄道が1900年8月に開通したというのはすごい。何しろゴールドラッシュは1896年8月にクロンダイク川で金鉱が発見されたというニュースからですから、ものすごいスピードで建設されたということになります。その鉄道はその後ユーコン準州からの鉱物輸送鉄道として活躍し、スキャグウェイはその搬出港となったのです。
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-225
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-226
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-227
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-237
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-240
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【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-247
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-251
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-252
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-264
6/15 White Pass & Yukon Railway
この日、6月15日にはホワイトパス・ユーコン鉄道でホワイトホースからベネット湖までカヌーと装備を運び上げて、鶴見隊員が留守番しているあいだに、坂野隊員と私がスキャグウェイ往復。帰路にはスキャグウェイから急斜面を一気に登るいかにも山岳鉄道という風景を見ることができました。
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-281
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-284
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-287
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-290
【撮影】6月15日=伊藤 幸司=20-293
6/16-17 Lake Bennett
———ベネット湖南岸には、小さいながら無視できない流れが注いでいた。その沢を1kmほどもさかのぼれば、リンデマン湖という小湖にでる。さらに13kmの山道をのぼれば、ゴールドラッシュ時代の表玄関として有名になったチルクート峠。「黄金狂時代」のなかでチャップリンが危なげな足どりでのぼった氷河の足元に、太平洋の入江がせまっているはずだ。
ぜいたくはいうまい。カヌーをひきあげる努力さえできるなら、スタート地点を1mでも源頭に近づけられるなら、私は満足しよう。
翌17日、カヌーの前後にロープを結び、鶴見と私でひきながら沢をのぼった。もちろん撮影がらみでOKがでた。雪どけの清れつな流れが岩をかみ、瀬をつくった。風にこまかくふるえるポプラの葉とせせらぎの音。まるで日本の沢だ。———
【撮影】6月16日=伊藤 幸司=20-299
【撮影】6月16日=伊藤 幸司=20-302
【撮影】6月18日=伊藤 幸司=20-308
【撮影】6月18日=伊藤 幸司=20-309
【撮影】6月18日=伊藤 幸司=20-327
6/18-19 Lake Tagish、Lewes River
———ベネット湖からナレス湖、タギッシュ湖へと入り、風入江(ウインディ・アーム)にテントをはったのは午後7時半。5時間で52kmを走ったわけだから時速10km弱のスピード。カヌーが大柄になって心配だった馬力不足もまずまずだ。———
【撮影】6月18日=伊藤 幸司=20-341
【撮影】6月18日=伊藤 幸司=20-353
【撮影】6月18日=伊藤 幸司=20-357
6/20 Miles Canyon
ホワイトホースに入るすぐ上流に、マイルズキャニオンと呼ばれる峡谷がありました。
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-354
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-361
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-364
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-365
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-366
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-367
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-369
6/20-22 Whitehorse
———ホワイトホースの発電用ダムを迂回して、キャンプ場に入ったのは6月21日。ベネットを出発して4日目である。155kmをくだってきたというのいうのに出発点に舞いもどっただけにも思えた。———
———川くだりはよくよく単純人間むきの旅だ。ある一点からスタートしたら、あとは何が見えようと見えまいと、ただひたすらくだるだけ。うまくいったとして、最後の一点、河口まで突っ走ってしまうだけだ。
たいていは水面と岸辺と空しか見えない。視野のかぎられた旅だ。しかし、だからこそ空間と時間のひろがりに肉体をぶつけて突き破っていく確実な手ごたえが味わえる。———
———翌22日、私たちはイネステーラー氏のインタビューに成功した。74歳。ユーコン河を最もよく知っている人物のひとりだと聞いていた。
彼は50年前にマウンテッド・ポリス(原野を駆けめぐっての広域警備で知られる)としてここにきた。その後バードの南極探検に2度参加。米空軍の中佐で退役してもどってくるまで、極地行動技術の専門家だった。
「銃よりも、心配だったら笛をもちなさい」と彼はいった。グリズリー熊についての答えものんびりしたもの。
「私は、そういう動物を、自然のなかで自然のままに見たいですね」
私は老探検家の情報をほぼ全面的に信じた。こんなことをいったからだ。
「私は、ふたりの娘が17歳と15歳のとき、ふたりだけで川をくだらせたんですよ。多くの人にユーコンの流れを楽しんでもらいたいですね」———
ちなみに、後にイネステイラーさんの息子が日本に住んで、本造りの仕事を手伝ってもらうようなこともありました。(若くして亡くなられたのは残念でしたが)
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-370
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-373
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-379
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-381
【撮影】6月20日=伊藤 幸司=20-391
【撮影】6月22日=伊藤 幸司=20-394
【撮影】6月22日=伊藤 幸司=20-395
【撮影】6月22日=伊藤 幸司=20-397
6/23-24 Lake Laberge
———6月23日にホワイトホースを発った。ドーソンまで一気に670km(州政府は460マイル=736kmとしているが、計測に関する総合的な検討の結果採用しない。念のためにつけ加えれば、736kmは実際の川の長さに近似した値で、670kmは地理上のユーコンの長さに近似した私の計測値である)。途中にある町は人口200人弱のカーマックスだけ。あとは数ヵ所に数人が住んでいるにすぎない。何が起ころうとくだるだけだ。
最初の2日間で50kmのラバージュ湖をわたり、30マイル川と呼ばれる深くせまい谷をぬけた。河岸にうちあげられた梱包材でカヌーに床らしきものをつけた。居住性がよくなってゆとりがでてきた。———
【撮影】6月23日=伊藤 幸司=20-400
【撮影】6月23日=伊藤 幸司=20-401
【撮影】6月23日=伊藤 幸司=20-405
【撮影】6月23日=伊藤 幸司=20-409
【撮影】6月24日=伊藤 幸司=20-413
【撮影】6月24日=伊藤 幸司=20-416
【撮影】6月24日=伊藤 幸司=20-428
【撮影】6月24日=伊藤 幸司=20-429
6/25 Hootalinqua (Teslin River)
———フータリンカに立ってみると、カーキ色のテスリン川が広い谷の奥にのびている。30マイル川の濃緑の水が流れ込んで、本流すじはやはりテスリン川といわざるをえない。ベネット湖を含めた湖水群からレウェス水系が正式にユーコンと呼ばれるようになったのは近年のこと。1958年版の25万分の1の地図では、フータリンカから下流をユーコンと名づけている。歴史(人気)のレウェス水系が、地形(実力)のテスリン水系を押さえて本流とされたわけだ。
いずれにしても、ここではじめてユーコン河は大河の風格をそなえる。斜面をきりひらいた一角にいくつかの廃屋が残っていた。
マウンテッド・ポリスの駐在所(ロード・ハウス)だった丸木小屋をのぞいてみた。ドアはなく、床はほとんどぬけかかっている。地下が食料庫だったらしい。屋根裏が寝室だったのだろう。推理をめぐらせてはみたものの、当時をしのばせるものは何ひとつ残されていないあばら家だ。
ふと、破れたガラス窓からのユーコンの眺めにひきつけられた。くすんだガラスのなかで川面のきらめきがおどり、黒い窓枠のなかは明るいとうとうたる流れだった。カビ臭い小屋のなかまで、斜面に萌えでた若草のさわやかさが漂ってくる。私は、この小屋を建てた男の満足の笑みを感じた。
イネステーラー氏もかつてここに泊まったにちがいない。彼のことばを思い出した。
「けっきょくはユーコン河にひきもどされたんですね、私は。ユーコンの流れはいつも同じでした」
眺めは、小屋が建てられたときと同じだろう。だが眺めを楽しむ人間はすっかり変わった。はじめてユーコン河全域をくだったアメリカ人、フレデリック・シュワトカ中尉がここを通ったのが1883年。3万人もの男たちがイカダや手づくりのボートで下っていったのは1898年。ちょうど私が読んでいた本のヒロイン、黄金時代(ゴールデン・デイズ)の舞姫クロンダイク・ケイトは、1900年の春に大型蒸気船でここをくだっていった。
ユーコンの歴史をひらいたのは黄金。そして黄金時代は1950年代に幕をとじたといってよい。51年から翌年にかけて州都はドーソンからホワイトホースにかわった。55年には最後の大型蒸気船が姿を消した。フータリンカの駐在所がひきはらわれたのもそのころのことだろう。
ユーコンの流れは何も語らないが、津波のように押し寄せ、引いていった半世紀の白人の姿を映しだしてきたことに間違いはない。
それだけではない。ここをフータリンカと呼んだインディアンたちはどこに消え去ったのか。すでにラバージュ湖でふたつのインディアン村を見た。家々はくずれはじめ、畑だったと思われる矩形の土地には、野バラやファイアー・ウィードの赤い花が咲きみだれていた。これから幾度となく立ち寄るインディアン村のすべてに、地図のうえに「アバンダンド」(廃村)と書きこまれている。インディアンたちは、母なる大地をはなれてどこへ行ったのだ。———
【撮影】6月25日=伊藤 幸司=20-437
【撮影】6月25日=伊藤 幸司=20-440
【撮影】6月25日=伊藤 幸司=20-441
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【撮影】6月25日=伊藤 幸司=20-469
【撮影】6月25日=伊藤 幸司=20-473
6/25 Carmacks
———その日、6月25日は12時間走って午後11時半にカーマックスの町に入った。160kmをくだったことになる。
走っているだけで楽しかった。まろやかな丘陵が見わたすかぎりつづいていた。主な樹木は10種はあるというが、風景をつくるのはたった2種。大地のうねりをおおいかくすスプルース(エゾマツ)の端正な針葉樹林と、河岸で白っぽい角型の葉をにぎやかにふるわせ、軽やかな気分にしてくれるポプラ(アスピリン)。———
【撮影】6月25日=伊藤 幸司=20-482
【撮影】6月25日=伊藤 幸司=20-483
【撮影】6月25日=伊藤 幸司=20-489
【撮影】6月25日=伊藤 幸司=20-491
【撮影】6月25日=伊藤 幸司=20-493
6/26-27 Five Finger Rapids
【撮影】6月26日=伊藤 幸司=20-496
【撮影】6月26日=伊藤 幸司=20-497
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-499
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-501
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-504
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-507
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-508
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-510
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-513
6/27 Mint
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-514
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-517
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-521
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-522
【撮影】6月27日=伊藤 幸司=20-524
6/28 Perry River
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-530
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-531
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-533
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-536
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-538
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-542
6/28 Fort Serkirk
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-543
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-548
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-549
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-551
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-552
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-554
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-555
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-556
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-562
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-568
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-569
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-570
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-575
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-577
【撮影】6月28日=伊藤 幸司=20-578
6/29 raft(いかだ)
———翌29日には霧のたちこめる河面でイカダに追いついた。7本のドラム缶をワイヤーでしばり、丸太を組んだうえに廃屋からはがした床をのせている。やはり廃屋から失敬した棚をおいて、それが物入れ。上には小枝でドームをつくり、ポリエチレンのシートでおおって地図台としている。ものほしざおにささげられた綿の袋には銃が2本、片すみの古い金だらいはかまどである。
南部のカルガリーからやってきたふたりは、マイルズ・ケホー(33歳)とトニー・ブライド(20歳)。彼らは64年型のおんぼろフォードをカーマックスで100ドルでたたき売り、イカダを漕ぎだしたのは4日前だという。
「またどうしてこんな旅を?」
録音機をまわしながら私が聞く。
「1時間に7マイル(11km)流れて、しかも急流がないというのを本で知ったとき、これはイカダでくだれるな、とひらめいたのさ」
彼らの食料は米と野菜の缶詰。
「魚がとれない。この調子じゃ、食料としてみこめない。狩猟のほうはうさぎ、ヤマアラシ、ビーバーぐらいかな」
食事風景を撮るために昼食をつくってもらった。熱湯に塩を入れ、米を煮こんだあとで缶詰の野菜をまぜる。3か月間のふたりの予算が200ドルだそうだから、予算オーバーのメニューだった。
「東京の人たちは、テレビでぼくらを見て、プリミティブな旅だと思うだろうな」
マイルズのことばを背に、私たちはイカダをはなれた。
私はショックだった。4日間で190km(平均時速約4km)くだっただけの連中とならんでみて、12日、660kmをくだってきた私たちは完全に貫禄負けした。まだまだだな。
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6/29 Kirkman Creek
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6/29 stewart River
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6/30 Stewart River Burian's Trading Post
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7/1 Stewart Island
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7/2 Bonanza Mining Museam
———ドーソンには7月1日の夜に着いて5泊した。人口わずか700.夏のあいだは観光客と、そのサイフをねらう人々とで、町はちょっぴりふくれあがる。———
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自動採金機の簡単なもの、土砂は筒の中を通り、金が下にたまる。
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7/2 Bonanza Creek & Dawson
734-749……Bonanza Creek & Dawson Midnight Domeより
739=ドーソン。金鉱ドレッジ跡
743=ドーソン市街
745=黄金の川 クロンダイク・ボナンザ沢 河床は全て掘り返された
750-757……Dawson対岸より 7/2
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7/3 Klondike……Bonanza Creek
———クロンダイクの谷ではじめて黄金が掘りだされたのが1896年8月17日。その月のうちに、このあたりに入りこんでいた山師たちによって谷すじのほとんどが分割された。ひとすくい6ドルといった成功話は、これら「サワドウ」たちのもの。
2年後に「チーチャコ」たちが押し寄せてきた。ありつく仕事は時給1ドル半の金掘り。あるいは山肌をきりくずすはかない試み。町では酒と女とギャンブラーが、手ぐすねひいて待っていた。———
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7/3-4 Peter Pamchina
———ピーター・パムチーナ。私たちがたずねた老人は、くるのが決定的に遅かった。1927年にユーゴスラビアからやってきたとき、彼は30歳。クロンダイクはすでに大規模採金の時代だった。彼はドレッジと呼ばれる自動式採金機械の作業員となって。河床をひろげつつ徹底的に沢を掘り返した。
ドーソンの町から、砂利山ばかりの谷をさかのぼると、20kmほどのところに老人の小屋があった。20年働いたあと、3,500ドルで手に入れた彼の鉱山だ。すでにドレッジの時代もおわり、今では数人の老人たち(オールド・タイマー)が孤独な生活をつづけているにすぎない。
小屋はせまく、ストーブと机とベッド、それにイスがふたつ。いささか太りすぎの老人の身のこなしにムダはない。食器を洗うにはまず、ストーブの上の湯につける。清潔なフキンをだし、まるで磨くようにていねいにふく。ティーカップはひとつひとつ釘にかけ、皿やスプーンは机の引出しにそーっとしまう。儀式のようなみごとな動きだった。
小屋の前に柵でかこった小さな菜園がある。去年のジャガイモを床下の食料庫に入れておいたら、まだとりたて同様の新鮮さだと、老人は自慢した。マキは、きちんと積んで屋根をかけたものだけで2年分。ホースでひいた水は冬でも凍らないという。すべてが数歩で手のとどくところにあった。
金鉱は菜園の下。ブリキ板で閉じた入口のわきに、掘りだした土砂の小さな山。それをシャベルで洗面器のようなゴールド・パンに入れる。ドラムカンのたらいでゆっくり洗いだす。底に穴をあけた皿(パン)の石をすてると、ひとにぎりの砂が下の皿に残った。水を入れてゆすり、濁った水とともに砂をすてていく。きらりと黄金が光る。
1時間ちょっとで5〜6回のパンニング。老人が得た黄金の粒は、わずかに耳かき1杯ほどのものだった。その程度で生活ができるのか、いつもはもっととれるのか。私の質問に、老人は「生活には充分」というだけだった。
身のまわりのことをすべてひとりでやってきた78歳の老人。彼だって一攫千金を夢見た時代はあっただろう。それがなぜ、原始的な方法でささやかに黄金をほじくりだすようなことになったのか。
彼が農民だったからかも知れない。穀物の穂を刈りとるように、生活に必要なだけの黄金がとれてきた。たとえわずかではあってもそれは彼の土地からの収穫なのだ。
毎週金曜日に車で買物にさそってくれる古い仲間と、ときおりやってきてはお茶を飲んでいく何人かの友だちがいるだけの静かな生活。
あるいは彼こそが「サワドウ」なのかも知れない。ベネットから830kmの探金者の道すじをたどったすえに、目的地クロンダイクで私が見たのはこの老人、ピーター・パムチーナだった。
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7/4-5 Dawson
———博物館がいくつかあった。古い建物は観光局によってt積極的に保存されはじめている。会計のさいふのひもがかたくて見るチャンスを逃したが、ゴールドラッシュ時代をしのばせる舞台があり、記録映画の上映もあった。
昨年開設されたカナダ唯一のギャンブル場。1回のカケ金5ドル以内という健全なムードで、床にまき散らされた金色の紙の切りくずは、探金者たちのポケットからこぼれおちた砂金のつもりだ。
私は酒がダメ。カケごとに使う金もなかったから、カンカン踊りの踊り子とウエイトレスをかねてピチピチ動きまわる南部からアルバイトでやってきた女の子たちの、そのあらわにしてみごとな胸のふくらみに目をうばわれていた。
町での生活は苦々しいものだった。一文無しだったからだ。ギャラ交渉がもつれたまま旅にでたので、私は外貨を1ドルももたずに東京を発った。5万円の日本円はホワイトホースで広角レンズを買ってあっけなく消えた(注記・最初のカヌーの事故のときカメラを1セット流失した)。おまけに隊から30ドルほど借金した。
生活そのものは大名旅行だった。私のサイフがカラッポでも、困ることは何もなかった。ひとり歩きするチャンスはほとんどなかったから、坂野と鶴見にベッタリくっついていればいい。仕事のあいまに、ある程度の写真は撮れた。
だが、ドーソンでは見たいものがいろいろあった。時間をもらって博物館に行き、たった1ドルのために入口でモジモジしてひきかえさなくてはならない屈辱を味わった。
「坂野よ、博物館やローカルな演劇はできるだけ見ておいたほうがいいぜ」
私は甘いことばで時間と金をひねりだそうとした。
「古い記録映画を3本やっている。チャップリンの映画なら見逃してもいずれまたチャンスがあるけれど、これは東京では絶対に見られないぜ。旅先でしか見られないものってぇのは積極的に見ておくべきだ。ベラボーな買得品だぜ」
鶴見にも攻勢をかけた。
「スチル写真のノルマがあるんだろ。だったら古い街並みとか、博物館の品物なんかを撮っとけよ。そのテのものはいつまでたっても売れるんだから。必要ならストロボを貸すぜ」
私はナアナア主義でことをはこべる男ではないから、こういうゆさぶりはほとんど成功しない。けっきょく11ドルを借金して、博物館をひとつ見、「クロンダイク」という本を買った。隊の資料はある程度買うことができたが、やはり本代ぐらいは充分に用意してくるべきだった。———
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7/5 Dawson〜US border
———7月6日にドーソンを後にしたとき、私たちはちょっとした虚脱感におそわれていた。印象深いひとつの旅がおわったのだ。川くだりそのものは、すでに刺激のないものになっていたし、無人地帯でのキャンプ生活も、ありふれた日常になっていた。映画としても、前半の大きな山が終わったのだ。
「カナダのユーコン河は、いってみれば死んだ川だ。さあ、これからはインディアンの村がつづくぞ」
私は坂野と鶴見の背中にむかって叫んだ。エンジンの音が意外に大きく、カヌー上での会話はほとんどなくなっていた。
アラスカに入ると1,500kmにわたってインディアンの村がつづくはずだ。インディアンを中心にしたストーリーが映画の大きなポイントになる。迫力あるハンティングだとか、インディアンがらみの事件。だが、どこから手をつけたらいいのか。坂野は役に立ちそうもない台本をひっぱりだし、ぼんやり考えこむことが多くなった。ドーソンから140kmで国境をこえると、イーグルはあと20km。しかしインディアンと接触する余裕はなかった。エンジンのプロペラを流出して、スケジュールがくるいはじめていたからだ。———
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7/8 Eagle
David-Schlesingerの筏
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7/9-10 Eagle
Beaver Pond
ドーソンでイネステーラーから注意されたのは「ビーバーだけには気をつけよ」ということだった。ボートのもやい綱をかじられないように! というのだ。
そのビーバーがまちがいなく住んでいる池があった。自然の水たまりに見えたけれど、よく見ればそれはビーバーが自力で作り上げたダム湖であり、我が家だった。
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7/10 Eagle
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【撮影】7月10日=伊藤 幸司=21-048
これは「アムンゼンが住んでいた家」とされています。ウィキペディアによると
———1903年、アムンセンは借り入れにより探検費用を整え、装備と船を差し押さえようとする債権者から逃げるようにして、乗員6名とともに47トンの鋼製機帆漁船ヨーア号(Gjøa)で大西洋から北西航路へ入った。
彼はバフィン湾・ランカスター海峡・ジェイムズロス海峡・レイ海峡(Rae Strait)と、東から西へ向かう航路を選んだ。キングウィリアム島とブーシア半島の間のレイ海峡は新しい氷が多く比較的航行可能で、この選択が成功のもとになった。ただし水深がわずか1mと非常に浅い部分があり、ヨーア号だから航行できたものの、それより大型になる商船の通過は不可能な航路であった。
キングウィリアム島近く(現在のヌナブト準州グジョア・ヘイヴン Gjoa Haven)で2回越冬したアムンセンはイヌイットから、犬ぞりの使い方や獣皮の着方など寒帯で生き残る術を学び、これが後の南極などの探検に生きた。
1905年夏に越冬地を発してビクトリア島の南を航海し1905年8月17日にカナダ北極諸島を抜けボーフォート海へ出ることに成功したが、アラスカ沖で流氷に閉ざされ3度目の冬を越すことになる。彼は氷の上を800km歩いてアラスカ州イーグルに向かい、北西航路横断の電報を打って船に帰った。次の夏、氷を脱出したヨーア号はベーリング海峡を通過し、アラスカ太平洋岸のノームに入港した。こうしてアムンセンは史上はじめて北西航路の横断航海に成功した。
イギリスの王立地理学会は、1907年に、北西航路横断と磁北極地域の探険の業績に対し、アムンセンに金メダルを授与した。———
【撮影】7月10日=伊藤 幸司=21-050
【撮影】7月10日=伊藤 幸司=21-051
【撮影】7月10日=伊藤 幸司=21-052
【撮影】7月10日=伊藤 幸司=21-053
【撮影】7月10日=伊藤 幸司=21-055
【撮影】7月10日=伊藤 幸司=21-056
【撮影】7月10日=伊藤 幸司=21-057
【撮影】7月10日=伊藤 幸司=21-062
【撮影】7月10日=伊藤 幸司=21-063
7/12 Glenn Creek
ムースの親子
【撮影】7月12日=伊藤 幸司=21-073
【撮影】7月12日=伊藤 幸司=21-074
【撮影】7月12日=伊藤 幸司=21-079
【撮影】7月12日=伊藤 幸司=21-083
ユーコン全流域にいるセグロカモメ。カヌーで近づくと威嚇してくる。
【撮影】7月12日=伊藤 幸司=21-084
【撮影】7月12日=伊藤 幸司=21-087
7/14 Circle
【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-095
【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-097
【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-098
【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-099
【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-104
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【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-110
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【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-113
【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-119
【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-122
【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-124
【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-129
【撮影】7月14日=伊藤 幸司=21-131
7/15-23 Fort Yukon
———ドーソンを出てから、10日間が無為にすぎた。フォート・ユーコンの町に着いたのは7月16日だった。ここで東京に電話を入れる約束になっていた。新たな指示を受けなければこれからの日程がたてにくいという事情もあった。
フォート・ユーコンはベネットから1,340km、ユーコン河のほぼ中間点にある。この町を旅行ガイドふうのキャッチフレーズで説明するとかなり魅力的だ。<ユーコン河最北の北極圏の町>であり<長さ400km、最大幅60kmいおよぶ大盆地、ユーコン・フラット(平原)の中心>でもある。<アラスカ内陸最大のインディアン村>であると同時に<ホワイトホースにつぐ流域第2の町>。そしてまた<アラスカでもっとも寒く、また暑い>ところである。
もっとも、この町はドーソンへむかったときのようなはっきりした目的地ではなく、取材の手がかりをさぐってみようというステップにすぎなかった。川くだりがはじまってからすでに1か月、はじめのころは船頭である私の権限がかなり大きかったけれど、いまでは坂野が全権をにぎっている。私たちの行動は撮影隊となっていた。
【撮影】7月15日=伊藤 幸司=21-133
【撮影】7月15日=伊藤 幸司=21-136
【撮影】7月15日=伊藤 幸司=21-142
【撮影】7月15日=伊藤 幸司=21-143
【撮影】7月16日=伊藤 幸司=21-144
【撮影】7月16日=伊藤 幸司=21-145
7/16-17 Fort Yukon
———到着翌日の7月17日、取材のためのすばらしい手がかりをつかんだ、と私は思った。若い教師チャーリー・シーのボートに便乗して「インディアン・エヂュケーション・アクト・キャンプ」という林間学校を訪れる機会を得た。
キャンプはポーキュパイン川を30kmほどさかのぼったところにあった。もちろん、町を一歩はなれれば広大な無人地帯である。えぞ松のなかに高床式の小屋、軍用の大テント。四畳半ほどのカヤのなかで寝そべってマンガ本を読む子供たち。
3mほどの小さなカヌーがあった。5cm幅ほどの板で平底船の枠どりをしてキャンバス布を釘で張り、緑のペンキを塗り終わったところ。柳の枝で編んだ小屋では、きのう捕ったといううさぎの肉を焼き、棚がけに吊りさげたサケはくんせいにしているところだ。
女の子たちが輪になり、インディアン女性に手をとられてビーバーの円型の毛皮をなめしている。そのビーバーも近くで討ちとったものという。
1週間のキャンプは、フォート・ユーコンの50人ほどの子供たちを対象とした夏の教育活動。9人の指導員はインディアンの女性が多い。
カリキュラムを知って、私は驚いてしまった。モーターボート運転ののための水流の読みとりかた。緊急待避小屋のつくりかた。ワナ猟や編漁法。ライフル銃での狩猟も教える。森のなかでは、食べられるものをかたっぱしからさがしだす訓練もするという。女の子には魚肉の処理、皮なめしや縫いものなどの技術。カヌーをつくったり、泳いだりもする。
親から子へと伝えられてきた生活技術を、ここでは集団行動をとおして教えている。私はすっかりうらやましくなってしまった。”あむかす”で何度も企画だおれになった子供のための探検学校が、はるかに高いレベルでおこなわれていた。
「ここのチビどもから、アラスカ流のサバイバル・テクニック(生存技術)を教わるシーンを撮らない? よろこんでピエロ役をやるからさ」
私の提案は坂野の心をうごかすことはできなかった。私のアイディアは、どれもこれもテレビには地味すぎるらしい。キャンプはまだ3日間残っているというのに、わずか30分ほどで去るのは残念でならなかった。
【撮影】7月17日=伊藤 幸司=21-147
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【撮影】7月17日=伊藤 幸司=21-149
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7/17-23 Fort Yukon
———東京と電話で連絡をとった結果、8月15日にフェアバンクスで隊長と会い、不足気味のフィルムと金を受けとることになった。それまでちょうど1か月。
「タナナからフェアバンクスに飛ぶことにします。手持ちのフィルムで、ユーコン平原(フラット)のインディアンをからめた話をひとつ。タナナからは河口まで一気にくだりましょう」
坂野の決定に私は大賛成だった。フォート・ユーコンからタナナまではわずか500km。1か月のうち2週間ぐらいはひとつの村に滞在できそうだ。
フォート・ユーコンには7日滞在したが、けっきょく何もしないまま日をすごした。坂野がフェアバンクスに飛んで飛んでゴールデンデイズ・フェスティバス(黄金祭)を取材するあいだ、私は終日テントにこもってノートを整理し、本を読んでいた。
映画屋さんは膨大な機材をもちこみ、高価なものだからと大事にあつかう。町とは水路でへだたった砂州にキャンプし、留守番をおくようにしたのも機材のためだ。町長の息子は何度もたずねてきて話しこんでいったが、対岸の連中の誘いには手を振ってこたえるだけだった。
ユーコン平原は夏の盛り。サケはとれはじめていたが、それは漁網やサーモン・ウィール(サケとり水車)に通うだけのこと。毛皮をとるワナ猟は冬の仕事だし、ハンティングも秋までは禁じられている。取材のためには手ごろでワイルドな部落をさがさなければならないだろう。
【撮影】7月17-23日=伊藤 幸司=21-189
【撮影】7月17-23日=伊藤 幸司=21-195
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7/27 Fort Yukon Ducks Hunting
———7月23日に、町に大型貨物船が入港した。ガソリン、石油、プロパンガス。ビール、コーラ、建材などの重量物をはこんで夏のあいだに3〜4回やってくる。
その取材の帰り道、チンピラふうの若いインディアンたちがビールやウィスキーの箱をかついでやってくるのに出会った。町の連中とはどこかちがう。
「ワンカットいこう」
坂野との呼吸が合ったのは久しぶりだ。私はマイクをにぎって近づいていった。
船員だと思っていたが、彼ら6人はビネタイという村から酒を飲みにボートでくだってきたという。
「オレたちといっしょに来いよ。酒もほら、こんなにある」
何かしらピーンと感じる出会いだった。彼らを主役にするだけでも話がつくれそうに思えた。彼らが酔っぱらっているのにつけこんで、カヌーごと連れていってもらうことにした。
あわただしい準備のあいだに、ビネタイという村がインディアン居留地(リザベイショん)にあり、シャンダラーという急流をさかのぼって100kmのところだと知った。ビネタイの連中は酔ってトラブルをおこすことが多く、町での評判は悪かった。
33馬力エンジンつきの平底ボートでは無理はわかっていたが、200kgの装備をボートに積み、カヌーは空荷で曳かれることになった。そして安全のために、わたしだけがカヌーに乗った。———
その100kmの川旅で私は大失敗をしたのですが、引用している『あるくみるきく』のレポートではそのことに長々とふれていて、おかげでこのエリック兄弟(Earnest Erick, Dennis Erick)に誘われたカモ撃ちの旅については、
———カモ射ちの小旅行の撮影をした———
と1行にも満たない記述があるだけです。
【撮影】7月27日=伊藤 幸司=21-263
【撮影】7月27日=伊藤 幸司=21-265
【撮影】7月27日=伊藤 幸司=21-267
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【撮影】7月27日=伊藤 幸司=21-287
7/27-29 Chandalar Indian Reservation, Vinetie
「シャンダラー・インディアン居留地」とはいっても、ビネタイ村はフォートユーコンの100km北にある村、というだけで、特別なちがいは感じませんでした。ただ「インディアン居留地」というのは、北米の先住民とヨーロッパからの開拓入居者とのあいだのせめぎあいの結果として生まれたもので、先住民が「ほとんどすべて」の土地を奪われたかわりに、いわば「生活保護」「伝統保護」というような「生きのびる自由」を国から保証された土地ということになるんでしょうかね。
たとえばインディアン居留地の子どもたちはだまっていても高校まで行くことができるのですが、それは米国の「西部」にある全国の居留地から来た子どもたちの専用学校というべきものであるらしいのです。子どもたちは居留地を出ればふつうのアメリカ国民として自由競争の渦に飛び込むことになるのですが、その前に高校を中退して居留地(故郷)にもどって、たとえば金が入れば飛行機を呼んで町まで飲みに出かけるというような生活にはまり込んでしまったりするようなのです。
———アルコールの持込みを禁じているビネタイ村は平和だった。インディアン語(アタパスカ系クチン語)を自分たちのことばとして大事にしていて、人々の表情には自信と落着きがあった。子供たちの顔も明るく、ふるまいもすなおだった。ほんのワンカットだったけれど、私はクチン語でインタビューすることに成功した。———
【撮影】7月27-29日=伊藤 幸司=21-290
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【撮影】7月27-29日=伊藤 幸司=21-293
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【撮影】7月27-29日=伊藤 幸司=21-300
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【撮影】7月27-29日=伊藤 幸司=21-324
【撮影】7月27-29日=伊藤 幸司=21-325
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【撮影】7月27-29日=伊藤 幸司=21-332
【撮影】7月27-29日=伊藤 幸司=21-334
【撮影】7月27-29日=伊藤 幸司=21-338
【撮影】7月27-29日=伊藤 幸司=21-339
7/29 Boundary Survey Camp
「バウンダリー・サーベイ」は「境界測量」ですかね。「あるくみるきく」では、これも1行に満たず、
———連邦政府の地理調査隊のヘリコプターで空からの風景を撮ることができた。———
で終わっています。
たくさんのテントを張って、ヘリを使って航空測量をして、この「シャンダラー・インディアン居留地」の調査をしていたのだと思います。私たちはラッキーなことにヘリからの空撮をさせてもらいました。
【撮影】7月29日=伊藤 幸司=21-342
【撮影】7月29日=伊藤 幸司=21-345
【撮影】7月29日=伊藤 幸司=21-348
【撮影】7月29日=伊藤 幸司=21-351
【撮影】7月29日=伊藤 幸司=21-352
【撮影】7月29日=伊藤 幸司=21-353
【撮影】7月29日=伊藤 幸司=21-356
【撮影】7月29日=伊藤 幸司=21-357
【撮影】7月29日=伊藤 幸司=21-364
7/31-8/1 ジョニー&サラー・フランク
本来ならこのフランク夫妻のことを詳しく書きたいところですが、これも『あるくみるきく』では
———村から30kmもはなれて悠々自適の生活を楽しんでいる94歳と89歳の老夫婦も取材した。その老人たちは彼らの土地にエスキモーの移住村を作り上げた日本人、フランク安田をよく知っていた。———
としか書かれていません。ただ、写真キャプションには次のようなものがありました。
———ユーコンの人々は実によく働く。このサラー・フランクは89歳、94歳のジョニーとふたりできりで村から30kmの無人地帯に住んでいる。大自然のなかでの生をまっとうしようとする老夫婦の強さと豊かな愛情を私は感じとった。———
じつは、ごく最近のことですが、私はこのユーコン川に関するオリジナル・フィルムや日記の全てを古希になってからの引っ越し兼終活で、全部捨ててしまったのです。スライド用マウントに入れて整理した古いオリジナルフィルムからコツコツとスキャンする時間もエネルギーもない、と判断したからです。すでにこんな大量のスキャンニングをしているとも思いませんでした。大長編のレポートも書きかけのまま捨てました。
それなのに、ここでこんなふうに、古い写真を並べたのは、結局、私が時代時代に試みてきた「行動記録」の「大量保存」法がこの「山旅図鑑」で驚くほど簡単に実現できることに気づいたので、眠っていた私のスタートからの写真を並べておこうと考えたからです。
じつは私のこのホームページ自体も、完全に独りよがりでつくってきたものでして、半世紀前のワープロのレイアウトと基本はまったく同じです。ただ、そのページ数や写真点数がほぼ無限で、自分でやる限り経費もほとんどかかりません。
スティーブ・ジョブズが一気に実現してくれたWYSIWYG(What You See is What You Get 見たまま印刷)やDTP(Desdktop Publishing 卓上出版)がいまここに、ほとんどそのままストレートにつながっているのです。
また、写真編集者として一流写真家の写真も、発表されたもの以外はゆっくりとゴミになっていくという現実をいくつも見てきました。それに対して、宮本常一先生の10万点の写真がなんとか生き延びたのは、その写真がほぼ撮影順に保存されていて、おおよその日付もあり、手帳に書かれたこまかな行動日程と照合できるようになると、たちまち写真は、群れとして息を吹き返してきたのです。加えて宮本先生の原稿は限りなくエッセイで、それがまるで日記のように書かれていたことから、写真に写っているものや、写真の背景にあるできごとが、没後の編集作業によっても浮かび上がってきたのです。
私の写真は保存する価値があるかどうかわかりませんが、そういう写真でも群れとして保存し、内容が絞れる程度の情報(たとえば5W1H いつ・どこで・だれが・なにを・なぜ・どのように)が添えられていれば、だれかの役に立つはずですし、ネット情報としては、それを押入れの奥に突っ込んでおいた状態でも、必死に探している人に見つけてもらうことを期待できるのです。
ともかく、北極圏に100km+30km入りこんだ無人の河畔に住んでいる当夫婦は、必要物資は数年分備蓄して、村人はもちろん、子どもたちにも迷惑をかけず、自然につつまれて生活していたのです。もちろん年齢からして「死」にも寄り添う生活だと感じました。
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-373
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-381
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-383
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-384
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-385
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-388
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-389
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-395
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-398
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-402
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-403
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-404
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-407
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-410
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-412
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-414
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-415
7/31-8/3 Robert Frankとの狩猟旅行
ロバート・フランクはこのシャンダラー・インディアン居留地・ビネタイ村の若き村長で、94歳のジョニー・フランクの孫。彼はインディアンとしての自立を目指してこの村を引っ張っているようだ。
———すばらしい毎日だった。しかし、めまぐるしく走り去るような体験の連続だった。坂野はここでも頭をかかえこんでしまった。しがみつくような思いで村長に期待をたくした狩猟シーン、世界最大のシカ、ムースのハンティング旅行が失敗したからである。そのかわり私は、北極圏のツンドラの味、ブルー・ベリーの素晴らしい味わいを知った。———
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-421
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-422
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-429
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-434
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-436
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-455
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-456
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-459
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-460
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-462
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-464
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-465
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-466
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-468
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-470
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-471
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-472
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-475
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-478
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-479
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-480
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-482
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-484
【撮影】7月31日-8月1日=伊藤 幸司=21-486
8/5-6……Fort YukonからBeaverへ
ユーコン川中流のフォート・ユーコンを拠点にした行動は約2週間となりました。そのうちの1周間はインディアン居留地のビネタイ村にでかけていた、ということになりますが、じつは私にはその間「水」がらみの大失敗が2つありました。
7月23日、フォートユーコンで、ビネタイ村から下ってきた若者たちに誘われて、シャンダラー川を100kmさかのぼることになったのですが、もちろん私たちのカヌーではその急流を遡れないので、……『あるくみるきく』には次のように書いていました。
———200kgの装備を彼らのボートに積み、カヌーは空荷で曳かれることになった。そして安全のために、私だけがカヌーに乗った。
午後5時にフォート・ユーコンをはなれた。ボートのうえでは、皆が酒を飲み、笑いこけていた。エンジンのうなりで声が聞こえぬだけに、いかにも愉快そうな笑顔が目に焼きついた。ひとりぼっちの私はさびしかったのかもしれない。あまりに無邪気そうな坂野と鶴見を見ているうちに、いらぬチョッカイをだしたくなった。メモを書きはじめた。
……鶴見へ。到着までにたっぷり時間がある。6人の名前と人間関係をつかんでおけ。名前はアルファベットで正確に。ボートの持主はだれだ。リーダーらしいアーネストにも注目。家族や村の人間についても聞いてみること。ビネタイは80〜120人、多くても300人の村ということだ。
インディアン語も、簡単なあいさつくらいは聞いておけ。できればアルファベットできちんと教わること。こういう基礎情報は、短期間の取材では大きな力になるはず。アシスタント・ディレクターとしてガンバレ……
書いてしまうと、むしょうに手わたしたくなる。船首にいってロープをひいたが、曳航されているのでびくともしない。つい意地になり、長いさおに手紙を結び、船首から思いきり身をのりだしてわたそうとした。
はずかしい。バカなことをやったものだ。手紙が運転手にとどいた瞬間、重心をくるわしていたカヌーは、ひかれながらゆっくりと傾き、そのまま転覆してしまった。
失ったのは野菜類と食器と調理具。たまたま積み込んでいたフィルムのザックは、坂野が猛然と泳いできてすぐにひきあげ、しかも防水が完全だったので助かった。私はパイプを流し、びしょ濡れのカメラバッグは、沈まなかったのを喜ぶのが精一杯のところだった。
ガス欠寸前でたどりついたビネタイ村はユーコン平原の北のはずれ、山なみと接する高原にあった。
つぎの2晩、私はまともに眠ることができなかった。最初のダムでの事故で難を逃れたたった1台のカメラが水につかってしまった。分解して水をふきとり、油をさして組立て、動かないのでまた分解して・・・空き時間をすべてその作業についやしたが、カメラはとうとう直らなかった。
後悔はしなかったし、できなかった。私はただ悲しかった。川下りが好きだったからユーコンにやってきたのではないか。それなのにカメラを失ったとたん「川くだりなんてどうにでもなれ」という気になった。私はプロのカメラマンではあるが、今回は船頭だから仕事の限界は覚悟していた。
だが、どうしようもない虚脱感だった。2晩目の朝方、私はたまらなくなってカヌーに乗った。入江を奥に向かって漕ぎながら、蛮声をはりあげ、古い流行歌を歌いつづけた。寝ぼけまなこのシギたちが、片足とびで岸辺を逃げまわり、なかには2本足をもつれさせるコッケイな姿も見られた。
私のおろかな失敗は隊にも迷惑をかけていた。石油カンのかまどと借りもののナベ、フライパンでは、まず料理の種類が限られた。空きカンを食器に、柳の棒をはしにしての3度の食事はわびしかった。私はふぬけ同然で、コック長の坂野もヤル気をなくしていた。鶴見がいつもとかわらぬまじめさで働いてくれなかったら、殺伐とした雰囲気になっていたにちがいない。
買いだしが必要だった。私は坂野に頼んでその役をひきうけ、フォート・ユーコンに飛んだ。
まず最初にたずねたのが日本びいきのテツフラ先生。「どうしたの、あなた!」と戸口で叫ばれたほど、私は異様な表情だったらしい。「ワタシ、メイジ・オンナ」と口ぐせのようにいう先生に、おずおずとカメラの信用買いをお願いした。
「売るつもりはありません。これを自由にお使いなさい」
東独製のカメラを手ににぎらせてもらって、私は思わずしゃくりあげていた。ヒゲづらの男に泣きだされて、先生はうろたえてしまったが、私にはどうしようもなかった。———
———さらにもうひとつ、ビネタイ村で大失敗をやらかした。7月29日、村での6日目に子供たちと水浴にでかけた。水温14度の水に足をつけただけで、その冷たさにふるえてしまった。子供たちが「コージ! 潜水して!」とせがんだ。生来のおっちょこちょいがでて、つい本気に泳いでしまった。
立ちあがったとたん激しい頭痛におそわれ、2日間は眠れぬ苦しみだった。そして8月3日、村を去るシーンの撮影でカヌーを全力で漕ぎはじめた瞬間、その頭痛がまた再発した。中学3年のとき、ラグビーで頭を打ってからというもの、私の頭は弱いのである。私のウイーク・ポイントをここまでさらけださなくてもよかろうに。行程の半分を残して、私はすっかり弱気になってしまった。
シャンダラー川を遡行した旅は11日におよんだ。私にとっては不運な旅だったが、すばらしい体験の連続でもあった。坂野にとっても、映画になりそうなテーマがつぎつぎにあらわれた。
【撮影】8月5日=伊藤 幸司=21-490
【撮影】8月5日=伊藤 幸司=21-495
【撮影】8月5日=伊藤 幸司=21-499
8/6-8……beaver-village
「ビーバー村」は新田次郎の『アラスカ物語』の舞台としてかなり多くの人が知っているアラスカの村ですね。アラスカのインディアンの村が数珠つなぎにならんでいるユーコン河畔に、北極海の沿岸から移住したエスキモー(いまはイヌイットといいます)の村が出現したというストーリーです。
その
フランク安田(安田恭輔)に関してはウィキペディアにかなり詳細な解説があります。
安田恭輔は1868年(明治元年)に宮城県石巻に生まれ、外国航路の船員となり、北極海で遭難したのがきっかけでアラスカのポイントバローに住むことになったのですが、伝染病や捕鯨の不漁で村は危機的な状態に陥り、安田はゴールドラッシュの中で移転地をさがしながら、最終的にシャンダラー川に金の取引ポストを設置、アサバスカ・インディアンとのあいだで了解をとりつけ、
———3年を費やして200人余りのイヌイットをバローから南下させ、ブルックス山脈を越え、その土地に連れて行きビーバー村を作った。交易所、学校、教会、郵便局、船着場を設置した。好戦的なアサバスカ・インディアンが住む地域に、インディアンと仲が悪いイヌイットの村が出来た事は白人の間でも話題になっていたが、インディアンとは仲良くやっていた。インディアン仲介にあたったジョージ大島に、フランク安田は一緒に村に住もうと誘うが、彼は村付近の森の湖がある場所にロッジを建てて一人で暮らした。———
とウィキペディアには書かれています。
私たちはビーバー村に足かけ3日滞在したのですが、私は『あるくみるきく』にほとんど書いていません。
———この村で、私たちは船外エンジンのプロペラを受けとる予定になっていた。フェアバンクスの代理店に電話までして念を押してあったのに、それが届いていない。アラスカに入って以来、電話があったのはフォート・ユーコンだけ。村には電報もない。飛行機はどんな小さな村へも週2〜3便はあるというアラスカの村のアンバランス。
日程が問題になった。タナナまで400km。8月15日に坂野がフェアバンクスで隊長と会うことになっている。9日しかないのである。私はサテライト・ラジオと呼ぶ無線を使って、プロペラをタナナに送ってもらうように指示した。———
【撮影】8月6-8日=伊藤 幸司=21-507
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8/12-15……Steevens-village〜Tanana
———ビーバー村を出発した8月8日から強い南風が吹きはじめた。真夏のおもむきだったユーコン平原(フラット)は一転して厳しいものになった。幅50km以上の無人の大平原のなかで、強風を正面、左舷と受けてくだるのは、かなり刺激的だった。
このあたりの勾配はわずか6,500分の1、しかも編みひもをばらしたようにな複雑な水路。流れがなくても不思議ではないのに、幸いなことに毎時3〜4kmの流速があった。
しかしその程度の流れでは、風と波にもまれていると、どの水路が本流なのか判断できない。地図で本流がわかっても、目に見える風景は、えぞ松とポプラと柳の同じような島が果てしなくつづいているだけ。
ミルクコーヒー色の波が、風の向きと強さによってさまざまに変化した。砂州から舞いあがった砂がカヌーをすっぽりつつんだ。
風のなかでは、Jストロークなどは不要だった。美しいラインをえがいて高くせりあがった船首が風を受け、カヌーはうしろ向きに流されていた。私がまず最初に実験したのは、船尾からくだるときにどれほどの波にまで耐えられるかということだった。
風で押しもどされるカヌーを、流れはあくまで押し流そうとする。ふたつの力のあいだにバランスが生まれる。パドリングで第3の力を加えてバランスをくずすと、風なり水なりの力がわずかながら利用できる。たとえば風下の岸にカヌーが吹きよせられたとき、船首が対岸上流を向きつづけるように風にさからって漕ぎつづける。水圧が余力をえて、船底をかすめる力がカヌーをゆっくりと対岸に運んでくれる。
波間に漂い、自然の力をこまかく読みとって漕ぎつづけると、私はその忙しさで飽きることがなかった。
単に行動が充実していたというだけではない。8月15日までにタナナまで流れくだるだけで日程としてはぎりぎりに思えた。船頭としてノルマは厳しかったが、権限もまた大きくなっていた。私は久しぶりに行動の主役にのしあがっていたのである。
朝9時すぎにテントをたたんでカヌーに乗る。夜はキャンプ地をさがせるぎりぎりの時刻、午後10時ごろまでずっとくだりつづける。前部に座った坂野と鶴見は退屈をまぎらわすために3度の食事に腕をふるってくれる。運動して健康的な私は、それをガツガツを食う。パイプを流して以来の辞書紙での手巻きタバコは風のなかで吸いづらく、節煙もまた快調の原因だった。
8月12日、ビーバー村をでて5日目に、となり村のスティーブンス・ビレッジに寄り、さらに15km下流で大平原はおわった。丘陵地帯のせまい谷に入り、翌23日の昼にはアラスカ開発の主役とされるパイプラインの敷設工事現場をすぎた。丘陵地帯の出口、タナナまではあと200km。スケジュールが問題になった。
ビーバーからスチーブン・ビレッジまでの120kmを私たちは39時間でくだった。時速にして3km。峡谷部に入って風も弱まり流速もましたが、毎時5kmのスピードを超えることはないだろう。ということは、うまくいっても200kmに40時間。
結論はこうだった。翌14日の朝までに90km下流のランバート村まで徹夜でくだる。もしそこで飛行機がつかまらなければ、15日朝のタナナ到着をめざしてさらにがんばる。
【撮影】8月12日=伊藤 幸司=21-584
【撮影】8月12日=伊藤 幸司=21-585
【撮影】8月12日=伊藤 幸司=21-586
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【撮影】8月13日=伊藤 幸司=21-607
8/15-21……Tanana
———夜の川下りは印象深いものになった。私は指先に豆電球をつけるようにくふうした筆記用ライトで日記をつけながら漕いでいた。
【午前0時15分。まったく色のない世界だ。そして音もない。私たちはまっ黒な林の影にとりかこまれている。空には一点の光もなく、灰色の濃淡をにじませただけの重くるしいひろがりだ。
その空に黒々と突きでたえぞ松の、針先と針先とが交叉していく。経験的に、カヌーが時速4kmぐらいのスピードで流されているとわかる。あれほど苦しめられた風が遠い昔の思い出のように、空気は微動だにしない。湖水の真中にぽつんと浮かんでいるような気分だ。
ときどき、何をまちがったのか蚊がとんでくる。しばらく耳のあたりに羽音をひびかせて去っていく。それが唯一の音。軽いかゆみがあとに残る。
私はゆっくりと水をかいてみる。6mの大型カヌーに3人の男と200kgからの装備が積まれているというのに、私はいま、カヌーを自在に、軽やかにうごかすことができる。
地図によれば、右岸に比高200mほどの丘があらわれるはず。それをすぎれば流れは大きく左にまがり、それからゆるゆると右にくだってランバート村。
方向はまったくつかめない。北極圏に近づいてからというもの、磁石は一度も使っていない。修正角をしらないからだ。そのかわりいままでは一日中太陽があった。時計と見比べるだけでおおよその方角はわかった。
今ごろの時刻なら、たとえ山にさえぎられた空ではあっても、南の地平線からのびあがっていた深い夜空の一角は見えるはずだし。しかしいま、私の頭上にある空はただのまだらな灰色にすぎない。
私は両岸の黒々とした林を見くらべる。えぞ松の樹冠の大きさのちがいだけが、カヌーが流れの中央にいるかどうかの目安になる。
右手に丘らしいものがせまってきた。午前1時ちょうど。思ったほどは高くは見えず、黒々としたその影がなんとなくかすんでいる。雲が霧におおわれているからだろう。ときおり、砂つぶのような雨がパラパラとおちてきた。】
ランパートで飛行機はつかまらなかった。私は昼のあいだに眠り、2晩めのくだりにかかった。気温13度。雨にぬれたからだはしんまでふるえた。ただひとり紅茶を飲み、パンケーキを焼き、コンビーフのカンをあけた。その夜私がつかった砂糖の量は膨大なものだった。
タナナの町で、8月15日から20日までの6日間をすごした。坂野が隊長と会うためにフェアバンクスに飛んだあと、エンジンの調整をしようとふたをあけてみたら、シリンダーケースに大穴があいていた。どこでどうして、そうなったのか。思いあたるふしもなく、破片もなかった。転覆のあと、ビーバー村では回ったのだ。
あわててエンジンを坂野に送りつけ、けっきょく300ドルの新品を240ドルで買うことになってしまった。おもちゃのような4馬力エンジンでは3,000kmを無事にくだれるとは思っていなかったけれど、1,000kmちょっと走っただけでパーにしてしまった。船頭のミスとしかいいようがない。
【撮影】8月15-21日=伊藤 幸司=21-610
【撮影】8月15-21日=伊藤 幸司=21-611
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8/22……Ruby村
———タナナを出発したのは8月21日。川をくだりはじめてからすでに2か月以上がすぎた。予定では8月末日に河口にでることになっている。1,200kmを残して、旅はあわただしいものになった。
2日目にルビー村の先でチャールズ・ウルフ老人のカヌーに追いついた。ドーソンで会って以来だから50日ぶり。74歳のこの老人は、1,200kmを単身でくだってきた。
【撮影】8月22日=伊藤 幸司=21-725
【撮影】8月22日=伊藤 幸司=21-728
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8/22-24……Garena〜Bishop Rock Fish Camp〜Koyukuk〜Nurat
8/22-24ガレナ村〜ビショップ岩フィッシュキャンプ〜コユクック村〜ヌラート村
【撮影】8月22日=伊藤 幸司=21-776
【撮影】8月22日=伊藤 幸司=21-777
【撮影】8月22日=伊藤 幸司=21-783
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【撮影】8月23日=伊藤 幸司=21-876
【撮影】8月23-24日=伊藤 幸司=21-877
【撮影】8月23-24日=伊藤 幸司=21-878
【撮影】8月23-24日=伊藤 幸司=21-879
【撮影】8月23-24日=伊藤 幸司=21-882
【撮影】8月23-24日=伊藤 幸司=21-896
【撮影】8月23-24日=伊藤 幸司=21-903
【撮影】8月23-24日=伊藤 幸司=21-906
8/24……Kaltag
———4日目に、タナナから400kmのカルタグに着いた。吉岡誠くんがそこにいた。彼は1972年に日大探検部の遠征でカナダ側300kmをくだった経験がある。本来なら、彼が私の役をやっていたはずである。
吉岡くんの日程を知ったのはドーソンのオールソン婦人から手紙を見せられたとき。彼は流域のすべての村にスケジュールを送りつけていた。7月12日にホワイトホースを発ち、9月1日まで52日間で河口までくだるというものだった。
私たちが彼のあとを追うようになったのはビーバー村から。美人の多いその村で、彼は10日間の予備日の3日をつかった。「七ならべ」と手製の砂糖菓子で女の子たちの人気を独占していたようだ。
13フィート(3.9m)の小型カヌーにザックひとつ。大荷物にしばられた私には自由の象徴とも思える身軽さだった。私はうらやましかった。うらやましいけれど、ないものねだりだとわかっていた。私には自分の金でここまでやってくるほどの情熱があったろうか? 彼がユーコンに再挑戦したように、ナイル河にもう一度でかけていく元気が私にはあるだろうか?
【撮影】8月24日=伊藤 幸司=21-911
【撮影】8月24日=伊藤 幸司=21-913
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【撮影】8月24日=伊藤 幸司=21-952
【撮影】8月24日=伊藤 幸司=21-953
8/25……camp
私たちの食事風景です。「8月25日」となっていますが、これは写真の整理がきちんと「撮影順」になっていないために、寄せ集めたことになっているのでしょう。
この時代は、カラーリバーサル・フィルム(スライド用)で撮影して、現像したあとはスライド用マウントに入れて整理するのが一般的でした。
私は1988年に「NHK大型ドキュメンタリー・北極圏」の大型本(日本放送出版協会)の写真編集に携わりましたが、1980年に大ヒットした「NHK特集・シルクロード」から続く、(たぶん)伝統的な写真整理法が続いていました。それはフィルムが現像されると、それがスライド用マウントに入れられ、写真専用のファイリンケースに収められて納入されます。それが書棚に収められると、撮影者が確認し、ところどころに日付や内容のメモがつけられ、ブロックごとに撮影隊の行動のスチル写真記録として印刷物編集に対応できるようになっています。
そのときははじめて、出版側が取材費を分担するということで2回放送分の後ろの放送と「同時出版する」ということで、ディレクターが原稿を書いているあいだに写真を選んでしまうという無茶苦茶な作業をしたのです。
そのとき私は「撮影順」というだけの確定情報に基づいて写真のかたまりごとにそれが放送される山場のひとつになりうるか判断しながら、写真をバンバン引き抜いて、原稿を受け取ったときデザイナーがそのページに入れる写真を選べる下ごしらえをしたのです。もとより大きく扱う写真は「説明的」というよりは「ドラマチック」であるべきなので、鈴木一誌さん(のちに糸の会に参加)のように原稿をきちんと読み込むタイプのデザイナーでないとまとまらない仕事です。
しかもこの企画、元は当時話題になっていた氷漬けのマンモスを取材スべくシベリア地域に撮影許可を申請していたところ「ゴルバチョフ革命」とも呼ばれるペレストロイカによってシベリアでの撮影環境がどんどん良くなったことから、外国取材班としての先端的なルポルタージュになるということで、NHKのディレクターは英国BBCとの競争を視野に入れつつ、完全なニュース特集番組(12回)に組み立て直したということです。ですから関係者も、帰国したディレクターの原稿を読むまで取材がどのようなものであったかわからないという状況でした。
写真は私がまず目見当で選び、ディレクターの原稿が出たらデザイナーが一気に組み上げ、その後編集者と私が一晩かけて、誌面を見ながらキャプション(写真説明)をでっち上げる、という(2回放送分の後半のものについてだけですが)乱暴な仕事をしたのです。
さすがに「シルクロード」という大ヒットに由来する写真整理システムですから使える予算もたっぷりあるらしく、まあ、情報が不十分という以外の不満はまったくありませんでした。
つまり写真の「撮影順」は行動の内容判定にも大きな力を発揮するのです。写真を撮ったのは撮影班に同行したプロカメラマンですが、当時はシャッター音のでるスチルカメラはテレビ撮影には完全な邪魔者で、決定的な取材場面では排除されることが多く、このときも、取材の準備段階から期待感が伝わってきて、カメラマンもていねいに撮っていくと、とつぜん現場感のない写真になってしまうという場合、それはテレビ・クルーにとって大きな期待をもった取材だと想像できます。だから決定的瞬間はなくても、その手前、その後の写真は拾っておかなくてはならないのです。
そんなふうに「撮った写真」をただ単に「撮れた写真」とするだけでは「編集」にはならないのです。……そういう意味で楽しい仕事でしたね。
……ということからすると、この私の「ユーコン」写真が「撮影順になっていない」というのは決定的なドジでした。なぜそんなドジを踏んだのか、まったく記憶にありません。というより、こんな大量のスキャニング・データがあることさえ完全に忘れていたのですから。
というわけで、私たちの飯作りの写真は、いまやどれがどこか、完全にわかりません。
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-961
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-965
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-966
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-967
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-972
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-974
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-975
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-978
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-984
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-985
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-989
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-990
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-996
【撮影】8月25日=伊藤 幸司=21-999
8/26……Grayling〜Anvik
———6日目にはアンビックの村でカナダ人の陽気なふたり組、ブリアンとダビッドに再開した。彼らとはじめて会ったのはイーグル。小さな平底ボートをよたよたと漕いでくる格好がおかしかった。あのとき一緒になったイカダのシュレジンガーは、7月いっぱいフォート・ユーコンでバイトをしていた。くだったとしても、冬をこすためにパイプラインの工事現場でストップしたはず。
私たちはフォート・ユーコンから寄り道をしていたので、河口をめざす旅行者のしんがりにまわったようだ。村々で情報を集めてみると、ほとんどの連中は途中で脱落した。この先にいるのはグリーンのカヌーに乗って犬を連れたダグラスとジムのふたり組。彼らとはフォート・ユーコンで話し合った。そしてもう一組、5台のカヤックをつらねた家族連れ。私たちは彼らを知らない。
ブリアンとダビッドは村人の手伝いをしながら、晩秋の無風快晴の日を待っているのだという。あと数日、あるいは1週間、密造酒とダンスパーティも足をとめる理由のようだ。
「雪が降りだしたらどうするの?」
答えがふるっていた。
「寒さなんて! オレたちは北の男だぜ。氷が張ったってバリバリ進んでみせるさ。腕も太くなったからね」———
8/26-27……Grayling〜Ghost Creek〜Holly Cross
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1007
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1009
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1011
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1013
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1019
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1027
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1028
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1029
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1030
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1031
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1033
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1034
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1035
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1036
【撮影】8月26日=伊藤 幸司=21-1038
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1045
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1046
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1047
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1049
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1054
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1055
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1056
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1057
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1058
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1060
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1061
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1062
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1063
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1064
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1065
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1066
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1067
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1068
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1070
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1071
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1072
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1073
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1078
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1081
【撮影】8月27日=伊藤 幸司=21-1087
8/28-30……Keith Tryck & Robert Clark の小屋
———8日目。南にくだりつづけた流れが西にかわったところに、キースとボブの小屋があった。キース・トゥリック、29歳のライター。ロバート・クラーク、28歳のカメラマン。彼らは去年の夏に12×8mという巨大なイカダをつくってホワイトホースからくだり、ここでイカダをバラして小屋を建てた。冬を待ち、凍結したユーコン河をスキーで河口まで。その大計画は1975年の「ナショナル・ジオグラフィック」誌のトップ特集。取材費800万円は、発行部数800万部の大雑誌にしては安いという。今回は記事と写真をフォローするために、アルミボートでくだってきた。デビューへの足がかりをつかんだという点をのぞけば、彼らと私の境遇はかなり似かよったものだ。
インタビュー風景を撮ることになって、私はユーコン河の冬について聞いてみた。キースが物書きらしいムダのないことばで語ってくれた。
「ユーコン河は上流から凍りはじめる。小さくてやわらかいまるでちぎれ雲のような浮氷がこのあたりまで流れてきて、トゥシーッ、トゥシーッとぶつかりあう。氷がだんだん大きく固くなってくる。みシーッ、ドーッ、ミシーッ。それはとても印象的な音だ。
そしてある寒い朝。河面はすっかり白い大地となり、風もなく、ただ静寂だけの世界となる。それが冬の第一日だ。
このあたりではマイナス30℃ぐらいの日が多い。そういう日はたいてい強い風が吹き、ときには毎時80-90kmの強風が北から襲う。
もちろん気温だけでいえばマイナス50℃にもさがる日がある。しかしそういう日は例外なく無風で、寒さはそれほどには感じない。裏山には私たちのスキー・トレールがあって、そういう極寒の日には赤や緑の輝きのようなスパークリング(ダイヤモンド・ダスト)のなかを散歩にでる。からだのまわりにダイヤの輝きがおどり、雪はあくまでやわらかく、そのソフトな感触はここの冬の醍醐味だ。」
語るキースの目は輝いていた。冬、だれに聞いても、冬が最高だという。何度となく聞かされた同じことばが耳の奥でひびいた。
“Oh, yes sure. I like winter.”———
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1088
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1089
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1091
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1092
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1094
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1096
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1097
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1098
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1099
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1100
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1103
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1105
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1111
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1112
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1114
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1115
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1116
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1117
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1119
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1120
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1121
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1125
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1127
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1129
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1131
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1132
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1134
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1136
【撮影】8月28-30日=伊藤 幸司=21-1137
8/30-31……Russoan Mission
———タナナをでて10日目の8月30日、私たちはラシアン・ミッションという村に着いた。まず目にとびこんできたのは、丘の上の古い教会にそびえるロシア十字架。ロシア領時代のおもかげを残すエキゾチックな光景とともに、エスキモー地帯が始まった。河口まで350kmの地点である。
ここで私はマイク・グリスカクという初老の男と知りあった。浜辺にぶらさげてあったムース肉をねらって接近したのがきっかけだが、彼は話しかたから笑ったときの表情まで宮本常一先生にそっくりだった。冬の服装を見せてもらったり、ことばを教わったりして夜はあっというまにふけていった。
彼が大胆に切りとってくれたひとかかえもあるムースのもも肉で、翌日は豪華なキャンプ風景を撮ることができた。たき火のうえでりゅっくりあぶった肉を、ナイフでそぎとって血の香りとともに味わうと、牛肉の比ではないといわれるそのうまさがよくわかる。その夜は肉しか食べなかったし、肉は全部食べてしまった。
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1144
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1145
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1147
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1148
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1149
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1151
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1152
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1153
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1154
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1155
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1159
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1161
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1162
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1164
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1166
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1171
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1172
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1174
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1176
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1177
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1178
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1179
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1180
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1183
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1185
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1188
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1190
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1191
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1192
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1194
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1195
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1196
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1197
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1198
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1199
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1202
【撮影】8月30-31日=伊藤 幸司=21-1204
【撮影】8月31日=伊藤 幸司=21-1206
【撮影】8月31日=伊藤 幸司=21-1210
【撮影】8月31日=伊藤 幸司=21-1214
【撮影】8月31日=伊藤 幸司=21-1217
【撮影】8月31日=伊藤 幸司=21-1219
【撮影】8月31日=伊藤 幸司=21-1220
9/1……Marshal
マーシャル村
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1222
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1224
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1225
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1227
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1228
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1230
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1231
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1232
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1234
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1235
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1236
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1237
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1238
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1239
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1240
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1241
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1242
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1243
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1244
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1246
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1248
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1249
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1251
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1253
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1258
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1259
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1261
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1264
【撮影】9月1日=伊藤 幸司=21-1266
9/2……Pilot Station
パイロット・ステーション村
【撮影】9月2日=伊藤 幸司=21-1267
【撮影】9月2日=伊藤 幸司=21-1268
【撮影】9月2日=伊藤 幸司=21-1269
【撮影】9月2日=伊藤 幸司=21-1271
【撮影】9月2日=伊藤 幸司=21-1272
【撮影】9月2日=伊藤 幸司=21-1273
【撮影】9月2日=伊藤 幸司=21-1275
【撮影】9月2日=伊藤 幸司=21-1277
【撮影】9月2日=伊藤 幸司=21-1279
【撮影】9月2日=伊藤 幸司=21-1280
【撮影】9月2日=伊藤 幸司=21-1281
9/2-3……St. Mary's
セント・メリーズ村……エスキモー(イヌイット)の村
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1282
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1283
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1284
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1285
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1286
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1287
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1288
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1289
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1290
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1291
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1292
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1293
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1294
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1298
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1300
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1301
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1302
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1303
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1304
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1305
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1307
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1308
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1310
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1311
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1312
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1314
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1315
【撮影】9月2-3日=伊藤 幸司=21-1316
9/4-5……デルタ
———9月4日にマウンテン・ビレッジをあとにすると、右岸にずっとつづいてきた丘陵がそこでおわった。左岸は400kmほど上流から幅30kmほどの大平原だったから、とたんに私たちはデルタのひろがりに迷いこんでいった。あと100km。水路をあやまればとりかえしのつかないことになってしまう。
ずっとオーバー・ヒート気味だったエンジンが、その日とうとういうことをきかなくなった。9時半にマウンテン・ビレッジをでてすぐにエンスト。10時半に直ったものの、12時までしかもたなかった。2時間もの奮闘でようやく動いたのが、また4時にストップ。止まるとき、はずれたネジが内部でころがっているような速い規則的な音がひびいた。そして最後に、キューイと高いうなり。焼きついたエンジンはどうにも回らなくなっていた。———
———ユーコン・平原(フラット)では遠くに山が見えていたが、いま見えるのはえぞ松の林ばかり。水路の形を地図と見くらべ、デルタの南端に流れでるクウィクルアク水路に入ったことを確かめた。
午後5時にエンジンはまたどうにか回りはじめた。しかしカラカラという音が不気味だ。いつまで動いてくれるか。私は祈るような気持ちで舵をにぎっていた。そして、それも1時間にすぎなかった。
私は怖くなっていた。河口直前になっても、ユーコン河は毎時4km近い速さで流れている。私たちのパドリングではとてもさかのぼれないスピードだ。村がはたして見えるのだろうか。ひょっとすると、3mほどの崖のうえのえぞ松の林にさえぎられて、知らぬまま通りすぎてしまうかもしれない。そういう可能性が、地図から読みとれていた。
あたりは影ばかりの夕闇となり、空には星がひとつ、ふたつ、5つ、6つ。ずいぶんふえたものだ。
エンジンをいじるのは、もうあきらめていた。そのとき、右岸の林の向こうに、青白い光がちらりともれた。運河のようなせまい水路をぬけると、そこがエモナックだった。
【撮影】9月4日=伊藤 幸司=21-1317
【撮影】9月4日=伊藤 幸司=21-1321
【撮影】9月4日=伊藤 幸司=21-1323
【撮影】9月4日=伊藤 幸司=21-1325
【撮影】9月4日=伊藤 幸司=21-1326
【撮影】9月4日=伊藤 幸司=21-1332
【撮影】9月4日=伊藤 幸司=21-1334
【撮影】9月4日=伊藤 幸司=21-1346
9/6-7……旅の終わり
———9月6日、海にむかった。クウィグク水路をぬけて1時間半。カウォクハイク島のひとけのないフィッシュ・キャンプをすぎると、地図のうえでは海だった。
「海にでた! オツ、塩水だ。バンザイ!」
そういうカットを撮影したが、土色の水はあいかわらず流れつづけていて、塩辛いなどマッカなうそ。水平線が見えるといっても、カヌーから見わたしたくらいでは5kmほど先の水面にすぎない。その証拠に、カモメが白い帆かけ船に見えたりした。セグロカモメにしたところで、源流から全流域にわたってあきあきするほどのつきあいだ。
どんな小さなことでもいい。海にでた実感を味わいたかった。それなのに浅瀬にはまりこんでしまって、おりてカヌーを押すしまつだ。エンジンも焼け、アザラシ猟のボートに救われて河口の島に最後のキャンプを張った。
私が「チーチャコ号」と名づけたカヌーはエモナックでのちょっとした不注意でキャンバスに10cmほどの穴をあけてしまった。夜、それを修理しながら、私はベネットをスタートしたころのことをまざまざと思いだしていた。
フィリアス・フォッグ氏は80日間で世界一周をなしとげたとジュール・ヴェルヌは書いている。私のチーチャコ号は81日でユーコン河3,015kmを走破した。
私の3か月におよぶ旅は最後のクライマックスをむかえたのだ。河口を去れば、エモナックの町を去れば、アラスカを去れば、あっというまにユーコンは遠い過去になってしまう。残念ながら、時間のそういうマジックを私は充分すぎるほど知っているのだ。
つぎはぎだらけのうえに、すけすけになったGパンを海に投げた。できることなら、ここで「チーチャコ号」を火葬にでもしたいところだ。そうすることによって遠ざかるものをひきとめることができるならば。
3か月のハードな旅は、ひごろ不摂生をつづけている中高年にあと一歩の私には、不安の大きなものだった。わがままを絶対にだすまいという秘かな決意もあった。
だが、3か月間、私はどんなふうにふるまったか。何を見、何をなしたといえるだろうか。
3,000kmをくだったとはいっても、ユーコン河は手漕ぎのカヌーでくだる川だ。しかも氷がとけ去った源頭から、まだ雪の降りそうにもない河口まで、私はユーコンらしくない季節ばかりを体験したにすぎないのではないだろうか。
夕陽がベーリング海に沈んだあと、白い大きな月がのぼってきた。
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1349
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1353
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1354
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1363
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1366
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1368
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1369
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1370
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1371
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1372
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1376
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1377
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1378
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1381
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1383
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1386
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1387
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1388
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1390
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1391
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1392
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1393
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1394
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1396
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1397
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1398
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1399
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1401
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1402
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1403
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1404
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1405
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1406
【撮影】9月6-7日=伊藤 幸司=21-1407
9/8……Alakanuk
河口の村アラカヌク
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1409
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1410
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1411
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1412
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1413
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1414
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1415
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1416
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1417
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1418
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1419
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1420
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1421
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1422
9/8……Douglas Bourhill & Jim Greenwood
カナディアン・カヌーでくだってきたダグラスとジム
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1482
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1483
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1485
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1486
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1487
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1488
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1489
【撮影】9月8日=伊藤 幸司=21-1490
9/8-10……emmonak
ユーコン河口の町・エモナック
【撮影】9月8-10日=伊藤 幸司=21-1434
【撮影】9月8-10日=伊藤 幸司=21-1435
【撮影】9月8-10日=伊藤 幸司=21-1436
【撮影】9月8-10日=伊藤 幸司=21-1437
【撮影】9月8-10日=伊藤 幸司=21-1438
【撮影】9月8-10日=伊藤 幸司=21-1439
【撮影】9月8-10日=伊藤 幸司=21-1441
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9/9-10……Seal Hunting
たしか学校の先生だったと思いますが、ランバート・ルクダックさんがわたしたちのためにエスキモー(イヌイット)の基本的な性格技術を教えてくれました。
イヌイットが必要とするサケは日本人が知っているサケではありません。日本のサケはドッグ・サーモン、つまり犬にしか食べさせられないサケなんだそうです。彼らが必要とするのは日本では「ロッキーサーモン」などと呼ばれる輸入品で、北海道で食べられている「鮭冬葉(さけとば)」とはまったく違う燻製です。イヌイットの家々の燻製小屋ではにじみ出た油がしたたり落ちています。その脂分が極寒の冬の主食としてなくてはならないものなのです。
それからアザラシ。アザラシの肉はもちろん重要な食料ですが、革も重要です。アザラシ革=シールスキンはバッグやサイフに使われているようですが、防寒靴になくてはならない材料です。
このアザラシ猟には重要な規則があって、モリを刺した者に所有権が与えられます。その前段階は、昔と今では大きく違って、今は22口径のライフルで即死させるか傷を与えて、いったん沈んだ獲物が浮かび上がるのを見つけたら昔流の遠投器でモリを打ち込んで引き寄せ、それに浮き袋つきのモリを打ち込むまで、はげしい競争になったりするのです。
だから、どこかでライフル銃が撃たれたら、周囲にいた仲間が一気に集まってきて、モリを打ち込む競争になるのです。
私は銃に関しては無知ですが、22口径は小動物に対応する最軽量の銃で、拳銃では護身用に使われます。ある程度の距離があると銃弾は円弧を描き、また風があると流されます。そういう性能の銃で波だった水面にポコっと頭をもたげるアザラシを撃つのですから、そう簡単ではありません。しかもボートの上からですから、テレビ画像などでよく見る氷上のアザラシ猟とは全然違うのです。
また22口径ライフルでは当たれば即死というわけでもないので、いったん潜ったアザラシが次の息継ぎのため、いつ、どこに浮き上がってくるのかまったくわかりません。とんでもないところにピョコンとでてくる、という感じです。それも鼻っ面だけ。だから周囲のボートがどんどん集まってきて、競争になるのです。
第2段階で使われるモリは、有名な「スピアスロー」(投槍器)がいまも使われています。氷河時代に地球全体に広がったという優秀な道具なんですね。写真(21-1518、1531、1537、1538)を見てください。
そして運良く、1頭仕留めることができました。ありがとう。
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9/11……Emmonak〜Bethel
9月11日にユーコン河口の町エモナックから、アラスカの主要都市ベセルへと飛びました。帰路についたのです。
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『あるくみるきく』
「特集■ユーコンを下る」
『あるくみるきく』96号(1975.2)「特集■ユーコンを下る」
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