【撮影】1日目=06時55分=伊藤 幸司
*往路としたのは07時25分羽田発の鹿児島行ソラシドエア071便。早割やシニア割で格安感があるのですが、じつはLCCと呼ばれる格安航空機とはちがって全日空(ANA)とのコードシェア(共同運行)便というかたちだそうです。チェックインなどはANAのルールとほぼ同じ、機内への持ち込み手荷物や預け入れ荷物に大きな差はなく、座席も希望のものを予約することが可能です。(私は復路で搭乗直前、丁重に座席の変更を求められましたが、そういうことも共同運行上には存在しているようです)
*ソラシドエアは本社が宮崎にあるので羽田から九州各地への割安便として便利なのです。そのANAの共同運航便は欠航やこちらからのキャンセルなどに対しても常識的な判断ができるようですし、格安航空券の販売サイトや航空会社の窓口からネットで購入するほかに、街の旅行代理店でごく一般的な旅行チケットして購入できるのです。それを知って、家族の誰かを頼りにせず、自分で購入した人が多かったようです。
*チケットは各自で用意して、行ける人だけが行く、というのが糸の会の基本的な考え方ですから、航空券購入は今後「自分の旅」を実現する体験のひとつとして重要だと感じました。いまも私と山に出かける方のなかには20年前、25年前にJRの切符を自分で買えなかった人もいます。とくに主婦の方だと、チケット購入は家族の誰かの仕事になっていて、自分自身での体験がない人がけっこう多くて驚いたものです。今回、飛行機の(それも割安の)チケットを自分で買った人は、出発前の、この風景をどのように見ていたのでしょうか。
【撮影】1日目=07時33分=伊藤 幸司
*飛行機は定時出発だったと思います。でも、離陸するまでにはかなり長い車輪走行がありました。ちなみにここで見えているのは羽田空港の第二ターミナルで、東京モノレールでくると、JAL系の第1ターミナルに続いて、最後に出てくるANA系のターミナルです。(ちなみに国際線の第三ターミナルはモノレール駅ではそのずっと前になります)
*右側と左側の2機の飛行機はどちらも北海道を拠点とするAIRDO(エア・ドゥ)ですが、ANAとのコードシェア(共同運行)便で経営を確立し、2021年5月(ついこのあいだ)にソラシドエアとの統合を発表したというのですから、兄弟機になりますね。
【撮影】1日目=07時39分=伊藤 幸司
*まだ滑走路にいるというのに、富士山が見えました。
*なお私はこの日、私は Boeing 737-800機の8Fという座席を取りました。
【撮影】1日目=07時44分=伊藤 幸司
*これはもちろん、みなさんご存知ですよね。東京湾アクアラインの「風の塔」です。トンネル内部の空気を入れ替える排気筒と吸気筒を不思議なかたちのカバーで覆っているのだそうです。右側の窓から見えたので、左側の人はだめだったんですね。定期航空路での遊覧飛行気分は、運・不運がいろいろあります。
【撮影】1日目=07時44分=伊藤 幸司
*前の写真と同じ時刻といっていいと思いますが、画像から撮影時刻を調べてみると、前の写真が07時44分32秒、この写真が44分44秒です。12秒間にアップとロングを撮ったのであって、その12秒間に飛行機が上昇したわけではありません。
*風の塔から富士山を見たときにその中間に見えるのは横浜〜鶴見の海岸線になります。
【撮影】1日目=07時47分=伊藤 幸司
*これは横浜。横浜ベイブリッジが主役です。私は横浜をあまり知りませんが、グーグルマップで見てみると、横浜ベイブリッジが左手に下っていくその向こう隣りに三本指の山下埠頭があって、その手首あたりに等身大ガンダム、付け根に山下公園という感じのようです。
【撮影】1日目=07時48分=伊藤 幸司
*横浜・八景島シーパラダイスですね。眼下に見えているのは。どっかの山に行った帰りにわざわざ遠回りして八景島へ行ったような気がしていたのですが、水族館も遊園地もショッピングモールもホテルも全然記憶にないのです。
*そこで例によってグーグルマップの航空写真で見てみると、私たちは金沢シーサイドラインという「案内軌条式鉄道」というゴムタイヤの自動運転車両で八景島駅下車。この写真では八景島の上方に、短い白い橋ながら途中に塔が立っているように見えるのがありますね。実は歩道橋で、塔が橋を吊っていたんですかね、橋はその塔のところで二本に分かれて、菱形に膨らんでいるのです。
*その橋を渡るとシーサイド・スパ八景島というのがあって、
横浜金沢観光協会によると「八景島から汲み上げた無色透明の海水を、小柴漁港の漁師さんたちが1日3回運んでくれます。」という海水風呂。それにレストランでは地元でとれる各種穴子料理が食べられる……ということで行ったんですね。
【撮影】1日目=07時48分=伊藤 幸司
*これは京浜急行金沢八景駅が画面右下隅の外側に切れているようです。画面上部には横浜市立金沢動物園があるらしく、左から3分の1にPの字に見えるのが関東学院大学の国際文化学部。画面右下に目立つ白いビル群は「レイディアントシティ横濱」という1,805戸の一大マンション群。東京ドーム3個分の敷地に11棟、コート・ダジュールをモチーフにして2004〜6年に竣工したというもの、だそうです。それが金沢八景駅から「徒歩20分」という距離のようです。
【撮影】1日目=07時49分=伊藤 幸司
*これはわかりますよね、江ノ島です。江ノ島の脇に出てくる川が境川で、その右岸(画面上側)が片瀬西浜鵠沼海水浴場、左岸(画面下側)が片瀬東浜海水浴場というらしいですね。私は湘南海岸のことは疎いので、こんなところに流れ出てくる川があったということが新発見という気分になりました。
*調べてみるとこの川の名の「境」は神奈川県と東京都の県境と複雑に絡んでいるようです。……でその源はどこかというと「草戸山」だというのです。ご存知ですね? 南高尾山稜のあの、標高364mの草戸山、展望台の足元に城山湖がありますね。境川は神奈川県相模原市と東京都町田市の境をおおよそ形づくりながら下ってくるのだそうです。
【撮影】1日目=07時49分=伊藤 幸司
*続けて江ノ島から先を見てみました。相模湾のほぼ真ん中に流れ出てくる相模川が存在感を示しています。富士山の伏流水を集めて流れ出す桂川の下流です。
*じつは前の写真の境川とは、そのみなもとの城山湖あたりでは、相模湖が驚くほど接近していて歩いていると混乱します。むしろほとんど相模川の流域を歩いている、という感じになります。ウィキペディアの
境川によると「上流部は、現在の河川規模に比較して大きな河谷を形成しているが、これはかつての相模川の流路の痕跡であると考えられている。」というほど接近していて、河口はこれほど離れている、という風景になりました。
【撮影】1日目=07時55分=伊藤 幸司
*富士山は離陸前から見えていたわけですが、ようやく私の窓に主役として登場したのがこのあたりからでした。富士山の右下に北富士演習場があり、その右に山中湖、その上方に見える水面は河口湖です。富士山の宝永火口がこちらを向いていますが、その手前に広がる茶色い部分はおそらく全部東富士演習場。自衛隊の施設だけでなく米軍の施設もあります。どの程度のものかは知りませんけれど。
*糸の会の創設期の会員に防衛省(当時はまだ防衛庁)の元職員の方がいて、最初、富士学校に士官待遇で送り込まれたとき、朝起きて担当の下士官に「富士山はどっち?」と聞いて笑われたという話をしていました。
*戦後北富士演習場では地元住民との間で「入会権闘争」というのがありましたが、ここでは触れません。ただ、いまここで発せられる砲撃の音は丹沢の山でも聞こえますから、初めての人は雷鳴と間違える、ということがしばしば起きます。
【撮影】1日目=07時56分=伊藤 幸司
*以前、北陸へ向かう飛行機が富士山の火口の真上を飛んだことがありますが、この写真を撮ったのはおおよそ沼津の千本松原あたりからでしょうか。江戸時代に富士山が北から眺められるようになる前、東海道を旅する人たちが見た富士山はこの角度だったといっていいかと思います。
*およそ1,000年前の貞観の大噴火ではこの写真の富士山の影の部分に大量の溶岩を流して青木ヶ原樹海とし、背後にかすかに見える水面を「剗の海」から西湖と精進湖とに分断しました。そして、約300年前の宝永大噴火では溶岩の流下はなくて大量の火山灰を噴出して、
ウィキペディアによると御殿場周辺では最大3mにも達し、江戸にも5〜10cmも降り積もったといわれます。しかし問題はそれからで————農民たちは田畑の復旧を目指し、焼け砂を回収して砂捨て場に廃棄した。砂捨て場の大きな砂山は雨のたびに崩れて河川に流入した————ことによって河川の氾濫が頻発して「足柄平野での土砂氾濫は約100年繰り返された」のだそうです。
【撮影】1日目=07時56分=伊藤 幸司
*前の写真を撮った後の広角写真です。左側に南アルプス、その奥に北アルプスの白い山並みが見えています。富士山の向こうの小さな白いものは、八ヶ岳の赤岳あたりだと思います。
【撮影】1日目=07時58分=伊藤 幸司
*2分間で富士山の見え方が大きく変わりました。ものすごくアンバランスな姿ですが、これが富士山の表情のひとつなんです。東海道新幹線からでも同様です。富士山が均等な姿だというのは北面の、雁ヶ腹摺山〜大菩薩峠〜雲取山というラインが最高ですが、江戸町民の富士山詣でも同様、富士五湖周辺からの富士山ですからきれいですよね。しかし竹取物語が生まれた平安時代に「帝の命で不死の薬を焼いた」駿河の「ふじの山」はこういう顔つきだったと考えるべきでしょう。
【撮影】1日目=07時59分=伊藤 幸司
*富士山はあっという間にエンジンに隠されてしまい、前方から南アルプスが近づいてきました。
【撮影】1日目=08時01分=伊藤 幸司
*南アルプスの主要な部分がくっきりと見えています。画面右端近くにあるシャープな突起が日本第2の高峰・北岳(3,192m)です。そして北岳の左奥にあるのは仙丈ヶ岳(3,033m)ですから鳳凰三山は画面の右に外れています。
*北岳から左に延びている白い稜線には間ノ岳(3,189m)があり、農鳥岳を加えて白根三山と呼ばれています。次に登場するのは山頂がちょこんと尖って見える塩見岳(3,052m)で、その左に見える白い山群は荒川岳(悪沢岳・3,141m)と赤石岳(3,120m)で、その次、この写真では手前から三つ並んでいるように見える山の真ん中が聖岳(3,013m)でその手前が上河内岳、向こう側が兎岳ではないかと思います。画面の左端からはずれて光岳(てかりだけ・2,591m)があるはずです。
【撮影】1日目=08時01分=伊藤 幸司
*さっそく白峰三山と仙丈ヶ岳をアップしました。尖った北岳のこちら側に面した岩壁が有名なバットレス。標高差約600mという日本有数の岸壁で、糸の会にも(プロガイドと)ここを登った人がいます。糸の会としては、一般登山道でならこの北岳も背後の仙丈ヶ岳も定番です。
*北岳から左に伸びる稜線をたどると中白根山(3,055m)、間ノ岳(3,189m)、西農鳥岳(3,051m)、農鳥岳(3,025m)と標高3,000mの白根三山縦走になります。すると2泊目に農鳥小屋に泊まらなければならないのですが、ここではいつもオヤジさんとの間で忘れられない出来事が起こるのが常でしたね。
【撮影】1日目=08時02分=伊藤 幸司
*前の写真をもう少し広げて見ると、右端に鳳凰三山が見えてきました。いくつかの白いピークのなかで一番大きいのが観音岳(2,840m)でその左手に見える小さな白い点が奇岩・オベリスクを山頂にもつ地蔵岳(2,764m)、たぶん、一番右端の白い部分が薬師岳(2,780m)だと思います。
*この写真の左端に見えているのは塩見岳(3,052m)ですが、2001年に北岳から塩見岳まで縦走したときには高度に弱い人がかなり苦しい思いをしました。
【撮影】1日目=08時02分=伊藤 幸司
*これは荒川三山と赤石岳です。右端のピークが荒川岳なのですが、現在、国土地理院の25,000分の1地形図には「東岳(悪沢岳)」(3,141m)となっていて、左側奥に見える中岳(3,084m)と前岳(3,068m)に「荒川岳」という総称がつけられています。それを越えて荒川小屋に泊まったことがありますが、小屋締め直前で食べ放題、夕日のきれいなところでした。この写真の右半分がその「荒川三山」ということになります。
*ちなみに深田久弥が『日本百名山』に挙げているのは「悪沢岳」で、書き出しにはこう書かれています。
————この山は国土地理院の地図には東岳となっているので、その呼称が普及しつつあるようだが、私たち古い登山者にとっては、どうあっても悪沢岳であらねばならぬ。悪沢という名はそれほど深く私たちの頭に刻みつけられている。————
*そして画面ほぼ中央にそびえているのが赤石岳(3,120m)です。2001年に、私たちはその山頂であまりにもすばらしい展望と天気に恵まれて、一生モノだということで、10時10分から12時30分まで休憩したことがあります。また2016年には私のいつものちょっとした計画ミスで、椹島(さわらじま・1,123m)から赤石岳山頂の避難小屋(夏季営業中・3,120m)まで標高差2,000mを一気に登り、翌日には14時出発の送迎バスに間に合わせるべく、一気に下るというハードワークを強いることになったのですが、参加メンバーのひとりも足腰の故障をしませんでした。メンバー全員の脚力にも驚きましたが、ダブルストックの下りでの威力も、私の認識を遥かに超えるものでした。
【撮影】1日目=08時03分=伊藤 幸司
*雲と雪との境界が曖昧になってきました。手前の白い稜線は中央アルプスです。その左奥が御嶽山、右奥に延びているのが北アルプスです。そのくらいまでしかわかりませんね。
【撮影】1日目=08時04分=伊藤 幸司
*中央アルプスは千畳敷カールがわかる方向から見ることが多いので、あまり自信がないのですが、右端に大きく見えるのは伊那前岳(2,884m)だと思います。宝剣山荘に泊まったときに日の出を見に行ったことがあります。その奥に(低く見えますが)駒ヶ岳山頂(2,956m)あるのだと思います。すると伊那前岳の左にあるのが宝剣岳(2,931m)で、その下に千畳敷カールがあるのだと思います。
*稜線を左にたどると檜尾岳(2,728m)、熊沢岳(2,778m)、東川岳(2,671m)と小さなアップダウンと、歩きにくい岩の縦走路が延びていき、ガクンと下がったところが木曽殿山荘のある木曽殿越(標高約2,500m)となり、写真左端から登り返すと空木岳(2,864m)になるのだと思います。予想時間を完全にオーバーして、木曽殿山荘に逃げ込ませてもらったことがありました。この写真では左にどんどん下がっていく感じがしますが、水平がとれていないのかもしれません。
【撮影】1日目=08時04分=伊藤 幸司
*前に見た南アルプスの写真とほとんど同じですが、左端に光岳(てかりだけ・2,591m)が出てきました。右端には鳳凰三山が見えています。一応ここまで見えれば「南アルプス全山」という気持ちになります。
【撮影】1日目=08時05分=伊藤 幸司
*雲がかぶってよくわかりませんが、御嶽山です。手前に最高峰の剣ヶ峰(3,067m)があって、奥のピークは継子岳(2,859m)になるでしょうか。
【撮影】1日目=08時05分=伊藤 幸司
*木曽・駒ヶ岳の山頂部分が詳しくわかる写真が撮れました。伊那前岳(2,884m)と宝剣岳(2,931m)の間から見えている一番奥のピークが駒ヶ岳山頂(2,956m)です。その間に中岳(2,925m)があるのです。
【撮影】1日目=08時13分=伊藤 幸司
*複雑な海岸線を見せる入り江は、おそらく三河湾だろうと思いました。その特徴的な町割りを撮っておいたら、グーグルマップの航空写真でトヨタ自動車田原工場やデンソー豊橋製作所、新来島豊橋造船所などの埋め立て工業団地だとわかりました。写真の右には豊橋市街が広がっていきます。三河湾の最奥部にさしかかったのです。
【撮影】1日目=08時14分=伊藤 幸司
*前の写真をクローズアップしてみました。写真中央に小さな島があります。姫島というのだそうです。周囲4km、標高62mの火山島だそうで、工場群の埋め立てがなければ岸からけっこう離れていたと想像できます。ウィキペディアの
姫島によると————正徳元年(1711年)の藩日記「万留帳」には、放牧駒は牡馬6頭、牝馬1頭と記されている。江戸時代の『田原城主考』では「飛馬嶋」と記されアサリやモズクの産地としている。————とのこと。もちろん無人島で、今はフィッシングで有名だとか。
*工業団地で建物でなく黒っぽい平坦なところは太陽光発電パネルです。
【撮影】1日目=08時15分=伊藤 幸司
*三河湾の出口です。伊勢湾に出るのですが、左に折れるとそこは太平洋の出口です。ですからこの写真の奥は名古屋になります。
【撮影】1日目=08時21分=伊藤 幸司
*みごとな発電用風車の列でした。これだけ並んでいるとグーグルマップで簡単に見つかるかと思ったのですが、なかなかたいへんでした。21インチモニターに航空写真を広げて、鳥羽・伏見から大峰山手前までを東から西へ、南から北へと、航空写真上をまるで「航空写真測量」をするように走査していたら、突然、不思議な影をみつけて、それが16本と10本の大規模な風力発電施設だということがわかりました。
*飛行機から斜めに見ると普通の風車なのですが、航空写真(衛星写真)は「垂直撮影」なので見え方が全く違います。風車がどのように見えるか知らずに探していたのも混乱の原因だったかと思います。真上から見ると尾根上の道に不自然な広場が点々と続き、そこに白い翼と黒い影が不定形の直線を散りばめているのです。航空写真の倍率を下げていくと、「度会町」「度会ウィンドファーム展望台」「日の出の森」「ルネッサンスの森」などという名前が出てきました。
*さらに倍率を下げていくと、大台ケ原から大杉谷を下って大台町から伊勢に出ようとする道筋の南側にあって、南伊勢町の隣りが度会町だとわかりました。伊勢志摩観光ナビによるとこの
度会(わらたい)ウィンドファームは約30,000世帯分の電力を発電し、ウィンドファームの中ほどにある日の出の森駐車場からは、周りの山々が一望でき、獅子ヶ岳への登山ルートもあるとのこと。伊勢志摩観光の範囲だったんですね。
【撮影】1日目=08時28分=伊藤 幸司
*伊勢志摩から7分で大峰山脈が登場しました。最高峰の八経ヶ岳は標高1,915m。2,000mに届かないけれど近畿地方の最高峰とか。その高さの感じがこの雪景色にも現れています。
【撮影】1日目=08時31分=伊藤 幸司
*大峰山脈の背景にどうも大阪湾が写っているようで、しかもそこに不思議な埋立地があるようでした。
【撮影】1日目=08時33分=伊藤 幸司
*肉眼ではっきりとはしなかったものの、カメラで目一杯望遠にして撮っておいたら、ここまで写りました。関西国際空港です。私の写真はよほどのことがないかぎりノートリミングですから、飛ぶ飛行機の中から窓ガラスを隔てて撮るとなると、光線状態がよほどよくないとこんな感じですかね。もちろん画像をいじればコントラストをつけたり、ブルーかぶりを排除したりできますが、デジタルカメラが目一杯仕事してくれていると、こちらが後からいじったからといって厚化粧で見られぬ顔になるようなもの。カメラの実力を尊重しておきたいという気持ちが強いのです。それにしても、望遠撮影してもフィルム時代とは比べ物にならないくらい、ブレないのは驚きです。
【撮影】1日目=08時59分=伊藤 幸司
*紀伊半島から四国に入って、なんとなくつかみどころのない風景を見ていたら土佐湾も終わりそうになりました。川が一本、流れ出ています。四万十川(しまんとがわ)だろうと思って撮っておきました。
*この写真では土佐湾の右側に突き出ているのが室戸岬ですね。そして一番凹んだところが高知。こう見ると四万十川は高知県にとって非常に重要な河川だということが感じられます。
【撮影】1日目=09時00分=伊藤 幸司
*四万十川の河口にあるのは下田港。日本最後の清流として知られるようになって、渡川から四万十川と改名したのは1994年(平成6年)で、
ウィキペディアによると「河川法の一級河川名称変更はこれが初めて」とのこと。しかし同時に「江戸時代には「四万十川」と書いて「わたりがわ」と呼ばれていたこともあるという。宝永5年(1708年)の土佐物語には「四万十川 わたりがわ」と記されているという。」とも。
【撮影】1日目=09時03分=伊藤 幸司
*四国が終わるときにまた発電用風車が見えました。周囲の地形がはっきりしているので場所は見つけやすいかな? と思ったのですが、手こずりました。じつは次の写真の奥の方に出てくる12本の風車列の方を先に見つけて、そこからこの11本の風車列の場所を特定できました。グーグル・マップの航空写真にはまだ載っていなくて、ただ「大洞山ウィンドファーム」という名前だけが山中の道の終点らしいところにありました。一般社団法人大月町観光協会のホームページによると
大洞山ウィンドファームは2018年の操業開始で、尾根伝いに約7.5km、11基、とのこと。
────普段は立ち入ることができませんが、定期的に開放されており、開放日には風車を間近に見ることができ、山頂からの眺望である眼下に広がる山々、遠くまで続く海の絶景を眺めることができます。────とのこと。
【撮影】1日目=09時03分=伊藤 幸司
*この写真ではよく見えないかもしれませんが、オリジナル画像では大洞山ウィンドファームの右奥に12本の風車が見えます。こちらは「大月ウィンドファーム」。
dream-up-japanというブログに「大月ウィンドファーム完成 巨大風車12で発電」という2006年のレポートがありました。それによると「県内8カ所目で、総出力1万2000キロワットは高岡郡津野町で3月に本格稼働した葉山風力発電所(2万キロワット)に次ぎ四国で2番目の規模。昨年度まで約5000キロワットだった県内風力発電所の総出力は、本年度内に約3万7000キロワットに急増することになる。」とのこと。
【撮影】1日目=09時05分=伊藤 幸司
*四国の最後は沖の島。海水浴場が2つありますね。ほかに玉柄展望台というのがありました。この写真では島の右下、断崖絶壁の下にいくつかの岩が頭を出しているところです。
「たびこふれ」という旅の穴場情報によると────長浜集落の玉柄というところで県道が終点になってしまっていますが、その辺りから見る景色は大海原が広がって足摺岬や蒲葵島、柏島などが見えて最高にきれいです! 行き止まりのここまで来る価値はあります!────だって。
【撮影】1日目=09時16分=伊藤 幸司
*四国を後にすると飛行機はまっすぐに宮崎を目指したようです。沖の島から11分後に見えてきたのは宮崎空港……だと思っていたのですが、帰って調べてみるとこれは新富町の航空自衛隊新田原基地でした。もう少し南に下ると海に突き出した宮崎空港が出てくるはず、でしたが……
【撮影】1日目=09時17分=伊藤 幸司
*航空自衛隊新田原基地を中心に置いて広角撮影したのがこの写真。この一ッ瀬川と宮崎市の大淀川とを比較しながら、何度も地図上を行き来してしまいました。飛行機なら一瞬のお隣さんでしたけれど。
【撮影】1日目=09時19分=伊藤 幸司
*なぜ宮崎空港を見逃したのかと思ったら、宮崎市街のあたりから鹿児島空港に向けて内陸に機首を向けていたのです。
*かなり巨大なソーラーパネルがあったので撮ったのですが、地図で見ると「ソフトバンク宮崎国富ソーラーパーク」とありました。SBエナジーという会社は「自然エネルギーのプラットフォーマーおよびサービスプロバイダーを目指します」とのこと。これは2020年1月の運転開始で、一般家庭「約7,410世帯分」でパネル枚数は「81,552枚」だそうです。
【撮影】1日目=09時21分=伊藤 幸司
*すぐに霧島連山が見えてきました。左端に高千穂峰(1,574m)があり、一番高く見えるのが最高峰の韓国岳(1,700m)です。韓国岳の左側にあるのが噴火した新燃岳(1,421m)。
【撮影】1日目=09時24分=伊藤 幸司
*霧島連山を右手に見ながら飛行機は鹿児島空港に向かって一直線に飛んでいるようでした。高千穂峰が右手に回り込んできて、韓国岳〜新燃岳が左側になりました。
【撮影】1日目=09時29分=伊藤 幸司
*鹿児島空港への着陸直前、川(天降川)があったので撮っておきました。地図で見ると、なんと鹿児島空港の滑走路がこの写真の左端に見えてもおかしくないくらい。霧島連山を右手に見ながらの着陸直前です。
【撮影】1日目=10時54分=伊藤 幸司
*リムジンバスで天文館で下車。ウィキペディアの
天文館によると────山形屋呉服店が大正時代初頭に神戸以西で初の鉄筋コンクリート造の大型デパートを開業すると、その周辺の商店や町屋が次第にショッピングゾーンに変貌し、戦前には現在の街並みがほぼ完成された。────とのこと。
*天文館といえば驚くべきアーケード網で、このアーチ型に片屋根型を加えると総延長約2kmになるといいます。桜島噴火の降灰対策もあると聞くと、雪国の雁木を思い出してしまいました。
【撮影】1日目=10時56分=伊藤 幸司
*昼食は10時30分開店の「うなぎの末よし」。
鹿児島市観光ナビでは────作家の椋鳩十先生も絶賛した地元で古くから愛されている名店です。鹿児島県大隅産の新鮮な活鰻を直仕入。備長炭で香ばしく焼き上げ、鹿児島ならではの少し甘めの熟成タレがかかったふわりとした蒲焼は絶品。天文館生まれの美味しい鹿児島の蒲焼の味をご堪能ください。────とありましたから、鹿児島の味の代表例ではあると思ったのです。
【撮影】1日目=11時23分=伊藤 幸司
*でも「うなぎの末よし」に私が興味を持ったのはそのメニュー。うな重とうな丼があってどちらも松が2,760円、竹が2,080円、梅が1,420円という潔さ。さらにうな丼には「小980円」があるとのこと。
*
テレビドガッチというサイトに「うな丼」と「うな重」の差、説明できますか? というのがありました。それによると────「うな丼」と「うな重」の違いは、ズバリうなぎの量。番組が調査したうなぎ屋さんでは、うな重はうな丼よりもうなぎの量が1.5倍ほどあり、値段もうな重の方がうな丼より高く設定されていました。────とのこと。
*ところが末よしではご飯の上にうなぎを乗せたのが「うな丼」、うなぎとご飯を別々に出すのが「うな重」とのこと。さらに値段の差はただ単純に「量の違い」という明快さ。女性のみなさんは軽めのものを選ぶでしょうから、私は一番ヘビーなうな丼の松を頼みました。写真はそれなんですが「二段重ねです」と説明されました。東京で食べるうな重と比べるには、ご飯にタレのかかった「うな丼」じゃないと、と思ったのですが、周囲を見渡すと「うな重」も「うな丼」も「それぞれ」にという印象でした。ただ、常連さんという感じの男性には「うな重だ!」という気合を感じましたけれどね。うなぎ産地の千葉の方には「ちょっと甘い」という意見がありました。私には「質実剛健の味」というふうに感じられました。
*ともかく、この店は現在もなお地元の人にかなり愛されているのだと感じました。
【撮影】1日目=12時08分=伊藤 幸司
*糸の会の泊まりでは、1日目は「腹ごなし」を最優先事項として考えます。もちろん中身もだいじなので、わざわざ九州まで飛んだのだからと霧島連山の韓国岳か高千穂峰に登って霧島温泉の湯につかって、鹿児島に出て翌日の開聞岳にそなえる、というのが常道でした。ところが今回はコロナ禍からの「復帰準備プラン」の第10弾ながら、その仕上げとなるか、第6派との狭間となるか、更に加えて飛行機の早割チケットをとる時期には、GoToトラベルの復活もあるかもしれないというヨミもあって、指宿温泉泊まりと決めていたのです。
*その指宿温泉がネックとなって、霧島山連山に向かったら、どんなルートを選んでも夕食までに指宿温泉に着くにはタクシーかレンタカーで待ち時間をゼロにしないといけないとわかったのです。
*そこでさらにいろいろあがいてみたのですが、結局鹿児島市の中心街にそびえる「城山」で、夕食を美味しく食べるための腹ごなしをすることになったのです。私たちは山形屋デパート2号館裏のコインロッカーにザックを預けて、まずは照国神社(てるくにじんじゃ)に向かったのです。
【撮影】1日目=12時13分=伊藤 幸司
*昭和16年(1941)というと日本軍の真珠湾攻撃ですが、その年に建設された鉄筋コンクリート製の大鳥居。当時国内では最大級だったとか。それがそのまま現在まで生き残ってきたのだそうです。
*背後に見えるのは城山ホテル鹿児島。
ウィキペディアによると、1963年(昭和36)に地元の城山観光が城山観光ホテルとして操業、2015年からオークラホテルズ&リゾーツに加盟したとあります。鹿児島市内にはあまり魅力的な風呂がないので、できれば明日、城山ホテルの展望風呂に入るかも……
【撮影】1日目=12時16分=伊藤 幸司
*神門に掲げられた「躍動」の文字は鬼滅文字に関係しているという新聞記事がありました。なんと
日本気象協会のサイトから————「鬼滅」フォントで御朱印?よもや、よもやだ 制作会社「昭和書体」が照國神社に奉納————という南日本新聞の2021年12月1日の記事が出てきました。コロナ禍に大ブレークした鬼滅文字の開発者・さつま町の昭和書体専属書家の綱紀栄泉さんが奉納したということです。
【撮影】1日目=12時18分=伊藤 幸司
*拝殿には島津の「丸に十の字」が並んでいました。「丸に十字紋」が島津藩のものしろ、島津家のものにしろ、それはそれでよかったのですが、照国神社の
御由緒によると────御祭神の島津齊彬公は文化6年(1809)御出生、嘉永4(1851)43歳で薩摩藩・藩主を襲封され、安政5年(1858)薨去されるまで僅か7ヶ年間の治世であったが、その間の御事績は藩内のみならず日本国にとっても広く大きく数々のものを残された。生前の御遺徳を慕い崇敬の念を寄せる万民の願いにより神社設立の運動が起り、文久2(1862)鶴丸城の西域である南泉院の郭内に社地を選定し、仝3年(1863)5月11日勅命によって照國大明神の神号を授けられ一社を創建した。────
*なんとまあ、東国の町人感覚では乃木神社とか東郷神社と同じようなものですかね。
【撮影】1日目=12時23分=伊藤 幸司
*照国神社の右隣に広がる探勝園の中心には「島津忠義公像」がありました。鹿児島県観光連盟の
明治維新とかごしまみて歩きによると────「薩摩藩最後の藩主」として「茂久(もちひさ)公こと島津忠義は薩摩藩最後の藩主です。父は島津久光。島津斉彬のあとを継いで19歳で藩主となりましたが、就任直後は祖父斉興、斉興の死後は父久光が国父として導きました。────とのこと。
【撮影】1日目=12時25分=伊藤 幸司
*前の写真同様、
明治維新とかごしまみて歩きによると、薩摩藩最後の藩主・島津忠義は────慶応3(1867)年、倒幕の密勅が降ると3千の兵を率いて上京。王政復古の大号令、小御所会議、続く鳥羽・伏見の戦いの重要局面で藩主自ら赴いていたことは、幕府の有利に転んでもおかしくない政局において、薩摩藩のあとにひかない強い姿勢を表しているといえます。その銅像は洋装ですが、父久光の言いつけに従い生涯髷を切らずにいたと伝わります。────
【撮影】1日目=12時26分=伊藤 幸司
*これは探勝園の奥にある島津久光の像。斉彬と久光の関係は私にはよくわからないけれど薩摩藩10代藩主・斉興の側室の子で、異母兄の斉彬が11代藩主となり、久光が12代。実子の忠義が12代藩主となるや「国父」として藩政の実権を掌握した、とのことです。
【撮影】1日目=12時26分=伊藤 幸司
*照国神社の祭神となった島津斉彬と、この島津久光とは腹違いの兄弟です。でも、いま神社のとなりに立つこの久光とはどういう関係にあったのか。ウィキペディアの
島津久光によると────忠教(久光)は斉彬と同様、非常に学問好きであった。ただ、蘭学を好んだ斉彬と異なり、忠教は国学に通じていた。────とのこと。
*あとで分かったのですが、島津斉彬の像は照国神社の境内にあったのです。斉彬、久光、忠義と、3代の藩主であり、それぞれ日本の歴史に登場する三者がこの一隅に寄り集まったのは大正6年(1917)のことだそうで、作者はすべて34歳の朝倉文夫だったとのこと。やっぱり斉彬を見ておきたかった。
【撮影】1日目=12時31分=伊藤 幸司
*探勝園を抜け出るとそこから城山自然遊歩道が始まりました。3分歩くとビル群を見下ろすようになり、桜島が伸び上がってきました。
*日本有数の活火山であるあの島がなんで「桜」島なのか、と調べてみるとありました…というか、ありませんでした……というか。
*桜島・錦江湾ジオパーク推進協議会の
桜島の地名の由来によると────桜島の地名については、現在のところ確定できていませんが、桜島町郷土誌等によると、以下の4つの説があります。────とのこと。
1.10世紀中頃、大隅守として京都から大隅国へ赴任してきた「桜島(さくらじま)忠信(ただのぶ)」の名に由来するとする説
2.島の五社大明神社の祭神が「木(この)花(はな)佐久(さく)夜(や)姫(ひめ)」であることから咲夜島(さくやじま)とよんだものが桜島(さくらじま)に転じたとする説
3.古代の大噴火の際、桜の花びらが海面に浮かんでいたので桜島と命名したという説
4.「サ・クラ・ジマ」で、「サ」は接頭語、「クラ」は断崖・崩壊谷あるいは峻険な斜面をもった山、「ジマ」は文字どおり島を表すとする説
……だそうです。部外者の気分としては「結局わからないんだ!」
【撮影】1日目=12時33分=伊藤 幸司
*たちまちにして、遊歩道は温暖な雰囲気の森に突入して行きます。
【撮影】1日目=12時33分=伊藤 幸司
*前の写真で頭上に咲いていたのはサザンカでしょうか。
【撮影】1日目=12時34分=伊藤 幸司
*これはなかなかのセンスの標識だと思いました。なんでですかね、「〇〇まで〇m」とか「〇〇まで〇分」という表示のある道標はいくらでも見ますが、すでにわかりきった道路名称に小さな情報を添えるそのバランスがうまく補完しあっていると感じたからでしょうか。いずれにしても元編集者としては、こういう仕事をするデザイナーとは一度仕事をしてみたいと思わせますよね。
【撮影】1日目=12時37分=伊藤 幸司
*遊歩道とはいっても、車も登れそうな立派な道路です。それが「遊歩」の味わいとなるのは左右の樹木に迫力があるからですね。私たちは南国の緑の圧力を感じながら歩いていました。
【撮影】1日目=12時38分=伊藤 幸司
*クスノキという名札がついていました。かなりの老樹ですね。
【撮影】1日目=12時38分=伊藤 幸司
*これにもクスノキという名札がついていました。巨樹や老樹の多いクスノキとしては「まあまあ」かもしれませんが、こういうものがこの森の、まさに「年輪」を感じさせるのだと思います。街の裏山という程度にしか考えていなかったけれど、鹿児島の人たちには特別な「城山」なんですね。
【撮影】1日目=12時39分=伊藤 幸司
*この、展望台への道が元々の登城路だったとは思えません。調べてみるとウィキペディアの
城山に次のように書かれていました。
――――「城山」の名前は中世に地元の豪族・上山氏が山城を築いていたことに由来する。
1601年(慶長6年)、島津忠恒(のち「家久」に改名)は、いくつかの候補地の中からこの地を選び、内城に代わる新しい島津氏の本拠を築いた。それが鹿児島城(鶴丸城)である。この時に城山にも手が入れられ、麓にある屋形に万が一のことがあった場合の後詰めの城「上之山城」(または上山城)として整備され、城代には忠恒の近親である島津常久が入城した。しかし1614年(慶長19年)に常久が死去すると、その後城代は任命されず上之山城は立入禁止となった。その結果、現在も見られるような樹木が繁茂する原生林に戻っていった。――――
【撮影】1日目=12時40分=伊藤 幸司
*老樹です。
【撮影】1日目=12時42分=伊藤 幸司
*老樹です。
【撮影】1日目=12時42分=伊藤 幸司
*老樹です。
【撮影】1日目=12時44分=伊藤 幸司
*写真を見返してみると、同じ「城山自然遊歩道」でも道の状態はずいぶん変化します。ここがだいたい「展望台まで200m」というところ。
【撮影】1日目=12時46分=伊藤 幸司
*クリスマスの紅葉ということになりますね。
【撮影】1日目=12時48分=伊藤 幸司
*展望台に着きました。眼下には照国神社の大鳥居が見えています。
【撮影】1日目=12時48分=伊藤 幸司
*城山展望台からの眺めは、まさにこれでしょう。桜島なしに鹿児島の風景は成立しないのだと思いました。
*12時31分の写真はこの遊歩道の登り始めに見た桜島で、それが今回私が見た最初の桜島でした。それについて「2.島の五社大明神社の祭神が「木(この)花(はな)佐久(さく)夜(や)姫(ひめ)」であることから咲夜島(さくやじま)とよんだものが桜島(さくらじま)に転じたとする説」がありましたが、「コノハナサクヤヒメ」は桜の女神でかぐや姫のモデル、そして富士山信仰の浅間神社が祭神としているのです。鹿児島の人たちには、これこそが火を吹く富士なのではないかと思いました。あす私たちが登る開聞岳が「薩摩富士」ではありますけれど。
【撮影】1日目=12時51分=伊藤 幸司
*この絵地図が、城山での私たちの唯一の手がかりとなっていました。私たちは左下の照国神社から右端経由で進み、左端で二人の子どもがバンザイしている展望台に着いたのです。これからどこへ行くか、どう歩くかを、私は目分量で決めなくてはなりません。できれば上端にある「西郷隆盛洞窟」へ行ってみよううかと考え始めていたのです。
【撮影】1日目=12時51分=伊藤 幸司
*展望台の雰囲気はこんな感じです。最近流行の高層ビルのガラス張り展望台とはずいぶん違います。
【撮影】1日目=12時52分=伊藤 幸司
*昼食をとった天文館のアーケード街は、最近戸閉めの店舗が増えつつあるのだということです。新幹線の鹿児島中央駅周辺に大型ショッピングセンターがつくられ、その先にイオンモール鹿児島があって、南九州最大とされた天文館ブランドに地盤沈下が起きているといいます。イオンモール鹿児島の開業が2007年、2010年には九州新幹線の鹿児島中央駅が誕生、その間、2009年に天文館にあった三越が撤退と、激動の波がこの風景の中にもあるのだと想像しました。
【撮影】1日目=12時57分=伊藤 幸司
*展望台から城山の裏に抜ける道を探すのに、ちょっとウロウロしました。道標のないこの道を下ると城山トンネルに出たのです。
【撮影】1日目=12時57分=伊藤 幸司
*都会に隣接した山には地元の人たちが勝手に開いた道があちこちにあるのが普通ですが、この城山はずいぶんお行儀のいい山だと感じました。城山の北麓にある西郷隆盛洞窟への道が、徒歩道としては記されていないうえに、あやしいい道のひとつさえ見つからないのです。この道は展望台の背後から下の道路の駐車場へと下る道であることはまちがいないところであり、相当たくさんの人に使われているのも間違いないはずなのですが、道標はおろか赤布のたぐいもありませんでした。
【撮影】1日目=13時02分=伊藤 幸司
*城山トンネルを出て、右か左かで意見がわかれ、右へ行ったのですが、案内図にない「石仏十三体」が登場して「左案」が息を吹き返し、トンネル出口まで戻って左に行き、やっぱり違うということで、再度右に下り始めたのが13時18分でした。
【撮影】1日目=13時06分=伊藤 幸司
*歩道のない自動車道路を、案内板なしに下りはじめた時の光景です。
【撮影】1日目=13時27分=伊藤 幸司
*自動車道路を下っていくと突然西郷隆盛像が現れました。なんだか立派すぎる巨大な西郷さんと「目で見る西南戦争始末記」三十六景展示場というのがあって、昭和時代の防空壕ふうのトンネルの中に展示物が並んでいました。「ご自由にお入りください」というので入りましたが、なんだか騙された感じ。西郷隆盛洞窟はこの下にあるのだと知りました。
【撮影】1日目=13時29分=伊藤 幸司
*これが西郷隆盛洞窟でした。洞窟というより浅い岩屋なのでここに隠れたというイメージではありません。しかも急峻な山の中ではなく、現在はここまで家並みがのびている、いわば里の領域です。水にしろ、食料にしろ、政府軍の目を逃れさえすれば運べると思われる場所でした。
*案内板には次のように書かれていました。――――1877年(明治10)9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は、何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間すごしたこの洞窟を出ました。――――
【撮影】1日目=13時30分=伊藤 幸司
*見るといっても、こんな感じ、洞窟といっても開けっぴろげの岩屋でした。
【撮影】1日目=13時41分=伊藤 幸司
*城山の背後を回って街に下る道に出ました。このまま腹ごなしは終わってしまうのかも、という雰囲気になりました。城山自然遊歩道を歩き始めたのが12時半でしたからまだ1時間、もう一度「腹ごなし」のテーマをさがして、今日の夕食をおいしくいただく準備をしなくっちゃ、と思っていたときでした。この先でSさんが「西郷終焉の地」があるみたい、というのです。「どうだ、そうだ、西郷さんだ」という気分もありましたが、城山から遠ざかるらしい目標ができたので大賛成。いきあたりばったりの旅が続くことになりました。
【撮影】1日目=13時56分=伊藤 幸司
*道に迷ったりしてずいぶん遠くに来た気分になりましたが15分のことでした。ここに「南洲翁終焉の地」という石碑がありました。「翁」といっても享年51(満49歳)ですけどね。
*ウィキペディアの
西郷隆盛には洞窟を出てからここまでの様子がかなりくわしく書かれています。
――――9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷と桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介(『西南記伝』では小倉壮九郎)が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害した。(他の資料では切腹したとの説があるが検死の結果、西郷は切腹はしておらず実質斬首の形の介錯となった) 介錯を命じられた別府は、涙ながらに「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねたという。享年51(満49歳没)――――
【撮影】1日目=13時58分=伊藤 幸司
*完全に街歩きの気分になっていましたから、私はもう、指宿行きの列車の時刻を見るだけの役にまわって、皆さんのあとから着いていくだけとなりました。
【撮影】1日目=14時05分=伊藤 幸司
*後でこの道が「歴史と文化の道」だったと知ったのですが、最初に出てきたのは「私学校跡」。無知な私はこの石垣に見とれていただけでしたが、「私学校」というのは西郷隆盛に直結する重要な存在だったと後で知りました。この日の道筋では重要なのでウィキペディアの
私学校の解説を長くなりますが引用させていただきます。
――――1874年(明治7年)6月、下野した西郷隆盛は旧鹿児島城(鶴丸城)内に陸軍士官養成のための「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校を設立した。幼年学校は明治維新に功績を挙げたものに与えられた賞典禄によって設立されたことから、「賞典学校」とも呼ばれる。西郷隆盛が二千石、鹿児島県令大山綱良が八百石、桐野利秋が二百石を拠出し、また参議大久保利通も千八百石を拠出した。残る二校の費用は「私学校」という名前とは裏腹に、県の予算より支出された。また鹿児島県内各地に分校が設置された。
教務は主に漢文の素読と軍事教練にあった。設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐ事にあったとされる。そのため入学できるのは士族、それも元城下士出身者に限られた。
1877年(明治10年)1月29日、大久保利通、川路利良らが陰謀を企てたとして激昂した同校生徒が鹿児島の鎮台の弾薬庫襲撃を行い、これがきっかけとなり西南戦争が起こった。同校は同戦争後廃止された。――――
【撮影】1日目=14時07分=伊藤 幸司
*前の写真の解説を読んだ後だと、ここに「西南戦争の銃弾跡」が解説付きで保存されている理由がよくわかります。ただ単に当時の銃の性能を知るだけ、ではなかったんですね。上野の山の寛永寺旧本坊表門の弾痕とはまた違う、深い意味が残されているということです。
【撮影】1日目=14時08分=伊藤 幸司
*2020年3月に完成したという鹿児島(鶴丸)城の御楼門(ごろうもん)が見えてきました。
【撮影】1日目=14時10分=伊藤 幸司
*鶴丸城楼門はじつはそうとうの力作だったようです。解説板にはこう書かれていました。――――147年ぶりに忠実に復元した御楼門は、日本最大級ともいわれる青銅製の鯱を大屋根に載せ、高さ・幅ともに約20メートルもある日本最大の城門であり、鹿児島の新しいシンボルとなるものです。――――
【撮影】1日目=14時12分=伊藤 幸司
*私は城に詳しくありませんが、この石垣にはドキッとしました。おそらく、たぶん、資料を探せばどこかにこの場所の写真が出てくるような、極めつけの石組みなのではないのかと思うのです。白状すればこれを見る前に石組みに関する解説が道際に堂々と並んでいましたから、そこに解説があったかもしれませんが、みなさんの後を追うので精一杯だったのです。でもここでは足を止めずにいられなかった。
【撮影】1日目=14時13分=伊藤 幸司
*城をめぐる水路には錦鯉が群れていました。水路に流れる水は豊かで、次から次へと立派な錦鯉が登場するのです。
【撮影】1日目=14時13分=伊藤 幸司
*これがどこからどのように流れてくる水なのか詳細は知りませんが、この水量とこの清らかさはどうみたって水道水ではありません。豊富な地下水があるという自慢顔さえ見えてくるような、存在感です。
*鹿児島市のホームページから出てきたらしいのですが「第2章・みんなの水源を知ろう」というのをブラタモリに出演したという東川隆太郎さんが書いている、らしいのです。それ以上のことはわからないのですが、「3.主な水源地」の
冷水水源地(鹿児島市冷水町)に次のような解説がありました。
――――江戸時代から鶴丸城や城下町に給水していた、鹿児島 の水道発祥の水源地で、当時、冷水水源地から石管や隧道(トンネル)で引いてきた水を、高桝と呼ばれる石造りの配水塔で圧力送水し、石造りの水槽(箱水)にためた水を利用していたようである。今でも1日に約1,400m³の湧水を水道水として供給している。「ひやみず」という地名は、夏に冷たい水が湧き出すことが由来といわれている。――――
【撮影】1日目=14時17分=伊藤 幸司
*市立美術館の先にあったのは昭和12年(1937)に作られた西郷隆盛像。西郷隆盛の孫に当たる西郷隆治をモデルにして同じ鹿児島二中の出身である安藤照が制作したもの。服装は陸軍大将の正装で、西郷の「反逆者」からの復権とするものだそうです。
【撮影】1日目=14時18分=伊藤 幸司
*朝日通のリッチモンドホテルの肩越しに見えた桜島はずいぶん大きく見えました。
【撮影】1日目=14時19分=伊藤 幸司
*中央公園に出ると城山が見えました。時間帯のせいか、芝生の広場は閑散としていました。ここがにぎやかな風景になるのはどんなときなのでしょうか。
【撮影】1日目=14時47分=伊藤 幸司
*鹿児島中央駅まで市電で行きたいという意見の人がいたのでたまたま出た「いづろ駅」から乗ろうとしたのです。するとそこは反対方向の車両しか止まらないプラットフォームだということになって、あわてて移動したのがここ。山形屋デパートのところでした。鹿児島市電は素人目には複線の軌道に十分なプラットフォーム・スペースがあるのに、なぜ上り下りを分けたりしているんですかね。
【撮影】1日目=14時49分=伊藤 幸司
*この方向の電車は途中で二俣に別れるのでホームにいる人に聞いてみたのですがどうもよくわからない。たぶん、この電車のフロントグラスに見える赤線が鹿児島中央駅方面行きの印らしいのです。
【撮影】1日目=15時03分=伊藤 幸司
*鹿児島中央駅は、さすがに九州新幹線の終着駅。威信をかけて作ったというレベルですね。これは駅ビルのアミュプラザ鹿児島で、駅前から見るとこの上にはなんともみごとな観覧車・アミュランがあるのです。
【撮影】1日目=15時29分=伊藤 幸司
*私たちは15時35分・鹿児島中央駅始発の列車で指宿へと向かったのです。
【撮影】1日目=16時50分=伊藤 幸司
*まさにこの時刻、指宿温泉の指宿白水館に到着しました。正面に飾られていたのは12月4〜5日に行われる予定だった第34期竜王戦・第六局、豊島将之竜王と藤井聡太三冠の対局のものですが、じつは11月12〜13日の第4局で藤井竜王が誕生、だから消滅したわけですね。ということはこの巨大な対決写真は1か月以上も放置されてきたということになります。
【撮影】1日目=17時09分=伊藤 幸司
*明るいうちに、ということで、砂蒸し温泉+元禄風呂は後回しにして、約5万坪という敷地をひとまわりしておきました。なおこの日の鹿児島県の日没は17時19分でした。
【撮影】1日目=17時17分=伊藤 幸司
*これは入り口から入ったところにある薩摩伝承館。入館料1,500円の博物館で、白水館が収蔵する3,000点のコレクションを公開しているとのこと。建物自体も力作のようで、
内観については————深い見込みを薄紅色で着色した格子は、見る角度と光の変化によって様々な表情を内外に醸し出します。格子をとおしてホールへと差し込む光は、池の水波のゆらぎとともに時の移ろいを映し出し、「光」「水」「音」「香」「風」を五感で感じられる、ゆるやかな時間を届けます。————とのこと。
*レストランもあって、宿泊客以外の利用を前提としている公開施設のようですが、私は10分でも見られればと思って駆け込んだものの、時間切れで見られませんでした。
【撮影】1日目=17時24分=伊藤 幸司
*見上げる山は魚見岳(203m)です。簡単に登れる展望の山でハワイのダイヤモンドヘッドの名を借用するケースもあるようです。裏から車で登れるので、夜景も楽しめるとのこと。
*山腹に登場した「丸に十の字」は島津家の直轄地であったことにちなんで行事の際に点灯するようにしたそうですが、指宿観光協会の
魚見岳に「丸に十の字」が点灯しました! によると————今年は、丸十の家紋にまつわる説の中で「十字を切る呪符、厄除け」として、コロナウイルスの収束と穏やかな日々の訪れの願いが込められている————として「点灯期間:令和3年10月10日〜11月30日」とありました。が、12月23日のこの日も点灯されたということのようです。
【撮影】1日目=18時38分=伊藤 幸司
*北アルプスの山小屋が1泊2食付きで1万円という時代です。山麓で温泉宿に泊まる場合は名門旅館の木造本館でトイレなしなんていうのがあれば1万5000円までの金額で考えますが、今は泊まれなくなった六甲ホテルの本館だと食事に出る肉は薄いものの、冬季1万円でした、ずっと。
*今回の白水館は大部屋が2万円以下ということで決めたのですが、そこにはGoToトラベルかコロナ対策のサービス価格が得られるかもしれないという可能性もいくぶん期待して「決めちゃった」のです。
*山のグループですから当然完食が前提です。そのために「腹ごなし」に万全を期すのです。食事はまず、こういう儀式からはじまりました。
【撮影】1日目=18時41分=伊藤 幸司
*ともかく品数は大したものです。
【撮影】1日目=18時42分=伊藤 幸司
*これは前菜(秋鯖小柚寿司、鮟肝豆腐、鶏南瓜松風、いが栗、紅葉型長芋雲丹焼、豆腐味噌漬け)
【撮影】1日目=18時56分=伊藤 幸司
*お造り・四種盛り
【撮影】1日目=19時00分=伊藤 幸司
炊合せ・黒豚角煮
【撮影】1日目=19時09分=伊藤 幸司
焼き物・たるめ柚庵焼、床節貝ガーリックバター焼、焼エリンギポン酢漬
【撮影】1日目=19時15分=伊藤 幸司
合肴・えの木茸ニューメン風、錦紙玉子
【撮影】1日目=19時42分=伊藤 幸司
酢の物・サメ軟骨とび卵梅肉和え、キビナゴ酢味噌、鰹叩きポン酢、
【撮影】1日目=19時58分=伊藤 幸司
酢の物・ガネ天、芋天(指宿産マロンゴールド)
*事情があって最後になった「マロンゴールド」は仰天のネーミング。部屋に持ち帰った人もいました。
【撮影】1日目=20時43分=伊藤 幸司
*館内は静かでした。客がいないわけではありませんが、閑散としていましたね。比較的安価でも泊まれる旅館としては、和倉温泉の加賀屋と指宿温泉のこの白水館とがダントツの人気を維持してきたようですが、さすがにコロナ禍なんですね。クリスマスイブの前日というへんな日とはいえ、ガラガラの砂蒸し温泉、ガラガラの元禄風呂、そしてガラガラの廊下でしたね。もちろんスタッフの数も少なかったと思いますが、明るく、丁寧でいて素直な対応は、大混雑のときにもそういう姿勢が生きてくるというような感じがしました。
【撮影】1日目=20時44分=伊藤 幸司
*海辺に建つこのホテルのマツはみごとでした。庭園級のマツがさり気なく並んでいるとしか見えませんでしたが、タクシー運転手の話では、じつはこの手の松林は指宿の海岸線では、戦時中、海軍の飛行機を隠すのに利用されたこともあったとか。すぐそこに海岸があるのに、その印象まで味わうことはできませんでした。
【撮影】1日目=20時51分=伊藤 幸司
*夜のマツは、長い廊下を歩きながら、まるで回廊から景色を楽しんでいるような感じがしました。師走ですから暖房にかかる費用も馬鹿にならないだろう、などど勝手なことを心配しながら夜の屋内散歩を楽しみました。
【撮影】1日目=20時55分=伊藤 幸司
*フロント・ロビーから温泉棟へと向かう長い廊下の壁画ですが、これ自体の情報はうまく出てきませんでした。ただ2017年11月に白水館内にオープンした麺屋二郎の店にほどこした壁画作製のレポートがありました。
クラウドファンディングのCAMPFIREに書作家・中島美紀さんという方が登場し、そこに
2日間に渡る麺屋二郎 白水館支店の壁画制作が無事に終わりました!というレポートあったのです。「ラーメンの麺と、指宿の波〜 もりもりな麺波を書いていきます・・」という壁画のタッチが、ちょっと白水館の雰囲気を広げていく、というふうに見えました。長い廊下のこの壁画も、いわば白水館の匂いかも、と思いましたね。
【撮影】2日目=07時03分=伊藤 幸司
*朝食です。私たちは朝食時刻の7時には完全に出発準備を整えて集合し、8時にはタクシーで出発するということにしました。この日、ここで出てきたのは和定食でした。
【撮影】2日目=08時22分=伊藤 幸司
*ホテルを8時に出て、途中のコンビニで昼食を買い込み、タクシーはどんどん開聞岳に接近していきました。
【撮影】2日目=08時43分=伊藤 幸司
*ここが開聞岳2合目の登山口(標高約150m)。背景になっているのが開聞岳です。
*これまで何度か訪れていますが、登山開始の登山口はここだとして、本来の登山口がどこか知りません。指宿観光ネットの
開聞岳登山情報にある地図を見ると、JR指宿枕崎線の開聞駅わきに「開聞登山口」(標高35.4m)というバス停があるんですね。そこから車の通れる道をおよそ1.2km登ってくるのです。タクシーで桜並木のその道を上がってくると、トイレの表示や登山者用の駐車場がありましたが、それが2合目登山口まで約300mのところ、ということになります。
*ところがウィキペディアで
開聞岳を見ていると、「周辺のスポット」に枚聞神社というのがありました。————山麓にある枚聞神社(ひらききじんじゃ)は薩摩国の一宮であり、開聞岳を神体としている。このため神社参道と社殿を結ぶ線の延長上に開聞岳があり、その山頂には奥宮御岳神社がある。————
*開聞登山口バス停から、さらに下る……のではなくて500mほど先まで軽く登りかえすと、標高約50mのところに枚聞神社はありました。それが登山道の起点なんですね。間違いなく。次には、ぜひそこを訪れなくてなならないと思いました。なお、枚聞神社が「薩摩の一宮」であったというのは、平安時代からの薩摩の歴史にかかわる重要な存在です。当然、開聞岳の薩摩における地位というのも、今とは比べものにならないものだったと想像されます。
【撮影】2日目=08時43分=伊藤 幸司
*2合目登山口にあった案内図です。登山口から山体をほぼ一周したのち、頂上直下をさらに半周するということがわかります。また展望デッキのある5合目がこの地図では標高500mの等高線のところにあって、標高約35mの「開聞登山口」バス停からだと距離も標高差もおよそ真ん中という感じでしょうか。ともかく、登山道ガイドとしてはもちろん、観光案内図としても力作です。
【撮影】2日目=08時48分=伊藤 幸司
*天気は下り坂。途中で雨になるという予報です。紅葉、黄葉がちらほら残る南国の師走。あまりウキウキした気分ではありませんが、とりあえず登ってみることです。
【撮影】2日目=08時49分=伊藤 幸司
*ツワブキが足元に何株か出てきました。まだ人の手が加わっていそうな植林地でしたから、開聞岳の自生植物かどうかはわかりません。
*ところが帰ってから開聞岳にツワブキがあるかどうか調べてみると YamaReco に2013年11月11日の
「ツワブキが残っていた開聞岳」があって「5合目展望台直下に咲いていたツワブキ」という写真が1点ありました。
*私の印象では山里の道にはフキがあり、山で見るのはマルバダケブキで、街のちょっとおしゃれな場所にツワブキがある、という印象なんですが、いずれもキク科の近い関係ながら、フキが全国に分布して食用として里山で人間との関係を深くしているのに対して、マルバダケブキは本州と四国の山地に、ツワブキは本州中部から南に限定され、とくに海岸沿いに適応して、低地では観賞用として植えられている例が多い……とのことです。
*そのツワブキですが、九州では郷土料理となっているとのこと。クックパッドには
「つわぶきのレシピ131品」というコーナーもありますね。また「花とアートの岬・長崎鼻」の
花公園では11月にツワブキが花を咲かせるそうですが、こう書いてあります。————ツワブキと聞くと、調理して食べるイメージが強い方もおられますが、ここ長崎鼻では観賞用に保護をしています。————
【撮影】2日目=08時49分=伊藤 幸司
*私の地図には行動時刻として出発0850と書かれています。カメラ時計だとまだ出発前となりますが、行動記録は5分単位で書いているので、こういうこともありえます。そんな歩き初めにたちまちこの道です。ときに激流となる登山道です。すでにこの場所自体が山の斜面に深くえぐられた谷地形で、そこに表土を洗い流した道路部分があるわけです。火山性の土壌のようですから、豪雨一発でさらに掘り下げられるかもしれません。
【撮影】2日目=08時50分=伊藤 幸司
*前の写真の1分後ですから、ほとんど同じ場所です。ここには土留め効果も考えたらしい丸太を並べて、滑り止めの鋸挽き線も加えています。どうも一番奥の、土に埋もれた丸太が本来の姿で、手前2本の間を激流が掘り崩してしまったように見えますね。
【撮影】2日目=08時52分=伊藤 幸司
*前の写真のそんな感じの道はまだのんびりと上っていくだけです。まだまだアプローチという雰囲気の中を進んでいきます。
【撮影】2日目=08時57分=伊藤 幸司
*木の名前はわかりません。おだやかな黄色い葉と、まだ緑色の葉との混在が、現在進行形という印象を加えて魅力的でした。
【撮影】2日目=08時58分=伊藤 幸司
*赤い葉っぱはヤマウルシでいいでしょうか。南九州の海辺の山の、常緑の森の中の、おだやかな紅葉と、いっていいでしょう。
【撮影】2日目=09時01分=伊藤 幸司
*道はだんだん、登山道という雰囲気になってきました。山頂は右手にあるはずですが、とにかく登り続けるという気分が強くなってきました。
【撮影】2日目=09時02分=伊藤 幸司
*平成9年(1997)の案内板がありました。「2.5合目」です。重要なのは左方向への案内で「開聞山麓自然公園へ(下山できます)」という情報で、それがあるので残されているのだろうと後になって思いました。
*実は2合目登山口にあった地図を見直すと開聞岳の裾野、海辺をたどる道があって、道が途中で極端に細くなったり、2合目登山口の方へと延びていく不思議な道が途中でぷつんと途切れるまで描かれたりしています。どう考えても意味ありげな雰囲気ですね。ちなみにその道は国土地理院の地形図には九州自然歩道と書かれていて、ネットで見られる国土地理院の電子国土Webの最新情報では開聞山自然公園から2.5合目まで、破線ながらちゃんとつながっています。おそらく今も「開聞山麓自然公園へ(下山できます)」は行きているんだと思います。(そして右に行くと「行き止まり」なのは最新の国土地理院地形図と同じです)
【撮影】2日目=09時02分=伊藤 幸司
*ゴルジュ(函型の深い谷)と呼んでいいような深い溝の底を進みます。谷を削って山をそびえ立たせる水の力を放任して道筋ばかりを整備しても、あまり意味はないのです。水の流れが力を持つ前に、分散させなければならないのです。そのことをきちんと意識して保護されている登山道はかならずしも多くありません。ここは火山性の砂なので一見問題がないのですが、私たちが普段歩いている本州中部の山々ではどろどろのぬかるみになっていて、この上にバイパスが勝手に作られていたりします。
【撮影】2日目=09時08分=伊藤 幸司
【撮影】2日目=09時16分=伊藤 幸司
*私たちは9時10〜15分に休憩して衣類調節をしました。砂礫の道から、岩が頭を並べているような道になり、登り傾斜も急になる気配です。
【撮影】2日目=09時17分=伊藤 幸司
*前の写真から1分後、同じような道が延びているだけですが、景色としてはどんどん進んでいるという実感があります。自分に合ったリズムであれば、どこまでも行けそうな気分にもなれます。
【撮影】2日目=09時25分=伊藤 幸司
*最近ではこんなふうにひっくり返った大木を見ることが多くなります。2019年の台風19号に直撃された房総の山ではこんな感じの倒木がたくさんありました。山の大木がしっかり根を張って成長してきたと思っていると大間違いで、こんなふうに根を頼りげなく張っていただけ、という例をたくさん見てきました。大きな岩に大木が張り付いている不思議な光景も、樹木の生存能力の優れた例であって、砂上の楼閣ならぬ岩盤上の老木だと感じる場合が多いと思います。
【撮影】2日目=09時27分=伊藤 幸司
【撮影】2日目=09時31分=伊藤 幸司
*登山道は石組みの階段状になりました。ここは路面の侵食がほとんど起きていません。登山道の補修にたずさわる方がいるんですね。
【撮影】2日目=09時31分=伊藤 幸司
*石段の先に急な段差がありました。こちらはその段差を埋めるために木の角材を用意してきたんですね。
【撮影】2日目=09時41分=伊藤 幸司
*天気は小康状態です。道の状態はだんだんフツーのレベルになってきたかな、と思いました。登山者の通行による負荷が、あるがままの自然をすこしずつ傷めていきます。豪雨による破壊的な侵食ほどではありませんが。
【撮影】2日目=09時47分=伊藤 幸司
*2合目登山口から約1時間、標高差約350m。水平距離では約1.5kmということになります。糸の会で標準速度としている「時速1km」かつ「1時間に高度300m」(これを1時間に8パワー出力としています)を上回っていることになります。計画では3時間(24パワーの登り)としているので、その範囲内で登れるかどうかが楽しみです。
【撮影】2日目=09時47分=伊藤 幸司
*5合目にはテラスがあり、ベンチもありました。写真とすこしずれていますが、行動記録としては9時50分〜10時00分の10分休憩です。
*嬉しいことに、展望がありました。鹿児島湾の出口に突き出している岩山は竹山(標高162m)と先端の132m峰。タクシー運転手さんから「スヌーピー山」だと聞いたのですがなかなかそういうふうには見えません。指宿温泉は写真の左端に切れている感じです。
【撮影】2日目=09時49分=伊藤 幸司
*竹山(標高162m)と先端の132m峰ですが、指宿まるごと博物館の
竹山にもありました。————スヌーピーが空をあおいで寝そべっている姿にも見えるので,別名「スヌーピー山」とも言われる————と。見る方向が悪いみたいですね。
*続けて————その山体は,マグマが地表に噴出する一歩手前で急に冷えて固まった火成岩の固まりだ。標高は約200m。その誕生は5~6万年前と推定されている。天狗伝説や霊怪の伝承が残ることから,修験道の霊場であったとも伝えられる。————とありました。
【撮影】2日目=09時50分=伊藤 幸司
*写真右端に延びているのが長崎鼻。薩摩半島の先端で、向こうは大隅半島。写真右端に切れていますが、その先端は佐多岬です。
【撮影】2日目=09時55分=伊藤 幸司
*鹿児島湾を左に進むと鹿児島市街がありますが、噴火レベル3の桜島があります。桜島から霧島山にかけて日本列島全体に火山灰を積もらせたという巨大な火山活動があって、姶良カルデラという痕跡を残しています。そして鹿児島湾の入口部に広がるのが阿多カルデラで、この開聞岳もその一部を構成していて、指宿温泉も阿多カルデラの温泉なのです。
*気象庁のホームページに
開聞岳の噴火活動史というシンプルな解説がありました。————開聞岳は、約4,400年前(奥野,2002)に噴火を始めた。初期の活動は、浅海域での水蒸気マグマ噴火であった。溶岩を流出する噴火を繰り返し、約2,500年前には現在とほぼ同じ規模の山体が完成していたものと推定されている。約2,000年前と1,500年前の活動では噴出量が多く、成層火山体の形成に大きく寄与した。その後、歴史時代の874年及び885年の噴火で山頂付近の地形が大きく変化し、噴火末期に火口内に溶岩ドームが形成された。また、開聞岳南方沖海底には、開聞岳付近を発生源とする岩屑なだれ堆積物の地形がみられる。側端崖、先端崖、流れ山の地形が明瞭であるが、発生源の崩壊地形は成層火山に覆われて全く見えない。————
【撮影】2日目=10時00分=伊藤 幸司
*5合目から、開聞岳は本格的なジャングルの山という雰囲気になりました。
【撮影】2日目=10時01分=伊藤 幸司
*鹿児島県のサイトにあるらしいのですが「二次調査・開聞岳の自然・植物」という報告文書がありました。筆者は大野照好さん。————海抜およそ500m附近にはアカガシ群落が発達している。内陸部ではスダジイ群落の上部にイスノキ—ウラジロガシ群落,その上部にシキミ—モミ群集と垂平的に植生が分布している。アカガシ群落はイスノキ—ウラジロガシ群集帯とシキミ—モミ群集帯の接点附近に部分的に発達していることが多い。開聞岳においては海洋に接して屹立する独立峰という制約のもとにイスノキ—ウラジロガシ群集帯が圧縮されてアカガシの優占する群落が発達したものと考えられる。————
*イスノキはマンサク科の常緑樹で、九州南部では森林を構成する主要な樹木だそうです。そしてシキミは仏事で使われるシキミ。モミ群落、スダジイ群落、ウラジロガシ群落、アカガシ群落といわれても、ピンとこないまま、だんだん深い森に誘い込まれていくような気分です。
【撮影】2日目=10時01分=伊藤 幸司
*荒れた道に見えますが、実際にはそれほど厄介な感じがしなかったのは、やはり火山性の砂礫がサラッとして、足を取られることがほとんどないからです。
【撮影】2日目=10時11分=伊藤 幸司
*右に見える崖の部分が削られて登山道がここまで沈み込んできたのだと思います。木製の階段がしばらく頑張ってきたように見えますからこの先でうまい水切り効果が発揮されてきたのではないかと想像しました。
【撮影】2日目=10時12分=伊藤 幸司
*前の写真で階段を上がると、様相が一変しました。大きな岩がゴロゴロと続く道です。山の斜面をほとんど侵食しないで道がどんどん延びています。
【撮影】2日目=10時14分=伊藤 幸司
*山の斜面を傷めることなく、敷石を置いたような道が延びていきます。山歩きと平地歩きとの大きな違いは、こういう不整地歩きが与える影響です。足元の安定と同時に全体のバランスをこまかく調整しながら歩く必要があるわけです。
*みなさんは下りではダブストックを使って安全の確保をしますが、登りでは使う人、使わない人が混在しています。使う人でもその使い方でダブルストックへの依存度が見てとれます。私が最後尾につきながら全員の調子に目を配ることができるのは、ダブルストックへという大きな目印があるからです。
【撮影】2日目=10時28分=伊藤 幸司
*木の根のところで、ふたたびこういう侵食が起きていました。想像していたほどの大きな侵食力がなくても。浅い木の根はかんたんに掘り出されてしまうということでしょうか。
【撮影】2日目=10時31分=伊藤 幸司
*以前はずっと、私がリーダーとして先頭に立って、ペースメイクをしてきました。おおよそ20年間続けてきて、2013年から私は最後尾につき、ペースメーカーが10分ごとに変わるというシステムに切り替えたのです。
*その10分交代は、雪山でラッセルの先頭を交代するのとちがって、10分ごとに全員が集合してから、最後尾の人が先頭に出るのです。じつはペースメイクはしないのです。自分の「気持ちいいペース」で歩いてもらうのです。速い人は速く、遅い人は遅くていいのです。それで先頭に立った人は自分の「気持ちいいペース」を探ることができ、ゆっくり歩きたい人は、自分の「体が喜ぶペース」を見つければいいのです。そして後ろにつく人もそれぞれ自分に合ったペース(残念ながら前の人より速いペースはだめですが)を探りながら、10分後には全員がまた集合して、リセットするのです。
*実際、チームで歩けば、ペースメーカーがどれほど腕(足)を発揮させようが、結局、一番遅い人が事実上のペースメーカーになるのです。一般には最後尾に補佐役がつきますから、遅れた人をチームから分離したりします。私の講座がカルチャーセンター主催の場合は担当者がサブにつきましたが、糸の会は完全なワンマンシステムですから、私が前につくか、後ろにつくかでリーダーとしての目配りは大きく変わりました。
*私はこの四半世紀に首都圏と北アルプスなど日本の代表的な山の代表的な登山ルートをおよそ1,700回ほど歩いてきましたから、有名どころの山はどれも複数回体験しており、山によっては参加したみなさんの多くが「またか」というほどになってきました。私自身が登山道をほとんど既知のものとしてしまったので、ルートファインディングという要素は限りなく小さくなってしまったのです。この開聞岳も、今回が5回目です。だから、最後尾の人の動きをじっくりと観察して、次のペースメーカーとして送り出せばいいのです。ストックの使い方の基本をバランスアシストとパワーアシストを50:50を基本として見ていくと、使い方の上手・下手とは別に、この道に対するその人の技術的なレベルを想定することができる……と思っています。
【撮影】2日目=10時34分=伊藤 幸司
*登りでは6合目の道標を見落としました。これは7合目です。気温は11℃。
【撮影】2日目=10時40分=伊藤 幸司
*待ちに待った展望です。左手前に長崎鼻が見えています。鹿児島湾の大隅半島側の先端部が、陽光が雲間に漏れているあたりにあります。写真左端に大隅半島の山が見えますが、標高897mの野首嶽だと思います。こちら、薩摩半島の開聞岳と高さではほぼ同格の山といえます。背後には標高891mの木場岳もあるようですが、大隅半島にそんな山があるということはまったく知りませんでした。
【撮影】2日目=10時40分=伊藤 幸司
*このあたりの背の低い常緑樹の中には「シキミ—モミ群集帯」のシキミの木が混じっているのでしょうか。
【撮影】2日目=10時41分=伊藤 幸司
*1分前の展望は西の方向でしたが、ここでは南の方向を見ることができました。水平線に目を凝らすと一瞬、屋久島とおぼしき島影を見たのですが、カメラを構えている間に見えなくなりました。とりあえず何枚かシャッターを切りましたが、写っていません。この写真で太陽の光の中に見える黒い影は雲です。この雲はシャッターを切るごとにふわりと浮き上がっていきました。
【撮影】2日目=10時43分=伊藤 幸司
【撮影】2日目=10時44分=伊藤 幸司
*ここは何でしょうね。かつて上部斜面からの崩落でもあったのでしょうか。
【撮影】2日目=10時46分=伊藤 幸司
*7合目を過ぎると登山道は急に岩っぽくなります。余裕があればポン、ポン、と楽しい道ですが、バランスに自信のない人には、けっこうやっかいな道になります。開聞岳登山を初級とか中級とか分類したい人にはそれぞれ判断の異なる要点かと思います。
*たとえば私は、この日もしここに雪がついていたりしたら恐怖心で腰が引ける人が出たり、足元の滑りやすさでスピードがガクンと落ちる人もいるかと思って、予備の軽アイゼンを持参しました。ベテランならこの季節にはすでに軽アイゼンを常備しているはずですが、最近では軽アイゼンも機内持ち込みできるかどうかわからないということで特に指定はしませんでした。最低限、片足だけでもアイゼンをつければ、危険は大幅に減少できますし、スピードの低下もいくぶんカバーできます。……でも岩は湿っていても驚くほど滑らず、苔の部分を踏んでも問題ありませんでした。
【撮影】2日目=10時46分=伊藤 幸司
*仙人洞です。大きな解説版によると、開聞岳北麓の「岩屋」(開聞中学校の南150m)に観音堂があるのだそうです。孝徳天皇の頃というから飛鳥時代の7世紀のことですが、その観音堂は山伏たちの修行所となっていたそうです。————この洞窟は、開聞岳が噴火したときに溶岩がせりあがってできたもので、これら山伏たちの修行の場として使われ、「仙人洞」という名前が付けられたといわれています。————とのことです。穴の入口は2〜3あって、内部はかなり広い岩屋となっていました。
【撮影】2日目=10時57分=伊藤 幸司
*登山開始から2時間たったので10時50分から5分休憩しました。歩きだすと、だんだん「岩場」という雰囲気になってきました。特別むずかしいということはないのですが、首都圏の登山道では、岩っぽいところでは「安易に」といっていいほどに、クサリをつけたり、ロープを垂らして、慣れない人にも事故が起こらないような安全策をとっています。ここではそういう余計な配慮はしていないので、一般にいわれる「初級」とか「中級」が適応しないことが起きます。そういう意味では評価の定まった北アルプスの人気ルートで、時間を焦らずに、きちんとした「登り」「下り」を体験しておくように心がけたいと思います。
【撮影】2日目=10時58分=伊藤 幸司
【撮影】2日目=11時00分=伊藤 幸司
*この写真を見てずいぶんすごいと思う方がいるかもしれませんが、じつは筑波山に(一部ですが)こんな感じの岩っぽいところがあります。岩が滑らないので、段差の大きさを、どううまく乗り越えていくかという登攀力の問題が重要です。でも、じつはこのような岩のサイズだと、登りでは力の問題だけですが、下りになると「二足歩行」のキッチリできる人、すなわち片足できちっと立ってから次の足を振り出せるだけのバランス力のある人と、そうでない人では実力の差は決定的になります。糸の会では登りでダブルストックを使わない人も、下りになれば全員ストックを出しますから、この場面でもスムーズに下れます。最高齢86歳で平均年齢73.4歳の7人は、登りは70歳代の実力でしょうが、下りでは50歳の人とも一緒に歩ける程度の実力者たちです。
【撮影】2日目=11時21分=伊藤 幸司
【撮影】2日目=11時27分=伊藤 幸司
*このハシゴを登ると、そこから、山頂部をぐるっと半周するような感じになります。
【撮影】2日目=11時34分=伊藤 幸司
*雨とはいえないまでも、濃霧はしっとりと体を濡らし、足場も滑りやすい感じにしています。「あとすこし」と思いながら「なかなか着かない」という気分に揺れつつ進みます。
【撮影】2日目=11時41分=伊藤 幸司
*親切なことに「山頂52m」という標識。距離表示というよりここでグイッと方向が変わるのを示しています。「もう少し」と思った人もいたでしょうが「まだか!」というため息のほうが多かったかと思います。
【撮影】2日目=11時55分=伊藤 幸司
*展望ゼロ。風も強くなって、こまかな雨粒がレンズについています。休憩時間は林の中に戻ってから摂るとして、ここでは写真だけ撮りました。
【撮影】2日目=12時04分=伊藤 幸司
*山頂に出たら、雨具がべっしょり濡れました。糸の会の標準速度の3時間で登りました。使ったエネルギーは平地を時速4kmで3時間歩いたのと同じ(+アルファ?)でした。……とはいえ、下りにかかると、とたんに事故が心配になります。疲れている(腹が減っている?)、体が冷えている、岩が濡れている……と、小さいけれど悪い条件がいくつか重なっているのです。それにメンタルの問題も重要かもしれません。さらにこの傾斜面ではちょっとしたミスが「ちょっと」ですまないというケースもありえます。
*こういう場面では「ちょっと」真剣に、みなさんの動きを観察します。先頭が見えないと心配ですから、胸騒ぎがするようなら大声で先頭をストップさせます。リーダーとしての役割はまず、異変の起こりやすい場所で、異変を感じることだと考えています。直接指導したら安全……かどうかはわかりません。これが普通の場合なら私が先頭で下ってみなさんにとって問題のある場所を見つけたら安全策を考えます。しかしここでは「登れたところは下れる」と信じているので、その「下り」を意識してもらえさえすればいいはずです。かっこよくポン、ポンと下る人がいたら、恐怖心がそうさせている可能性が大きいので、そこのところを見ようとします。
【撮影】2日目=12時08分=伊藤 幸司
*ここはロープがついていますね。ロープに頼る、その頼り方を見るのが重要です。余力があるかどうか、安全第一なのか、いくぶん恐怖心があるのか、つまり行動に余裕があるかどうか、が重要です。
【撮影】2日目=12時11分=伊藤 幸司
*これは私が緊張する場面ですね。濡れた木の階段、滑りやすい場合だと危険性は飛躍します。ストックを使えるのですから、正しく立てるかどうかです。
【撮影】2日目=12時17分=伊藤 幸司
*登るときにはちょっと大きめの段差も下りになると難易度が上がります。最悪は「裏返って」「登りの逆モーション」で下ると決めて、それから「そうせずに」下ることを考えればいいのです。この場合はストックが最高の状態で使えています。
【撮影】2日目=12時24分=伊藤 幸司
【撮影】2日目=12時50分=伊藤 幸司
*9合目のすぐ上で(行動記録の時計では)12時25〜30分休憩して、それぞれがなにか食べ物を口に入れ、水分も補給しました。体も気持ちも切り替えて、いよいよ本格的な下りモードになりました。
【撮影】2日目=12時53分=伊藤 幸司
【撮影】2日目=13時03分=伊藤 幸司
*「7.1合目」の展望地点は、全く何も見えない状態でした。
【撮影】2日目=13時19分=伊藤 幸司
*同じ道を下ると風景がぜんぜん違います。こんな明るい道だったんだ、と思いながら下っていきます。
【撮影】2日目=13時21分=伊藤 幸司
「かいもん町青年団」が登山道整備にあたった記念碑ですね、これは。しかし「開聞町」は今はなく、2006年に指宿市、山川町と合併して指宿市になったそうです。だからこれは15年以上前のものということになります。
【撮影】2日目=13時21分=伊藤 幸司
*こういう道は、ストックがあるだけで足元の安全性は飛躍します。下りでは深い前傾姿勢をつくるためにストックを「3歩前」に突いて、体をまっすぐ下ろしていきます。でも日本ではストックが岩場で使う道具として作られているということを認める人が少ないので、こういう場面では石突の刃物が使えないうえに、ゴムキャップなどをはめていると岩では滑って非常に危険です。
【撮影】2日目=13時26分=伊藤 幸司
*なんだかもう、岩っぽい登山道は終わったようです。山頂を出たのが12時ですから、1時間半のところにいます。糸の会では計画書では下りも登りと同じ計算をしますから3時間としてあります。でもタクシーに迎えに来てもらうのでできればドンピシャの時間を伝えたいところです。
*私が「平均的な登山道」とする状態なら、通常、下りは登りの7割の時間で計算できます。登山地図などのコースタイムも多くはそういう計算をしているはずなので、下りのコースタイムが登りの7割なら「標準的な登山道」と考えていいのです。もし登りと下りのコースタイムがほぼ同じなら、そのルートには岩場だとか、渡渉だとか、なにか難しい場所があると考えていいのです。
*下りは7割でいい山だとわかっているのに、なんで登りと同じ時間にしてあるかというと、それにはリーダーとして私が使える「予備費」が入っているのです。登りで疲れた人がいると、当然、山頂到着は遅れます。その遅れを下りで取り戻そうとしたりすると事故が起こりやすくなります。生きるの死ぬのという事故ではなく、下山がどんどん遅れていくというようなことや、転びかけて、足を痛めたりする人が出るというようなことが起きやすくなります。疲れというのはみんなに等しくたまるのではなく、だれかひとりに集中します。私はその遅れを取り返すためにそういう人のザックを背負うために、以前は100リットル級のザックで、さらに雨蓋を上に引き上げて積み上げられるようなザックを使っていました。ただ単純に、下りでいやな遅れ方をしないために。
*予備費は経費がかかり過ぎた場合の補てんに使えますが、もし今回山頂での展望がよければ、下りの3時間の3割の1時間まで、山頂で展望休憩したっていいのです。足元に池田湖があって、その先に桜島があって、さらにその先に霧島連山があったりしたら、おそらく、たぶん、屋久島だって見えるでしょう。そういう(人生での)得難い体験を予備費を前倒しして買うことだってできるのです。
*でも今回は帰路の飛行機の時間をにらみながら、入浴して、できればちょっといい夕飯を食べたいというのが第一。だからここまで来たらもう、帰りのタクシーとできるだけスムーズに合流したいと考え始めていたのです。
【撮影】2日目=13時26分=伊藤 幸司
*シキミ、じゃなくって、アオキがありました。
【撮影】2日目=13時26分=伊藤 幸司
【撮影】2日目=13時31分=伊藤 幸司
*また、この、川底状の登山道になりました。人の背丈分だけ、掘り下げられていることがわかります。
【撮影】2日目=13時39分=伊藤 幸司
*かと思うと、また木の根が大きな段差を作っているところもありました。
【撮影】2日目=13時49分=伊藤 幸司
*ふたたび5合目の展望台に着いて、13時40分から10分間の休憩をとりました。登りで1時間かかったところです。登山道は、もうなんの問題もありませんが、焦った気分で下ることはありません。下り始めてからちゃんとした休憩をとっていなかったので、あえて気持ちをリセットするための休憩。食べ物の残りがあればここで食べちゃったほうがいいという休憩でした。展望があれば心豊かに休めたでしょうが……。そして私はここでタクシーに連絡しました。
【撮影】2日目=13時56分=伊藤 幸司
*もう、みなさんはどんどん下って行きます。
【撮影】2日目=14時01分=伊藤 幸司
【撮影】2日目=14時06分=伊藤 幸司
*登りのときには気づきませんでしたが、けっこうおどろおどろしい景色なんですね。
【撮影】2日目=14時09分=伊藤 幸司
*まあ、こんな感じの道を登っていったんですね。
【撮影】2日目=14時14分=伊藤 幸司
【撮影】2日目=14時18分=伊藤 幸司
*そう、こんな道もありました。いまは遠い昔のようですけれど。
【撮影】2日目=14時19分=伊藤 幸司
【撮影】2日目=14時23分=伊藤 幸司
*かなり人工的な雰囲気の森になってから、まだか? まだか? という気分になりました。登り始めに、こんな長いアプローチがあっただろうか、なんて。
【撮影】2日目=14時31分=伊藤 幸司
*5合目から40分、山頂から2時間30分で出発点の2合目登山口へと帰り着きました。下りは登りの時間の8割でした。
【撮影】2日目=16時09分=伊藤 幸司
*私たちはタクシーで指宿に向かい、17時に休暇村指宿で入浴、雨でなんとなく体が濡れていて、早く入りたかったので、まずは風呂、という感じになっていたのです。できればいわさきホテルで入りたかったのですがコロナ対策ということで日帰り入浴は不可、列車の時刻を見ると指宿発16時40分の鹿児島中央駅行きがあるので、そこから逆算して行動しました。これは湯上がりに休暇村指宿のロビーから見た対岸の大隅半島です。
【撮影】2日目=16時19分=伊藤 幸司
*指宿休暇村の玄関に出ると、眼前にそびえているのは、白水館の庭からも見えた魚見岳(203m)でした。ここはダイヤモンドヘッドとも呼ばれているとタクシー運転手さんに聞いたのですが、じつは単に似ているからというミニサイズの〇〇アルプスなどと違って、水深が深くて潜水艦が航行できる鹿児島湾とこの岩山とをハワイに見立てて、ここで旧帝国海軍の真珠湾攻撃の軍事訓練が行われたというのです。まさに歴史の大舞台となるべきダイヤモンドヘッドに見立てた山という特別な存在であったというのです。
【撮影】2日目=17時50分=伊藤 幸司
*指宿からの列車が終点の鹿児島中央駅に着いたのが17時43分。駅を出て、駅前広場の向かいにあるバスターミナルに向かいました。地下道を使えばキョロキョロする必要はなかったのですが、こういう大都会に放り出されたような気分は味わえませんでした。
【撮影】2日目=17時51分=伊藤 幸司
*駅前広場から振り返ったお陰で、駅ビルの上にそびえる観覧車・アミュランをまた見ることができました。直径約60m、最大高91mだそうですから、もちろん城山も桜島も見えるんですね。
*営業は平日12:00〜19:45、大人500円、ゴンドラ借り切り1,200円だそうです。そして観覧車「アミュラン」のご案内によれば、建物の上にある観覧車は日本で5例目で他には大阪市、横浜市、松山市、沖縄県とのこと。そして親切なことに————この観覧車には何と床も天井もベンチシートまでもが透明な「シースルーゴンドラ」を2個設置。高い所が大丈夫な方は、高さ約91mのスリルを是非ご体感ください。また身障者対応ゴンドラも2個設置。
車椅子のまま搭乗できるように入り口が広く、扉も両開きに。————だそうです。
【撮影】2日目=19時29分=伊藤 幸司
・鹿児島空港へのリムジンバスは、18時00分〜40分というバスが交通渋滞で15分遅れましたが、20時30分出発の飛行機には十分余裕のある到着になりました。チェックインのあと、土産物を買いあさりながらレストランへ。私は鹿児島県産黒豚の「黒豚ロースカツ150g」を頼みました。
【撮影】2日目=21時53分=伊藤 幸司
*20時30分鹿児島発→22時05分羽田着のソラシドエア80便が羽田空港に無事着陸しました。
*じつは搭乗口で出発直前に名前を呼び出されて7Fの席を(たしか)5Aに変えていただけないかという丁重なお願いをされました。夜間飛行ですから、もう私の興味は東京の夜景しかないと思っていたので、飛行機がどの方向から着陸するかはくじ運みたいなものだからと了解しました。すると私に与えられたのは5Aと空席のBとC。私が予約していた7Fの列には家族が乗ったようです。わかりませんが、それは共同運行するANAのお客さんに対する配慮だったかもしれませんが、私自身は気分を害するものではありませんでした。客室乗務員の方もわざわざお礼を言ってくれましたし……。
*この写真は、帰路で撮れたたった1枚の写真といっていいものです。離陸から着陸まで、完全に雲の上を飛んでいましたし、東京の雲も低く垂れ込めていて、着陸寸前にようやく街の灯りが見えただけです。
*今回の旅はこれで終わったのですが、私は鹿児島空港から36席のSAAB340Bという双発プロペラ機で鹿児島→松山→宮崎→長崎→宮崎→松山→鹿児島と飛んだことを思い出しました。1992年の日本エアシステムの機内誌の10月号で「JACの凛々しい新顔・サーブ機試乗」というので、航空写真のプロカメラマンに同行して文章を書きました。営業運行のために路線ごとに離着陸を3回以上しなければならないという試験飛行に同乗したのです。飛行機の内外の写真はもちろんプロカメラマンの仕事ですが、そこに1枚「宮崎から長崎へ向かう途中、11A座席から眺めた島原半島小浜付近(58ページ写真=伊藤 幸司)」というのを実にきれいに撮っています。JACという文字の入った主翼もうまく写り込んでいます。そういう写真を今回往路で、夢中になって撮っていたんだ、ということを思い出しました。これは私の自写像です。