山旅図鑑…し
戸倉・城山(2020.12.15)
フォトエッセイ・伊藤 幸司

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★糸の会 no.1202
2020.12.15(火)
戸倉・城山(434m)



戸倉・城山
【撮影】09時07分=伊藤 幸司
気持ちのいい朝です。JR武蔵五日市駅から朝の光の中に出ていきます。
スガノコロナ対応企画として、千葉からの皆さんは千葉始発の特急「あずさ3号」で都心部を飛び越して立川へ。以前は八王子までほとんど満席だった「あずさ3号」の通勤客が激減してガラガラ状態とか。
西船橋→新松戸→南越谷→南浦和→武蔵浦和→北朝霞→新秋津→西国分寺とたどってくるJR武蔵野線は混んだり空いたり駅ごとにいろいろな状態だそうです。
問題は立川からのJR青梅線とJR五日市線でした。新宿、東京へ出る通勤客で混んでいるのは予想通りだとして、逆に青梅方面への車両もなかなかの混み具合です。本当は立川発の時刻を30分から1時間遅らせたいところです。
とはいえ、こういう光に出迎えられると、心が弾みます。

戸倉・城山
【撮影】09時18分=伊藤 幸司
JR武蔵五日市駅からバス通りを檜原村方面へ歩き始めると、すぐにこの「魚鶴」があります。夫婦でやっているうどん・そばの店で、女性客には「おしゃべりするな」みたい張り紙があって独特の雰囲気……でした。けっこう長いこと行っていないのは「売り切れ御免」の時間が早くなったからじゃないかと思いますが、一時期もう営業をやめたのかなと思うことがあって、計画に組み込まないようになりました。暖簾が出ていませんが午前11時から売り切れまでの営業だそうです。

戸倉・城山
【撮影】09時20分=伊藤 幸司
すごい色だなと思って撮ったのですが、よく見ると枝ぶりも変わっているように思います。赤色に特徴がある園芸種があるのかなと思っていろいろ調べてみましたが、よくわかりません。光の当たり方というより、地色がマッカッカなんですね。

戸倉・城山
【撮影】09時24分=伊藤 幸司
この上町という交差点を左に折れて秋川へと下ります。
曲がらずにまっすぐ行けば檜原村に入って南秋川に沿うバスは数馬行き(シーズン中の休日には三頭山登山口の檜原村都民の森まで無料のバスが運行されます)、北秋川に沿うバスは払沢の滝入口から白倉(大岳山登山口)、宮ヶ谷戸(御前山登山口)、小岩(浅間嶺登山口)などを経て藤倉まで。私たちにはバスの車窓から馴染みの道です。
このあたりも「檜原街道」と呼ばれるのかしれませんが、これは正式には「山梨県道・東京都道33号上野原あきる野線」で、上野原で甲州街道につながります。

戸倉・城山
【撮影】09時26分=伊藤 幸司
この道は秋川の谷に下っています。私たちは向こうの稜線を越えたところにある金剛の滝を目指しています。

戸倉・城山
【撮影】09時28分=伊藤 幸司
昨夜は冷えたらしく、車の屋根に霜が降りていました。シンプルな雰囲気のこの車は何かな? とよく見たら BUICK とありました。もう何十年も見ていない米国ブランドですね。カタカナで書くとビュイック。私はメーカー名かと思っていましたが、GM(ゼネラルモーターズ)のブランド名で、大衆車シボレーの上位だそうです。現役ブランドだというからえらい。
『ウィキペディア』の『ビュイック』によると起源は1903年で【現役の自動車ブランドとしてはメルセデス・ベンツ、プジョー、ルノー、フィアット等に次いで世界でも古参に数えられる】とのこと。
【ビュイックの起源は1903年まで遡る。イギリス系アメリカ人、デイヴィッド・ダンバー・ビュイックによってミシガン州フリントに設立された「ビュイック・モーター社」がその前身となっており、同社はOHVエンジンの開発によって売上を順当に伸ばしていたが、翌1904年にジェームズ・ホワイティングによって買収される。 ジェームズは同社の管理を新たに招聘したウィリアム・C・デュラントに委ね、デイヴィッド・ビュイック自身は保持していた同社の株を破格の値で譲渡して同社の経営より離れる。ウイリアム・デュラントは優れた経営手腕を持っており、販売網とサービスを強化したためビュイックは数年のうちにたちまち全米でも有名な自動車メーカーとなった。】ですって。
さらに、なんと【ビュイックは拡大を続ける中国市場で大きく成長を続けており、2006年には304,000台を販売し、本国アメリカの241,000台を大きく上回って、同ブランド最大の市場となった。】とのこと。

戸倉・城山
【撮影】09時29分=伊藤 幸司
いよいよ秋川。「あきがわ」と読みます。富士川を「ふじかわ」と読むのと似ています。国土地理院の地図で英語版のものを見ていたら「fujikawa」とあったので誤植を見つけた気分になったことがありましたが「あきがわ」も似たような衝撃でした。私は出版系のフリーランスでしたから、職業絡みではありましたけれど。
ともかく、朝のこの斜光線は「あきがわ」で思い出す光景になるだろう思います(いつまで覚えていいるかどうか心配なところではありますが)
これからまず、対岸の尾根を越えていきます。

戸倉・城山
【撮影】09時29分=伊藤 幸司
小和田橋から秋川の下流側を見ています。この流域は秋川渓谷と呼ばれ、川遊びのエリアとして有名です。本流(南秋川)の源頭は三頭山にあって、御前山と大岳山の南斜面の水を集めるのが北秋川……なんですが、ダムがあるという認識はありません。日本の河川のほとんどがダム湖からトンネルで水を抜かれて計画放水の水路に成り下がっているのですが、秋川のこれが「素顔」だとすると、そのこと自体がなかなか貴重だといえそうです。
『ダム、が好き』というブログに『秋川』がありました。
その写真レポートによると1-小庄用水堰、2-秋川橋下流落差工、3-山田用水堰、4-第三堰、5-引田用水堰、6-下代用水堰、7-一堰、8-南郷用水堰、9-下南郷堰、10-2.5km落差工、11-一床止工、12−小川久保用水堰、13-高月用水堰。ダムはないようです。
【大きなダムが好き。
とりわけ発電ダムや秘境ダムが大好き。
川の小さな堰や水門も好き。
砂防ダムもそれなりに好き。】
という人が、ダムに触れていないので、やっぱりないのでしょうね。
すると、流量調節はどのようになされているのでしょうか。 ツイッターで「#秋川氾濫」と調べてみると、信じがたい動画が次々に出てきました。2019年の台風19号のときのツイートです。
【南乃砂@minachuuuu· Oct 12, 2019
東京都あきる野市の秋川。
まっっったく報道されていないけど、
15時半の時点でこれ。
もう少し上流は氾濫している。
お年寄りが多い地域。
どうか報道されますように。地域の小学校の体育館に避難は始まっているようです。】
【rrr@ rrr78922263・ 2019年10月12日
秋川、氾拡大してます!山田大橋キャンプ、ぼろが水面になっます。】
【シャヒ~ん@IIYONA_________·Oct 13, 2019
秋川最新情報
道ありません!!!!】
【@b_a_r_i_RK·Oct 13, 2019
檜原村役場って、かなり川面から高いところにあるのだけど、冠水ってことは、その下の住民が大変心配である。
山が溶け出したとか、恐ろしい話も聞こえて来た。】

戸倉・城山
【撮影】09時33分=伊藤 幸司
秋川の右岸(流れの右側)に渡って上流側にすこし歩くとき、この山が見えました。今日、この山が主目的なのですが、具体的な計画を考える段になるとあまりにも軽すぎて皆さんに叱られそうなので、以前訪れたことのある金剛の滝を加えたのです。この城山は標高434mですが、登山口が標高約250mですから比高は200mありません。

戸倉・城山
【撮影】09時34分=伊藤 幸司
私たちが越えていく尾根が見えてきました。写真を撮ったときにはわかりませんでしたが、正面の斜面に白い筋が横に伸びている、あのガードレールの道を登っていって、写真左上の林が突然終わっているようなところを越えていくのです。

戸倉・城山
【撮影】09時35分=伊藤 幸司
城山が見えていた道から、道標に従って左手に進みます。

戸倉・城山
【撮影】09時35分=伊藤 幸司
曲がり角に集められていたこれらの石塔はなんですかね。五輪塔……という雰囲気ですが、打ち捨ててあった五輪塔を拾ってきてここに置いたというのでしょうか。
「五輪塔」で調べてみると墓石屋さんの宣伝がずらずらと出てきます。基本的には「供養塔・墓塔」だそうですが『ウィキベディア』の『五輪塔』には【五輪塔は下から四角(六面体)・丸(球)・三角(四角錐または三角錐)・半丸(半球)・上の尖った丸(宝珠型)または尖っていない団子型(団形)を積み上げた形に作られる。】それを【下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形または団形=空輪(くうりん)】というのだそうですが、五輪塔において円形の「水輪」が不可欠のようです。ここにはそれがありませんね。

戸倉・城山
【撮影】09時36分=伊藤 幸司
こういう穏やかな石像を見ると、私などは単純に「お地蔵さん」と考えてしまうのですが、そうする根拠はありません。そこでまた『ウィキペディア』で『地蔵菩薩』を見てみるとありました。
【一般には剃髪した声聞・比丘形(僧侶の姿)で白毫があり、袈裟を身にまとう。装身具は身に着けないか、着けていても瓔珞(ネックレス)程度。左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ形、または左手に如意宝珠を持ち、右手は与願印(掌をこちらに向け、下へ垂らす)の印相をとる像が多い(この場合、伝統的に彫像であることが多く画像はまれである)。】

戸倉・城山
【撮影】09時36分=伊藤 幸司
下から見たときにゆっくり伸び上がっていくガードレールのあったこの道は、とてつもなく楽しい道になりました。彩りがいい、光がいい、青空もいい、風がなく、気温も適温。いうことなしの散歩道でした。

戸倉・城山
【撮影】09時36分=伊藤 幸司
山国の集落は渓谷沿いに点々と……ということになりますが、このあたりの集落はそれとちょっと違うように思われます。なにかよくわからないのですが、ゆったりと、というのかおっとりというのか、豊かな感じがするのです。
『ここが東京!? 「秋川渓谷とその周辺版」』はネクストリップという会社の『秋川渓谷事務所』がサイト運営しているようですが、その『歴史』に「あきる野市ページ引用」という文章がありました
【あきる野には、豊かな水と自然の中に早くから文化がひらけ、縄文時代から古墳時代の考古学研究史に残る遺跡が多く発掘されています。 阿伎留神社は、平安時代の「日本三代実録」と「延喜式」に記載されている古い神社です。また、大悲願寺の「木造伝阿弥陀如来及脇侍千手観世音菩薩・勢至菩薩坐像」もこの時代の終わりごろに作られたと考えられています。 武蔵国は代表的な馬の産地で、四つの勅使牧の一つ小川牧は、小川郷(秋川・平井川流域)を中心にした牧でした。 鎌倉時代、この地域は秋留郷と呼ばれ、武蔵七党のうち西党に属する小川氏、二宮氏、小宮氏、平山氏などが鎌倉幕府の御家人として活躍していました。また、室町時代になると、武蔵総社六所宮随一の大社である二宮神社は、小川大明神と呼ばれていました。 戦国時代の終わりごろからは、伊奈と五日市に「市」が開かれ、江戸時代になると木材は、秋川・多摩川を筏で流し江戸に送っていました。江戸時代末期には炭の年産20万俵、筏2000枚を数えました。このほか、絹糸を泥染めした黒八丈は、柔らかく深い艶のあることから帯や羽織の衿などに珍重され、別名「五日市」と呼ばれました。 江戸時代の集落は、秋川・平井川の段丘面や草花丘陵縁辺などに点在し、現在の市域の字である32か村となって明治時代に至っています。】

戸倉・城山
【撮影】09時37分=伊藤 幸司
私たちは通常、舗装道路はあまり好きではありません。登山道の最大の価値は「不整地」にあって、自動車やオートバイでいうオフロード・ツーリングに当たると考えます。足元にいろいろな変化がありますが、舗装路のように足を痛める危険は少ないと感じます。だから下りの林道で舗装路が登場したら、私は「きちんと、早歩きをしましょう」と言うことにしています。ダラダラ歩くとたちまち足を痛めるからです。
ところがこの道は歩きやすくて、楽しくて、記憶に残る道でした。

戸倉・城山
【撮影】09時38分=伊藤 幸司
こういう写真はたいてい夕方の下山時なんですが、まだ朝のうち、これから入口にさしかかろうという段階です。

戸倉・城山
【撮影】09時41分=伊藤 幸司
登場したのは臨済宗・龍角山広徳寺。山門前にあった東京都教育委員会の解説板によると【江戸時代には幕府から40石の朱印地が与えられ、約1万2000坪の境内地を有しました。】とのこと。
朱印地というのはいわば寺領の安堵。「四公六民」だとすれば寺院が16石を徴税できるということですが、それでどうなるというものでもないようです。でもこの「40石」は寺院の格付けとしては相当のものだったようです。

戸倉・城山
【撮影】09時43分=伊藤 幸司
広徳寺山門には「正願閣」という額が掲げられています。その文字の鮮やかさに加えて、屋根の下面のいろいろな設えがかなり複雑、かつ豪華という感じがします。
この建築構造についてどこかに手頃な解説があるかといろいろ探しましたが、ネット上で見つけることは、まだできていません。そこで現地にあった解説板の、少々難しい文言をそのまま書き写させていただきます。
【市指定文化財・広徳寺山門
かや葺、寄棟造の三間一戸二重門である。桁行は6.36m、桁行は3.64mあり、礎石は自然石。
下層より上層のほうが大きく、枓栱(ときょう。斗=ますと肘木=ひじきとを組み合わせたもので軒の荷重を支える)はきれいに組まれ、垂木(たるき。屋根の傾斜を表現する角材)の線も美しい。
前面は通路を含め3つに区切られているが、太い柱と腰貫(こしぬき。窓の下に用いられる貫=ぬき。柱等の垂直材間に通す水平材)が安定感を保っている。柱脚の礎盤(そばん。柱と基礎の間に置く石または木の材)は木製である。
階上は回廊がめぐり、中央が四扉にあけられ、左右に花灯火窓が一つずつある典型的な禅宗様(唐様=からよう)の山門である。
楼上に「正眼閣」(しょうげんかく)の横額が掲げられており、その額、ならびに建物全体の状況から江戸中期をさかのぼらない建築物と推測される。簡素で調和のとれた建物で、境内に落着いた雰囲気を与えている。
平成3年秋より、永く保存し、公開することができるように全解体修復工事がされた。
昭和44年7月10日指定 あきる野市教育委員会】

戸倉・城山
【撮影】09時44分=伊藤 幸司
葉を落として痛々しく見えた2本の大銀杏ですが、黄葉の写真を見ると素晴らしいものなんですね。ドンピシャの時期だったらわざわざ出かけて見るに値するもののようです。

戸倉・城山
【撮影】09時45分=伊藤 幸司
これは本堂の裏側です。江戸時代の諸堂が健在で、茅葺きの屋根が健在なのは総門、山門、本堂、玄関、庫裏。

戸倉・城山
【撮影】09時54分=伊藤 幸司
これが本堂。右側に続くのが玄関だと思います。

戸倉・城山
【撮影】09時54分=伊藤 幸司
広徳寺では09時45分から15分休憩しました。わざわざ日陰でみなさん休んでいるので暑いほどの日だったかというとさにあらず。9℃ですから、風があったら陽だまりを探したでしょうね。

戸倉・城山
【撮影】09時59分=伊藤 幸司
休憩が終わり、出発です。
鐘つき堂があり、2本の大銀杏の陰に山門があります。

戸倉・城山
【撮影】10時00分=伊藤 幸司
山門のところにある大銀杏は丸裸。枯れ木のような背中を見せながら、細い枝を無数に伸ばしていくようなエネルギーを発しています。つい何日か前には、これがまっ黄色の巨大な塊だったとは想像ができません。

戸倉・城山
【撮影】10時02分=伊藤 幸司
これは総門。惣門と書かれる場合もあるそうですが、城や寺院、あるいは大きな邸宅などが敷地正面に構える門のこと。入るときには脇の通路からスルリと入ってしまって写真も撮っていませんでした。

戸倉・城山
【撮影】10時05分=伊藤 幸司
広徳寺を出た途端、このゲートがありました。次のような注意書きがありました。
【この白い線には、電圧8,000V電流65mAの電流が流れています。
触れると大きな電圧ショックがあります。これは、静電気ショックと同じでイノシシ被害の防除に効果があります。
人は絶対に触れないでください。】

戸倉・城山
【撮影】10時09分=伊藤 幸司
ゆっくり登っていくと、明るい丘の上という雰囲気の場所に出ました。下から見上げたときに尾根筋の、林の切れ目と見えた場所がここでした。

戸倉・城山
【撮影】10時09分=伊藤 幸司
このあたりは伐採されて展望台になったようです。足元から切り拓かれた斜面を下ると秋川に出るのですが、その流れが左に曲がろうとする手前、流れの中に白い構造物が見えます
09時29分の写真で引用させていただいた『ダム、が好き』というブログの写真と比べたところ「1-小庄用水堰」だとわかりました。
すると私たちが渡ってきた小和田橋は写真左端の木の陰にあるはずです。
秋川の流れはすぐに左に大きくカーブするのですが、左にどこまで行くのかというと写真左上部、町並みの最上部にあたるところ、木に半分隠された感じで青っぽい屋根の建物があるんです。オリジナル画像で見るとそれが武蔵五日市駅で、高架の線路が入ってくるホームの屋根だとわかります。私たちはあそこから約1時間でここまで来たのです。
ちなみに秋川は武蔵五日市駅のすぐ近くまでいってから右に大きくカーブして、そのカーブがまだなかった時代があったような顔つきで下っていきます。

戸倉・城山
【撮影】10時09分=伊藤 幸司
これは伐採地の脇に残された自然林。何気なく撮ったのですが、画面中心から左下に人工物が写っています。オリジナル画像を見ると階段状の登山道ですね。
さてそこで、登山ルートを細かく載せている『新版・奥多摩登山詳細図(東編)』(作成・解説・踏査 守屋二郎。吉備人出版・2020年)を見ると、御岳神社というのがあって、そこから小和田橋のほうへと下る道があるようです。「道標のない登山道・小径」として描かれていて、しかもこの写真を撮っている場所あたりから下って行けるようなのです。

戸倉・城山
【撮影】10時16分=伊藤 幸司
私たちは北側斜面から尾根を越えて、南側に下ります。今日はじめて、鬱蒼とした森を歩く感じです。

戸倉・城山
【撮影】10時17分=伊藤 幸司
特別に意味を感じて撮ったのではありませんが、このちびっこのツタにとっては、巨大な森林の中の明るい広場なんだろうな、という感じがしました。

戸倉・城山
【撮影】10時23分=伊藤 幸司
私たちは秋川の支流、逆川へと下っていきます。計画書に載せたシミュレーションマップでは赤丸2個が少し離れて並んでいる部分です。モノサシで測ってみると勾配は60分の50、約80%で約40度、つまり植林地としてはもっとも急斜面といえるところを斜めに下っていきます。道がしっかりしているので歩きやすいのですが、ときどき段差が大きくなります。ダブルストックのない人はちょっと苦労していました。じつはあとでここを登り返して、途中から城山への道をたどる予定です。

戸倉・城山
【撮影】10時27分=伊藤 幸司
境川の川底に出ました。右側に見える石積みが砂防ダムですから、ここを水が流れることもあるんだと思います。

戸倉・城山
【撮影】10時28分=伊藤 幸司
「黒い花びら」というのは昔聞いた歌ですが、黒い枯れ葉がこんなふうに。なんだかモジャモジャした枯れ枝の木も撮りましたが、わかんないでしょうね、私には。

戸倉・城山
【撮影】10時29分=伊藤 幸司
逆川の砂防ダムの脇の道を進んだように思っていましたが、じつは川そのものがほぼ直角に曲がっていて、私たちはいま、水のない逆川を遡っているのです。写真を見返す段階でそのことに気づきました。

戸倉・城山
【撮影】10時30分=伊藤 幸司
小さな滝が現れました。名前がなければ私好みの箱庭滝となるのですが、あるんです、名前。金剛の滝の「雌滝」(落差約4m)だそうです。
でも、この写真では石を並べた細い道と、先を行く仲間の背中のありようが思いっきりミステリアスですよね。岸壁の中に、ス〜ッと吸い込まれて行くんです。
ネット上でいろいろ写真を見ていたら、この白い道だけが川面に浮かんでいるような日があるんだとわかりました。ここは逆川の川床なんです。そうすると、前の人の背中は、もっとあやしい感じになりそうです。

戸倉・城山
【撮影】10時31分=伊藤 幸司
前の写真のミステリアスな仲間の背中は、この「ひと専用」の小さなトンネルに次々に吸い込まれていたのです。これが金剛の滝の「洞窟潜り」だそうです。
でもなにか不思議なんですよね。潜(くぐり)戸のくぐりだけでなく、潜り(もぐり)で作っちゃったという曖昧さを感じたのです。この手彫りのトンネルには遊び心も紛れ込んでいるように感じました。遊園地のお化け屋敷の入口みたいな……。江戸時代の滝修行の修験者が作ったという説もあるようですが、私はまだ確認できていません。

戸倉・城山
【撮影】10時32分=伊藤 幸司
トンネルを抜けると行き詰まりの滝でした。この写真にはほぼ中央に小さな石像が写っていますが、私にはあまり関心が向きませんでした。歩いていける場所にあったのに。
帰ってから調べていると、それが滝の名の由来となった金剛力士像ということです。岸壁に直接彫られたらしいのです。なんだかトンネルと似たような、控えめというか、素人っぽいというか、本人には楽しいシゴトだったんだろうなといおうか。……なかなかいい滝ですよね。

戸倉・城山
【撮影】10時32分=伊藤 幸司
水量の多いときに表情をどう変えるかわかりませんが、この微妙な水の表情はなかなかのものではないでしょうか。真っ直ぐ落ちる直情的な滝にはないものがあるんですね。

戸倉・城山
【撮影】10時33分=伊藤 幸司
ここにはトンネルの上に階段が刻まれていて、高みの展望台がありました。道はさらに上に続いていましたが、そこは通行止めということで。

戸倉・城山
【撮影】10時34分=伊藤 幸司
トンネルを掘った人がこの展望台まで作ったんでしょうか。ともかく、滝を見るときにいろいろな場所へと動けるのはとてもありがたいと感じます。

戸倉・城山
【撮影】10時36分=伊藤 幸司
展望台から下って、トンネル出口へ。修験道の霊場としてはどうかな? というのが素人の私の印象ですが、このひそやかな滝を余生の楽しみとして世に開放したいと企んだ人がいたのなら、とてもいい勝手連だったと思うのですが。

戸倉・城山
【撮影】10時38分=伊藤 幸司
トンネルから抜け出る風景です。ちょっと後ろ髪をひかれる思いになったのは事実です。幼い子どもだったら忘れられない体験となるかもしれない、と思いました。

戸倉・城山
【撮影】10時39分=伊藤 幸司
ふたたび逆川の河床を歩いて来た道を戻りました。

戸倉・城山
【撮影】10時46分=伊藤 幸司
10時20分から下った杉林の急斜面を登り返しているときに、稲葉さんがフユイチゴを見つけました。私はこれまで意識したことがなかったのですが、冬に赤い実をつける野いちごだということです。私はとりあえず切り株に居場所を見つけたフユイチゴという気分で撮りました。

戸倉・城山
【撮影】10時48分=伊藤 幸司
さっき下った道を登っていきます。

戸倉・城山
【撮影】11時14分=伊藤 幸司
11時00分に先ほど下った道筋から分かれて「沢戸橋」方面への道に入りました。尾根筋をゆるゆると下りながらトラバースしていく感じです。

戸倉・城山
【撮影】11時15分=伊藤 幸司
フユイチゴの熟した実、といっていいでしょう。冬に実をつけるイチゴはこれだけで、けっこう食べられるという評判ですが、私は黄色いモミジイチゴしか口にしないので、わかりません。
その味について印象的な文章が見つかりました。
『身近な自然を撮る』の『フユイチゴ(冬苺) あの時の甘酸っぱさ』(2009年)です。
【昨年、晩秋の頃初めて出会った。
冬にイチゴの実がなるなんてとても不思議で、そしてとても嬉しかった。
だから今年も会いに行った。
地面を這うようにして蔓が伸びて、赤い点々が見え隠れしている。
あまりたくさんあったので、ひと粒いただく。
甘酸っぱさが口中に広がり、子どもの頃に食べていた野いちごの味を思い出した。
あの時の味とフユイチゴの味はまるきりそっくりだった。
子ども時分に戻ったような錯覚を一瞬覚えた。】

戸倉・城山
【撮影】11時16分=伊藤 幸司
これはナンテンでしょうか。『天草の植物の観察日記』に『ナンテン(南天)』(2016年)がありました。
【天草では山地に入ればナンテンは結構ふつうによく見かける植物です。
昔、連れ合いの実家に帰省したときに、義母がナンテンの葉の上にタイの刺身や赤飯を載せて出してくれたことを思い出します。
葉にはナンジニンという殺菌効果のある物質を含んでいるそうで、そう考えるとナンテンの葉の上に食物を載せるのはとても合理的なのですね。
ナンテンを難転と書いて、難を転じる意味から縁起がいいということで庭木によく植栽されています。】

戸倉・城山
【撮影】11時30分=伊藤 幸司
人里に出ました。これは広葉樹の林ですが、柵で囲って何かを生産しているようです。わかりませんでしたが、針葉樹林から抜け出た目には眩しく輝いているという印象でした。

戸倉・城山
【撮影】11時37分=伊藤 幸司
道標の目的地だった「沢戸橋」に出たはずなんですが、なんだか名もないこの橋ともうひとつ迂回させられて、沢戸橋に出たのです。これは金剛の滝から下る逆川で、もう一本は盆堀川のハズ。逆川が盆堀川に流れ込んで、その盆堀川が秋川に注ぐ手前で私たちはヒョイ、ヒョイと渡ったのは間違いないのですが、詳しい地図で確認しようとしてもよくわからないんですよね。沢戸橋はけっきょく、私たちに直接関係ないものでした。

戸倉・城山
【撮影】11時46分=伊藤 幸司
武蔵秋川駅から見たら「秋川の沢戸橋の先の本郷の入口」というところに飛び出しました。なんと正面に城山があるではありませんがか。ルートとしては城山南東尾根というのがあって面白そうですが、私は本郷という古そうな町並みを抜けて、北東側から登る城山神明神社コースというのにこだわりました。この写真でいえば右側の稜線あたりです。

戸倉・城山
【撮影】11時52分=伊藤 幸司
本郷集落の中心を抜けていく本郷通り。立派なお屋敷という感じで、寺院ではないようなので、古い庄屋みたいな存在かな、と思いました。
グーグルマップのストリートビューで見てみると沢戸橋バス停のところの長い石垣の家で、かなり広い敷地を現在まで維持してきた、ようです。

戸倉・城山
【撮影】11時54分=伊藤 幸司
これは茅葺屋根をガルバリウム鋼板で重ね葺きしたという例でしょうか。家によっていろいろでしょうが、300万円ぐらいででできるようです。以前糸の会にも参加していた方が、実家の屋根を葺き替えると2,000万円ぐらいかかると嘆いていましたが、クラウドファンディング事業の『REDYFOR』が『茅葺き屋根の修復、なぜ1000万円も費用がかかるの?』(2017年)というタイトルで旧東海道・丸子宿の老舗とろろ屋「丁字屋」の例をレポートしています。
【今回のプロジェクトの目標金額は1000万円。
とても高額なのは重々承知で、そういった疑問を感じるのも、当たり前のことだと思います。
今日は、この場をお借りして「茅葺き修復にかかる費用」についてお話できたらと思います。】
【来年、クラウドファンディングで集めたご支援をもとに茅葺の総葺き替えを行います。
その前に現状の健康診断を茅葺職人さんにしてもらいました。
実は「茅」という植物はなく、茅葺き屋根で使われている材料は主に「ススキ」になります。
この茅(ススキ)刈り作業が非常に大変な作業になります。
ススキが枯れてから鎌で丁寧に刈ります。
草刈り機だと早く刈れるのですが頭と元(根っこ側)が上下バラバラになり回収するとき大変です。
また、ススキだけが生えてる訳ではないのでヨモギやハギを取り除きながら回収します。
ススキは、一株辺り4本位しかないので広範囲で刈り一束にします。(一束約200~300本)
ごちゃごちゃになって束ねた茅をもう一度広げ、茅だけにして元を揃えて、大きさを同じにして縛り直します。
束にした時に元の位置が揃っていないと、屋根に置いてコテで叩いた時に内側に入っている茅がそのまま中に入ってしまいます。
私たちが手伝い刈ることは出来ますが、そのあと職人さんが手を加えないと屋根材として長くは持たないそうです。】
【そして今回行うのは「総葺き替え」。
茅葺き屋根の葺き替えは、村人の人と共に助け合い行われていた時代もあったそうです。
1ヶ月ほどかけて行う葺き替えるため、今では葺き替えを手伝える時間も人も確保しにくく、茅葺き職人に頼らざるおえないのが現状です。
そのため、高額な費用がかかるのです。】
【20年に一度を目安に葺き替えなければならない、茅葺き屋根。
少し手間ではあります。
しかし、そこまでしても残していく必要があるものだと思っています。
高度経済成長の真っただ中で、それまで当たり前だった寒くて不便な古い家は取り壊し、その代わり近代的な建物に替わる、そんなムードの世の中に12代目が時代に遡って残した、広重の絵と同じ茅葺きを、この歴史を、この先、何十年、何百年と残していかねばならないと思っています。】

戸倉・城山
【撮影】11時57分=伊藤 幸司
写真としてここに選んだわけではなくて、ひょっとしたらここで私たちの今日の予定が大くずれになったかもしれない「危険な出会い・その一」としてです。
小春日和という蕎麦屋なんです。「準備中」という札がなかったら、もちろん覗いてみて……ですが、是好の「お昼」ですよね。準備中じゃしょうがない、と思ったら、背中を見せている若者たち5〜6人が店に入っていくじゃあないですか。予約客なんでしょうね。そば好きの稲葉さんもまったく同じような気分だったと思いますが、覗いてみたい店なんですよね、こんなわかりにくい場所で店を開いて、遠方からの客をわざわざ引き寄せたいと10台の駐車スペースを併設……だそうです。そばよりも、まずは店主の顔をませていただきたい、ということです。
長くなりますが『YAHOO! ロコ』の『小春日和』の『aki*****さん』(2019年)のクチコミです。
【高齢者10名で田舎の蕎麦屋としか思わず、ハイクの途中で立ち寄った。古民家を移築改装した美しい建物で、内装も和洋折衷のセンスがうかがえる。ところが出迎えてくれた店主にびっくり。いかつい顔に丸坊主のいかにも職人風で、ビビってしまった。ところがいったん口を開くと、一転、親しみやすく、蕎麦のうんちくも豊か。蕎麦のこし、天ぷらのボリューム、サクサク感のレベルの高さに一同驚き。焼酎の蕎麦湯割りも、追加の蕎麦湯まで提供してくれ、薫り高いものであった。店の外まで見送ってくれた飲食店は生まれて初めてでした。食事と店主との会話を楽しむには最高です。足の便は悪いが、是非とも一度立ち寄ってください。バスだと、武蔵五日市駅から戸倉バス停2分。】

戸倉・城山
【撮影】12時03分=伊藤 幸司
蕎麦屋からわずか2分後に、私たちは「戸倉しろやまテラス」という標識に導かれて廃校になった戸倉小学校に上がったのです。「体験研修センター」とかいう施設になっていて、宿泊もできれば「昼食ランチ営業」というのもあり「人気のあげぱん」も「持ち帰りできます」というじゃあないですか。そこで坂の上にある校舎まで登っていったのです。すると休業。「どこにも書いてなかったじゃない!」などとつぶやきながら、戻るときの写真です。6羽だかのフクロウがこんな顔で迎えてくれたのに。「危険な出会い・その二」でしたかね。

戸倉・城山
【撮影】12時11分=伊藤 幸司
私たちは旧戸倉小学校入口、光源寺入口などをたどりながら、集落を見下ろす山側の道をたどっていました。この先に神明神社というがあるらしく、そこが登山口であり、下がると西戸倉バス停……ということはなんとなくわかっていました。

戸倉・城山
【撮影】12時37分=伊藤 幸司
じつはこの写真の左奥のほうから足早に下ってきて、この道標を見落として、道なりにバス通りまで下ってしまい、さらに少し行ってからバス道路を武蔵五日市駅方面へと引き返したら、坂下バス停、そして西戸倉バス停となり、そこから道標に従って登り返すと、この見落とした分岐にたどり着いたのです。
集落が完全に終わったところでバス通りに出てしまい、あと500mも歩いたら十里木バス停(今日最後に立ち寄る予定の瀬音の湯の最寄りのバス停)というところで引き返してきたのです。ロスした時間は20分ほどでしたが、なんでこの道標を見落としたかというと、私がトップを歩いていたからです。
ふつうなら最後尾にいて、トップの人の見落としなどを(かなりイヤラシく)チェックしているので、このあたりでは情報を見落とすはずはなかっただろうと思うのです。ところがこの集落の道ではいろいろ違う意見をいう人もいて、通常の「トップの判断力」と「コーチのチェック力」というシンプルな構造が崩れて、よくあるグズグズのチームになっていたのです。
私はメンバー何人かを引き連れてどんどん先行し、後ろには「コーチにはもう騙されない派」がひとかたまり。私もこの25年の間、ずいぶんいろいろ失敗を繰り返してきましたからそういう疑いの目を背中に感じて、突っ走ってしまったというわけです。じつはここは変形の四つ辻で、メインの道を下ればそこがドンピシャ「西戸倉バス停」だったのですが、あえて行けるところまで行ってみて、と大回りしてしまったのです。
西戸倉バス停から上がってきて、この交差点を「城山」へと進んだのです。

戸倉・城山
【撮影】12時44分=伊藤 幸司
蕎麦がだめ、「昼食ランチ」や「あげパン」もだめ、登山口をさがしてウロウロして、ようやく神明神社の社務所だか集会所の前でゆっくりと休憩しました。

戸倉・城山
【撮影】12時46分=伊藤 幸司
これが神明神社です。小さいけれど手入れが行き届いていて、地元の人々の信仰を受け止めているという厳かさがありました。

戸倉・城山
【撮影】12時47分=伊藤 幸司
ここでは石の積み方がなかなかのもんだな、と感じました。サラリとですが村の中を歩いてみて、江戸以前のことはともかく、明治時代以降になにか、村の力が盛り上がった時代があったような気配があり、その余力が現在まで引き継がれているんじゃないか、という感じがしました。ただの「感じ」ではありましたが。
帰ってネットで調べてみると、『西多摩、探してみ Nut-s!』に『第1歩「あきる野市・戸倉ってどんなところ?」』(運営:アイディアシェアリングサークルNut-s)というのがあって、「模範村」戸倉というのがありました。
【戸倉は明治末期から昭和初期にかけて、「模範村」として全国に名を知られた地区です。「模範村」とは、村政運営の優良な自治体のことを指し、戸倉は明治30年~40年代にかけて、内務省や東京府に優良自治体として紹介されています。そんな「模範村」戸倉の歴史で特筆すべきは、「地域教育」と「合理的な山林経営」です。

まずは「地域教育」についてです。戸倉では学制が布告された明治初期、村有林(村所有の山林)を売却し戸倉小学校(当初は戸倉学校)を設立しました。教員の給料や校費には村有林の売却金の余りを村民に貸し付け、その利子を充てていたそうです。このような経営は当時としては画期的なもので、神奈川県庁に表彰されています。利子で運用資金を捻出するというのは現代経営にも通じる経営方法ですので、明治期にそのような方法を実践していたのはさすがです。

さらに明治30年には、村民全戸加入の「戸倉村教育会」が発足し、学校教育だけでなく社会教育も発展していきました。「青年夜学会」と呼ばれる男性対象の団体では、農林業の研究や読書、武道の練習、講演会などを行い、一方女性を対象とした「淑女土曜会」では国語や数学、裁縫、生け花、茶事など、村民が学び続けられる機会を村が提供していました。その他にも、「戸倉村図書館」や「村民表彰」制度などを村で運営し、村民の教養の向上や地域の一体感を醸成していったのです。

次に村有林の合理経営についてです。戸倉村は明治30年頃から村の基本財産として造林事業を開始しました。村有林を土地の良し悪しで「甲乙丙」の3段階に分け、甲は村で植林管理、乙は村民の福利充実を目的として村と村民の分収林、丙は薪炭林(たき木や炭の原料とする木材を採取するための山林)として村で管理しました。つまり、土地のセグメント分けを行い、それぞれを最適な管理方法で運営していたのです。実に経営的ですね。「将来は無税村に!」という合言葉のもと、こうした山林経営によって、村財政の確立を目指してきたのです。自分たちの地域のことを自主財源でまかなうという考え方は、これからの地域の在り方のヒントになるような気がします。】

戸倉・城山
【撮影】12時56分=伊藤 幸司
なにか、ちょっと雰囲気が独特だな、と思いました。道幅がせまいのです。ふつうなら土留めを連ねた階段そのものは狭くても、その脇に踏み跡が広がっていて、どちらもそれぞれに豪雨による侵食があるでしょう。 これが里山の主要な登山道なら、地元の人たちの散歩道にもなっているはずですから、もうすこしすれ違いのしやすい余裕があって当然、だと思います。登りと下りのどちらがどう動くのが礼儀なのかわかりませんが、地元の人たちだけのものであれ、すれ違いの礼儀が問われる道だと思いました。

戸倉・城山
【撮影】12時57分=伊藤 幸司
ここにも足元にフユイチゴ。すでにいろいろなところで見てきたことは思い出しましたが、イチゴだとは知りませんでした。葉っぱがイチゴ的じゃありませんよね。

戸倉・城山
【撮影】12時57分=伊藤 幸司
やはり、こういう道がこの山が求めてきたものだったんだと感じます。ここなどはきちんとした道普請という感じで作られているので、登山道でも、参拝道でもなく、ひょっとすると登城路というようなイメージなんでしょうか。

戸倉・城山
【撮影】13時02分=伊藤 幸司
旧戸倉村が誇りとした村有林なのでしょうか。下から見上げたときの深い森がこれなんですね。

戸倉・城山
【撮影】13時10分=伊藤 幸司
道はようやくふつうの登山道という感じになりました。

戸倉・城山
【撮影】13時19分=伊藤 幸司
これが最後の登りでした。神明神社から30分弱で登りきってしまいました。比高200m弱ですから時速にすると約400m/hというところ。糸の会の標準スピードは、標準的な登山道で時速1km(高度差300m)というパワーですが、ここでは時速400m/hで歩けたということになります。もっと長い登りなら30分あたりで「1本」入れて、水を一口含み、ペースを落ち着かせるところでした。

戸倉・城山
【撮影】13時23分=伊藤 幸司
山頂に立つとすごい展望が待っていました。関東平野に向かってどこまでも広がっていく景色です。まず間違いなく、この見晴らしがこの戸倉城の最大の価値だったのではないでしょうか。
そのことにかかわる解説が『関東地方の城』の『戸倉城』にありました。サブタイトルは『北条流光通信網』
【山は比高差こそ100mそこそこではありますが、ほぼ独立峰で、かつ頂上付近は岩だらけの非常に急峻な地形となっていて、天然の要害ではありますが、その地形ゆえに大きな曲輪や大掛かりな防備は見られず、非常にシンプルな山城です。秋川渓谷の入り口というその立地条件ゆえに、北条氏にとっては重要な烽火台として利用されたのでしょう。 この戸倉城をはじめとして、西多摩から丹沢山系にかけては北条氏の城郭としては数少ない山城が連続する地帯になっていますが、八王子城、津久井城は別格として、その他の城は殆どが単なる烽火台、あるいは烽火台と根古屋式城郭の中間的な構造をしています。この戸倉城も山麓に居館を構えている点では、居住目的を持つ根古屋式の山城とも言えますが、こと山城の部分に関しては実態は烽火台、とくに甲州方面からの仮想敵に備えて設けられた、北条系光通信の一端を担うもの、と捉えるべきでしょう。】

戸倉・城山
【撮影】13時23分=伊藤 幸司
戸倉城から見える足元の風景はこれです。写真の中央右端に青い橋が見えますが、それが沢戸橋。その手前左に伸びる集落が本郷通りの家並みです。 武蔵五日市駅へ向かうバスは沢戸橋から画面中央に出て、向こうに延びているのがわかります。画面左から下ってくる山裾が二手に分かれて市街地に押し込まれているあたりにJR武蔵五日市駅があるようです。私たちは09時07分にそこを出て、4時間ちょっとでここまできました。つい先ほど、この足元の、集落の手前側の道を右から左へと歩いて登山口を探したのです。

戸倉・城山
【撮影】13時24分=伊藤 幸司
真正面に東京スカイツリーがありました。これなら狼煙通信だって可能かもしれません。……が戦国時代の北条氏にとって、ここから見えるのは武蔵野台地の緑の広がりと、背後の堂々たる房総半島だけだったかもしれません。

戸倉・城山
【撮影】13時25分=伊藤 幸司
沢戸橋です。私たちは画面右端の緑の斜面をトラバースしてきて、写真右端の中央あたりで広葉樹の森に出て、右回りの半円を描くようにして、小さな橋を2つ渡り、沢渡橋とその右にある家との間から舗装道路に出たのです。
そこから見上げると正面にあったのがこの城山、カーブして画面左へ延びてくる舗装路が本郷通り。その本郷通りは現在武蔵五日市駅から秋川沿いに上がってくる東京都道33号「上野原あきる野線」の旧道となっていて、バスはこの旧道に入ってくる、ということのようです。

戸倉・城山
【撮影】13時26分=伊藤 幸司
東京タワーからすこし右へと目を移すと、画面左に新宿の高層ビル街が出てきます。左右2本の柱で支えられているように見えるのが東京都庁。だったら当然、あの無料展望台からこちらの無料展望台も見えるはず、でしょう。残念ながら、東京タワーはビルの影に隠れていて、アタマがチョコンという感じです。

戸倉・城山
【撮影】13時27分=伊藤 幸司
写真中央の茶色のギザギザはなんだ? と思って調べたら、グーグルマップでわかりました。右の端っこに緑だか青だかの地に白文字の看板がありますが、あれがニトリ瑞穂店。するとあのノコギリの葉みたいなのは日野自動車羽村工場の実験サーキットをぐるりととりかこむ樹木の冬景色でした。工場は手前側の白い大きな建物です。
ところが問題。羽村工場の四角い敷地を囲っている黒々とした木はサクラなんですね。毎年「さくらまつり」をやっているようです。でもサーキットの外周にめぐらされたノコギリの歯のような、しかも枯れ色の高木が何なんなのか、ストリートビューで近づいてみたりしましたが、わかりません。

戸倉・城山
【撮影】13時30分=伊藤 幸司
ワ〜ッ、この日唯一の記念写真に入っていない人がひとり! どうしたんだろう。たった今、このキャプションを書こうとして、気づきました。山本さん、すみません。
これが糸の会12月15日の記念写真です。私を含めて参加者の内訳は千葉県民5人、埼玉県民1人、神奈川県民1人、東京都民2人です。まあ、この人数になればだいたいこんな配分で実施されています。
じつはこれが2020年度の最後になりました。4〜5月は完全休止して、6月から9月前半までに「アベノコロナ対応」を9回、9月後半からは「スガノコロナ対応」をここまで10回実施してきたことになります。そして12月19日に次のような【12月分実施中止のお知らせ】をすることになりました。
【コーチから12月分実施中止のお知らせ
スガノコロナの急拡大が続いています。
結論からいいますと、年内の2回(12/23岩殿山、12/28大洞山)を中止にさせていただきます。
私たちの行動自体にかかってくるリスクが大きくなっているとは思っていませんが、世の中の激震の中でその主張を通すという粋がりが、なにかだいじなことを失わせるという危険を「コーチ」としては感じています。
たとえばあれだけ盤石な医療体制が危険領域に入っているというドイツの情報や、危機管理において世界最高と誇っていた韓国のKシステムがもろくも破綻したという情報を見ると、相変わらず政治的感覚で戦時下を生き抜こうとしているニッポン国の、神風頼りのおみくじ運に今後も身をゆだねていいかどうか? 危機管理としてどうなんでしょうか? という若干悲観的な判断です。
そしてもうひとつ。年末・年始の「自粛的行動要請」に関わる今後のテレビ報道などで、交通機関そのものでの感染リスクがいろいろ語られるだろうと思います。出かけてしまえばなんとかなる、なんとでもなる……とは思いますが、ここはひとつ「出かけない」という意志を持ちながら、新聞、テレビなどでスガノコロナと自分との距離感を測ってみていただきたいと思います。
では来年最初の1/5高鶴山(JR外房線・安房鴨川駅)をどうするかですが、現時点では実施するつもりです。なんといっても交通環境がいいからですJRの特急のほかにJR千葉駅からとJR東京駅から高速バスが走っています。現地では田舎道を歩くだけ(だと思います)。あとは入浴と食事を最悪我慢して帰ると覚悟しておけば、交通機関での感染リスクをチェックするだけで安全性はほぼ確保できる……と考えています。(想像でいえば、高速バスを利用する人は亀田病院に関わる人たちが多いのではないかと思うので、車内の感染対策はより高いレベルではないかと好意的に想像しています。)
1/13琴平丘陵は西武秩父駅から歩いていける駅チカコースです。西武秩父線に加えて東武東上線やJR高崎線熊谷駅からの秩父鉄道も利用できます。
……というわけで、来年の歩き初めは、とりあえず「計画通り」としておきたいと思います。
一方的にして勝手ながら、良いお年をお迎えください。
【追伸】じつはこの冬には温かいものを作りたく、新しいガスバーナーを購入しました。人数や行動内容にもかかわりますが、どこかで「干物パーティ」をやりたいと思っています。
2020.12.19 伊藤 幸司】

戸倉・城山
【撮影】13時37分=伊藤 幸司
稲葉さんの前の写真(13時33分撮影)に写っている一番左の山がこれ。まさか御岳山(929m)とは思いませんでしたが、御嶽神社ですね、写っているのは。前の写真で御岳山の右に写っているまろやかな山が日の出山(902m)だと思います。

戸倉・城山
【撮影】13時48分=伊藤 幸司
城山から荷田子(にたご)峠への道は地図を見る限りルンルン気分の尾根道と想像していましたが、まさにそのような気分で始まりました。

戸倉・城山
【撮影】13時49分=伊藤 幸司
ルンルン気分かと思っていたら、ごくごく小さなアップダウンが連続する、なかなか歯ごたえのある尾根道だということがわかってきました。

戸倉・城山
【撮影】13時53分=伊藤 幸司
糸の会のシミュレーションマップでは1/25,000地形図上で、登山道が標高50mごとの等高線(計曲線)を通過するごとに半径4mm(実際の直径100m)の円を描いています。その丸がひとつ空きで並んでいれば傾斜は50/200(約14度)とわかります。この部分はおおよそそのような下りのはずでしたが、そのなかに50mごとの等高線に引っかからない小さなアップダウンが潜んでいたのです。

戸倉・城山
【撮影】13時54分=伊藤 幸司
地形図上では送電線を2本くぐります。これは13時33分の稲葉さんの写真に見える500kv送電線の鉄塔です。さすがに巨大です。

戸倉・城山
【撮影】13時55分=伊藤 幸司
送電線鉄塔の下はみごとなススキのジャングルでした。一瞬でしたけれど。

戸倉・城山
【撮影】13時57分=伊藤 幸司
2本目の送電線をくぐるとき、振り返ると、先ほどの500kv(50万v)送電鉄塔がありました。あちらは「超々高圧送電線」こちらは……わかりませんが、鉄塔に張られた高圧送電線は2万v以上であり、17万vを超えると送電線下の土地利用に制限が加えられるそうですから、山並みを飛び越えてくるような送電線は公称電圧27.5万v、22万v、18.7万vのどれかなんだろう、と思います。

戸倉・城山
【撮影】13時59分=伊藤 幸司
1分前に十里木への下山路の分岐がありました。山頂(434m)から標高差で100m近く下った鞍部でした。ということは、そこから登り返すのです。地形図には391mという水準点がありますが、そこで「盆堀山」というプレートを見ることになります。13分後のことですが。

戸倉・城山
【撮影】14時02分=伊藤 幸司
ただの登りではなかったですね。カメラの記録によれば、これが3分後です。

戸倉・城山
【撮影】14時11分=伊藤 幸司
そしてその9分後にはかなり登りつめています。

戸倉・城山
【撮影】14時14分=伊藤 幸司
14時12分に標高391mの無名峰(盆堀山)を通過すると、もちろん、ピークを通過したのですから下りになります。手元の地形図によればおよそ500m(水平距離)先で標高400mの等高線を越えるので、そこまでは標高350mまで下らず、400mを超えない平坦な尾根歩きとなる予想です。

戸倉・城山
【撮影】14時19分=伊藤 幸司
1分後に「城山から1.1km、荷田子へ1.4km」という公式の道標が出てくるのですが、これはその1分前に突如現れた社。然るべき場所という感じのまったくないところでした。

戸倉・城山
【撮影】14時35分=伊藤 幸司
山頂を出たのが13時40分でしたから、標高400m等高線への手前で14時30分から5分間の休憩。再び登り始めたところです。

戸倉・城山
【撮影】14時37分=伊藤 幸司
地形図上では、標高400mの等高線が3つ並んでいます。水平距離300mほどの区間はほとんど標高400mという超平坦ルートのはずですが、ここでも「標高400mと350mの間」での小さな下りと小さな登り、なんですね。

戸倉・城山
【撮影】14時39分=伊藤 幸司
落ち葉がきれいに散っているなぁ、なんて感じる余裕も出てきました。地形図情報では縦走路も大詰めです。

戸倉・城山
【撮影】14時40分=伊藤 幸司
アップ&ダウンが永遠に続くような気分はこの城山が扇の要となっている戸倉三山でも体験できます。たぶん今回参加のみなさん全員が体験済みだと思うのですが、あちらが扇の先の広がった円弧なら、こちらは点のようなカナメの部分。ミニサイズながら似たような「永遠」感を味わわせてくれるという点で、入門編としてはいい山だな、と思います。

戸倉・城山
【撮影】14時43分=伊藤 幸司
見えました。戸倉三山の臼杵山(842m)です。これまで戸山三山では今熊山(505m。金剛の滝から登れます)→刈寄山(687m)→臼杵山と巡って、元郷バス停へと下っていました。こちらへ下っても同じくらいでしたかね。

戸倉・城山
【撮影】14時56分=伊藤 幸司
荷田子(にたご)峠に着きました。ここもほぼほぼ標高400mなんです。ここから一気に、標高約250mの荷田子バス停へと下ります。

戸倉・城山
【撮影】14時58分=伊藤 幸司
待ちに待った、小気味良い下りが始まりました。

戸倉・城山
【撮影】14時59分=伊藤 幸司
下って、……

戸倉・城山
【撮影】15時01分=伊藤 幸司
下って、……
ちなみにピッケルを持った岡田さんは、糸の会に参加するのはリハビリ(トレーニングではないそうです)のためとか。この冬もクライミングに出かけるので、そのザックをもって出かけてきただけとか。ちなみにこの城山のレポートは『タンポポの花の山登り&ロッククライミング』に『戸倉城山 434m 武蔵五日市駅より 2020.12』にあります。

戸倉・城山
【撮影】15時02分=伊藤 幸司
下って、……

戸倉・城山
【撮影】15時08分=伊藤 幸司
沢筋に降りて緩やかになって、……

戸倉・城山
【撮影】15時09分=伊藤 幸司
里の気配が濃厚になって、……

戸倉・城山
【撮影】15時16分=伊藤 幸司
防獣柵を出たのでした。

戸倉・城山
【撮影】15時17分=伊藤 幸司
稜線上の十里木への下山路分岐で気温は8℃でした。それほど寒いと思いませんでしたが、荷田子の道端には霜柱が立っていました。

戸倉・城山
【撮影】15時22分=伊藤 幸司
15時20分に荷田子(にたご)交差点を渡って、この乙津橋で秋川を渡りました。09時30分に小和田橋を渡ってから、私たちは秋川の右岸にいて、付かず離れず上流に遡ってきたわけです。ご苦労さまでした。

戸倉・城山
【撮影】17時12分=伊藤 幸司
15時35分に瀬音の湯に着いて、入浴と食事。17時36分に瀬音の湯に立ち寄るバスで出ることにしました。

戸倉・城山
【撮影】18時50分=伊藤 幸司
これはJR立川駅構内の「ドリップマニア」で。19時42分発の千葉行き特急あずさ50号を待ちました。通常はそれに乗る人は後からゆっくり立川駅へと向かうのですが、今回は立川駅で時間をつぶすことになったのです。



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