発見写真旅・展(70)――2015.5.19-20 album 京都ハイキング 発見写真旅・展(70)――2015.5.19-20 album 京都ハイキング

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旅の後先 1────前日の国木田 之彦
旅の後先 2────2日目夜の伊藤 幸司
旅の後先 3────3日目の矢野 博子
旅の後先 4────4日目の矢野 博子

*関西方面では今年の冬まで、六甲山を5回やったかと思います。2000年を過ぎたあたりから航空会社の1万円キャンペーンを利用して、九州や北海道の山をいくつも計画しました。またその後もスカイマークの羽田〜神戸便が早割で片道6,500円だったので、JRで松本へ行くのとほぼ同じなら六甲山の日帰りが可能かもしれないと考えました。残念なことに便の関係で日帰りは一度もできませんでしたが、真冬に1万円で山上の六甲山ホテルやオテル・ド・摩耶に泊まるというのは、ザック姿では最高の気分でした。
*いま、私は関西への山旅は夜行バスをすすめています。上高地や尾瀬への夜行登山バスとは全く違う快適な交通機関としてウィラーエクスプレスの3列シートをみなさんに一度体験してもらいたいと提案しているのです。飛行機でいえばビジネスクラスです。値段は片道6,500円前後、運転のしかたも昔の夜行バスとはかなりちがいます。そこで私は、さらに半値に近い4列シートをこのところ体験中というわけです。
*今回は3人の方が往路夜行バスを利用してくれました。夜行バスを利用する利点は、もちろん安いということですが、もうひとつ、京都のピークシーズンに夜行バス利用の1日観光を考えると、これが革命的かもしれないのです。宿の取りにくいその時期に疾風怒濤の紅葉見物、雪景色、花見、新緑といった潔い歩き方を発見することができるかと思うのです。2006年7月11〜12日の伊吹山では帰りを夜行バスにしました。下山後京都で、祇園祭の賑わいの中、一列縦隊で縦横無尽に練り歩いた楽しい経験がよみがえってきます。そういう京都の観光ハイキング的歩きを考えてみたいと思っての第一弾でした。
*町家泊まりは少人数でないとかなりやっかいだとわかりました。キャンプ場もマイカーでないと相当不便です。そこでとりあえず大原の民宿にしたのです。山は市街展望を重視して大文字山と比叡山、オーソドックスな計画でしたが、そこは京都、なかなか充実した2日間となりました。


◆糸の会山行 {950] 京都ハイキング────2015.5.19-20

◇1日目
・1020……地下鉄東西線・蹴上駅出発
・1035-50……日向大神宮
・1125-30……休憩
・1215-30……大文字山山頂(17度C)
・1255-1305……五山送り火・火床
・1340-1410……銀閣寺
・食事
・タクシーで大原へ
・1540-1640……三千院
・1700……大原温泉民宿
◇2日目
・0900-30……寂光院
・1000-25……野村別れバス停付近で昼食購入、若干の道迷いなど
・1050-55……休憩
・1135-45……仰木峠で休憩
・1235-40……永井山下で休憩
・1400-15……西塔・釈迦堂
・1450-1505……根本中堂
・1555……叡山ケーブル・ケーブル比叡駅
・1700-1800……船岡温泉
・1933……東海道新幹線ひかりで12名中10名帰路へ
*行動時刻は概数です


今回の写真出展メンバー(提出順)は以下の4人です。
三浦 陽子(14点)
小林 美子(34点)
矢野 博子(23点)
国木田 之彦(6点)
河田 恭子(8点)
伊藤 幸司(129点)


★このアルバム・シリーズは糸の会の山行を参加者のみなさんと記録した写真集です。写真は撮影時刻順に並べて本展示としました。(期間を限定せずに)みなさんのコメントをお待ちしています。

撮影:三浦 陽子────1/3

【17】10時01分 【18】10時03分 【19】10時05分 【20】10時06分

撮影:三浦 陽子────2/3

【41】12時49分 【49】12時59分 【68】13時48分 【71】13時49分 【101】16時07分

撮影:三浦 陽子────3/3

【111】16時13分 【117】16時27分 【118】16時30分 【154】2日13時14分 【171】2日15時47分

撮影:小林 美子────1/7

【08】09時22分 【12】09時26分 【14】09時32分 【15】09時36分 【21】10時20分

撮影:小林 美子────2/7

【23】10時25分 【24】10時26分 【31】10時43分 【32】10時49分 【40】12時32分

撮影:小林 美子────3/7

【48】12時58分 【50】12時59分 【51】12時59分 【53】13時01分 【57】13時18分

撮影:小林 美子────4/7

【28】13時33分 【60】13時42分 【62】13時43分 【69】13時48分 【76】13時51分

撮影:小林 美子────5/7

【81】13時55分 【87】14時00分 【91】15時18分 【92】15時32分 【97】16時01分

撮影:小林 美子────6/7

【98】16時02分 【105】16時10分 【107】16時11分 【108】16時11分 【109】16時11分

撮影:小林 美子────7/7

【116】16時26分 【119】16時30分 【120】16時30分 【130】17時10分

撮影:矢野 博子────1/5

【07】09時22分 【46】12時56分 【61】13時43分 【72】13時49分 【103】16時09分

撮影:矢野 博子────2/5

【121】16時34分 【122】16時36分 【123】16時41分 【137】2日09時09分 【148】2日10時48分

撮影:矢野 博子────3/5

【161】2日14時07分 【166】2日14時50分 【167】2日14時52分

撮影:矢野 博子────4/5 京都残留

【205】3日11時13分 【206】3日14時19分 【207】3日14時20分 【208】3日14時34分 【209】3日14時47分

撮影:矢野 博子────5/5 京都残留

【210】4日10時45分 【211】4日10時50分 【212】4日13時23分 【213】4日13時38分 【214】4日13時41分

撮影:国木田 之彦────1/2 京都・お寺の庭

【63】13時44分 【83】13時56分 【100】16時02分 【104】16時09分 【114】16時18分

撮影:国木田 之彦────2/2 京都・番外(前日)

【186】前日15時08分

撮影:河田 恭子────1/2

【06】09時22分 【16】09時44分 【65】13時46分 【74】13時50分 【95】15時54分

撮影:河田 恭子────2/2

【113】16時17分 【129】17時10分 【139】2日09時12分

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【01】撮影:伊藤 幸司=08時02分
これは夜行バス組の集合場所としたコーヒーショップMIWAKU。京都タワーの裏道にあって朝7時から。良心的なモーニングセットを出してくれます。
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【02】撮影:伊藤 幸司=09時00分
夜行バス組は地下鉄で今出川駅まで行って、賀茂大橋へと歩きました。同志社大学の塀に沿って延々と歩かされる気分になりました。
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【03】撮影:伊藤 幸司=09時02分
今出川通り。同志社大学と向かい合っているのは京都御所。この緑も長く、長く続いていました。
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【04】撮影:伊藤 幸司=09時19分
賀茂大橋。渡ると出町柳ですが、流れを渡る「飛び石」は東映京都撮影所で作られるテレビドラマによく登場するやつ……ということに気づいて、降りていくことになりました。
ちなみにここは手前の賀茂川と奥の高野川が合流して鴨川となる地点です。
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【05】撮影:伊藤 幸司=09時21分
賀茂川の飛び石には亀さんがまじっています。
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【06】撮影:河田 恭子=09時22分
鴨川
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【07】撮影:矢野 博子=09時22分
加茂川に何か所か置かれている飛び石。 私は 知らなかったのですが ドラマなどで良く出てくるロケ地だそうです。
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【08】撮影:小林 美子=09時22分
やっと 賀茂川に着いた。大きな石が向こう岸迄 続いているのでこの石の上を向こう岸まで渡ろう・・
あら! 亀の形をした石がたくさん並んでいる。亀の背中にピョン!
水の流れの急な所もあったりして おもしろい川渡りだった。
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【09】撮影:伊藤 幸司=09時22分
千鳥もいます。
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【10】撮影:伊藤 幸司=09時22分
なんだか竜宮伝説も出てきそうな雰囲気がありました。
■コメント:矢野 博子
手前の優しい目をした亀が のっそりと今にも動きそうで 面白い。傍の人に人がいるから 余計楽しい。
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【11】撮影:伊藤 幸司=09時23分
鴨川(賀茂川も)にはこういう飛び石が5か所もあるそうです。
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【12】撮影:小林 美子=09時26分
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【13】撮影:伊藤 幸司=09時26分
朝の散歩として下鴨神社へ行こうとしていたのですが、賀茂川岸を遡ってみようという気分が強くなりました。川辺の楽しい散歩になりましたが、下鴨神社はタクシーの窓から想像する程度で、今日の集合場所、地下鉄蹴上駅へと向かったのです。
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【14】撮影:小林 美子=09時32分
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【15】撮影:小林 美子=09時36分
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【16】撮影:河田 恭子=09時44分
鴨川
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【17】撮影:三浦 陽子=10時01分
南禅寺三門。蹴上駅での待ち合わせ前に急いで行ってきた。
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【18】撮影:三浦 陽子=10時03分
南禅寺
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【19】撮影:三浦 陽子=10時05分
南禅寺水路閣
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【20】撮影:三浦 陽子=10時06分
南禅寺水路閣
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【21】撮影:小林 美子=10時20分
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【22】撮影:伊藤 幸司=10時24分
10時30分蹴上(けあげ)駅集合としたところ、時間前に全員が集合したので、10時25分に日向(ひむかい)大明神への鳥居をくぐりました。
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【23】撮影:小林 美子=10時25分
蹴上インクライン。
琵琶湖と京都を結ぶ舟運のルート。水路格差のある所に作った 傾斜鉄道。
舟をこの上に積んで鉄道で運ぶ様になり京都が栄えてきたそうだ。南禅寺近くのインクラインは線路が残っていて 春は線路沿いにソメイヨシノが咲くそうです。サクラの時期には来てみたい。
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【24】撮影:小林 美子=10時26分
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【25】撮影:伊藤 幸司=10時29分
すぐに渡るのは琵琶湖疎水。この部分に大きな高低差があるのでこの蹴上船溜りと640m離れた南禅寺船溜りの間を傾斜鉄道(インクライン)というかたちで船を台車に乗せて運んだといいます。向こうに見える蹴上発電所はそのための電力を供給するものであったとか。
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【26】撮影:伊藤 幸司=10時35分
日向(ひむかい)大神宮へ向かう道は、見上げると空を覆い隠すようなカエデのトンネル。紅葉の季節にはどんな光景になるのだろうか、と思いを巡らせてしまいました。この日向大神宮は京都でもっとも古い神社のひとつだそうです。
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【27】撮影:伊藤 幸司=10時37分
日向(ひむかい)大神宮のおみくじはここへ。山道を登っていくと伊勢神宮遙拝所というのがあって、京都のお伊勢さんと呼ばれているとか。小さいながら、江戸時代には多くの参拝者で賑わったとホームページにありました。
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【28】撮影:伊藤 幸司=10時38分
境内図を見ると日向(ひむかい)大神宮には拝殿、外宮、内宮とあって、これが内宮。応仁の乱(1467-1477)で消失したのち、江戸時代初期に篤志家たちによって再興されたとのこと。
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【29】撮影:伊藤 幸司=10時41分
日向(ひむかい)大神宮の境内の背後の山には「天岩戸・戸隠神社」というのがありました。神話の世界という風には見えませんでしたが。
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【30】撮影:伊藤 幸司=10時42分
日向(ひむかい)大神宮境内のモミジ。ともかく空を覆うようなカエデの巨木が何本あるのでしょうか。ホームページには「秋の紅葉は隠れた名所として人気があります」とありますが「隠れた名所」と「人気」は数的にはうまくつながらないものの、京都の紅葉を見ようと思うときには、この日向(ひむかい)大神宮を最初のターゲットにしてみるという意味では記憶しておきたいと思いました。
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【31】撮影:小林 美子=10時43分
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【32】撮影:小林 美子=10時49分
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【33】撮影:伊藤 幸司=10時57分
日向(ひむかい)大神宮のところから伊勢神宮遙拝所へと登る道が始まりますが、それが登山道の始まりです。インクラインのところにあった「京都一周トレイル」の標識が点々と置かれているので、それに忠実に従って登っていきます。脇道が非常に多いので自分でルートを選択しようとすると間違いなくどこかへ下ってしまいます。
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【34】撮影:伊藤 幸司=11時13分
これは進行右側の風景。いわゆる「山科」の家並みだそうですが、そういわれてもなかなか、土地勘が……。最寄り駅はJR東海道本線ではひとつ東京寄りの山科駅。京阪京津線では京阪山科駅ですが御陵→蹴上→東山→三条京阪という地上駅は平成9年(1997)に地下鉄東西線に乗り入れるというかたちで廃止されました。それ以前は蹴上駅付近では碓氷峠並みの急勾配だったそうです。そういわれれば、私たちが集合した地下鉄蹴上駅はずいぶん深いところにありました。
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【35】撮影:伊藤 幸司=11時14分
燃えるような緑でした。名前はわかりませんが、この一郭だけ、こういうシダの新緑が萌え出ていました。
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【36】撮影:伊藤 幸司=11時55分
樹林の道なのでほとんど展望がありませんでしたが、今度は進行左側が見えました。京都の町が広がっていました。
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【37】撮影:伊藤 幸司=12時01分
これはミツバツツジだと思っていたのですが、濃い色の斑点があまりにもくっきりと出ていて、そういう写真をネットで見つけられません。あってもいいのだと思いますが。……ともかく首都圏の山でいつも見ているのは雄しべが10本のトウゴクミツバツツジですから、それが5本になると本家本元という感じがしてしまいます。
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【38】撮影:伊藤 幸司=12時26分
これはどこかというと、標高465m、大文字山の山頂です。みなさん眼下に京都盆地が広がっている光景を想像していたので、かなりガッカリ気分で、休憩しています。しかし登り始める前、このあたりにはガスがかかっていました。だから、たぶん、下ればそれなりの展望は期待できる……と考えるのが楽天的な姿勢ということになります。
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【39】撮影:伊藤 幸司=12時30分
待つこともなく、大文字山・山頂のガスは流れ始めました。うっすら……と、ながら、京都の町並みが見えてきました。
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【40】撮影:小林 美子=12時32分
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【41】撮影:三浦 陽子=12時49分
大文字山
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【42】撮影:伊藤 幸司=12時50分
山頂から下るとすぐに五山送り火の「大」の字のてっぺん部分。左端に火床の石組みがちらりと見えます。ほんのちょっと下っただけで、京都盆地が一望できる状態になりました。
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【43】撮影:伊藤 幸司=12時51分
「大」の字の縦棒に沿って下っていきます。
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【44】撮影:伊藤 幸司=12時53分
遠足の子どもたちが「大」の字の右のはらいに沿って下っていきます。京都の子どもたちにとっては記憶に残る遠足になるんでしょうね。
降りたところにある緑の森は、地図で調べると金戒光明寺とだけ書いてありますが、左上の平安神宮、右手奥の京都御所と比べてもずいぶん大きい。……なんで? と調べてみると、この「浄土宗大本山・黒谷・金戒光明寺」は徳川家康が京都直轄の守りとして、二条城を補佐するためにいざというときには大軍を駐屯させる備えをしたといわれます。そして幕末、京都守護職に任命された会津藩は、1,000名の正規軍として駐屯したのです。新撰組はここを本陣として活動を開始するのです。
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【45】撮影:伊藤 幸司=12時53分
こうしてみると、私たちは京都の里山をハイキングしにきたのに、けっこうな重装備。これで町中も歩いているのです。私などは日帰り登山でも、小屋泊まり登山でも、ザックの中の入れ替えなどしませんから横着なのですが、みなさんもひょっとするとそういう意味での重装備かも……と、改めて見てしまいます。
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【46】撮影:矢野 博子=12時56分
大文字山の 大という字の 3本の線が交わっている所。 ここの消し炭は 持病治すとかで お守り代わりに少し持ち帰りました。
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【47】撮影:伊藤 幸司=12時56分
これが「大」の字の中心部分。横棒のところが広場のようになっています。右側に煉瓦積みの火床が見えます。
男性Sさんの帽子のところに見える緑の森は吉田山。その向こう側に京都大学があり、さらにその先の緑のかたまりは京都御所。今朝、私たち夜行バス組は京都御所の緑の向こう側を左から右へとたどって、その手前で左右に延びる賀茂川〜鴨川の岸へと出たのです。
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【48】撮影:小林 美子=12時58分
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【49】撮影:三浦 陽子=12時59分
トンビが遠足の小学生の弁当を狙って旋回してました。
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【50】撮影:小林 美子=12時59分
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【51】撮影:小林 美子=12時59分
大文字山で遠足の子供たちの物をねらっていた トンビをみつけ 写真をとるのは無理かなと思ったけど 適当にパチパチとったら 2枚だけトンビが写ってました。
このあと このトンビ 子供の所から何か袋をゲットしていきました。
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【52】撮影:伊藤 幸司=12時52分
画面中央の緑は吉田山。吉田神社は吉田神道の拠点として江戸時代には全国の神社を束ねる重要な存在になったといいます。1665年(寛永5)には神職の任命権を一手に握ったといいますから、ここが日本の神道の中心だったともいえそうです。
しかし吉田山における吉田神社の存在はあまり大きくないらしく、明治になると森はあちこちから浸食されたようです。向こう側には第三高等学校が置かれ、それが京都大学になります。昭和初期にはこちら側の斜面に高級住宅街が開かれたといいます。この写真がそれを現しているように思われます。
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【53】撮影:小林 美子=13時01分
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【54】撮影:伊藤 幸司=13時01分
展望台としての大文字山の気分はこんな感じです。
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【55】撮影:伊藤 幸司=13時02分
京都に詳しい人も、詳しくない人も、だんだん去りがたい気分になってきます。そういえば、私はザックに双眼鏡を常備しているのですが、出すのを完全に忘れていました。すみません。
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【56】撮影:伊藤 幸司=13時07分
京都駅の前にある京都タワーはうんと左手に見えています。京都の中心街がこんなふうに見えています。
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【57】撮影:小林 美子=13時18分
赤い エプロンが目だつ 千人塚。
頭のない地蔵。
ちょっと不気味でした。
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【58】撮影:小林 美子=13時33分
苔むした石垣。
みごとに きれいに苔がついてました。
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【59】撮影:伊藤 幸司=13時39分
大文字山からダイレクトに下ると銀閣寺です。人力車の向こうに参道が見えます。
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【60】撮影:小林 美子=13時42分
向月台。
たまたま形を修復している所に出会いました。
どうして砂の山に人が乗ってくずれないのか不思議に思って見ていたが kさんは下りる時どうするか 疑問に思い職人さんに聞いたそうです。
その答は はしごを使って下りるそうです。
修復中を見られてより印象に残った銀閣寺でした。
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【61】撮影:矢野 博子=13時43分
銀閣寺の月山を丁寧に形作っている職人。作業終了したら あそこからどうやって下りるのか 気になりました。
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【62】撮影:小林 美子=13時43分
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【63】撮影:国木田 之彦=13時44分
昨夜の雨でくずれた砂山を修復中です。向月台といいます。風流をたのしむのもたいへんです。
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【64】撮影:伊藤 幸司=13時45分
銀閣寺庭園の向月台が修繕されていました。江戸時代にこういうかたちになったそうですが、さて、その手法はどうでしょうか。土はスコップでドンピシャの場所に投げられて、それをすかさずこの板で押さえます。一見、ものすごく非合理的なやり方に思えましたが、まちがいなく名人芸。投げられた土がしかるべき場所にベチャッと張り付く具合も見事なら、それが落ちる前にこのように板で押さえつつかたちを整えるわけですから。私たちの目にはただの砂に見えますが、もちろんそんなはずはありません。雨に濡れてもくずれにくい、特別な砂だか土なのでしょう。Kさんが写真を撮りつつ、てっぺんにいる人が最後どのように降りるのか聞いたそうですが、結果をここで漏らすわけにはいかないでしょう。Kさんの写真、あるいはコメントを期待します。
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【65】撮影:河田 恭子=13時46分
銀閣寺
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【66】撮影:伊藤 幸司=13時46分
植木屋さんが何人も入っていました。三脚ではなく、伸縮式のハシゴをかけているところを見ると、作業手順がすでに熟知されているのでしょう。見物人の通行の邪魔にならないとか、庭を痛めないとか、いろいろな制約も考えての高所作業なのでしょう。じつは私も、妻の仕事の手伝いで、年に1回か2回ですが、脚立に乗って植木ばさみを使ったりすることがあるので、親近感で見てしまいます。
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【67】撮影:伊藤 幸司=13時47分
銀閣寺の洗月泉は、写真にして見るとなかなか洗練されているんですね。パワースポットとかで訪れる人も多いとか。この美しい一条の水と、名前から想像する月影とが合わさったら、それはそれは見事というほかないのでしょう。もちろん秋には高雄楓(イロハモミジ)が紅葉するという仕掛けです。
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【68】撮影:三浦 陽子=13時48分
銀閣寺
■コメント:伊藤 幸司
三浦さんが撮った写真のこの前は大文字山の「49」です。スマートフォンでの撮影はそこまではよかったのですが、これ以降ブルーがかったヘンな調子になってしまいました。最初は画像処理ソフトでなんらかの作業をしたのだろうかと思いましたが、そういうことはないとのこと。結局プロカメラマンのお嬢さん(ご存じかと思いますが三浦さんのご主人もプロのカメラマンです)によると、空が入った写真の露出調節をしていたときに、指先の加減でなぜかブルー系のフィルター(あるいは光源の選択か)がかかってしまったという結論になったそうです。受け取った私の方でも軽く調整してみましたが、テレビや映画で夜のシーンを昼間撮影したような気分はとれませんでした。
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【69】撮影:小林 美子=13時48分
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【70】撮影:伊藤 幸司=13時48分
なんのお願いなのか私にはわかりませんが、洗月泉の池はコインで輝いていました。アップで撮って拡大して調べてみると圧倒的に多いのが1円玉と10円玉。5円玉もけっこうあります。ガクンと少なくなって50円玉。さらにレアな感じで100円玉。見つかるとうれしい感じがするのが500円玉でした。
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【71】撮影:三浦 陽子=13時49分
銀閣寺は修学旅行シーズンでした。
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【72】撮影:矢野 博子=13時49分
三千院の見事な苔の庭。
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【73】撮影:伊藤 幸司=13時49分
何という木の、なんという苔かわかりませんが、いやな存在という印象ではなく、いい意味で「苔むした」と感じます。本性はどちらなんでしょうか。
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【74】撮影:河田 恭子=13時50分
銀閣寺
■コメント:矢野 博子
この位置から銀閣寺を眺めなかったせいか 私には新鮮にうつった。銀閣寺が 違った雰囲気に包まれている。新緑の中で すがすがしい。
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【75】撮影:伊藤 幸司=13時50分
カエデの先端が紅葉しています。なんだか秋の風景の予告編という感じがしました。
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【76】撮影:小林 美子=13時51分
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【77】撮影:伊藤 幸司=13時53分
ここでは苔のすごさを感じました。この急な斜面を苔で厚く覆ってしまうことで、緑の塗料を厚く流し込んだように見えました。
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【78】撮影:伊藤 幸司=13時54分
庭園の一番高い位置からこの風景が見られます。向こうに吉田山東面に昭和初期に開発された(といわれているものだと思いますが)高級住宅街が見えています。
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【79】撮影:伊藤 幸司=13時54分
これが銀閣と呼ばれる慈照寺観音殿。このあと大原へ向かうタクシーの中で運転手さんが「なぜ銀閣は黒漆塗りだったのか」について蕩々と語っていたのですが、私は半分(以上)寝ていたみたい。もちろんシルバーの銀ではなくて、金メダルを取れなかった銀メダルという印象でしたね。その話。
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【80】撮影:伊藤 幸司=13時54分
銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれるこの砂盛りも江戸時代になってからとか。新しく手を入れたからか、筋目が強く出ていて、モダンになりすぎたと感じましたが。
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【81】撮影:小林 美子=13時55分
二人の庭師の方が 高い所で松の手入れをしてました。
あんな 高い所で・・
慣れているとはいえ ご苦労様と写真におさめました。
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【82】撮影:伊藤 幸司=13時56分
洗月泉を覆うようにのびていたカエデの葉は、写真を拡大して調べてみたら、葉の裂片が6つというのが多いように思いました。「いろはにほへと」の7裂片だとイロハモミジに間違いないのですが、5〜7裂片でもイロハモミジとか。この写真を見てみると銀閣寺のイロハモミジは7つめの裂片があいまい……なのかもしれません。
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【83】撮影:国木田 之彦=13時56分
コケ。コケ。コケ。コケがつみかさなってウェーブをつくります。下は腐食したコケのかたまり。
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【84】撮影:伊藤 幸司=13時57分
よく見るとなんともスマート。色も形も、なかなかの美形です。ネットで調べればわかるかと思ったらさにあらず、同じ特徴をとらえた写真がなかなか見つかりません。
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【85】撮影:伊藤 幸司=13時57分
池越しに最初に見たときには、木の茂みに潜っているようでしたが、下から見上げたらけっこう大胆に枝を刈り込んでいるようです。安全ベルトはつけていないのかな?
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【86】撮影:伊藤 幸司=13時58分
外国人観光客が順番を待つようにして撮っていたので、私もこれで最後、と撮りました。
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【87】撮影:小林 美子=14時00分
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【88】撮影:伊藤 幸司=14時07分
銀閣寺の参道です。もう少し下ると両側に店が並んでいます。私たちはそのあたりで昼食(かなり遅くなりましたが)をとって、大原へと向かうことにしていました。5月中〜下旬のこの時期は修学旅行生が多いのですが、それでもやはり外国人観光客が多いように思います。京都駅周辺でもそうなのですが、いまや一瞥しただけでは日本人と区別できない人たちも多いのです。韓国の若い男の子に特有だったヘアスタイルも、最近では日本人もしているのでわかりませんし、京都で着物姿の女性を見ると、着物を着ているから外国人か、と思ったりします。京都の人はたとえば「中京区の人とそうでない人は区別できる」という人さえいるので、わたしたちより識別眼が鋭いのでしょうが。
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【89】撮影:伊藤 幸司=14時37分
予定していた店が準備に1時間ほどかかるというので、すいていそうな御米司ふみやという店に入りました。昼ご飯は四万十鶏もも肉の竜田あげとか、サーモンの西京味噌焼きとか、大原山田農園野タマゴの出汁巻きなどいろいろありましたが、みな1,700円。その下に「卵かけご飯定食 900円」というのがありました。そしてこれが大当たり。正直堪能しました。
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【90】撮影:伊藤 幸司=14時41分
食事が始まってから、私はMKタクシーに電話をしました。ネットで見ると、乗客6人乗りの車が中型料金+指名料2,000円となっていました。あればいいなと思いながらの電話でしたが、ありました。私たちは12人でしたから、銀閣寺から大原・三千院までひとり850円という激安価格になりました。
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【91】撮影:小林 美子=15時18分
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【92】撮影:小林 美子=15時32分
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【93】撮影:伊藤 幸司=15時34分
食事の写真から約1時間後に大原の三千院に到着です。
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【94】撮影:
全員の顔が見えなかったかもしれないので、近づいて2枚目の記念写真。全員(私は除いて)の記念写真は参加名簿という意味でものすごく重要です。ここに出している写真は自分のパソコンに取り込んで、いちおう写真として使っていただけます。
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【95】撮影:河田 恭子=15時54分
三千院
■コメント:矢野 博子
赤い毛氈に並んで 庭を眺めて ゆったりとした時が流れていく。何とも贅沢なひと時。新緑と赤い毛氈の対比が 鮮やか。
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【96】撮影:伊藤 幸司=15時58分
三千院の内部は撮影禁止となっていましたが、庭はOKとか。みなさんお茶をいただきました。
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【97】撮影:小林 美子=16時01分
三千院の庭。
セッコクの花かと思ったけど 花の形が違う。
木に着生して咲く花が セッコクの他にもあるのかな?
花の名前はわかりません
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【98】撮影:小林 美子=16時02分
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【99】撮影:伊藤 幸司=16時02分
本堂に当たるのでしょうか、宸殿(しんでん)に入る直前の手水鉢。なんだかとてもいい景色だと思いました。
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【100】撮影:国木田 之彦=16時02分
水がわきだし波紋をつくっています。じっと見ていると、まわりの音も人の気配も感じなくなります。「無」かな。
■コメント:伊藤 幸司
国木田さんの写真6点を見比べてみると、もちろん「適正露出」の範囲です。しかしこれなどはどう見てもオーバーめの適正だと思います。これまでの私の経験ではデジタルカメラのオート撮影は驚くほど高度に仕上がっていると思いますが、露出補正(安いカメラでも必ずついていると思います)を常時「-1/3」にしておきたいと感じます。1万円カメラでも1眼レフカメラでも同様ですから、日本のカメラの基準がオーバーめになっているのだ思います。ハイライト(明るくて白い部分)の描写がどう出ているかという基準で皆さんの写真を見てみるとわかります。なぜそうなっているかということを説明すると長くなりますから、ここではしませんが、カラーフィルム時代に皆さんのカメラでは富士山があまりよく写らなかったというのと同じ理由だと思います。
■コメント:矢野 博子
波紋が ともかくきれい。たっぷりと止めどなく流れていく水は 豊かな気持ちにさせてくれる。水の光がきれい。
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【101】撮影:三浦 陽子=16時07分
大原三千院
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【102】撮影:伊藤 幸司=16時07分
じつは国宝の阿弥陀三尊像も、復元模写だそうですが往生極楽院舟底型天井画も見ていません。撮影禁止となっていると、なんだか見ることも億劫になってしまうらしいのです。宸殿(しんでん)から庭に出ると、厚い苔をかぶった広い庭が続いていました。敷地の半分を占めるでしょうか。私には楽しい散歩になりました。
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【103】撮影:矢野 博子=16時09分
これも引き続き良く手入れされた三千院の庭。
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【104】撮影:国木田 之彦=16時09分
スギの木。樹齢100年ぐらいでしょうか。寺社の樹木はあんがい若いんです。
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【105】撮影:小林 美子=16時10分
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【106】撮影:伊藤 幸司=16時10分
発見写真旅シリーズで東京の庭園をいくつか巡った経験から、これがイロハモミジの典型的な姿だと思うようになりました。もちろん葉が7裂片となっているのは重要ですが、それよりもこの枝。細くて直線的な枝振りが蜜に重なり合った葉を楽々と支えています。
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【107】撮影:小林 美子=16時11分
わらべ地蔵。
なんとなく 寂しいような…可愛いような… おもしろい表情もあり この三千院にあっている様に思う。
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【108】撮影:小林 美子=16時11分
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【109】撮影:小林 美子=16時11分
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【110】撮影:伊藤 幸司=16時12分
わらべ地蔵が、浄土信仰の聖地というこの寺を強烈に印象づけていると思いました。さてどこにあるか……って?

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【111】撮影:三浦 陽子=16時13分
ミヤコワスレ
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【112】撮影:伊藤 幸司=16時14分
こういうなんともいえずホッコリしたお地蔵さんが5つか6つかあったのですが、望遠にしたおかげでブレてしまいました。これもすこしブレてはいますが。あごに添えられた手が素晴らしい。
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【113】撮影:河田 恭子=16時17分
三千院
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【114】撮影:国木田 之彦=16時18分
「草木供養塔」。東北地方に多いといわれています。
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【115】撮影:伊藤 幸司=16時19分
三千院で感じたのは、境内のスギの木がよく手入れされていたことです。庭の造りに天才的な造形を感じるというようなことはありませんでしたが、庭を愛する人々の手によって営々と守り継がれてきたという暖かい感じがしました。
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【116】撮影:小林 美子=16時26分
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【117】撮影:三浦 陽子=16時27分
大原三千院
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【118】撮影:三浦 陽子=16時30分
大原三千院
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【119】撮影:小林 美子=16時30分
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【120】撮影:小林 美子=16時30分
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【121】撮影:矢野 博子=16時34分
三千院の紋章の梶の木の 新緑一杯浴びている葉
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【122】撮影:矢野 博子=16時36分
梶の木を証明する看板
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【123】撮影:矢野 博子=16時41分
瓦に付けられている紋章
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【124】撮影:伊藤 幸司=16時49分
三千院から寂光院へ「大原女(おはらめ)の小径」という案内がつけられていました。
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【125】撮影:伊藤 幸司=16時51分
これは通称「志野松門」(しのしょうもん)というのだそうです。ドレッシング(サラダドレッシング?)メーカーの志野が築150年の古民家でオープンした野菜中心のレストランとか。京都人向けなのか、観光客向けなのか仕切り線が見えませんでした。
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【126】撮影:伊藤 幸司=16時52分
おもしろいので撮っておいたシソ畑。あとで、京都特産の柴漬けが寂光院に関係すると知りました。壇ノ浦で捕らえられた建礼門院が隠棲した寂光院で、里人の作る漬け物に「紫葉漬け」と名づけたというのです。
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【127】撮影:伊藤 幸司=16時59分
大原の田んぼ。ちょうど田植えの時期でした。
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【128】撮影:伊藤 幸司=17時03分
三千院から下って、寂光院へと登っていきます。山里の風景が心地よく広がっていました。
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【129】撮影:河田 恭子=17時10分
三千院
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【130】撮影:小林 美子=17時10分
寂光院。
閉まってました。明朝にしましょう。
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【131】撮影:伊藤 幸司=17時10分
寂光院は午後5時で門を閉ざしていました。明日の朝にもう一度訪れることができるかどうか。
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【132】撮影:伊藤 幸司=17時12分
寂光院から2分もどるとこの日の宿。大原温泉の民宿です。
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【133】撮影:伊藤 幸司=17時39分
民宿・大原の里が自慢する大型の五右衛門風呂ふう露天風呂。これだけの湯量があるのに、一度安定するとあふれません。縁から数センチ下の水位安定ラインの内側と外側を入念に調べてみたのですが水位調節用の仕掛けはまったくわかりません。排水は底部中央にあってその出口もわかるのですが、どんなふうに水位管理をしているのかわかりませんでした。
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【134】撮影:伊藤 幸司=18時37分
自慢の味噌鍋は実にシンプル、そしてジャスト堪能という不思議な夕食になりました。別注文で肉や刺身、天ぷらなどを求めている客も目に入ったのですが、スタンダードプランのこの鍋には小鉢と漬け物がついているだけで、肉も鶏肉少々。野菜だってごくありふれて見えるものばかり適量という感じにもかかわらず、最後まで楽しく食べることができたのです。たぶん「自家製味噌」がすべてを包み込んで、そのシンプルさを最後まで楽しませてくれたのだと思います。
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第2部────2日目

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【135】撮影:伊藤 幸司=08時03分
宿の朝食はごく普通。普通ながら大根とコンニャクの味噌田楽は好きなだけどうぞというだけで、みなさんの気持ちをゆるやかにしてくれます。この宿は中国人旅行者も多いし、欧米系の旅行者もいます。そういう中で夕食といい、朝食といい、潔いメニューに感心してしまいました。
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【136】撮影:伊藤 幸司=08時59分
寂光院の参道。参道そのものはこじんまりとしているけれど、それを覆うカエデの巨木はすごいのひと言。秋にはいったいどんな世界が広がるのか、とため息をついてしまいました。
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【137】撮影:矢野 博子=09時09分
早朝の寂光院で 池の鯉見ながら ご満悦のN氏。
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【138】撮影:伊藤 幸司=09時10分
寂光院の小さな庭にも小さいなりに風情のある滝の流れがありました。「玉だれの泉」と名づけられた三段の滝で、案内パンフレットによれば「一段一段高さと角度が異なり、三つの瀧のそれぞれ異なる音色がひとつになって合奏するかのように作庭されている」とのことです。わかりませんでしたが。
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【139】撮影:河田 恭子=09時12分
寂光院
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【140】撮影:伊藤 幸司=09時13分
境内に説明書きがありました。この花は「大原菊」と呼ばれてきたのだそうで、大原の家庭や公園、空き地などに積極的に植えていく運動を展開しているとのこと。本名はミヤマヨメナ。ミヤコワスレは江戸時代に開発されたこの園芸種とか。
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【141】撮影:伊藤 幸司=09時15分
建礼門院御庵室跡のあたり。寂光院の奥庭にあたるところ。差し込んでくる光が心地よく感じられました。
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【142】撮影:伊藤 幸司=09時18分
この本堂は平成12年(2000)に火災で全焼し、新たに復元されたものだそうです。
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【143】撮影:伊藤 幸司=09時23分
私の山歩きはここ20年で1,500回ほどになります。首都圏から日帰りや小屋泊まりの山での紅葉は何十回と見ているのですが、カエデの紅葉はやはり京都、人の手が加えられて、いいかたちで歳月を重ねているので、東国の粗野な紅葉とは違う、と感じるようになりました。このカエデなども、寂光院から出た道筋にあって、道しるべというべき役割を与えられているようでした。
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【144】撮影:伊藤 幸司=09時40分
昨日登ってきた山里の道を今朝は下ります。下りきったところに大原のバスターミナルがあって、今度は前方ににそびえる山に登るのです。
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【145】撮影:伊藤 幸司=09時56分
大原の家を見ていくとかなり豊かな農村という感じがしますが、かつて大原女(おはらめ)はここから15kmほど離れた京都の町まで、頭に薪炭を乗せて売りに出たとのこと。重さは30kgから50kgとか。比叡山のふもと・八瀬から「小原女」が出ていることから、「おおはらめ」とするケースもあるとのことです。目にしたポスターに「おおはらめ」とあったことから私たちはけっこう混乱しました。
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【146】撮影:伊藤 幸司=10時30分
対岸の山に登り始めると、これが最後の水田。電気柵はイノシシ対策でしょう。
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【147】撮影:伊藤 幸司=10時42分
この登山道は東海自然歩道となっています。私たちはちょっと手間取ったのですが、野村別れの交差点のところ、ファミリーマートの真向かいの細い道を上がると三千院から延びてくる東海自然歩道と合流します。そこから仰木峠へと登るのです。
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【148】撮影:矢野 博子=10時48分
登山道から沢伝いに 一時間位上がった所で 沢ガニのお出迎え。
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【149】撮影:伊藤 幸司=10時49分
道端にニホンアマガエルが登場しました。みんなで見つめたのはこの親ではなくて、次の写真の子どもたち。
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【150】撮影:伊藤 幸司=10時49分
一匹の親ガエルがこれだけの子どもを産んだのでしょうか。ほとんどの卵は孵っていて、この水たまりが干上がるのが先か、大脱出が先かという激動のドラマの始まりか。
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【151】撮影:伊藤 幸司=11時38分
ようやく登り詰めたところが仰木峠。大原から見上げた稜線に出たのです。
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【152】撮影:伊藤 幸司=12時53分
展望のない稜線です。人工林と自然林の境界となっている「峰道」を縫うように進んでいきます。
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【153】撮影:伊藤 幸司=12時58分
標高767mの横高山から一気に下っていくと左手に奥比叡ドライブウェイが寄り添ってきます。
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【154】撮影:三浦 陽子=13時14分
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【155】撮影:伊藤 幸司=13時15分
これは玉体杉。比叡山の回峰行ではここで御所に向かって、玉体加持として天皇の安泰を祈るのだそうです。
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【156】撮影:伊藤 幸司=13時15分
稜線をたどる「峰道」では玉体杉のところが唯一といっていい展望台。中央に見える川は高野川、その先に見える森が下鴨神社の糺の森(ただすのもり)。その先、横一線に見えるのが賀茂川。
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【157】撮影:伊藤 幸司=13時16分
玉体杉のところからは比叡山の山頂も見えます。比叡山は双耳峰で、山頂は848mの大比叡。昭文社の登山地図には「おおびえ」とふりがながついていますが、私が信頼している『日本山名総覧』(武内正・著)には「だいひえい、おおひえい」とあります。比叡山の山頂名が、なんで確定していないのでしょうか。写真に見える建物は山頂のガーデンミュージアム比叡だと思います。
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【158】撮影:伊藤 幸司=14時01分
比叡山の宗教空間を3つに分けるひとつ、西塔(さいとう)の中心となっている釈迦堂です。突然ポツンと現れたので、閑散とした印象でした。これは織田信長の叡山焼き討ちののち、秀吉が琵琶湖畔の圓城寺(おんじょうじ、すなわち三井寺)の本堂に当たる弥勒堂を移築したため、延暦寺の建築物では一番古いとのことです。しかしこの巨大な建物を解体して山道を運び上げ、組み立てるという作業は、どんなものだったのでしょうか。
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【159】撮影:伊藤 幸司=14時03分
ベンチに仲間が座っています。その頭上におおらかな緑が乗っかっている感じです。この木は何でしたっけ?
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【160】撮影:伊藤 幸司=14時04分
釈迦堂の境内に黒いスーツの若者たちが旅行用トランクを引きずりながらどんどん降りてきました。私の仲間たちは老練ですから、すかさず若者たちに「何しに来たの?」「どこへ行くの?」と聞いたそうです。新入社員の研修で比叡山の道場に3日間、籠るようです。あるいはさっき道筋で見た断食道場で、かもしれませんが。
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【161】撮影:矢野 博子=14時07分
どうやら 目的地にほぼ近づいたという安堵感。比叡山の西塔の木陰で ゆっくりとお茶タイム。今回撮った写真の中で これが一番気に入ってます。
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【162】撮影:伊藤 幸司=14時12分
釈迦堂の内部から降りてきたのは外国人見学者。とくにガイドさんがいるという感じではなく、グループで、自由に行動しているという雰囲気でした。
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【163】撮影:伊藤 幸司=14時30分
浄土院は入口から覗いただけでしたが、伝教大師の廟だそうで、静かな宗教空間という感じがしました。根本中堂を含む東塔地区がここから始まるのだそうです。
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【164】撮影:伊藤 幸司=14時34分
東塔地区に入ったとはいえ、まだひと山越えていくという感じです。とにかく大きい。とにかく広い。信長の比叡山焼き討ちといっても、こんなところでは、ひと山焼き尽くすというイメージではありませんね。建物をひとつずつ、放火して回ったということでしょうか。考古学者・兼康保明の「織田信長比叡山焼討ちの考古学的再検討」(1981年)によるとそのとき消失したと明言できるのは根本中堂と、そのとなりの大講堂のみだそうです。
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【165】撮影:伊藤 幸司=14時46分
戒壇院という建物は比叡山には珍しく繊細な装飾が施されていました。
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【166】撮影:矢野 博子=14時50分
根本中堂の立派な屋根。私は この屋根に一番惹かれました。有難い住職の話に チト眠くなったのは 私だけではなかった?
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【167】撮影:矢野 博子=14時52分
根本中堂までの広い参道。広々していて 流石 という感じ。
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【168】撮影:伊藤 幸司=15時03分
根本中堂で行われていた講話は、正直、天台宗総本山で行われるレベルのものとは信じられませんでした。撮影禁止でもあり、早々に退出し、向かいの石段を登って振り返りました。
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【169】撮影:伊藤 幸司=15時33分
帰りの新幹線は19時33分京都発のひかり534号と決めていました。JR6社共通のジパング倶楽部の3割引はのぞみの特急券には適用されません。かつ東京に22時前後には着いていたいということからの選択です。さてこれから約4時間で入浴はともかく、食事までできるだろうかという心配が次第に浮上してきました。根本中堂から、(叡山ロープウェイは使わずに)直接叡山ケーブルのケーブル叡山駅へと向かいました。
■コメント:矢野 博子
午後の少し低くなった陽射しを受けながら 最後の歩を続ける。ケーブルカーまで あと 少しという あの時の気持ちが思い出される。こんなきれいな所を歩いていた というシアワセ。
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【170】撮影:伊藤 幸司=15時38分
スキー場跡を横断し、ロープウェイをくぐると叡山駅まではすぐでした。
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【171】撮影:三浦 陽子=15時47分
ケーブル乗り場から京都市街を一望。
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【172】撮影:伊藤 幸司=15時50分
ケーブル叡山駅からの展望。夜、ここまで上がってくる人も多いのではないかと想像しました。画面左中央に下鴨神社と糺の森が見えています。
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【173】撮影:伊藤 幸司=16時10分
ロープウェイは料金の割に時間が長いと感じましたが、それよりも進行左手に、ジャケツイバラの黄色い花が驚くほどたくさん咲いていました。5月9日に足利の大小山で見たばかり。写真はうまく撮れていません。
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【174】撮影:伊藤 幸司=16時32分
ケーブル八瀬駅にはタクシーはありませんでした。仕方がないので叡山電鉄叡山本線・八瀬比叡山口駅から出町柳駅へと向かいました。
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【175】撮影:伊藤 幸司=16時10分
比叡山に登るだけなのに、今日はずいぶん歩きました。
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【176】撮影:
京都の銭湯のなかではきわめつけのユニークバージョンとして、西陣の船岡温泉が最初からの予定でした。出町柳駅からタクシーを飛ばして、430円の入浴です。
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【177】撮影:伊藤 幸司=17時24分
大正12年(1923)に料理旅館・船岡楼として開業して以来、の建物だそうです。昭和8年(1933)に銭湯となり、現在5代目。これは男湯と女湯の脱衣場の仕切りとなっている欄間。撮影禁止となっていましたが番台で聞いてみると入浴客を写さなければOKとのこと。これは上海事変がテーマとか。
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【178】撮影:伊藤 幸司=17時25分
上海事変は昭和7年(1932)。日中戦争の発端です。その翌年にここが「特殊船岡温泉」と改称し、この仕切り欄間が設置されたといいます。戦いの場面が続いていきます。ちなみに特殊温泉というのは日本最初の「電気風呂」をそなえたことで「特殊温泉」という名称を獲得したということです。
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【179】撮影:伊藤 幸司=17時27分
マジョルカタイルというのだそうですが、英国製の装飾タイルをまねた和製マジョルカタイルが大正初期から昭和10年ごろまでつくられ、当初は高級品として、また東南アジア向け輸出品として一世を風靡したといいます。
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【180】撮影:伊藤 幸司=17時27分
これは時代がすいぶん遡りますね。牛車の登場ですから平安朝という感じでしょうか。たぶんテーマがあるのでしょうが、まだ確認できていません。ちなみに、船岡温泉が国の登録有形文化財とされているのは、文化庁のデータベースによると「船岡温泉脱衣場」だそうです。解説文に「欄間・天井に奇抜な木彫を飾る内部や」とあります。まさにこのような欄間がそれを支えています。
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【181】撮影:伊藤 幸司=17時28分
脱衣場天井の中央にある極彩色の浮き彫りは鞍馬の天狗とか。半分しか見えないのですが、絵柄の重要な部分がこちらに偏っているとも思えません。力作ではありますが、傑作かどうか……は?
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【182】撮影:伊藤 幸司=17時31分
船岡温泉の玄関前から比叡山が見えました。京都の街からこういうふうに見えるわけですね。江戸の町から見る筑波山や富士山と似たシンボルであったと感じました。
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【183】撮影:伊藤 幸司=17時43分
船岡温泉……というよりも、たぶん最初の料理旅館・船岡楼の石組みなんでしょう。京都の町に突然出現した目立ちたがり屋という印象だったのではないでしょうか。
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【184】撮影:伊藤 幸司=17時47分
じつは写真左下隅にちょっと見えているのは入浴が済んだ仲間のザック。それがさっきまで門扉のところに置いてあったのですが、自転車で来た人の無言の圧力でザックの位置を下げたとたんに、その自転車が写真のこの位置にピタッと置かれました。京都には変わった人もいるもんだ……と思っていたら、次に入ってきた自転車は迷わずに中央奥のへこみに頭を突っ込んで止められました。このバラバラ向きの3台のほかに左奥に駐輪スペースがあるのですが。
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【185】撮影:伊藤 幸司=16時33分
夕食は駅弁になりましたが、予定通り19時33分発のひかりで皆さんを送り出しました。私は帰路も夜行バス(往路3,000円+復路4,000円)です。もうひとりYさんは京都で友人と会うということで残留です。
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旅の後先 1────前日の国木田 之彦

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【186】撮影:国木田 之彦=15時08分
「カフェ エ フィシュ」。鴨川の土手にあります。
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旅の後先 2────2日目夜の伊藤 幸司
帰路夜行バスの私は夜の京都をブラブラしてみるのもいいなと思ったのですが、パラパラと雨模様。カサをザックに入れたままコインロッカーに放り込んでしまったので、積極的な気分にはなれませんでした。とりあえず地下鉄で烏丸(からすま)駅で降りると、京都の銀座通り・四条通の歩道には屋根がありました。とりあえず行けるだけいってみようと歩くと河原町駅の先で四条大橋を渡り、花見小路通まで屋根は続いていました。その頃になると雨はかなりの大降りになってきたので反対側に渡って引き返しました。歩き始めは20時55分、21時15分に引き返して、21時40分までの、夜の散歩となりました。

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【187】撮影:伊藤 幸司=20時57分
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【188】撮影:伊藤 幸司=20時58分
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【189】撮影:伊藤 幸司=20時58分
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【190】撮影:伊藤 幸司=20時58分
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【191】撮影:伊藤 幸司=20時59分
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【192】撮影:伊藤 幸司=21時00分
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【193】撮影:伊藤 幸司=21時01分
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【194】撮影:伊藤 幸司=21時06分
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【195】撮影:伊藤 幸司=21時08分
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【196】撮影:伊藤 幸司=21時09分
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【197】撮影:伊藤 幸司=21時10分
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【198】撮影:伊藤 幸司=21時13分
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【199】撮影:伊藤 幸司=21時14分
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【200】撮影:伊藤 幸司=21時14分
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【201】撮影:伊藤 幸司=21時28分
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【202】撮影:伊藤 幸司=21時31分
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【203】撮影:伊藤 幸司=21時35分
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【204】撮影:伊藤 幸司=21時36分
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旅の後先 3────3日目夜の矢野 博子
2日間 京都を皆さんと歩いた後は 京都府八幡市に嫁いだ高校の同級生に京都を案内してもらいました。糸の会では 洛北がメインでしたので 彼女の縄張りである京都の南の方を歩きました。
3日目は 石清水八幡宮に上がり 前日 皆さんと歩いた双耳峰の比叡山を遠くに眺め また  伏見界隈では 龍馬が利用していた旅籠の寺田屋とか 鴎外の高瀬舟の舞台でも有名な宇治川の派流で十石舟に乗船し 新緑を楽しみました。

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【205】撮影:矢野 博子=11時13分
京都府八幡市石清水八幡宮の境内の竹林。
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【206】撮影:矢野 博子=14時19分
宇治川派流の水辺にある酒蔵。新緑が 眼に鮮やかだった。
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【207】撮影:矢野 博子=14時20分
宇治川派流を行く十石舟 鴎外の高瀬舟の舞台となった所。
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【208】撮影:矢野 博子=14時34分
竜馬が 京の宿として利用していた寺田屋。
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【209】撮影:矢野 博子=14時47分
竜馬に急を知らせるため おりょうが 駆け上がった裏階段。
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旅の後先 4────4日目夜の矢野 博子
4日目は 宇治に回り 十円玉のデザインにもなっている宇治平等院の均整のとれた建物を見学しました。宇治川を散策していると 太陽の周りに日暈という珍しい現象に遭遇し 更に 女鵜匠が 生後一年になる鵜に特訓を始める所で 物珍しく 暫しその様子を見学しました。 源氏物語に 思いを馳せ 何百年かをタイムスリップした感じです。
京都の魅力は 尽きる所ないな というのが 正直な感想。自然あり 歴史あり 文学あり 芸術ありです。

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【210】撮影:矢野 博子=10時45分
宇治平等院
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【211】撮影:矢野 博子=10時50分
宇治平等院の鳳凰
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【212】撮影:矢野 博子=13時23分
太陽の周りに現れた 環水平アーク 日暈 という現象 彩雲も一緒に見えた。
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【213】撮影:矢野 博子=13時38分
女鵜匠と 生後一年の鵜。
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【214】撮影:矢野 博子=13時41分
生後一年の鵜のトレーニング開始。

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