【撮影】11時38分=伊藤 幸司
JR東海道本線の国府津(こうづ)駅が今回の集合地点となったため、私はたぶん初めてこのホームに降り立ったかと思います。ぐるりと見回すと渡り廊下のような跨線橋が見えたのでそちらに向かいかけたのですが、それは単にホームをまたぐだけのもので、小田原側の地下道が改札口に通じる唯一の道でした。
国府津は、西丹沢の計画のときには千葉方面からJRでやってきて、この国府津駅でJR御殿場線に乗り換えて松田駅で下車するメンバーと、小田急線の新松田駅で下車したメンバーとが合流できるようにしています。ですからJR組にはすでに馴染みの駅だと思うのですが、私には意外な感じのする駅でした。
国府津はもっと重要な乗換駅だと思っていたからです。日本の鉄道史は明治5年(1872)の新橋〜横浜間から始まって全国で様々な路線が開通していきますが、東京〜大阪をつなぐ幹線としての東海道本線は明治20年(1887)に横浜〜国府津間が開通して1日3往復の運転が始まり、2年後には現在の御殿場線を経て静岡駅まで通じたそうです。
丹那トンネルが開通して東海道本線が熱海経由となったのは昭和9年(1034)だそうですから、この駅は(過去のこととはいえ)かなり長い間重要な役割を果たしてきたということになります。
その駅の、現在の様子を
『ウィキペディア』の『国府津駅』は次のように解説しています。
【単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線、合計3面5線のホームを持つ地上駅。単式ホームに隣り合って設置された駅舎はコンクリート造り4階建てとなっている。ホーム間は地下道及び跨線橋で結ばれており、原則として1・2・4・5番線をJR東日本の東海道線、3番線をJR東海の御殿場線が使用している。3番線の下曽我方に御殿場線の0キロポストがある。
構内はJR東日本が所有・管理しているが、1番線の事務室付近にJR東海沼津運輸区の国府津詰所がある。両社の財産上の境界(財産境界)は下曽我方にある第一場内信号機(最も外側の信号機、小田原厚木道路の北)に設定されている。
JR東海御殿場線の線路は下曽我方でJR東日本東海道線の上り線を高架橋でまたぎ、御殿場方面につながる。JR東海御殿場線は当駅と下曽我駅の中間までJR東日本国府津車両センター出入区線(出入庫線)が並行するため、ここまでの間は複線のように見える。車両センターへの出入りのため、一部列車は当駅が始発・終点となっている。出入区線には社員輸送車も運行されている。
また、これとは別に御殿場線の線路から駅構内で東海道貨物線へ接続する貨物線もあるが、これは高架橋ができる前の御殿場線のルートを流用している。御殿場線の定期貨物列車がない今では東海道貨物線経由列車の出入庫に使用されている。】
鉄道に詳しくない私にはよくわからない説明ですが、そういう「わかりにくさ」がこの駅には漂っていました。
【撮影】11時45分=伊藤 幸司
国府津駅の改札口で全員が集まり、ここから出発。山の中とはまったく難易度の違うルートハンティングになると思いましたが、ここから「10分交代」でたまたま先頭に立った人が進むべき道を選んでいきます。
【撮影】11時47分=伊藤 幸司
これは駅舎が終わったところにあった道標。【国府津・蘇我の里散策コース 起点 歩行距離 8.7km 平成元年度】とありますが、この道標自体はごく最近のもののように思われます。写真をよく見ると下の方にラベルが貼られていて、それがどうもこの道標自体の登録票のように思われますが、オリジナル画像を拡大しても読めませんでした。
今回はネット上で
『小田原市観光課』の『ウォーキングタウンおだわら散策マップ 東部版』を見つけて、その『国府津・曽我丘陵ウォーキングコース』をたどるという計画を立てました。その道筋を2.5万地形図に落とそうとしたのですが、道筋は複雑で作業を放棄、ネット上の散策マップを全員に配布しました。でも道標がしっかりしていなければたどりきれないような、丘稜のけっこうむずかしい道だと想像してきました。だからこんな立派な道標があると知って一安心……だったのです。
でもその私たちがたどりたい「国府津・曽我丘陵ウォーキングコース」は国府津駅から下曽我駅までの【10.2km、約3時間】で、この道標にあるのは「国府津・蘇我の里散策コース」で歩行距離8.7km。ネットの『ウォーキングタウンおだわら散策マップ 東部版』にはこちらの【国府津・蘇我の里散策コース】があって7.9km、約2時間40分とありますから、道標との食い違いがありますが「曽我丘陵」コースと「蘇我の里」コースは790m先の菅原神社まで一緒ですからそれまでにいろいろなことがわかるだろうと、まずは安心したのです。
【撮影】11時51分=伊藤 幸司
駅前の国道1号線に出て、ほんのちょっと小田原方面へと進みました。正面に見えているのは神山(箱根山最高峰 1,438m)と駒ヶ岳(1,356m)だと思います。地方銀行としては特別な歴史と地位を保っている横浜銀行の看板がたまたま入ってしまいましたが、写真で見ると象徴的です。
【撮影】11時52分=伊藤 幸司
国道1号線の、まだ国府津駅前といっていいところにこんな雰囲気の建物が何軒かありました。
なにやら由緒ある建物かと思って撮ったのですが、帰って調べてみると、役場でも、郵便局でも、銀行でもないようで、要はフツーの建物らしいのです。しかもこれが「看板建築」と呼ばれている木造建築物なんだそうです。
『神奈川県高等学校教科研究会 社会科部会地理分科会』の『変わりゆく神奈川県』というホームページの中の『西湘地区No.5-1 』というものらしいのですが、そこにこの建物の写真があって【看板建築の一種で、一階部分が出桁造りのように張り出している。後部が木造であることがわかる。】と解説されていました。
私は完全に意表をつかれたかっこうですので、この部分の文章全部を引用させていただきます。
【西湘地区No.5-1 趣ある建物が急減する国府津(こうづ)駅前(小田原市)
2007年12月作成
1.鉄道の町として栄えた国府津
JR国府津駅は、1887(明治20)年に東海道線が横浜駅(現在の横浜駅とは異なる)から国府津駅まで開通した際に開業した。そのすぐ2年後には、東海道線が現在の御殿場線のルート(山北・御殿場経由)で静岡まで開業するが、御殿場駅までの急勾配区間用に国府津駅で補助機関車を連結した。このために国府津には機関庫が設けられ、一大鉄道基地として重要な役割を果たすようになった。さらに、1925(大正14)年には横浜・国府津間が電化され、国府津駅で電気機関車と蒸気機関車を交換するようになり、さらに活況を呈するようになった。
しかしこの急勾配は輸送上のネックとなり、1934(昭和9)年には熱海と函南の間に丹那トンネルが開通して熱海経由のほうが東海道線に、御殿場経由の旧線が御殿場線となった。熱海経由の新線は、平坦でありしかも最初から電化されていたため、補助機関車の連結や機関車の交換も特に必要なくなり国府津機関庫の重要性は低下したという。しかし、国府津機関庫は御殿場線と東海道線の機関車の基地としての役割を果たし続け、国府津は鉄道の町として栄えた。
また、国府津駅前には明治21年創業の旅館「国府津館」があり、伊藤博文をはじめとする明治の政財人が訪れた記録が残っている。かつては現在よりも建物が大きく料亭でもあったため、国府津館に泊まりに来たり、大磯や小田原に別荘を構えた人が食事に訪れていた。今でも館内には、西園寺公望・渋沢栄一・山本五十六などの書が掲げられている。
2.レトロな魅力あふれる国府津駅前商店街
国府津駅周辺には鉄道省(→国鉄→JR)の職員の住宅が並び、鉄道職員やその家族を主な客とする商店街が東海道(国道1号線)に形成された。1923年の関東大地震により大きな被害を受けたため、その復興の際には道路の拡幅も行われた。その前後に建築された「出桁造り(だしげたづくり)」や「看板建築」と呼ばれる建物は、戦災を免れてつい最近まで多数残っていたが、老朽化のため急速に数を減らしている。
「出桁造り」は商家の和風建築として昭和初期にかけて建築された。現在は店を閉めている所が多いが、国府津にはまだこのような建物が残っている。これに対して「看板建築」は関東大震災以降に主に建設され、木造であるが通りに面した部分を平面にしてモルタル(またはその上から銅板などを覆うこともある)を使って仕上げ、場合によってはモルタルで凝った装飾が施される場合もあった。看板建築といっても、看板を作りつけにしたものではない。またこのほかに、同じ頃作られた洋風の建築物もある。
2002(平成14)年度に小田原市が行った「国府津地区国道1号周辺まちなみ調査」でこれらの建物の重要性が示されると、地元の意識も変わった。商店街(国府津商工振興会)では街並みの保存やイベントの開催を行うなど、これらの建物を積極的に活かそうという機運が高まった。その後、老朽化したアーケードが撤去されて商店街の雰囲気も大きく変化した。国土交通省による電線の地中化工事も進められる一方で、老朽化する出桁造りや看板建築の減少は急ピッチで進んでいる。[県立鶴嶺高校 能勢博之]】
【撮影】11時58分=矢野 博子
駅から暫くは市道を歩き この神社の脇から国府津曽我丘陵ウオーキングコースに入って行った。
【撮影】11時59分=伊藤 幸司
高架となっている東海道本線をくぐるとすぐに、盛土状態の御殿場線を「制限高3.6M」というトンネルでくぐりました。出たところが菅原神社。
【撮影】12時00分=伊藤 幸司
菅原神社のところにあったのがこの道標。上にあるのが私たちがたどろうとしている【国府津・曽我丘陵ウォーキングコース】で下が【国府津・蘇我の里散策コース】。上の案内に従ってJR御殿場線の下曽我駅まで行って、下の道標に従ってここまで戻ってくるという計画です。
この道標をよく見ると【H26.3 小田原市観光課】とありますから6年前に設置されたものとわかります。私が2.5万地形図でたどれなかった丘陵地帯のデリケートな道筋も、標識さえ見落とさなければ歩けると考えていい、とホッとしました。
【撮影】12時01分=伊藤 幸司
この菅原神社が国府津にとって重要な神社だということは12月25日の納め天神と1月25日の初天神にはこの境内に露店が並ぶということでわかりますが、もっと重要なことを伝える新聞記事がありました。
『他にはない神奈川のニュースを! 神奈川新聞 カナロコ』というサイトに『半世紀ぶりの「神輿渡業」復活…保存会の情熱実る/小田原・菅原神社』『神奈川新聞 2010年04月29日 22:50』がありました。
【五十数年ぶりの威風堂々―。小田原市国府津の菅原神社(近藤光孝宮司)で29日、神輿(みこし)渡業が催された。担ぎ手不足や交通量の増加などから戦後間もなく途絶え、担ぎ手の記憶すら残されていないものの、市内のみこし保存会の「担いでみたい」という情熱が“復活”を後押しした。
神輿は1931(昭和6)年製。高さ4メートル、幅3メートル、重さ2・3トン。屋根に重さ60キロの鳳凰(ほうおう)が乗る。「先代は海に流されてしまったので、より大きな神輿を造ったんだよ」。同神社役員の釼持廣次さん(86)は説明した。
菅原道真公を祭る同神社の神輿渡業は、道真公の誕生日(4月25日)に催す例大祭。その御霊(みたま)を神輿に移して町を練り歩き、加護を願う伝統行事だ。
かつては国道1号から海岸を経て、現在のJR国府津駅近くまでを往復した。戦後は台車に載せ、牛に引かせた年もあったが間もなく途絶えた。「神輿を担げる氏子が減ったし、国道1号の交通量が急増したからね」。もう一人の役員、古谷幸雄さん(86)は振り返った。
2人とも担いだ経験はない。しかし、白装束の担ぎ手が神輿を何重にも取り巻く様は今でも覚えている。「最低60人いないと担げない。交代を含めると200人は必要だ」。2人は目を合わせてうなずいた。「勇ましくもむのではなく、本来は静々と巡行する」
元日に必ず神輿を収めた倉庫の扉を開けることから、みこし保存会メンバーが「担がせて」と要望を重ねていた。
この日は、約220人が同神社に集まり、法被姿で神輿を担ぎ出し、神社横の市道約150メートルを往復した。「こんな立派な神輿があったなんて」と沿道の住民。半世紀余を経て現れた伝統に感慨深げな様子だった。】
【撮影】12時02分=伊藤 幸司
この道標が指し示す方向に進めば、75分で4.4km先の「六本松跡」にたどり着けるとわかります。
【撮影】12時04分=伊藤 幸司
この道の右上も左下も墓地になっています。時宗の海向山光明寺というお寺の境内を突っ切っていくという道なんでしょうか。みなさん何かを見ています。
【撮影】12時04分=伊藤 幸司
ちょっと残念な状態ながら、富士山がありました。
【撮影】12時05分=伊藤 幸司
前の写真と同じ位置から広角で撮ってみたら、富士山が消えてしまいました。どこにあるかというと、山並みの右端にポチッと飛び出た小さな突起が矢倉岳(標高870m)だと思うのですが、そのすぐ左にあるのです。箱根の山並みはその左に緩やかに盛り上がって一番高く見えるのが明神ヶ岳(標高1,169m)、その左にふたコブが2組見えていますが、右側が神山(標高1,438m)と駒ヶ岳(標高1,356m)、左側のふたコブは二子山(1,091m)だと思います。
【撮影】12時05分=伊藤 幸司
箱根火山の中央火口丘の部分をアップしました。右から神山(箱根火山最高峰)、駒ヶ岳(ロープウェイ山頂駅)、二子山(上二子山と下二子山)となります。
【撮影】12時05分=伊藤 幸司
もう一度富士山を撮りました。矢倉岳の左にモワ〜っと白いのがそれなんですが、わかりませんね。12時04分の最初の写真では富士山の手前に高圧電線の鉄塔がありますが、その鉄塔がこの写真にも写っています。
【撮影】12時07分=伊藤 幸司
山道という感じになりましたが、道は舗装されています。まだ農道なんですかね。
【撮影】12時08分=伊藤 幸司
森のなかに入ったかと思ったら、1分後にはミカン畑。ガッチリ作られた柵はイノシシ対策でしょうか、根本にスイセンの花が咲いていました。じつは12時00分に菅原神社のところにあった立派な道標の隅に黄色いテープが貼ってありましたが、オリジナル画像で拡大してみると【イノシシ等の野生動物にご注意ください。】とありました。
【撮影】12時11分=伊藤 幸司
道はまた小さな森を抜けていきます。この道だと乗用車で突っ込んでいくとかなり不安になりますが、軽トラックでの作業道路としては問題ないのでしょう。でもこんな道、2万5,000分1地形図でたどろうとしても、お手上げですよね。
【撮影】12時11分=伊藤 幸司
ここもミカン畑なのですが、厳重な柵はありません。赤というか、紫というか、いかにも元気そうな花はイモカタバミかその仲間のように思われます。カタバミと証明したい葉っぱを確認できていませんけれど。
【撮影】12時13分=伊藤 幸司
丘稜の道に対して、農地がこんなふうに点在しているんですね。神奈川県の海岸部の丘稜地帯はこんなふうに徹底的に開かれている……と感じました。これから先がどんなふうに展開するかわかりませんが。
【撮影】12時14分=伊藤 幸司
真夏には、この木々が日差しを遮ってくれる、という感じなんでしょうか。丘稜の稜線に沿って道を開き、小さな農地を点在させた歴史がありそうです。
『小田原市』のホームページに『小田原市農業の概要』という解説があり、そこに曽我丘陵が出てきました。
【温暖で穏やかな気候と豊富な水に恵まれている本市の農業は、市の中心部を流れる酒匂川流域に広がる水田地帯の稲作と、南部から西部にかかる箱根山麗、東部の曽我丘陵に見られる樹園地のミカンを主体とした果樹に大別されます。
また、東部、下中地区では畜産が盛んに行われています。】
【近年、ミカンの生産が価格の不安定から下落の傾向にあり、また、水田の転用とこれに伴う農業従事者の減少および国の施策による需要調整により米は年々減少しています。そのため、ミカン園地ではキウイフルーツや梅へ、水田では野菜、イチゴ、花き等への転換により、集約的な栽培で自立経営を目指す農家が増加しています。また、落葉果樹では、梅が本市の特産として曽我地区を中心に古くから栽培されているほか、梨は酒匂川流域を中心に栽培されており、今後、土地基盤整備事業による道路網の整備と相まって観光事業として発展が期待されています。】
【撮影】12時16分=伊藤 幸司
これは撤退したミカン農家があるという証拠です。かなり以前から急傾斜地でのミカン栽培にはモノレールが活躍してきましたが、それがここでは稜線を越えて動いていたのでしょう。ずいぶん前から放置されているとわかります。
【撮影】12時17分=伊藤 幸司
突然、こんな道が出現しました。私の手元にある地図をひととおり見ても、ここがどこだかわかりません。ひょっとすると、私たちはいま「上ノ山農道」というのをたどっていてウォーキングコースのプリントにある「橋を渡る」というところのように思われます。狭いながらも上質の車道は、だれがどのように利用している道なのでしょうか。
【撮影】12時18分=伊藤 幸司
その「橋を渡る」のすぐ先、道際にこんなものがありました。「第96回箱根駅伝」というのは2020年、すなわち今年のものです。それがなぜこんなところにあるのかわかりませんが、もとよりここにこんなものたちが置かれているのにはどのようなきっかけやら、意味やら、があるのか、不思議です。ポイと捨てられたものではないように思われて、気になりました。
【撮影】12時18分=伊藤 幸司
箱根駅伝の旗のところから南側の展望が開けました。相模湾が広がっていたのですが、眼下に国府津駅が見えました。
国府津駅はほとんど海岸線にあるんですね。その狭い空間に国道1号線が走り、有料道路の西湘バイパスが並走しているようです。その国道1号線を箱根駅伝の走者は走ったので、ここからその賑わいが感じられたかもしれないとは思います。直線距離にしたら500mぐらいでしょうか。人がいたら腕や足が判別できる距離です。
【撮影】12時25分=伊藤 幸司
道端に座ると気分がおおらかになる場所がありました。時間からして、お腹も減っています。気温は14℃、日差しもありませんが、風がないのでゆったりと寛ぐことができました。先頭の人たちが決めた休憩ですが、あとから振り返ってもいいひと休みだったと思います。
【撮影】12時26分=伊藤 幸司
その休憩地点からは、箱根の山がこんなふうに見えていました。
【撮影】12時27分=伊藤 幸司
休憩地点の背後には害獣よけの金網があって、そこにスイセンの花がありました。撮ったときには元気な感じ、だとか、ちょっとゴージャスな感じという程度で気づきませんでしたが、八重咲きスイセンだったのですね。
新しい品種なのかと思って調べてみると
『アメバブログ』で『MONZO』さんが『水仙の品種(4)八重咲きスイセン』というのを書いていました。
【八重咲は、突然変異から生まれたものも多く、交配の親がなんであれ、八重であれば基本的にすべてこの部門に分類されるため、色々なタイプが見られます。
[Cheerfulness]4W-Y;1923
非常に古い品種ですが、小さな花が数輪まとまって咲く姿や、日本水仙に似た甘い香りがあり、今でも人気のある品種で、よく普及しています。】
まさにこのスイセンのことです。【1923】というのがデビュー年なんでしょうかね。
そこで「スイセン 1923」というキーワードで検索してみると、
『公益財団法人 花と緑の農芸財団』というサイトの写真と記事がポンと出てきました。タイトルもない状態で。
「1923」というキーワードが含まれた文章がこれでした。
【やがて鋸山隧道を南下し、鋸南町に待望の鉄道が運行され、保田駅・安房勝山駅が開設される事になる前年1916年(大正5年)8月、並々ならぬ太郎吉の助力に対し「翁の奨励と指導により保田水仙組合を嚆矢として各地に普及せる房州生花の栽培と東京都内の生花市場の潤沢なる活況とは一に懸つて翁の功績に依るものなり」として鋸南町の花卉栽培に携わる人々を始めとする有志たちが前出の「水仙羅漢」を建立、日本寺に奉納しました。太郎吉66歳、日本は第一次世界大戦のさなかでした。
花に魅せられ、花を愛し、「花渡世」ひと筋に生きた内田太郎吉は多くの人々の心に「花の心」を遺し1920年(大正9年)、その天寿を全うしました。享年70歳。太郎吉が花問屋としての使命感から夢見た生花の市場制度が確立されたのは1923年(大正12年)の事でした。】
続いて……
【内田太郎吉の貢献によって鋸南町に名産物としての水仙栽培が根付き、その本場として日本中に知られるようにもなりましたが、そもそも鋸南町に日本水仙が群れ咲くようになったのはいつ頃のことなのでしょうか。地中海沿岸を原生地とする現在の説によると、水仙はシルクロードを辿り中国を経て渡来したものだとされています。
鋸南町の水仙の歴史を遡るといくつかの伝承・伝説に辿り着きます。
そのひとつ――「秀東寺の和尚が中国から水仙をもたらし植えた。それが広まったのが保田水仙のはじまりである。故に、ある時代まで水仙のことを秀東寺花と称した」 というもの。現在も鋸南町にある秀東寺は1384年(至徳元年)に創建された臨済宗建長寺派のお寺です。『鋸南町史』では古老による聞き伝えとして「真否は断定できないが一応書き残しておく」としています。ちなみに「保田(ほた)」というのは、水仙の産地で現在も残る鋸南町にある地名です。】
房総の伊予ヶ岳(標高336m)から富山(標高349m)へと歩くと、気持ちのいいスイセン風景が続きますよね。
そこでスイセンについてもう一歩、京大系植物学者・麓次郎さんの大著『四季の花事典 花のすがた・花のこころ』(八坂書房・1985年)で「スイセン」を見てみました。
すると、書き出しがこうでした。
【──ヨーロッパの文化とスイセン
谷また丘のうえ高く漂う雲のごと
われひとりさ迷い行けば
折しも見出たるたる一群の
黄金色に輝く水仙の花
湖のほとり 木立の下に
微風の翻りつつ はた 踊りつつ
…………
独り居の喜びなる胸の内に
水仙の花 屡々 ひらめく
わが心は喜びに満ちあふれ
水仙とともにおどる
(『ワーズワース詩集』田部重治訳 岩波文庫)
これはイギリスの生んだ最も偉大なる自然詩人、ワーズワース(1770ー1850)の詩であるが、冬枯れの侘しい早春に美しく花咲くスイセンは人々に希望と喜びを与える植物として古くから親しまれてきた。
かの有名なホメロスも「水仙は驚異の花、燦然と輝く」と、春とともによみがえる宗教的な表徴としているし、マホメットは「二片のパンを持つ者はその一片をスイセンの花と換えよ、パンは肉体に必要なものであるが、スイセンは心に必要なパンである」と述べている。】
解説はスイセンが地中海沿岸の花であるということから、それが中国〜日本へと伝わったという流れになるのですが、それに触れる余裕は、ここではありません。
ではなぜワーズワースの詩などを紹介したいと思ったのかというと、訳者の「田部重治」を素通りできなかったからなのです。
ワーズワースの研究家としても知られているという英文学者の田部重治は立山連峰を見上げながら育って日本アルプスでの探検的な登山を晩年まで続けたうえに、奥秩父の先駆的登山も敢行、日本山岳会でも活動し、昭和4年の著書『山と溪谷』は後に同名の雑誌が生まれる契機ともなったといわれています。東沢溪谷を初遡行して甲武信ヶ岳に登ったのは大正4年(1915)で、西沢溪谷と東沢渓谷の分岐点には「田部重治文学碑」がありますよね。ところがこの人は自分の名前の読まれ方に寛容だったらしく登山界では「たべ」と呼ばれることが多かったやに思われます。いま私の手元に雲取山荘で購入した『田部重治の登山と英文学』(五十嶋一晃著・田部重治研究会発行・2014年)がありますが、姓名は「たなべ・じゅうじ」が正しいと、前文できちんと説明されています。ちなみにウィキペディアの記述も正しいようです。
……でもそれでもなぜワーズワースで田部重治なのかというと、私が「発見写真旅」として始めたこの写真展示を「山旅図鑑」と改名したその「山旅」は単に「軽い登山」という意味ではなく、田部流山旅をひそかに追求したいと考えてのことなんです。だから、ここで「田部重治」の名が出てきたら素通りはできなかった、スイセンなんかより重要だ、ということになったわけです。
そこで手元の『田部重治の登山と英文学』の第一章の文頭から、引用させていただきます。
【田部重治は、《峠や高原の山旅から、より高い・より困難な登山》に至る幅の広い、個性的な登山活動を求め、特に山登りの方法や思考を規制しない登山観であった。したがって特定の主張や固定観念でとらえてはならない。
しかし現実に田部の登山は《静観的登山》という言葉で代表され、観賞的山登り、つまり、冷静に人生や自然などを思索する登山であるというイメージで受け止められている。田部は峠や高原などを逍遥する山旅も行う。しかし、一般的には、それのみであると認識されていることが多い。それは田部の「静観的」という登山とは異なっている。】
【田部の登山観を一語で表現する「山旅」という言葉について、自伝的回想記『わが山旅五十年』(1964・昭和39年刊)の「自序にはこう書かれている。
『山旅という言葉は、日本の登山を表わすに好適な表現だと、私は前から信じている。ヒマラヤやアルプスの登山を山旅と称することは、決して適切な表現とは思われない。しかし日本に於いては、登山の旅は、単に山頂だけでなく、峠、高原、山湖、溪谷、森林、時に山村などをも対象とする山岳地方の旅を含み、且つこれ等のものは、山頂に劣らず、それぞれ独立の価値を」もって、登山者を誘引する魅力をもっているので、山頂およびこれ等一切のものを含む登山の旅を、山旅という」言葉をもって表現することは極めて適切であると思う』と表わし、田部の《山旅》を定義づけた。】
【撮影】12時27分=伊藤 幸司
休憩場所にウメの木がありました。じつは恥ずかしながら、私はパッと見て「梅だ!」というふうにいえないのです。この時期にこんな花がついていれば「梅だろう」とは思うのですが、これなども一瞬「梅かな?」というところ。
なぜかというところに気づいて「梅の木の剪定方法」と検索してみました。
『暮らし〜の』の『ガーデニング』に『梅を剪定しよう!時期や方法をご紹介!梅切らぬ馬鹿とはどういうコト?』(2020年03月03日更新)がありました。
【梅の剪定は春夏冬の3つの時期に行います。「桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿」ということわざがあるように、桜の枝は切らないほうが良いですが、梅はよく枝が成長し、多少の強い剪定にも耐えられます。そのため梅は必ず剪定をしたほうが良いです。剪定をすることで木全体の見た目が綺麗になる他、日当たりが良くなり栄養を梅の木全体に行き渡らせることができ、害虫の予防にもなるため適切に手入れをしましょう。】
【徒長枝とは────徒長枝とは勢いよく真っ直ぐ伸びた枝のことです。そのままにしておくと徒長枝ばかりに栄養が集中してしまい他の枝の成長が遅れてしまうので短く切るなどの手入れが必要です。】
【切り戻しとは────切り戻しとは伸びた枝を短く切ることです。剪定は主に切り戻しのことを指し、「切り戻し剪定」とも言われます。】
【間引きとは────間引きとは密集している部分の一部の枝を切り戻して数を少なくすることです。間引きをすることで栄養を他の枝に集中させることができ、よく成長します。】
思いっきり選定したウメの木とこの木の顔つきが全然違うんですよね。
【撮影】12時27分=伊藤 幸司
花をアップにしておきました。花数はけっこう多いとしても、なんだか華やかさに欠けている、と私は感じるのです。
【撮影】12時27分=伊藤 幸司
ここでの休憩は、私のメモでは「1223−33」となっています。公式記録としては1225−35となるのでしょうか。こんな場所での寒くない10分休憩だと、行動食のパンを1つか、おにぎりを1つ食べるというのがおおよその目安です。保温水筒の温かい飲み物も重要だとみなさん言いますが、私は寒くても暑くても、基本はペットボトルに入れた水道の水です。
【撮影】12時31分=伊藤 幸司
休憩した地点から見えた家。じつはここまで来て、この道の周辺に家はあるけれど住んでいる人はいるのだろうか、と思うようになりました。車で簡単に登れるようになる以前から斜面は拓かれていたのでしょうから、当然人が住んでいたのだと思います。でもいま見る家のほとんどは家族が本格的に住まいとなった時代があったとは思えない「小屋」に近いサイズに見えます。作業小屋というには立派だと思うのですが。
【撮影】12時32分=伊藤 幸司
これも休憩地点からの風景です。海が見えます。街は、小田原です。箱根の山はどんどん霞んでいくようです。
【撮影】12時33分=伊藤 幸司
10.2km、約3時間のコースのうち2.1kmを約50分で歩いたことになります。標準設定で時速約3kmのところ、私たちは時速約2kmでここまで来た、ということになります。もっとも10分の休憩を除外すれば時速約3kmで歩いてきたということになりますけれど。
【撮影】12時35分=伊藤 幸司
前方になにか大きく開けた世界があるようです。正面にカーブミラーがあるので、こちらより太い自動車道があるのでしょう。
【撮影】12時36分=伊藤 幸司
これがカーブミラー。支柱のところには左へ行くと六本松跡で、曽我梅林も左という標識がついています。
【撮影】12時36分=伊藤 幸司
たしかに立派な道になりました。これがハイキングマップにある「西山農道」で、トイレマークのあるところです。
【撮影】12時39分=伊藤 幸司
道際にこんな植物がありました。私には草か木かもわかりませんが、こんな場所でこれだけのボリュームを作れるとすると、都会での壁面緑化にも活用されているものかも、と思いましたがわかりません。
【撮影】12時39分=伊藤 幸司
その、垂れ下がる植物の花です。
【撮影】12時39分=伊藤 幸司
こちらは紫色の花。白花と同じ植物かどうかもわかりません。葉に特徴があるので、調べようもあるかもしれないと思うのですが、わかりません。
【撮影】12時40分=伊藤 幸司
この西山農道からは丹沢の大山(標高1,252m)が見えました。
【撮影】12時41分=伊藤 幸司
人が寝泊まりできる程度のプレハブ小屋だった……のでしょうが、廃墟です。背後には集荷用のモノレールがあったのでしょうか。
【撮影】12時42分=伊藤 幸司
ここでは一瞬、別荘開発が行われたのじゃないかという雰囲気を感じました。農道といっても、奥武蔵グリーンラインのように観光道路として開発されたものもあります。私たちは正面左側の道へと導かれるようですが、この複雑な接続にはなにかドラマがあるように思われますよね。
【撮影】12時43分=伊藤 幸司
道はまた軽トラック専用道路という感じになりました。
【撮影】12時44分=伊藤 幸司
たぶん、あの立派な西山農道から、いかにも農作業道路という雰囲気の五国峠農道になったのでしょう。この五國峠農道記念碑がハイキングマップには載っています。
そしてこの石碑は「昭和二十七年三月」となっています。
【撮影】12時45分=伊藤 幸司
これはいわゆるニホンスイセン。12時27分の写真でキャプションの脱線原因となった本『四季の花事典 花のすがた・花のこころ』(1985年・麓次郎 著・八坂書房)にはこう書かれています。
【もともとこの日本のスイセンは暖流に沿った沖縄、九州、四国から千葉県の銚子付近までの太平洋沿岸と日本海側では越前岬から能登半島、富山湾までの地域に野性的に分布している。これは昔に中国から入ったものが野生化したものとも、この球根が暖流に流されてきて定着し増加したものとも言われ、その起源は定かではない。とにかく実際に群生しているところを見ると、海岸の砂地、崖、低山地、畑の周辺など、日当たりのよい所ならどこにでも生育しているし、球根は海水に浸っても、その後の生育に少しも支障がみられない。案外このスイセンにも、遠い国からのロマンが秘められているのかも知れない。それがいつ頃であるか判然とせぬが、『下学集』には「水仙花、日本の俗名雪中華、この花八石を食すれば水仙となる」と記され、また、『蔭涼軒日録』に「正月十日紅梅数枝並水仙花数茎也」とあって、室町時代当時には少なくともすでに知られ、かつ利用されていたものと思われる。】
そう知ると、小田原のこのスイセンがはるか昔に中国からひとり漂着した水仙の末裔のようにも見えてきます。
【撮影】12時45分=伊藤 幸司
帰化日本水仙を祖先にもつかも知れない生粋のニホンスイセンの顔立ちです。
【撮影】12時45分=伊藤 幸司
道筋にいかにもミカン畑という雰囲気があったのはこれが最初だと思います。手入れされた柑橘類の畑は、東京湾を挟んだ房総半島の富山周辺と似ていると思いました。
【撮影】12時49分=伊藤 幸司
この道をこの日たどるハイカーが何人いるのか想像できない「新型コロナ」の戦時下で、かつ平日なのにこれだけの直売があるということに驚きました。
湘南ゴールド、デコポン、レモンが一袋百円……ということで「湘南ゴールドがものすごく安い」という主婦的意見によってひと袋をみんなで試食して、それからミニ爆買い。この湘南ゴールドはこの日街に下りただけで見た目の値段がド〜ンと上がりました。
じつは私はこの「湘南ゴールド」を知りませんでした。……が、すでにウィキペディアにもありました。
『ウィキペディア』の『湘南ゴールド』を読むと新顔の特産品だということがわかります。
【湘南ゴールド(しょうなんゴールド)は、神奈川県が開発した柑橘類の品種。「今村温州」と神奈川県西部で採れる「ゴールデンオレンジ(黄金柑)」の交配により作られた。交配後その実生の中から選抜、増殖を行いながら特性の調査を継続し、1999年にその特性が安定していることを確認して育成を完了した。交配後、12年かけて品種登録を行い、2006年から出荷を開始している。】
【2010年、松沢知事(当時)は、湘南ゴールドの生産量拡大に力を入れ、横浜駅西口の百貨店、横浜高島屋で自ら店頭に立ち湘南ゴールドの実を握って「必ず神奈川のブランドになる。(宮崎の)東国原知事のマンゴーに負けられない」と力説した。また、2012年、黒岩知事(当時)は「かながわ食の大使」でパティシエの柿沢安耶と横浜高島屋で湘南ゴールドを使った野菜スイーツ作りを実演し、湘南ゴールドを宣伝した。2014年には栽培園を訪れ、本格的な出荷に向けた初もぎを行った。】
【撮影】12時50分=伊藤 幸司
湘南ゴールドの直売があった場所の背後の斜面です。この地域の特色なのかわかりませんが、農地の区画が素人目にはよくわかりません。最盛期を過ぎたスケスケ状態の果樹園地帯というふうにも見えてきます。
【撮影】12時54分=伊藤 幸司
高圧電線が私たちの頭上を横切っていました。今回丘陵地帯の複雑な道をきちんとたどれる資料がないためお蔵入りになっていた国土地理院の地形図(2万5000分1地形図、私は略して2.5万地形図としています)を見直したところ、私たちが通ったルートとこの送電線が交差する場所は、東海道新幹線の弁天山トンネルの上だとわかりました。
国土地理院の地形図には高圧送電線が記載されているので、展望に恵まれない低山を歩くときには、現在位置を確認できる重要なランドマークだというのが常識だったのですが、じつはそれがだんだん怪しくなってきました。送電線網が急激に拡充されてきたためか、あっちの送電線は地図に載っているけれど、こちらのは載っていないということがときどきあるのです。
地図の修正が追いつかない、というふうに感じていたのですが、そこに電力会社がテロを警戒しているという理由で国土地理院に対して送電線を地図に載せることに対して強く警戒しているという噂が伝わってきたのです。
じつはこの送電線鉄塔はGoogle マップでもはっきり見えるんです。……ところが今後国土地理院の地形図には送電線が描かれない、ということになったようです。
『専修大学 地形学研究室』のブログに『送電線が地図から消える』(支配人K 2012年01月30日)というのがあるのです。
【これ,地図・登山関係者の間では以前から知られていたけど,毎日新聞が取りあげたのでここでも紹介する.
電子地形図とは,国土地理院が展開している「電子国土」のこと.
----------------------------
◎送電線:電子地形図から消える 電力10社情報拒否
地形図の電子情報化に伴い、国土地理院が電力会社10社に送電線や鉄塔の位置について情報提供を求めたところ、全社がテロなど安全上の問題を理由に提供を拒否し、送電線などの表記が最新の電子地形図から消えたことが分かった。送電線の記載は、登山などで現在地を確認する際に利用されており、日本地理学会などは掲載の継続を求めている。【中西拓司】
送電線や鉄塔の記載が消えたのは、国土地理院の電子国土基本図。従来の紙の地形図(縮尺2万5000分の1)に代わるものとして、昨年2月からインターネット上で公開している。
従来の地形図は現地での測量に基づいて作製していたが、電子国土基本図は航空写真に、自治体や法人などから寄せられた道路や建造物の位置情報を反映させて作っている。
送電線や鉄塔などは航空写真では確認しにくいため、国土地理院は昨年末までに電力各社に位置情報の提供を求めた。ところが、いずれも「保安対策上の問題」を理由に提供を拒否されたという。関西電力の担当者は毎日新聞の取材に対し、「位置情報がテロなどに悪用される恐れもあり、詳細な情報は提供していない」と話す。
これに対し、上越教育大の志村喬准教授(地理教育学)は「送電線や鉄塔の記載は、登山などの際に現在地を確認するのに役立つ。地理や地図学習の大きな障害になる恐れもある」と指摘。日本国際地図学会評議員の田代博・筑波大付高教諭は「ネット上ではより詳細な航空写真が公開されており、時代錯誤も甚だしい。あまりにも秘密主義すぎるのではないか」と話す。
日本地理学会は、鉄塔などの情報を引き続き電子地図に掲載するよう求める意見書を国土地理院へ提出している。国土地理院基本図情報部の担当者は「利用者からの要望はできるだけ反映させたいが、電力会社から協力が得られない以上、掲載は難しい」と話している。
毎日新聞 2012年1月30日 2時31分
http://mainichi.jp/select/science/news/20120130k0000m040084000c.html
----------------------------
山で調査する場合,支配人は原則紙地図を持参することにしており(忘れることはたまにある),国土地理院の電子地図やその紙出力版だけに頼ることはまずない.結局,現在販売されている紙の地形図には送電線が出ているから当座は問題はないのだが,デスクトップで仕事する場合や,それをベースにして論文用に地図を作り直したりする場合に送電線がないのは結構めんどうだ.ここにコメントされているように,山の地形を調べる場合,送電線の鉄塔が位置同定の鍵になるという側面はかなり重要だからだ.
それにしても,電力会社は何を考えているのだろう.あんなばかでかいもの(鉄塔)を隠したって隠しきれないし,この理屈が通るなら,携帯電話の電波塔,風力発電の風車,水道浄水場,原発等々,地形図から削除しなければならない施設は山と出てくることになる.ほんとうに時代錯誤もはなはだしい.ついでにいったら,(まあ新聞の短文記事を鵜呑みにはできないけど)国土地理院もやる気のない回答ですね.どのくらいやる気がないかといったら,このサイトの「お知らせ」を読むとよくわかる.元締めである国交省には,こういうインフラもまた重要だと考えてほしいのだけど.★ちなみに,コメントされている田代さんは本学・教職課程用「地理学」ご担当.】
じつは私は1980年前後に「ダイヤモンドBOX」という雑誌の編集部として東京電力のイベント用PR誌を8号まで作っていました。特集で「知的熱学」「WATER MANAGEMENT 水の“を・から”を科学する」「都市の熱量経済学」「コントロールのテクニック 最適加減を創り出すシステムとグッズたち」「公園の環境装置を観る アメニティを高める緑・光・水のテクニック」「平成時代の知的省エネルギー」「エコロジストのための電気学」「ピークシフトの哲学と氷蓄熱式ヒートポンプシステム」と続けましたが、最初の約束では「原子力以外はなんでも結構」ということで、都内の水路を貨物船で走ったり、東京電力が水源開発した梓川の源流に奥穂高山荘の発電・配電システムを取材したりしました。……そのときに、いちばんやりたかったのが「送電線ハイキング」だったのですが、それだけはどうしてもだめでした。そのときにも「テロ対策」というのが唯一の理由でしたが、不思議でしたねえ。もちろんテロする側の犯人だとすればこれほどアプローチしやすいターゲットはないんですから。でも取材はできませんでした。
横道にそれたついでにネット上を探してみるとありました。
『関東土木保安協会』のブログで『#500 世界屈指の基幹送電網 東京電力西群馬幹線 〜100万ボルト・巨兵達の雲上行軍〜』(2019-07-07 電力本部鉄塔部)です。
【男達の血と汗と涙の結晶を少しでも多くの人に伝えたい、関東土木保安協会です。
このブログもウダウダと記しながら9年目を迎え、通番上は500回目の記事となりました。
記念すべき節目のところで、今回は私の送電鉄塔への愛を高めた参考書があれば、間違いなく数ページを飾るであろう「西群馬幹線」にフォーカスを当ててみましょう。
大都市、東京。そして周囲に広がる首都圏。
その活動の源となっているのが、東京電力の送電網です。
架空送電線路ではこう長15,000km弱、鉄塔などの支持物数は50,000基超の規模を誇り、名実ともに東京圏の電力の骨格を担っています。
そんな東京電力の送電線にあって、規格外のスペックを持つのが、UHV規格の送電線達です。
中でも西群馬幹線は、それらのなかで最初に運転開始した先駆者です。
戦後、国内の復興と産業の発展に伴い、旺盛に延び続けた電力需要。
物理的に、電圧を上げれば電流をより多く送電できることから、送電網の歴史は昇圧の歴史でもありました。
66kV等の特高圧という区分から、超高圧と呼ばれる275kVまで。
家電の普及が進み、家庭での電化に邁進する1960年代には、500kV(50万ボルト)送電線の開発が進められ、1973年には運用を開始しました。
後に、500kV送電線は外輪系統として、首都圏郊外を東京を囲むように構成されるに至りました。】
【当然、電圧が高くなればそれを遮断するのも容易ではありません。
そして、電圧が印加された送電線は、電流の性質上、どうしても周囲に静電誘導、電磁誘導を発生させ、こちらも電圧が高くなれば比例して影響が強くなります。
このように、電圧が高ければ大掛かりな送電・受変電設備が必要となってしまうのですが、その代償として従来よりも大電力を送電できます。
困難がありながらも、研究をやめないのが人間の進化の性。
技術者達は「いかに電圧を上げるか」という理想を追い求めたのです。
1973年には、1000kVの送電について、官民での研究が既に始まっていたのでした。】
【西群馬幹線らUHVネットワークは、今までの500kV網と経路が少し似ています。
その大きな送電容量から、柏崎刈羽原発、福島第一、第二原発らをターゲットとして連係し、500kV外輪網のさらに外側から首都圏を囲むようなルート選定がなされました。】
【これらルートの実地調査は、1980年代初頭から秘密裏に始まっていました。
西群馬幹線の鉄塔を地図や現地で追ってみるとわかりますが、人間が立ち入ることなど殆どない、いや全くないような山中ばかりです。
東京電力の社員らは、例えいばらの道であろうと、社の威信と社会的使命とを胸に、生々しい熊の引っ掻き傷を目の前にしようと、雨風や雪にも堪えながら、山中を巡り続けたのです。】
【UHV規格の鉄塔の特徴は、まず従来の500kV級鉄塔と比較しても1.5倍近く大柄な鉄塔であることが挙げられるでしょう。
東京電力での黎明期の500kV鉄塔は今となっては全体的にそれほど高くなく、その後の1980年代に建てられた500kV外輪系統の鉄塔は80m級と大きくなりました。
1000kV級の鉄塔では110〜130m級となり、電圧に応じて線間、線下離隔距離を求められるためかなり大柄になっています。
それでも、当初の想定ではもっと大きな140m級の支持物を想定していたようで、研究開発の成果によりこの110m級の大きさで収まった、というのが経緯を踏まえた解になります。
軽量かつ丈夫なハイテンション鋼や設備側あってのこの大きさにして、一基で300t〜400t程度の重量で、かなりの重さになります。
純粋に、誰がどうやって建てたのだろう、の一点に尽きます。
人が入らない山中に、何百基も鉄の巨塔を建てる。
鉄塔達は2年弱で完成しました。
まさしく土木が成す人類の英知の塊です。】
【鉄塔も規格外なら、電線も規格外です。
電流の特性上、電線の外側を流れるため、大容量の送電を行う場合はどうしても電線の表面積を増やす必要がありますが、それに見合った断面積にしては重量ばかり増えてしまいます。
また、太い、すなわちより線が多い電線を用いることは、大気中へのコロナ放電現象を発生しやすくさせ、送電の損失や周囲への障害発生の原因となります。
このため、超高圧送電線は一般的に、複数の同相の電線をスペーサーにて少し離して束ねる多導体という方式がとられています。
UHV規格では、国内最大となる8導体を採用しています。
8導体用のスペーサーは一個で30kgもあり、これが鉄塔間の電線中に何個も設置されています。】
【その重い電線を支える碍子は、絶縁性能と強度から32連を4並列とする、非常に大型かつ重いものです。
碍子は一つで20kg程度。
場所によってはこれを50連4並列としているところもあり、重量はなんと5tにも達しているといいます。】
【これだけの設備、施工の際は大変な苦労があったといいます。
登るだけで数十分。山上の100m上では天候も変わりやすく風速も速い。
東京電力の社員は架線電気工事職人らが異次元の高所でどうしたら安全に作業できるかを考え、様々なアイテムを開発し現場に投入していきました。
俺たちがやらなければ誰がやる。
電気工事士、設計者、彼らの熱い想いとチームワークが実を結び、1年かけて各工区の電線が張られました。
着工から3年8ヶ月の1992年4月、無事運転開始となったのでした。】
【一部では送電線の近隣住民の理解を得られていないため、などとも言われていますが、定かではありません。
ただ分かるのは、UHV竣工時から「当面の間は500kVで運用する」「将来的には1000kVに昇圧して運用したい」と東京電力の公式発表で話していることだけです。
新潟と福島からから来た原発の大電力を、都内へ。
東日本大震災の後の今となっては、原発の恩恵も受けずその構想も夢となっています。
いつかきっと、オーバースペックとなっている彼らが、本来の能力を遺憾なく発揮する日々が来るのを願うばかりです。
しかし、もしその日は来ずとも、彼らの頼もしい背中を見れば、その輝きは誰しも一目瞭然でしょう。
桁違いなスペック。
比類なき技術力。
未知と多難を乗り越えた施工技術。
UHVの先駆者、西群馬幹線。
世界トップクラスの安定した電力供給が行われている日本。
もし、部屋の照明のスイッチを入れるとき、彼らのことが少しでも頭のなかに残っていたならば、思い出してみてください。
我が国が威信を懸けて造り上げた壮大なスケールの生ける土木遺産達のこと。
彼らを設計し、造り、維持している技術者達のこと。】
【撮影】12時55分=伊藤 幸司
こういう絵本に出てくるような田園風景をこれまで見ていなかったと思いました。菜の花なんかがあると一気に春の感じですよね。なんか、育てている人の存在が加わったような光景だと思いました。
【撮影】12時55分=伊藤 幸司
菜の花で思い出すのは2016年3月15-16日の糸の会「春の奈良ハイキング」、1日目の16時24分に本薬師寺跡から天の香具山へと向かう途中でキャベツの花が咲いていたことです。キャベツの花も菜の花だとは知りませんでした。
『ウィキペディア』では『菜の花』をこう説明しています。
【菜の花(なのはな)は、アブラナ科アブラナ属の花の総称。特にアブラナまたはセイヨウアブラナの別名としても用いられる。また、菜花(なばな)は、ナタネ、カブ、ハクサイ、キャベツ、ブロッコリー、カラシナ、ザーサイなどアブラナ科アブラナ属で主として花を食するものをいう。】
【撮影】12時56分=伊藤 幸司
同じ場所で広角側で撮ると梅の花が入りました。どこにでもありそうな丘稜の春。ここまでの道では、こういう気分が欠落していたな、と思いました。
【撮影】12時58分=伊藤 幸司
私の好みでは椿の花は地面に落ちたところ、のような気がしていたのですが、これはなんだ、この吸引力のある赤は、という写真になりました。もちろん他のすべての写真と同じに、カメラ任せで撮ったままです。
どうしてこんな色になったのか……。わかりませんが日差しが特別なライティングとなって、この赤を生み出したのでしょう。
正直に言うと、撮った時には整った雰囲気の花だとは思いましたが、それほど強く色に惹かれたわけではなかったと思います。振り返ると私と妻とはものの見え方が違っていて、形に反応する私と色で記憶する妻とは、ときどき違う人種かと思ったものです。
この色が花言葉に反映されているかどうか調べているうちに、個性的な解説と出会いました。驚くほど? の長文ですけれど。
『歌う花言葉、愛と希望と感謝の思いを伝えよう』という山口純平さんという人の個人サイトらしく『椿の裏花言葉は怖い!由来のフランス小説より強烈な日本の女神が!?』という記事がありました。
【椿には、「裏」花言葉なるものが存在し、とても怖いらしい・・・。そう言われています。
どうも、じゅんぺいです。
裏花言葉は、確かに都市伝説として存在するらしいです。
その由来となる話は、フランスのある小説から来ているようです。
それが、結構 「マジで!?」 という内容で、しかもかなり具体的な意味を持ちます。
今回は、椿の花言葉を 「裏」 も含めてご紹介し、その本当の意味を探っていきたいと思います。
キーワードは、「強烈な日本神話のある女神」ですね。
ちょっとした小話のネタになりますよ〜。
リスト
1椿の花言葉(赤白ピンク色)と由来
1.1赤の椿の花言葉
1.2白の椿の花言葉
1.3ピンクの椿の花言葉
2椿の怖い裏花言葉と由来
3それでも病人には贈らないのが常識
4実は縁起が良く神聖な椿
5最後に
椿の花言葉(赤白ピンク色)と由来
由来だとか、「裏」花言葉の前に、まず椿の花言葉をご紹介します。
「裏」前に「表」を知っておくことで、より裏の本当の意味を知ることができるので、読んでみてくださいね。
全般の花言葉は、「控えめな優しさ」 「誇り」です。
椿の花の形は、肉厚でずんぐりむっくりして、ライトなイメージとは程遠いですよね。
おしゃれでクール、スタイリッシュなイメージの西洋の花とは大違い。
でもね、花言葉の意味は本当に美しいです。「控えめな美しさ」「誇り」です。
内面勝負の日本人らしく、一歩引いた女性の姿を連想させます。
次に色別の花言葉です
赤の椿の花言葉
赤の椿の花言葉は、「謙虚な美徳」 「控えめな素晴らしさ」 「気取らない優美さ」となります。
控えめで気取らない優雅さ、というイメージで思い浮かんだのは日本料理です。
和食って漢字の通り「和」ですよね。海外の料理も含めて『和える』
それぞれの良いところを生かし、アレンジし、さらに良いものを作っていくのは日本人の得意とするところです。
何より日本料理は繊細な感覚を大事にします。
それは口に含んだ瞬間にわかる味、というよりは、飲み込んだ後に「ふわぁっ」と鼻を通っていく香り。
そうした繊細さが日本料理の良さであり、日本文化だと思うんですね。
赤の椿の花言葉に通じるものがあります。
白の椿の花言葉
白の椿の花言葉は、「完全なる美しさ」 「至上の愛らしさ」 「申し分のない魅力」 となります。
完全なる美しさ・・・。西洋的な表現をするのならば、全知全能のゼウスでしょうかね(女癖が悪いのは目を瞑ることにします(笑))
対する日本の神様と言えば、白山菊理姫。白の神様です。ジブリ映画の千と千尋でオシラサマとして登場します。
白色ってどのように作るのか知っていますか?
光の三原色というのがあるのですが、赤青緑の光を全て足し合わせると白色になるんです。
液晶モニタの色の配列って、RGB(赤緑青)ですよね。全部色を発色した時に白になるんですね。
何が言いたいのかというと、完全なる白の美しさとは、良いことも、悪いことも、いろんなものを混ぜこぜにして、それでも光り輝くから、白色なんですね。
裏切り、悲しみもあったとしても、それでも前を向いて頑張っていく。
それが白色の美しさなんですね。
ピンクの椿の花言葉
ピンクの椿の花言葉は、 「控えめな美」 「控えめな愛」 「慎み深い」ですね。日本でのピンクといえば、なでしこ色でしょう。
この桜色といった方がピンとくる人も多いかもしれません。昨今、外国人に日本女性の奥ゆかしさが人気と聞きます。
一歩引いた控えめな姿。けれでもその奥には強い意志を持っている。
なので慎み深く、奥ゆかしいんですね。
そんな控えめで愛される椿ですが、裏花言葉という都市伝説があります。
それが結構「えっ・・・?」という花言葉なんです。
椿の怖い裏花言葉は、
・犯罪を犯す女
です。この言葉だけを聞くと、例えば不倫とか、相手を陥れるようなドロドロした関係性を望む女性、というようなイメージになりますよね。
この由来と言われているのが、フランス小説の椿姫です。
都市伝説が都市伝説たる所以は、表面的な言葉を鵜呑みにして、正しく理解していないことにあります。
この椿姫の話を読んで、裏花言葉が、本当に「犯罪を犯す女」 なのか、ぜひ確かめてもらえたらと思います。
主人公の美しい女性、マルグリットはパリに住む高級娼婦でした。
マルグリッドは、夜のパーティーのたびに椿を胸に挿していました。
そのためにいつしか彼女は、「椿姫」と呼ばれるようになります。
そんな彼女が贅沢三昧の生活を送っていた所、彼女の元にアルマンという若くて純粋な青年が現れます。
アルマン「僕はあなたがいないと生きていけない・・・。」
アルマンの正直な感情に戸惑いつつも、その誠実な愛に、マルグリットは心を開くようになります。
マルグリット「アルマン・・・。」
アルマンの求愛に心打たれ、彼女も彼を愛するようになります。
しかしマルグリッドは、素直に喜べる状況ではありませんでした。
実はマルグリッドは、肺の病気に掛かっており、残り数ヶ月の命だったのです。
弱りゆく自分の身体を少しでも華やかにするために彼女は胸に花を身につけたかった・・・。
本来、花は香りがするため、病気の肺には良くないのですが、唯一椿の花だけは無臭のために身につけられる花でした。
彼女は残された人生をアルマンと過ごす事に決めました。
娼婦と贅沢な生活を捨てて、郊外の田舎の村に住むことにしました。
マルグリット「私の命は残りわずかだけれど、ようやく幸せに過ごすことができます・・・。」
そんな折、突然アルマンの父親が二人の家にやって来ます。
アルマンの父「マルグリッドさんどうか、息子との縁を切っていただきたい。」
アルマンの父は、本当にアルマンの幸せを心から願っていました。
アルマンは由緒ある家系の出身、「元」とはいえ、娼婦と付き合うことは許されなかったのです。
マルグリッドはアルマンへの愛が深いために、深く悩み始めます。
マルグリット「アルマンは私と一緒にいると幸せになることはできないのではないか・・・?」
結局マルグリットはアルマンと別れることを決意します。
マルグリット「ふん、アルマン、私は娼婦。卑しい女なの。あなたの事は所詮遊びだったのよ。消えてちょうだい!!」
アルマン「マルグリットめ!僕を騙したな・・・信じていたのに・・・君を愛していたのに・・・許せない!!」
マルグリット「そうよ!私はあなたを裏切ったのよ・・・だから・・・いなくなって!(お願い・・・)」
アルマンはマルグリットが本心で裏切ったと思い込み激怒し、彼女に復讐をします。アルマンは、マルグリットに向けて、当てつけのように別の恋人を見せびらかしました。
しかしマルグリットは、気丈に振る舞いました。本当は病気でやつれきっていたのに・・・。
マルグリット「これで良かったのよ・・・これで・・・」
そのままマルグリッドは病気が悪化し、亡くなってしまいました。
彼女の死を知ったアルマンは、もうマルグリッドもいない、かつての二人の家を訪れます。
アルマン「これは・・・マルグリッドの生前の日記じゃないか・・・」
アルマン「なんだって・・・。僕のことを愛するがゆえに、僕から離れたっていうのか・・・。僕は何ということをしてしまったんだ・・・。」
・犯罪を犯す女という花言葉は上記の物語を知れば、恋人を思うゆえの純粋な行動によって、犯罪を犯す場合もありますよね。決して悪い意味ではありません。
愛するゆえの犯罪だったんですね。悲しい話です。
実はこの小説は作者のデュマ・フィスの実話が元になっています。
実在した高級娼婦はマリ・デュプレシスという名前で結核で亡くなったそうです。
それでも病人には贈らないのが常識
因みにですが椿は日本では状況によっては「不吉」とされるので贈らない方が良い場合もあります。
それが、病人に対してですね。
椿は花びらが根元部分で融合しており、1枚1枚花びらが落ちずにポトッと首が落ちる姿が切腹、斬首を連想され、武士階級に忌み嫌われていたからです。
病人に贈ってはいけないという風習は現在も残っているため、贈る際は注意が必要です。
それではここから、椿が愛されて誇りを持てる花だ、ということをお伝えしていきます。
どんどん時間をさかのぼって、紀元前の話までいきますよ^^
実は縁起が良く神聖な椿
日本では近年裏花言葉として、残念な印象になってしまった椿ですが、フランスでは小説が流行った頃は非常に人気の花でした。
最初は1739年、イギリスのロバート・Jピーター男爵によって大々的に紹介され一大ブームになりました。
フランス小説「椿姫」ヒットの後くらいの1888年1月1日、パリ中央市場でなんと12万本も売れたそうです。
海外でも人気の椿ですが、もともと椿は邪悪なものを祓う力があるとされていました。
・奈良東大寺には、758年孝謙天皇が破邪の儀式にて使った椿製の杖がある
・渤海国(ぼっかいこく。北朝鮮付近の国)に777年に椿油を贈った
・源氏物語にも登場
・破邪の儀式は現在も各地の神社で神事として伝えられている
だんだん時代をさかのぼって来ましたね。最後に紀元前までさかのぼります。
冒頭で「強烈な日本神話のある女神」、という話を出しましたが、それが日本神話で登場するアメノウズメ神のことですね。
アメノウズメは、椿大神社(つばきおおかみやしろ)の別宮、椿岸神社に祀られている神様です。
ネットを見る限りは アメノウズメ=椿姫 と解釈する人は見受けられませんが、個人的な解釈なのでご容赦を。
アメノウズメが何をした神様なのかというと、ストリップダンスですね。
「また娼婦かいっ!」
と思うかもしれませんが、とても重要な役割を演じた神ですのでもう少し読んでもらえたらと思います。
その昔、太陽神アマテラスが、弟スサノオの乱暴さゆえに岩の戸に隠れてしまいました。
アマテラス「弟が手に負えません。私はもう辛くて辛くて・・・。」
太陽神が隠れてしまったので地上に光が渡らずに暗黒の世界になってしまいました。
なんとかアマテラスを外に出そうと計画した八百万の神々、その中で最も活躍したのが、アメノウズメです。
何をやっても外に出ようとしないアマテラスを、神懸かったストリップダンスを行い、注意を引きます。
どんな踊り、どんな姿だったのか、古事記を読んでみましょう。
(アメノウズメが)中がうつろな台を設け、そこに登って足拍子おもしろく、音のとどろくばかり踊った。
その踊りの様は、神が乗り移ったかと見えるばかりで、踊り狂ううちに胸乳もあらわになり、腰に結んだ裳諸(もひも)を下腹のあたりまで押し下げる勢いだった。
この神懸りの踊りのおもしろさに、高天原が揺れ動くまでに、集まった八百万の神々が声を合わせて笑った。
(現代語訳 古事記 福永武彦)
要するに、岩戸の前でアメノウズメはタライでステージを作り、はだけるような服装で踊りました。
踊りながら胸があらわになり、チラチラと見えたんですね(笑)
その姿に神々が大喜び。
アマテラス「どうして最高神の私がいないのにこんなに騒いでいるの?」
少し岩戸をずらして様子を見に来たアマテラスにアメノウズメが答えます。
アメノウズメ「あなたよりすごい神様が現れたんです♪」
すかさず鏡を見せます。
アマテラス「眩しいほどの神様ね、あなたは誰なの?」
・・・その姿は鏡に映った自分なのですが、動揺して岩戸からひょっこり出て来た時に、そのままアマテラスをおびき出しました。
エロティックダンスで場を盛り上げて世界を救ったのがアメノウズメです。
アメノウズメのエピソードは他にもあります。
アマテラスの孫のニニギが天孫降臨する(地上界に降り立つ)時、その先に12mの巨体を持つ恐ろしい顔をしたサルタヒコという神が仁王立ちしていました。
あまりの恐ろしさに、誰も声を掛けられなかったのですが、
アマテラス「身体こそか弱い女だが、眼力をもつそなたが行って来なさい」
その言葉でアメノウズメが切り込んでいきます。
アメノウズメ「アマテラスの子孫が降臨するその場所にいるそなたは何者ぞ、名を名乗れ!」
12メートルの巨漢の恐ろしい神に、きゃしゃな女神が言い寄ったのですが、またしても神懸かった行動をとったアメノウズメ。
まさかの場面でポロリ・・。今度は日本書紀を見てみましょう。
天鈿女はそこで、自分の胸を露わにむき出して、腰ひもを臍(へそ)の下まで押しさげ、あざ笑って向かい立った。
このとき街(ちまた)の神が問われていうのに、「天鈿女よ、あなたがこんな風にされるのは何故ですか」と。
答えていわれるのに、「天照大神の御子がおいでになる道に、このようにいるのは一体誰なのか、あえて問う」と。(全現代語訳 日本書紀 宇治谷 孟)
自分のおっぱいをポロリと出して、あざ笑いながら切り込んだんですね(笑)
アメノウズメは、芸能の神と言われ、誰もできないような大役を「演じ」ました。
それが本来の性格なのかはわかりませんが、自分の恥ずかしさは一旦置いておいて、世界が良くなるなら、と為すべき役割を全うしました。
これが日本版元祖の椿姫です。
「最初の椿の花言葉の印象と随分違う・・・」
そう思う人もいるかもしれませんが、見た目の美しさ、可憐さよりも、内面の美しさの方が遥かに美しいと思います。
パンクバンドのTHE BLUE HEARTSの「リンダリンダ」という曲でも、
「ドブネズミみたいに、美しくなりたい」
という表現がありますが、泥だらけになりながらも誰かのために必死にやる姿こそが、本当の美しさなのではないでしょうか。
フランス版でも、日本版でも、椿姫は自分の評価よりも相手の幸せを願って行動しました。
そうした思いを踏まえた上での裏花言葉だった、そう考えると、より深い理解ができそうですね。
最後に
今回は、椿の花言葉の解説をしました。
全般の花言葉
・控えめな優しさ
・誇り
赤の椿の花言葉:
・謙虚な美徳
・控えめな素晴らしさ
・気取らない優美さ
白の椿の花言葉:
・完全なる美しさ
・至上の愛らしさ
・申し分のない魅力
ピンクの椿の花言葉:
・控えめな美
・控えめな愛
・慎み深い
椿の裏花言葉は「犯罪を犯す女」。
ただフランス版も日本版も椿姫は自分の評価よりも相手の幸せを願って行動したという意味です。
病人にはくれぐれも椿を贈らないように気をつけましょうね^^】
【撮影】13時00分=伊藤 幸司
12時58分に「←500m 風外道人・洞窟」という看板を通り過ぎると道はまた細い農道の雰囲気になりました。ウメが咲き、ナノハナやスイセンが道際に並べられた農家の脇道です。
【撮影】13時01分=伊藤 幸司
ニホンスイセン。その花の説明は
『エントロピー増大の投稿』という変わった名のサイトにある『ニホンスイセンは冬に咲く貴重な花の一つ』がこの写真にピッタリではないかと思いました。
【水仙の名は綺麗な花姿や香りを「仙人」に例え、特に水にある仙人で水仙とされた中国での呼び名が由来。
英名はギリシャ神話で泉に写った自らの姿に恋い焦がれて見つめ続けて死に至り、死後に花になったナルシサス(ナルシストの語源でもある)が花の名前の由来。
ずっとうつむいている花姿が神話と重なったと思われる。
花びらは六枚で正確には外側三枚はガクで内側三枚が花びら、さらに内側の副花冠(ふくかかん)が橙色で目立つ。
副花冠やオシベが花びらになった八重咲き品種もある。】
【撮影】13時04分=伊藤 幸司
ここが上町隧道だったと思います。曽我丘陵の道標は素晴らしいのですが「現在地」がないのが致命的です。行動記録をつけるときに、あまり役に立たないのです。
ともかく、私たちは東海道新幹線と小田原厚木道路の2つの弁天山トンネルを越え、二車線の自動車道路の上町隧道のところから古い農道へと入っていくのです。
【撮影】13時06分=伊藤 幸司
ここまで来ても、未舗装の道路は一か所もありませんでした。ここに見えているこの道筋に「山ユリの自生地 下刈り注意」という手書きながら立派な標識がありました。ちゃんと下刈りされているようでしたが、大丈夫なんですかね。まだ隠されている、なにかだいじなものを傷めないように作業するってむずかしいだろうなと思います。
じつは私、ときどき妻の仕事の手伝いで、草取りやら、簡単な剪定をやるのですが、その作業になにか注文がつくと仕事はとたんに高度になります。脚立に乗るのは得意でも、ハサミや鎌を使うときには躊躇することが多いのです。
それにしても、この道筋には神奈川県の県花ヤマユリが咲くんですね。
【撮影】13時10分=伊藤 幸司
なんだか、この高まりが今日の最高地点、高山(標高246m)のあたりではないかと思いました。あとひと登りで今日の重要なポイントに到達するという感じがしました。
でも実際には、もうそろそろ山頂だというときの読みはなかなか当たらないもんです。人間の「期待」という感情が冷静な「予測」だの「見積もり」だのをいかに簡単に狂わせるかは、山歩きをしたらいくらでも体験できます。私も大胆予測やら堅実予測を何度空振りさせられたものか。「お楽しみ!」にしておくのが安全ですから、最後尾で静かにしていましたが。
【撮影】13時10分=伊藤 幸司
あの高まりに向かって、道はあきらかに、性急な登りになってきました。
【撮影】13時13分=伊藤 幸司
あまり手入れのされていない感じのミカン畑です。どうなんでしょうね、このあたりのミカン畑は。
【撮影】13時13分=伊藤 幸司
家がありました。例によって家族が住む家としては小さいので、寝泊まりもできる作業小屋というふうに思われました。
注目すべきは天水ですね。屋根に降った水を床下の水槽に貯めている。その樋が屋根から外れてしまう程度、放置されてきたということでしょう。水槽に溜まった水はもちろん飲めないでしょうから、植物への水やりを考えてのことでしょうか。軽四輪トラックが走れる舗装農道はかなり整備されたけれど、簡易水道のたぐいはできず、井戸も難しかったのではないでしょうか。……この曽我丘陵はじつによく拓かれているのですが、生活の匂いが希薄なので、なんというか「実感」でつながるという感じがないのです。
【撮影】13時20分=伊藤 幸司
ここで10分休憩としました。何か一口腹に入れるというエネルギー補給です。私は少し先まで行ってみましたが、道路としてはここが最高地点。背後がすこし盛り上がっているのでそこに高山山頂があるのでしょうが、それに通じるような道も、標識も見つかりませんでした。
国府津駅を出発したのが11時45分ですからまだ1時間半ほどです。振り返ってみればずいぶ長い道を歩いてきた気分です。そういう意味ではものすごく内容の濃いハイキングコースだと思います。
しかしすでに指摘したように通過ポイントの「現在地」が歩く人には重要な情報なのに、そういう心理のわからない人が気合を入れて作ってくれた道案内、という感じは、否めません。三角点のある山頂がここから(おそらく)1分以内のところにあるのに、知らんぷりなんですから。
『全国の三角点』というサイトの『神奈川県の三角点』に『小田原高山』がありました。
【小田原高山
点名:曽我山
地図:小田原北部
小田原市東部の丘陵地帯にある高山です。山頂の送電鉄塔のすぐそばで、みかん畑のなかにあります。 標石の上面、側面とも面取りがあります。選点されたのは1883年(明治16)です。】
写真キャプションによると246.1m 二等三角点ということです。
【撮影】13時27分=伊藤 幸司
展望が開けました。高山からの展望といっていいでしょう。画面右手から海に向かって伸びているのは箱根山からのシルエットなんですが、その先端は熱海の先、伊東の、たとえば川奈岬あたりじゃないかと思うのです。
そして、さらにその背後にうっすらと盛り上がるものが見えますが、オリジナル画像で見ると、あきらかに山です。間違いなく天城山地です。
もちろん手前の町並みは小田原です。
【撮影】13時28分=伊藤 幸司
せっかく海抜0mから246mまで登ってきたというのに、歩き出したらこの下りです。道際に初めて梅林らしいものが登場しました。
【撮影】13時29分=伊藤 幸司
あきらかに、梅の実を採るために管理されたウメの畑。しかも花の時期としてはほぼOKという感じです。いわゆる曽我梅林はこの山を下ったところにありますから、季節が逆戻りすることはないはずです。ここからは「梅に向かって下る」という新しい目標が立つようです。
【撮影】13時29分=伊藤 幸司
このウメはなんというのでしょうか。
『小田原市』の『小田原の農業』に『市内で栽培されている小田原梅について』というページがありました。
【かながわブランド農産物に指定され、小田原の特産物である「小田原梅」。
小田原の梅は歴史が古く、戦国時代の武将、北條氏が統治していた以前から梅の栽培が行なわれており、江戸時代には「東海道中膝栗毛」などに梅漬が小田原の名産品として登場しています。
小田原市の梅は、関東3大梅林にも数えられる「曽我梅林」を中心に栽培され、神奈川県下で最も多い生産量を誇っています。
中でも十郎梅は、小田原で育種・命名された小田原オリジナル品種で、果肉が厚くやわらかいことから、梅干用品種の最秀品とされています。
市内で栽培されている主な梅の種類について
◎十郎(じゅうろう)
神奈川県農事試験場園芸部で、足柄上郡の在来実生より選抜され、昭和35年に小田原市梅研究会が命名した。開花期は特に早く、果実は楕円形で小さく果皮が薄い。果肉は良好で果肉歩合が高く、熟すにしたがって黄色になる、梅干用品種の最秀品。収穫期は、6月中・下旬。
◎白加賀(しろかが)
江戸時代から加賀白梅の名で栽培されてきた古い品種。ほぼ全国的に栽培され、特に関東地方では結実が安定し、大果で品質が良好であるため、多く栽培されている。開花期は晩く、果実は楕円形で大きい。果肉は厚く肉質が密で、主に梅酒用に適する。収穫期は5月下旬・6月上旬。
◎南高(なんこう)
内田梅の実生樹の中から選定された結実の良い品種。開花期はやや早く、結実性も良い。梅干用品種として優れている。
◎梅郷(ばいごう)
青梅市梅郷の青木氏が試験地で発見した実生種。開花期はやや遅く、兼用種で収穫期は6月上旬・中旬。
◎杉田(すぎた)
曽我地域で古くから栽培されているが、来歴は不明。熟期は遅く、肉質が柔軟で優良。兼用種であるが主に梅干用としている。
◎玉英(ぎょくえい)
青梅市の野本氏が栽培種の実生から発見したもので、梅では最初の登録品種。果肉が厚く、白加賀よりやや早く収穫できる。
◎甲州最小(こうしゅうさいしょう)
大正6年ごろ奈良市内より興津の園芸試験場にもたらされた。開花期は長く、花粉が多いので受粉樹として良く用いられる。
◎竜峡小梅(りゅうきょうこうめ)
長野県下伊那郡の大栗氏の園で発見された。成熟期は5月中旬から下旬。】
【撮影】13時44分=伊藤 幸司
これは六本松跡の「六本松架橋」。私たちは写真左方面からやってきて上下二股に別れた道を下からくぐり抜けていよいよ蘇我梅林への道を下る、という感じになりました。
この六本松跡について
『小田原市』の『観光』に『六本松跡と芭蕉の句碑』がありました。
【六本松跡は、曽我山(当時山彦山といった)の峠道で、六本の古松があったことからこう呼ばれています。この峠は鎌倉時代、曽我氏・中村氏・松田氏・河村氏の各豪族の居館と鎌倉を結んでおり、曽我別所から足柄峠へと通ずる「鎌倉道」、大山からこの峠を越えて高田・千代・飯泉へ通ずる「大山道(中村通)」、そして押切方面より小田原に至る「箱根道」が交わる重要な峠であったといわれています。
現在は、一本の松も存在しませんが、大正7年(1918)孤山人(尾崎八束‐宗我神社神官)筆の六本松跡碑があります。また、俳聖芭蕉の句碑があり、この碑は芭蕉復興運動を行った加舎白雄が建てたものであるとされています。】
鎌倉道、大山道、箱根道など時代ごとに少しずつ役割を変えながら、相模と駿河の国境の峠、あるいは足柄峠に連なる東海道の峠として重要な存在だったということのようです。
その六本松跡にあった長文の解説板には次のようなことが書かれていました。
【源頼朝が鎌倉に幕府を開き、上洛や富士の巻狩などにこの道を通り、いまも鎌倉山、将軍山、またこの地の豪族中村氏がお出迎えした所を「大迎え」などの地名が残っている。】
【降って元禄のころ、松尾芭蕉は「ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし」。門人の白雄は「人の知る 蘇我中村や 青嵐」 その後蕪村も「雨ほろほろ 蘇我中村の 田植えかな」と詠んだ。】
ただし「蘇我中村」という言葉は、歌舞伎を見たことのない私のような人間は地図をあちこち探してしまうというほどに無縁のものですが、現代でも一部の人たちにとってはあまりにも有名なキーワードとなっているようです。
『YAHOO!ニュース』で今年(2020年)1月2日に『有名キャラ集結! 菊五郎らが鶴屋南北の原作に新たな命を吹き込む』という記事を配信しています。
【国立劇場の新春公演はこのところ尾上菊五郎率いる音羽屋一門を中心に、正月気分を膨らませてくれるような楽しい趣向を取り入れた通し狂言が披露されている。今年は四世鶴屋南北作『御国入曽我中村』をアレンジして『通し狂言 菊一座令和仇討』と題して上演する。
歌舞伎では昔から「正月は曽我物」が定番と言われている。曽我物とは曽我五郎十郎兄弟による仇討ちの世界を含む物語を指し、『御国入曽我中村』も題名で分かるように、文字通りの曽我物だ。作者の鶴屋南北は、複数の物語の世界を巧みに組み合わせることで新たに創作するのを得意としており、この作品でも曽我物の時代設定に『鈴ヶ森』の幡随院長兵衛や白井権八、近松門左衛門の浄瑠璃『槍の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』の笹野権三など、有名キャラクターを登場させている。今回はこの「綯交ぜ(ないまぜ)」の世界をさらにもうひとひねりし、新たに仇討ちの物語を創作するという。鎌倉、鈴ヶ森、三島と所が次々と移り、吉原の花魁も登場。国立劇場としては8年ぶりに両花道を使うと聞けば、ダイナミックな場面展開が予想され、期待が高まる。さらに菊五郎の幡随院長兵衛に菊之助の白井権八で『鈴ヶ森』となれば、それだけで名場面になるだろうことは想像に難くない。】
……とまあ、江戸時代には曽我兄弟のブランドに乗っかって、この六本松峠があった、のではないだろうか、と思ったりするのです。私たちは、いよいよその曽我兄弟の世界へと下っていくようです。
【撮影】13時45分=伊藤 幸司
今日、歩き始めたときに見た箱根山が、同じような見えにくさで見えてきました。左側のふたコブは神山(高い方)と駒ヶ岳。画面右のなだらかな大きな山は明神ヶ岳(標高1,169m)。その右に隠れるようにして金時山(標高1,212m)が見えてきました。12時07分の写真では見えていませんでした。歩いた分だけ見えてきた、という感じです。
そして下る先に梅林が広がってきました。
【撮影】13時52分=伊藤 幸司
じつはすこし前に、小さな梅林の奥に車がたくさん乱雑に止まっていたので最初廃車捨場かなと思ったのですが、しばらく行くとそこへ入る道の入口にガードマンが立っていて、看板がありました。その看板の文字を読んだのですが写真を撮っておかなかったので、じつは記憶があいまいなのですが「農道」と「水道」の工事中と書かれていたように思いました。
水道についてはこれまでの道筋に天水を利用していたらしい小屋をやその廃墟を見てきたので「いよいよ水道か」というふうに思ったので、たぶん間違いないのですが、写真もなし、ガードマンの人にも聞かなかったので確信がもてません。
……で、その地点から15分ほど下ったところに手作り風のトイレがあって、女性たちがトイレ休憩したのです。その近くにこの、ちょっと気張った感じの新しい農道がありました。じつは先に見える小屋が準備中の新しいトイレじゃないかと思って見に行ったのですが、単なる作業小屋でした。そしてそこから見える谷向こうの斜面に建設中の道路があったのです。
つまり曽我丘陵のこのあたりでは、下り坂の日本経済のこの時期に、積極的な道路建設をしているというのがいくぶん驚きでした。どうですこのピッカピカのゴージャスな農道。
これまでミカン果樹園の脇を通るとモノレールがあるのが普通で、山間のワサビ田にも広がり、足利の名刹・行道山浄因寺には2014年に「行道山くものかけはし」という高齢者・障害者優先の自由利用の乗用モノレール(ただし小学生未満の単独利用は禁止)が設置されました。傾斜面に家が点在する奥多摩の家々でも、道路から家までの急な階段を避けるように、モノレールが設置されるようになりました。
ところがそれと反比例するように、ミカン果樹園に普及した集荷用のモノレールが放棄されたまま朽ち始めたのです。そういう流れの上で、この果樹生産地帯の農道なので、すごく奇異にも見えましたが、明るい気持ちにもなったのです。
この写真のキャプションはここまでで十分なのですが、この間ネット上を探しまわっているうちにモノレールについての重要な情報を見つけたので、どうしてもここで紹介させていただきたいと思います。
『公益社団法人農林水産・食品産業技術振興協会・JATAFF』の『読み物コーナー』の『続・日本の「農」を拓いた先人たち』の『ミカン農家を重労働から解放〜モノレールを発明した米山徹朗』という記事です。
【「米山君、これからのミカン栽培では運搬が死命を制する。運搬の重労働から農家を解放する軽便な運搬機はつくれないものかね」愛媛県果樹試験場薬師寺清司(やくしじ きよし)場長のこの一言が、 米山徹朗(よねやま てつお)の人生を大きく変えた。
薬師寺といえば、場長を26年も務めたミカンの神様。当時30歳そこそこの米山には、この一言がまさに神の啓示に聞こえたのである。昭和37〜38年のことであった。
ミカン畑といえば、だれでも段々畑を目に浮かべるだろう。最新の統計をみても、15度以上の急傾斜畑が4割を占める。まして当時の瀬戸内には40度を超える段々畑がたくさんあった。 農家はこの傾斜畑を上下しながら、肥料堆肥を担ぎ上げ、ミカンを担ぎ下ろすのである。
このころになると、少しずつ農道が整備されはじめてはいたが、それでも多くは天秤棒(てんびんぼう)が頼りの過酷な作業だった。
米山は当時、兄の経営する農機メーカーで、営業兼設計を担当していた。ちょうど米山工業を創立して独立を目指していた時期でもあった。薬師寺の示唆に奮い立った彼は、 さっそく運搬機づくりに着手した。
最初に彼が考えたのは、トロッコのように2本のレールを敷き、山頂に設置したウインチで運搬車を引き上げる方式だった。だが、これではカーブを曲がりきれない。 試行錯誤を重ねた末に、最後にたどり着いたのが、モノレール方式の自走機だった。ミカン畑に、角パイプのモノレールを架設(かせつ)する。レールの下側にはラック(刻み)がつけてある。 このラックに跨座(こざ)式の自走運搬機の歯車が噛(か)み合い、移動する方式だった。
昭和41年の秋、米山はこの試作機を愛媛県の農業祭に展示した。大変好評で、まもなく市販に移したが、売れ行きも好調だった。農道と違って、モノレールは樹(き)の伐採(ばっさい)や基盤整備を必要としない。 機械化を拒んでいた傾斜畑にまで導入できることが、人気を呼んだのだろう。ミカン農家の労働軽減に役立ったことはいうまでもない。導入により、上げ荷・下げ荷の作業時間が各4分の1、2分の1にまで減少したという報告もある。
昭和51年、米山はさらに乗用型モノレールを完成させる。従来型は人の乗用を禁止していたが、農家からすれば乗ってみたくなる。そのため暴走事故が起こり、 死傷者まで出るはめになった。乗用型はこうした事態に対処して開発されたものだが、観光農園や森林管理作業用としても普及していった。
農業用モノレールは、梅園やタケノコ林にも普及している。乗用型の大型機は森林の作業員、材木運搬用としても活躍するようになった。最近は同種メーカーも多いが、 今も米山工業が70%のシェアを占めている。
モノレールの普及最盛期は昭和40年代後半で、この時期のレール総延長は2,000キロに達していた。JRなら、盛岡・鹿児島間の距離に相当する。残念ながら現在は、 その10分の1程度にまで減ってしまった。
米山は現在70歳。今も松山市で、米山工業の陣頭に立つ。大変多趣味な人で、ヨットや飛行機の操縦までこなす。社会奉仕にも熱心で、地元松山ゆかりの坊ちゃん列車を自費で復元、 市民にやすらぎを提供している。
「農業共済新聞」 2002/03/13より転載(西尾 敏彦)】
【撮影】13時59分=伊藤 幸司
これが曽我丘陵の元気な果樹農園の光景なのでしょうか。西丹沢のあたりと比べるといくぶんゆるやかな感じがしますが。
【撮影】13時59分=伊藤 幸司
道はどんどん下っていきます。歩きだしてから2時間を越えました。糸の会ではそろそろ不満の声がでてくる時間です。というのは下山時に林道の下りが1時間までだと喜ばれるのですが、それを超えると「足が痛い」という人が増えるのです。さらにそれが舗装路なら、私が危機感から「早歩き」を提案して競争状態にするのです。なぜならダラダラ歩くと一発で足を壊す……という人が出るからです。
いい道を楽しくハイキングというイメージが糸の会にはほとんどない最大の理由が、登山道の不整地が足の使い方を多様にさせるので、疲労を集中させないと考えているからです。歩きやすい道をルンルン気分で歩くと自分の癖がそのまま蓄積されていくからです。いつもと違う早歩きなどのほうが(疲労はしても)負担が集中しないと私は考えているのです。
【撮影】14時05分=伊藤 幸司
いよいよ丘稜の道から脱出という感じです。新しい道が待っている気配です。坂道を下るときにはこういうカーブがいいですね。「い」「ろ」「は」坂という気分になります。
【撮影】14時05分=伊藤 幸司
見上げる椿がお出迎え。まんべんなく咲き誇る花がけっこうリッパじゃないですか?
【撮影】14時06分=伊藤 幸司
いよいよ絵に描いたような梅林です。これが街中に広がっている……というイメージですよね。
【撮影】14時06分=伊藤 幸司
まさにイメージ通りの梅の海、梅の湖……かな? 白梅だけのようですから地味ですけれど、私たちはこの梅林へと潜り込んでいくようです。
【撮影】14時08分=伊藤 幸司
梅林越しに見えるのは神山と駒ヶ岳、左側には二子山。山裾からの風景です。ただし、ここを何梅林と呼べばいいのかわかりません。あいかわらず立派な標識はあるのですが「現在地」は書かれていません。
【撮影】14時13分=伊藤 幸司
ハナニラでしょうか。
『ウィキペディア』の『ハナニラ』にはこう書かれています。
【日本では、明治時代に園芸植物(観賞用)として導入され、逸出し帰化している。
葉にはニラやネギのような匂いがあり、このことからハナニラの名がある。野菜のニラ(学名 Allium tuberosum )は同じ亜科に属するが、別属である。
球根植物であるが、繁殖が旺盛で植えたままでも広がる。鱗茎から10-25cmのニラに似た葉を数枚出し、さらに数本の花茎を出す。開花期は春で、花径約3cmの白から淡紫色の6弁の花を花茎の頂上に1つ付ける。地上部が見られるのは開花期を含め春だけである。】
【撮影】14時14分=伊藤 幸司
「下曽我ミカン生産者グループ」とありますからここは下曽我梅林というのでしょうか。ともかくここで生活クラブ生協と一緒に「GMOフリーゾーン宣言」をしているんですね。日本は食料低自給立国ですから、米国あたりから遺伝子組換え食品がどんどん入ってきます。遺伝子組換え食品の実験場と化しているといえるかもしれません。さらに消費者に直接届く食品そのものというより、遺伝子組み換え作物のほうが将来的な支配力が強力だということは素人にもわかります。
その防波堤となるためには「フリーゾーン」を設けなくてはならないんですね。初めて知りました。
『遺伝子組み換え食品いらない! キャンペーン 〜GMOフリーの世界をめざして〜』というサイトの『GMOフリーゾーン(遺伝子組み換え作物拒否地域)運動のすすめ』にはこう書かれています。
【1.GMOフリーゾーン運動とは?
GMOフリーゾーンとは、遺伝子組み換え作物が栽培されていない地域のことです。欧州ではGMOフリーゾーンが拡大し、EU加盟各国内で遺伝子組み換え作物の栽培ができない地域が増えています。
GMO(Genetically Modified Organism)とは、遺伝子組み換え生命体を意味します。現在は主に、遺伝子組み換え作物を指しますが、本来は家畜など他の生物も含めます。フリーゾーンとは、それが「存在しない」地域を意味します。「フリー」というと、勝手に栽培できる地域と受け取られがちですが、逆です。
2.だれが宣言できるの?
遺伝子組み換え作物を栽培したり、取り扱ったり、食べたりするのがいやな人は、誰でも宣言できます。GMOフリーゾーン運動は、農家に限定せず、消費者も食品関連企業や流通業界の人も参加できる取り組みです。
GM作物を作らない農家
GM食品を作らない食品業者
GM食品を売らない流通業者
GM食品を買わない消費者
など、誰もが参加できます。農家以外の方はGMOを拒否し、GMOフリーゾーンを守るサポーターとしての役割が期待されます。】
【4.目標
草の根でGMOフリーゾーンを広げ、日本ではGM作物が栽培できない状況を作り出していきたいと考えています。
当面は農家の圃場、市民農園、家庭菜園でGMOフリーゾーンの看板を増やすこと、そこでの参加者拡大を目指していきます。
また、自治体にも働きかけて、北海道で作られた「遺伝子組み換え作物栽培規制条例」のような規制を各地で広めていくことも、大事なことです。】
【撮影】14時14分=伊藤 幸司
こちらはサクラですね。河津桜かなんかですかね。
【撮影】14時16分=伊藤 幸司
小田原市のハイキングマップで3つのコースが重なっている三差路に出ました。この道標のT字路のところに私たちが往路とした「国府津・蘇我丘稜ウォーキングコース」と復路とした「国府津・蘇我の里散策コース」、それに「蘇我の里散策コース」が重なっていたのです。
「国府津・蘇我の里散策コース」なら国府津駅まで5.4km、下曽我駅まで2.1kmとなっていて、宋我(そが)神社まで250mとなっていますが、もう一枚の道標で見ると「国府津・蘇我丘稜ウォーキングコース」と「蘇我の里散策コース(見晴らしコース)」では下曽我駅まで2.43kmとなっていて、宋我(そが)神社までは550m。後になれば簡単なことでしたが、すぐ先の宋我神社まで行くのに、自分たちで間違えたり、人に聞いたりしてドタバタしてしまいました。
【撮影】14時28分=伊藤 幸司
宋我(そが)神社です。案内標識の柱には(旧蘇我郷の総鎮守)と書かれています。
『小田原』の『観光』に『宋我神社祭礼』がありました。
【宗我神社は、長元元(1028)年、宗我播磨守保慶の建立で、宗我氏の祖先を祀った神社といわれています。曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)のそれぞれの鎮守を明治時代に合祀し、曽我の里の総鎮守となっています。
宗我神社祭礼は五穀豊穣を願う祭礼で、午前中は各地区の山車5台と神輿1基がそれぞれの地区を回り、午前11時00分頃になると猿田彦を先頭にお宮入りがあります。
お宮入り後、1台の山車に高砂の人形が飾られ、お囃子と舞を奉納した後、下曽我駅に向かいます。(下曽我駅には午後3時00分頃集結します。)江戸時代より神輿の巡行の儀はあり、その頃より各村の山車も曳き出されていました。現在、神社の神輿渡卸は4年に1度(閏年)の巡行となっています。
日時──令和元年9月29日(日)午前10時00分〜午後4時00分頃】
【撮影】14時29分=伊藤 幸司
宋我神社の境内にはケヤキの大木が何本かありましたが、季節柄ヤドリギが目立ちました。
『公益社団法人日本薬学会』の『生薬の花』に『ヤドリギ』がありました。
【冬の落葉した木々に緑の葉を付けて寄生しているヤドリギをよく見かけます。ヤドリギは北海道から九州に分布し、エノキ、ブナ、ミズナラ、ケヤキやサクラなど落葉樹に寄生するため、冬にこんもりした小さな枝のかたまりを容易に見つけることができます。枝は緑色の円柱で、二あるいは三股状に分かれます。葉は対生で、葉質は厚くて細長く、先は丸く、長さ3〜6 cm、幅0.5〜1 cm程です。雌雄異株で、2〜3月に黄色の花は咲きますが、小さくてあまり目立ちません。果実は直径6 mm程の球形で、早春に薄黄色に熟し、半透明になります。果肉はもちのように粘りがあり、鳥黐(とりもち)として、細いサオの先に塗って、小鳥や昆虫の捕獲に使われてきました。また、甘い果実を鳥が好んで食べ、糞中に残った未消化の粘性をもった種子や食べ残しの種子が他の樹皮に付着して、発芽後に新株となります。このようにヤドリギは種子を鳥散布型で他の樹木に付着させる戦略で、種の保存を保っています。
和名は「宿り木」又は「寄生木」で、まさしく樹の上を宿のように寄生して繁茂することに由来します。また、「ホヤ」、「ホヨ」や「トビヅタ」という古名もあります。英名はJapanese Mistletoeと言います。学名のViscumはヤドリギを表すラテン語で粘性の鳥黐(とりもち)に由来し、種小名のalbumは「白い」を意味します。これはヨーロッパ産のセイヨウヤドリギ(V. album)の果実が白色であることに由来します。この種は1893年以来米国オクラホマ州の象徴花となっています。coloratumは「色のついた」の意味で、日本のヤドリギの果実が薄黄色であることを示しています。これとは別に橙赤色の実を結ぶものはアカミノヤドリギ(V.alubum var.rubro-aurantiacum)といいます。
ヤドリギやアカミノヤドリギの枝や葉を乾燥させたものを生薬ソウキセイ(桑寄生)といいます。ソウキセイを煎じて飲むと、血圧を下げ、利尿、頭痛の緩和、リウマチ、神経痛、婦人の胎動不安、産後の乳汁不足などに効果があるとされています。漢方では独活寄生丸(どっかつきせいがん)に配合され、腰痛、関節痛、下肢のしびれ・痛みに効果のある処方として市販されています。ちなみに、セイヨウヤドリギエキスは国外でサプリメントとして、高血圧、動悸や頻脈に使用されています。国内では同エキスを含む4種の生薬エキスからなる薬が、緊張緩和やあがり症などにも効果がある催眠鎮静薬として市販されています。】
【撮影】14時29分=伊藤 幸司
これも宋我神社の境内にある別のケヤキとそれについたヤドリギです。
そのヤドリギの英名は「Japanese Mistletoe」だそうですが、Mistletoe(ミスルトウ)について、こんな解説がありました。
『Flower Supplement - Flowering for the comfort living ------- 日々の生活を、心を豊かにする花の世界』というブログに『「Mistletoe(ミスルトウ)」をご存知ですか?』(2007年12月19日)とあります。書いているyuriさんによると【”日々の生活を、心を豊かにする花の世界”を演出、提案するページ】だそうです。
【「Mistletoe」とは、「ヤドリギ」のこと。
クリスマスの時期になると市場に出回ってきます。
欧米ではこの「ヤドリギ」を使ってリースにしたり、ガーランド(花綱)にしたりとクリスマスの飾り付けに用いられます。
イギリスでは「Kissing Ball」とも言われ、「クリスマスの季節にこの下にいる若い女性はKissされること拒否すると翌年は結婚のチャンスがない。」という言い伝えもあるとか。
恋人同士が「Mistletoe」の下でキスをすると結婚の約束を交わしたことを意味します。
この時期に相応しい、なんてロマンティックな植物なのでしょう。
大地に根を持たずに落葉樹に寄生する(繁殖する)ヤドリギは、古来から欧米では「永遠の命のシンボル」「幸福と長寿のしるし」として、神聖な不思議な力を持つものとして尊重されてきました。
来年の豊饒を夢見て。。。。】
【撮影】14時41分=伊藤 幸司
宋我(そが)神社の境内でゆっくりと休みました。皆さんには気分的な疲れが見えて、これからの終盤のプランに関しては時計と相談しながら考えていくことになるのですが、ともかく曽我梅林と呼ばれるものの核心部は、まだこれからだと思われます。
【撮影】14時43分=伊藤 幸司
ヤドリギは憎っくきパラサイトというふうに見えていたのでこの過剰な寄生状態を撮ったのですが、調べてみると寄生植物といっても光合成という生産活動は自分でやっている半寄生植物で、宿主のスネを100%かじっているわけではないというのです。落葉樹の宿主に対して常緑なので、冬になるとこんなふうに姿をさらすという正直者なのです。
『ウィキペディア』の『ヤドリギ』には『文化』という項目があります。
【古くからヨーロッパでは宗教的に神聖な木とされ幸運を呼ぶ木とされてきた。
人類学 者のジェームズ・フレイザーの著作『金枝篇』の金枝とは宿り木のことで、この書を書いた発端が、イタリアのネミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られたものである。古代ケルト族の神官ドルイドによれば、宿り木は神聖な植物で、もっとも神聖視されているオーク に宿るものは何より珍重された。
クリスマスには宿り木を飾ったり、宿り木の下でキスをすることが許される。】
ヤドリギが薬草でもあるということはすでに紹介したけれど、こう見るとかならずしも悪人顔ではないんですね。身元のはっきりした居候という感じに見えてきませんか?
【撮影】14時46分=伊藤 幸司
宋我神社の前にあった道標では中河原梅林まで300mとなっていました。ここからまっすぐ下曽我駅へ向かうと600mですから、中河原梅林を経由してもたいした距離ではないのでしょう。
【撮影】14時50分=伊藤 幸司
背後の建物は曾我岸(そがきし)公民館らしいのですが、なんでこんな仰々しいい解説があるのかわからずに、とりあえず写真だけ撮っておきました。
【曽我岸(そがきし)の石地蔵尊】というのですね。
【旧曽我岸村には、古くから村持ちの地蔵堂(もと背後の公民館の位置)があり、その本尊は石地蔵であったことが延宝元年(1673)の村鑑(むらかがみ)に記されている。
旧来の例祭は1月23日と8月23日、これに春秋の彼岸を加えて年4回の供養が催された。毎年2戸1組の「お地蔵さんの番」が村内の米を集め、紅白のにぎり飯と煮しめを用意し、午後には堂内で村人が念仏をあげたという。明治28年の回向帳には松田町神山、中村藤沢、古怒田、風祭等40か村あまりの記名があり、信者は足柄平野一帯に及んでいた。
村の中心にあった地蔵堂は、村のあらゆる行事の舞台であり、集会場でもあった。戦時中は一時、横浜元町国民学校の疎開児童の宿舎にもなった。昭和44年4月、曽我岸公民館として建て替えられ、旧地蔵堂の地蔵菩薩・閻魔王像ほか諸仏は館内に安置されている。小田原市教育委員会】
【信者は足柄平野一帯に及んでいた】という意味で鎌倉時代から続くこの地方の豊かさや、文化的同一性といったものを、この、固有名詞のない「石地蔵尊」が今に伝えているのではないかと思われるのです。
【撮影】14時53分=伊藤 幸司
また梅林らしい風景が現れました。明らかに管理された梅林です。道標によると瑞雲寺まで200m、中河原梅林まで480m、下曽我駅まで1,300mとのこと。私たちはまず瑞雲寺に向かいました。
【撮影】15時00分=伊藤 幸司
瑞雲寺には私たちが興味を示す特別なのもはありませんでした。
ただ「自修学校発祥の地」という解説板がありました。
『曹洞宗龍珠山瑞雲寺』のホームページが『自修学校発祥の地』に触れています。
【当山21世龍跳大和尚は、若いころから郷土の生年に薫陶を企図され、明治40年自修学会と称し、本堂において宗教に徹する傍ら救導されました。 明治43年、自修学校を創設し、校名の示す如く大井龍跳先生は人倫道徳に情熱を傾注され、学園の発展を終生の地業とされました。
開校以来、明治・大正・昭和の地合いに亘り、向学心に燃える若人が質実剛健の学風に培われたゆかりの地です。昭和16年校名を自修から湘北と改め、湘北中学校・湘北高等学校となり、現在、伊勢原市に自修館中学校・向上高等学校となります。創立70周年(昭和56年2月)を記念して、本堂西側に母校発祥の地を後世に伝うべく碑を建てた。曹洞宗龍珠山瑞雲寺】
【撮影】15時06分=伊藤 幸司
瑞雲寺の隣りあたりから中河原梅林は始まるようですが、ここでは丘の上に見える巨大なタンクが圧倒的な存在感を示していました。「中河原配水池」というのですから、もちろんこの地域一帯(どの範囲をまかなっているのかわかりませんが)の水道施設だということはわかります。帰って調べてみると
『小田原市』の『配水施設』として『中河原配水池』がありました。
【高田浄水場でつくられた水道水のほとんどが、この中河原配水池に行きます。中河原配水池は標高73.9mの所にあり、小田原市の約7割の地域にここから水道水を送っています。中河原配水池は、2個の池があり、約20,000立方メートルの水を貯えています。】
さらに【水源地】を見てみると、小田原市の水源は多くが地下水を汲み上げているようです。しかし中河原配水池のあたりを2.5万地形図で見てみるとそこに細い青色の破線(点線)が描かれています。しかも「神奈川県広域水道」という名前がついているのです。中河原配水池というのは写真でわかるような巨大なタンクで、いま3つ目が建設中ということですからそれと「神奈川県広域水道」とが関係しているかどうか調べてみたのです。
結論からいうと神奈川県広域水道は小田原市の中河原配水池の近く、「曽我岸の高台」だそうですからすぐ近くに「接合井」というのを設けて、酒匂川が相模湾に流れ出す直前、標高8mの飯泉取水堰(東海道本線が酒匂川を渡るほんの400m上流)から強力な揚水ポンプで標高76mの「曽我岸の高台」まで持ち上げて、そこから「神奈川県広域水道」という水道管で神奈川県の水道局と横浜市、横須賀市、川崎市の水道(これまでは相模川に依存してきた)に酒匂川の水を配給しようとするものだそうです。酒匂川は富士山の伏流水と西丹沢から丹沢湖を経て御殿場線に沿って流れてくる水で、県西部のその水を県東部にまで送り出すという大規模な水源開発なんだそうです。
【撮影】15時08分=伊藤 幸司
曽我梅林の中河原梅林という看板に従ってこの道に踏み込んだのですが行き止まり。引き返して勘で前進したのです。
【撮影】15時21分=伊藤 幸司
この踏切はJR御殿場線。右手が国府津駅ですからそちらに行けばいいとわかったところで、一度見失った道標がまた現れました。
【撮影】15時25分=伊藤 幸司
梅林です。ですが観光客に対する歓迎の表情などはありません。いわば小規模な梅林が農地として点在しているにすぎないという感じです。
【撮影】15時34分=伊藤 幸司
下曽我駅にザックを置いて、すぐに出ました。
結局今日の行動は「国府津・曽我丘陵ウォーキングコース」の「10.2km、約3時間」を休憩を含めて3時間50分で歩いたことになります。予定では14時30分ごろ(つまり1時間前)にここに着いて「国府津・曾我の里散策コース」で梅林を見ながら国府津駅まで戻ろうと考えていたのです。往路との重複部分を削ればあと2時間ほどと見積もれはしたものの、疲労を蓄積した人もいるので、希望者だけ空身で、残った梅林見学に出たのです。
【撮影】15時52分=伊藤 幸司
花はハナニラですかね。原梅林の梅の木の下に、くちばしの赤い鳥が舞い降りて来ました。ムクドリのようですね。
【撮影】15時52分=伊藤 幸司
ムクドリをしばらく追いかけてみましたが、これがギリギリという感じで、逃げられました。
【撮影】15時53分=伊藤 幸司
さすがに樹形の整った梅の木だなと思いました。
【撮影】15時55分=伊藤 幸司
これが別所梅林の中心となっているうめの里食堂のある場所で、曽我別所梅まつりの総合案内所のあるところ、なにかひと口飲むか食べるかできないかと期待していたのですが、店じまいの最中でした。
【撮影】16時10分=伊藤 幸司
インターネットでダウンロードできる「別所梅林案内図」を見てみると、区画ごとに「白加賀」「南高」「玉栄」「杉田」「十郎」などという梅の種類が書かれていますから、じっくり見れば小田原の梅のいろいろな表情の違いがわかるようになっているのかもしれません。「白加賀」という名札は見ましたが、それ以上のところは気づかずに、私たちは下曽我駅へと戻ったのです。
【撮影】16時17分=伊藤 幸司
これがJR御殿場線の下曽我駅の待合室。今日の行動はここまでです。
【撮影】16時27分=伊藤 幸司
駅の待合室にあった梅林案内図で、私たちは曽我梅林と総称される広がりの主要部分、中河原梅林と原梅林、別所梅林を一応全部見たということがわかりました。
【撮影】16時28分=伊藤 幸司
記念写真を忘れていたので、下曽我駅の待合室で。
【撮影】18時18分=伊藤 幸司
小田原に出て、万葉の湯でリフレッシュして「だるま」で食事。
【撮影】18時49分=伊藤 幸司
駅ビルだと新型コロナウイルスへの不安もいくぶんありそうなので、だるまにしたのですが、残念ながらアジ寿司は漁がなかったとのこと(私自身に関しては最近連続2敗)。でも魚はさすがに大網元由来の料亭だけあると思いました。