発見写真旅・展(113)――2016.7.9 鳴虫山(38パワー)<b> 発見写真旅・展(113)――2016.7.9 鳴虫山(38パワー)


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撮影者全員の展示写真が撮影時刻順に並んでいます。
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★糸の会山行 997 鳴虫山(38パワー)────2016.7.9
*登り21p→下り17p

*じつは計画は鹿沼の岩山(328m)でしたが、雨で岩が濡れているのはまちがいなく、危険な山ではぜんぜんないのですが、いやな感じのところがいくつかあって、当日、急遽変更しました。東武日光線の鹿沼駅下車を日光駅下車にして、駅からダイレクトに登りました。
*この時期、鳴虫山で見るべきものはたぶんなく、展望も1〜2見え隠れするところがあるとはいえ、まったく期待できるものではありません。
*……なのに鳴虫山とはいかに……? というと、雨の日にじっくり歩く山としてはなかなかいいのです。雨の日はどうしても足元に目がいきますから、自分の「歩き方」とじっくりつきあってみるのもいいもんだ、と思うわけです。みなさん納得されたかどうかはわかりませんが。


7月9日
・1145……東武日光駅(標高約5500m)を出発
・1200-05……身支度休憩(標高約600m)
・1235-40……休憩(標高約750m)
・1250……神主山(標高842m)
・1325-30……休憩(標高約900m)
・1425-35……鳴虫山山頂(標高1,104m)
・1550-55……「独標」で休憩(標高925m)
・1625-30……休憩(標高約800m)
・1650……含満ヶ淵(標高約650m)


今回の写真出展メンバー(提出順)は以下の1人です。
伊藤 幸司(35点)


このalbumシリーズは糸の会の山行を参加者のみなさんと記録した写真集です。
(期間を限定せずに)ご覧いただいたみなさんのコメントをお待ちしています。
★メールはこちらへ ito-no-kai@nifty.com

撮影:伊藤 司















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【01】撮影:11時55分=伊藤 幸司
東武日光駅前の広場から国道を渡ると山すそにリオンドールというスーパーマーケットがあります。会津に本社を置くチェーン店です。かつてはそのあたりから直接鳴虫山への登山道が延びていたようですが、私が最初に訪れた1996年には閉鎖されていたように思います。
私たちはそこから志渡淵川をすこし遡ります。するとこの墓地。向こう岸の自照寺の墓地か、こちら側の最勝寺の墓地かわかりませんが、この周辺の古い家系の墓地がここに集まっているのではないかと想像されるたたずまいです。
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【02】撮影:12時14分=伊藤 幸司
このあたりは日光宇都宮道路の神主山トンネルの真上かと思います。標高約600mの市街地から標高842mの神主山(こうのすやま)へと登っていくのですが、道は深くえぐれて荒れた感じが否めません。人気の山だけに水抜きをすべき場所かと思います。
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【03】撮影:12時19分=伊藤 幸司
この日は天気予報も完全な雨。じつは鹿沼の「岩山」を予定していたのですが、危険ではないけれど気分の良くない場所が何か所かあって、急遽行き先を日光まで伸ばして、私は7年振りにこの山に来たのです。
ちょうど10回目になるのですが、この山はカルチャーセンターなどの新しい講座ではその初期に必ず入れる山でした。日光駅から直接登れるというアプローチが抜群ですし、地味な山ながら、「登り」と「下り」をじっくりと味わえるからです。
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【04】撮影:13時02分=伊藤 幸司
神主山を過ぎて、鳴虫山へのゆるゆると長い登りに入っています。
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【05】撮影:13時16分=伊藤 幸司
最近ご無沙汰だった理由は、日帰りの日光なら、中禅寺湖まで上がってシロヤシオの乱舞というのが6月に必ず入ってくるので、この山を選ぶチャンスがなかなかこない……というのが正直なところでした。 最初は花に期待して計画したこともあったのですが、奥日光のシロヤシオは全国レベルだと思うのでどうしてもそちらに目がいってしまうのです。
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【06】撮影:13時18分=伊藤 幸司
これが鳴虫山の稜線のイメージです。地表に浮き出た木の根を踏んで歩く登山道という気分がず〜っと続きます。
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【07】撮影:13時23分=伊藤 幸司
梅雨時の花のない時期に、これは目立ちました。ナツツバキだか、ヒメシャラだか。
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【08】撮影:13時23分=伊藤 幸司
ナツツバキは別名シャラノキ。沙羅双樹の沙羅の木に似ているとか。おかげで「ナツツバキに似ているが花も木も小ぶり」という巨木にヒメシャラという名がついたとか。その大小をどこで区別するのかわからないので……わかりません。
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【09】撮影:13時31分=伊藤 幸司
これが神主山から鳴虫山へと続く稜線の基本形。左手には植林が続き、右側の斜面は自然林。つまり観光地「日光」に面した側が自然林で、裏側が植林地ということになります。
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【10】撮影:13時32分=伊藤 幸司
こういう登山道は、歩くのに罪悪感が残ります。その私たちを見る人いたら、石突きをカバーせずにストックを使っている私たちの「破壊行為」をどうする? といいたいところでしょう……が。(ストックについてはすでにいろいろ書いていますので、ここでは省略)
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【11】撮影:13時36分=伊藤 幸司
1998年に出した『がんばらない山歩き』(講談社)で重要な役割を果たした写真はこの山で撮った、このような木の根の登山道でした(もっといい写真でしたが)。そういう意味で、鳴虫山の「木の根道」は特徴的なものだといえると思います。
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【12】撮影:14時29分=伊藤 幸司
鳴虫山山頂。そぼ降る雨の中、誰とも会わない山でした。すなわち、自分たちだけの貸切りの山でした。
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【13】撮影:14時41分=伊藤 幸司
この日は雨のために(当日になって)「岩山」を回避したのですが、鳴虫山もこの先、下りに雨の日の難所が待っています。
「雨なら技術チェックに集中できる」というのが私の基本姿勢ですが、北アルプスの縦走など、小屋泊まりだと雨に当たる可能性が大きくなります。降水確率が30%以上なら中止という方法論にはいろいろな意味での矛盾が生じてきますから「雨でも」出かけてくる価値はけっこうあるのです。
天気に関しては「予報天気」と「実体天気」のあいだに大きな誤差が生じることを、私たちは知っています。とくに台風の接近時などに顕著ですが、遭遇予定の「予報天気」が悪いときほど、現地に行ってみないとわかりません。
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【14】撮影:14時46分=伊藤 幸司
下りはこの階段から始まりました。以前はここが、なかなか手応えのある下りでした。
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【15】撮影:14時52分=伊藤 幸司
この「五分刈り」ふうのササは、鹿さんのしわざでしょう。ササ刈り専門の鹿を教育できれば日本の山はすばらしいものになるのでしょう。
丹沢の鍋割山荘周辺は以前は背丈を超えるササ原で鹿と遭遇してもぶつかりそうになってドッキリという状態だったそうです。それがいまでは広い斜面に鹿がいればすぐに見つかるほど刈り込まれたまではよかったものの、ブナの若木も無くなったとか。
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【16】撮影:15時29分=伊藤 幸司
小さな山なのに、長い尾根をのんびりと下る……という気分も味わうことができます。
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【17】撮影:15時32分=伊藤 幸司
たまたま見かけたという感じですが、シカ除けの保護ネットではないかと思います。どういう意図でこの木だけなのかわかりませんが。
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【18】撮影:15時34分=伊藤 幸司
鳴虫山はほぼ真北に東照宮を見る位置(実際には見えませんが)にあって、北東方向の東武日光駅から登り詰めて、北西方向の含満淵(日光植物園や旧田母澤御用邸方面)へと下ります。この道筋にいい展望台があれば、日光のハイキングルートとしての価値はかなり大きなものになると思います。
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【19】撮影:15時35分=伊藤 幸司
どうですか、この芝草のようなササ原。鹿たちが刈り込んだ仕事だと思います。
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【20】撮影:15時59分=伊藤 幸司
925mの標高点(独標という立て札がありました)からまた急坂が始まります。初心者でも基本的には問題ないのですが、大騒ぎする場所です。「滑りそうな急坂はつま先立ちで下ってみる」という体験をするのに非常にいい場所なので、初心者向けとしてこの山は欠かせません。
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【21】撮影:16時08分=伊藤 幸司
昔と比べると道はしっかり踏まれているうえ、ロープなどもきちんと張ってあります。
ロープを使うと姿勢が崩れて、重心の管理がおろそかになるので、安全は守られるけれど、技術的にはマイナスとなることは、多くのクサリ場と同じです。
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【22】撮影:16時16分=伊藤 幸司
登山道の整備を、最近では下界の土木や造園の技術で進められることが多いようです。しかもその工事は、仕上がりの写真が見栄えするように行われているようです。
東京の下水処理が1時間雨量50mmを基準にしているので最近の100mm/毎時というような危険な雨には対応できないのと同様、集中豪雨があれば一発でこのようになるわけです。全国の登山道は昭和30年代の登山ブーム、山小屋設置ブーム以降、踏み跡を壊さない方法で守られてきました。たとえば北アルプスでは燕山荘が手入れを続けている中房温泉からの登山道、また、素人がほぼ独力で作り上げた完璧な登山道として、扇沢出合から種池山荘へと登る柏原新道があります。掘り返さずに維持し続けるという見本だと考えます。
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【23】撮影:16時17分=伊藤 幸司
ダブルストックをきちんと使えると、この程度の道は問題なく下れます。滑りを止めるというアタマからの要請に応えるためではなく、深い前傾姿勢を維持して重心をつま先側に(かかと側ではありません)維持するためにダブルストックが有効です。
言葉でわかりやすく言うと、スキーで上級斜面に飛び出すときの、あの深い前傾姿勢をとってみてください(ストックがないときには思い切ってつま先立ちで、綱渡り、あるいは平均台を歩く気分で)。
靴底のフリクションも、靴底のエッジもほとんど役立たずです。重心位置を指の付け根から外さなければ、滑っても転びません。どうしても滑る場合はテレマークポジションをとってみて下さい。
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【24】撮影:16時18分=伊藤 幸司
急な下りもここまでです。
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【25】撮影:16時19分=伊藤 幸司
この赤いキノコ、なんだかわかりませんが、色がもっとも鮮やかな「年ごろ」かと思いました。
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【26】撮影:16時54分=伊藤 幸司
含満ヶ淵(かんまんがふち)に出ました。有名な「化地蔵」が約70体並んでいます。「約70」というのは、数える度にその数が違うから「化地蔵」なのだとか。ここに見えるような、いなくなったのか、これからやってくるのかわからないものもその「70」に意味を持たしているのでしょうか。
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【27】撮影:16時54分=伊藤 幸司
立派なお地蔵さんだし、寄せ集めではなくて特注品が並んでいるように見えます。とちぎ旅ネットに「慈眼大師天海の弟子約百名が『過古万霊、自己菩提』のために寄進したと言われている地蔵群」とありました。
天海といえば徳川家康と共謀して、日本の仏教寺院を幕府の管理下に置いて戸籍役所のごとき全国ネットに仕上げた人物……と、私は『日光市史』を読んだときに思いました。家康亡き後、幼い家光の教育係となり、東照宮建設の原動力となった人物です。その弟子たちのなにか、願いを受け止めてきたのでしょうか。
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【28】撮影:16時55分=伊藤 幸司
含満ヶ淵には人がいました。外国人旅行者です。日光ですから、考えてみれば当然。スマートフォンを持っていれば、この場所に足を伸ばすのも簡単です。入口に日本風の茶店があったはずですし。
日光が外国人に開放されたのは明治になってからです。
1868年(明治1)に戊辰戦争が日光でも展開されるとき、官軍の将・板垣退助は日光に立て籠もった旧幕府軍に対して戦火を逃れるため退去を求め、東照宮の焼失を防いだといわれています。
1871年(明治4)にその日光にアメリカの医療伝導宣教師のヘボン(ヘボン式ローマ字の発案者で明治学院の創設者)が訪れ、東照宮の若い雅楽師金谷善一郎の自宅に泊まります。
翌年には英国代理公使のアダムス、画家で「ジャパン・パンチ」創刊者のチャールズ・ワークマンとともにアーネスト・サトーが日光を訪れました。
そういう時代の動きの中で1873年(明治6)に21歳の金谷善一郎は外人向け民宿としての金谷カテッジ・イン(サムライハウス)を創業。金谷ホテルの誕生です。箱根の富士屋ホテル創業は1878年(明治11)ですから、金谷ホテルはそれに先だって、日光が外国人避暑地として発展するのに大きく貢献しました。
ひょっとすると、百数十年前にもここでこのような光景が見られたのではないかと思いました。
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【29】撮影:16時55分=伊藤 幸司
お地蔵さまはすべてを見てきた?
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【30】撮影:16時56分=伊藤 幸司
この写真、モノクロにしてみたら百年前の雰囲気になるかもしれません。
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【31】撮影:16時56分=伊藤 幸司
含満ヶ淵のこの激流、日本の川の印象的な光景かもしれません。華厳の滝から落ちた水が大谷川となり、みごとな急流風景を見せています。
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【32】撮影:17時05分=伊藤 幸司
含満ヶ淵から少し下ると、大谷川はガラリと表情を変えます。釣り人の姿のある今ふうの日本の川です。
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【33】撮影:18時06分=伊藤 幸司
このところ日光方面の山の帰りの入浴は「駅スパ」です。バスで終点の「JR日光駅」で降りるとそこにあるのが日光ステーションホテル。駅スパには大きな露天風呂が加わって快適になりました。しかもレストランが開いているので、最終の浅草行き東武特急に間に合うギリギリの時間まで、食事することができます。
外の風景では東武日光駅の三角屋根が見えますが、雨はやんで、ドラマチックな空が広がっていました。
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【34】撮影:18時32分=伊藤 幸司
この日はホテルのレストランが貸切になっていたので、東武日光駅の向こう、徒歩約5分の「ダイニングカフェ・まるひで食堂」に行きました。17時25分の電車に乗るまでの1時間という時間枠で。
これは「テリヤキゆばバーガー」。表にこの看板が出ているので、以前それを見てきわものと敬遠していたのですが、今回はハズレ覚悟で。でも申し分のないハンバーガーでした。
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【35】撮影:18時43分=伊藤 幸司
何人もが注文したのがこの「ゆばかつ丼」。湯葉のカツがトンカツのイメージをこわさずに、湯葉の味も出していて、なかなかのものでした。
まるひで食堂は東照宮前にあるそうで、ここはその支店。驚くほど閉店時刻の早い日光ゆえ、これまでは駅前のインド料理でドタバタするのが常でしたが、ステーションホテルのレストランとこのダイニングカフェ・まるひで食堂を利用できるとわかりました。

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