【撮影】1日目 09時43分=伊藤 幸司
この日、本来ならこんなところに来てはいないはずだったのです。バンジージャンプで有名な竜神大橋から紅葉真っ盛りの竜神川を遡って明山(標高=457m)を経て大子町へと向かっているはずだったのですが、龍神大橋から明山への道も台風によって通行禁止になっているということで、恒例の腹ごなしに水戸の偕楽園を歩くことにしたのです。
そこで水戸駅前から偕楽園方面行きのバスに乗ったところ「好文亭表門入口」→「偕楽園東門」→「偕楽園・常磐神社前」までが下車候補らしいので、運転手さんに聞いて「偕楽園・常磐神社前」で降りました。
『速報偕楽園』というサイトの『好文亭 表門 (こうぶんてい おもてもん)』には次のように書かれています。
【好文亭表門は、偕楽園北側に位置し、本来の偕楽園の正面入り口です。
最近は交通機関の関係で、東門から入る来園者を多く目にしますが、この表門から入ってこそ偕楽園の奥深い魅力を堪能できます。
どうぞこの表門から入園して、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公の造園思想にふれてみてください。
表門は、昭和20年8月の戦災にも焼け残り開園当時の面影をそのままにしています。
茅葺き(かやぶき)切妻造り(きりづまつくり)で、角柱2本と副柱2本で支えられ、両側には瓦葺きの袖塀がつけられ、黒塗りであることから「黒門」とも呼ばれています。
表門の左手にはヤブツバキの巨木、右手には桜の巨木があり、ここからすでに陰陽の世界が始まっています。】
なんと私たちは第一、第二の候補を素通りして第三の入口から入ったということになります。
……で、この鳥居はなにかというと、もちろん常磐神社の鳥居です。
【撮影】1日目 09時44分=伊藤 幸司
まあ、鳥居をくぐるとこの紅葉ですから、腹ごなしツアー責任者の私としてはまず一安心。秋景色の偕楽園はまちがいないでしょう……と。
【撮影】1日目 09時47分=伊藤 幸司
これが常磐神社です。詳しく知る余裕なく先を急いだのですが、帰って調べてみると大いなる疑問が湧いてきたのです。
『常磐神社』の公式ホームページらしいのですが『水戸黄門ホームページ』という別名があるようです。別名というか、URLを見ると「www.komonsan.jp/tokiwa-jinja/」ですからやっぱりあやしい。「komonsan.jp」が正式名。でもきちんとした神社のホームページなんです。「常磐神社奉賛会会員募集」なんていうページもあります。
その『常磐神社の由緒』には次のように書かれています。
【・明治の初年、義公(第2代藩主徳川光圀公)・烈公(第9代藩主徳川斉昭公)の徳をしたう多くの人達によって偕楽園内に祠堂(しどう)が創立されました。
・明治6年(1873)には、明治天皇の勅旨をもって『常磐神社(ときわじんじゃ)』の御社号を賜りました。同年、県社に列格しました。
・明治7年(1874)現在地に社殿を造営し、5月12日遷座祭が行われ、この日を例祭と定めました。
・同年、義公には「高譲味道根命(たかゆずるうましみちねのみこと)」烈公には「押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと)」の御神号が宣下されました。
・明治15年(1882)別格官幣社に列格しました。
・昭和20年(1945)戦災によって社殿以下ほとんどすべての建造物が焼失しました。
・昭和33年(1958)全国の崇敬者からの浄財によって現在の社殿が完成しました。】
私が素朴に疑問に思ったのは「明治6年には、明治天皇の勅旨をもって『常磐神社(ときわじんじゃ)』の御社号を賜りました。」というのに代表される旧水戸藩と新政府との関係です。くわしいことはわかりませんが、私は『富士山・地図を手に』(1980年・東京新聞出版局)で富士山の浅間神社に関して次のように書きました。
【(1)富士宮の浅間神社……明治29官幣大社←明治4国幣中社
(2)甲府一宮の浅間神社……明治4国幣中社
(3)静岡の浅間神社……明治21国幣小社
(4)富士吉田の浅間神社……明治12県社←明治5郷社
(5)須走の浅間神社……明治19県社←明治8村社
(6)河口の浅間神社……大正13県社←明治5郷社
(7)村山の浅間神社……大正13県社←明治8村社
(8)勝山の浅間神社……大正14県社←明治5村社】
これは大正時代、全国に1,370社あったという浅間神社のトップ8の、明治政府による位づけの経緯です。
【ここにつけられた「社格」は明治四年以降、全国の神社を官幣(大・中・小)社、国幣(大・中・小)社、府県社、郷社、村社などに叙したものです。明治政府は全国十七万社といわれた神社の台帳を完備したといいますから、国家神道の確立は新政府にとって、大プロジェクトだったといえそうです。】
つまり、富士山を祀る神社の大もとが「一宮」だったからという理由で機械的に国幣中社とされ(本来の格付と思われる)官幣大社とされるのは明治29年、富士宮の「富士山本宮浅間神社」とは親子関係にあった静岡の浅間神社は明治21年まで完全に無冠、突如国幣小社になるのです。
それが旧徳川家と新政府の関係だったと思っていた私にしては、最後の将軍を出した水戸の、義公(第2代藩主徳川光圀公)と烈公(第9代藩主徳川斉昭公)の徳をしたう多くの人たちが、なんと明治初年に「祠堂」(というから粗末なものだったでしょうが、それを)建てて【明治6年(1873)には、明治天皇の勅旨をもって『常磐神社(ときわじんじゃ)』の御社号を賜りました。同年、県社に列格しました。】というのは想像を超えるものでした。
同じホームページ(常磐神社)内には
『明治維新と水戸学』として「水戸学講座」の最終回(第5回・但野正広)の講義録がありますが、いろいろ、いろいろ語られた最後に、次のようなコトバがありました。
【水戸は、明治維新達成の為に、多くの人々が命をかけ、藩をつぶして、ご奉仕申し上げた。それを最もよく、的確に、温かく理解され、そしてその後の、水戸の人々に大きな心の支えを与えてくださったのが、明治天皇という御方であろうと思います。】
私にはすぐには理解しがたいものではありますけれど。
ともかく、この神社は偕楽園の内側ではないようです。
【撮影】1日目 10時00分=伊藤 幸司
入園料を払って東門から偕楽園に入りました。空が大きく広がって、同時に立ち入り制限のない芝生が広々と続いていました。写真によってはここに柵が作られることもあるように思われますが、ともかく開放的な芝生があるということが、日本の伝統的な庭園としては意外な感じがしました。でも気分がいい。
『旅.フォト』の『469 水戸偕楽園 観梅 14年03月23日(日)』にこの写真のちょっと先の梅まつりの情景がありました。【18/20 偕楽園:見晴広場、芝生でくつろぐ来園者、”偕楽園”の名にふさわしい情景だ。】
そこには柵に囲われた芝生に入ってくつろぐ人々の姿があって【”偕楽園”の名にふさわしい情景だ】とあります。
【撮影】1日目 10時02分=伊藤 幸司
東門から入ると広がる芝生は見晴広場というのだそうです。これが「見晴らし」のひとつではないかと思います。眼下の千波湖を含めて偕楽園なのですが、その中心と思わせる噴水はかなり巨大です。これは平成21年(2009)に設置されたもので、
『水戸市』のホームページに『千波湖の噴水』があって、【千波湖の西側に大噴水が1基,南側と東側に小噴水が1基ずつ設置されています。】とのこと。さらに【大噴水は,毎時00分と30分から10分間の運転をしています。小噴水は大噴水の後,南側,東側の順に10分ごとの運転をしています。】
『水戸市公園緑地課千波湖管理室』の『SENBA LAKE OFFICIAL WEB SITE』には千波湖についてのかなりたくさんの情報がありますが、【千波湖西側に大噴水を1基、南側及び東側に小噴水を1基ずつ設置し、千波湖への導水と流動促進装置(ジェットストリーマー)を併用することで、千波湖の水を効率よく流動させ、水質の浄化を図ります。また、夜にはライトアップされ、幻想的な千波湖の景観を楽しむことができます。】とのこと。
【撮影】1日目 10時02分=伊藤 幸司
偕楽園の見晴広場は私には洋風の公園という感じがしました。
【撮影】1日目 10時03分=伊藤 幸司
この芝生、江戸時代はどうだったのでしょうか。「偕楽園の芝生」と検索してみたら、
『桐原造園』のホームページに『芝生のある公園ーin茨城県』があって『私が決めた『芝生のある公園ベスト3』in茨城県』の第1位が偕楽園でした。
【芝生のある公園と言えば、最初に思い浮かべるのは、偕楽園ですね😃
今は観梅で賑わっていますね🌸
偕楽園についてちょっと調べてみました❗
偕楽園は徳川斉昭(なりあき)が自ら造園構想を練り、1842年7月1日に開園したそうです。名称は『孟子』の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」から、とったそうです。
金沢の兼六園、岡山の後楽園と並んで、日本三名園の一つとなっています。広さは兼六園の30倍、ニューヨークのセントラルパークに次いで、世界第二位の広さだそうです。
偕楽園拡張部の四季の原
その拡張部に四季の原という、芝生の広場があり、春は梅、ネモフィラ、菜の花、夏はひまわり🌻、秋はコスモス等が咲き誇る広場があります🍀
イベントとして、過去に「ちびっこ広場」や、「偕楽園チャリティー音楽祭」等が行われたようです。
偕楽園がつくられた当時の里の風景を再現した四季の花が咲く野原です。なだらかに広がる芝生広場です。ピクニックなど最高ですね😃
春は梅、桜🌸、夏はツツジ、花火大会🎆、秋は萩、紅葉🍁、冬は千波湖の白鳥で楽しめます🍀】
「四季の原」というのは川向うの、千波湖の湖面からさらに右手に広がる広場のことで、「偕楽園公園」には含まれますが「偕楽園」の外側です。
この写真の右手奥に屋根の一部が見えますが、好文亭です。つまりこれは「好文亭前の芝生」なんです。……それについて書かれた文章がありました。
『「偕楽園公園の魅力向上を考える」」水戸市の日本遺産と観光への提言・平成30年4月』という文書で提出したのは「偕楽園公園を愛する市民の会」
膨大なアンケート調査をベースにした提案のようですが、そこにこの芝生に関する記述がありました。
【⑩Ⓐ[◎◎]史跡整備事業 見晴広場は一面の芝生の白さに「陽」の魅力あり
見晴広場の由来は、広く一面が芝生に覆われ、南方より吹き込む心地よい風の方向を見ると、低地の千波湖や対岸の緑地の見える見晴しの良い芝生の広場。好文亭から見える芝生の広さ(白さ)が、偕楽園の陰陽の「陽」を梅花と芝生で表しているとの、書物もある。
【右】男坂は昔の面影を残した整備が出来ている。
【左】女坂は現在表面コンクリートで、車イスのための整備だが、回遊性がない。身障者用駐車場への誘導を検討してほしい。
観梅時期は多くの人で賑わい歩けないほど混雑したため、ななこ垣(竹柵)で通路を確保していたが、入ってはいけない柵に見えたりしていた。
昨年(2017 年)には、溝を掘り砕石を敷いてしまい、見晴広場でイベントを行った際、車イスの方より通路の溝の段差が深く、催しを行っているテント間の移動ができないと苦情が出ていた。
広い芝生の休息地であったが、南崖沿いの園路よりは若干高く茣蓙を敷いて(現在はシート)、お弁当を食べながら・野点をしながら景色を堪能したところであった。見晴広場の由来ともなっている広い一面芝生で見晴らしのいい広場に整備をすべきだ。】
【偕楽園の陰陽の「陽」を梅花と芝生で表しているとの、書物もある】ということは江戸時代からの芝生なんですかね。それと【多くの人で賑わい歩けないほど混雑したため、ななこ垣(竹柵)で通路を確保していたが、入ってはいけない柵に見えたりしていた】という一般にはちょっと理解しがたい考え方ですよね。まさに「偕楽」論ですかね。
でも芝生が江戸時代から? つまりこの「陽」の気分が江戸時代から? という疑問は消えません。
『EARTHTIME あすたいむ倶楽部』の『「歴史街道」ぶらり紀行』に『第73回 日本庭園の変遷を巡る・15(明治時代/無鄰菴)』がありました。
それによると【大名が姿を消し、新しい時代の指導者をはじめ新興地主や実業家が新たに庭園の施主として登場する。なかでも明治の庭園界に大きな影響を及ぼしたのは、長州(山口県)出身の山縣有朋である。明治の元老で、軍人にして政治家でもあった山縣は庭園をたいへん愛し、慈しんだ人物として特筆されるとともに庭園史上にその名をとどめた。】とのこと。
そして【南禅寺の旧境内に位置する無鄰菴(京都市左京区)は、七代目小川治兵衛(1860〜1933;屋号「植治」)に依頼して自らの構想を詳細に具現化したものである。】として、【山縣は無鄰菴の作庭について、「この庭園の主山は東山であり、山麓にあるこの庭園では、滝も水も東山から出てきたようにデザインする必要があり、石の配置、樹木の配置も自ずと決まってくること」「水の扱いについては、山村を流れる川のイメージで、池ではなく流れの庭としたこと」「植栽については、滝の岩の間にシダを植え、ツツジを岩に付着するように植え、地被としては芝を用いるとともに、高木としてはモミを用いるとともに、杉、楓、葉桜を中心としたこと」を語っている。】
ここに【地被としては芝を用いる】と明確に語られています。いま、日本庭園にごくふつうに見られる芝はこれからさらに遡るのでしょうか。
【山縣の庭園観を咀嚼し、新たな造景に力を尽くした植治こと七代目小川治兵衛は以降作庭において借景の技法を得意技とし、後世の造園界に大きな影響を残した。】
ということで【植治の作庭した庭園は、明治という新しい時代にマッチした明るい解放感を備える。いずれの庭にも借景や水の流れ、軽やかな配石、広々とした芝生とそのなかを縫う曲線的な園路といった独自の作庭手法を見ることができる。】
……のだそうです。
【撮影】1日目 10時05分=伊藤 幸司
芝生の明るい広場の中にドン! と松。どう見たらいいのかわからないまま写真を撮りました。いかにも松らしい、という髪型ではないのが印象的でした。
【撮影】1日目 10時06分=伊藤 幸司
千波湖の右側を見ています。この広い低地がいわば河川敷。手前の足元に鉄道が通ったことから本格的な防災開発が始まったようです。とりあえず向こう岸までの、見える範囲がすべて「偕楽園公園」です。
【撮影】1日目 10時11分=伊藤 幸司
「二季咲桜」です。紅葉のこの時期に、花を咲かせていました。
解説板によると【シキザクラ(和名)の仲間で、秋から冬にかけてと春の二回咲く一重咲きの桜です。初代の二季咲桜は、水戸藩士久米某氏邸にあったものを移し替えたと伝えられています。好文亭中庭と東門付近にもあります。】
【撮影】1日目 10時12分=伊藤 幸司
この「二季咲桜」について、解説板より詳しい解説がありました。
『茨城県の桜 常陸国一千三百年の桜史』というホームページに『【水戸市】偕楽園二季咲桜 2019.08.12』とありました。
【偕楽園の桜といえば左近の桜が有名ですがこちらも名木です。
秋から冬にかけてぽつりぽつりと花を咲かせて、春には大満開になるという、年に2度咲く四季桜の一種、それが二季咲桜です。
ほとんどは一重咲き(花びら5枚)ですが、中には八重咲きもあります。
二季咲桜はエドヒガンザクラとマメザクラの交配品種です。
そういったことから、エドヒガン特有のガクの形状と、マメザクラ特有の小さい花を見ることができます。
昭和45年に発行された『水戸の心』(関孤円)には
二季桜「奥殿の前庭に一株、園記碑の南二十歩くらいの所に一株。」
「水戸藩士久米幹之(国学者・歌人)邸にあったものを寄贈植付けたと云う。」
とあります。
昭和38年頃には、二季咲桜の後継樹が接ぎ木で増やされました。それらは表門に1本、見晴広場に3本、南門に2本植えられたそうです。また、昭和47年には水戸市森林公園に800本もの二季咲桜が植樹されたという記録もあります。
現在の偕楽園には後継樹を含めて何本かありますが、まずはこちら好文亭前の梅林の隣に咲くものから。(これが上記園記碑の南二十歩くらいの所)
左右に枝分かれしていて、それぞれ色合いが異なる花を咲かせています。
水戸桜川千本桜プロジェクト代表の稲葉先生によれば、これは合体樹ではないかとのこと。
非常に珍しいと思います。
また、冬の開花よりも、春のほうが花の量が多いのも四季桜の特徴です。】
【撮影】1日目 10時12分=伊藤 幸司
二季咲桜は【左右に枝分かれしていて、それぞれ色合いが異なる花を咲かせています。
水戸桜川千本桜プロジェクト代表の稲葉先生によれば、これは合体樹ではないかとのこと。
非常に珍しいと思います。】ということですが、全体像としてはこんもりとした印象ながら、近づいていくとこんな枝ぶりに見えてきます。
なお、写真は撮りませんでしたが、このすぐ手前にあった「左近の桜」は9月9日に台風15号によって倒壊。再生不可能として撤去されていました。京都御所の左近の桜の三代目だったそうです。
【撮影】1日目 10時15分=伊藤 幸司
これはドウダンツツジ? なんて思いながら軽く調べてみると、意外な情報が出てきました。軽くてPRっぽい文章でしたが。
『知らずに切って慌てないための 庭木の剪定 専門サイト』にあった『ツツジを丸く剪定! 刈り込みバサミと電動バリカンどちらが良いか?』です。都合のいい部分だけを拾い読みさせていただきました。
【ツツジを剪定しようと悪戦苦闘している方が多いですね。ツツジの剪定は簡単なようでけっこう難しいかもしれません。何が難しいのかというと……ほとんどのツツジは丸く仕立ててあります。ということは、丸く剪定しなければいけないということになりますよね。】
写真にいろいろな線が引かれていますので、関心のある方は直接ご覧ください……として、【上が「剪定前」の写真です。下が「剪定予定」の線を引いた写真です。2本の線が引いてありますが、今年ツツジが伸びた「外側の線」で軽めに刈れば極力花芽を落とさずに刈れるはずです。】
【写真をもう一度見てほしいのですが、外の線、内の線ともに上下に色違いで線を描いているのわかりますか? 外側の線は上が「青」下が「赤」です。なんで色分けしたかというと自分でツツジを選定する方のほとんどが上の「青」の線でしか剪定はしないんです。だからだんだんと下に葉や枝が伸びてきて重苦しいツツジになってくるんです。さっぱりときれいなツツジに仕上げるのであればしっかりと下の「赤」の線も剪定していただきたいと思います。一般的な庭師は上の線はもちろん刈りますが、下の線をしっかりと刈ることで1本のツツジをきれいに仕上げることができるんです。うまい庭師はここを見ればわかります。】
この写真と直接関係ない情報でしたが。
【撮影】1日目 10時23分=伊藤 幸司
好文亭に入りました。先ほど見たツツジは庭園の外側でしたが、こちらは内側です。同じ庭師さんのシゴトでしょうか。
【撮影】1日目 10時23分=伊藤 幸司
2本のツツジ、といっていいのでしょうが、世界観を感じさせますよね。じつは先ほどの赤いツツジの脇にも緑のツツジがありましたから、ここでの決めごとなのかもしれません。
じつは偕楽園には「ツツジまつり」というのもあるんですね。4月末から5月はじめにかけてのようです。
『速報 偕楽園』というサイトに『ツツジを楽しむ 水戸のツツジまつり』というのがありました。平成31年4月20日(土)〜令和元年5月12日(日)というもので【偕楽園では霧島ツツジやどうだんツツジなど約380株、水戸市森林公園では山ツツジや久留米ツツジなど約1万株が咲き競います。】とのこと。
2007年の『今日の偕楽園 つつじ情報』にはこんな解説がありました。
【偕楽園のツツジがそろそろ見頃です。
まだ開花していない株もありますが、高さ3mあまりの霧島ツツジは新緑を照らし、炎の様を呈しています。
薩摩藩主の島津公から寄贈されたとされる霧島ツツジは樹齢約250年。
敵から攻められた時にはこれらの茂みに隠れ、迎え討つことができるよう植え込みが重なるように配置されています。】
【撮影】1日目 10時25分=伊藤 幸司
これはツバキなんでしょうね。調べてみると
『速報偕楽園』に『偕楽園 花ごよみ』という力作がありました。
それによると【ツバキ(侘助)…11月〜2月…好文亭奥御殿南及び東側・公園センター構内】
【ツバキ(藪椿)…12月〜3月…偕楽園記碑北・吐玉泉付近・桜山駐車場・田嶋鳴梅林・月池右岸・表門】
【サザンカ(山茶花)…10月〜12月…好文亭・南門付近・もみじ谷】
ツバキかサザンカかよくわかりませんが、ツバキは好文亭にとっては重要な花のようです。来るときに私たちがパスしてしまった「好文亭表門」でツバキの重要性がわかったかもしれないのです。
『速報偕楽園』の『好文亭表門』です。
【最近は交通機関の関係で、東門から入る来園者を多く目にしますが、この表門から入ってこそ偕楽園の奥深い魅力を堪能できます。
どうぞこの表門から入園して、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公の造園思想にふれてみてください。
表門は、昭和20年8月の戦災にも焼け残り開園当時の面影をそのままにしています。
茅葺き(かやぶき)切妻造り(きりづまつくり)で、角柱2本と副柱2本で支えられ、両側には瓦葺きの袖塀がつけられ、黒塗りであることから「黒門」とも呼ばれています。
表門の左手にはヤブツバキの巨木、右手には桜の巨木があり、ここからすでに陰陽の世界が始まっています。
毎年4月上旬にはこれらの二種の陰陽の花を同時に見ることができます。】
【撮影】1日目 10時25分=伊藤 幸司
好文亭のモミジの紅葉はこんな感じでした。
【撮影】1日目 10時27分=伊藤 幸司
そしてここにも二季咲桜がありました。
【撮影】1日目 10時29分=伊藤 幸司
好文亭の桃の間。【襖絵 田中青坪画伯筆】とありました。
その名前で調べてみると、
『アーツ前橋』のサイトに『田中青坪 永遠のモダンボーイ』という展覧会(2016.03.19~05.17)の告知記事がありました。
【田中青坪(たなかせいひょう)という画家を知っていますか。
大正、昭和と日本美術院を中心に活躍した日本画家で、仲間からは「永遠のモダンボーイ」などと呼ばれ、モダニズムを追求した作風を展開し、次々に新風を試みながら、晩年は深い自然観照による風景画を制作し、世界を探求しました。】
この部屋に置かれた解説には次のように書かれていました。
【桃の間は総板敷きで厨(くりや:食事の準備の場所)として使用された部屋です。桃の樹を配した襖十四面が三方を囲んだ空間をつくっています。地面は描かれていませんが、樹の根元を描写することで画面に奥行きを暗示させています。桃のほかに青々とした松葉が画面を分断するように描きこまれ、青坪の画面構成に対する大胆さがよくあらわれています。】
【撮影】1日目 10時30分=伊藤 幸司
蔀戸(しとみど)の1枚がはずれていたようです。もちろん「しとみど」という名もわからずに探してみたら
『コトバンク』の『蔀(シトミ)』に『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説がありました。
【日本建築で上から吊(つ)り下げた格子戸。蔀戸(しとみど)ともいう。外に突き上げ、あるいは内に引き上げて開け、軒または天井から下げた金具に引っかけて留める。蔀には構造上多少異なるものがあり、表裏両面に格子を組み、その間に板を挟み込むのが正式で、表のみ格子で裏に板を張るものや、横桟または縦桟だけで板を留めたものもある。蔀は敷居と鴨居(かもい)の間を1枚で吊ると重いので、上下2枚に分け、上蔀を吊り下げ、下蔀を柱間(はしらま)に建て込むのが通例である。このような分けた蔀を半蔀(はじとみ)または小蔀(こじとみ)という。
蔀は奈良末期〜平安時代(8世紀後半)に現れた建具で、内裏(だいり)の殿舎や貴族の邸宅で用いられたが、中世以降になると一般化され、社寺でも使用した。庭内の目隠し用の塀として、土台の上に蔀を連続して立て並べたものは立蔀といい、上部に竹の節を飾りとしてつける。また江戸時代の民家では、格子戸とせずに単に板戸だけを吊り下げたものもあり、これは「しとみ」「しとめ」「ひとみ」または「ぶちょう」とよび、折り畳んで上げるもの、柱に溝を彫り上に引き上げるものなどがあった。[工藤圭章]】
【撮影】1日目 10時30分=伊藤 幸司
これはツツジの間。大胆な構図の襖絵だと思いませんか。しかし、好文亭の襖絵にはきちんとした作家の名前が解説されていないという怠慢が感じられます。
【撮影】1日目 10時32分=伊藤 幸司
萩の間です。好文亭の襖絵について調べてみると
『顎髭仙人残日録 日残りて昏るるに未だ遠し…』というブログに『偕楽園好文亭奥御殿の襖絵「萩の間」』(2016年12月28日)というページが出てきました。とりあえず読んでみると……
【好文亭は、天保12年(1841年)9代藩主斉昭公が、「一張一弛」の教育方針を掲げ、藩校弘道館とセットで創った偕楽園にあります。平屋部分の奥御殿は藩主夫人が來亭の際の休息所で、明治になってから斉昭夫人の貞芳院が、仮住まいのために水戸城中御殿より移築した3部屋を加えて合計10部屋あり、そのうち9室の部屋に描かれた花木の襖絵が部屋の名前になっています。さて、いまからご紹介の萩の間は、お付きのご女中衆の詰所、休息の部屋でした。
終戦13日前の昭和20年8月2日、水戸大空襲により市街地の80%くらいが消失し、この好文亭も焼け落ちてしまいました。戦後の再建は寺社建築などを専門とする、世界最古の578年創業を誇る金剛組が1955年から施工し、襖絵は当時の東京芸大の須田珙中助教授によって、松の間、紅葉の間、梅の間、萩の間が描かれ、竹の間に取りかかった時に病に倒れたため、後を引き継いだ田中青坪教授によって菊の間、桃の間、躑躅の間、竹の間、桜の間が完成しました。】
【撮影】1日目 10時32分=伊藤 幸司
竹の間。この大胆な絵柄がこの部屋を「竹の間」とし、その「竹の間」が東京芸大の須田珙中→田中青坪によって復元されたというのですが、その「復元」がどのようなものであったかということがまだわかりません。
『ウィキペディア』の『偕楽園』の『好文亭』には次のような記載があります。
【1945年(昭和20年)の水戸空襲で大部分が焼失[25]。1955年(昭和30年)から創建時の状態を出来るだけ復元する方向で再建工事が開始され1958年(昭和33年)に完成した[26]。襖絵の大部分は須田珙中と教え子の田中青坪によって復元されたものである[25]。】
ちなみにその脚注には【25.^ a b c d “水戸・好文亭のふすま絵 文化財修復、市民が参加”. 茨城新聞. (2017年10月10日) 2017年10月10日閲覧。
26.^ 茨城県『史跡名勝常磐公園内好文亭及び庭園復元工事報告書』茨城県、1961年、1-8頁。】とあります。残念ながらWebトリップではどちらも簡単には読めませんが。
でもそれにかかわる情報は見つかりました。
『日本建築学会計画系論文集 第80巻 第707号』に掲載された論文で『文化財建造物の室内環境と障壁画の経年劣化──水戸偕楽園内好文亭奥御殿を事例として』で筆者は植松みさとさん(東京藝術大学大学院文化財保存学専攻)。
【好文亭は戦災によって消失し、現在の建物は戦後の再建である。東京芸術大学美術館所蔵の実測図面や板戸の絵や書の模写、飾り金具などの刷本を史料として復元された(注10)。しかし、奥御殿の障壁画は写真など構図の参考となるものが残っておらず、平面図に記載された室名から当初の画題を推測し、当時の東京大学の教官である須田珙中と田中青坪により新たに制作された。(注11)】
【(注10)東京芸術大学美術館の所蔵資料は、明治39年4月に当時の東京美術学校図案科(現・東京芸術大学美術部建築学科)の教授であった大澤三之助が学術実施指導を目的に図案科の学生を率いて、好文亭と奥御殿を実測して制作したものである。】
【(注11)障壁画はまず東京芸術大学の教官であった須田珙中が依頼され制作が開始されたが、四室の制作を終えたところで病に倒れたため、同じく東京芸術大学で教鞭を取っていた田中青坪に制作が引き継がれた。】
ここまでの情報では「創建時の状態を出来るだけ復元する方向」のなかで、元の襖絵がだれによって描かれたものなのか、とか、どのようなモチーフで描かれていたのか、とか、よくわかりません。『史跡名勝常磐公園内好文亭及び庭園復元工事報告書』(茨城県・1961年)というのを見ればわかるんですかね。
【撮影】1日目 10時32分=伊藤 幸司
嬉しいことに、かなり大きなイロハモミジがみごとに赤く染まっていました。入口辺りにあった褐色系のカエデとは品種が違うんですかね。
【撮影】1日目 10時33分=伊藤 幸司
じつはここが好文亭のどの部分なのかわかりません。私たちは入口から菊の間→桃の間→つつじの間→萩の間→紅葉の間→松の間→竹の間→梅の間→清の間とたどって、さらに竹の間を反対側から見るようにして、萩の間→桜の間と進みました。それが平屋建ての「奥御殿」だという認識なしに進んだのですが、竹の間+梅の間+清の間はどうも明治2年に城下の中御殿から移築されたもののようです。そのひと部屋ごとの360度写真が
『速報偕楽園』の『好文亭 全天球 360° 映像』で見られます。「好文亭見取り図」から入れるので助かりました。
【撮影】1日目 10時34分=伊藤 幸司
竹の間をもう一度見たときの襖絵です。
【撮影】1日目 10時34分=伊藤 幸司
これは萩の間です。
【撮影】1日目 10時34分=伊藤 幸司
撮影順で見ると、これが萩の間から千波湖の方向を見ている光景だとわかります。
【撮影】1日目 10時35分=伊藤 幸司
ここにも二季咲桜がありました。私たちは以前、年末になると群馬県鬼石の桜山の桜祭りに出かけていました。その頃から比べると冬咲きのサクラをずいぶんあちこちで見かけるようになりました。でもこちらは江戸時代からなんですね。
【撮影】1日目 10時35分=伊藤 幸司
これが桜の間。これを最後に太鼓廊下というのを通って「二層三階」といわれる「好文亭」に導かれるのです。
【撮影】1日目 10時38分=伊藤 幸司
庭先を見ると見晴広場のほうからこちらへ来る人が2人。その手前に配置された丸刈りのツツジが、じつは軍事的防衛装置だといわれると納得です。
【撮影】1日目 10時38分=伊藤 幸司
西塗縁と呼ばれる部屋はいわゆる和モダンのカフェになっているらしく、あとから知ったところによると「徳川将軍珈琲」なんていうものもいただけるらしい、のです。そんな気配は感じませんでしたが。
【撮影】1日目 10時43分=伊藤 幸司
階段を昇ると2階の武者控を超えて、3階の楽寿楼という素晴らしい展望室になります。8畳間を取り囲む廊下がその展望台です。
【撮影】1日目 10時45分=伊藤 幸司
これが偕楽園公園を代表する芝生の「四季の原」でしょうか。……だとすれば、いろんなイベントが行われるところのようです。
【撮影】1日目 10時46分=伊藤 幸司
好文亭の3階・楽寿楼から東の展望です。東門から見晴広場を抜けてこちらに向かった道筋が見えています。
【撮影】1日目 10時50分=伊藤 幸司
私たちは下足を手に、ザックを背負ったままぞろぞろと見学です。
【撮影】1日目 10時56分=伊藤 幸司
好文亭では結婚写真も撮影できるんですね。訪れた寺社や庭園でもときどきこういう光景に出会いますが、いいですよね、なんか得した気持ちになります。すなおに「お幸せにね」……なんて神様や仏様に対するより素直に手を合わせる気持ちになったりして。
【撮影】1日目 11時00分=伊藤 幸司
好文亭には30分ほどいたことになります。ひと山登るだけの時間があるので、桜川の向こう側、ひょっとすると「もみじ谷」というあたりまで行ってみようという感じで好文亭の中門を出たのです。
【撮影】1日目 11時01分=伊藤 幸司
今回は梅林に入り込むことなく、樹林帯を下っていく感じで進みました。「吐玉泉」という案内板に従って行くことになりました。
【撮影】1日目 11時05分=伊藤 幸司
これが「吐玉泉」。
『速報偕楽園』の『吐玉泉(とぎょくせん)』を見ると、この作為とも無作為ともわからない、ちょっとヘンな台座の謎が解けました。
【ここは昔から湧き水の多かった所で眼病に効く水と言われていました。偕楽園造成にあたりその湧き水を茶室何陋庵(かろうあん)の茶の湯に用いると共に造園上の景観を考慮し白色の井筒(いづつ)を据えた。
夏なお冷たく、玉のような澄んだ水をたゆまなく吐くので吐玉泉と名づけられました。
茶室何陋庵へは、山吹がゆれる七曲坂を上ってこの水を運んだことでしょう。
水利に詳しい斉昭公の考案とされる吐玉泉は、数メートル離れたところに集水マスを埋め、そこからパイプで導き吐出させている。
造園当時から枯れたことがない清水という。
同じような泉にやはり斉昭公が造った「玉龍泉(ぎょくりゅうせん)」がある。玉龍泉は、茨城県護国神社近くの「桜山駐車場」の桜山側にあります。
井筒は茨城県常陸太田市真弓山から採掘した大理石(寒水石)です。
水戸藩領の特産物であった寒水石は、白く硬い大理石の間に柔らかい黒い部分が縞模様になっており、水の浸食により縞の部分が溝になり時の経過とともに変化していきます。
ある時期になれば取り替えられ、現在のものは4代目とされています。
白色石灰石を総称して寒水石と呼ばれ、産地により茨城・関西では寒水、福島では白王、山口では長州あられと呼ばれているようです。】
【撮影】1日目 11時08分=伊藤 幸司
高台にある好文亭から崖下まで下ってきました。広大な河川敷がひろがっているわけですが、まずはJR常磐線と並走する沢渡川、源流は水戸市内の溜池だそうです。その沢渡川が偕楽園公園で桜川に合流します。桜川も水戸市の西のはずれあたりから流れ出る小河川で、水戸の市街地を抜けると那珂川に注ぎます。
偕楽園は千波湖を含む広大な河川敷を見下ろす河岸にあって、見下ろす風景は今とはだいぶ違う手に負えない氾濫原であったようです。それを整備して公園として、あわせて現在の偕楽園公園──セントラルパークに次いで世界第2位の都市公園、になったのだそうです。
そのあたりのことについては
『SENBA LAKE OFFICIAL WEB SITE』の『千波湖の歴史』にありました。
【千波湖はもともと、那珂川の氾濫などにより、上市台地と千波緑岡台地の間の低湿地帯に生じた浅い沼であったと考えられます。
それが、江戸時代初期における水戸藩の城下町建設のなかで、水戸城の堀として位置づけられ、囲い込まれることにより、千波湖が形成されました。】
【江戸時代の千波湖は、軍事面においては、水戸城の北側を流れる那珂川とともに、天然の堀となることで、水戸城の防衛上重要な役割を担っていました。
また、千波湖は、庶民の暮らしと密着した存在でもあり、その水は、「備前堀」によって、毎年干害に悩まされていた城南低地にもたらされました。
江戸時代の後期に出された「水府志料」によれば、当時の千波湖は、現在の柳堤橋付近にまで及び、その面積は、386,364 坪(約1,275,000 平方メートル (1 坪を3.3 平方メートル として計算))で、この数字を現在の面積(約332,000平方メートル)と比較すると、約3.8 倍の面積があったことがわかります。】
【「備前堀」は、初代水戸藩主徳川頼房(とくがわよりふさ)の命により、慶長15(1610)年、関東郡代伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)を中心として、毎年干害に悩まされていた城南低地の村々の農業用水を確保するため、千波湖の水を涸沼川に注ぐように整備されましたが、同時に、千波湖の溢水予防を兼ねたものでもありました。】
【明治22(1889)年の水戸鉄道(現在のJR水戸線)の開通により、千波湖の北側に水戸駅が整備されると、市街化を目的とした一部埋め立て(水戸駅周辺部分)が計画されました。また、同時に付近の水田の冠水防止を目的とした水位調整といった課題が浮上してきました。そのため、水戸市、千波湖周辺の村、水利組合などの関係団体が協議を行い、それぞれ解決策に取り組みましたが、抜本的な解決には至りませんでした。
その後、千波湖は、大正時代の始めごろから荒廃等が目立つようになったため、解決策として、千波湖を干拓・開田する事業計画が立ち上がり、県の事業として、総面積(約1,190,000平方メートル)の約3 分の2が干拓・開田され、残りの約3 分の1 が貯水池及び風致湖となりました。
この干拓・開田事業によって、現在の千波湖が形づくられました。】
このような庭園風景は大正〜昭和に生まれたもののようです。
【撮影】1日目 11時08分=伊藤 幸司
好文亭のちょうど真下にあたるあたり、紅葉風景がありました。
【撮影】1日目 11時09分=伊藤 幸司
立派な歩道橋でJR常磐線と水戸市街へ抜ける自動車道路を渡ります。梅桜橋という名前がついていました。
【撮影】1日目 11時15分=伊藤 幸司
「もみじ谷」と名付けられた一郭では11月9日から12月1日まで、夜9時までライトアップされているということで、とにかく行ってみようということになりました。入口のポスターに【約170本の紅葉が静かなもみじ谷を色鮮やかに染めあげます。昼と夜で趣が異なる「もみじ谷」で素敵な秋をお過ごしください!】と自信満々でしたから。
【撮影】1日目 11時16分=矢野 博子
これは珍しく緑の葉の紅葉。 紅葉している木々の合間に一本の木に 光が差し込み 精彩を放っていました。
【撮影】1日目 11時17分=伊藤 幸司
これは「もみじ」ではなくて「ツツジ」です。
【撮影】1日目 11時21分=伊藤 幸司
巨木が多いので、たしかに素晴らしい紅葉です。
『地元民による茨城観光・グルメ情報ブログ|イバトリ』というサイトでしょうか『【偕楽園の紅葉】もみじ谷と歴史館がおすすめ!2019年水戸の紅葉の穴場スポット』(2019年11月14日)がありました。KYOKOさんという方のブログのようです。長大なブログです(と私が言うのも妙ですけれど)。
【紅葉は見たいけど、「渋滞とか混雑とか無理!!」という方には、意外と穴場な水戸の紅葉がおすすめです!
私自身、渋滞したり、行列を待つことが苦手なタイプなので、同じような方には水戸で紅葉を楽しむのがぴったりかなと思います。
水戸市では主に2ヵ所おすすめな場所があり、
偕楽園のもみじ谷
茨城県立歴史館
これから写真でもお伝えして行きますが、けっこういいんですよ〜!】
【撮影】1日目 11時22分=伊藤 幸司
すばらしい紅葉でした。青空と陽光がそれを何倍にもブラッシュアップしてくれています。
【撮影】1日目 11時22分=伊藤 幸司
私はこういうモミジの黒い細枝が美しいと思います。
【撮影】1日目 11時22分=伊藤 幸司
「もみじ谷」というイメージを足元に感じました。この緑は苔類なのでしょうが、そこも自由に歩けるという開放感は偕楽園ならではのものなのでしょうか。
【撮影】1日目 11時58分=伊藤 幸司
バスで水戸駅へ向かう途中で若井さんがご存知の吾妻庵(あづまあん)に行きました。水戸駅から徒歩5分、そばに市役所があるというビジネス街ゆえ、サラリーマンの昼食が、どうも商売の中心のようで、営業時間は11時から17時まで、私たちはその昼食ラッシュの直前に滑り込んだ感じでした。
【撮影】1日目 12時15分=伊藤 幸司
これが蕎麦湯。ド〜ンと置かれました。
【撮影】1日目 14時14分=伊藤 幸司
水戸駅始発のJR水郡線で常陸大子へと向かいました。ごく最近になって水郡線は水戸〜郡山間が1か所を除いて開通、その1か所は橋が崩落して復旧の目処が立っていないというのです。その区間というのが明日登る男体山の登山口というべき西金と、縦走ルートの終点というべき袋田の滝の最寄り駅、常陸大子なのです。その区間は代行バスとなっていて13時15分に水戸駅を出て、予定通り14時16分に西金到着、代行バスに乗り換えて常陸大子駅に14時58分に着いたのです。
しかし計画書に書かれていた到着時刻は14時31分、つまり代行バスは西金→上小川→袋田→常陸大子の11.5kmを鉄道は15分で走るのですが、代行バスは約40分かかることになったのです。
【撮影】1日目 15時07分=伊藤 幸司
この日の日没は茨城県(県庁所在地)で16時28分でしたから、日が落ちるまでにはあと1時間半ほど。ただし太陽はすでに正面の丘にさしかかっています。私たちは駅から約10分というもみじ寺に向かっています。正面の丘の麓にあるらしいということで、夕日が遮られる時刻が迫っていました。
【撮影】1日目 15時08分=伊藤 幸司
小川を渡る橋のところにこの猫がいたのです……が、その理由は不明です。
【撮影】1日目 15時09分=伊藤 幸司
このフクロウも、橋のところの黒猫の仲間なんでしょうか。
【撮影】1日目 15時13分=伊藤 幸司
日差しはなくなりましたが、紅葉の道を登ります。
【撮影】1日目 15時13分=伊藤 幸司
落ちてなお、みごとな紅色。「もみじ寺」の名はさすがです。
【撮影】1日目 15時14分=伊藤 幸司
偕楽園公園よりも華やかな紅葉がここにあったようです。ここの紅葉はこの日が絶頂だったのかと思わせる彩りではありませんか。日没までまだ1時間以上あるというのに、残念でした。
【撮影】1日目 15時14分=伊藤 幸司
私たちは女坂を登っています。じつは「女坂」と「男坂」というようなはっきりした分岐に気づかずにぞろぞろとこの道をたどってきたのです。こんな紅葉がこの坂道を飾ってずっと上まで続いているので、早く上まで登ってみたいなどと考えることもなかったように思います。私は「もみじ」に取り囲まれて歩く幸せを感じていました。
【撮影】1日目 15時15分=伊藤 幸司
ずいぶん庶民的な雰囲気のお寺だと感じます。この寺については
『茨城見聞録』に『臥雲山 永源寺(もみじ寺)大子町大子』がありました。
【臥雲山(がうんさん)永源寺は大子町大子に位置する曹洞宗の寺院です。常陸大子駅から歩いて10分ほど。駅周辺を見渡せる小高い場所に位置しています。
開基帳によると文安3年(1446年)に能持院(栃木)の住職が開山。開基は佐竹氏の家臣・本田外記。(一説によると水戸藩宮寺氏の祖・菊池藤馬とも)
創建時は谷津(いまの愛宕町)の小山にありましたが、承応3年(1654年)に焼失。万治元年(1659年)に現在地に移転しました。
元治元年(1864年)には天狗党の乱に巻き込まれてしまい、伽藍の大半が焼失。以降、少しずつ境内の再建を進めて平成2年(1990年)にいまの形になりました。
ご本尊は釈迦牟尼仏です。古くは観音信仰の霊場であり、昭和61年に大子商工会によってはじまった奥久慈大子七福神巡りの札所(弁財天)としても知られています。
元禄11年(1698年)に水戸黄門(徳川光圀)が訪れた際、山号を拝雲山から臥雲山に改めています。】
曹洞宗は禅宗のひとつ、というくらいしか私にはわかりませんが、
『ウィキペディア』の『曹洞宗』を拾い読みしてみると、この写真のような庶民的な雰囲気とも合致するような気分になりました。
日本の曹洞宗は鎌倉時代、道元が中国で修行した後日本で広めたもので【「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。】とのこと。【曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と同じく「只管打坐(しかんたざ)」(非思量の坐禅をすること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案禅をとる流派も一部にあるが少数である。】【道元の著書である『正法眼蔵』は、道元の自らの悟り体験に基づき仏教全般について表現している。決して思惟による哲学ではない。】
大本山(根本道場)は永平寺と總持寺で【両大本山の住職を貫首といい、2人の貫首が2年交代で管長(宗門代表)となる。】
【系列の教育機関としての最高学府である大学も、永平寺系の駒澤大学と東北福祉大学、總持寺派の愛知学院大学と鶴見大学などに二分されており、学校法人の理事長や学長の選任に際しては実質的にそれぞれの派が指名権を持つ。】
なお
『七福神巡り』は『大子町商工会』にありました。
【「奥久慈大子七福神めぐり」は大子町商工会が昭和60年度に、町内各寺院に協力を求め国の補助事業「むらおこし事業」の観光開発で新たに誕生したものです。
「奥久慈大子七福神めぐり」は自然豊かな大子町を一周する車で約3時間半のコースで春に秋に年間を通して楽しめる日本一の七福神を自負する町自慢の資源となりました。どうぞ、ごゆっくりとご参拝の上お楽しみください。】
【1番長福寺(寿老神)、2番龍泰院(布袋尊)、3番実相院(福禄寿)、4番慈雲寺(大黒天)、5番高徳寺(恵比寿)、6番性徳寺(毘沙門天)、7番永源寺(弁財天)】
【撮影】1日目 15時17分=伊藤 幸司
なんともすばらしい紅葉じゃないですか。明日が早立ちの山歩きでなければ、もう一度立ち寄ってみたいところでした。
【撮影】1日目 15時17分=伊藤 幸司
本堂の周囲まで「もみじ」が分厚く取り囲んでいました。
【撮影】1日目 15時20分=伊藤 幸司
この樹がひときわ紅く輝いていました。真紅の「もみじ」なんでしょうね。
【撮影】1日目 15時21分=伊藤 幸司
境内からは大子町が一望できます。遠くに、まだ日が射している稜線が見えますが、じつはあの稜線を明日、歩くのです。右から左へと。
【撮影】1日目 15時22分=伊藤 幸司
このアンテナがNHKのテレビ中継用。男体山(654m)山頂のランドマークです。明日は、見えている岸壁の左脇から一気登りの「健脚ルート」です。
【撮影】1日目 15時23分=伊藤 幸司
明日は男体山の右下にあたる大円地(おおえんち)から一気に登って、ここに見える稜線を左にたどり、最後ちょっと下っているあたりから、一気に袋田の滝へと降りていきます。
【撮影】1日目 15時29分=伊藤 幸司
下りは男坂という感じでした。登るときにはひっそりと気づかなかったので、女坂の圧倒的な紅葉を楽しめたのはラッキーでした。「男坂」と「女坂」なんて分かれていたら、きっとこっちを登ってきたでしょうから。
【撮影】1日目 15時41分=伊藤 幸司
市街地へ入るあたりで、ちょっと怖い光景を見てしまいました。
【撮影】1日目 15時48分=伊藤 幸司
旧市街を抜けていくと、時間があったらちょっと寄ってみたいカフェがありました。力の入った解説板がありました。
【国登録有形文化財 建造物 大子カフェ店舗兼主屋、大子カフェ土蔵 平成28年2月25日登録
大子カフェは、大正5年に店舗兼住宅として建てられました。建築当初は商店として、その後は、たばこ屋や化粧品屋も営んでいました。
店舗兼主屋は、北側の東西棟切妻造2階建部分を店舗、南側の南北棟寄棟造平屋建部分を住居としていました。店舗は本町通りに面し、中央三間の開口をもつ開放的な造りの町家です。現在は、一階部分を広い一空間の客席として改修されています。建築当初は、奥行半間前土間、店舗西寄りの十畳の小上がりと東寄りの土間が店空間であり、居住部の南西角は、庭に面した広縁と床の間付きの六畳間でした。
土蔵は、2階建ての土蔵で、もとは隣家の金物店の土蔵であったため、西側に観音扉の開口部を設けて出入り口としています。棟木に「大正元年9月21日棟梁青木直次郎」とあることから、建築年代が明らかです。外壁は下部を海鼠壁とし、一部商店名を入れた平瓦を用いています。
常陸大子駅周辺では、敷地奥に建つ蔵が多いなか、道に面して建つ土蔵は稀な事例です。
平成28年3月 大子町教育委員会】
【撮影】1日目 15時48分=伊藤 幸司
大子町では
『カフェネット』にこの「daigo cafe」を含めて9つのカフェが顔をそろえています。
立ち寄ってみたかった、なぁ。
【撮影】1日目 15時50分=伊藤 幸司
これも解説板のある建物でした。
【国登録有形文化財 建造物 旧外池(とのいけ)呉服店店舗 平成28年2月25日登録
外池家は、初代が明治29年にこの地で呉服店を営んで以来、現在の当主で四代目となります。屋号を「近江屋」とし、古くの祖先は滋賀の近江商人(薬の行商)でしたが、やがて栃木県馬頭町に移り住み、清酒の醸造を始めました。この建物は明治維新を機に初代が当地に移り住み、呉服店を創業した当時のものです。
見世蔵は2階建ての見世蔵で、棟木の墨書より明治29年の建築であることがわかります。平成7年頃まで「外池呉服店」として営まれ、その後、喫茶店、湯葉屋として利用されていました。
外壁は黒漆喰仕上げで、二階正面に四つ並ぶ観音開き窓は、左右の扉が開放しても召合わさる「手先合わせ」という高度な技法です。一階正面の格子建具は後設のもので、両袖に一間の壁や戸袋を設けるほかは中央に柱を建てただけの、開放的な造りとなっています。
店舗内の正面中央には350mmの独立柱と基礎石があり、上がり框と揚戸痕跡があることから前土間及び座売り形式の店舗であることがわかります。二階は22.5畳の座敷があり、戦前までは「コゾウ」と呼ばれる店員が5〜6人寝泊まりしていました。
平成28年3月 大子町教育委員会】
【撮影】1日目 15時51分=伊藤 幸司
【国登録有形文化財 建造物 旧大子銀行本店 平成29年5月2日登録
旧大子銀行本店は、東に旧街道(南郷街道)と南に本町通りを接する角地に、大正6年に建築され、大正14年まで旧大子銀行の本店として使われた後、旧第五十銀行大子支店、常陽銀行大子支店、生命保険会社事務所などに利用されてきました。
設計は濱田銀次郎、施工は木田保造と伝わっています。
建物は、東側を木造二階建寄棟造鉄板葺とし、南東角の2間角に銅板葺のドーム型の塔屋を設け、西側には平屋が付属しています。
現在の外観は金属板に覆われていますが、昭和30年代の古写真を見ると、西側の平屋に現存するタイル貼を全面に使用し、窓上部にはレリーフを施し、ドーム屋根の四隅には宝珠を据え、南東角の二階窓外には小型の物見台と手摺を設けていました。
一階の外観東側中央には円柱とペディメントで装飾した出入口を設け、一階の西中央部には9尺×12尺の広さの金庫室を設けるなど、現在も銀行建築特徴を各所に残しています。
旧大子銀行本店は、道路対面の旧外池呉服店の見世蔵の構えと共に、旧街道と常陸大子駅前の歴史的景観を構成する重要な建築物です。
平成29年11月 大子町教育委員会】
【撮影】1日目 15時59分=伊藤 幸司
久慈川を渡りました。この川が10月12日に台風19号によって氾濫したのです。
その窮状を訴えるツイッターが『NAVER まとめ』にありました。
『「水郡線崩壊」台風19号で大規模被害を受けたのに、ほとんど報道されない茨城県大子町の様子 #台風19』Cocochanさん(2019年10月14日)
【台風19号について、気象庁は午前11時から記者会見を開き、静岡や関東で1200人以上が犠牲となった狩野川台風に匹敵する記録的な大雨となり、大雨の特別警報を発表する可能性もあるとして、厳重な警戒を呼びかけました。──出典:気象庁「1200人以上犠牲の狩野川台風に匹敵 特別警報も」NHKニュース】
【自分の命、大切な人の命を守るため、風や雨が強まる前に、夜間暗くなる前に、市町村の避難勧告などにしたがって、早め早めの避難や安全確保をお願いしたいと厳重な警戒を呼びかけました。──出典:気象庁「1200人以上犠牲の狩野川台風に匹敵 特別警報も」NHKニュース】
【DK shanghai@dk_shanghai──茨城県大子町 床上浸水 停電中。二階にまでは浸水していないようですが一階は全滅。平家で生活している老人が心配です。】
【ISAMU.MASHIKO@chiki00300──矢田の線路の東側は川になってしまいました。大子町中心部、大変なことになってます。うちの家内の実家の応援要請で駆けつけましたが、腰まで水が来ています。油が流れていてこの後ちょっと大変だと思います…】
【スカイ@tyupichan──大子町中心部は今までにない水害です。うちの家内の実家は床上浸水…今ひとまず帰ってきました。常陸大子駅構内も写真のような惨状です…被害は甚大です…】
【スカイ@tyupichan──現在の大子町中心部の状況です。広い範囲で浸水被害がででいます。こんなに甚大な被害になるとは思いませんでした(;_;)】
【さかな@k_mohe_──上司から送られてきた大子町の写真が酷くて】
【JR東日本は13日、水郡線で茨城県内の袋田―常陸大子間と福島県内の磐城浅川―里白石間で、久慈川に架かる二つの鉄橋が流されたと明らかにした。──出典:JR水郡線で久慈川の2鉄橋流される(共同通信)Yahoo!ニュース】
【JR水郡線袋田-大子駅間で橋梁が落下。橋げたが残っただけで、線路がなくなった状態──出典:茨城県内台風被害 10人負傷1人不明 久慈川や鬼怒川で越水 水郡線の橋落下(茨城新聞クロスアイ)Yahoo!ニュース】
【春佳@Haru_26ers_423──地元の大子町が大変な事になってる^^; 結構浸水被害が大きい( ̄^ ̄゜) 水郡線の線路も壊れてる(><)】
【いっし〜@_hohochan──大子町、家の前の川が氾濫して、道路のアスファルトがめくれた… 道路も所々陥没。】
【@TanjiSB──めちゃくちゃな状態です メディアは有名所しか映さないので 少しでも多くの人にこの状況を分かってほしい RTお願いします。#茨城県 #大子町 #台風19号 #冠水 #久慈川 #水郡線 #被害】
【きくりん@TkenGian──大子町役場付近の現況です】
【よっち@MashikoMr──本当に、茨城県大子町が大変です。 我が地元が大変なことになってます! ニュースでは、一切取り上げられていないので皆様にわかって頂きたい!! そして、家が全部浸水してる所もあります。水郡線も線路がありません! 街中の様子です!先輩がわざわざ行って撮ってくれました。】
【ohカマキリ@kamakiri0903──大子町、久慈川の支流八溝川です 未だに流れが強いのでお気をつけて】
【nigo-D@junsuzu4──大子町の状況 現在国道118号 久野瀬地区 下野宮地区が通過出来ません。役場周辺も通過出来ますが泥とゴミが 酷い状態 国道461号の土砂崩れ場所は片側通行できるようです。なお水郡線鉄橋倒壊しているようで運行していません。FMだいごも放送出来ない状況なので お気を付け下さい。】
【風花一期@活動リハビリ中@ichigonookashi1──水郡線の久慈川の反乱見てきました こんなになっちゃうんですね!】
【かめこ@uminokametan──大子町 水郡線 大子ー袋田間の鉄橋が流されてしまいました】
【みのはむ@minoham──袋田駅近くの水郡線、鉄橋が落ちちゃってます。】
【スカイ@tyupichan── 一夜明けて大子町の被災状況確認してきました。町中心部は酷い状況です。久慈川第6橋梁は完全に流出してしまっています。こんなのは初めてです。復旧にはかなりに日数がかかりそうです…】
【クドT堀江 9/7アナコミ@kud_mantuy──袋田の水郡線 橋崩落 118号線も袋田から道の駅まで通行止め】
【иαиακo@min_masa_nnk──現在の久慈川と河合〜額田間の水郡線です】
【does-major @kobayasi@DoesMajor──茨城県大子町が大変な水害に見舞われた。】
【撮影】1日目 19時25分=伊藤 幸司
宿泊は袋田の滝周辺の観光客を一手に呼び集めている感じの伊東園チェーンのホテル奥久慈館。読書三昧のためにこの種のホテルをよく利用するというAさんによると、伊東園チェーンは個々のホテルのばらつきが大きいとのこと。ここも、前回の印象は食事がちょっとお粗末だったけれど、今回は安いなりに「おもてなし」の気配がアップしたと感じました。
【撮影】2日目 08時00分=伊藤 幸司
2日目は7時から朝食で、この写真の8時にはすでに登山口に向かうタクシーに乗っていました。
男体山では最初は西金駅から歩いていける2軒の温泉宿(湯本屋旅館と湯沢温泉ホテル)を利用していました。しかし奥久慈パノラマラインで袋田〜常陸大子のあたりからタクシー(約6,000円かかりますが)で登山口の大円地(おおえんじ)に行くほうが時間的に合理的と考えるようになりました。その後、2軒の湯宿も廃業してしまったし。
【撮影】2日目 08時15分=伊藤 幸司
これが大円地登山口のトイレ。登山届のポストもあります。
【撮影】2日目 08時16分=伊藤 幸司
大円地登山口のトイレ前から見上げた男体山山頂です。
【撮影】2日目 08時21分=伊藤 幸司
男体山山頂にはNHKのテレビ中継アンテナと男体神社奥宮が見えます。そしてなんと山頂にあるのは一等三角点。一等三角点は直線距離約40kmで日本列島の骨格的な三角測量網を構築しています。
【撮影】2日目 08時22分=伊藤 幸司
これが男体神社奥宮。これだけの奥宮があれば、山麓のどこかに里宮があって、それなりに地域の信仰を集めていると考えるのが一般的だと思うのですが、けっこう謎めいた存在になっています。
その男体神社について書かれた文章が書籍案内として見つかりました。
『山歩き里ある記:ベテラン記者が教える茨城の山の楽しみ方』(茨城新聞社=著、ブックビヨンド=発行、2016年、300円)
【急峻な岩山の男体山に対し、その西側に立つ長福山は穏やかな山容をしており、「女体山」とも言われている。
2つの山の裾が交わる付近に男体山神社がある。男体山の岩盤が迫る谷間の奥にひっそりと建ち、1029年開山、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が主神とある。男体山への登山口ともなっている。ここから反対側を目指せば長福山となる。】
長福山は標高496m。JR上小川駅の近くには長福寺もあります。直接関係があるかどうかわかりませんが。
【撮影】2日目 08時27分=伊藤 幸司
この先、突き当りのところに2〜3軒の集落があって、登山道はそこから始まります。
その1軒は蕎麦屋です。
『茨城をたべよう いばらき食と農のポータルサイト』の『飲食店詳細』に『大円地山荘』がありました。
【「大円地山荘」は、奥久慈・男体山のふもと(登山口)にあります。築100年の自宅を開放したそば処です。
手打そばと自家栽培野菜、山菜料理、優しい店主夫婦の人柄が評判の店です。
すべて手作りにこだわり、おしん香、佃煮などの無料のお通しから、デザートのアイスまで手間暇をかけた逸品ぞろいです。
人里離れた大円地山荘では、ゆっくりと時が流れ、縁側から入る光が温かく、誰もが”ほっと”安らげる懐かしい雰囲気です。
奥久慈大子観光、山登りにおいでの時にはぜひお立ち寄りください。
そばアレルギーの方へ手打ちうどんの御用意もあります。】
11〜15時の営業で月&火曜定休。「自宅」だそうですから、ひょっとするとずっと蕎麦屋だったのかもしれませんが、私の記憶では開業したのは10年ぐらい前でしょうか、私の時間帯にはまったく合いません。残念ながら。
【撮影】2日目 08時27分=伊藤 幸司
蕎麦屋のある集落のところから、もう一度山頂を見上げました。こういう風景はここまでです。
【撮影】2日目 08時32分=伊藤 幸司
山頂に男体神社の立派な奥宮があるのですから地元の人が登る参道が古くからあったのでしょうが、この石碑を見ると、登山道としてきちんと整備された時期があったのだと思われます。
この「健脚」の想定レベルは、実際に登ってみなければわかりませんし、登ろうとしてみていいかどうかの判断は経験者の意見を聞くしかありません。
マイカー登山でないとけっこうやっかいな山なので、必然的に大円地の駐車場に車を置いて男体山だけをピストンする人が多いのではないかと思います。そのときに「一般コース」で登ったあと、同じ道を下るのではもったいないということからこの「健脚コース」で下ろうと思う人が出てもおかしくありません。
そういうレベルの登山のことを日々考えているプロガイドの発言を見つけました。
『NatureMedia アウトドア・スポーツや自然の中で楽しめる趣味について解説しています』に『茨城「奥久慈男体山」岩稜と展望を楽しむ紅葉の里山』がありました。
どなたが書いた記事かわかりませんが、一般常識としてはとてもキチンと書かれた文章だと思いました。
【かつて奥久慈男体山は、30年前以上昔に開催された「茨城国体」でいったん整備され、いまもその名残とも言うべき登山道が残っています。それがこの一般コースと健脚コースです。
いずれのコースもよく整備された登山道ですが、ここは迷わず「一般コース」を選択して下さい。
その理由は以下の通りです。
・ 登り初めから、いきなり急傾斜の断崖です。鎖がついてますが、これは補助ではありません。鎖がないと絶対登り切れません。その鎖が山頂直下まで何度も続きます。ヤワな方や高齢者に登りは無理です。
・ 要所要所に鎖の固定を強めるためワイヤーが巻かれています。しかし、これを素手でさわるとざっくり指を切ります。(経験者が言うので間違いありません。)最低でも軍手程度の手袋がないと、危なくて鎖にすがることもできません。
・ 足場になる岩棚が狭くて、非常に危険です。登り始めたら途中で休憩する場所もほとんどありません。途中で引き返そうとするのは、登ることよりもさらに危険です。
・ 岩場にはこけや泥が残っています。快晴の日が続いた後などは、一応安心して登ることもできますが、雨が降った後や積雪期は、よほどの経験者で無い限りこのコースを通ってはいけません。】
まさに登山の一般常識です。これに対して私は、自分の実力ですなおに登ってみるために必要な基本技術をずっと実験し続けてきましたから「引き返す技術」が一番最初に必要だと考えていますし、自分が自分でなくなった危険な状態を自分自身で感じ取ることができるように「ダブルストックを使う」こと、あるいは不安を静めるための簡単な「自己確保」についていろいろ試みています。関心のある方はこのホームページの「山旅=がんばらない山歩き」をのぞいてみていただければ幸いです。
【撮影】2日目 08時32分=伊藤 幸司
右手に分かれているのが一般コースです。最初はもちろん一般コースで計画しましたが、一気登りの健脚コースはクサリ場の歩き方としてはものすごくよくできたルートなので、以後こちらが糸の会の定番ルートとなりました。けっこうな急登ですし高度感もありますが、大きな事故につながるような場所がないので、リーダーとしての安全確保の道具も出さずに、声掛けの指示だけでロープやクサリをうまく体験してもらうことができます。
【撮影】2日目 08時32分=伊藤 幸司
右手前方に茶畑が見えていますが、私たちが歩いている登山道の左手も同様の畑です。このすぐ先で本格的な登山道になるのです。
【撮影】2日目 08時44分=伊藤 幸司
斜面を急登して尾根筋を探るように登っていきます。植林帯で、しばしばあやしい道が交錯するようなケースもあります。地元の人が近道として使っている踏み跡などがあったりすると、けっこうやっかいな時間浪費になったりしますから「本道に出るまえの取り付け道路」というような目でチェックしたいところです。
【撮影】2日目 09時01分=伊藤 幸司
一本道の登山道になりました。もちろん標識や赤布を確認しながら進みますが、登山者以外には利用しない道とわかります。幸いなことに植林地帯を抜けて、自然林です。
【撮影】2日目 09時02分=伊藤 幸司
たちまち木々の葉の色づきが出てきました。
【撮影】2日目 09時05分=伊藤 幸司
こういう場所が重要です。うかつに登っていると、こんな大きな道標も目に入らないことがあります。糸の会では先頭が「10分交代」しますから、ほんとうは道標や赤布を最初に見つけなければいけないポジションの人が、見落としていることがまま、あります。よそ見をしていなくても、足元ばかり見ていたりして。逆に後ろについている人が、前方遠くをきちんと見ていたりするのですが。
これが単に「大きな標識」と思う人は初心者です。この地形を見てみると、まっすぐ進んでいる人がいておかしくないのです。そこを強制的に左へ進めたい、そういう重要な指導標なのです。
単独で登っている人には後ろの人の目が助けてくれるということがないので、私は「道標などは全部写真に撮る」「ナビゲーションツールとして写真を使う」と提案します。以前は時計でしたが、デジタルカメラのほうが情報量が多いし、微妙な文字情報を拡大してチェックすることが可能になります。
……というのは「登山道をはずれない」ということと「おかしいと思ったら戻ってみる」ということだけ(言うは易し、行うは難しですが)きちんと守れれば登山道での事故はほとんど無くなると考えるからです。
もちろん私も引き返したくなくて深みにはまった体験をたくさんもっています(山岳部ではなく探検部の出身ですから)。そしてもちろん糸の会でみなさんをリードすべき立場でも、何度も道を間違えています。
登りでは「道を間違えたくない」という意識が強いのでよほど意地悪な山でないと起きにくいのですが、下りだと一瞬にしてヤバイ道に入り込んでしまったりします。
そしてそういうときの90%の気持ちは「慎重に下れば元の道に出られる」です。下りで分かれた道はどんどん分かれていくのが普通だと思いますが、自分の能力を3倍ぐらいに評価してしまうんですね、なぜだか。
ですから、とくに、責任あるリーダーには「30分までなら戻る」という決断が必要だと思います。もちろん「10分戻る」場合だってメンバー全員からブーブーいわれますから「30分戻る」なんていったら、10年いわれ続ける大失敗です。
でも、10分とか30分という時間情報をルートハンティングに加えると、当然、怪しい? と軽く思ったときに、最終確認地点を思い返します。時間を見ます。そこから10分なら「すみません」30分なら「ごめんなさい」でキカイ的に戻るのです。(リーダーの失策を現地であれこれいう隠れリーダーのいるパーティはヤバイのです。問題があったら、下山してからケンケン・ガクガクやりましょう。自分がリーダー兼メンバーの一人旅の場合も同様です。)
首都圏の低山では怪しい道がけっこうあります。よく見ると小さな目印が隠されていて、地元のひとたちが利用しているルートだとわかりますが、それがそうでない場合が怖いのです。下り始めてしまったら止まりませんから、山裾まで一気です。……と最後に急斜面、あるいは断崖などが待ち受けている、というのが常識です。それが「道」であれば危険地帯をすり抜けるルートだから「道」なのですが、「道もどき」だと、たとえば林道を支えるコンクリートの法面(側面)だったり、沢の崖っぷちだったりするとかなりやっかいなことになります。
自分ひとりならいいですけれど、守るべき人がいる場合にはその最後の瞬間まで責任をとれないといかんのです。
そういう大きなリスクを避けるために、登山道であることを確認できた最後の道標の写真があれば、引き返してきたとしても最大1時間のリスクなのです。
私はそういう意味を考えながらこの(ちょっと常識はずれの)どデカイ標識を見ていました。
【撮影】2日目 09時05分=伊藤 幸司
いいですねえ。青空です。紅葉は……真っ盛りかどうかはともかく、縦走路のどこかではかなりのものを見られる、のはまちがいありません。
【撮影】2日目 09時11分=伊藤 幸司
今までにない急登のようです。登山道と紅葉がだんだんひとつになってきます。
【撮影】2日目 09時14分=伊藤 幸司
ドラマチックな岩の門をくぐります。
【撮影】2日目 09時15分=伊藤 幸司
岩の門を強引にくぐったのは、この展望台に立つためでした。10分前にあったさっきの大きな道標は、ここに立たせるための寄り道を指示しているのだと思われます。
【撮影】2日目 09時17分=伊藤 幸司
富士山が見えました。肉眼で見た印象よりよく写ったのではないかと思います。
【撮影】2日目 09時23分=伊藤 幸司
これは「裏側から見た筑波山」です。右側が男体山で、左側のゆっくり登りつめてガクンと下るところが女体山です。こちらから見ても、表側から見ても、やはり男体山のほうが高く見えるのが自然です。精密に測ってみたら女体山のほうが6mだけ高いのです。
この写真、電子水準器を見ながら撮っていますから、正確とはいえなくても、ほぼ水平だということはまちがいありません。実際に、向こう側から見ても、男体山のほうが高く見えるのですからしょうがないのです。
【撮影】2日目 09時24分=伊藤 幸司
足元の風景だってなかなか、なんですが、山頂からのほうが圧倒的です。
【撮影】2日目 09時27分=伊藤 幸司
列の先頭のところにある岩に、さっき右手から登ってきました。展望台からいよいいよ山頂に向かって一気に登り詰める、という風景です。この地点が標高約200mの大円地登山口から約1時間の標高約400m、残りの標高差は約250mです。
【撮影】2日目 09時27分=伊藤 幸司
さっきの岩の門のところですが、ダブルストックがないとここを通過するのは大仕事になるでしょう。
【撮影】2日目 09時35分=伊藤 幸司
これが最初の本格的なクサリでしたかね。
1)ストックを使って、登山道の延長として登っているか
2)岩のハンドホールドが必要な場合、両手の指使いは安心できるか
3)クサリが必要な精神状態か
私はだいたいこの3段階で見ています。ストックで登る人はいませんでした。
2)の指使いは、岩を「握る」のではなくて、指先の関節を曲げて、岩に「引っ掛ける」という使い方をしている人かどうかで私の過去の指導を実践しているかどうか見ています。
一番手前のHさんはストックのグリップ位置がかなり下で気になりますが、劔にもひとりで登り、モンブランにも登ったベテランで、独自の合理主義でそのグリッピングになっています。私の指導ではありません。なお岩をやっている人たちが登りでストックを短くするためにグリップ位置をかなり下にする例が多いようですが、Hさんはグリップベルトを長くしているだけですから、私は容認しています。
【撮影】2日目 09時41分=伊藤 幸司
岩場になると開放感が加わりました。
【撮影】2日目 09時52分=伊藤 幸司
太平洋というと大げさですが、鹿島灘です。
【撮影】2日目 10時01分=伊藤 幸司
この場面で岩場での力量がわかります。ダブルストックできちんと立って、いざというときにクサリを利用するというレベルまで成長してほしいところですが、左足の使い方を見ると、この岩を信用していないということがわかります。右ひざをついている感じからするとこのあたりが技術的な安定ラインの上限かな? と感じます。
恐怖心が強ければなかなかやっかいですが、一度「立って歩く」場所だと分かれば、できてしまう人かもしれません。最終的な安全策を「しがみつく」ことでしかできないという体験不足状態ではあるでしょう。
【撮影】2日目 10時22分=伊藤 幸司
山頂に着きました。まずは男体神社奥宮のところから周囲を一望。西にあったのは、まずまちがいなく日光連山ではないかと思いますが、姿としてはよくわかりません。おそらく……ですが、雲の中に頭を突っ込んだ山の左側が男体山で、右端の山が女峰山、その間に背後のいくつかの山が重なっているようです。
【撮影】2日目 10時23分=伊藤 幸司
これはほぼ真西に見えるJR上小川駅周辺の集落です。大子町立南中学校が画面右下に、町立上小川小学校がその上方に同じような赤い屋根で見えています。駅は奥に見える県道大子美和線の橋から画面左端に川を下ったあたりです。
小中学校があるということは当然かつては村か町の中心であったと考えられます。
『ウィキペディア』で『大子町』を見ました。
大子村が大子町となったのは1891年(明治24)で水郡線が開通したのは1934年(昭和9)だそうです。大きな町村合併が行われたのは1955年(昭和30)。
【3月31日 - 大子町・依上村・袋田村・宮川村・佐原村・黒沢村・生瀬村・上小川村と下小川村の一部(西金・盛金の一部)合併し大子町が発足。現在の町域を形成する。】
「変遷の年表」で詳しく見ると、1889年(明治22)に大規模な町村制施行があったのだそうです。
【上小川村 ← 栃原村・頃藤村・大沢村
下小川村 ← 西金村・盛金村・久隆村・家和楽村】
【撮影】2日目 10時24分=伊藤 幸司
おおよそ水戸の方向だと思うのですが、この変な建物を見つけました。どうみてもおかしいので調べてみると、なんと「世界一」のタワーでした。
『茨城県庁』のホームページに『いばらきもの知り博士情報一覧』というサイトがありました。『情報032:茨城県に完成した、世界で1番高いエレベーター研究塔』(2015年4月1日)
【地上高213メートルのエレベーター研究施設G1TOWER
ビルやデパートなどで、日常的に利用することの多いエレベーター。快適に各フロアーを昇降する手段として、近代建築にはなくてはならない存在です。そして、そのエレベーターを研究・実験するための、世界一高い塔が茨城県に建設されました。それがひたちなか市に完成した、日立製作所の「G1TOWER(ジーワンタワー)」です。
G1TOWERとは、世界一(G1:グローバルナンバーワン)のエレベーター技術および製品を生み出すと言う決意を込めて付けられた名称で、その高さは、なんと地上高213メートル。ここでは1分間に1,080メートルという世界最高速で運行するエレベーターの実証実験や、世界最大級となる積載質量5トン(定員約70名)で1分間に600メートルの速度で運行する、高速・大容量エレベーターの製品開発などが行われます。
例えば、安全装置のひとつであるエレベーターかごの非常止め装置の場合、定格速度1,080メートル/分の条件で設計通りに機能するかどうかを実験することができます。具体的には、試験専用のかごを落下させ、建築基準法で定められた動作速度に達した時点で正常に非常止めが働き、かごが設計通りに停止するかどうか確認することができるのです。
また、エレベーターの乗りかごはガイドレールに沿って昇降するので、エレベーターが高速走行するとガイドレールの微小な曲りなどの影響で乗りかごに振動が起きることもあります。そこで、このG1TOWERでは、振動を低減して乗り心地を向上させる制振装置の開発も行います。また、高層ビルなどでは地上階と高層階の気圧が異なるため、エレベーターが高速走行中に乗客に耳詰まり現象が発生することがあります。その耳詰まり現象を抑制するために気圧を制御する、かご内気圧調整装置の開発なども行います。
G1TOWERでは、製品化間近の試作エレベーターや近い将来に製品化するエレベーターの実験なども行われます。もちろん、さまざまな実験を行っていくうちに、設計時には分からなかった想定外のことも起こりえます。そのような問題が起きた場合、調整や設計変更などを行い解決することがこの研究棟の役割。そして、すべての調整および試験が完了した後に、エレベーターは製品としてビルや建物に設置されているのです。】
【撮影】2日目 10時24分=伊藤 幸司
画面右端にG1 TOWERの細い縦線が光る海を断ち切っています。この海はもちろん太平洋、厳密に言えば鹿島灘です。
【撮影】2日目 10時24分=伊藤 幸司
足元にあるのは登山口だった大円地の3軒?集落。私たちは日陰になっている正面奥から出てきて、明るい道をこちらに歩いて、茶畑の縁をたどって画面手前側に入ってきたのです。
【撮影】2日目 10時26分=伊藤 幸司
撮ったときにはこれが那須連山だといいなと思っていたのですが、帰って調べてみてもよくわかりません。どうしても知りたいならここで360度の全周写真(風景を遮る近景があっても連続して撮っておくと、どれかはっきりとした目標を基準にして、その方位からこの山がどこか、地図上でわかります。……技術的には、ですね。最近ではスマホにいいアプリがあるようですから便利ですね。私は国土地理院の「50万分1地方図」を利用しています(やる気のあるときには)。
【撮影】2日目 10時27分=伊藤 幸司
みなさんが男体神社奥宮の境内に集まりました。ひとりずつ並べるだけの展望デッキですが、素晴らしい気分です。最近渋谷に出現した「渋谷スカイ」の地上230mより高く、入場料2,000円に対して無料、入場時間の指定もありません。
【撮影】2日目 10時28分=伊藤 幸司
男体山山頂から西側を見下ろすとこの集落がありました。はっきりと見える道路は、今朝わたしたちがタクシーで登ってきた「奥久慈パノラマライン」です。
ここは旧・頃藤村(現在は大子町大字頃藤)の長福という集落で画面左手前のから右下隅へと伸びる道があって、長福山への登山道のあたりに男体神社、さらに登るとこの男体山山頂、すなわち男体神社奥宮へと至ります。いわば男体山の表参道で、男体山から袋田の滝方面へと稜線を歩くと、すぐに「上小川駅方面」という分岐があります。
【撮影】2日目 10時29分=伊藤 幸司
これが男体神社奥宮。向こう側がスッパリ切れ落ちているのです。
【撮影】2日目 10時32分=伊藤 幸司
元気なうちに、記念写真を撮っておきましょう、ということで。男体神社奥宮の断崖側の柵との間に並んでもらいましたが、この足元がどの程度安全なのか、みなさん確かめてのことなんでしょうか。
【撮影】2日目 10時43分=伊藤 幸司
山頂のすぐ下にこういう立派な道標があって、私たちは大円地から登ってきて、ここから袋田の滝へと向かうわけです。今回写真を見て初めて気づいたのですが、赤い円のマークは「ゴミ捨て禁止」、黄色い三角は「滑落注意」でした。
【撮影】2日目 10時45分=伊藤 幸司
袋田の滝に向かって歩き始めるとすぐ、こういう道になりました。これがおよそ5km続くのです。稜線の道は歩きやすければ時速2km前後ですが、アップダウンの登りは標準的な登山道なら時速1kmとなります。実際この日は男体山山頂から袋田の滝まで休憩を含めて5時間ほどかかりましたから(休憩時間を含めて)時速」1km。これはその歩きはじめです。
【撮影】2日目 10時46分=伊藤 幸司
この葉っぱはテツカエデではないでしょうか。グーグルで「紅葉の葉」で画像検索してみたらどうもそれらしい、という程度のことですが。
『森林生態系部門(静岡大学農学部付属地域フィールド科学教育研究センター)』の『フィールド植物図鑑』に『テツカエデ』がありました。
【特徴:カエデ属の落葉高木。葉は大きく、三裂する。この形はホソエカエデ(Acer capillipes)やウリハダカエデ(Acer rufinerve)に似るが、テツカエデには葉脈上の毛も、主脈根元の「水かき」もない。つまり、葉脈にこれといった特徴がなかったら、テツカエデ。ww】
──じつは10時48分の写真でウリハダカエデに訂正します。
【撮影】2日目 10時46分=伊藤 幸司
『ノパの庭』というサイトの『ムクロジ科の樹木一覧』では『テツカエデ』を次のように解説しています。
【標高の高いところに生育しているカエデで、日本海側の山地には多く生育しているほか、奥多摩や伊豆などにもあり、九州まで分布を広げている。
ふっくらした葉の表情が特徴的。花期には円錐花序に何百個も花をつけ、それはみごとらしい。一度見てみたいものだ。
葉の様子が少しウリハダカエデと似ているけれど、テツカエデのほうが葉柄が長く、葉柄に溝が無い(ウリハダカエデの葉柄は溝がある)。】
でも
『ウィキペディア』の『テツカエデ』を見てみると、けっこう複雑なもの、かもしれません。
【同じ株に両性花と雄花が出る雄性同株、ときに両性花の株と雄花の株が別にある雄性異株。】とありますし、【花期は6-8月。長さ10-20cmの円柱形の花序を有花枝の先端から下垂させる。花は花序に400-1000個つき、黄緑色になる。】とのことですから、夏には緑の長い尻尾を垂らしたような花が見られるかもしれません。
その花についての情報はネット上には少ないのですが、
『槍ヶ岳山荘グループ』の『槍沢ロッヂスタッフブログ』に『6月27日 カエデたちの今』(2013/06/27)という記事がありました。
【この時期にはカエデも花をつけます。そのそれぞれが、全く違った花をつけるのには驚かされます。
と言っても今回ご紹介できるのは3種類程度ですが。(いろいろありすぎて他は把握できていません)
↓こちらオガラバナというカエデの一種。いくつもの花がブドウの房のように集まって、柱状に直立させた花をつけます。逆に、これが垂れ下がった花をつけるのはテツカエデという種類だったり、意外と奥が深いです、カエデは。
↓傘のように葉が広がる途中で、紅い花をつけるのはハウチワカエデ。非常に可愛らしいですね。どこか奇妙でもあるという印象を受けます。
↓パチパチした小さな花をつけるのはミネカエデ。カエデの花の中ではやや地味なほうでしょうか。ミネカエデは葉のギザギザが多くて深いので、花が無くても簡単に見分けがつきそうです。
写真のミネカエデはオガラバナの影でひっそりと花をつけていました。秋にはこの隣同士のカエデがどんな色をつけてくれるのか今から楽しみです。】
──じつは10時48分の写真でウリハダカエデに訂正します。
【撮影】2日目 10時47分=伊藤 幸司
これもテツカエデですかね。
──じつは10時48分の写真でウリハダカエデに訂正します。
【撮影】2日目 10時48分=伊藤 幸司
ほぼ同じ形の葉が続くので、念のためにもう一度調べてみると、似た形の葉をもつカエデ類にはウリハダカエデとかホソエカエデなどもあります。知らぬも同然状態で断定したらまずいですね。
そこでいつもの例ですが、その地域の植物調査の報告類を探しました。
『茨城県庁』のサイトの『自然』に『3.奥久慈県立自然公園』がありました。
その『植物』に【男体地区……山頂では岩壁に着生する小型の草本類と共に落葉広葉樹林がみられます。この自然林はイヌブナを中心にケヤキ、ミズナラ、リョウブ、ヤマザクラ、ウリハダカエデ、イヌシデ、クマシデ、ハクウンボクがみられます。袋田の滝周辺では、この地区をタイプロカリティとするフクロダガヤがあります。
竜神峡……亀ヶ渕から北の奥竜神の峡谷はきわめて自然度の高い二次林となっています。ウラジロガシ、アラカシ、シラカシ、スダジイの常緑樹とイロハモミジ、ウリハダカエデ、リョウブ、イヌブナ、イヌシデ、アカシデなどの落葉樹が混然一体となって、みごとな樹林美をみせています。】
男体地区にまるでカエデの代表選手みたいにウリハダカエデがあり、台風被害がなかったら昨日歩いていたはずの竜神峡から亀ヶ淵を経て大子町までのルートにもウリハダカエデが出ているとなれば、このあたりのこれらもウリハダカエデなんでしょう。いわれるがまま状態ではありますが。
ただ、男体山〜袋田の滝というのは、水戸に住む人たちにとっても紅葉の名所らしいのですから、「男体地区」にイロハモミジを入れていないのはどうでしょう。
【撮影】2日目 10時48分=伊藤 幸司
これはカエデではなくてツツジでしょうね。ドウダンツツジとしておいていいでしょうか。
【撮影】2日目 10時57分=伊藤 幸司
前方に小さなピークが出てきました。こんな小さなアップダウンが久慈川の河岸にそびえるささやかな尾根を連続ドラマにしてくれるのです。ほどほどのアップダウンかどうかで、疲れ方が大きく変わってきますけれど。
【撮影】2日目 11時00分=伊藤 幸司
こういう道標類はこのホームページの「速報」のほうに可能な限りたくさん加えてあります。この「山旅図鑑」では私なりのある意図で、写真に撮った文字情報は、必要なら文字で書き込むようにしています。
たとえばこの道標は山頂から見下ろした長福集落へと下る分岐で、山頂から25分で来たことになります。長福集落からまっすぐ下ればJR上小川駅ですし、奥久慈パノラマラインを滝倉方面へ進めば大円地へ戻ることもできます。
なぜこんなふうに文字情報を写真のまま出さないかというと、もちろん第一の理由は、撮られた写真が撮った人のなにがしかの「発見」につながるものでありたいということによるのですが、そうして撮られた自分たちの写真をネット空間に泳がせるときに、求める人の手に渡る可能性を大きくするためには文字による検索可能性をできるだけ高めておきたいからです。絵の中の文字ではなくて、文字通りの文字情報としておきたいのです。そのあたりのことは去年(2019年)11月29日に地平線会議報告会で行なった
『山旅を“量”で残す』のWeb版に詳しくでているので、お読みいただければさいわいです。
【撮影】2日目 11時02分=伊藤 幸司
私たちはまたウリハダカエデの森に入り込んで行くようです。
【撮影】2日目 11時02分=伊藤 幸司
ウリハダカエデの赤と黄色。県の情報にあるとおり「男体地区」のカエデの主役はこれなのかもしれません。
【撮影】2日目 11時03分=伊藤 幸司
この雰囲気、秋の山ではお馴染みさんという感じですが、もちろん調べたことはありません。アジサイという感じですが、もちろん確信がないので画像で探してみるとありました。ものすごくきれいな黄色い葉っぱに花の跡。
『ゆみり』さんという方のブログで『とことん紫陽花! 山アジサイ!!』というタイトルですが、サブタイトルが長い『とある紫陽花にドキドキっとしてから、かれこれ10年以上。最初はこんなにハマってしまうと思わなかったんです。でも、今は紫陽花なしの生活は考えられません!出会う紫陽花たちの写真だけでも残したい!と、写真を撮り始めました。今私が心ときめくのは、静かな美しさをもつ山アジサイ。自他ともに認める紫陽花バカですが・・・いいですよね?』という中の『アジサイの紅葉と。』(2016-11-17)の中の写真の1枚が画像検索にひっかかってきたのでした。
私はてっきりヤマアジサイだと思って確認しようとしたのですが、ブログをきちんと見たところ、その写真には次のような説明がついていました。
【そして、先日の六甲高山植物園では、コアジサイの紅葉(黄葉?)がとても綺麗でした。
アジサイは、花も葉もすべてが本当に七変化ですね。】
そうそう、コアジサイなんですね。コアジサイは驚くほど小さな、米粒ほどの花でひと握りの丸い花(花序)をつくります。ほかのアジサイと違って華やかな装飾花がないので質素で慎ましいのですが、それが薄いブルーになった瞬間には美しい。薄いブルーの花としてはエゾエンゴサクとこのコアジサイとが別格だと私はいつも思うのですが、それがその「ゆみり」さんの写真のような純な黄色の葉になるとは知りませんでした。この葉もそういう黄色を経てここに至ったのでしょうか。
【撮影】2日目 11時03分=伊藤 幸司
まだここはウリハダカエデの森なんですね。それにしてもこの枝、黒く、細く、直線的な枝は「もみじ」のもうひとつの魅力だと感じます。
【撮影】2日目 11時04分=伊藤 幸司
これもウリハダカエデなんですね。県庁のホームページの「男体地区」の「ウリハダカエデ」は、まさにこういうことかと、わかってきました。
【撮影】2日目 11時04分=伊藤 幸司
でも、そうです。紅葉の主役なら「もみじ」です。イロハモミジかどうかはわからないにしても、当然あるんです。男体山に登り始めたころに見た「もみじ」がようやく登場してきた気分です。
【撮影】2日目 11時05分=伊藤 幸司
イロハモミジなんでしょうか。すでに引用した県庁サイトの情報では【竜神峡……亀ヶ渕から北の奥竜神の峡谷はきわめて自然度の高い二次林となっています。ウラジロガシ、アラカシ、シラカシ、スダジイの常緑樹とイロハモミジ、ウリハダカエデ、リョウブ、イヌブナ、イヌシデ、アカシデなどの落葉樹が混然一体となって、みごとな樹林美をみせています。】とありました。この山並みの続きです。イロハモミジとしておいて、間違いと言えども遠からずということではあるでしょうが、念のため
『ウィキペディア』の『イロハモミジ』を見てみました。
【葉は長さ 3.5〜6cm、幅 3〜7cm で、掌状に深く 5〜9裂する。和名は、この裂片を「いろはにほへと……」と数えたことに由来する。裂片の縁には鋭く不揃いの重鋸歯があり、裂片の先は長く尾状に伸びる。秋(10〜12月)には黄褐色から紅色に紅葉して散る。 葉はオオモミジやヤマモミジなどに似るが、本種の葉は一回り小さく、鋸葉が粗く不揃いなところで区別される。】
そしてさらに【ヤマモミジは、本種の亜種 (Acer palmatum subsp. matsumurae (Koidz) Ogata) または変種とされる場合があるが、オオモミジの変種 (Acer amoenum var. matsumurae) とされる場合もある。
日本の北海道・本州(島根県以東の日本海側の多雪地)に分布し、花期は 5月。葉には不揃いの重鋸歯があり、一般にイロハモミジより大きめになるが、変異が大きい。】
そうそう、そこで思い出したのですが、いつか「山旅図鑑」のどれかで「あきた森づくり活動サポートセンター総合情報サイト」の情報を紹介したことを思い出しました。
『森と水の郷あきた』の『樹木シリーズ22 ヤマモミジ、イロハモミジ、オオモミジ』です。
【紅葉が美しいヤマモミジ(山紅葉、カエデ科)
北日本の日本海側・多雪地帯に分布するカエデ。イロハモミジに似ているが、葉は直径5〜10cmと一回り大きい。基部は心形で、掌状に7〜9中裂する。新緑も紅葉も美しいので、庭や公園に植えられ、園芸品種も多い。イロハモミジの自生分布は、福島県以西、四国、九州の主に太平洋側の山地に普通にみられる。オオモミジは、北海道から九州まで広く分布するが、本州北部では、日本海側にヤマモミジ、太平洋側にオオモミジと棲み分けている。】
【見分け方・・・ヤマモミジの葉の鋸歯は不揃いだが、オオモミジの鋸歯は整然と揃っている。イロハモミジの葉は、小形。
モミジとカエデ・・・葉の切れ込みが深いカエデを、「〇〇モミジ」、葉の切れ込みが浅いカエデを、「〇〇カエデ」などと呼んでいる。しかし、どちらもカエデ科カエデ属で植物の分類上は同じである。葉の形だけを見れば、ハウチワカエデ(右上写真)やイタヤカエデは、何となくカエルの手に似ているので「カエデ」と呼ぶのも理解できる。
名前の由来・・・モミジは、秋に草木が黄色や赤色をもみだす「モミズル」という動詞が名詞化し、転じて、特に美しい色になるカエデ類を「モミジ(紅葉)」というようになった。】
【撮影】2日目 11時06分=伊藤 幸司
稜線の道は青空の元で明るくなったり、鬱蒼とした深林に潜り込んだりしながら伸びていきます。
【撮影】2日目 11時07分=伊藤 幸司
やっぱりウリハダカエデなんですかね。再度
『ウィキペディア』で『ウリハダカエデ』を調べてみました。
【樹高は8-10m、まれに20mに達するものもある。樹皮は暗い青緑色の模様があり、この模様の色が、マクワウリの未熟な実の色に似ていることからウリハダカエデの名がある。】
【葉は花がつく枝に1対、花のつかない枝に1-3対、対生する。葉身は、長さ、幅ともに6-15cmの扇形5角形で、浅く3-5裂し、裂片の先端は尾状に鋭くとがり、基部は浅心形から切形になり、縁には不ぞろいの重鋸歯がある。】
【日本固有種で、本州、四国、九州、屋久島にかけて広く分布し、日当たりのよいやや湿気のある山地に自生する。】
【材は白く、こけし、玩具、細工物、箸、経木などに利用され、樹皮は丈夫であるため、縄や蓑の材料として利用された。また、庭園木、公園木として植栽される。】
【撮影】2日目 11時07分=伊藤 幸司
このウリハダカエデの葉は、私と同様の年齢でしょうかね。自然の中で、自然に年老いていくものの姿が、私はかなり好きなんです。
【撮影】2日目 11時08分=伊藤 幸司
道はおおらかな樹林の中を伸びていきます。
【撮影】2日目 11時08分=伊藤 幸司
出てきました、奥久慈の「もみじ」です。青空と翳りない陽光、最高の「もみじ」日和です。
【撮影】2日目 11時10分=伊藤 幸司
いや〜ぁ、なんというか、ワタシ的にはこれこそが「萌え」ですね。古典的な本来の「萌え」は「萌え出づる」の萌えで芽生えの状態のようですが、
『ウィキペディア』の大論文『萌え』には次のような」一説がありました。勝手ないいとこ取りではありますが。
【萌えを「脳内恋愛」と定義する立場を取る評論家の本田透は、萌えにおける恋愛の理想形が「ロマンチック・ラブ」であることを指摘している。】
【撮影】2日目 11時10分=伊藤 幸司
なんとまあ、この緑。赤が緑を引き立てているじゃあないですか。
【撮影】2日目 11時11分=伊藤 幸司
ここでは赤が、自由奔放に飛び跳ねているように、私には見えるのです。
【撮影】2日目 11時12分=伊藤 幸司
イロハモミジの紅葉には、黒ぐろとしたシャープな枝の1本、2本がどうしても欲しくなります。
【撮影】2日目 11時13分=伊藤 幸司
糸の会の最初の頃、秋の尾瀬で富士見峠から竜宮へと下ったことがありました。竜宮小屋のほんのちょっと手前で、見上げる巨木群の天井が赤や黄のありとあらゆる濃淡と、緑色に輝いていて、これが「錦繍の秋」なのか、と感激したことがありました。それと比べるとささやかなものですが、今日、ここで期待できるものの先触れかと思いました。
【撮影】2日目 11時14分=伊藤 幸司
アップダウンの「ダウン」の部。ゆるやかなアップダウンは最高です。
【撮影】2日目 11時17分=伊藤 幸司
ゆるやかなアップダウンの「アップ」の部。前方に青空が待っていてくれます。
【撮影】2日目 11時18分=伊藤 幸司
これは相当に気負い立った紅ですね。11時14分の「ダウン」から17分の「アップ」、そして18分のこの「紅」。歩くのが絶対楽しいということおわかりいただけるでしょうか。
【撮影】2日目 11時19分=伊藤 幸司
また下ります。
【撮影】2日目 11時21分=伊藤 幸司
そしてモミジ。
【撮影】2日目 11時37分=伊藤 幸司
11時34分に稜線から分かれて左手の斜面を下り始めました。尾根筋が分岐していて、私たちは久慈川河谷の縁に当たる切り立った稜線に移るのです。
【撮影】2日目 11時54分=伊藤 幸司
尾根の分岐が小さな谷の源頭部になっているのです。私たちはここで初めて稜線からちょっと下がります。
【撮影】2日目 12時04分=伊藤 幸司
男体山からおよそ1時間半歩いてきて鞍部という雰囲気のところで10分休憩です。
糸の会で長い間、休憩は「5分」と「10分」として、「5分休憩では水を一口(必要ならたっぷりと)補給」「10分休憩なら何か(たとえばお握り)一口補給」ということで、お弁当ではなくて行動食という考え方でやってきました。最近では先頭が10分交代になっているので、その交代の数回に1回、先頭の人たちの判断で「水飲み休憩」が行われるようになりました。ですから従来からの「5分休憩」は「30分ごと」という目安ではなくなりましたが、心理的なリラックスやリズムの調整などを考えながら、リーダーとしての私が決定する権利は失っていません。
ここでは男体山から1時間半歩いてようやく私が10分休憩を決めたので、最初の休憩が1時間半後、というだけで体力的にも、精神的にも楽な山旅だったとわかります。
気温は登山口からずっと10度で、風はほとんどなし。秋景色の中を自分たちのペースで歩いてきたので、まだまだ休む必要は感じないものの、早めに一息入れておくべきだということでエネルギー補給の休憩をしたのです。念のために風のない、陽だまりを選んで……。
そしてもうひとつ。休んでみていくらかでもしんどそうな人がいたらこの種の休憩は10分+5分とか、10分+10分とか、リーダー権限でずるずるとのばします。じつはそれが重要だと(リーダーとしては勝手に)思っているのですが、全行程のまだ前半で、頑張るひとがいるようだったら、そのひとに実質10分以上、の休憩をしておいてもらうべく、勝手に延長し、その延長がリーダーのフロアーディレクターとしての最大の指揮権だと考えているのです。
すくなくとも、メンバーたちや、メンバーの中の実力者が自分たちの時計で休憩を決めるという一般的な方法を私は打破して、リーダーのペースメイクの最大の道具として「休憩」の場所と時間で「山旅」を演出しているつもりです。
それはときどき(じつにほんのときどきなんですが)記憶に残る休憩とか、つらい人を蘇らせる休憩としてヒットすることがあります。歩くペースは結局一番遅い人がペースメーカーになってしまうので、全体のペースメイクをリーダーの「休憩」によってコントロールするという考えかたを、たぶん10年以上続けてきました。唐突な言い方ですが、リーダーは行動の最終責任を取る役といわれますが、そのためには舞台進行の現場から責任をもって全体の動きをコントロールしていかなければいけないと考えるようになったのです。
ここでは行動記録に「1200−10」とあって、時間延長していません(時間延長は、たとえば「1200−10−5」などと記されます)。みなさんの調子もすこぶるいい、という状態だったというリーダー判断が示されています。
【撮影】2日目 12時06分=伊藤 幸司
確たる理由があるわけではないのですが、紅葉がまた新しい段階に入りつつあるような気がしました。
【撮影】2日目 12時07分=伊藤 幸司
秋の風、という感じの写真になりました。
【撮影】2日目 12時11分=伊藤 幸司
たぶん、日差しが南に傾いているためか、横殴りの光となって注いでいるからだと思うのです。陽光によって浮き上がるものと、逆に沈み込むものとの落差がドラマを演出し始めたように思いました。
【撮影】2日目 12時31分=伊藤 幸司
谷筋に下った道が、もう少し先でまた稜線に戻ります。そのちょっと隠れ里のような場所が、多分このルート最大の「もみじ」の聖域だと思います。以前も何度となくそういうふうに感じました。
【撮影】2日目 12時34分=伊藤 幸司
なんですかね、堂々たる「もみじ」がそれぞれ主役を張ろうとしているのです。ほんとうに良い日にめぐりあうことができました。
【撮影】2日目 12時34分=伊藤 幸司
この「もみじ」王国では、私たちはとても小さく見えました。
【撮影】2日目 12時35分=伊藤 幸司
なんだか爆発しそうな紅葉です。
【撮影】2日目 12時36分=伊藤 幸司
王たる「もみじ」の玉座のように見えませんか?
【撮影】2日目 12時39分=伊藤 幸司
「もみじ」王国は一瞬にして消え去って、私たちは再び稜線の道へと戻りました。
【撮影】2日目 12時48分=伊藤 幸司
落ち葉を踏みながらの山道は、あきらかに樹林の相が変わったと感じます。どのような世界が待っているのか、まだわかりません。4分後の12時52分にには「至男体山頂2.4km」という道標が出てきます。袋田の滝までの距離は書かれていませんでしたが、ほぼ中間点、2時間半ほどでやってきました。
【撮影】2日目 12時53分=伊藤 幸司
紅葉は続きますが、どこか大様な風景に感じられます。
【撮影】2日目 13時07分=伊藤 幸司
これもイロハモミジでしょうが、細くていかにもしなやかに見える黒い枝が私には魅力的です。
【撮影】2日目 13時09分=伊藤 幸司
イロハモミジは、まだまだこれから、という感じで出迎えてくれている、というような気分にもなってきます。なにしろ、まだ半分、それも袋田の滝に向かっての後半戦です。
【撮影】2日目 13時10分=伊藤 幸司
男体山側がウリハダカエデの世界なら、こちらはまちがいなくイロハカエデの世界です。
【撮影】2日目 13時12分=伊藤 幸司
力強い紅葉だと感じました。陽光がどんどん挑発的なライティングになっていくのを感じました。紅葉の中では日差しをいつもと違うように感じるんですよね。
【撮影】2日目 13時12分=伊藤 幸司
紅葉が主役なのか、ライティングが主役なのか、ちょっとわからない……という感じがこの写真には出ていると思います。
【撮影】2日目 13時17分=伊藤 幸司
突然、黄色い葉っぱも登場です。違う世界に入り込みつつあるようにも思われます。
【撮影】2日目 13時19分=伊藤 幸司
ここは、第2展望台。以前はたしかそういう標識があったのですが、なくなっていたので、危うく素通りするところでした。足元がバッサリと切れ落ちている場所としては男体山山頂から初めてです。
【撮影】2日目 13時20分=伊藤 幸司
日光連山の雲が消えつつあるようです。左端の男体山がくっきりと見え、右端の女峰山の山頂はまだ雲の中です。
【撮影】2日目 13時20分=伊藤 幸司
私には確信がありませんが、いくつかの情報では高原山のようです。高原山の南側山塊と呼ばれる鶏頂山とそのまわりのピークが左側の高まりのようです。
【撮影】2日目 13時20分=伊藤 幸司
これが那須連山だといいのですが、どうでしょうか。
【撮影】2日目 13時30分=伊藤 幸司
久慈川の流れを眼下にする断崖の縁を歩いていきます。展望の道というほどではありませんけれど。
【撮影】2日目 13時31分=伊藤 幸司
これはまたウリハダカエデでしょうか。いまや、ちょっと懐かしい感じがします。
【撮影】2日目 13時32分=伊藤 幸司
すごい色ですが、ヤマツツジの狂い咲きです。
『森林公園(国営武蔵丘稜森林公園)』の『植物園だより』に『ヤマツツジの狂い咲き』がありました。
【日照時間が短くなり、朝晩の気温が25度前後に下がり始めると、来春に咲く準備をしていたヤマツツジの花芽は休眠を解かれ、春が来たかと勘違いし、季節はずれの花が咲き出します。この現象を「狂い咲き」あるいは「返り咲き」といい、ヤマツツジがススキやハギ、キンモクセイの花と一緒にお目見えします。】
【撮影】2日目 13時33分=伊藤 幸司
これはなんだか、どうしてだか、わかりません。……が、変わった葉の集団だな、なんて思って撮ったのです、が……。
【撮影】2日目 13時34分=伊藤 幸司
どうも、黄葉しても落葉しない強靭な木のようですね。
『SHIZEN Gate 子どもと100倍楽しむ自然の遊び場』というサイトに『子どもと楽しくもみじ狩り:紅葉のしくみ』という的確な解説がありました。
【◆落葉樹が紅葉する。
紅葉は、全ての木が紅葉するのではなくサクラ、カエデ、ブナ、イチョウなど葉の落ちる落葉樹が紅葉する。逆にマツやスギなどは、1年中葉が落ちない常葉樹で緑のまま。落葉樹は、冬になる前に古くなった葉をいっせいに落とす木。逆に常緑樹は、1年中緑色の葉をつけている木。ただし、常緑樹は1年中葉がついているといっても、カシやシイなどの常緑広葉樹では、春に新しい葉が出てきたら古い葉を落とし新しい葉にとりかえていく。落葉樹は、秋に葉を落とし寒い冬をすごすために、冷たい空気に触れる部分をできるだけ少なくするために、葉を落とし寒い冬を乗り越える。落葉樹の多くは、北半球の北の寒い方に生えていて、南の暖かい方では少なくなる。しかし、先がとんがった細い葉の針葉樹は、常に緑色。針葉樹は、葉の中に水分が凍りにくい成分を作るため、寒いところでも生きていけるのだ。
◆緑色の葉は、「クロロフィル」と言う葉緑素の粒
落葉樹の夏の葉は、たいてい緑色。これは、葉の中には葉緑素という緑の粒(色素)がたくさんあるからだ。この緑の粒を、「クロロフィル」と呼ぶ。元々葉には、「クロロフィル」と「カロチノイド」という黄色の粒(色素)も含まれているのだが、夏の葉は、緑の粒が黄色い粒より多いので、黄色い粒のほとんどが隠れてしまい黄色が見えない。
◆黄色くなる葉と赤色になる葉の紅葉のしくみは違う
紅葉の葉は、大きく黄色くなる葉と赤色になる葉がある。厳密には赤色に変わるのを「紅葉(こうよう)」、黄色に変わるのを「黄葉(おうよう)」、褐色に変わるのを「褐葉(かつよう)」と呼ぶようだが、これらをまとめて「紅葉」として扱われることが多い。
紅葉のしくみなのだが、黄色くなる場合と赤くなる場合のしくみが違う。 秋に黄色くなる葉は、太陽の光が少なくなり、気温が低くなると緑色の葉緑素がだんだん壊れて、それまで隠れていた黄色い粒「カロチノイド」が見えてくる。葉が黄色くなるのは、「カロチノイド」という黄色い粒が葉の表面に現れてくることからなる。 黄色く紅葉するのが、イチョウ、ブナ、シラカバなどだ。
夏から秋へと季節が変わると、だんだんと光を浴びる時間が少なくなり寒くなってくる。そうなると、葉の根元と枝の間に「離層」と呼ばれるコルク状の物質ができる。この「離層」によって、光合成で葉の中に作られていた糖分が枝の方に運ばれず、葉の中に留まってしまう。葉の中では、自然と糖分の濃度が上がりそこに日光が当たると、葉の中にある葉緑素「クロロフィル」が分解され糖分と一緒になって化学反応が起こり「アントシアニン」という赤色の色素に変化する。この「アントシアニン」がだんだん増えてくると、葉の表面が赤くなる。これが、赤く紅葉する葉の簡単な原理。「アントシアニン」は、「カロチノイド」と違って、葉が緑色の時はまだ存在していない。赤く紅葉するのは、カエデ、ナナカマド、ヤマウルシ、オオカメノキなどだ。
ふしぎなことに、「落葉樹の紅葉は、木が成長する過程でどのような役割があるのか?」ということが解明(定説)されていなく、さまざまな説があるとのこと。】
【撮影】2日目 13時35分=伊藤 幸司
第1展望台とされている鍋転山(なべころがしやま・423m)で10分休憩をとりました。そこにあったイロハモミジです。近くで見ると姿かたちがすばらしい、んですね。
【撮影】2日目 13時39分=伊藤 幸司
鍋転山(なべころがしやま)というのは「おむすびころりん」みたいな話からなんでしょうか。崖下に落としたら拾いに行くというわけには、とてもいきません。断崖絶壁というべきです。
気持ちはすでに終盤なんですが、男体山からここまで約3時間。私の計画では袋田の滝まで5時間としてありますから、まだ2時間楽しめるんです。
【撮影】2日目 14時10分=伊藤 幸司
14時7分に「至国道461号」という道標がありました。月居トンネルが下をくぐっている鞍部です。でもそこからまた登りがはじまりました。
【撮影】2日目 14時15分=伊藤 幸司
けっこうな登りです。私はこのあたりでどうしても立ち止まっておきたい場所があったのですが、前後の記憶がはっきりしません。先頭がどんどん行ってしまうと引き戻すのは大きなマイナスになるはずなので、ここで先に行くことにしました。
【撮影】2日目 14時25分=伊藤 幸司
稜線上に大きな岩があって、それを乗り越えていく道もあるのですが、立派な巻道もあるので、知らない人は素通りしてしまうのです。でもその岩のところから振り返ると、初めて縦走路の出発点、男体山の山頂が見えるのです。そしてここまでの道筋も、想像よりちょっと複雑だったかな、と。
【撮影】2日目 14時25分=伊藤 幸司
ここでもちろん記念写真を撮りました。男体山は背後に見える右端の丸いピークから数えて4つめの平たいピークで、記念写真の右から3人めのKさんの頭上、まっすぐのところです。
【撮影】2日目 14時27分=伊藤 幸司
岩の上の道はちょっと危険ですが、道ではあります。向かって右側に転ぶと大事件になりますが。
【撮影】2日目 14時29分=伊藤 幸司
この、大岩越えの道を選んだのにはもうひとつ理由がありります。ここからのくだりです。
【撮影】2日目 14時32分=伊藤 幸司
ロープが垂らしてありますからここがルートであることは間違いないのですが、この斜面はストックで降りられるか、先頭の人のようにストックに加えて直接ハンドホールド(手がかり)も探っていくか、あるいは完全にダブルストックだけで下りきれるかということで急斜面の下りの力量が見られるのです。そういうことのできる絶好の場として毎回利用させてもらってきました。
ちなみに私はストックも使わずに下りました。ちょっと怪しい場面もありましたが。
【撮影】2日目 14時33分=伊藤 幸司
ストックに身柄を預ける覚悟があれば、ここは下れない場所ではありません。2番めのEさんは早々とストックを束ねて片手で持っていますが、まだ新入会員なのでしょうがないとはいえ、最悪の対応といえます。ストックが死んでしまうからです。ストックは右手首にベルトをまわしたまま、写真の状態なら指先で直接岩をホールドしてもらいたいのです。左手のストックがきちんと使えれば相当のシゴトをしてくれるはずなのに、Eさんはそのチャンスを自ら放棄してしまっています。ストックが本当に邪魔なら、下に投げてしまったほうがいいくらいです。
【撮影】2日目 14時34分=伊藤 幸司
Yさんの、これはかなりいいお手本です。私はできればハの字ではなくVの字にしてほしいといいたいところですが、これなら合格。「3歩先にストックを突いて、1歩〜2歩で立ち上がり、次のストックを振り出す」というリズムがわかると、深い前傾姿勢で足裏に荷重するので、滑りにくくなります。かかとで止めるなどという最悪のへっぴり腰状態にならないように、つま先立ちの気分で岩の突起などを踏めていれば、この斜面なら快適です。
【撮影】2日目 14時36分=伊藤 幸司
チョビっと下ったかと思ったら、また登りです。紅葉のきらめきの中へと登っていきます。
【撮影】2日目 14時38分=伊藤 幸司
いよいよ陽が傾いて、紅葉も立体感を増してきました。
【撮影】2日目 14時38分=伊藤 幸司
登りきったら「もみじ平」という雰囲気の広がりが待っていました。月居城跡の月居山(つきおれさん・404m)に着いたのです。
【撮影】2日目 14時38分=秋田 守
ずっと男体山から尾根筋を歩き続け、月居トンネルの上あたりを過ぎ、袋田の滝が近づく頃、月居城跡の石碑があった。佐竹氏の一族によって築城され、その後、佐竹氏自体が秋田に転封される時に城主野内氏も共に秋田へ移り廃城となった。野内氏は後に月居姓を名乗ったという。この石碑の裏面を見ると、寄進者の名前が並んでいるが、北海道並びに秋田在住の月居姓がずらりと記されていて驚いた。秋田から北海道へ移住したのだろうか。
【撮影】2日目 14時40分=伊藤 幸司
月居城跡の碑文には【この記念碑は野内氏 月居氏一族の浄財寄進により建立】とあり、背面には月居さんの名前がずらりと並んでいました。
『ウィキペディア』で『月居城』読むとけっこう激しい波間を漂ってきた城のように思われます。「月居さん」のこともわかりました。
【月居城(つきおれじょう)とは、常陸国久慈郡大子村(茨城県久慈郡大子町袋田)に築かれた日本の城(山城)のひとつ。
築城は、応永年間(1394年〜1424年)といわれ、領主であり常陸守護である佐竹氏の庶家 北酒出氏の分家にあたる袋田氏により築城された。別称を袋田城ともいう。後に袋田氏が佐竹氏一門の小田野氏を相続することになり、袋田氏はその血脈を伝えながら断絶、主なき月居城は一時廃城となった。】
【月居城のあった依上保一帯は後に佐竹氏の分家 山入氏の勢力下に入るが、山入一揆の乱の混乱に乗じて陸奥国の国人 白河結城氏の侵攻により同地は奪われ40年もの長きにわたり、白河領として過ごした。その後、永正元年(1504年)に依上保は佐竹氏により奪還され、月居城は再び、佐竹領北方の要衝として再興、佐竹氏庶家の高柿氏らを在番衆として置いた。
その後、月居城は、鎌倉公方の主導権争いに巻き込まれ、佐竹氏の那須出兵に際しては、佐竹氏家臣の石井氏らが篭城して敵の侵攻を防いだ。その後、月居城は相川館にいた野内氏に与えられ、袋田・生瀬一帯の領有を認められ、佐竹氏の奥州攻略の軍役負担と前線基地の役割を果たした。
しかし、月居城は佐竹氏の秋田転封に伴い城主 野内氏もこれに随行したため、再び主を失った月居城は廃城となり、その後も一国一城令の施行もあって城として再建されることはなかった。なお、月居城主であった野内氏は秋田転封後に出羽国大館に移封されたが、主家に願い出て旧城の名である月居氏を称するようになったという。
その後廃城となる。】
【撮影】2日目 14時41分=伊藤 幸司
下に見えるのは袋田の滝の周囲に立ち並ぶ土産物屋や旅館などの観光街。そこが今日の終点です。
【撮影】2日目 14時44分=伊藤 幸司
月居山からは再び下りです。
【撮影】2日目 14時49分=伊藤 幸司
ここできちんと立って歩けるか、姿勢を下げてしまうかで技術的なレベルが違っています。岩を信用できるかどうかという見極めで難易度は違ってくると思います。
【撮影】2日目 14時57分=伊藤 幸司
下ったと思ったら、また登りです。月居観音堂に向かいます。
【撮影】2日目 15時03分=伊藤 幸司
月居観音堂の脇から始まったのは長い石段。それも段差の大きな石段でした。
【撮影】2日目 15時07分=伊藤 幸司
登りきると袋田の滝がほぼ真下にあるのだとわかりました。もう登りは終わりです。
【撮影】2日目 15時08分=伊藤 幸司
もちろん、今度は長い下りです。滝のところまで標高差約200mの一気下りが始まりました。
【撮影】2日目 15時19分=伊藤 幸司
袋田の谷はすでに日陰になっているだけでなく、紅葉の状態もずいぶん違います。最後の期待という残り方でなくてよかったと思います。
【撮影】2日目 15時25分=伊藤 幸司
下って、下って、下っていきます。
【撮影】2日目 15時29分=伊藤 幸司
これは袋田の滝の上流にある生瀬滝(なませだき)。専用の展望デッキが途中にありました。
【撮影】2日目 15時30分=伊藤 幸司
生瀬滝はこんな感じで、袋田の滝に似た顔つきです。
『大子町観光協会』のサイトに『生瀬滝』がありました。
【袋田の滝から約200メートル上流に架かる生瀬滝は、奥の滝とも呼ばれ、迫力満点の袋田の滝とは対をなすような静かな佇まいが魅力。大きな滝壺に注ぐ高さ約10メートルの滝は、約27メートルの幅があり、水の流れが幾重にも白糸を垂らすように伝い落ちる光景は優れた風致を誇ります。】
【撮影】2日目 15時34分=伊藤 幸司
いよいよ袋田の滝の上部が見えてきました。
【撮影】2日目 15時39分=伊藤 幸司
袋田の滝へは、最後の最後まで階段でした。
【撮影】2日目 15時44分=伊藤 幸司
男体山山頂から休憩を入れて5時間10分、私たちは袋田の滝にたどり着きました。
【撮影】2日目 15時52分=伊藤 幸司
展望台から見た全景。
【撮影】2日目 16時05分=伊藤 幸司
袋田の滝で最後の記念写真です。
【撮影】2日目 16時06分=伊藤 幸司
これがこの日見た中で、一番おもしろいと思った袋田の滝の表情、です。
【撮影】2日目 16時13分=伊藤 幸司
土産物屋街の紅葉はこんな感じ。陽が射していたらけっこうな紅葉ですね。
【撮影】2日目 17時32分=伊藤 幸司
できれば袋田の滝のあたりで入りたかった温泉は大子温泉保養センター・森林の温泉(もりのいでゆ)になりました。おおらかな露天風呂と食事。最後にドタバタがありましたが。
【撮影】2日目 18時22分=伊藤 幸司
入浴後、代行バスの時刻表を見ると、のんびりしていられないということがわかったのです。JRの時刻表には代行バスに対する修正がなされていなくて、計画段階でのネット情報でその仕掛けを知ることができなかったのです。
昨日の紅葉寺はおかげで陽射しのある紅葉にはわずかに間に合わず、今日の温泉は、のんびりしていたら今日中に家に帰れなくなるところでした。