山旅図鑑…の
鋸山(2022.5.28)
フォトエッセイ・伊藤 幸司

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★糸の会 no.1229
2022.5.28
鋸山



鋸山
【撮影】09時38分=伊藤 幸司=002
新宿始発07時50分の房総特急「新宿さざなみ1号」が鋸山に近づいていました。線路に並行して国道127号が走っていました。別名「内房なぎさライン」とか。その国道となぎさと、あわよくば富士山とが同時に見えたりするかもしれないと思っていたら、その前にこの「ZIPPO」という名前の、たっぷりめの駐車場をそなえた、どう見ても店舗ですよね、が走り抜けていったのです。
なんだ? ZIPPO? ジッポライターで商売できるはずはなし、高級タバコ店だとしても営業可能? というご時世ですから、スモーカーのあいだで話題になるような品物を売っている個性的な店だろうかと思いましたね、瞬間的に。
帰ってネットで調べてみると、もちろんありました。「ジッポーパーク」というジッポーと伸ばすのが正式名称らしいのですが、そのジッポーライター専門のアンティークショップだそうです。ちなみに「ZIPPO専門店」というので検索してみると、あるんですね、アマゾンで見たら「ZIPPO正規品」だけでも何十種類もあって、1万円を超えるものがぞろぞろ。日本でいえば江戸時代の煙草用品ともいえる「根付」や電子時計時代の超高級機械式腕時計のように「工芸品」としてのコレクションになっているみたいですね。
この店の雰囲気は「田舎暮らし モクモクオヤジのジッポー通信販売です」という案内ページに存分に出ているように思います。
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鋸山
【撮影】09時39分=伊藤 幸司=004
ZIPPOの店が終わるとすぐに小さな川を渡りました。名前はわかりませんね。グーグルマップではすぐに切れてしまう短い川ですが、さすがに国土地理院のデジタル地図だとかなり上流まで川筋がたどれる上に、その源流部に「大沢」という名前も入っています。ちなみにこの河口の橋の周辺は「芝崎」です。JR浜金谷駅までは700mほど手前という感じになります。
……で、なんでシャッターを切ったのかというと、この橋の上を歩いている人がいたからです。ザックとバッグを持っている、までは気づきませんでいたが、こんなところを歩いている人がいたので、とりあえずシャッターを切ってしまったのです。
……で、なんでこの写真をここに出したのかというと、答えは前の写真にあります。「ZiPPO」という看板に引かれて撮ったのですが、撮った後で歩いている人に気づいたのです。
オリジナル画像で拡大してみると、プラスチックのゴミ箱を大きくしたような全天候型雑貨保存箱らしきものをカートに載せて運んでいるみたい、軽々と、という感じなんですね、だからちょっと異様な感じがしたのです。その回答が出てこない次の瞬間、この写真の、ポツン・と・一人旅のおじさんがいたので、シャッターを切ってしまった、というわけです。
でもこの写真をオリジナル画像で見てみると、河口の海辺に何人かの人の姿(たぶん3人)があって、海辺の風景を楽しんでいる雰囲気が伝わってきます。橋の上におじさんがいなければ、撮れるか撮れないかわからずとも、超望遠で海辺の人を狙っていただろうと思います。

鋸山
【撮影】09時39分=伊藤 幸司=005
前の写真の左側に駐車場が写り込んでいました。じつはそれが、今日の入浴候補の「天然温泉・海辺の湯」なんですね。この写真の右端の部分がチラリと写っていたということになります。
写真右端の大看板には「漁師料理・かなや」と「天然温泉・浜辺の湯」と出ています。建物前面の表示によると、天然温泉のほうには「1階 こだわりのお土産 売店」「2階 天然温泉海辺の湯」(宿泊・個室食事)「3階 個室・食事・御宴会」となっていますね。そして左側の「漁師料理かなや」のほうは「地魚 活魚造り・焼魚 煮魚 天ぷら 寿司」と「季節限定料理・貝?セルフ あんこう鍋」となっています。さらに1階の売店には「房総みやげ・海女直売所・のりしいたけ・モカトラカフェ」などと書かれています。
この両者が「ウイング興産」という会社の経営で、浦安、館山、横須賀などに店舗展開しているらしいのですが、公式ホームページにはその名がなく、隅っこに「さわだ物流株式会社」という倉庫・運送・アウトソーシングの会社が小さな広告枠を出していますが、その先がつながりません。
なんとも不思議なので調べてみると澤田一彦という社長名が一致して、(良くも悪くも)なかなかやり手の若手実業家らしいという気配。2021.12.16付の新しいホームページでは———組織を再編致すことに相成り 令和四年一月一日付をもちまして社名を旧社名 さわだ物流株式会社を「株式会社KEIYO(ケイヨー)」に変更し新たな出発をいたします。———とありました。
ともかく、東京湾の向こうに富士山を眺めながらの入浴やら、食事やら、は海の家としては保田漁協の「ばんや」と競い合う存在を目指しているのだろうと思います。

鋸山
【撮影】09時46分=伊藤 幸司=008
じつはJRの線路が浜金谷駅から鋸山の下をくぐるあたりの光景がなにか見つからないかと思ってカメラを構えていたのですが、たいした波乱なしに次の保田駅に到着してしまいました。
跨線橋から振り返ると鋸山の全山が見えています。このときはまだ良く理解できていませんでしたが、歩き終わってからこの写真で見返すと、いくつかの部分が記憶に残っています。
写真右端の鞍部が、道標にしばしば登場する「林道口」です。登山道はそこから始まって、ここから見える稜線部分を左に登りつめると、一番高く見えるところではなくて、白い建物(ロープウェイ駅)の右手に小さなギザギザ(ノコギリの歯)があって、そのすぐ右手の高みが鋸山山頂です。林道口と山頂の間はこれまで何度か歩いてますが、今回は「ずいぶん長いな」と感じました。
保田駅からの登山道は2つあって、ほぼ真っすぐに白い建物へと向かっていく道と、山裾を右へ回り込んで林道が「林道口」へと着いてから縦走登山道に入るルートとがあるのです。

鋸山
【撮影】10時02分=伊藤 幸司=012
保田駅のところにこの道標がありました。
私たちは道標の上の段の「林道口4.6km」を林道歩きで、そこから1.4kmで「鋸山山頂6.0km」という意味です。
まっすぐ鋸山に行きたい人は「日本寺登山口1.5km」でいいんです。

鋸山
【撮影】10時07分=伊藤 幸司=016
駅から線路沿いに鋸山方面へと戻ると、線路の向こう側にくぐり抜ける徒歩専用のガードがあります。まあ、ともかく、遥かに望む鋸山、といった感じですね。

鋸山
【撮影】10時11分=伊藤 幸司=024
関東ふれあいの道ですから道標は整備されているようです。でもかろうじて読める程度ではありますけれど。

鋸山
【撮影】10時12分=伊藤 幸司=026
ただし、前の写真の道標ですが、集落内の狭い車道であるためか、民家の塀の内側にあるので、ご用心。初めて見ましたね、公の道標を私有地に立てているというのを。

鋸山
【撮影】10時21分=伊藤 幸司=033
集落を抜け出ると、いよいよ林道風景になりました。新緑散歩の始まりですかね。

鋸山
【撮影】10時24分=伊藤 幸司=036
ごくありふれた花だとはわかっているのですが、カメラで「撮ってしまった」ことに対する責任感以上は持たないという前提なので、この写真に写っている花がなんなのかわかったら、その先もうすこし調べてみようという原則です。ウィキペディアのスイカズラに、この写真そのものの説明がありました。
———花期は5 - 7月で、葉腋から花が2個ずつ並んで咲き、夕方から甘い香りが漂う。つぼみは薄紅色、咲き始めの花は白色をしているが、受粉するなどして徐々に黄色くなる。そのため、一つの枝に白い花と黄色い花が同居することが珍しくない。花弁は細い筒状で、漏斗形の花冠の長さは3 - 4 cm、先の方は上下2枚の唇状に分かれ、上唇はさらに浅く4裂し、下唇はへら状である。花冠の筒部に、甘い蜜がある。雄しべは5個で長く突き出しており、雌しべの花柱は1個で長く突き出て、受粉前の柱頭は丸く緑色である。———
ついでにこの名前の由来。———和名スイカズラの名は「吸い葛」の意で、細長い花筒の奥に蜜があり、古くは子どもが好んで花を口にくわえて甘い蜜を吸うことが行なわれたことにちなむ。砂糖の無い頃の日本では、砂糖の代わりとして用いられていた。スイカズラの英名ジャパニーズ・ハニーサックル(Japanese honeysuckle)も、花筒をちぎって蜜(honey)を吸う(suck)ところから生まれた名前であるといわれる。———
子供の頃にこの花の蜜を吸った経験があったらよかったな、と思いました。

鋸山
【撮影】10時24分=伊藤 幸司=037
ウィキペディアのスイカズラの解説は、なんだかすごく高いレベルで書かれていると感じました。
———常緑または半常緑のつる性低木。 木質のつるで、茎は分岐しながら長く伸びて他の植物に絡みつき、他のつる性植物と比べて穏やかに繁茂してゆき、長さは10メートル (m) ほどにもなる。若い茎は細くても丈夫で、毛が密生し灰赤褐色をしているが、2年以降の茎は太くなるとつるの髄は中空になり、樹皮は縦に細く裂けて剥がれて灰褐色を帯びる。———
———日本全国(北海道の南部・本州・四国・九州)のほか、朝鮮半島・中国など東アジア一帯に分布し、各地の平地から山野の林縁や道ばたによく見られる。庭や垣根にも植えられる。欧米では観賞用に栽培されるが、また広く野生化し、特にアメリカでは外来種としてクズとともに森林を覆って打撃を与えるなど問題となっている。夏季に乾燥しない場所で、日当たりの良い場所を好むが、耐日陰性もある。———
じつは若い頃、平凡社の1984年版「大百科事典」の編集の一部に関わったことがあります。糸の会の初期の会員・高橋健治さんが編集担当でしたし、やはり創設期会員の鈴木一誌さんは巨匠・杉浦康平の右腕としてそのデザインに加わっていました。私は「執筆者数7,000名」のうちの1グループ担当でしたが……そういう編集者の目で見るとこの「スイカズラ」レベルの記事が多くなるとウィキペディもすごいものになるんですよね。
でも、たとえば当時の平凡社の図書館は大きさといい、収蔵された書籍といい、びっくり仰天レベルの素晴らしいもので、編集者は執筆依頼者に対して持ちきれないほどの資料を持参したりして(指導的に)記事を作成していたといわれます。それに対してウィキペディアは編集者をもたずに、自由な寄せ書き方式で事典を作り上げようとしているのですから、そこのところが革命的ではあるのですが。

鋸山
【撮影】10時25分=伊藤 幸司=040
ハナダイコン(花大根)、ムラサキハナナ(紫花菜)、オオアラセイトウ、ショカッサイ(諸葛菜)というのがそれぞれの別名なのか、じつは別グループなのかわかりませんが、そのどれかであればラッキーだと思います。

鋸山
【撮影】10時25分=伊藤 幸司=041
ウツギですね。純白の花ですね。「卯の花」は卯月(4月)の花という意味みたいですから卯月を代表する花なのでしょうが、その「卯月」を国立国会図書館の日本の暦で調べてみたら、なんと———4月……卯月(うづき)……卯の花の月———ですって。「卯の花の月」というとは、「卯の花」のほうが先なんですかね。
なんだか騙されたような気分なのでウェザーニュースの4月の異名「卯月」他にも「木葉採月」など様々を見てみました。
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新年度がスタートする4月。最も一般的な月の異名は「卯月(うづき)」です。
「卯花月(うのはなつき)」と呼ばれることもあり、旧暦で「卯の花が咲く月」であることから名づけられました。卯の花はウツギの花の別称で、日本では、主に5~6月に開花します。
それ以外の説としては、卯月の「う」は「初(うい)」や「産(うぶ)」などを意味し、稲作など農耕の始まりという意味もあるようです。
4月の異名は卯月以外にもあるので、ご紹介していきます。
「種月(うづき)」や「植月(うえつき)」は、稲の苗などを植える月という意味からきています。
「木葉採月(このはとりつき)」は、蚕に食べさせるための桑の葉をとる月というのが由来。
この頃は麦が熟して麦にとっての収穫の“秋”であることから、「麦秋(ばくしゅう)」とも呼ばれています。
また、「花残月(はなのこりづき)」という異名もあります。これは、北日本では桜が残っている時期で、楽しむことができることからだそうです。
4月の異名には、美しい自然を愛でるだけでなく、昔から農耕を進める上でも重要な季節であることが感じられますね。
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語源由来辞典というのがあるんですね。インターネットコンテンツ企画制作のルックバイスという会社が提供する「語源由来事典」の卯月/うづきによると、「卯月の異名・類語」は———卯の花月/4月/April/梅月/仲呂/陰月/夏半/初夏/首夏/孟夏/清和/夏端月/木の葉採り月/正陽/正陽月/花残り月/花残し月/祭月/鳥待月/乾月/乏月/余月/実沈/得鳥羽月/巳/巳月/巳の月/建巳月/四月尽———だそうです。
この「卯の花」が4月の名のチャンピオンなんですね。そんな偉い花だとは思っていませんでしたね。

鋸山
【撮影】10時25分=伊藤 幸司=042
「卯の花」さまの、林道脇のお姿がこれでした。
念のためにウィキペディアでウツギを見てみました。———ウツギ(空木、卯木、学名:Deutzia crenata)はアジサイ科ウツギ属の落葉低木。別名はウノハナ。エングラー体系では、ユキノシタ科で分類される場合もある。———というんですね。そして———和名のウツギの名は「空木」の意味で、幹(茎)が中空であることからの命名であるとされる。花は卯月(旧暦4月)に咲くことからウノハナ(卯の花)とも呼ばれる。———ですって。

鋸山
【撮影】10時26分=伊藤 幸司=043
私たちが歩く山の多くは首都圏の里山ですから、里を過ぎて山裾にかかると、しばしばこういう施設の脇を通り抜けます。少なくともここまでは車の通れる道が整備されているんですね。ここにあったのは「鋸南町浄水場」です。
あまり期待していませんでしたが「鋸南町浄水場」で調べてみたら鋸南町のホームページに水道水ができるまでという詳しいイラストつきの解説がありました。———水道の水源は、川の水、ダムに貯めた水、地下水と大きく三つに分けられます。それらの水を安心して飲める水にするために浄水場へ運びます。鋸南町の水道は、鋸山ダム、元名ダムに貯めた水と、利根川水系である南房総広域水道企業団からの受水でまかなっております。———
標高約45mの鋸山ダム(重力式コンクリートダム)はこの先にあるとわかっています。元名ダム(ロックフィルダム)は根本という集落から日本寺へ登る道から分岐した標高約100mのところにあります。そしてもうひとつ「鋸山湧水」というのがあるそうですが、それは多分、この林道の奥のように思われます。
ここでは混和池→急速撹拌池→緩速撹拌池3つ→沈殿池→急速濾過池3つを経て浄水池へ、そこから配水池へとポンプアップして各家庭に排水しているそうです。

鋸山
【撮影】10時27分=伊藤 幸司=045
ここにも卯の花(ウツギ)がありました。樹げむ舎の「樹木と野草の写真」にあるウツギによると、———山野の、日当たりの良いところに普通に生える。また、畑の境の生け垣や、庭木として植えられる。幹は高さ2mになる。6月になると、丹沢の沢沿いや、林道沿いが、白い花でいっぱいになる。このウツギだけでなく、ヒメウツギやガクウツギ、コゴメウツギ、ツクバネウツギなどが競争して咲いている。ウツギの展覧会のようだ。———とのこと。

鋸山
【撮影】10時27分=伊藤 幸司=046
みんなの花図鑑のウツギ(ウノハナ)空木によると、その花の特徴は———枝先に円錐花序(下のほうになるほど枝分かれする回数が多く、全体をみると円錐形になる)を出し、白い花を垂れ下げてつける。 花弁は5枚、雄しべが10本、花柱(雌しべ)は3、4本ある。 雄しべの花糸には狭い翼がある。———とのこと。そして———葉は細長い卵形で先が尖り、向かい合って生える(対生)。 葉の長さは3センチから6センチくらいである。 葉の縁には浅いぎざぎざ(鋸歯)がある。———とのこと。
鋸山
【撮影】10時29分=伊藤 幸司=049
足元に、この写真ではよくわかりませんが、小さな流れがありました。このすこし上流に鋸山ダムがあるのでその流れの一部が足元で青く光っているというのはすぐにわかりましたが、この流れの名前は地形図にはありません。保田駅のすぐ先、私たちが線路をくぐったところから海に注いでいるのですが、無名。「ダムマニア」というサイトの鋸山ダムによると、———千葉県の観光名所、鋸山の麓にあるダム。意外にどっしりとした重力式コンクリートダムで、副堤体までもっている。注意点としては、近くに養蜂場があるので蜂に刺されないように気をつけてほしい。———とのこと。
そのスペック表によると———
ダム名……鋸山(のこぎりやま)ダム
ダム型式……重力式コンクリート
河川名/水系名……元名川/元名川水系
所在地……千葉県安房郡鋸南町元名字平山1509-3
位置……北緯35度09分10秒 東経139度50分46秒
着工年/完成年……1960年/1962年
用途……上水道用水
堤高……19.1m
堤頂長……55.0m
堤体積……4,000立方m
流域面積……2.5平方km
湛水面積……2ha
総貯水容量……147,000立方m
有効貯水容量……131,000立方m
ダム湖名……なし
管理……鋸南町
本体施工者……三井建設
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ということで、「元名川/元名川水系」ということがわかりました。浄水ネットワークにあった「元名ダム」とひとからげ、という感じなんでしょうか。

鋸山
【撮影】10時29分=伊藤 幸司=050
タラタラと、という感じですが、これだけの緑に囲まれていると、悪い気分ではありません。ちょっともどかしい感じではあったかもしれませんが。

鋸山
【撮影】10時31分=伊藤 幸司=053
ここでくぐったのは東関東自動車道館山線です。保田駅から30分の距離ですね。

鋸山
【撮影】10時32分=伊藤 幸司=055
「通行禁止」の表示がありました。「大規模崩落により」といわれても、困るんです。おそらくこれは車に対しての表示だと思うのですが、歩行者も通行できないほどの道路の破損があったのか、とも思われます。
私はだいたいいつも、このような状況では「行けるところまで行ってみる」という姿勢で対応することにしています。
多くのグループ登山では責任者が情報を集め、必要なら「偵察」に出て安全を確認し、計画を確定するというのが常識だと思います。それからすると私はいつも準備不足の状態で出発してしまうのです。
どういう考え方をしているかというと、非常事態に遭遇したら、行動を「偵察」に切り替える、と考えるのです。これは登山ルールとしてはほぼ非難の対象だと思うのですが、私が育った「探検」というジャンルでは、想定外のことが起きたら「偵察」する、というのが定石でした。非常事態での対応力が「実力」だと考えていたからです。もちろんそれは「怠慢」に対する弁護かもしれませんが、糸の会では当初から「偵察」をしたことはありません。
ただ、たとえばこの標識を見ながら「行けるところまで行ってみる」と決めた以上は「行けなかった」場合に残りの時間とエネルギーをどう使うか、ということに関しては、いろいろな想定をしながら「前進」するので、リーダーとして重圧を感じないわけではありません。
行ってみないとわからないということで「台風でも出かける」という体験を何度もすることができました。安達太良山で台風がくろがね小屋の真上を通過していきましたし、剣岳の手前、剱御前小舎では(みなさんが)小屋が飛ぶかと思ったという夜を過ごしました。伯耆大山では山頂で日本海を進んでいた台風が接近して、一人が木道から吹き飛ばされました。あるいはまた大泉清里スキー場から県界尾根で赤岳に登ろうとした日、(登山はもちろん諦めていましたが)樹林帯をできるだけ上まで行って台風を見てみようとしたところ、突然ドッと風雨が襲って、沢はもちん登山道もたちまち濁流となりました。
台風を見るという体験は、ときには登頂すること以上の大きな体験になると考えていましたから、私は最終的な「安全」を考えつつ、ぎりぎりまで「見に行く」努力をしてきました。
さて、今日、これからどうなるか? 波乱とともに、期待もいだきながらこの看板を見たのです。

鋸山
【撮影】10時37分=伊藤 幸司=062
「大型車進入禁止」という立て札があったのは保田駅と稜線上の分岐点となる「林道口」(ヘンな名前ですけれど)との中間地点、2.3km来て、残り2.3kmというところ。その後すぐに鋸山ダムになりました。この地点は林道が標高50m等高線のところにあり、国土地理院のデジタルマップで湖面の標高を求めると「44m」と出ました。
林道についての立て札もあって「林道金谷元名線」というのだそうです。鋸山をはさんで北側の富津市金谷と南側の鋸南町元名を結ぶ林道でその最高地点が「林道口」なんですね。
元名(もとな)という地名はこの川の名でもあるようです。国土地理院の地図では地区名(でしたっけ?)で、大字名や旧村名を忍ばせてくれますが、鋸南町のホームページやウィキペディアでは保田地区(北部)、勝山地区(南西部)、佐久間地区(南東部)の3地区に分けられているだけです。
そこで「南房総いいとこどり」で鋸南町の市町村合併史を見てみると、ありました。1889年(明治22)に元名村、本郷村、大帷子村、吉浜村、大六村、江月村、小保田村、市井原村、横根村の9村が合併して平郡保田町となったのだそうです。いま、元名地区はJR保田駅の脇から日本寺を含んで鋸山稜線まで、つまり今日私たちが歩こうとしているほぼ全域をカバーしているようです。

鋸山
【撮影】10時43分=伊藤 幸司=070
じつはここで男性登山者2人とすれ違いました。しばらく前には女性の単独登山者ともすれ違いました。挨拶はしましたが「通行できますか?」なんてことは私も、先を行くみなさんも聞きませんでしたし、先方もなにも触れませんでした。あれこれ聞く人がいますが、どうでもいい情報を無駄に集めても気分がドラマチックになるだけです。
おかしな例になるかもしれませんが、登山道を歩きながら足元や頭上の障害物を親切に教えてくれる人がいますね。意味のない親切、最悪のサポートです。でもそれが命に関わる危険だとか、うかつにドジる人がいたらなにか関連するところで困る状況になりそうなら、それを危機管理的に考えた人がコントロールすればいいのであって、小さなドジを体験するチャンスを潰して「親切」だなんて考えている人のおせっかいは、困ったものです。
そういうことがだいたいみなさんに伝わっているので、余分な情報収集はなかったようです。前方をゆく皆さんには。

鋸山
【撮影】10時44分=伊藤 幸司=071
卯の花(ウツギ)の凶暴な顔つきが見えてきた光景、のように思いました。勢力を拡大していく途上なのか、押し込まれているのかわかりませんが、元気にもみ合っている顔つきに見えました。

鋸山
【撮影】10時45分=伊藤 幸司=072
ここでは卯の花は、自分の居場所を確保した落ち着きを感じさせていましたね。

鋸山
【撮影】10時45分=伊藤 幸司=073
卯の花の元気な顔つき、に見えませんか?

鋸山
【撮影】10時45分=伊藤 幸司=074
なんだか、どこまでものんびりと歩く(だけ)という感じがします。当然、先を急ぐという気分も薄れて、みなさん、なにか、話の方に花が咲いているみたい……。

鋸山
【撮影】10時49分=伊藤 幸司=077
「うつろ株式会社 鋸南支店」という大きな看板があって、すぐにこの風景に。うつろ株式会社の本社は神戸市東灘区とあって、住所に加えて電話番号とファクス番号もありました。前に来たときには、ダンプカーが出たり入ったりする広大な斜面でした。ちなみに「うつろ」は「空」だそうですが、「うつろ株式会社」のホームページを開くと———未来につながる環境開発、再資源活用できる素材を有効活用する企業です———とあって、問い合わせのための申込み欄があるだけです。
この風景は、以前は裸の斜面が眼前にあるだけで、その奥は謎に包まれていましたから、山を崩しているのか、山をつくっているのかわかりませんでした。
今回調べてみると鋸南町のホームページに「鋸南町元名採石場跡地撮影について」があって、今までの主な撮影作品紹介というのがありました。
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■映画作品……○ふしぎな岬の物語 ○252生存者あり ○テルマエロマエ ○隠し砦の三悪人 ○謝罪師 ○バンクーバーの朝日 ○どろろ ○世界の中心で愛を叫ぶ ○新解釈・三國志 ○弱虫ペダル
■ドラマ……○Jin ○相棒 ○麒麟が来る ○ドラゴン桜2
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そういう場所でもあったんですね。
ちなみに、町のこの広報欄に林道元名金谷線の通行止めについてというのがありました。私は出発前に見ていませんでしたが。
———令和4年5月20日に現場確認の結果、新たに林道元名金谷線にて大規模な土砂崩落が確認されたため、当面の間、歩行者・車両ともに通行止めとなっています。崩落の原因についてはまだ不明ですが、土砂のえぐれた部分が斜面の上部に一部残っており、危険な状態が続いておりますので、現場付近への立ち入りもお控えください。
なお、崩落箇所は鋸南町側にあり、富津市(金谷)側での登山をお楽しみいただくことは可能です。
徒歩で鋸南町側へ抜ける際は、日本寺境内内を通り、表参道管理所をご活用いただくようお願いいたします。
境内を抜ける際には拝観料がかかりますので、詳細は下記HPにてご確認をお願いいたします。———

鋸山
【撮影】10時50分=伊藤 幸司=081
鋸南町元名採石場跡地は鋸南町の管理地となっていますが、その表玄関のようなところに林道封鎖のバリケードがありました。
———林道金谷元名線・崩落の為車輌通行できません・鋸南町農林水産振興室———
この左手にある道標には保田駅から3.2km、林道口へ1.4kmと書かれています。

鋸山
【撮影】10時54分=伊藤 幸司=085
鋸南町元名採石場跡地から先、林道は舗装ではなくなりました。でも林道としての雰囲気は、じつはいい、というほうに変わりました。
それは私たちがいわば「オフロード・ウォーカー」で、舗装された林道を歩くより未舗装のほうが足に優しいということを体が知っているからです。足元から目を離せないようなオフロード(登山道)をていねいに歩くことで、頑張るときにはいつも頭からの素人っぽい命令に従属している脚部により多く、自由が与えられるのです。なぜなら無知で心配性の頭脳より、目と脚とのシンプルな連動のほうが、からだのバランスを崩さずに、自然なリズムになりやすいからです。
ところがこの道で「人生初」の体験をしている人たちがものすごく多いらしいのです。首都圏では有名な「オフロード・ルート」らしいのです。
「ヤングマシン」という雑誌のサイトに超オフロード初心者が行く!! 初めての林道ツーリング〈千葉・林道金谷元名線レポート〉というのがありました。2021年3月の記事ですね。
———長年オンロード走行を楽しむライダーの中では、未舗装路の林道やちょっとしたダート道などを走る、いわゆる”オフロード走行”を一度もしたことがないという人はけっこう多いのでは? そんなオンロード走行オンリーでバイクライフを楽しんできたオフロード走行未経験者を代表して、オフロードマシン総合誌『ゴー・ライド』の編集スタッフ・だいじろーが、初めての林道ツーリングに挑戦した。その記念すべき地は、千葉県の有名林道・林道金谷元名線。超・オフロード初心者目線での林道レポートは、これからオフロードデビューする人は必見。詳細地図もついてるゾ! ———
この『ヤングマシン』も『ゴー・ライド』も知りませんが、内外出版社なら1988〜89年に『オートメカニック』という雑誌で「パーツうんちく学」というのを13回連載しました。私は車好きではないので、自分が運転する場面に関わる文章はまったく通用しないとわかっていましたから、タイヤから始まってペイントまで、部品の技術を取材させてもらいました。
話は大きく脱線しますが(加藤文太郎に関係しますのでお付き合いください)、クルマの取材で京都の三菱自動車の京都工場で取材したことがあります。ファイルから出してみるとベネッセコーポレーションが「ビーパル」にぶつけて創刊したという「グッディー」の創刊号(1996年5月号)の付録「ライトデューティ図鑑」の文章を全部書いたみたいですね。そして1997年の1月号で三菱自動車のGDI(ガソリン・ダイレクト・インジェクション)エンジンの取材をしたのです。「少食ながら力持ち。究極のエンジンに一番乗り」というタイトルでした。当時エンジン設計部主席の野間一俊さんの話で、びっくり仰天が起きたのです。
話は1970年の米国マスキー法(空気清浄法)をクリアすることで日本車が世界戦線をリードしたというところから始まったのですが、———燃焼室内に台風の渦のようなヨコ渦をつくって、ガソリン成分を中央に集めるという考え方が主流だったが、三菱自動車は、上下にまわるタテ渦にこだわった。———
そのことによって、———いまはこのエンジンに陽が当たっているが、じつは長い間、日陰者だった。———という話から始まったのです
その、1970年代には出遅れたタテ渦式が、———1980年代の終りごろから、燃焼室の内部の様子をくわしく観察し、シミュレーションできるようになったのです。そのような基礎的な研究を進めていくうちに、たどり着いたところがGDIだったのです———
そのとき、私は加藤文太郎という名を思い出したのです。野間さんが知らない登山史の悲劇のヒーロー。私は強引に、こういう文章を加えました。なにせ「ビーパル」がライバル誌でしたから。
———昭和6年(1931)に三菱造船神戸造船所でディーゼルエンジンの画期的な発明をして製図工から技師に昇進した加藤文太郎という人物をご存知だろうか。そう「単独行」で有名なあの加藤文太郎だが、社内の山岳部で山歩きをはじめて、サラリーマン登山家ながら冬の北アルプスに超人的な足跡を残したのだった。
新田次郎の「孤高の人」を読むと、彼が野口五郎岳で雪洞を掘って吹雪を避けていたとき、破れ天井から吹き込んだ雪片を見て、シリンダー内に噴射された重油を効率的に霧化するピストンヘッドの形状にひらめきを得たとある。それは山形のピストンヘッドの元祖というべきもので、噴射された燃料がタテ渦をつくり、空気とうまく混合するというアイディアだった。———
当時加藤文太郎のこの新技術は日本海軍の軍艦のエンジン出力に革命的なものとなったのですが、神戸造船所は大正6年(1917)に日本最初の量産型乗用車「三菱A型」を製品化しており、昭和7年(1932)にはガソリンエンジンを積んだバス「ふそう」を世に出すという、最先端の自動車製造工場でもあった……という話です。

鋸山
【撮影】10時59分=伊藤 幸司=086
ここではじめて本格的な休憩をとりました。保田駅を出発したのが10時00分でしたから、1時間の行動で10分休憩、しかも林道歩きですし、それも3.5km弱。気温は15℃なんですね。標高差では約90mに過ぎません。まだ登山道の入口にも立っていませんが、こうして「撮ってしまった写真」を1枚1枚めくってみると、退屈なんてしていません。濃密な1時間だったと思います。もっともキャプションを書くために何時間もパソコンに向かっているのでそのほうがうんと疲れるといえばそうなんですが、「撮ってしまった写真」に対して決着をつけるためにネットサーフィンをするという方法は、旅に旅を重ねるという意味で、いままでのところ飽きていません。
さてこの場所ですが、国土地理院のデジタル地図では非常にわかりやすい場所です。100m等高線のところにあって、小さく、キュルッとカーブしているところです。そのキュルッとしたカーブは次の写真に写っています。

鋸山
【撮影】10時59分=伊藤 幸司=087
前の写真を撮った位置でほぼ90度右にカメラを振った写真です。ここがヘアピンカーブになっていて休憩場所の先で今度は左にキュルッと曲がるのです。地図にはすぐそばに無名の池が描かれていますが、私たちにはまだ見えていません。

鋸山
【撮影】11時13分=伊藤 幸司=091
みごとなS字カーブを抜けてしばらく行くと、隠れていた緑の池がチラチラと見え始めました。国土地理院の地形図には名前がないのですが、もうすこし状況を確かめたいと思ってグーグル・マップの航空写真で見てみると、まさにその写真が鋸南町のホームページにありました。撮影可能区域内写真とともにある「採石場図面」で、まさにこの池を含む一角がその「撮影可能場所」とされています。黄色い範囲を「撮影禁止区域(崩落危険のため)」と説明している文字のところに見えるS字カーブが先ほど休んだところです。
これが「鋸南町元名採石場跡地撮影について」というページで、———基本的に365日、24時間撮影可能です。ただし午前8時30分から5時15分以外の時間帯で大音量・夜間照明を伴う場合は事前に周辺住民への説明を行い、了承を得てください。喫煙可否…可、スモーク使用可否…可、火気使用可否…可
*火気使用の際は必ず管轄の消防署に届け出をしてください。———
使用料は———10万円/1日(現金でお支払いください)———とのこと。
壮大かつドラマチックな結婚式もできそうですね。

鋸山
【撮影】11時13分=伊藤 幸司=095
この池のまわりに「砂漠」状の起伏があって、それを利用して派手な爆破シーンなどの撮影ができる……というようなことなんですね。「採石場」ですから山を掘ってできてしまった池ということなんでしょうね。

鋸山
【撮影】11時14分=伊藤 幸司=097
出てきました。崩落現場です。さて、行けるのか行けないのか、今日一日の運命がこの瞬間にかかってきました。

鋸山
【撮影】11時17分=伊藤 幸司=100
ここで私は最後尾から写真を撮っていますが、到着したとき先頭に出て崩落した岩を見たら、けっこう人が歩いています。オフロードとしての登山道では、このような崩落現場を抜けることは(稀にですが)あるのです。岩たちを怒らせないように、ソロリ、ソロリと歩く道が、けっこうはっきりとできていました。

鋸山
【撮影】11時20分=伊藤 幸司=104
崩落部は林道を完全にふさいでいましたが、落石はかなり安定して、上部も落ち着いていると見えました。この林道が現在どれほどの資源価値をもっているのかわかりませんが、ここを開通させるには再発防止の策も必要でしょうからかなりの経費がかかるはずです。以前ならあっという間に法面(のりめん)の補強をして開通させたのでしょうが、最近では山奥までタクシーを呼べた林道が、どんどん少なくなっています。そういう時代の流れだと、ここも首都圏有数の初級オフロードバイクの人気ルートから脱落していくのでしょうか。

鋸山
【撮影】11時24分=伊藤 幸司=112
ここにできた踏み跡道はこんなぐあいです。鋸南町のホームページでは———令和4年5月20日に現場確認の結果、新たに林道元名金谷線にて大規模な土砂崩落が確認されたため、当面の間、歩行者・車両ともに通行止めとなっています。———という記事が5月23日付けで出ていましたが、私たちは通行止めが歩行者にまで及ぶということを確認しないまま、ここまで来たのでした。

鋸山
【撮影】11時25分=伊藤 幸司=115
崩落現場から上方を見ました。雨が降れば。まだ崩落があるかもしれないという状況ですね。

鋸山
【撮影】11時27分=伊藤 幸司=117
崩落現場から下を見ました。採石場跡地の撮影場所ですけれど、むき出しの地面がどんどん緑に浸食されているんじゃないでしょうか。

鋸山
【撮影】11時29分=伊藤 幸司=119
下りにかかると、なんと、林道サイクリングのお兄さんが、我が淑女軍団に「お手をどうぞ」とレスキューしてくれていました。後ろの方の人は穏便に断っていましたが、先頭集団のみなさんはどうだったのでしょうか。オフロードサイクリングの人も、登山者のオフロード感覚からすれば、やっぱりロード派なんですね。私たちの安全を見守ってくれたあと、すぐに来た道を引き返していきました。

鋸山
【撮影】11時36分=伊藤 幸司=126
見上げたら、気持ちいい緑の葉が頭上にありました。足元にこの花があったので、おそらく、多分、この花の木だと思って撮っておきました。
こうして写真で見ると、道は簡易舗装という感じだったんですね。でもこの花がなんの木の花か、わかるはずもありません。そこでこの写真をグーグル・フォトのグーグル・レンズで撮ってみると「シナアブラギリ」と出てきました。当たりかどうかわかりませんが、解剖的植物図鑑というべき松江の花図鑑でオオアブラギリ(別名シナアブラギリ)を見てみました。するとやっぱりシナアブラギリだと———花弁は5〜10個、基部には褐紫色の筋がある。———とのこと。紅い筋が花の中心から花弁の先端に向かって無数にのびているのです。たまたまではなくて、全部が全部という感じで。
そこで「似た花」の「アブラギリ」を調べてみると、花弁が真っ白じゃないですか。ふたたび松江の花図鑑でアブラギリを見てみると———直径2cmほどの白い花をつける。開花後しばらくすると花弁の基部や花糸は紅色を帯びる。———とのこと。私のこの写真では花弁の基部に紅色があるかどうかはわかりませんが、花糸(雄しべの糸状の柄)が紅色になっています。振り返れば「シナアブラギリ」の解説の中には———アブラギリほど多くはない———とありましたから、グーグル・レンズがそちらから先に出してくれればよかったのにと思います。
ちなみに、(またまったく関係のない話になりますが)私が新聞広告で即座に買おうと決めたワープロは富士通のOASYS Lite(1984年・22万円)でした。当時私は創刊間もないダイヤモンド社の「ダイヤモンドBOX」という電子文房具のビジュアル雑誌の仕事(カメラ、文具、アウトドア用品など)をしていましたから、たちまちワープロ・ライターとなって、いま見るとへんてこな企画をいろいろやっていますね。……そのときに痛感したのは利用し始めた日本のデータベス(たとえば新聞情報なども)の検索が、1字1句合致しないと出てこないという決定的な不自由さでした。だからのちにアメリカ人が考えた検索システムがアバウトな検索を前提としていたことに、まずは笑ってしまい、その後雷に打たれたような感じとともに感服したのです。
アメリカで生まれる技術にはそういう突拍子もない野望(たぶん若者の無鉄砲なひけらかし)をエネルギーにしたものが多いと感じたものでした。
グーグルの検索システムがすごいのは「当たり」だけを拾い上げるのではなく、ゴミまで含めた引っ掛かりを無秩序に拾い上げてくれることで、私などはグーグル画面を何枚も開いておいて、気になったものはどんどん開いてしまいます。その検索画面を「同時に何枚も開く」のはしばらく前にはけっこう大変でしたけど。そのために、大画面を2面並べたパソコンの価値が高まったのです。グーグル・マップもそういう野望から始まったのでしょうが、グーグル・レンズも画像検索という巨像への新たな挑戦だと感じます。

鋸山
【撮影】11時37分=伊藤 幸司=128
見上げたらこの葉と花、とりあえず撮っておきました。帰ってからこの写真をグーグル・レンズで調べると「オオバキ、アブラギリ、バルサ、イイギリ、アカメガシワ属」と出てきました。
葉の形で見ると前の写真(伊藤 幸司=126)と同じアブラギリで、まさにこういう花のつき方をするようです。
スマホの画面ではとりあえずトップ候補のウィキペディア画面が続いて出るようですからここでは「オオバギ(オオバキ)」が出てきましたが、それで確定できる感じではありませんでした。家で候補全部をきちんと調べてみることで納得のいく回答が得られたら(とりあえず)信じる、という程度の対応が必要だと思います。この機能はグーグル検索そのものの「画像」提示の質の向上に大きく寄与するだろうと思うので、しばらくすると、本家のそちらの機能で驚くほどの性能アップが見られると思われます。当面は「答えを得る」というよりは「候補を出してもらえる」という価値に感謝して使わせてもらいたいと思います。

鋸山
【撮影】11時38分=伊藤 幸司=131
これがアブラギリの全身像。ウィキペディアのアブラギリによると、
———種子から桐油(きりゆ、tung oil)と呼ばれる油を採取して塗料などに用いる。———
———種子から採れる桐油は不飽和脂肪酸を多く含む乾性油であるため、塗料や印刷インキ、油紙の材料として盛んに使われた。———
———現在は油の原料としてアブラギリでなく中国原産のシナアブラギリ(オオアブラギリ、A. fordii)を使う。これはアブラギリより大型で、葉の蜜腺には柄がなく直接つく。この油は中国などから多く輸入されて家具の塗料などに使われている。———
———台湾で『桐』という字はアブラギリを指す。台湾を代表する植物である。———

鋸山
【撮影】11時41分=伊藤 幸司=138
あの崩落事故現場と、この落石現場の2つが、この日の林道では異変でした。林道では落石が珍しくありません。それを塞ぐために網を張ったり、コンクリート壁を設けたりしているところもたくさんあります。バスが通る南アルプスの林道では崩落事故がいつ起きてもおかしくないような、構造的な危険を抱えている様子がシロウト目にも明らかだったりします。
あるいは道路際の崖の岩が剥がれ落ちるというのではなく、道路工事と直接関係のない上部で起きた崩落が林道まで巻き込んだという例もあります。
1997年3月22日に、私たちは奥多摩駅から丹波行きのバスで御祭下車、後山林道を3時間歩いて三条の湯へと向かっていました。翌日は雲取山という計画でした。しかしそこで、ちょうど林道に上部斜面からの崩落が始まったのです。

鋸山
鋸山

上の写真は22日です。石がゴロゴロと落ちてくるので突破する気にならず、谷に下り、渡渉して、向こう岸を上流にたどって林道に登り返したのです。
下の写真は翌日。私たちは三条の湯から雲取山に登り、飛龍山から三条の湯に下って、再び崩落現場に戻ったのです。崩落は止まっていたものの、ずいぶん成長したもんだ、と思いました。
後にまたこのような崩落があったので、丹波バス停からサオラ峠越えで後山川の対岸を三条の湯に向かいましたが、そのとき後山林道の奥に閉じ込められたクルマは1週間出られなかったそうです。
また、この崩落のあった1997年当時には、奥多摩駅のタクシーは入ってくれませんでしたが、山梨県側の塩山のタクシーは「三条の湯まで行きます」と言っていました。……がその後だめになりました。

鋸山
【撮影】11時45分=伊藤 幸司=141
落石現場の先にこの切り通しがありました。ここで見られる地層がどのようなものか、簡単にわかる情報はないかと探したら、きわめて詳しい研究報告で、わたしにはまったくチンプンカンプンというものがありました。「林道金谷元名線」の地層を周囲と比べられる図面が何点も添えられています。産業技術総合研究所の地域地質研究報告の「富津地域の地質」で筆者は「中嶋輝充・渡辺真人」となっています。16ページからの「3.2 天津(あまつ)層」と28ページからの「3.3 清澄層」に「金谷元名林道」の「凝灰岩鍵層の柱状図」というのが何点も出てくるのですが、私にはワカリマセン。

鋸山
【撮影】11時46分=伊藤 幸司=144
切通の壁面はコンクリートで固められていましたが、びっしりと苔に覆われていました。

鋸山
【撮影】11時47分=伊藤 幸司=145
ここにも壁面からの崩落があったようです。大型の土嚢袋が積まれていました。私にはサイズも価格もまったく想像つかないので調べてみると、たとえば「耐候性大型土のう袋 土嚢袋 黒 3年 2t 排出口付 丸型 トン袋 紫外線劣化防止 土木 河川 工事 土塁 水害 防災 10枚 サイズ 1100φ x 1100 mm」というのですかね。23,500円(10枚)とか30,770円(10枚)とか。

鋸山
【撮影】11時48分=伊藤 幸司=147
大型土嚢袋の先の切通しの壁面は(誰が考えたのか)造形作品になっていました。

鋸山
【撮影】11時53分=伊藤 幸司=152
崩落地点で私たちの通過に手を差し伸べてくれた自転車のお兄さんは、ここ「林道口」の鋸南町・富津市境界の「通行止め」を無視して下ってきたわけですね。
普通なら○○峠という名前があるべきポイントだと思うのですが、ここが「林道口」ですから、登山道と林道のどちらがえらいか、というなにか特別な理由があったのでしょう。
手前の3人に隠されてうまく見えませんが「林道南房総金谷元名線開通記念碑・千葉県知事 沼田武 筆」という立派な石碑があるんです。速報(発見写真旅)のほうには載せてありますが、じつは裏面が重要なのに、撮ってありません。過去の写真を調べましたがありませんでした。
ネットで探しても、その碑文はおろか、この林道開発の歴史に関係する文書も、まったく見つけることができませんでした。今回の林道通行止めに関する記事は行政機関からのものも、オートバイ・ライダーたちのものもわんさとあるのに。ちなみに沼田武知事の在任期間は1981年(昭和38)から2001年(平成19)の5期20年にわたりますから、この林道がそのいつか、に開通したということだけは明らかです。

鋸山
【撮影】11時57分=伊藤 幸司=161
林道より登山道のほうがいいな、と思ったのは、たとえばこのキノコ。なんというキノコか知りませんが、暗い林内でスポットライトを浴びて、理由はともかく、ドラマチックじゃないですか。今日始めての登山道ですから、ホッとしたのは事実です。

鋸山
【撮影】11時57分=伊藤 幸司=162
この写真をグーグル・レンズで写してみると日本語名では「キウロコタケ」と出てきました。さっそくグーグルで調べてみると、どうも黄色っぽく写ってしまったのでキウロコタケとなったのであって、いろいろなポーズのものを見ると、これは「チャウロコタケ」みたいだと思いました。するとほぼ日刊イトイ新聞に「不正解、食べられません チャウロコタケ」という記事がありました。「食べられる-きのこの話」というシリーズなんですかね。いつの記事で、どなたが書いたものかわかりませんが、なかなかの文章ですね。長い文字空間になりますが、ここでは改行、行空きなど一切手を加えずに、全文を引用させていただきます。私はこの「ほぼ日刊イトイ新聞」をほとんど読んでいませんから仕掛けがわかっていませんが、無署名原稿ということは御大の記事かもしれませんよね。
———
かつての、チャウロコタケの、
分類的な位置づけ?は、

菌界
真菌門
担子菌亜門
真正担子菌綱
帽菌亜綱
ヒダナシタケ目
ウロコタケ科
キウロコタケ属の、チャウロコタケでした。

ところが、
現在の一般的な分類では、

真核生物ドメイン
菌界
担子菌門
ハラタケ亜門
ハラタケ綱
ベニタケ目
ウロコタケ科
キウロコタケ属の、チャウロコタケです(笑)。

科学の進歩によって、
きのこの分類にDNAの情報が活用されるようになり、
今までの「見た目」による分類は、
ほぼ終焉を迎えつつあるそうです。

生物の分類は、
数年前に出た図鑑がもう時代遅れ、という感じで、
凄まじい勢いで再編が進んでいます。

ハラタケ鋼ベニタケ目と言えば、
ドクベニタケとか、クロハツが思い浮かぶのですが、
そう、DNAの情報によるならば、
チャウロコタケは、その仲間ってことです。
形に共通性がまったくないとすれば、
どういう関わりがあるのでしょう?

とはいえ、きのこファンのみんながみんな、
きちんとした分類学的知識を必要としているではなく、
図鑑などで種名を調べるときに必要なレベルであれば、
「見た目」の同定能力も、まだまだ有効です。

それに、ぼくが、きのこの写真を撮る場合は、
生態や分類がどうのこうのよりも、やはり、
きのこの美しさや、可愛らしさなどなど、
この先も「見た目」重視なのは間違いありません。

さて。
チャウロコタケは、
広葉樹の枯木や枯枝からたくさんまとまって発生します。
多年生ではないのですが、固くて腐食しづらいのか、
ほぼ1年中姿を見ることができます。

半円形のきのこが幾重にも重なって、
魚の鱗みたいに見えることからの命名ですね。

傘の半径は1~5cmくらい。
厚さは0.5~1mmほどで、ぺらっぺらです。
表面をよく見ると、
密に短毛が生えている白っぽい部分と、
毛のない赤褐色~暗褐色の部分が交互になって、
環紋を描き出しています。

裏側は平滑で、白灰色~黄灰色です。

写真で緑色に見えているのは、藻類です。
発生してから時間が経つとどんどん緑色になり、
写真のモデル的にはすごくきれいになります(笑)。

食不適。
まるで皮のように固くて食べるには値しません。

ま、分類が変わったとしても、
フィールドのきのこには何も関係ないわけで、
ぼくは、相も変わらず、
かわいい、きれい、ちょっと気持ち悪い、
阿寒のきのこたちの写真を、
撮り続けていきたいと思っています。
———

鋸山
【撮影】11時57分=伊藤 幸司=163
この雰囲気は房総ではよくある感じですから、道筋を注意深く見通しながら進まないと、一瞬にしてやっかいな道迷い状態になりかねないのです。しかしここは単純な稜線の一本道ですから、赤テープが意外な方向へと導く場合があったら見逃さない、というふうに進んでいけばいいのです。前方を行く仲間の姿は画面中央ちょっと左上の前方遥かにちらりと見えています。

鋸山
【撮影】12時01分=伊藤 幸司=169
鋸山山頂へと向かう稜線は、ここではずいぶん痩せてきて、登山道はそのてっぺんをたどりつつ、岩があればそれを巻くという感じになりました。

鋸山
【撮影】12時04分=伊藤 幸司=177
「林道口まで0.4km、鋸山山頂まで1.0km」という看板をすぎると突然展望が開けました。房総の山を歩いていると、海が見えるとものすごく嬉しい気分になります。自分と海との間には(低いけれど)何重にも重なる山並みです。

鋸山
【撮影】12時07分=伊藤 幸司=183
大きな岩の上にベンチがありました。展望台です。
この岩が鋸山を支えているのだと思いますが、よくわかりません。ここはまだ山頂ではなく山頂稜線ですけれど、千葉県立中央博物館の中央博デジタルミュージアムの空から見た千葉県(1987-88)に向斜軸の山 鋸山がありました。その写真解説によると、———安房・上総の境にある鋸山は、石切り場による山容の変貌が特異で、よく知られています。この山は、断面を考えると、ちょうど向斜軸の軸部が山の頂上に当たります。頂上の地層は、竹岡層という礫岩層ですが、やや硬い地層ですが、他の地域ではそんなに飛び出した山を作っているわけではなく、やはり向斜軸の軸に当たって圧縮されていることが、より侵食に対する抵抗性を強めているのかもしれません。———
この写真の岩の説明として正しいかどうかわかりませんが、鋸山の長い稜線(つまり09時46分に保田駅の跨線橋から撮った写真の、鋸山の、画面の端から端まで)がギザギザの歯を天に向けたノコギリに見立てられていたのだとしたら、同感ですね。この岩もノコギリの歯のひとつかも……。

鋸山
【撮影】12時08分=伊藤 幸司=185
足元に見えたのは11時27分に林道の崩落現場から見た、あの採石跡地の無名池です。

鋸山
【撮影】12時08分=伊藤 幸司=186
見えている島は保田平島。保田駅や保田漁港の沖合にある無人島です。その平島情報を探していたら、横浜から船で保田漁港へ行くルートが「東京湾の銀座」なんだそうです。横浜ベイサイドマリーナの「海遊び情報」の保田漁港に横浜ベイサイドマリーナからの航路案内がありました。……が、それは次の写真で。
遠くに見える小さな島が保田沖の「平島」です。

鋸山
【撮影】12時08分=伊藤 幸司=190
横浜ベイサイドマリーナの「海遊び情報」の保田漁港にあった航路案内はつぎのとおりです。
———
マリーナの水路を出たら、
(1) 磁針路155° で「観音崎」(2)の東方に向かいます。
(2) 観音崎灯台を磁針方位270° に見たら、磁針路175° に変更し、
(3) 浦賀水道航路の「第1灯浮標 (緑) の西方に向かいます。
(4) 第1号灯浮標に並列したら、磁針路160° に変針し、「金谷沖」に設置されている「定置網」の西方に向かいます。前方に勝山沖の「浮島」、左手の陸地には「金谷フェリー港」「鋸山」(のこぎりやま)が見えます。
(5) 定置網を確認し並航したら、磁針路131° に変針し、保田漁港の入口付近にある「平島」の立標に針路を向けます。
(6) 平島が視認できたら、保田漁港沖に設置されている「定置網」も視認できるので、必ず確認し、この定置網と平島との間を航行して、保田漁港入口に向かいます。
【注意】
*「観音崎付近」は、特に手漕ぎボーとが多いので、引き波をたてないように注意してください。
*「浦賀水道航路」の出入り口は大型船(本船)の行き来が多いため注意してください。
———
保田漁港に入ったら駐車ならぬ係留が「予約不可、先着順で事前連絡は必要」で日帰りで2,000円(30フィート以下)、3,000円(50フィート以下)、5,000円(50フィート以上)となっていて、さらに【泊まり・最長3泊まで】として、3,000円(30フィート以下)、4,000円(50フィート以下)、7,000円(50フィート以上)ということです。
食事は? たぶん同じ保田漁協直営の「お食事処 ばんや」で済ませて、必要なら24時間営業の「ばんやの湯」の利用も。泊まりたいならそこで素泊まり6,500円/2食付き10,800円……となっています。「ばんや」のキンメは伊豆の半額という感じですよね。

鋸山
【撮影】12時15分=伊藤 幸司=200
岩場では樹木が痛々しい姿で地表に根を張っていますが、表土が流されて根が浮き出てしまったと想像するのが一般的かと思います。そのあたりのことを明快に教えてくれる人はいないかとネットをぐるぐるまわってみたのですが、なかなかないですね。
「私の森.jp 森と暮らしと心をつなぐ」というサイトに森のクイズNo.97「根上り」はなぜ起こる?というのがありました。
———
盆栽や街路樹、森や庭園などでも見かける「根上がり」は、どのようにして根が地上に露出したのでしょうか。次のうち理由として当てはまらないのはどれ?
(1) 空気、水、養分の不足
(2) 倒木から芽を出し育った
(3) 根元の土が風雨で浸食された
(4) 菌類や寄生虫による奇形

答えを見る
(2) まず、森の中で見かける根上がりは、古い倒木や根株の「上」から芽を出した木が成長し、根はその倒木や根株を覆うように伸び、
(4) やがて倒木は微生物に分解されて土に還るので、結果、根が地上に露出した状態になります。
盆栽の根上がりは、このような状態を人為的につくりだすようです。
(1) 街路樹の場合は、道路の舗装の下で空気と水、養分の供給が行われず、根はこれらを求めて遠方へ伸びて行く。根は長くなればなるほど根元が太くなり、根上がりが発生するといいます。
(3) 一方、浜松市天然記念物に指定されている「根上がり松」は、根元の斜面の土砂が長年の風雨で浸食されてできたとされています。「兼六園」の名物の一つである「根上松」の場合は、加賀藩13代藩主 前田斉泰が、土を盛り上げて若松を植え、成長後に土を除いて根を露出させたと伝えられています。
———
知りたいのは、こういう根を、踏んでも許されるのか、許されざる悪行となるのか、ですけれど。

鋸山
【撮影】12時21分=伊藤 幸司=202
マムシグサだと思いますが、肉穂花序と呼ばれる花を独特の仏炎苞が包んでいれば、その先端から長い釣り糸を風になびかせたウラシマソウとか、屋根付きの容器のような仏炎苞のかたちでミミガタテンナンショウとか大きな違いは見えるのですが、このように実をつけてしまうとわかりません。「テンナンショウ属」といえば当たらずとも遠からずではあるのですが、マムシグサと言って間違えるほうが気が楽だと思います。「boo-bee.cool.coocan.jp/」の「マムシグサ/ミミガタテンナンショウ/ウラシマソウ/ムサシアブミ/ユキモチソウ」には次のように書かれています。
———日本にあるテンナンショウ属では、マムシグサの仲間がよく見受けられます。マムシグサは、薄暗い林内に生えることが多く、仏炎苞は、暗紫色または緑色で、白いストライプが入ります。 仏炎苞の位置は、葉よりも高くなり、肉穂花序の付属体は棒状をしています。花茎(偽茎)には黒紫色の斑紋があり、葉は2枚、鳥足状複葉で小葉7枚以上からなります。———
その「葉は2枚、鳥足状複葉で小葉7枚以上からなります」という部分はこの写真にかなりうまく写っていて「鳥足状複葉」というののおもしろさがわかります。

鋸山
【撮影】12時22分=伊藤 幸司=204
11時54分に「林道口」を出発しました。11時58分に0.2km地点、12時03分に0.4km地点、12時11分に0.7km地点ときて、その中間点からさらに11分のところです。つまり、おおよそ30分経っています。この調子だと山頂までまだ30分、時速1.4kmの稜線歩きは、標準的な登山道の登りと、高速で気分良く歩けている楽しい稜線歩きの中間的なもの、のようです。林道口の標高が約190m、山頂が329mですから標高差は約140mあるんですね。

鋸山
【撮影】12時23分=伊藤 幸司=207
このルートは関東ふれあいの道・千葉県no.26「東京湾を望む道」ですから、一般登山道とはひとランクちがう整備がなされています。保田駅から鋸山山頂を経て石切場跡までが完全にその関東ふれあいの道となっていて、そこから私たちは日本寺境内に入って、最後はロープウェーで(富士山を見ながら)下ろうという計画。関東ふれあいの道は石切場からJR浜金谷駅へと下ります。
この道の状態は、過不足なしに「いい状態」だと思います。大がかりなメンテナンスはしていなくても、けっこうひんぱんに見回っている人がいるんじゃないかと感じました。(当たっているかどうかわかりませんが)

鋸山
【撮影】12時27分=伊藤 幸司=213
突然また、採石跡地の無名池が出てきました。殺伐・荒涼とした、はずのところに緑が生えているような気配ですね。ロケ地の図面を見ると写真の右側にけっこう広い「荒野」が広がっているはずなんですけれど……。

鋸山
【撮影】12時30分=伊藤 幸司=214
登って、登って、登って、という気分で撮っています。たいした山ではないはずなのに、気分がすっかりバテていたのかもしれません。地図で見る感じと、実際のアップダウンとの間にけっこう大きな食い違いがあって、前にここを歩いたときは簡単だった、としか思い出せません……という写真。

鋸山
【撮影】12時31分=伊藤 幸司=218
鋸山ダムの全貌が見えてきました。地図と見比べてみると上流側の1/4ほど(画面左側)が緑に隠されてしまっています。上流からの流れは左側から2本注いでいます。このダムにつてはダムマニアというサイトが断然くわしく解説してくれています。鋸山ダム———千葉県の観光名所、鋸山の麓にあるダム。
意外にどっしりとした重力式コンクリートダムで、副堤体までもっている。
注意点としては、近くに養蜂場があるので蜂に刺されないように気をつけてほしい。
【写真説明】
*下流より堤体を眺める。クレストゲートは自由越流式で5門。
*ダム湖より堤体を眺める。この角度からしか眺められなかった。
*堤体右側にある副堤体。左はダム湖、右は平地。この部分からの漏水があったため、副堤体を設置したのだろうか。
*ダム湖を眺める。中央奥に堤体が見える。
【スペック】
ダム名……鋸山(のこぎりやま)ダム
ダム型式……重力式コンクリート
河川名/水系名……元名川/元名川水系
所在地……千葉県安房郡鋸南町元名字平山1509-3
位置……北緯35度09分10秒 東経139度50分46秒
着工年/完成年……1960年/1962年
用途……上水道用水
堤高……19.1m
堤頂長……55.0m
堤体積……4,000立方m
流域面積……2.5平方km
湛水面積……2ha
総貯水容量……147,000立方m
有効貯水容量……131,000立方m
ダム湖名……
管理……鋸南町
本体施工者……三井建設
【水位】
設計洪水位……
洪水時最高水位(サーチャージ水位)……
平常時最高水位(常時満水位)……
洪水貯留準備水位(洪水期制限水位)……
最低水位……
【放流設備】
用途……余水吐
形状……自由越流式
サイズ……5門
放流能力……
【アクセス】
付近の元名ダムからのアクセス方法を記載させてもらう。元名ダムより、道をさらに奥へ進む。すぐに高速道路が目の前に現れ、道が2手に分かれる。この道を左折、さらに山へ向かう方面へ進む。1kmほど走ると右手に鋸山ダムが現れる。鋸山ダムから先は大型車両通行止め。軽自動車なら通行可能だろう。通行止めゲートの前が広場になっているので、ここに車をとめて見学するとよいだろう。ただし、付近に養蜂場があり、蜂がブンブン飛んでいるので注意されたし。
———

鋸山
【撮影】12時41分=伊藤 幸司=223
これが土留め型の階段の、比較的良好な保存状態です。雨水が流れてもすぐに左右どちらかに流れ落ちてしまうので浸食作用がそれほどひどくならないのだと思います。

鋸山
【撮影】12時50分=伊藤 幸司=238
鋸山山頂です。ほぼ北、すなわち東京湾の奥の方を見ているのですが、ランドマーク的なものはあまり見えない感じがしました。

鋸山
【撮影】13時04分=伊藤 幸司=242
鋸山山頂から北に見えるのは富津(ふっつ)岬です。先端部が富津公園で、手前側が富津海水浴場、向こう側が富津海岸潮干狩り場だということはグーグル・マップでわかりました。高い煙突が見えていますが、君津の火力発電所や日本製鐵の工場などが並んでいます。写真右端に向かって木更津〜袖ヶ浦〜市原〜千葉といった地名をつけた大工場が並んでいます。 残念なのは、東京湾の向こう岸が霞んでいたことですね。

鋸山
【撮影】13時06分=伊藤 幸司=1186
山頂では記念写真を撮ることにしていますが、手前にある皆さんの顔が出るようにすると背景の明るい風景は見えなくなり、背景の風景が見えるようにしようとすると、皆さんの顔が真っ黒になってしまいます。
もちろん、いちばん大事なのはそういう難点のある撮り方をしないことが第一で、つぎにカメラのフラッシュでみなさんの顔がきちんと見えるようにするというのが常道です。ところがなぜかフラッシュを補助光として使うというのがあまりうまくいかないで、「お客さんサービス」の悪い記念写真ばかり撮ってきました。今回はスマホで、機械任せのまま撮りました。さすがにカメラにまかせると、手前も遠景もそこそこ、納得できる範囲にまとめて撮ってくれたようです。

鋸山
【撮影】13時09分=伊藤 幸司=245
山頂から下ります。道標に「JR浜金谷駅(下山)」というのが関東ふれあいの道をたどるということ。「ロープウエー山頂駅」というのは、途中から日本寺境内に入るという選択肢になります。

鋸山
【撮影】13時17分=伊藤 幸司=253
山頂というのは遠くから見たときに周囲からいくぶんでも盛り上がった部分であるのが普通ですから、山頂への最後の登りがあったときには、そこから(大なり小なり)下りがあるというのが通常です。その場合、頭や体にはっきりとしたメリハリをつけてくれるので、それに対応すべく、山頂での休憩はいくぶんかでもメリハリをつけたものにしたいと考えます。つまり、気分一新の下りとして歩き始めたいのです。

鋸山
【撮影】13時19分=伊藤 幸司=256
下りはいいのですが、けっこう急な下りです。下ればそれだけで嬉しいのです。が、……

鋸山
【撮影】13時19分=伊藤 幸司=257
下がったと思ったら登り返す階段が待っていました。それも下がった急斜面と同じような急斜面。鋸山の、ノコギリの歯をいくつか越えていくんですね。
09時46分の、保田駅からの鋸山を見直すと、稜線上に白くくっきりと見えているのがロープウェーの山頂駅、そのすぐ右に3本ぐらい、ノコギリの歯が立っています。……ということはその右にある、(その写真では)必ずしもあまり高く見えない突起のひとつが鋸山の山頂だったということになります。

鋸山
【撮影】13時24分=伊藤 幸司=263
もちろん、また下りです。

鋸山
【撮影】13時28分=伊藤 幸司=265
そし、もちろん、また登りです。

鋸山
【撮影】13時31分=伊藤 幸司=271
「東京湾を望む展望台」というのがありました。鋸山の残りの部分にあるのが白い建物の鋸山ロープウエー山頂駅、それから電波塔が立っているのが「十州一覧台」、一番手前にあるのが「地獄のぞき」のある「瑠璃光展望台」です。

鋸山
【撮影】13時31分=伊藤 幸司=272
足元に見えているのはJR浜金谷駅とその周辺。海に突き出ているのが東京湾フェリーの金谷港です。

鋸山
【撮影】13時31分=伊藤 幸司=273
ここでは、浦賀水道の向こう側も見えていました。東京湾フェリーは金谷港から、対岸右手に張り出した観音崎のすこし左になる久里浜港に向かっていきます。

鋸山
【撮影】13時32分=伊藤 幸司=274
これは保田駅と保田漁港。今日私たちがスタートしたところですね。写真右手に切れてしまいましたが、保田平島があるはずです。

鋸山
【撮影】13時34分=伊藤 幸司=276
展望台にはすごく詳しい人がいて、いろいろ教えてくれました。

鋸山
【撮影】13時40分=伊藤 幸司=281
「東京湾を望む展望台」から再び急斜面を下ります。前方に見えているのは東関東自動車道館山線。保田駅から歩き始めたところでくぐりました。

鋸山
【撮影】13時43分=伊藤 幸司=284
なんとなく、垂直の岩の壁が見えてきました。ノコギリの歯の下りも、最後ですね。

鋸山
【撮影】13時50分=伊藤 幸司=290
垂直の岸壁です。まあ、上から一区切り、一区切り石を切り出してこんなふうになったのでしょうが、まあ、そこにはいろいろなドラマがあったのでしょう。そのまさにドラマチックな光景が、どんなふうなかたちで見られるかが、今日の大きな楽しみ、ということです。

鋸山
【撮影】13時50分=伊藤 幸司=291
この「分岐E」が重要なポイントでした。左に行くと「石切り場跡・岩舞台」なんですが、右手に下ると「車力道」というのがあります。「鋸山復興プロジェクト」の「車力道」によると———「車力道」は、鋸山から切り出された「房州石」を麓まで運び降ろした道です。石を運ぶ人たちは「車力(しゃりき)」と呼ばれ、主に女性だったそうです。一本80kg の房州石三本を一輪の「ねこ車」と呼ばれる荷車に載せ、石を敷いた急な坂道を、ねこ車の後ろを引きずりブレーキをかけながら下りました。車力道は、石を滑らせ降ろした「樋道」と共に、貴重な産業遺産の一つです。———
というので、この機会にひと目見ておきたいと思ったのですが、途中で納得しにくい道標が出てきたので10分後に虚しく戻りました。

鋸山
【撮影】13時50分=伊藤 幸司=292
この道を下ったんですね。

鋸山
【撮影】13時56分=伊藤 幸司=293
でもすぐに同じ道を引き返したんです。「車力道」の核心部まで何分ぐらい下ればいいのか、わかりにくい道標が出てきたからです。

鋸山
【撮影】13時59分=伊藤 幸司=294
戻る途中でこういう通路跡(と思われるものを)を見ることができました。
じつは向こう側の階段状のところが石切り場への正式の道筋で、こちらは車力道から覗いた感じになっています。これは「切り通し跡」だそうで、向こう側に写真入りの、雑誌の誌面みたいな案内板がありましたが、その「鋸山復興プロジェクト」の「切り通し跡」によると
———「切り通し」は岩壁を切り抜き作った道です。採石する際、良質な石材を求めて切り下ることになり、石切り場周辺が岩壁で囲まれた状態になります。そのため、石材やズリ(石の屑)の搬出道を作る必要があり、これを「切り通し」と呼び鋸山の至る所でみることができます。大規模な石切り場は「切り通し」を伴うことが多く、これを地元では「口抜き」と言いました。「切り通し」を通過すると石材を集積する「平場」があり、そこが石材を滑り下ろす滑り台である「樋道」の起点になるのが通例です。「切り通し」両側の壁面にも、石を切り出した跡が横縞模様となって残っています。———

鋸山
【撮影】14時00分=伊藤 幸司=295
再び「分岐E」に戻りました。

鋸山
【撮影】14時04分=伊藤 幸司=304
これが5分前に向こう側から見た「切り通し」です。

鋸山
【撮影】14時04分=伊藤 幸司=306
正面の壁から削り出すように切り出した石材を、この「切り通し」から「車力道」へと搬出したということのようです。

鋸山
【撮影】14時07分=伊藤 幸司=312
後になって気づいたのですが、池を過ぎたところでトップの人が、じつは「石切り場後(観音洞窟)」に入ろうとしていたのを、最後尾にいた私が(なぜかうかつにも声掛けをして)パスさせてしまったのです。みなさん、すみません。整備されている「石切り場跡」が観音洞窟、岩舞台、ラピュタの壁と並列的に3つあるということをきちんと理解していなかったのです。

鋸山
【撮影】14時08分=伊藤 幸司=313
こういう解説板が要所要所にあって、ひとりで来ていたら雑誌記事を読みながら現物を見るという、博物館のような気分になります。よく見たらこの解説板に「ネイチャーミュージアム鋸山」とありました。これが「石切り場跡(観音洞窟)」、つまり私がうかつにもパスを指示してしまった「石切り場跡その1」への入口にあったのです。

鋸山
【撮影】14時15分=伊藤 幸司=320
いよいよ「石切り場跡」へと入りました。厳密に言えば「石切り場跡(石舞台)」。垂直の壁が、上から下へと掘り下げられて出来上がったというふうには思えても、切り出した石をどのように搬出したのかというようなことを含めて、私にはまったく想像できません。
石切り場跡にはこの1本、高層ビル住人の顔つきでヤマツツジが咲いていました。

鋸山
【撮影】14時16分=伊藤 幸司=323
鋸山の房総石は東京湾という地の利を得て、大谷石の代替品として建築用材として普及したということですが、「大谷石と大谷をめぐる民俗」として「石切り方法と道具—手掘りから機械掘りへ」という栃木県立博物館名誉学芸員 柏村裕司さんによる解説がありました。大谷石は房州石と並ぶ江戸〜東京の二大建築石材です。
———
大谷石など凝灰岩の特徴の一つに強度が低いということがある。それゆえに溝が掘りやすく、強度が高い安山岩や花崗岩などの硬石に比べ採掘しやすいという利便性がある。大谷石の採掘方法について、大谷石採掘が生業となり規格品が採掘されるようになった江戸時代以降についていえば、手掘りの時代が長く続き、昭和 30 年代になって機械掘りへと変わった。
1 手掘り
頂がなだらかな部分が多い大谷の石山では、明治末頃まで露天掘りでの平場切りの方法がとられた。
(1)平場切り
まず最初に山始めと称し、地表に出ている部分の頂部のおうとつを鶴嘴で削り取り平坦にしてから、平坦面に図 1 のように規格にあわせ墨入れをする(線を引く)。なお、規格品の大きさは、長さの 3 尺(約 90cm)と幅の 1 尺(約 30cm)は共通で、厚さだけが 3 寸(約 9cm)、4 寸(約 12cm)、5 寸(約 15cm)、1 尺(約 30cm)等と異なる。そして3 寸のものをサントウ、4 寸をヨントウ、5 寸をゴトウ、1 尺のものをシャッカクとそれぞれ呼んだ。
次に切立と称し、墨入れした線に沿って鶴嘴または刃鶴で浅く溝を掘る。切立の溝幅は 1 寸 5 分(約 5cm)くらいであるが、石の厚さによって多少異なる。その後、さらに掘り出そうとする石の厚さに合せ溝を掘る。これを掘切りという。
掘切りが終わり、平場から最初の 2 本の石を起こすことをシツ抜きという。シツ抜きをする石の間の溝は、余り掘り下げないでおき、その溝に矢を 7・8 本間隔をあけて打ち込む。矢締で順に矢の頭を叩いてゆくと、やがて 2 本の石の底に割れ目が生じ 2 本の石が同時に浮き上がる。これで平場に段差が出来るので、その後は段差の下部に矢を打ち込み、矢締で叩いて割れ目を生じさせ石を起こす。平場切りは、この繰り返しで掘り下げる。
起こした石を規格品に仕上げる。まず両端のおうとつを柾切りで削り、次いで上下の狭い幅の部分の表面を両刃で削る。1 尺幅の表面に指し曲(物差)をあて、縁から 1 寸(約 3cm)の所に墨さしで印をつけ、その縁幅を両刃で削る。最後に中央部を鶴嘴で斜めに削り鶴目をつけて仕上げる。
ところで石切り職人の賃金は、切り出した石の本数で支払われた。したがって本数を増やすために妻や 12・13 歳くらいの男の子も石切りに加わった。墨入れ、切立、シツ抜き、仕上げは主の職人が行い、妻や子供には掘切りをまかしたものである。なお、一人前の石切の本数は、ゴトウに換算して平均 15 本くらいであったという。
———

鋸山
【撮影】14時16分=伊藤 幸司=324
「ネイチャーミュージアム」ということだからでしょう。錆びたキカイもありました。
ここで切り出された房総石を、広い視野で見たレポートが平塚市博物館ホームページの石材図鑑凝灰岩類2(鎌倉石・房州石)にありました。「平塚の街でみられる地球の歴史」というシリーズのようです。かなりていねいに撮られた写真つきです。
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▲鎌倉石
 鎌倉石は、この鷹取山の地層の西方延長部にあたる池子層から切り出した石材で、黄褐〜褐〜青灰色の凝灰質粗粒砂岩や、軽石に富む凝灰質砂岩からなっています。鎌倉市今泉・山ノ内・二階堂・浄明寺・深沢・越越・目白山下・藤沢市片瀬山等で、昭和初期まで採掘されたといわれます。鎌倉石は鎌倉時代から利用されたといわれています。
 比較的軟弱で加工が容易であり、耐火力が強い特徴があります。粗い安山岩質凝灰質砂岩で軽石が多くみられます。鎌倉周辺の社寺の石段・土台石に見られる他、平塚市域では袖ヶ浜や根坂間などに一部残っています。

▲ 房州石
 房州石は房総半島中南部から切り出された凝灰質砂岩ないし粗粒凝灰岩の総称で、産地により元名石・金谷石・堤ヶ谷石・本胡麻石などがあります。現在では全く採石されていません。今までに記録のある房州石の産地を調べると、堆積年代の異なる三つの地層(上総層群竹岡層及び黒滝層・三浦層群萩生層・保田層群)に区別できます。
 房州石は鋸山山頂付近の竹岡層のものが一般的です。竹岡層(同時期の地層である黒滝層を含む)は、鋸山山頂付近や富津市海良〜君津市黄和田畑〜勝浦町鵜原にかけて分布しています。鋸山は向斜構造(船底型の地質構造)の軸部にあたり、周辺部より粗い凝灰質砂岩からなる竹岡層の侵食速度が遅いため、取り残されて東西に伸びる丘陵を作っているものです。この鋸山山頂付近の金谷石や元名石が房州石の最良品で、比較的石目が細かく揃っています。スコリアが斜交葉理となって並び、刷毛ではらったような模様を呈するものが特徴です。桃白色の粗い軽石が点在する桜目と称されるものもあります。全体的には、房州石は黒色スコリア・白〜灰〜黄〜桃軽石・岩片を多量に含む凝灰岩ないし凝灰質砂岩で、比較的軟弱で風化しやすいものですが、耐火性があります。

▲ 房州石(桜目)
 用途としては、土台石・倉庫・石垣・石塀・土木用・外壁・かまど用に利用され、利用例としては横浜高島桟橋基礎・港の見える丘公園石垣・早稲田大学石塀・靖国神社塀下などがあります。平塚市域では千石河岸の一角の石塀に残っています。
 鋸山の房州石は、安政年間に伊豆の石切職人が始めたといわれ、万延・元治・慶応期に良質の石(上石という)の採石が盛んになり、石切場が鋸山本峰に移ったとされます。1895年から横浜港開発に伴い、護岸土木材料として大規模に採取され、明治期には京浜〜横浜・横須賀方面へ大量に切り出されました。当時、金谷の総人口の80%が、石材業に従事していたといわれます。現在残っている鋸山山頂付近の丁場跡は、かつての石材業の繁栄を物語っています。大正期にセメントの需要の増加と共に下火になり、1985年を最後に採石が中止されました。
 三浦層群萩生層は三浦半島の池子層に相当するもので、神奈川県では鎌倉石・池子石・鷹取石として知られている石材と同時代のものです。
———
この写真でSさんが見上げる先にある文字は(不完全ですが)「安全第一 芳家石材」。それに関しては14時32分の写真をご覧ください。

鋸山
【撮影】14時18分=伊藤 幸司=328
この壁面は、壁面手前に飛び出かたちで残っていたその上面を平坦にしてから。切り出しサイズに合わせた溝に矢を 7・8 本間隔をあけて打ち込んで、矢締で順に矢の頭を叩いてゆくと、(たぶんパカッと)石材が(きれいに)剥がされた、という痕跡なんでしょうね。いつかテレビの探訪番組で見た石切り場の光景とつなぎ合わせて想像すれば……。

鋸山
【撮影】14時20分=伊藤 幸司=329
これが「ツルハシで切った」時代と、チェーンソーで切り出した時代との、境目。昭和33年(1958)の痕跡だそうです。

鋸山
【撮影】14時21分=伊藤 幸司=331
私たちが上がれる一番上で休憩しました。見下ろすとこんな感じ。置いてあるキカイは「ネイチャーミュージアム鋸山」としての展示品ということのようです。「昭和20年代後半の石切場風景」という写真が鋸山復興プロジェクトの岩舞台のページにありましたが、もし、この場所を向こう側から撮ったものであれば、まだツルハシ痕の壁面ですから、今よりはずっと高いところ、「安全第一 芳家石材」の文字より上にまだ床面があった時代ですかね。

鋸山
【撮影】14時22分=伊藤 幸司=334
この一帯が芳家石店によって石が切り出されていた最後の現場だそうですから、チェーンソーに切り替わって約60年、石切りが終了して約35年です。岩の表面に野草が根を張り、灌木類がそのあとを追うようにして、この石の山をいずれは緑の山に変えてしまうのだろうと想像できる感じがしました。

鋸山
【撮影】14時26分=伊藤 幸司=336
これは何か、かなり象徴的な光景のように思います。緑が進出してきた水平線の、上がツルハシ時代、下がチェーンソー時代ということなんでしょう。時代の大きな境目に緑が侵入してきたというふうに見えますよね。

鋸山
【撮影】14時26分=伊藤 幸司=337
前の写真を広角で撮りました。

鋸山
【撮影】14時32分=伊藤 幸司=343
この文字については丁寧な解説板があり、鋸山復興プロジェクトの岩舞台にも出ています。
———
鋸山には、大小規模の「石切り場跡」が数多く点在しています。産業としての採石は江戸時代後期から始まり、最盛期には30 軒ほどの石の元締めがあり、金谷は石の町として栄えました。この岩舞台は、昭和60 年まで採石を続けた最後の石の元締め、芳家石店(鈴木四郎右衞門家)の石切り場跡です。「安全㐧一」の文字の上あたりで、ツルハシで切った跡からチェーンソーの跡に変わり、機械化された昭和33 年当時の石切り場がその高さであったことがわかります。
———

鋸山
【撮影】14時40分=伊藤 幸司=348
石切り場跡(岩舞台)への分岐に戻りました。ここで気づいたのですが、私たちはその手前にあった「石切り場跡(観音洞窟)」の入口をパスしてしまったのです。残念ですが、しかたがない。
次の分岐から「関東ふれあいの道」をすこし下ると、「樋道(といみち)跡」というのがあるそうで、それがさっきうまく見られなかった「車力道」との対になるものだそうで、私はこれまで何度か関東ふれあいの道をたどっていますが、見たことがないのです。リーダー権限とはいえ、だんだんそういう「見学」がみなさんのお荷物になりはじめているようでした。

鋸山
【撮影】14時48分=伊藤 幸司=357
車力道の下りと似た道が関東ふれあいの道として延びていました。「ロープウェイ山頂駅」や「日本寺」という道標を無視して「JR浜金谷駅」方面に下ったので、やっぱり皆さんの気分はいくぶん低調でしたね。

鋸山
【撮影】14時52分=伊藤 幸司=361
分岐から5分ほど下ったところにあったのが、これです。「樋道跡」です。もちろんくわしい解説板があって「土手の向こう側にあります →」と注意書きがありましたが、それがこれでした。鋸山復興プロジェクトの樋道跡によると、———鋸山の山頂域の石切り場から切り出した石材は、まず「樋道(といみち)」という石の滑り台を滑らせて山腹へ下ろします。「樋道」には必ず石段が併設されます。石段は、石材が滑り降りる速度を調節する作業者の足場になり、麓から石切り場まで朝晩往復するための通路としても使われました。———とのことでした。
……といわれても80kgといわれる石材を滑らせるということがどういうことか、なかなか想像できません。
その資料を探しているうちに、(直接的ではありませんが)石の切り出し作業に肉薄しようとする探検レポートを見つけました。「廃道・廃線・未成道・隧道・林鉄、古き良き『交通』を冒険する」という「山さ行がねが」というサイトに鋸山の元名石切道 第4回というのがありました。そこに【鋸山での石材運搬方法の変化】という記述がスケッチ付きで書かれているのです。
———
『探る』に掲載されている手書きの図を引用して、鋸山で採掘した石材を山元→麓→消費地へ輸送する手段の変化を確認しておこう。
まず右の図は以前も掲載したが、近世から大正初期までの方法である。
猫車という荷車を人間が曳く“車力”による輸送が、その中心的な役割を果していた。
また、麓から市場への輸送には帆船が用いられていた。

大正~昭和初期には、車力の代わりにトロッコが用いられた。
ただしこれは鋸山北面の金谷側について述べた資料であり、いまのところ南面の元名側でトロッコが用いられていたという情報は得られていない。
引き続いて車力による輸送が続けられていた可能性が高いと思われる。
そして麓から市場への輸送手段も、従来の船に代えて鉄道が用いられるようになる。
木更津線(後の内房線)は大正5年に浜金谷まで開業し、翌年さらに安房勝山まで延伸開業となった。
この麓→消費地という長距離輸送手段の変化(船→鉄道)は、様々な石材産地の明暗を分けた。
例えば東京(江戸)に対する石材の第一供給地は、近世から明治初頭まで長らく伊豆産(伊豆石)であったが、明治中期に近距離の房州石が首位となり、さらに明治後半に鉄道の便がいち早く整備された栃木県の大谷石がその座に着いた。そして伊豆石の採掘は明治末までにほとんど終了し、以降戦後に至るまで大谷石と房州石がこの順位で1・2を占めた。

昭和初期以降になると、今度は車力やトロッコの代わりに、索道と自動車を組み合わせた輸送が行われるようになる。
これは木材輸送における森林鉄道→トラックの変化に似ているが、鋸山北面では昭和10年頃にトロッコが廃止されて索道+トラックの輸送に変わっており、全国的な林鉄の廃止(昭和40年代)よりもかなり早くに自動車が導入されている。
なお、鋸山南面で索道が用いられていたかは現時点で不明だが、少なくとも自動車による輸送が行われていたことは間違いないだろう。

以上のような輸送手段の変化をみると、さほど広くない山中に様々な廃道があることも納得される。
そして実際にはこうした石材輸送路の他に、古道や登山道、寺社の参道、山林の管理道、獣道などなど、様々な“怪しい”道がこの山中には存在しているようだ。
———

鋸山
【撮影】14時59分=伊藤 幸司=368
樋道跡から5分ほど登り返して、いよいよ日本寺へと向かいました。北口とはいえ、裏口ですから、とても参道とはいえそうもない山道です。

鋸山
【撮影】14時59分=伊藤 幸司=369
すると道から新たな石切り場が見えました。感覚的にはついさっき見た樋道跡につながる石切り場のようでした。

鋸山
【撮影】15時03分=伊藤 幸司=374
こうなると道はずいぶん立派です。岩の高い壁の切り通しになっていました。

鋸山
【撮影】15時05分=伊藤 幸司=380
登場したのは「石切り場跡(ラピュタの壁)」です。鋸山復興プロジェクトのラピュタの壁によると———金谷から見た鋸山は、西に東京湾と富士山を望み、ギザギザとした断崖が東西に連なり、迫力のある景色を構成しています。窓のように開いた横穴は、良質な石材を求めて地層に沿い、奥へと切り進みできたものです。驚くほど垂直な、そして淡々と同じ間隔で石が切り取られた跡は、まるで巨大な彫刻のようです。最大垂直面96m の絶壁である石切り場跡は、その壮大な景観から、天空の城ラピュタを連想させ、いつしか「ラピュタの壁」と呼ばれる様になりました。———

鋸山
【撮影】15時05分=伊藤 幸司=381
ラピュタの壁の展望台は、この日は残念でしたが、東京湾の向こうに富士山も見えるんですね。

鋸山
【撮影】15時11分=伊藤 幸司=386
ラピュタの壁の脇を抜けると、すぐそこに「日本寺北口管理所」がありました。

鋸山
【撮影】15時15分=伊藤 幸司=388
北口から日本寺に入って振り返ると、頭上に「地獄のぞき」がありました。不思議なことにどこが地獄なのかわからない展望台で、その恐ろしい場所に立つこと自体が地獄なら、富士急ハイランドみたいなものですよね。
「ぐるなび」の「旅 ぐるたび」のスリル満点! 崖の上から地獄を覗く、鋸山「地獄のぞき」へGO!には、———日本一鋸山に詳しいという噂のガイド、忍足利彦さんと一緒に、地獄をのぞきにいきました。———という前フリがありました。
———「実はこの岩は石切り職人さんの遊び心から生まれたんです。まさかこんな名所になるなんて、その職人さんは思ってもなかったでしょうね。職人さんが所属する石切り場の屋号が今も岩肌に残ってるんですよ」と忍足さん。よく見ると「久」という字の上に「一」の文字。こんな発見もまた、面白いのです。———
ちなみに、石切り場跡(ラピュタの壁)のところにあった解説板には「鋸山の石切り場形成概念図」というのがあって、つぎに「石の切り出し方」があり、最後に
———【商標】切り出した石は仕上げと同時に小面(こづら)には検品した証しの商標が入れられた。石屋には各々の「印」があり、最盛期の金谷には約30軒の石屋があったが、現在解っているのは「I」芳家、「II」松本(俵屋)、「ミ」(ミカド)、「ヤ」(弥治郎)、「コ」(たばこ屋)、「ト」関口、等である。()内は屋号。———

鋸山
【撮影】15時15分=伊藤 幸司=391
この百尺観音は意外に新しいんですね。日本寺のホームページによると百尺観音は———世界戦争戦死病没殉難者供養と交通犠牲者供養のために発願され、昭和35年から6年の歳月をかけて昭和41年にかつての石切場跡に彫刻完成されました。航海、航空、陸上交通の安全を守る本尊として崇めらています。———とのこと。ちなみに、今回は見られませんでしたが大仏(薬師瑠璃光如来)も座像の石仏としては日本一だそうですが、———薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい) は世界平和、万世太平を祈願し、天明三年(1783年)に大野甚五郎英令が27人の門徒と岩山を3年かけて彫刻したものが原型です。その後昭和41年に4カ年にわたって修復されました。———ということです。

鋸山
【撮影】15時45分=伊藤 幸司=402
だいぶ長いこと順番待ちをして、ようやく「地獄のぞき」の順番が回ってきました。なんともまあ、これだけがっちりと柵で固められていると、下から見上げたときより怖いかどうか、わかりません。これに関して穏当な解説はウィキペディアの鋸山(千葉県)で、———地獄のぞき(じごくのぞき)は、山頂展望台の通称。頂上付近にあり、石切場跡の絶壁の上に下方前傾に突き出した岩盤上から約100メートル下を望むことができる。覗き込むと、スリルを味わいながら東京湾や房総丘陵、富士山などを見渡すことができる。———ですかね。

鋸山
【撮影】15時45分=伊藤 幸司=403
地獄のぞきで記念写真を撮りました。

鋸山
【撮影】15時45分=伊藤 幸司=404
地獄のぞきの下、100mのところに白く見えるものは百尺観音正面のベンチです。オリジナル画像で見ると、そのベンチの左奥に歩いている人が2人見えます。

鋸山
【撮影】15時52分=伊藤 幸司=412
下山は「鋸山ロープウエー」と決めていました。じつはそれも私の個人的な希望で、これまで乗ったことがないので、この機会に、ぜひ、ということと、富士山が見えたら最後にラッキーという期待からでした。その最終が17時ですから、残り1時間ちょっとです。地獄のぞきのある瑠璃光展望台から千五百羅漢道を経てロープウエーへ行くことにしたのです。

鋸山
【撮影】15時52分=伊藤 幸司=413
1,500人? の羅漢さんがこうやって並んでくださっているんですね。でもこの羅漢と呼ばれる人々については、私などにはあまりはっきりしたイメージがありません。
ウィキペディアでは「羅漢」ではなくて「阿羅漢」で、羅漢はその略称とされています。では「阿羅漢」が正しいのかというと、日本では「羅漢さん」でいいみたいです。
でもいま私にとって重要なのはそのことではなくて、羅漢さんの人数です。羅漢さんは「修行者の到達し得る最高位である」と考えられているようで、「十六羅漢」は———仏滅800年経ち、ナンディミトラ(慶友)大阿羅漢が大衆に説いたとされる、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を済度する役割をもった16人の阿羅漢。———だそうです。
「十八羅漢」は———十六羅漢に大迦葉・軍徒鉢歎の2人か又は慶友(難提蜜多羅)・賓頭盧の2人を追加して十八羅漢———
あるいは———仏陀に常に付き添った500人の弟子、または仏滅後の第1回の結集(けつじゅう、仏典編集)に集まった弟子を五百羅漢と称して尊崇・敬愛———
など、時代と、きっかけによって、いろいろな羅漢さんがいるようです。
ところがさらに、十六羅漢さんの一人ひとりに「眷属(けんぞく)」……つまり身内やら、子分やら、守護者やらとして「眷属としての羅漢さん」という方がいらっしゃるらしく、ウィキペディアによれば
———賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ、ピンドーラ・バーラドゥヴァージャ Piṇḍola-bhāradvāja、すなわち「おびんずる様」)の眷属として1000阿羅漢———
———注荼半託迦(ちゅだはんたか、チューダパンタカ Cūḍpanthaka)眷属として1600阿羅漢——
といったぐあいで(ちょっと悪ノリみたいですけど)十六羅漢全体でなんと眷属としての羅漢さんの総数は16,700にもなるのです。
たぶん、千五百羅漢というのは、羅漢さんたちにとってはそれほど大人数ではないのかもしれません。

鋸山
【撮影】15時53分=伊藤 幸司=415
道はどんどん下っていきます。このまま下ると出発点の保田駅まで行ってしまうのではないかといういさぎよい下りです。ロープウェイ駅への登り返しが、どんどん恐ろしくなっていきます。
すると2分後に大きな道標が現れて、左は「大仏、薬師本殿、保田方面への近道」、右は「山頂駐車場、ロープウェー、千五百羅漢道、大仏・薬師本殿・保田方面」となっていました。わたしたちはロープウェーに向かうべく、二股を右手に進んだのです。

鋸山
【撮影】15時55分=伊藤 幸司=418
羅漢さん・その1です。あきらかに頭部をあとから置いたんですね。でも人間らしい? 表情がありますね。鼻がちょっと欠けているみたいなのも愛嬌のうち、という感じですね。

鋸山
【撮影】15時56分=伊藤 幸司=419
道はものすごくしっかりしています。遊歩道という感じがうれしい道です。

鋸山
【撮影】15時56分=伊藤 幸司=420
羅漢さん・その2です。頭部の石の色合いがちょっと違うかもしれないし、目鼻立ちがいやにくっきりしていますが、手の平をほおに当てた雰囲気がほんのり感じられたので撮りました。

鋸山
【撮影】15時57分=伊藤 幸司=421
羅漢さん・その3です。耳たぶだか、髪の毛だかが折れていますし、額についていただろう白毫(びゃくごう)は長い毛を巻いたものだそうですが、それが落ちたみたいですね。手の指先もちょっと短くなっているかも。でも祈りを捧げている気持ちは通じてくると思いました。

鋸山
【撮影】15時59分=伊藤 幸司=423
羅漢像は最初からここにこんなふうにして祀られていたとは思えませんね。房総タウン.comの鋸山 日本寺に「羅漢エリア」の解説がありました。
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大仏広場から山頂までのルートには「東海千五百羅漢」と呼ばれる多くの石像群が安置されています。これらの石像は安永九年(1780年)愚伝和尚の大願により上州桜井(現在の木更津市)の名匠「大野甚五郎英令」が門弟27人とともに20年間の歳月をかけて彫ったもので、その数は実に1153体(1353,1253,1053とも伝えられています)に及び世界一の数です。かくて保田羅漢の名は一躍海内に知れ渡るようになりました。
明治維新の排仏棄釈以来迷信などにより石仏が破壊され荒廃し、首なし羅漢の汚名が広まったため、大正四年(1915年)全部の復興を遂げましたが、以来50年更に荒廃しました。
千二百羅漢の中には必ず自分の顔に似たものがあり、誰にも知られないようにその首を取ってきて供養すると願が叶うという迷信が広まりました。大正十二年の関東大震災では多大の被害を受け昭和三十八年には数百の首つなぎを行うとともに、鉄柵を施し保護に専念しています。
———

鋸山
【撮影】16時01分=伊藤 幸司=424
羅漢さん・その4です。これは名匠・大野甚五郎英令に関わるような頭部なんでしょうかね。多くの寺院で見る、頭をすげ替えた石仏などとはちょっとちがう雰囲気がありますね。

鋸山
【撮影】16時02分=伊藤 幸司=425
羅漢さん・その5です。さあ、どうでしょうね。作り方としては稚拙かもしれませんが、楽しんでつくられた顔という感じがしました。

鋸山
【撮影】16時02分=伊藤 幸司=426
羅漢さん・その5です。この羅漢さんの、ちょっと曲がった根性、みたいなところが面白いと思いましたね。好きですね。つくったものが作者に似ているとしたら、とくに。

鋸山
【撮影】16時02分=伊藤 幸司=427
羅漢さん・その6です。集団の端っこで、ひとり静かに、時を過ごしている人、という感じがしました。

鋸山
【撮影】16時02分=伊藤 幸司=428
羅漢さん・その7です。羅漢さんとひとまとめにしても、それぞれの人生もあり、性格だって同じじゃない。いったいどんなことを話し始める羅漢さんだろうかと思わせますよね。

鋸山
【撮影】16時03分=伊藤 幸司=429
羅漢さん・その8です。これは、これは、……見たとたん、思い出したのが中央自動車道・釈迦堂パーキングエリアにクルマを置いて見学できる釈迦堂遺跡博物館の縄文土器の男女。あれほどひどく歪んでムンクみたいになっているのとは違うけれど、いずれなにか、激しく噴出させようとするかもしれない嵐の前の静けさ、ですかね。

鋸山
【撮影】16時03分=伊藤 幸司=430
羅漢さん・その8です。表情からはなにもうかがえないものの、いったん口を開いたらギュッと心を掴まれるかもしれないですね。

鋸山
【撮影】16時03分=伊藤 幸司=432
ロープウェー駅へとつづく道は、ここからまたぐんぐん下っていくみたいですね。時間はまだあるのでいいけれど、どう考えたって下ったぶんは登り返さなきゃならないんです。

鋸山
【撮影】16時04分=伊藤 幸司=433
羅漢さん・その9です。静かな顔に見えました。こういう人に、私はなりたい……かな。

鋸山
【撮影】16時05分=伊藤 幸司=434
千五百羅漢道だけに、なかなかのスケールです。羅漢さんたちと挨拶しながら、行く、っていう感じですかね。

鋸山
【撮影】16時05分=伊藤 幸司=435
羅漢さん・その10です。女性に見えましたけれど、羅漢さんって女性もいらっしゃるんですかね。それからペラペラ喋り続ける人も。

鋸山
【撮影】16時06分=伊藤 幸司=437
羅漢さん・その11です。こんなに眼差しの強い石仏ってあるんですね。
じつは私は目黒の五百羅漢寺の近くに住んでいたことがあります。なのに一度も行ったことがありません。今回、こんな羅漢さんを見たら、五百羅漢寺の「らかんさん」も見てみたいと思うようになりました。五百羅漢寺のご挨拶です。
———「目黒のらかんさん」として親しまれている天恩山五百羅漢寺の羅漢像は、元禄時代に松雲元慶禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて彫りあげたものです。五百体以上の群像が完成してから三百年の星霜を重ね、現在は東京都重要文化財に指定されています。(現存305体)天恩山五百羅漢寺は元禄八年(1695) 本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建されましたが、明治維新とともに寺は没落し、明治四十一年、目黒のこの地に移ってきました。長年の風雪に耐え、昭和五十六年に近代的なお堂が完成し、名実ともに「目黒のらかんさん」としてよみがえりました。どうぞゆっくりと「目黒のらかんさん」にお参りください。———ですって。残念!

鋸山
【撮影】16時09分=伊藤 幸司=440
千五百羅漢道が終わると、石段を登って、登って、登って「山頂駐車場・ロープウエー方面出口」にたどり着きました。そこでトイレと自動販売機の冷たい飲み物の小休憩。

鋸山
【撮影】16時28分=伊藤 幸司=450
ようやく鋸山ロープウエーの鋸山山頂駅に着きました。09時46分に保田駅跨線橋から見た鋸山稜線の、白い建物に着いたのです。

鋸山
【撮影】16時43分=伊藤 幸司=453
ロープウェーから東京湾フェリーの金谷港が見えています。

鋸山
【撮影】17時03分=伊藤 幸司=458
テレビ東京の「孤独のグルメ」のバックナンバーを調べると、2017年6月16日のシリーズ6の第10話だとわかりました。「千葉県富津市金谷のアジフライ定食」にはつぎのように描かれています。
———千葉県富津市の浜金谷駅に降り立った井之頭五郎。老舗旅館温泉旅館「かぢや旅館」へ向かう。
今回のクライアントは老舗温泉旅館の専務、黒川(石井正則)。黒川は最近増えた外国からの旅行者へのおもてなしにロビーでのコーヒーサービスを始めようと思い、五郎にカップ等の相談をしていた。そこで五郎は、老舗旅館を背負う若旦那の思わぬ悩みを聞くのだった。
その後、空腹を覚えた五郎は「ラーメン・餃子 はまべ」の看板を発見。ラーメンはどうか、と通り過ぎようと思った時、その下に“漁師めし”という暖簾を見つけ、思い直して入ってみる。
店内は、女将(松本明子)と常連客らしい松田(佐藤蛾次郎)のみ。壁に短冊が並んでいる。五郎は「地魚フライ定食」を見つけ、地魚が何か尋ねると、今日はアジだという。アジフライに心が沸いた五郎は、それに決めた。定食の味噌汁は“カジメ”か“あら汁”。五郎は、芽かぶのようなトロみがあるというカジメを選んでみる。
やがて、定食の小鉢「肉じゃが」「さんが焼き」「漬物」が出された。どれも美味しい。五郎は家庭的な味を堪能する。暫くして「アジフライ」と味噌汁、ご飯が出てきたのだが、五郎はアジフライの大きさに驚く。思わず持っていたメジャーで測ってしまった程だ。
五郎はアジフライをしょうゆ、タルタルソース、レモン、ソース、からしなどで堪能。こんなにふわふわなアジフライは初めて。大満足の五郎だった。———
私はそのテレビ番組も原作マンガも見ていませんが、この店はすでに有名店。ですから計画書には食事の候補としてあげていました。———魚介料理…はまべ…0439-69-2090…1200-1500/1800-2100(夜は要予約)_木曜不定休_38席_喫煙可?_「孤独のグルメ」に登場したアジフライ———
……が、ネット情報を見ると「1時間半待つ価値あり!」などという狂信的評価が飛び跳ねていますから私たち10人がそのアジフライを食べられるなどということは可能性ゼロと考えて、ただ情報として入れておいたのです。
まあ、もしチャンスがあったら、どんな店で、どこにあるかぐらいは見ておきたいとは思っていましたけれど。
偶然の第一は、ロープウェーを降りて、入浴のために「天然温泉・海辺の湯」(09時39分の写真)まで(タクシーのない町ですから)歩こうとして出口の係員に道を聞いたら「とても無理、電話をしてみなさい」というので電話をすると、迎えにいくので「はまべという食堂の前で待っていてください」とのこと。それがこの店の前だったのです。
迎えのクルマはすぐに来ましたが、9人しか乗れないというので、私一人が残ったのです。この日、夜は「18時から」と書いてあったので、念のために入口を叩いてみると、だれもいません。クルマが戻ってくるまでにまだ時間があったので電話してみると出ません。……がコールバックがあったのです。あとで聞くと「コールバックするなんてことはふつうないんですがね」と名コンビの姉妹のお姉さん。そして「18時から10人で」という予約ができてしまったのです。9人の皆さんは17時に風呂に向かい、1時間後に駅までの帰路の送りを頼んでいましたから、ちょうど予約時刻と重なりました。なんだかジグソーパズルのコマが次々にハマっていくという感じがしたのです。

鋸山
【撮影】17時03分=伊藤 幸司=459
夕食を実現性ゼロ%と思っていた黄金アジフライとなったので、ホッとして店の前の風景を見ると、そこは漁港で夕日が浦賀水道へと落ちていくところでした。計画書を見るとこの日の神奈川県(県庁所在地)の「日の入り」は「18時47分」でしたから、食事中にその日没を見ることもできるとわかったのです。送迎車はすぐに戻ってきました。

鋸山
【撮影】18時09分=伊藤 幸司=461
糸の会の入浴は1時間と決まっています。ゆっくり入っていただきたいいい湯とか、2,000円も出すような高級旅館の湯ではもっとゆっくり入ってもらいたいと思うのですが、1時間後には全員そろってしまうのです。この日も1時間ちょっと前には全員揃ってしまったので、18時になる前に私を含めた第一便を出してもらい、残ってくれた3人が第2便で到着しました。
全員が「はまべ」に集まって、かつ料理がまだ出ていないときに、浜辺の湯でも見えなかった富士山が、ここ「はまべ」の前に姿を表わしたのです。全員、店の前に飛び出しました。

鋸山
【撮影】18時10分=伊藤 幸司=462
17時03分の写真で見えなかった富士山は、店の真正面にあったのです。

鋸山
【撮影】18時10分=伊藤 幸司=464
店の中では口達者の姉妹がテキパキと動き回っています。海辺の女性のチャキチャキ感いっぱいですから、そろそろ戻らないと、思いながら、この富士山を撮りました。

鋸山
【撮影】18時13分=伊藤 幸司=466
これが店内。カウンターに7人座って、向こう側の座敷に3人。色紙を見ると加山雄三もきてますね。注文したのは全員「はまべ定食 1,800円」。注文がバラバラだったら、笑いながら、けっこう強く怒られそうなエネルギッシュな店内でした。

鋸山
【撮影】18時28分=伊藤 幸司=467
18時28分に黄金アジのフライが出てきました。アジの説明はできませんが、土産を頼めるか聞いたら、ピシャっと「ダメ」。要するに店から持ち出した瞬間に品質保証ができないということです。
「房総半島カメラマン・ヒロタケンジ」というブログに【黄金アジ】地元民(金谷)激推し!アジフライが絶品の店一覧(千葉・房総半島)がありました。
———千葉県房総半島にある、富津市金谷。
「鋸山」の観光地で有名なこの場所に、グルメな名物「アジフライ」があります。
金谷のアジは「黄金アジ」と呼ばれ、一般的な真鯵(マアジ)よりも大ぶりで脂が多く、味が濃いのが特徴。
今回は、浜金谷・竹岡周辺で、黄金アジを提供するお店を集めて一覧にしてみました。
「さすけ食堂」や「はまべ」行きたいけど、行列に並ぶのが嫌だ!。
という人も、美味しいアジフライ・黄金アジのお店が見つかることでしょう。

■黄金アジは、大きさと脂のノリが違う
お店を紹介する前に、まず黄金アジについて知っておきましょう。
「アジ」は日本列島に広く生息していて、市場に流通しているほとんどが「真アジ」「黒アジ」と呼ばれる回遊性の種類。
一方で、黄金アジは別称「根付きアジ」「瀬付きアジ」「居付き」「黄アジ」「金アジ」とも呼ばれ、海底の岩陰にいるエビなどを餌にして、一箇所に留まり続けるアジのこと。
移動しない為、大きく太り、黄色く透けた脂身と肉厚な身が特徴。
春から夏にかけてが旬と言われています。

■房総半島で「黄金アジ」を食べれるお店たち
千葉県の内房は漁師町がたくさんあり、魚介類が豊富に取れる場所です。
真鯵のアジフライを提供しているお店はたくさんありますが、「黄金アジ」を提供している店となると、数は多くありません。
そこで今回は、筆者が黄金アジを提供しているお店を訪れて、美味しいと思った順に紹介させていただきます。
それではどうぞ!
○1位 – 漁師料理はまべ(富津市・金谷)
通算20回ほど訪問経験あり。
2017年にテレビドラマ『孤独のグルメ』に登場して以降、行列のできるお店となった
「漁師料理 はまべ」が、金谷周辺で私が一番好きなアジフライのお店です。
8月後半の平日12時過ぎに到着すると、もはや長蛇の列。
私が並んでから後ろについたお客で、ちょうど完売のお知らせが。ギリギリ間に合った。
約1時間待ち、入店出来たのは13時半頃。
カウンター8席。奥の座席に2テーブル。
「地魚フライ定食」「はまべ定食」を注文すれば、アジフライを食べる事ができる。
肉厚で食べ応えのあるアジはもちろんの事、セットでついてくる「あら汁orかじめ汁」も海の喜びたっぷりで美味しい。
特筆すべきが、タルタルソースを自分でかけ放題であること。嬉しい悲鳴。
もちろん、ソースや醤油でアレンジすることも出来る。
サクサクふわふわのアジフライを、ゆっくり堪能して頂きたい。
(以下略)

鋸山
【撮影】19時12分=伊藤 幸司=468
じつは帰路の電車は浜金谷発18時24分の次が19時21分。念のためにフェリーを調べてみると最終便が19時20分。「船に乗るなら急がなきゃ」とお姉さんたちにいわれて私はひとり、店を飛び出して船に乗ったのです。日没後25分ほど。まだ明るい光の中に富士山がありました。

鋸山
【撮影】19時15分=伊藤 幸司=478
船が動き出したらブレてしまって超望遠撮影は無理。これが今日最後の富士山になりました。



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