山旅図鑑…ま
馬頭刈尾根(2023.3.16)
フォトエッセイ・伊藤 幸司

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★糸の会 no.1261
2023.3.16(木)
大岳山〜馬頭刈尾根



大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時26分=伊藤 幸司=001
正式には武蔵御嶽神社。「おいぬ様信仰」を江戸時代にひろめたというんですね。ネットに出ている「由緒」によると、ヤマトタケルノミコトが軍を率いて御岳山にさしかかったとき、白鹿の姿となった邪神が立ちふさがったというのです。
———尊は山蒜(やまびる=野蒜)で大鹿を退治したがそのとき山谷鳴動して雲霧が発生し、道に迷われてしまう。そこへ、忽然として白狼が現れ、西北へ尊の軍を導いた。尊は白狼に『大口真神(おおくちまがみ)としてこの御岳山に留まり、すべての魔物を退治せよ』と仰せられた。———というのだそうです。
読んでみるとちょっとわかりにくい。これが数百年続く信仰の骨格となったモノガタリなんですかね。鹿を退治したヤマビルがいま問題の山蛭ではなくてニンニクだって。ニンニク戦法というのがあるんですかね。それと、勝った軍の道案内がオオカミさまだったとか。それが「おいぬ様」となったとか。
———狼は怖い存在でありながら、畑を荒らす害獣を食べてくれる有難い存在でもありました。———とのことですけれど。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時27分=伊藤 幸司=003
神社の奥に回ると「奥宮遙拝所」がありました。こちらが御岳山の山頂で標高929m、向こうに見える奥の院が標高1,077m。御岳山に来て、ちょっと足を伸ばしてハイキングとするときにはロックガーデンやら七代の滝をまわるというのが一般的かと思いますが、天狗の腰掛け杉のところから奥の院をめざすと、表参道からの杉並木の延長線ともいうべき参道をたどって、あの突起のてっぺんに立つことができます。そこから(左側の斜面を下って)ロックガーデンへとまわると、満足感がちがいます、きっと。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時27分=伊藤 幸司=006
わたしたちがまず拝む建物は「幣殿・拝殿」だそうですが、裏側に回るとたくさんの社が立ち並んでいてちょっと圧倒されます。奥の院遥拝所から振り返って撮ったこの写真に写っているのは「大口真神社(おほくちまがみしゃ)」のようです。江戸時代に各家の守り神として広まった「おいぬ様」のお社ですね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時29分=伊藤 幸司=009
これはどうみても名のある桜……だと思ったのですがわかりません。Web上で写真をさがすと濃い色の花がたくさんつく枝垂れ桜なんですね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時33分=伊藤 幸司=010
この狛犬、独特です。一度知ってしまえば文化勲章の彫刻家・北村西望(きたむら・せいぼう、本名はきたむら・にしも)の作だとフツーに理解できるのですが、それもこの異形。そこで北村先生の狛犬がほかにどれだけあるのか知りたいと思ったら、なんと友人のブログが出てきました。私が怪我をした2010年と2012年に助っ人リーダーをしてくれた三輪主彦さんの2019年3月5日の「北村西望の狛犬:東新町」にはっきりと書かれていました。
———かなり巨大なブロンズ像。元の型があるので同じものがいくつかあります。———だって。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時33分=伊藤 幸司=012
この写真には2つの目的がありました。ひとつはこの石段を下るとき日の出山(標高902m)の山頂が真正面に見えているのだという記録。
もうひとつは「文章をつけないでも成立する山旅ガイド」に挑戦し始めてから癖になってきた「通過時刻写真」です。時計を見てメモするよりも、カメラ時計に記録したほうが合理的なんですよね。正確だし。
……でも、手元の地図に行動記録として通過時刻を記入しておくことも重要で、歩きながら現場の進行管理をしようとするときには、やはり紙情報のほうが扱いやすい。だからここでの休憩時刻は「1018-25-30」と書きました。18分に到着して、トイレはみなさんビジターセンターですませていたので、軽く5分休憩ですまそうと思ったのに、私のカメラにメモリーカードが挿入されていなかったことに気づいて、あわてて10時26分の「伊藤 幸司=001」から写真を撮り始め、そのため出発時刻を5分だけ遅らせてもらったのです。休憩時間を私が勝手に延長することはしばしばなので、みなさんには特別なことではなかったかとも思いますが。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時34分=伊藤 幸司=013
この写真も重要な記録です。登ってきた長い石段をここで右に下ってショートカットしたという時間記録です。だから先頭の秋田さんが右に折れるのを待ってシャッターを切っています。
ついでに、新しい石柱の「平成二十三年十月竣工」という文字も。御嶽神社の参道では古い石碑類がどんどん姿を消してきたような気がします。オリジナル写真では「東京スマイル農業協同組合」という文字も読めました。調べてみるとウィキペディアには———東京都葛飾区に本店を置き、足立区・葛飾区・江戸川区・江東区で事業を行う農業協同組合である。———と書かれて、2001年の設立、15本支店、2センター、1直売所という「JA東京スマイル」だそうです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時38分=伊藤 幸司=016
これは「未舗装路の水切り」みたいです。車が走る林道で一般的なものですが、最近は登山道でも時々目にするようになってきました。雨水が道に流れ込んで川のような流れを作ってしまうことが、登山道破壊の最大の原因です。だからそれなりに有効なのですが、私はあまり賛成しません。下界での土木技術や園芸土木の手法を導入すると予算処理がしやすいのでしょうが、小さなカーブをたくさん描く山の道では「カーブの外側に水を落とす」という視点をもっと重視していただきたいもんだと(素人ながら)思っています。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時38分=伊藤 幸司=017
ここは長尾平分岐です。売店があって、左手に行くと長尾平展望台で、関東平野の横浜方面を真正面に眺めることができます。冷たい飲み物などを売店で購入できるのは土休日だけのようですが。私たちはここで右手「大岳山 3.9km」方面へと進みました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時40分=伊藤 幸司=023
なんでこの写真を撮ったかというと、完全に植林地の林道なんですね。マンホールみたいなものはなんでしょうね、水か電気か。当然、必要なら車も入れられる。木が若いのと、道路があまり傷んでいないのとがリンクしているとすれば、最近整備した道なんでしょうね。高尾山の山頂まで行く車の道が薬王院のあたりでは裏道として整備されていますが、それを思い出しました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時41分=伊藤 幸司=024
ここでは左手にロックガーデンへと下る道が分岐しています。3分前の道標には「ロックガーデン(岩石園)1.0km」とありました。その分岐なんですね。
堂々たる道標があるので見逃すことはない、と思いますが、じつは糸の会の「10分交代」のトップの中には、それに気づかない人もいるのです。けっこうな確率で。おしゃべりなんかしていたらその見逃し確率はガ〜ンと跳ね上がります。
人間ってものすごく波のある能力をうまく使ってなんとか仕事をしているみたいなので、そんな感じだと、分岐を見逃すというお粗末をしてしまう危険あり、と思っていたほうがいいようです。足元ばかりでなく、ときどき遠くを見る、ということが重要です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時42分=伊藤 幸司=026
不思議な木が現れました。「天狗の腰掛け杉」という名前がついてます。樹齢350年とか。高さ60mでなかなかユニークな姿ですから「天狗の腰掛け」でいいですけれど、いかにも、というネーミングが気になりました。「天狗が腰掛けにしたかった大杉」とするだけでも、イマジネーションを刺激するんじゃないかと思いました。
わたしたちが行くのは杉の手前、左折れ・下り気味の道ですが、鳥居が奥の院への入口となっていて、その場合は上段の道を画面左へどんどん登っていきます。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時43分=伊藤 幸司=031
御岳山の参道に立ち並ぶ江戸時代からの古木には通し番号のプレートがつけられています。ケーブルカー滝本駅の下にあるのが「滝本の大杉」で784番。登るにつれて番号が若くなって、ビジターセンターの下に「1番」があるのです。
それとは別に、この天狗の腰掛け杉のところから奥の院へと登る道も杉並木となっていて整理番号がついているのですが、今回、この写真を見ていて、天狗の腰掛け杉の案内板に「御岳山名木巡り 九番」とあることに気づきました。
さっそく調べてみると「東京の樹」というサイトに「御岳山の名木」がありました。それによると案外あいまいなんですね。
———御岳山ビジターセンターで尋ねたところ、御岳山の名木巡りは御岳登山鉄道が行っているイベントで、誰が選定したのかははっきりしないとのことです———
としつつも「大杉(滝本の大杉)」から始まる11本の名木の一覧表がまとめられています。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時46分=伊藤 幸司=036
新緑の直前だと思うのです。木々はあらゆる枝先を鋭く尖らせて内在するエネルギーを発射寸前という状態にしているのだと思います。明日この場所に来て同じ風景を見上げたら、驚くほど色彩に満ちた光景になっているかもしれないと……。
ジェット機がちょうど、奥の院のてっぺんに向かって飛行機雲を伸ばしていました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時48分=伊藤 幸司=039
長い穂をぶら下げた木といえばキブシですが、この木にはキブシの「スズナリ」的なボリュームが感じられず、ただ、整った長い穂を垂直にさげていました。念のために穂の部分を「グーグルレンズ」に放り込んでみると「ハシバミ」が出てきました。それをネット上で見てみると、たしかに「ハシバミ属」なんですね。ヘーゼルナッツが「セイヨウハシバミ」の実だそうで、日本のハシバミの実も食べられるそうですが、ナッツとしては利用されていないようです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時54分=伊藤 幸司=042
突如現れたのがこの瀟洒な建物。「奥の院口便所・東京都」とありました。標高1,077mの奥の院からの道が、ちょうどここ(標高約900m)に降りてくるんですね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時55分=伊藤 幸司=044
これが奥の院から奥の院口トイレに下ってくる道です。私はこの道を知らずに稜線を鍋割山へといくしかないと思い込んでいたのですが、ここへ一気に下っちゃうというのもけっこう魅力的ですね。ただし、この道の感じで急斜面のようですから、ダブルストック必携という感じがします。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】10時56分=伊藤 幸司=045
大岳山へと向かう道は、平坦、かつ立派。たいてい、登山の終盤に沢筋に下ってこういう道に出ると、砂防ダムなどがあって、かつては工事用車両などが通ったという痕跡が残っています。山から里へ下るその手の道は、歩きやすいけれど、想像以上に長いということも多いのです。
私たちは、そういう気分で歩いているので、なかなか本気になりにくい。まだこの先に登山口がある、という感じ。ちょっとした中だるみですかね。長尾平分岐から本格的に歩きだして、まだ20分ほどですが。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時01分=伊藤 幸司=051
前方に休憩小屋が見えてきました。そこで左手に折れると写真左端に下っていく道になります。綾広の滝0.2km、七代の滝1.4kmとそのあいだをつなぐロックガーデン、そして御嶽神社へと戻る道です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時07分=伊藤 幸司=059
ここで綾広の滝に落ちる流れを渡って、道は左岸から右岸へ。右岸・左岸は流れる水の側から見ることになっているので、本来は川船の船頭の言葉なんでしょう。……なんてことをこの写真で書いたのは、次の写真が問題になるからです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時10分=伊藤 幸司=060
前の写真から3分後ですね。この写真はゆっくりと登りながら、左手が谷。ですが下流側に登っているので、右岸です。橋を渡ってから右岸の斜面で折り返して、ゆるゆると登る道です。
沢筋を登ってきた登山道は、あるところでジグザグ道で斜面を登って尾根に上がるのです。流れに沿って登る沢登りだと、流れがどんどん急になり、滝が連続するようになり、谷が狭まって、最後には崩落のために地盤がゆるく、樹木が育ちにくいために「草つき」などと呼ばれる急斜面から強引に尾根に飛び出すわけですが、登山道はその手前で急斜面をジグザグに登るのです。
ただここはそのジグザグが大きいために、この写真1枚だけだと「えっ! どっちへ行っているの?」ということになる(かもしれない)のです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時11分=伊藤 幸司=062
つまり、前の写真の1分後には、今度は谷を右手に見ながら「右岸」の道を、ゆるゆると登っています。対岸の稜線は、奥の院から鍋割山(標高1,084m)を越えてきました。じつはこのまま行くと12分後にその尾根道に出るのですが、地形図によるとそこが標高1,067m。綾広の滝に落ちる流れの源頭はすぐそこにあるんですね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時31分=伊藤 幸司=074
私たちは大岳山に向かっています。その山頂に向かって、この道が伸びているという親密感。それもひょいひょいと行けてしまいそうな気安い道を進んでいます。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時35分=伊藤 幸司=076
まあ、この道標が御岳山からの道と、大岳山への道との切り替えを感じさせるものでした。
大岳山頂から稜線を右手にたどると鋸山を経てJR青梅駅へ、いわゆる鋸尾根です。そして左手に進むと馬頭刈(まずかり)尾根。鋸山は標高1,109mですが、馬頭刈山は標高884m。秋川渓谷の十里木というあたりに出るのです。どっちに行っても、質量ともに同じくらい、ですかね。ほかに御前山から三頭山へ「奥多摩三山縦走」となるヘビー級のルートもあります。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時37分=伊藤 幸司=081
登山道の雰囲気がガラリと変わりました。じつは11時02分の綾広の滝分岐のところにどぎつい看板がありました。「この先、大岳山方面 滑落事故多発 岩場・鎖場あり」「BEWARE OF SLIPPING AND FALLING AHEAD OF THIS TRAIL !!」というのです。同じ看板がその後も出てきました。いよいよか、という感じですね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時41分=伊藤 幸司=084
クサリが出てきました。コケオドシと感じる人もいるかと思いますが、「なんでこんなところに?」と思うような場所にクサリやロープがあったら、いちおうこの場所の冬の様子を想像してみることです。雪というより氷があちこちに張っているこの道を、アイゼンをつけずに歩いたら、このクサリのありがたみがわかります。
それはまだ冬でしたね、スーツにビジネスシューズで奥多摩駅から来てしまったという若者と大岳山の山頂で会って、前後して下る関係になったことがありました。どう見ても山歩きに慣れているようには見えませんでしたが、そのうちに私たちを追い抜いてどんどん行ってしまいました。彼はこのあたりも無事に下っていったはずですけれど。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時50分=伊藤 幸司=091
「滑落注意」の標識があるのは、このあたりが奥多摩での遭難多発地帯だからです。じつは左側が想像以上の急斜面になっているのです。道そのものは激しく危険というものではありませんが、なにかひとつトラブルがあって滑落すると、相当の大事故になってしまうという場所です。一歩、一歩、振り出した足に全体重をかけてブレないという「足さばき」が重要なところです。だれかが一瞬、消えてしまう。……というような事故を頭の片隅で考えておいてくださいという意味で、単なる脅しではないのです。このあたりの上空でヘリがぶんぶん飛び回っていたら、ここか、鋸尾根での滑落事故の可能性が高いんだそうです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時51分=伊藤 幸司=094
このハシゴで危険地帯はほぼ終了です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時54分=伊藤 幸司=096
大岳山荘というか、大岳山荘跡というか。地形図にはいまも「大岳山荘」の名がありますが、もうそうとう前から無人です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】11時55分=伊藤 幸司=099
シンプルですが、きちんと作られたたたずまいの鳥居だと思いませんか? しめ縄もまだ新しい感じですよね。登った先に小さな社がありますが、それが大嶽神社奥宮。
里宮は檜原村にあって秋川沿いの白倉バス停下車。なかなか立派な社殿があって、お祭りも行われているようです。そこから登ってくる参道は、おそらく里の老人たちも奥宮参拝ができるようにと、登山道としては恐ろしく歩きやすい道なんです。その道を登るという入門編の登山を何度やったことか。私には馴染みの神社です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時04分=伊藤 幸司=110
ここからが大岳山頂への最後の登り。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時05分=伊藤 幸司=114
下りはともかく、登りはちょっとした岩場の急登。ダラダラと伸びていた尾根道からガラリと世界が変わって「最後の登り」という表現。この道は、じつは周囲のいろいろな山から大岳山を眺めたときの、東側のきれいな斜面なんです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時07分=伊藤 幸司=117
頂上はいまか、いまか、という気持ちですよね、全員。私だってそうでした。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時12分=伊藤 幸司=123
山頂に立って、見るべき山が見えていたら、まずはシャッターを切っておきます。見るのはその後でもいいのです。富士山なんかも、堂々たる存在ではありますが、山頂付近の雲はその周りでチャラチャラと出たり消えたりしていますから、要注意です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時17分=伊藤 幸司=125
大岳山の山頂風景です。立派な山頂の碑がありますが、数年前に突如出現したものです。
私のカメラの広角レンズは「35mmフィルム換算で21mm」という超広角です。かつて私はプロ用の一眼レフカメラに20万円クラスの20〜28mmレンズをつけていたことがありますが、F2.8という開放絞りで使うと四隅の明るさとシャープさとがガクンと落ちました(F4にすると改善されましたが)。この写真で垂直であるべき道標と山頂の碑がいくぶん斜めになっているのはレンズの「超広角」という性質によるものです。青空が均一でないということもレンズの性能に由来していると考えられるので、古い言葉でいう「サロン写真」のように、絵画的な写真を撮りたい人は大いに気になるところかもしれません。
このサイトの「速報」や「図鑑」の写真は基本的にカメラで撮ったままです。フォトショップなどで画像処理することでいくぶん良くなる(というか、欠点を修正する)ことはあるでしょうが、原則として(ひとつの修正=後述、以外は)ナマのままの画像です。
対比的な写真として、このno.125の写真の前、5分前に撮ったno.123の富士山があります。同じカメラの最望遠端「35mmフィルム換算で1365mm」で、立ったまま、手持ちでバシャッと撮った富士山です。目で見た感じより「よく撮れた」と私は思っていますが、これがナマの写真です。この写真をサロン写真レベルで撮ろうとすると、百万円以上の超望遠レンズと5kg〜10kgのまともな三脚が必要です。カメラももちろん、撮影後の画像処理が可能なRAWデータで記録できるものにしたくなるでしょう。そのRAWデータの見出し用として使われているJPEG(ジェイペグ、jpeg、jpg)画像が、まさにこれなのです。
撮った写真がお金になって、しかも失敗が許されないプロとしての仕事であれば、あらゆるバックアップ機能を活用できるカメラシステムが必要になりますが、山歩きが主体で写真がその補助という場合なら携行しやすく、接写とズーム撮影ができるカメラが基本で、その中の重要度を「コンパクト」とするか、広角〜望遠の「ズーム比」とするか、あるいは「ボケ味」の美しさとするかなど、選択基準は人それぞれに違ってくると思います。しかしいま、7万円前後で売られている「高倍率ズームデジカメ」は間違いなく私には「夢のカメラ」であり、プロのサブカメラとしても使えるレベルのカメラといえそうです。
ちなみに、この写真の水平が狂っているように思いますが、私の首が「ほぼジャスト2度」曲がっているために、画面の中に水平や垂直の線のない写真では「約2度」傾いた写真が多いのです。だからこのホームページでも過去の多くの写真は「傾きがあったら直す」という画像処理を行っています。ただ、今使用している「高倍率ズームデジカメ」ではファインダー画面に「デジタル水準器」が出てくるので、それで水平を保てるようになりました。この写真は、たまたま、その水平確認をせずに「撮っちゃった」んですかね。たぶん、いくぶんか、水平を右肩上がりに撮ってしまったように思われます。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時27分=伊藤 幸司=129
これは「蝶がいた」というレベルで撮った1枚ですが、1分前の秋田さんの「キタテハ」と比べると、近づいたからいい、とか、大きく撮ったからいい、ということではないとよくわかります。写真を撮る人のほとんどは「1枚に収める」というフレーミングにいわば「命をかけている」わけですが、私は記録として「全体と接近」の2枚に分けているので「1枚に収める」という絵心が欠落しているのをしばしば感じます。ここではなんと5点、ほぼ同じ位置から撮っていて、その中で一番シャープに写っている写真を選んでいます。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時29分=伊藤 幸司=131
山頂に新しく立てられた豪華な標識。「大岳山」という文字の横にあるアルファベットを見たら「Mt.Otake」となっていますね。わたしはこれまで「おおだけさん」と読んでいたのでびっくり。
さっそくネットで調べてみると「ヤマケイオンライン」に「大岳山(おおたけさん)」とあるではないですか。ドキッ! です。あわててウィキペディアを見てみると「大岳山(おおだけさん、おおたけさん)」です。いくぶんホッ! としました。
でも御岳ビジターセンターのサイトを見ると写真に「大岳山頂/Mt.Otake」と出ています。碑文の「大岳山/Mt.Otake」を写しただけかもしれないので調べてみると「大嶽神社/Otake Shrine」とありました。もちろん神社の名前のほうが山名と根底でつながっていると思うので、そちらを調べてみると東京神社庁では檜原村の大嶽神社に「おおだけじんじゃ」という読みを振っています。
そこで念のために檜原村役場のサイトで見てみると「大嶽神社例大祭」などの解説がありますがそれに「読み」はついていません。そのため寺院の祭礼にかかわる多くのウェブ情報では「おおだけ神社」と「おおたけ神社」が混在しています。
けっきょく、よくわからない、というか、読みが確定していないと思うのですが、山の名前のそういう不確定さに関して私が最後に頼りにするのは1999年に刊行された武内正さんの労作『日本山名総覧 1万8000山の住所録』です。それによると大岳山の「ヨミ」は「オオダケサン(オオタケサン)」となっています。それに関して前文に———やむをえず市町村役場に問い合わせをすることになったのである。照会した市町村数は2,500市町村に及び、再依頼を含めると回答数は2,800通を超えた。90パーセント以上の市町村の対応は大変協力的であった。本書の完成には、全国の市町村役場の各担当者の協力が大きかったことを書き添えておきたい。———とありました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時35分=伊藤 幸司=141
ダブルストックを使って「深い前傾姿勢」がとれると、下りは爽快になります。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時36分=伊藤 幸司=146
わが糸の会の女性陣は、もうほとんどがシニアですから、登りではどんどん追い抜かれるフツーのシニアチームですが、下りは相当なもんです。四半世紀前にダブルストックを標準装備にして、最後の下りでけが人が出たり、バスに乗り遅れないようにペースを維持したりするのに圧倒的な能力を発揮してくれました。北アルプスの岩稜でも、ダブルストックは谷側の手を伸ばしてくれる分だけ安全領域を広げてくれます。ヨーロッパアルプスでの仕様を前提に考えられたので、ダブルストックは岩に食い込む素晴らしい刃物を石突きに標準整備しています。そのことを知らないのか、北アルプスでも巡回している指導員に「岩場でのストックの使用は危険」と注意されるのですから、驚きです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時41分=伊藤 幸司=154
山頂を往復して、大嶽神社奥社へと戻りました。横から見ると拝殿の奥に本殿、という本格的な造りになっています。小さくて粗末……とも見えますが、ふもとの人々にとっては十分立派な里宮に対する奥宮です。その里宮は武蔵五日市駅から藤原行きのバスで白倉下車。東京都檜原村の大岳山登山口のところにあります。それがまさしく大岳山への表参道です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時42分=伊藤 幸司=156
御岳山の御嶽神社にあった大口真神社(おほくちまがみしゃ)に対して、これは「武蔵國 大嶽山 大嶽大口真神社」なんですね。同じ神様のちょっとちがう名前なのか、同じような神様のそれぞれちがう名前なのか、八百万(やおよろず)の神様たちですから、むずかしいですね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時43分=伊藤 幸司=158
かわいいのか、こわいのか、よくわからない「お犬様」です。武蔵学園大学講師(だと思います)の民俗学者(だと思います)の西村敏也さんが奥多摩地区でさまざまな調査・研究をされていますが、武蔵学園総合研究機関で「檜原村の狼信仰」(2010年6月28日)というレポートを発表していて、大岳神社を始めとするいくつかの神社の状況をまとめています。その「一 檜原村の狼信仰と狼信仰神社の諸相」「1 檜原村の狼をめぐる伝承」には次のように書かれています。
———檜原村では、古くはニホンオオカミが棲息していたことから、人と狼の接点を描く伝承が多く伝えられている。檜原村に伝わる伝承事例として「山で狼からのがれた話」「狼を撃退したおばあさん」「狼の恩返し」「狼がのり移った話」「狼の糞を崇める」や狐憑きの患者が出た場合、狼の頭骨を借りて来て憑きもの落としをし、その時修験が関与したともいう話、村に変事が起こるときには必ず夜陰に御犬様が啼いて警戒を促すといわれている話などが挙げられる。また、狼の乳を飲んだ人の話も伝わっており、その興味深さからか狼をめぐる伝承の事例として多くの文献に記されている。また、檜原村人里(へんぼり)の飯綱社に納められていたそれまで蛇の骨と推定されていた骨が(収納される箱には明治一〇年 <1877> 南秋川河原で採集と記録され、現在は、檜原村郷土資料館に収蔵されている)、狼の椎骨・肋骨と鑑定されたことも多くの文献に記された。これら類似の伝承は、奥多摩・秩父地域全体で見られるものだが、山深い地勢からも実際のニホンオオカミと遭遇することが多かった故であろうか、ここ檜原においては濃密に分布している印象がある。それだけに、狼にまつわる様々な言説は、狼信仰の展開に大きな役割を果たしたことが想像できよう。それでは、このような民俗の中の狼信仰が神社の信仰の中に取り込まれた場合、どのような現象を見せうるのであろうか。———
以下、大岳神社、貴布袮神社、臼杵神社の事例が述べられています。


大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時44分=伊藤 幸司=161
再び大岳山荘(大岳山荘跡)のところへ戻ってきました。ネット上ではいまや「廃墟」としてリストアップされていますが、今回、ちょっと印象が違っていました。ちょっとですが、違うんです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時45分=伊藤 幸司=162
これは、まあ、もう、廃屋ではないですね。昔一度、ここで休憩したような気がします。向かいに公衆トイレができる前でしたから、トイレを借りたんでしょうね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時45分=伊藤 幸司=164
この奥の建物群、合わせるとずいぶん大きな収容スペースになるのですが、宗教団体のものらしいと聞いたことがあって、ずっと色眼鏡で見てきました。この先のヘリポートは崩落の危険があって立入禁止が続いています。何をするにしても大変ですね。……今後を楽しみにしておきたいと思います。
……と思っていたら、廃墟検索地図に「大岳山荘と台湾寺院」がありました。おかげでおおよそのことがわかりました。
———大岳山荘と台湾寺院は、東京都西多摩郡檜原村・奥多摩町の境界にある大岳山山頂直下にある山小屋と隣接の台湾寺院。
大岳山荘は東京都が管理する宿泊ができる山小屋で、資材搬入用のヘリポートを兼ねた展望台も整備されていた。
地元に引き取りの打診があり、すぐそばにある台湾寺院により管理されていたが、2008年に閉鎖。台湾寺院の管理者も亡くなったため放置状態となり、どちらの建物も荒廃が進んでいる。
山小屋のほうは有志により時折掃除されているようで、悪天候の時に避難することは可能らしいが、ヘリポートは崩落の危険があるため閉鎖されている。
台湾寺院はタジン鍋の蓋をかぶせたようなユニークな屋根の形状をしている。———

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時56分=伊藤 幸司=168
大岳山荘のところへ戻った最大の理由は、公衆トイレでした。体制を立て直して歩き出したのは南に向かう巻道です。これからたどる馬頭刈尾根と今回は行かない鋸尾根とは大岳山南面(正確には南西面)の標高約1,150mの巻道で直接つながっています。そして山頂の東に当たる大岳山荘も標高約1,150mにあって、そこから南東面に刻まれた巻道が伸びています。それをたどることにしたのです。
現在の国土地理院の地図には、山頂からまっすぐ南に下って巻道に降りられる道が描かれ、守屋二郎さんの「奥多摩登山詳細図(東編)にも「道標はあるが荒れた登山道」として下れる、となっています。その道は馬頭刈尾根〜鋸尾根の巻道に大岳山荘からの巻道が合流するところに出るようです。私はまだ未体験ですが。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時56分=伊藤 幸司=169
なんとここでマウンテンバイクと出会いました。最近よく目にする太いタイヤの自転車です。知らなかったのですが「ファットバイク」(太っちょ自転車)というんですね。これがそのファットバイクなのか、ただ単に太めのタイヤをはいていたのかというような素人っぽい疑問がわいたので調べてみました。
「SAKIDORI」に【2023年版】ファットバイクのおすすめ21選という記事がありました。
———ファットバイクとは、幅4インチ前後の極太タイヤを採用した自転車のこと。もともと北米の寒冷地で開発されたモデルとして知られており、土や砂、雪などさまざまな障害物を乗り越えることに特化しています。
自転車の仕様としてはマウンテンバイクと似ていますが、違いは衝撃吸収の方法。マウンテンバイクはフレームにサスペンションを取り付けて衝撃を吸収する一方で、ファットバイクはタイヤのエアボリュームで路面からの衝撃を緩和します。———
サスペンションがないという意味では画期的というか、古い自転車にもどって、新しい進化図を創ろうというアドベンチャースピリットを感じますね。ちなみにこれが「北米の寒冷地で開発された」というのでかつて北極圏で多用されていた(たとえばホンダの)タイヤの太い三輪バギーがいまはどんなふうになっているのかと調べてみたら、ホンダをはじめとして、ヤマハ、カワサキも四輪バギーをつくっているんですね。ATV(全地形対応車)として。見た目、どこでも走れそうな顔つきなんですね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】12時57分=伊藤 幸司=172
大岳山荘から大岳山の南東斜面をトラバースする道はほとんど1,150m等高線に沿った平坦な道です。ただし、道幅が狭い。さらに急斜面なので、高度恐怖症気味の人にはこわい道かもしれません。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時01分=伊藤 幸司=173
この1分後に「←馬頭刈山□鋸山→」という道標が出てきます。「大岳山・御岳山→」というこの巻道との三差路です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時03分=伊藤 幸司=175
登山道にはたくさんの社が祀られています。ここは当然、大嶽神社の表参道の重要な地点でしょうから、里宮のある檜原村に関係するどなたかがここに建立した可能性が高いのでしょう。
私は1980年に『富士山・地図を手に』(雑誌「岳人」連載・東京新聞出版局刊)を出させていただきましたが、そこで浅間神社という謎にぶつかっているのです。
———それを一気に全国にひろげてみると北海道から九州まで、大正時代に、なんと1,317もの浅間神社あったというのです。もちろん、それらはすべてコノハナノサクヤヒメを祭神とする浅間神社に限定しての話です。その数もすごいのですが、それだけの数の神社が調べあげられていたというのは驚くべきことです。前章でも触れた『富士の研究』は富士宮の富士山本宮浅間神社が編纂したものですが、その第2巻「浅間神社の歴史」(昭和3年)がなかったら、もちろん私が神社について考えてみるなど不可能なことでした。———
———その結果残された一千社あまりの浅間神社は「無格社」「摂社」「末社」「境内社」とされるもので、いわば「その他大勢」といった感じのものです。そこにはきっと私などの目には神社ととは見えないような小さなほこらまで、含まれているのでしょう。
それにしても、神社というのは妙に形式ばったところがあるわりに、あんがい簡単に建立できるもののようです。「分霊」を勧請することでふえていくところなど、まるで株分けやさし木のようです。なかには富士登山のおりに持ち帰った石ころを勝手に御神体としたものもあるといいます。いいかげんといえば、かなりいいかげんです。しかしそういう手軽さがあったからこそ、コノハナノサクヤヒメをまつる浅間神社は驚くほど広い範囲に散りひろがっていったのでしょう。———
このお社がどなたをお祀りしているものか、もちろん私は存じません、けれど。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時12分=伊藤 幸司=181
この写真の主役は立ち並んだ木々です。なんで主役なのかというと、下枝を切り落として展望台にしているのです。大嶽神社の里宮から参道を登ってきて馬頭刈尾根に出たところにこの展望台があって、まずまちがいなくひと休みするのです。
この木々を主役としているのはもちろん富士山。この日は1時間前に大岳山の山頂で見た富士山が、ほぼ完全に見えなくなってしまいましたが、見えていれば誰だって写真を撮りたくなります。そのときにはこの木々が絶好の引き立て役にまわって富士山を見せてくれるのです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時15分=伊藤 幸司=183
これは進行方向左手にあった道標です。「大岳山」という文字がないのは、まだここが大岳山の斜面の内側にあるという感覚なんでしょうかね。進行方向の右手に下る白倉への道が大嶽神社の表参道であり、登山道としては老人たちの参拝も可能にしたと思われる歩きやすいルートです。だから、もしメンバーの中に不調な人がいたときには、ここを下山路とする選択もありえます。驚くほど簡単に下れるだろうと思うのです。手元の登山地図にはここから白倉バス停の下りが1時間30分、登りが2時間20分とあって、下りの所要時間は登りの約6割。下りの所要時間が登りの7割を割ったら歩きやすい下山路と考えていいのです。
ただし、糸の会では全く独自の時間計算をしてきました。国土地理院の地形図(1/25,000)上で標高約350mの白倉バス停から標高=1,066mのこの区間で、登山道が50mごとの等高線(計曲線)と交わるごとに赤○(直径4mm=実際の100m)を描きます。それから登山道の道筋をたどりながら20mm(実際の500m)ごとに青◇を描きます。赤○は15個、青◇で示される「500m」は両端も視野に入れて6個となります。合計21個を8で割って2.5(時間)とし、登り&下りで5時間としているのです。
私たちは基本的な登山道の勾配を「1km先で300m上がる」と仮定して、それを1時間で歩く「時速1km」というスピードを基準として計画を立てています。その勾配をそのスピードで歩くために必要なエネルギーは「平地の道を時速4kmで歩くエネルギー」としているのです。つまり登山道では体を前に進めるエネルギーは全体の1/4だけで、3/4は体を垂直に持ち上げるために使う、ということで、「斜め前方へ進もうとするエネルギー」の無駄を省く歩き方を磨いているのです。
ついでに加えておくと、下りも同じ計算で時間設定しておく理由は、そこに予備時間を含めておきたいのです。赤○と青◇で8個=1時間としているのは糸の会の場合であって、健脚の人は10個=1時間としてもよく、最近の糸の会では12個=1時間にしてしまおうかと思ったりしています。要するに人それぞれの登山速度の「係数」なのです。さらに加えて、30分に5分、1時間に10分を目安としている「休憩時間」はあらかじめそこに含んでいるとしておいて、それがこの時間枠からはみ出していく、あるいは、さらに特別な休憩を設けたいとか、調子の悪い人がでて、全く別のペース配分を考えなくてはならない場合などに、下りの所要時間から余ってくる時間をリーダーが登り段階でも前倒しして自由に使える予備時間と考えて、できれば無事に帳尻を合わせられるようにしたい、と考えているのです。


大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時24分=伊藤 幸司=192
馬頭刈尾根は緩やかに下ります。標高=1,066mの白倉分岐から標高=884mの馬頭刈山まで、標高差約200mを糸の会方式の距離計測で約3.5kmですから、遠くから見れば「ほぼ平坦」なんですけれど、山ではそう甘くはありません。小さな登り下りが繰り返されながら、全体として下がっていく、というふうになります。
ちなみに糸の会方式の赤○と青◇は25個で3時間と出ますが、実際は馬頭刈山到着が15時25分でしたから2時間10分。距離が3.5kmでしたから時速1.75km。縦走路は気持ちよく歩けている状態で「時速2km」より早ければハイキング気分、遅ければその分、登山道としてのアップダウンが挟まってくるという見当です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時31分=伊藤 幸司=195
私は基本的に振り向いて撮らないつもりですが、これはまさにその振り返り写真。大岳山がその特徴的な姿を見せていました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時35分=伊藤 幸司=200
富士見台という標識がありました。あずま家があって、ベンチがあって、富士山が見えていれば……というなかなかの場所なんですね。地形図では1,054mの標高点があって、守屋二郎さんの「奥多摩登山詳細図(東編)」には富士見台に加えて「大怒田山(障子岩山)」という名が添えられています。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時39分=伊藤 幸司=207
富士見台をすぎると、すぐに岩っぽい道になります。さあて、どうなるか? ……この岩ひとつを乗り越えたところにあった道標によれば富士見台から0.2km、つづら岩へ0.6kmとのこと。北アルプスの縦走路だったら稜線の「ひとコブ」が1時間という感じなのに、ここでは「ひと岩」で数分。変化に富んだ稜線歩きということもできますね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時45分=伊藤 幸司=211
また下りです。このひと下りでどうなるのかというと「富士見台0.4km〜つづら岩0.4km」という標識になりました。でも写真で見るように、このまま大胆に下って行っちゃうかも……というような雰囲気ではあるんですね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時49分=伊藤 幸司=219
ハシゴがありました。ここにこんな重そうな鉄梯子が必要かな? と思いましたが、一気にぐんぐん下がっていくところなんですね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時51分=伊藤 幸司=224
分刻みに写真を撮っている感じですが、まだ下りです。この1分後には「この先道悪し」という立派な道標があって「関東ふれあいの道」のマークと登録番号がありました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時52分=伊藤 幸司=228
林業は今、補助事業でなんとか続いているともいわれますが、この森は「森林再生間伐事業」が行われて、第1回目間伐が平成15年(2003)、第2回目間伐が平成27年(2015)と書かれた看板が立っていました。するとこの状態で8歳未満のスギは次の間伐対象となるのでしょうか。
その看板には「本事業は森林の公益的機能を回復させて環境を守るため実施しています。」とありました。そこで所管の東京都環境局の「森林再生事業」を見てみると———東京都自然環境保全審議会は、平成14年10月、新たな視点に立った森林整備のあり方について、知事(筆者注・石原慎太郎)から諮問を受け、「多摩の森林再生を推進するために」を取りまとめました。———とありました。
そして「多摩の森林再生事業」によると、「八王子市・青梅市・あきる野市・日の出町・奥多摩町・檜原村の内の手入れが遅れているスギ・ヒノキ人工林」として「事業計画の期間:50年(平成14年度から令和33年度まで)、ただし山林所有者の方との協定期間は25年間」ということのようです。
———今、多摩地域では手入れの行われていない森林が増えており、見過ごすことができない状態です。
そこで、森林のはたらきを回復するために、東京都では手入れが行われず荒廃している多摩地域のスギ・ヒノキの人工林について間伐を行います。
昭和30年代に多くのスギ・ヒノキが植林されました。
その後、国内の木材価格の低迷などの理由から、間伐を中心とした手入れがなされないため、樹木が密植状態のままの暗い森林が増えています。
暗い森林では、地面まで光が届かないので、草などが生えなくなり土壌の裸地化が進みます。
このような森林では、土砂が流出したり、水を地下に浸透させる機能が低下し、森林の持つはたらきが十分に発揮できなくなります。———とのことです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時54分=伊藤 幸司=231
大きな岩が出てきました。この岩の先がどうなっているのかわかりませんが、まず間違いなく「つづら岩」のところに来たのでしょう。その結果を知った上でなお「つづら」の意味がわからないので調べてみたら古くはツヅラフジで編み、後には竹で編まれた四角い衣装箱のことだそうですね。ウィキペディアで調べてみるとツヅラフジで編まれたのは奈良時代までで、平安時代からは竹編み、江戸時代には衣装箱としての規格が整い、明治〜大正地代に衣装箱としての最盛期を迎えたというのです。そういう箱型の岩だからでしょうか。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時54分=伊藤 幸司=232
このつづら岩については「すーちゃん」という女性が「やっぱり自然が好き」でレポートしています。
———つづら岩は奥多摩の大岳山から南東にある馬頭刈尾根上の小さな岩場だ。 古くからロッククライミングのゲレンデとして利用されてきたが、アプローチが1時間半と、ゲレンデとしていささか遠い。———
———登攀具を背負っての急登はこたえる。綾滝から40分くらいで、つづら岩に到着。高さ約40mの壁で、横幅50mくらいだろうか。岩質はチャート? ルートにもよるが、おおむね2ピッチくらいで終了点にぬけられる。
私達は、壁の中央より右寄りの “一般ルート Ⅳ級” をメインに登った。一般ルートより右の “右クラック Ⅳ級” で中間の立ち木まで登る。
立木から左にトラバースして一般ルートに合流。一般ルートは、さらに左にトラバースしてクラックを登る。
ここから直登すれば、“残業ルート Ⅴ級”。 同行者は残業ルートを見事に登っていく。
終了点は、この様に傾斜しているので、腹ばいになって下部をのぞき込める。———
———アプローチの遠さもトレーニングだと思えば、美しい滝を見ながらの楽しいルートだ。
ちなみに、この日、岩場で会った初老の男性が、アンカーのメンテナンスやルート整備を行っていた。
こういったボランティアによって古くからゲレンデは維持されてきたんだね。有難いことです。———

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時58分=伊藤 幸司=235
13時54分からはじまる大岩が左側にず〜っとつづいています。でもそれが「つづら岩」なのか、まだ私たちにはわかりません。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時59分=伊藤 幸司=236
左手に大きくそびえていた岩山がまずまちがいなく「つづら岩」なんでしょう。クライミングに興味のある人なら近づいてきちんと見たい岩なんでしょうね。でもこう見ると、どちらかといえば、たぶん、コンパクト、小綺麗という印象でしょうか。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】13時59分=伊藤 幸司=238
これはまさに「つづら岩」の道標です。「綾滝0.6km、天狗ノ滝1.3km」からという道が登ってきますが、それは白倉バス停のとなり、武蔵五日市側の千足バス停から千足沢沿いに登ってくるルートです。なお、天狗ノ滝は払沢(ほっさわ)の滝バス停から滝への道をたどると、移築した郵便局の局舎があって、かつて土産物屋として開いていたときには望遠鏡が置いてあって、それで真正面から見えた滝です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】14時05分=伊藤 幸司=242
つづら岩に邪魔されていた登山道が、再び稜線にでたところが岩の終わり。前の道標の写真から5分経っているのは、休憩を終えてこの写真を撮ったからです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】14時05分=伊藤 幸司=243
つづら岩のこちら側にもアンカーボルトが埋め込まれていました。これは穴をあけた岩の内部にボルトを打ち込むと内部でボルトが広がり、その拡張力で岩に固定されるタイプだそうです。グリーンフィールドというサイトでは———施工が簡単でミスが少なく、また強度も十分なことから多くの環境で使用されています。見た目の特徴は、ボルトの頭がなく、ナットで締められている点です。———とのこと。
「写真・伊藤 幸司=232」のところで———ちなみに、この日、岩場で会った初老の男性が、アンカーのメンテナンスやルート整備を行っていた。こういったボランティアによって古くからゲレンデは維持されてきたんだね。有難いことです。———と書かれていた「アンカー」が「アンカーボルト」のことです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】14時21分=伊藤 幸司=251
この道標は、基本的には危険な道のこちら側と向こう側にあって、仰々しい感じがするのですが、そのたびにけっこう「有効だ」と思います。緊張すれば問題ないとして、その緊張感をそのたびに呼び起こしてくれるからです。あちこちで目にしますが、リーダーとしてはありがたいと思っています。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】14時23分=伊藤 幸司=252
「道悪し」というのは、踏み外すとその後が危険ということを示していたみたいですね。まさに、慎重になりさえすれば問題ないというレベルでしょうか。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】14時25分=伊藤 幸司=253
ここにはロープが張ってありました。ロープがあって安全というわけではもちろんなくて、雨の日など、この石で滑ったりする人を心配しての、さらなる注意喚起なんでしょう。いわゆるトラロープを張ったところも、同様のレベルの注意喚起と考えるべきでしょう。「この先道悪し」の反対側の標識はこの1分後にありました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】14時30分=伊藤 幸司=256
確信を持って……というわけではありませんが、テンの糞ではないでしょうか。その下にある黒い糞はイタチじゃないかと思います。でもネットで糞の写真ばかり見ていると、けっきょくわからなくなるというのが本音です。もちろんグーグルレンズに放り込んでもみましたが、わからないみたいです。ただ、これがテンの糞にちがいないと思ったのは「Seesaa BLOG」の「動物のフンの見分け方」でした。似たフンの写真があって———テンは、基本的に肉食なので、果実をうまく消化できないそうです。形がそのまま残ったフンも多く見られるようですよ。———とありました。ブログの著者は「種山ヶ原森林公園」の関係者らしいのですが、宮沢賢治の作品をモチーフとした遊歩道があるそうで、場所は岩手県気仙沼郡住田町とのこと。それ以上のことはわかっていませんが。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】14時32分=伊藤 幸司=258
前方に明らかに高い山が見えてきました。なのに我々は下り気味。地図からイメージするアップダウンより、眼前の光景のほうが倍率が大きいという感じがしたものです。大岳山荘を出てからおおよそ2時間半、馬頭刈山という大きな目標地点で、気分も体力も一新しなければならないという感じがしました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】14時35分=伊藤 幸司=259
縦走路は相変わらず似た構造ながら表情を変えてくれます。これからは沈みゆく太陽の光のマジックも楽しめそうな気配、だと思いました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】14時41分=伊藤 幸司=266
この道をそれほどたくさんの人が歩いているとは思えないのに、道はほとんど迷う心配がなく、むしろ立派に伸びていました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】14時45分=伊藤 幸司=268
進行左側の斜面には人工林が続いていましたが、右側は落葉した自然林になりました。そして登り。標高850m前後の稜線に900m前後の盛り上がりがいくつかあって、ここで私たちは鶴脚山の登場を願ったのです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時06分=伊藤 幸司=276
標高=916mの鶴脚山で自分たちの位置が確認できたので、そこからの下りにはもう徒労感はありませんでした。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時12分=伊藤 幸司=282
後で国土地理院の電子地図で調べてみると、標高=916mの鶴脚山から標高約810mまで下って、そこから標高884mの馬頭刈山へと登り返せばいいのです。


大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時24分=伊藤 幸司=288
さすがに立派な山頂標識が立っていました。鶴脚山で10分休憩をとってからまだ25分でしたが、もちろんまた10分休憩。糸の会では「10分交代」のリーダーが交代時などに水分補給の小休憩をする以外の休憩だけはリーダーとしての私の専権事項となっています。
ほぼ25年のかなり前から昼食休憩というのはやめて、「水を一口飲む5分休憩」と「エネルギー補給になにか一口食べる10分休憩」の組み合わせにして、さらに行動全体にかかわる問題がありそうなら、リーダー権限で10分休憩に5分、10分と延長を付け加えたり、リーダーの無駄話で時間延長して、調子の悪い人にすこし長めの休憩をしてもらったり、花や風や眺めなど、先を急ぐ山旅より価値がありそうな場面に遭遇したら、それも勝手なリーダー判断で特別休憩を実施する、と決めていいるのです。
糸の会のリーダーとしての私は、全権を委任されたリーダーというより、予定したプランがうまく動いて、かつ予想外のいい場面に出くわしたらそれを逃さないというような、イベントにおけるフロアディレクター的な存在でありたいと考えてきたのです。登山という行動で事故が起きた場合は別として、あまり責任感の強いリーダーではありたくないのです。まずいことがあったら謝ったり、黙りこくったりしてしまえばいいと考えていますが、休憩のタイミングと時間だけはうまくいく、いかないにかかわらず、私にはけっこう真剣に考える「シゴト」なんです。
鶴脚山で10分休憩したあと、30分後に馬頭刈山でまた10分休憩したというのは、(成功したかどうかはともかく)仕掛け人の私としては十分に価値のある仕掛けでした。これで長い馬頭刈尾根のイメージを一区切りさせたはずですから。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時26分=伊藤 幸司=290
馬頭刈山山頂での男性二人組。たぶん日本有数の旅人というべきお二人で若いときから日本中を視野に入れた旅をしてきたうえに、お二人の話をそばで聞いていると話題がこまかい。ナニナニ村のナニナニさん、というレベルの話題なんですね。私が深く影響された「旅する巨人」の宮本常一先生の話と、同じレベルなんですね。この写真の中でも、南の小島のナントカさんのことを話しているような感じでした。その背後に、うまいぐあいに大岳山がそびえていました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時37分=伊藤 幸司=296
馬頭刈山の標高=884mから標高約200mの瀬音の湯まで、一気下りが始まりました。あとは下るだけ、というだけで気持ちは軽くなりました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時44分=伊藤 幸司=299
このような下りでは、岩があっても、木の根が張っていても、あるいはぬかるみや足元をすくわれやすい礫があっても、ダブルストックで深い前傾姿勢がとれれば不安が大幅に削減されます。とくに女性たちのスピードの低下や「怖さ」からくる転倒の危険などを縮小できるので、リーダーの私としては帰路の予定をだんだん現実のものとして考えられるようになる感じがします。ダブルストックの標準装備化は創設直後から糸の会の行動の安全性に驚くほど大きく貢献してきたのです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時45分=伊藤 幸司=301
進行右手に、また立派なスギ・ヒノキの人工林が続きました。看板によれば平成24年度(2012)の森林再生間伐事業が行われた森林のようです。その看板によって、馬頭刈山を境にして檜原町からあきるの市になったことを知りました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時49分=伊藤 幸司=306
じつは西多摩郡日の出町にある東京都森林組合は2002年に6市町村、すなわち八王子市、青梅市、あきる野市、日の出町、檜原村、奥多摩町の森林組合が合併して東京都で唯一の森林組合となったというのです。要するに東京西部の山岳地帯全体の森林整備とその林業経営を担おうという組織のようです。
東京都森林組合のホームページによれば、たとえば「森林整備事業とは?」は———森林の手入れをし、国や都から補助を受け取ることができる制度です。———とのこと。
また「森林循環促進事業とは?」では———花粉の少ない森林を育て、林業の再生を目的としています。将来も林業を継続しようとする森林に対して、スギ・ヒノキの伐採と、花粉の少ないスギ等の植栽・保育を実施し、伐採・搬出・木材販売を行います。立木は(公益財団法人)東京都農林水産振興財団が森林所有者から買い取ります。国や都の補助金を活用して、20年間または30年間の森林整備を実施します。———
で、その施行内容には———スギ・ヒノキの伐採、花粉の少ないスギ・ヒノキの植栽、保育管理(シカ防護柵設置、下刈、補植、除伐、間伐、枝打)———といったものがあるようです。
また「長期の森林経営委託」では———森林所有者、組合、(公益財団法人)東京都農林水産振興財団の三者で造林保育契約を結び、植栽・保育を通じて花粉の少ない森づくりができます。組合では、森林所有者の意向を受け、森林経営計画を作成しています。———
そしてその費用については———補助金(国・都)および(公益財団法人)東京都農林水産振興財団の負担により、森林所有者の費用負担は原則ありません。———ということです。
スギ・ヒノキの間伐・枝打や所有者の境界確定など、あらゆるシゴトを担当して、東京都の森林の健全化をすすめていくということのようです。私たちはいま、東京都森林組合のそういう仕事の領域を歩かせていただいている、ということがいえそうです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時50分=伊藤 幸司=308
突然思い出したのは5時間前に見た「天狗の腰掛け杉」。ここには「天狗の隠れ家」があったんですかね。直線距離で約5km。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時52分=伊藤 幸司=310
高明山山頂のプレートです、まず。もうひとつの山頂プレートが次の写真にありますし、この2つの山頂プレートの位置関係がわかる写真はさらにその次に。本来なら簡単に済ませたかった縦走最後のピークでしたが……なぜか山名にかかわる難問に踏み込んでしまったので、次の写真で長々と書くことになりました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時52分=伊藤 幸司=311
高明山(こうみょうさん・標高=798m)の山頂は、一瞬、探さなくてはわからないような状態でした。以前ここはいかにも山頂らしいたたずまいだったと思いますが、たぶん周囲が広範囲に伐採されたために、ゆるやかに盛り上がったところに、かろうじて山頂の標識を見つけたというわけです。新しい「高明山・798m」という標識(前の写真)とはちょっと離れて、これは別の木にかかっていました。
山頂が点ではなくて面らしい、という感じは次の写真でおわかりいただけるかと思いますが、そういうアバウトな感じに入り込んでくる、さらにやっかいそうな問題があったのです。鶴脚山山頂の道標では「光明山(高明山)Mt.Komyo」という表記になっていたのです。その道標は速報の写真(伊藤 幸司=271、273)でごらんいただけます。
さっそくあきる野市のサイトで調べてみると———高明山は、地元では光明山ともいわれ、登山道には高明神社跡へつづく並木道が残る。———とありました。
そこで「光明山」で調べてみると、ありました。郷土の古文書・その31…乙津村「字高嶽」誤謬訂正願というものです。古文書とその読み下し文もありますが、ここでは文頭の「解説」から抜書きするのにとどめたいと思います。要するに「光明山」を主張する古文書類です。
———文中に「住古より光明山とのみ唱へ」とあるが、先ず江戸時代の文献よりみてみることにする。
『新編武蔵風土記稿』「光明山 村ノ北ノ方ニアリ 麓ヨリ絶頂ニ至ルマテ凡三十町熊野社ヲタテヽ山ノ鎮トス」
『武蔵名勝図会』 「光明山 この山は村の北にある高山なり。山多しといえども、御嶽、大嶽及び当山を名付けて三崚山と称す。熊野権現絶頂にあり。神体は鋳造の本地仏。この辺の高山にて御嶽、大嶽とこの山を三山がけと称して、参詣するに嶺づたいに往還す。」———
江戸時代から「光明山」であったのが高明山となり、高明神社となった経緯については次のように書かれています。
———高明神社については、明治になって付けられたもので、それ以前の古文書では「熊野大権現」または「熊野三社(所)大権現」となっている。光明天皇にいただいたのは、光明山の名か、あるいは江戸時代に書かれた「武蔵演露」に出てくる寺で、延文年中(1356~60年)新田義興の残党に、熊野権現本社ともに焼き払われた別当光明寺のことではないだろうか。
古代から中世に盛況だった山嶽信仰による修験道者達の経路の一拠点として、御嶽、大嶽とともに三山の一山として「嶽」の字にこだわり「字光明山」を字「高嶽」としたと思える。
また、明治元年より出された神仏分離令により、仏教的用語の使用禁止で、仏語「光明」や「権現」を使用するわけにはいかず、「高嶽」の高をあてた「高明神社」としたのではないだろうか。いづれにしても単なる筆者のあやまりではなく、考慮を重ねた結果と思われるが、由緒ある「光明山」という山の名前まで、昭和になって国土地理院の地図上に「高明山」と誤記されてしまったことは残念でならない。———
これによって、国土地理院の地図で確定された「高明山」に対する地元の「光明山」の根拠はよくわかります。しかし国土地理院の山名が学術的な調査によるものでなく、地元役場などに対する行政的な地名調査で(たぶんあまり悩まずに)山名をひとつ確定し、地元の役場でわからない名前については山仕事にかかわる人たちの呼び名を拾って(しばしば川の名によって)山名を確定したというたぐいの問題であったように思われます。国土地理院が確定した山名を変えるのはなかなか大変なことではないかと思われます。
ただ、国土地理院地形図の地名や記号類は現実に合わせて順次修正されているので、それが山の名前には及ばないとは言えないと思います。
でもそのことより、今回私が驚いたのはこの文書の保存アドレスというべきURLにあった「cmsfiles」という言葉からでした。調べてみると「コンテント・マネージメント・システム」といって、WEBサイトに膨大な資料を、簡単に蓄積していける画期的な方法のようです。あきる野市はそれを利用して、郷土史のデジタル図書館を目指しているらしく、高明山の名に疑問を持った私にほとんど確定的な資料を提供してくれました。
かつて私が全国の郷土史から材料を探し出して原稿を書いていたときには、とりあえず1万円をポケットに入れて広尾の都立中央図書館に行き、めぼしい本を借り出しては1枚30円のコピーを申し込むという作業を1日やってみる、という取材法をとっていました。
郷土史の多くは出版されたとしても地元の出版社によるものが多くて国会図書館でないと探せないという状況のなか、都の中央図書館は思いのほか蔵書が多く、かつ借り出しやコピー依頼がスピーディーにできるので便利に使わせていただきました。
しかし、日本の村は時代を経るごとに合併を繰り返して、江戸時代にあった村(のちに小字や大字となったもの)にまでさかのぼるような「郷土の歴史」はローカルな保存体制でかろうじて生き延びている状態だと思うのです。それをコピーするのに近い手間でWebサイトに放り込んでいただければ、どこからでもアクセスでき、必要部分を探し出すのも驚異的に簡単、なんですよね。日立ソリューションズの説明を見ると、CMSの中規模サイトで数千~数万ページ程度、大規模サイトとなると数万ページ以上を想定しているというのです。全国の無数の郷土史がWeb空間でつながったら、日本人の歴史はもっと分厚いものになるんじゃないかと思ったのです。
今回のこの「高明山」の山名のおかげで、新しい世界をひとつ見たような気がします。ただ、「光明山」のふもとのみなさんが「御嶽、大嶽及び当山を名付けて三崚山と称す」としてきたというのはちょっと不遜じゃないですかね。すぐ隣りに86m高い馬頭刈山がありその隣に118m高い鶴脚山があって、御岳山〜大岳山〜高明山というよりは、鶴脚山〜馬頭刈山〜高明山という「三崚山」が身の丈にあっているんじゃないかと思いました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時52分=伊藤 幸司=312
これが高明山の山頂です。画面右の木に止めてあるのが前の写真の「高明山」で、左奥の木につけてあるのが(速報にある写真・伊藤 幸司=310)の「高明山」です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時53分=伊藤 幸司=313
山頂から下ります。山頂の様子そのものがずいぶん変わってしまったので、もうひとつ、何かが出てくるのかこないのか、不安な気分で眺めていました。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時54分=伊藤 幸司=314
どういう意図でなのかわかりませんが、間伐という以上の伐採が行われているようです。木材として切り出した気配も感じられず、素人にはほとんどわかりません。そういう場合にはなにか「開発」と名付けられた大規模な改変事業が行われるのではないか、と思ったりしてしまいます。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時54分=伊藤 幸司=315
でも、杞憂でした。高明神社のところには、過去何回か訪れたその雰囲気がそのまま残っているようでした。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時55分=伊藤 幸司=316
振り返れば表参道。立派な灯籠があり、鳥居もありました。大嶽神社の奥宮と比べたらこちらのほうがりっぱかもしれません。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時58分=伊藤 幸司=323
参道沿いには大木が残されているようです。でも、かなり太い木も伐られています。なにか大きな計画が進行しているような気配を感じますが、どうなんでしょうか。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】15時59分=伊藤 幸司=324
やはり何か、大きな動きがあるようです。これも東京都森林組合がからんだ森林経営の一端なのでしょうか。この先、右手には東京都環境局とあきる野市による「森林再生間伐事業」の看板がありました。「第1回目間伐:平成18年(2006)、第2回間伐+令和4年(2022)」とありましたから、まさにそれに関係した林業事業の光景なんですね。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】16時00分=伊藤 幸司=327
高明神社の参道脇に置かれた木材片。おそらく用途の決まった材木片なんでしょう。私には見当がつきませんが。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】16時02分=伊藤 幸司=330
さすがにただの登山道とはちがいますね。私たちはだんだん、歩くペースを快適なものにしながらこのいわば時間と人が積み重ねてきたゴージャスな道を下ったのです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】16時03分=伊藤 幸司=332
一時期、つまり石原慎太郎知事が東京都の森林になにがしかの変革を求めたころ、私たちはこういう山道を歩いていませんでした。本来なら「美しい森」とされた杉山があちこちで「お化け屋敷」状態になっていたのです。東京都環境局の補助による間伐事業などが東京都の山をしだいにきれいなものにしたのは確かだと感じています。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】16時04分=伊藤 幸司=333
これはみごとな杉でした。登山道と参道との違いは、そこにある樹木の圧倒的な年輪の違いだと思います。そしてそれが、単なる大木、古木ではなくて、人が植えてそこにある、という特別な関係を感じさせるものだからだと思うのです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】16時15分=伊藤 幸司=346
とうとう、高明神社の鳥居をくぐりました。このすぐ下で道は「軍道を経て十里木バス乗り場」と「秋川渓谷・瀬音の湯 1.9km」に別れます。私たちはもちろん瀬音の湯に向かいます。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】16時25分=伊藤 幸司=355
若い造林地を抜けて、どんどん下ります。私たちの旅も、いよいよ終盤です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】16時31分=伊藤 幸司=362
このあたりは2021年(令和3)に森林再生間伐事業が行われた森です。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】16時57分=伊藤 幸司=375
登山者専用の吊り橋で村の道を渡りました。標高約280mです。下の道に降りられれば降りたかったのですが、標高=326mの長岳から瀬音の湯へ直接下る道を選びました。国土地理院のデジタル地図には吊橋を渡ったところから下の車道に抜ける道が描かれていますが、守屋二郎さんの「奥多摩登山詳細図(東編)」にはなく、私たちにも見つけられませんでした。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】17時05分=伊藤 幸司=377
長岳(標高=326m)は高まりのてっぺんという感じでもなく、その尾根は秋川と、秋側に合流直前の養沢川とに挟まれた小さな張り出しで、右側足下には瀬音の湯を訪れる人たちの車が見えるのに、わたしたちが最後まで降りられない感じでまだか、まだかと歩いていたのです。

大岳山、馬頭刈尾根
【撮影】17時18分=伊藤 幸司=383
その小さな尾根から下り始めるとコブシの花が咲いていて、その先に瀬音の湯の駐車場がありました。



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