【撮影】08時11分=伊藤 幸司
ここはどこかというとJR立川駅構内のカフェ・ドリップマニア。千葉方面からの皆さんは06:38千葉始発の特急あずさ3号に慣れているのに加えて、コロナ感染の不安が少ないということで07:51立川着。ところが立川駅ではこの時間帯の青梅線・五日市線下りが意外にも通勤・通学のラッシュなので、正規の指定往路は08:49始発の武蔵五日市行きとして、それまで待つことにしたのです。
【撮影】09時44分=伊藤 幸司
JR武蔵五日市駅到着は09:22。すぐにタクシーで「あじさい山」へ。じつは2019年の7月4日にここにきたときにはアジサイが満開でした。2匹目のなんとかで計画してみたものの、今回、入口は驚くほど静かでした。
【撮影】09時48分=伊藤 幸司
「あじさい山」という名前は地形図にはありません。「南沢」という地名も。でも
ajisai-yama.comというホームページには————「南沢あじさい山」は、東京都あきる野市にある「あじさいの名所」です。————とあって、毎年1万人が訪れるというのです。前回は裏口から下ってくるかっこうになったのでするりと抜け出てしまいましたが、500円の入場料を払うと有料入場者だという印をくれました。
【撮影】09時48分=伊藤 幸司
まあ、看板の「お山の地図」という手書きのタイトルと、その下に貼られた案内地図とのギャップが、ここの魅力なんでしょうね。————感染防止のため看板の矢印に沿って一方通行でお願いします————とありますから、新しい案内図なんですね。
【撮影】09時51分=伊藤 幸司
ホームページによると————この南沢あじさい山は、地元に住む“ちゅういっちゃん”こと南澤忠一さん所有の山、約50年前、両親が眠るお墓への道に彩りを、と林道に20本ほどあじさいの苗を植えたそうです。それを機に毎年植え続け、たった一人で1万株まで増やし、今では季節になると多くの観光客が訪れるようになりました。————とか。
そして————あじさい山の後継者として名乗りをあげた高水健さんは、あきる野市の企業株式会社do-moの代表。do-moはレストラン「do-mo kichen CANVAS」の運営などを通して、あきる野地域の活性化事業を行う企業。あきる野市出身の高水さんは、「忠一さんが長年守り抜いたストーリーのあるあじさい山を守りたい!」と、事業としてあじさい山を支援、維持することを決意したそうです。————
【撮影】09時52分=伊藤 幸司
花屋で見るゴージャスな花と同じ仲間が山では質素に見えるという代表例がこのアジサイだと思っています。あじさい山のホームページによると————その種類は豊富で、「ダンスパーティー」「隅田の花火」など、珍しい種類のあじさいも。次第にあじさい山の美しさは口コミ等で広がり、今では外国人も訪れる観光名所になりました。————とのことですが、私が一番好きなコアジサイの6月のブルーや、山道では王者の貫禄を見せるヤマアジサイ(やアマチャ)と比べると、本家本元のガクアジサイから世界中の人の手によって化粧やら美容整形されたアジサイたちです。いわゆる「セイヨウアジサイ」で麓次郎の『四季の花事典』によると————さて、最近花屋の店頭には、春先から球形またはやや扁球形の大きい花穂に、青碧、紫、紅紫、紅、桃、白など鮮麗な色彩をした大ぶりの装飾花をそれぞれ盛り上げるようにつけた素晴らしいアジサイの鉢物が人目を惹く。元来、これは古くに日本から中国に渡って野生化したガクアジサイをヨーロッパで改良・育成したものである。すなわち、揚子江東部地区を中心に帰化状態になっていたガクアジサイの中から、装飾花の多いものをイギリス人バンクス卿が入手し、1788年頃に自国のキュー植物園に寄贈した。初夏に咲き誇るこの東洋の花はたちまち、ヨーロッパの人々の注目を集め、アジサイと異なり、結実をするのを幸いに改良が繰り返され、1800年頃にはイギリス国内にかなり普及しさらに————という出自をもつ豪華絢爛のセイヨウアジサイたちが1万株植えられているということになります。
【撮影】09時53分=伊藤 幸司
例えばこのアジサイに名前はあるのかと調べてみると、ありました。
「紫陽花図鑑」です。————植物園などで撮った、319品種(種類)のアジサイを図鑑形式で紹介する写真集————だそうです。「アイヒメ(藍姫)」から「ロッコウヤエテマリ(六甲八重てまり)」まで、名前がアイウエオ順に並んでいます。労作です。ちなみにあじさい山のホームページで「珍しい種類の」と書いてあった「ダンスパーティ」(2015.5.23埼玉県)も「隅田の花火」(2009.6.13としまえん)もありました。でもわたしが見たこの花が何かということになると、じつはわからないのだ、ということもわかりました。少なくともこの花のピークがどのようなものなのか知らないと、妖怪さがしの図鑑みたいな感じになってしまいます。
【撮影】09時53分=伊藤 幸司
これは、たまたま、わかりました。ダンスパーティがこれなんですね。
「紫陽花図鑑」の「ダンスパーティ」には3枚の写真が出ていて「2015.5.23埼玉県」があったからわかったものの「2007.6.18としまえん」と「2017.6.12相模原北公園」ではとても同じものとは思えなかった。
【撮影】09時54分=伊藤 幸司
左手に小さな沢があって、その両岸にアジサイが植えられてきたのです。
【撮影】09時55分=伊藤 幸司
これがその小さな沢。国土地理院の地形図(政府が国土管理のために用意したオフィシャルマップ)に載っていない「南沢」なんでしょうか。年間を通して常時流れていて、地図上の長さが10mm(国土基本図である2万5000分1地形図では250m)以上、すなわち全長250m以上ないと「川」と認識されません。
【撮影】09時57分=伊藤 幸司
アジサイがこういうふうに密植されると、山で出会うアジサイの雰囲気になってくるのだと思います。アジサイは樹高1〜2mの落葉低木とのことですが、
「あじさい庭に植えてはいけないの真相とは/縁起が悪い?風水?繁殖力?」には次のように書かれています。————アジサイは意外と大きくなります……剪定して希望の大きさに保つこともできますが、品種によっては放っておくとかなり大きくなり、高さは2メートル以上、一株で1000以上の花を付けるものもあります。————
【撮影】09時57分=伊藤 幸司
これは、千両役者とはいえないまでも、なかなかの存在感ですよね。もしや?……と思って
「紫陽花図鑑」でスミダノハナビ(墨田の花火。別名花火アジサイ)を見ると、「2009.6.13としまえん」の写真では花色は白。でも花の雰囲気はまったく同じでした。この紫色のほうが夜の花という気分ですよね。
【撮影】10時34分=伊藤 幸司
南沢あじさい山に入場したのが9時50分、10時25分まで35分ほどで最奥まで行って戻ってきました。正直なところ、前回と比べると「あじさい山」はかなり寂しい感じがしましたから、サッと往復した感じでした。
前回は(日の出山へと続く)金毘羅尾根の金比羅山(468m)から脇道に入って下ってきましたが、そのときの主役はじつは地形図では標高460mの無名峰となっている深沢山でした。ですから私たちはタクシーで上がってきた三内川の「あじさいばし」まで下って、そこから上流の深沢集落に向かったのです。
【撮影】10時35分=伊藤 幸司
「あじさいばし」のこの絵、ちょっとすごいじゃないですか? こういうデザイン性が東京都あきる野市深沢の「南沢あじさい山」に品格を加えているように思いました。この絵は、この日の、その後の行動を決める上で重要なポイントとなったように思います。
私はこの日、企画立案者として、この日の主目標としたアジサイが合格点をもらえなかったと感じていたので、これからの行動の中でなにか加点できるものはないかという気分でした。前回は古くからのメンバーで、今では世田谷区で森林インストラクターになっている国木田さんの馴染みの食堂に案内されましたが、今回はそれも省いています。コロナ対策で軽くしたとはいえ、中身が薄くなると私のフロアディレクター的評価が保てません。前回はこの「あじさい山」へ友人を連れて再訪した人もいましたから、アジサイが合格点だったのはまちがいありません。どうにかして、どこかで、加点をとらないと。
【撮影】10時35分=伊藤 幸司
「あじさいばし」の傍らにあった案内板です。3つの写真が載っていますが、金比羅山は今回はカット、あじさい山のあとは「山抱きの大樫」に寄るかどうかです、その後私たちは「千年の契り杉」から深沢山へと向かうのです。
【撮影】10時35分=伊藤 幸司
これも「あじさいばし」のたもとです。左に行くと600mで南沢あじさい山。前方(三内川上流)に向かうと700mで山抱きの大樫、800mで深沢小さな美術館、1,000mで深沢家屋敷跡、と書かれていました。すなわちおすすめの項目なんですね。
さらに、私はその隣りにある木像が気になりだしていました。勝手な印象では木偶の坊。ネットで調べてみると英語ではいろいろな言い方になるようですが、その掴みどころのなさに関して a good-for-nothing (fellow) という研究社「新和英中辞典」の英訳がいいように思いました。じつはあじさい山にも同じ(ような)鉛筆人間が何人もいたので、ナンジャラホイとはおもっていたのですが、ここでひょっとしたらキーマンなのかもしれないと感じ始めていたのです。
【撮影】10時35分=伊藤 幸司
もちろんその、鉛筆型なんじゃらほい人形の表情を撮りました。少なくともこびた表情ではないのですね。そのへんが木偶の坊でも a good-for-nothing (fellow) でも、気になってくるんですね。
【撮影】10時36分=伊藤 幸司
山間の村落の道としては、狭いけれどいい道でした。写真を撮る人はどんどん遅れて行きますから、行動の決定権をもっている私は大声で「ストップ」をかけられる範囲にはいなければいけないと思っています。これが登山道なら、10分ごとを目安に全員が集結して、最後尾の人が先頭に出ますから、先頭がどんどん行きっぱなしになるという不安はないのですが。
【撮影】10時38分=伊藤 幸司
なぜですかね、とても端正な道だと思いました。写真に写っているもののひとつひとつはごくありふれた山村集落のものなのに、なにか、どこか、心地よい、のです。車で走ったらもったいない、と思いました。
【撮影】10時39分=伊藤 幸司
道際の木工業系の仕事場に木偶の坊がふたりいました。おじさんがいたので聞いてみると、「この人形は銀座に持っていくと10万はするよ」という謎のコトバ。ナンジャラホイという気分で聞きましたが、どれも少しずつ違っていて、表情のあいまいさもだんだん気になってきました。だれかがどんな理由かシコシコと作っていて、銀座へ持っていけば結構な値がついて、ここでは村の自慢としてあちこちに置かれている……と。昔ならお地蔵さん、というような役割でもあるんだろうか。
【撮影】10時41分=伊藤 幸司
地形図に「深沢」という地名が載っているあたりに入ってきました。この先に「深沢家屋敷跡」というのがありますが、江戸時代には深沢村名主として山林地主となり、
「東京都文化財情報デーベース」によると深沢一族は————3町14か村から40名近い会員を集め学習会・討論会・研究会などを行っていた民権結社「学芸講談会」の指導的立場にあり、また五日市地域の自由民権運動の中心的な人物でもありました。————
【撮影】10時46分=伊藤 幸司
「千年の契り杉」への分岐のところまた木偶の坊がふたり立っていて「深沢小さな美術館」という案内がありました。
【撮影】10時49分=伊藤 幸司
行動を決定づけたのはさらに3分後に現れたこの木偶の坊たちでした。「OPEN 10:00-17:00」というハートマークの下に「喫茶室あります」とありました。じつは私の視野にない美術館でしたし「小さな」という言葉を添えたローカルな美術館で作家名がないとすれば収蔵品を並べた「田舎の」という感じがしましたが、やはりここでも木偶の坊に引き込まれるようにして、入ってみることにしたのです。温かい飲み物とトイレがあれば、マッ、イイか、ということで。
【撮影】10時49分=伊藤 幸司
美術館の入口まで、まだ木偶の坊くんがいたんですね。で、これがどうもその代表者という感じで「コンニチワ」と声をかけてきたように感じました。
【撮影】10時50分=伊藤 幸司
駐車場の入口のところまでくると、この木偶の坊が、どうもこの美術館と深い関係があるらしいと感じました。ちょっとうっとおしい感じにもなりましたけれど。
【撮影】10時51分=伊藤 幸司
美術館の入口です。このとき私は、美術館の展示は見たい人だけが見て、他の人は喫茶室だけ……だといいけれど、と考えていていたのです。
【撮影】10時53分=伊藤 幸司
喫茶室だけ、という利用はすぐにだめだとわかりました。美術館の入口で靴を脱いで、その中に喫茶室はあったのです。あまりにも小さな感じの美術館に靴脱ぎでモタモタしながら、私たちは入館を果たしたのです。
【撮影】10時56分=伊藤 幸司
美術館に入って最初に見たのはこの仏像でした。帰ってから調べてみると「風立ちぬベンチ」というブログの
「秋の女子会1 深沢小さな美術館」2017年11月17日に次のように書かれていました。
————こちらは桜の樹の一本彫りで制作された阿弥陀如来像、マレーシアの僧侶の依頼により制作されたそうです。日本の阿弥陀如来像だと、もっと複雑な造形になるけれど、マレーシアでは出来るだけシンプルな像をとの依頼だったそうです。光背なども複雑な形ではなく蓮の蕾で作ったところ大変気に入っていただいたそうです。————
ところが、この阿弥陀如来像の画像をネット上でいくつも見ていると、顔がずいぶん違っていて、少なくとも2体はあるように思われるのです。見る角度によって変化するのでしょうが。
【撮影】10時57分=伊藤 幸司
私はプリンプリン物語をほとんど見ていないのでとりあえず手前のおじさん(ルチ将軍というんですかね)を中心に撮っただけです。ウィキペディアで
造形作家・友永詔三(ともなが・あきみつ)を見ると、————1978年にNHKより人形劇演出のオーディションの誘いがあり、これを受けて採用が決定。『プリンプリン物語』で採用された人形には、関節部分が球体となった球体関節人形があり、操演の難度は高いものの動作の自由度が高く、幅広い表現が可能であった。その後番組終了まで約500体以上の人形を製作した。
その後も、人形美術、舞台美術、木版画、木彫、ブロンズ像などの作品を数多く手がけ活躍を続けている。————とのこと。ここはその自作の建物で、自作の作品展示場ということのようでした。私たちが鳴らしたベルで奥から出てこられたのは奥様でした。
【撮影】10時58分=伊藤 幸司
かつての有名写真家・秋山庄太郎が撮影した『聖少女幻想 友永詔三作品集』(2002年・水玄舎)という本があるのだそうですが、この超スリムな女性像は、そのシリーズだと思われます。グーグルの画像検索でずいぶん探してみましたが、ここにある作品は見つかりませんでした。
【撮影】10時59分=伊藤 幸司
この木彫の裸婦は材料に思わぬ裂け目が生じてしまったのだと思われます。ただ、背景に見えるポスターの木彫と同一シリーズのように思われるので拡大してみると、平成11年(1999)に長野県小布施町のおぶせミューゼアムで行なわれた「友永詔三展・飛翔する造形」時代のもののようです。
【撮影】11時03分=伊藤 幸司
この作品には「花の香り——緑のイヤリング」というラベルがついていました。背後の壁も窓もみな友永詔三さんの作品だということですから、すごいですよね。
【撮影】11時05分=伊藤 幸司
これは、まあ、影の演出が目を引くんですね。窓と壁の関係をうまく使えば、たとえば「午後の日時計」といったものになるんじゃないかと思いました。
【撮影】11時05分=伊藤 幸司
ここに出てきました。私が勝手に木偶の坊と呼んだやつです。ZiZi(ジジ)という名前がついているようですね、どこかで聞いた名前と一緒ですが「森の妖精・ジジ」とか。あるいは「きっぽ爺さん」という名前もあるようです。「風街角」というブログの
緑の森の小さな美術館(2017年06月20日)には次のように書かれていました。————かわいい木の人形ZiZiは「きっぽ爺さん」とも呼ばれ、友永氏が作成されています。「きっぽ爺さん」は、友永氏が創造した樹の精霊、森の番人なのだそうです。————
【撮影】11時05分=伊藤 幸司
これはまったく、美術館の中では異質な感じがしました。針金美少女群との対極という感じで見ました。もちろんヴィーナス・ダルマということになるのでしょうが。
【撮影】11時06分=伊藤 幸司
ふと見上げると……。入れ物も置き物も全部友永詔三作という楽しさがありますね。
【撮影】11時07分=伊藤 幸司
これは男性像に近いのでしょうか。ラベルには「芽だちのころ 平成元年(1989)」とあります。
【撮影】11時07分=伊藤 幸司
これは、ボディが紙のピエロですかね。ウィキペディアでは
友永詔三を「造形作家」としています。————専門学校東京デザイナー学院インテリアデザイン科を経て1967年に東宝舞台美術部に入社する。同年、オーストラリアの人形劇団『Peter Scriven's Tintookies』(参考 ピーター・スクリベン(英語版))のオーディションに合格。人形デザインの勉強に専念するため東宝舞台を退社し、翌1968年にはオーストラリアに渡る。1970年までオーストラリアでピーター・スクリベン、イゴール・ヒチカ(Igor Hyczka、ロシア、マリオネット美術家)に師事する。
帰国後、東京デザイナー学院の講師を務めながら、芸術マリオネット劇の上演、美術、演出、人形制作に携わる。————
【撮影】11時08分=伊藤 幸司
これがプリンセス・プリンプリン。
ウィキペディアによると————プリンセス・プリンプリンは古代インドのラーマーヤナが元であるため、インドで装飾具や生地を購入していた。装飾には本物の銀を使用し、まつ毛は天然のホロホロ鳥の羽など素材にこだわった結果、1体作るのに100万円近くしたという。————
【撮影】11時11分=伊藤 幸司
最初の阿弥陀如来像からプリンセス・プリンプリンまで10分ほどで「小さな美術館」を一巡したことになりますが、濃密な10分でした。恥ずかしながら、私たちの本来の目的だった「あったかい飲み物」を求めて喫茶室に入ると、そこにも、この do it yourself の庭がありました。
【撮影】11時11分=伊藤 幸司
前の写真ではわかりませんが、この写真だと、この池が「ヘン」だわかります。雨粒が作る水紋が広がる湖面と、穏やかな水中の光景。その2つの光景を仕切っているのが一本の木……に見えるのですから、不思議ですよね。マジックです。
【撮影】11時12分=伊藤 幸司
たぶん、自然石の雰囲気を出しながら、作り上げたオブジェなんでしょうね。美術館を建てて、こんな庭を作って……暇だったんでしょうかね、友永さんは。私の1歳年上のこの人の人生を感じさせてしまう「美術館」でしたかね。
【撮影】11時15分=伊藤 幸司
このコーヒーと紅茶、友永さんの奥さんが全部ひとりで出してくださいます。私たちは温かい飲み物つきの持ち込み昼食とさせていただきました。ちょっぴり笑い顔のZiZiさんですね、これは。
【撮影】11時15分=伊藤 幸司
喫茶室から池を見ました。水面の右側に見える木の棒にご注目。
【撮影】11時23分=伊藤 幸司
池の木の棒のところをきちんと見ると、池の一辺をガラスで持ち上げてこの木を押さえにしているとわかりました。「見える」ということに並々ならぬ努力を払っていると知って、この美術館の印象はさらにアップしましたね。
【撮影】11時23分=伊藤 幸司
展示室から喫茶室に入ると、建物に目が向きました。設計図を描いてつくったのか、成り行きで、フリーハンドでつくったのか、まあ、作品なんですね。
【撮影】11時25分=伊藤 幸司
建物と壁面彫刻と、絵画(他の人たちの作品)と家具と(たぶん照明器具と)飲み物がこの空間をつくっていました。
【撮影】11時46分=伊藤 幸司
深沢小さな美術館の滞在時間は昼食を含めて1時間でした。
【撮影】11時46分=伊藤 幸司
これは外から窓越しに見た美術館内部。写真を見ているうちに床が緩やかに盛り上がっているのに気づきました。意図的なんでしょうね、きっと。
【撮影】11時47分=伊藤 幸司
入るときの気分では感じませんでしたが、去り際に振り返ると、なかなか印象的な風景でした。ZiZiさんたちに見送られての退出です。
【撮影】11時48分=伊藤 幸司
せっかくですから、すこし引いた感じで入口を撮っておきました。
【撮影】11時48分=伊藤 幸司
来たときに私が勝手に「木偶の坊」と呼んでいたこの人は、いまではZiZiさん。樹の精霊、森の番人……かどうかは、まだわかりませんけれど「きっぽ爺さん」という感じはしますかね。
【撮影】11時55分=伊藤 幸司
これは何の写真かというと、最近注目されてきたワークマン・レディースのポンチョ。ポンチョは半世紀前、ゴム引き布やビニロンシートなどで蒸れを防ぐためによく使われた雨具ですね。これは透湿防水の雨具の背中にザックスペースを隠し持った登山用具として、復活してきたということでしょうか。
じつは糸の会創設の1995年からずっと、超初心者のみなさんには「登山用の雨具を買うのは待って!」というのが原則でした。私がポリ袋の70リットル、90リットルでかなりうまく応急のポンチョと巻きスカートを作れましたし、コンビニで買えるビニールレインコートで日帰り程度の山なら非常時の対応は可能だからです。
そしていよいよ本気で山歩きを歩きたいという人には、2万円出して、登山用品店でモンベルのストームクルーザーかそれに類似の、極薄の透湿防水レインウエア(上下)を買ってもらうことにしていました。ゴアテックスの透湿防水機能にときに問題がありましたが、透湿防水で驚くほど軽量・コンパクトなレインウエアは遭難時の体温維持にも有効(日常的な汗をかいた後の体の冷え対策にもおどろくほど有効)な、重要な非常用装備だと考えたので、モンベルの世界デビューとなった革命的なストームクルーザーを勧めたのです。(当時中高年の)登山者には、使わないときのコンパクトさが重要でしたから。
加えて約2万円の(当時は唯一の)LEKIのダブルストックを歩行管理上の常用装備として購入してもらいました。歩き方を正しくサポートしてくれることと、女性の下りでのスピードと安全性を確保するための、すばらしく優れた装備だと思ったからです。地方の山にでかけると「四足歩行はいやだなあ」などと地元の登山者にこれみよがしにいわれたりしましたが。そして靴に関しては「当分、履きなれた運動靴で」というのが糸の会の最重要三点セットとなったのです。
ここに写っている佐藤さんは、四半世紀のお付き合いで、なんと80歳を超えました。
【撮影】11時57分=伊藤 幸司
深沢小さな博物館の入口に戻って、反対側の道を進みます。「千年の契り杉」という標識が出ています。
【撮影】11時59分=伊藤 幸司
農村の道はいま、どの家も庭先まで最低限軽トラックが入れる道が通じています。さらに奥多摩などでは駐車場から玄関までモノレールで運ばれるようになっている家もあります。この道はそういう意味で微妙な表情をしているな、と思いました。勝手な印象ですけれど。
一般論でいえば、いま山村は過疎になり、限界集落という問題が浮上していますが、私の師というべき『旅する巨人』の宮本常一先生(故人)が深く後悔していたのが離島に橋をかけ、山村に車で上がれる道を整備したことの成り行きでした。いずれもそれぞれの地域の生活と文化を守るためだったはずなのに、大人の職場が里に下っていき、子どもたちはスクールバスで里の学校に通うようになり、集落がゆっくりと空っぽになっていったのです。渋沢財閥2代目で戦前・戦後に大蔵大臣を務めた渋沢敬三が「自慢の居候」と公言した宮本常一の社会改革運動が大きな成果を上げたあと、経済成長の波に飲み込まれていったのです。
【撮影】12時00分=伊藤 幸司
この家の庭先から登山道は始まります。里山ではよくある例ですが、他人が土足で入ってくることをどう感じているんでしょうか。いやなら登山口をちょっと変えるぐらい、たいして難しいことではないと思うのですが。
【撮影】12時01分=伊藤 幸司
この気分、光景はさまざまですが、里から山へと移り変わる瞬間はいつも心地よく感じます。畑の名残りみたいな雰囲気があったりしますが、ここでは竹林が里との別れになりそうな気配です。
【撮影】12時01分=伊藤 幸司
きれいな竹林でした。最近は荒れ放題の竹林をしばしば見ます。かつて、東京都の山ではスギ・ヒノキの植林地がお化けが出そうな雰囲気でしたが、石原都知事のおかげ? で驚くほどきれいになったように、誰かが大声を出してくれないと、どんどんひどいことになっていきそうです。それと比べるとこれは手入れの入った気持ちいい竹林です。
【撮影】12時03分=伊藤 幸司
この写真を見直しながら気づいたのは、この道を通る人たちが全員、この橋を渡ってきたんだろうか、ということです。
……え? と思われる人もいるでしょうが、この場所だったら橋の脇に勝手に道ができていておかしくない……? というより、こんなこわい橋を渡るより、細い流れをポンと飛んだほうが安全で簡単なのはわかりきった話なのに、ここを通った人たちが、全員、律儀に渡ってきたのだという雰囲気。もしかしたら、ここは登山道というよりは観光道というべきなんだろうか? と思ったのです。
私は首都圏の山歩きで一番危険なのは「木の橋」だと思っていますから、そういう橋があったら、しばしば大声で注意します。第一に濡れた木はときにものすごく滑ります。苔が生えていたらもちろん滑りやすい。その橋をスマートに歩こうとすると、接地面積が小さくなりますから、ストン! とひっくり返る危険が大きくなります。
最後の人が左足をややこしい置き方をしているのは、滑らないためにわざとバランスを崩して接地しているのです。赤い服の人も、わざわざ丸太の隙間に足を突っ込んで歩いています。そういう足使いが身についているのです。
【撮影】12時05分=伊藤 幸司
小川を渡って里から「里山」へと入りました。首都圏の山歩きはほとんどがスギ・ヒノキの植林地で、広葉樹林を楽しむには稜線に出るまで待たなければならないのが一般的です。
【撮影】12時06分=伊藤 幸司
登山道は、基本的には尾根道と、谷道、それから谷から尾根へと斜面を登る道の3種類に分けて見ます。
尾根道は山を遠望したときに見える道筋ですから富士山の稜線を「30度」というものさしにすると、ほとんどの山はそれよりはるかに緩やかな傾斜だとわかります。
谷道と尾根道とをつなぐ斜面は、多くが植林地で、傾斜は30度から40度。林業事業者や狩猟関係者なら直登できるかもしれませんが、軟弱な一般登山者には「絶壁」です。ですからその部分は登山道を造った人が一般登山者の「歩きやすさ」に気を配って「20度」あたりを基準にしたジグザグ道を用意してくれたのだと見ています。
そして3番の谷道がこれですが、じつは水の流れているところでの傾斜は15〜20度を登山道の基準(富士山の登山道である山梨県の県道「富士上吉田線」の平均傾斜)とすると、それよりはるかにゆるやかなのです。流れは前方で小さな滝をつくっていますが、流れが滝をつくることで登山道の傾斜も大きくなっていくのです。
【撮影】12時12分=伊藤 幸司
登山道の傾斜がきつくなってきたあたりで、植林地に切り残された老木が姿を表しました。正式な文書名がわかりませんが「森林レンジャーあきる野」の杉野二郎さんによる(らしい)
「実績報告書 3巨樹・巨木」によると————あきる野市には、東京都の指定文化財や市の保存樹木に指定されている
樹木と大径木(古木、大木)が多くあり、木が大木に育つ素晴らしい環境
があると考えられます。————とのこと。
【撮影】12時13分=伊藤 幸司
杉野二郎さんの
「実績報告書 3巨樹・巨木」によると、この「千年の契り杉」は「2本立ちの癒合株」で樹勢は「すこぶる良好」、胸高幹周は7.8mで樹高約45m、「北側の主幹で梢に故損あり」とのことです。
【撮影】12時15分=伊藤 幸司
じつはこの「千年の契り杉」はこういう角度で見るべきものなんですね。大多摩観光連盟の「あきるの市」に
千年の契り杉がありました。————杉の巨木は幹周り約7.8m、樹高約45mと大きく、二本の幹が成長していく過程で再び癒合して「H」の形に繋がりながら、さらに成長を続けているその姿はとても神秘的です。————
【撮影】12時22分=伊藤 幸司
千年の契り杉の脇から、道は本格的な登山道になります。アオキなんかも登場して、稜線から斜面を下ってくる自然林の広がりのように思われます。ともかく急斜面を一気に登らせられることになりました。
【撮影】12時30分=伊藤 幸司
前方に稜線が見えています。この斜面の勾配を地形図で見ると標高400mの等高線と450mの等高線の間が水平距離で50mですから、50m先で50m上がる勾配、三角定規にある45度の勾配です。植林の斜面としては最大級の急斜面だと思いますから、ジグザグに切ってくれた登山道も結構な急勾配となっています。
【撮影】12時35分=伊藤 幸司
私たちは稜線に出ました。深沢集落の最後の農家からここまで標高差約200m、地形図で測った距離は約1.5kmです。そこを40分弱で登ってきたことになります。
【撮影】12時38分=伊藤 幸司
稜線の道は、まだ登り傾斜です。地形図上の「460m」無名峰が、地元では深沢山と呼ばれているのです。
【撮影】12時40分=伊藤 幸司
春に見るヤブレガサはその名のとおりのみごとな雰囲気で好きなんですが、これは壮年期のヤブレガサにしてはちょっと立派すぎるかな?……と思って画像検索してみると葉にしろ花にしろヤブレガサモドキというのにそっくりなんですね。ところがhanamist.sakura.ne.jpというサイトでは
ヤブレガサモドキは————ヤブレガサとは、葉だけでも、やや厚く、裂片が細くてより深く裂ける、終裂片の幅が狭いという違いで区別できるようだが、違いはよくわからなかった。四国の一部と本州(兵庫県)で知られていて、その後兵庫県の自生地でも花に出会うことができた。どちらの自生地も保護に努めているが、どの自生地も数は少なかった。————とのことなので、ヤブレガガサなんですね。
【撮影】12時40分=伊藤 幸司
ヤブレガサの花の部分をクローズアップしておきました。
【撮影】12時41分=伊藤 幸司
稜線の道は左右どちらの斜面からも植林地がはい上がってきていました。おそらく古くからの目印だったと思われるこの、植林以前からの巨木もその役目を終わりつつある、という感じがしました。
【撮影】12時42分=伊藤 幸司
深沢山山頂。標識がなければ素通りしてしまいそうな山頂でした。
【撮影】12時44分=伊藤 幸司
令和3年(2021)から10年間の
「あきる野市森林整備計画」によると————本計画区は、馬頭刈尾根や金比羅尾根などの西部地域に広がる起伏に富んだ山岳地帯から成り、本市の総面積7,347㏊のうち、森林面積は4,395㏊で市域の60%を占めている。その多くがスギ・ヒノキ等の人工林であり、面積は3,3,5㏊で人工林率は75%となっているが、このスギ・ヒノキは木材として利用可能な50年生以上が多く、25年生以下の若い森林が少ないなど、偏った林齢構成となっている。————私たちはその人工林の尾根を下っていきます。
【撮影】12時47分=伊藤 幸司
こんな道が出てくると、私は嬉しくなってきます。なんで? というと、稜線の右側斜面が自然林になってくる気配だからです。出典不明の報告書に
「2あきる野市の森の特徴と森づくりの課題」がありました。それによると————あきる野市には、複雑に入り組んだ地形の上に、戸倉・小宮・深沢に広がるスギ・ヒノキの人工林、秋川丘陵の渓谷沿いの広葉樹林や針広混交林、草花丘陵や横沢入の里山の雑木林、また、戸倉三山や馬頭刈山などの山林など、多様な森が存在します。————ということですから、この一帯はあきる野市が誇る人工林地帯のようです。
そういえば、東京都文化財情報データベースの
「深沢家屋敷跡」に次のような解説文がありました。————江戸時代中期以前の深沢家の沿革は明らかではありませんが、江戸時代中期には名主に就任し、江戸時代後半からは土地集積を行ない山林地主として大きく家産を伸ばしていたことがわかっています。幕末には同心株を譲り受け、江戸幕府唯一の郷士集団である八王子千人同心に就き、村内鎮守社の神官も務めていました。————
深沢地区はあきる野市の中心的な林業地帯だったようです。
【撮影】12時48分=伊藤 幸司
深沢山山頂を過ぎると登山道は明らかな下りになりました。濡れて滑りやすいこういう斜面ではダブルストックが威力を発揮します。私の指導基本は「3歩先にストックを突いて、1歩、2歩で、次の3歩先に」ということです。足元が滑りやすいと靴底のブロックパターンに頼る人が多いのですが、糸の会の創設期に私が発見したのは、靴底の形状より重心移動のほうが、滑り止めに大きな力を発揮する……ということでした。だから「運動靴」なら何でもいいのです。跳んだり跳ねたりできる靴で、つま先荷重で「平均台を歩くように」あるいは「バレリーナの気分で軽々と」歩いてみると驚くほど滑らないことを知ってもらえるのです。
登山靴の靴底のブロックパターンやエッジで滑りを止めようとしている人は、まず間違いなく重心がかかと側にある後傾姿勢になっています。つまり超初心者のへっぴり腰スキーです。ストックを「3歩先に突く」というのは、スキー場で急斜面に飛び込もうとするときの深い前傾姿勢をつくるためです。
【撮影】12時58分=伊藤 幸司
ここも尾根筋にモミ・ツガなどの高木を残していたようです。人工林の端正さ、あるいは単調さを大きく変えてくれると、私などはホッとします。
【撮影】12時59分=伊藤 幸司
ここは標高400mあたりでしょうか。小さな山ですから標高460mの深沢山山頂からわずか20分ほどですが、下って、下って、下る、という気分は味わえました。
【撮影】13時02分=伊藤 幸司
人工林を抜け出て、道は藪の中に突入しました。ここから世界が変わります。そういう変化が、やはり嬉しく感じますよね。
【撮影】13時09分=伊藤 幸司
あづまやが見えてきました。かつて、このルートを本格的に整備した時期があったのだとわかります。道筋の草刈りなどはしてありませんが、それは、じつは、2019年の7月4日にきたときも感じたので、「COVID-19」という名の新型コロナ感染によるものではないと思います。
【撮影】13時18分=伊藤 幸司
あづまやがあったのはありがたかったのです。ここでのんびり休んだのと、雨がちょっと強くなったのでありがたい雨宿りになったのとで、山歩きに「ラッキー!」という気分を加えることができました。ただ登って、ただ下るだけとはまた違う、気分的な開放感。山歩きは「軽い運動を長時間続ける」という特別な肉体期な効果に加えて「心理的開放感を長時間味わえる」という心理的なリフレッシュ効果を得られるのです。その中での休憩が「ありがたい」と思わせるに十分なものになれば、そういうものの価値が「身近な日帰り」から得られるというわけです。
【撮影】13時32分=伊藤 幸司
最後の下りは、身支度を整えて雨の中に出たのです。下界の風景も見え始め、湧き上がる霧は下山に楽しみを加えてくれました。
【撮影】13時33分=伊藤 幸司
このヤブも、じつは前回と同じで、そのまま残っていればいいな、と思っていたものでした。いいですね、ほんのちょっぴりながら、藪漕ぎの気分です。
【撮影】13時35分=伊藤 幸司
小さな山でも山は山、下界とはちがう世界です。下りでドラマチックな気分が味わえれば、もうなんともいいようがありません。今日もドラマをありがとうという気分です。
【撮影】13時37分=伊藤 幸司
また植林地に入っていきますが、登りの体験と逆ですね。この位置を登ってくるのと下っていくのとでは気分がまったく違います。それと時間の流れが違います。皆さんそれぞれに、いろんなことを考えながら下っているんじゃないかと想像します。
【撮影】13時42分=伊藤 幸司
下るに従ってなんだかどんどん深い森に引き込まれて行くような気分になりました。下草が登山道を隠してしまったからですが、こういう気分は……いいですね。とくにこの区間でトップを歩いている人には新鮮な体験だと思います。
【撮影】13時43分=伊藤 幸司
下っていくときのこの気分は、またなかなかいいですね。気分はハイスピードでどんどん下っているわけですから、風景がハイスピードで後ろへ流れていくような感じにも、なりますね。
【撮影】13時45分=伊藤 幸司
また、ヤブがありました。こういう場所で慌てると「道」らしい顔つきの方向へ紛れ込んでしまいますから、あるいは引き返してくるかもしれないという「偵察モード」で行くことが必要になります。もちろん、ここでは写真から受ける印象ほど迷いやすい状態ではありませんでした、けれど。
【撮影】13時48分=伊藤 幸司
植林地の道から山裾をトラバースする登山道に出たのです。踏まれた道はしっかりした道筋を見せていますが、なんとなく荒れた感じがしていました。これがまだ先の長いところだったら、この先のなりゆきをかなり心配しながらいろいろな対応を想定しなければならない場面かもしれません。
【撮影】13時50分=伊藤 幸司
心配したとおり、こんな場面も出てきました。でも道は荒れているものの、下界までもう一息という雰囲気は広がってきていました。
【撮影】13時59分=伊藤 幸司
13:52に無事、村の道に出ました。標高約250m、登山口だった深沢の集落から山越えして小机の集落に出たのでした。
【撮影】14時15分=伊藤 幸司
車道を下ること約25分でJR武蔵五日市駅に出ました。……で、シャンシャン、というわけにはいきません。ここから先に帰るという人がいればそれはそれでいいのですが、足りないものがあるんです。お風呂とビールと食事です。
武蔵五日市駅周辺だと最近では瀬音の湯が定番になっています。ほとんどのみなさんが複数回訪れています。今日もそれが本命だとして、それだけでは芸がない。そこでこの時間で可能な隠し玉として黒茶屋に行くことにしたのです。歩けない距離ではありませんが、再びタクシーで黒茶屋へと向かったのです。
【撮影】14時28分=伊藤 幸司
黒茶屋には14:25から約1時間滞在しましたが、この水車の先ではこの時間帯に対応してもらえるものはなく、右手の出店でお焼きが買えただけ。
【撮影】14時35分=伊藤 幸司
私たちは坂を下って秋川渓谷を見晴らす「野外テラス 水の音|黒茶屋」へと移動したのです。
【撮影】14時40分=伊藤 幸司
「野外テラス 水の音|黒茶屋」の店舗概要には————黒茶屋の敷地沿いを流れる「東京で一番美しい川」と言われる秋川渓谷を眺めながら、コーヒーや甘味、ビールなどをご提供いたします。マイナスイオンたっぷりな清流の雰囲気を、ゆったりとお楽しみください。————とありました。
【撮影】14時48分=伊藤 幸司
入口のところにあった「茶房 糸屋」ではだし巻き玉子サンドや弁当のテイクアウトもできると確認しましたが、いったん野外テラス 水の音に落ち着いたみなさんは動きませんでした。
【撮影】15時01分=伊藤 幸司
黒茶屋「野外テラス・水の音」の、これはまだ食べていない透明なスイーツです。どなたかに教わって注文したら出てきました。名前も忘れて、味も値段も忘れましたが、絶妙といえば絶妙。何でしたっけね。
【撮影】15時01分=伊藤 幸司
黒茶屋「野外テラス・水の音」のあんみつ。600円。
【撮影】15時15分=伊藤 幸司
ともかく、この野外テラスでリフレッシュタイムを過ごしたのです。
【撮影】15時27分=伊藤 幸司
記録では15:18に黒茶屋を出ています。そこから、瀬音の湯へと向かいました。もちろん歩いていける距離ですが、気分としてはバスに乗りたい。ところがそれがうまくいかなくて沢戸橋を渡って、沢戸橋バス停まで歩きました。
2020年の12月15日に、武蔵五日市駅から金剛の滝経由で戸倉城山に登ったとき、深い森から抜け出て、まさにこの地点で前方にそびえ立つ戸倉城山を見上げたのです。そのとき、この道が右にカーブしたところで、沢戸橋バス停を確認して、登山口を検討したことを思い出しました。瀬音の湯はあの戸倉城山の右手にあるのですが、私たちはあえてバスで、十里木までの短距離乗車をしたのです。
【撮影】15時48分=伊藤 幸司
十里木バス停からあの吊橋で秋川を渡ります。瀬音の湯の入口です。
【撮影】16時47分=伊藤 幸司
瀬音の湯のレストランは17時からですから、それまでデッキチェアでのんびりと過ごしました。
【撮影】17時06分=伊藤 幸司
コロナの感染対策ですべてのテーブルに巨大な透明バリアが置かれていました。
【撮影】17時33分=伊藤 幸司
もともと軽い日帰りの計画で、金比羅山経由で南沢あじさい山に行くのをタクシーで直行し、行ってみたらアジサイはいくぶん盛りを過ぎていた……という負い目から、それを挽回すべく深沢小さな美術館に寄り、黒茶屋を付け加え、どうにかこうにか日帰りなりの充実感を得られたかな、ということで瀬音の湯から乗車できるこのバスでJR武蔵五日市駅へと向かうことができたのです。