★最寄り駅はJR中央本線・塩山駅
0900ごろ_塩山駅を出発(標高約400m)
0920-25ごろ_塩山温泉郷の登山口で休憩(標高約400m)
0955-1010ごろ_塩ノ山山頂(標高=553m)16℃
1030ごろ_北西側登山口(標高約400m)
1045-55ごろ_向嶽寺(標高約400m)
1110-20ごろ_北西側登山口でトイレ休憩(標高約400m)
・畑山洋酒工業の田園散策マップをたどって
1200ごろ_恵林寺(標高約450m)
・1210ごろから食事
・1250ごろから拝観
1320ごろ_タクシーで釈迦堂へ
1350-1420ごろ_釈迦堂遺跡博物館見学(標高約450m)
1320-30ごろ_桃の花の里見学(標高約450m)
1330ごろ_釈迦堂を出発(標高約450m)
・石和温泉方面を目指していきあたりばったり旅
1500ごろ_一宮浅間神社を通過(標高=341m)
1550-1600_セブンイレブン(笛吹一宮坪井店)前で休憩&タクシー待ち
・富士野屋夕亭で入浴
・甲府へ移動して奥藤本店甲府駅前店で食事
1835_千葉行きのあずさ50号に乗車
★計画書から
あまり想定していなかった土曜日にたくさんの方が参加される気配ですので、JRの特急の混み具合が心配です。予約時に予想以上に混んでいるようなら、参加取りやめにしていただいて結構です。
塩ノ山は塩山の庭みたいな小さな山です。昨年10月28日の西沢渓谷の帰りにちょいと登ってみたのですが、いい山でした。おまけとしては。
なんで今回それをメインにしたのかというと、塩ノ山を背負うかたちの向嶽寺(臨済宗向嶽寺派大本山・塩山向嶽寺)に全員惚れたということがありました。
塩山観光のトップバッターといえば武田信玄の菩提寺・乾徳山恵林寺(えりんじ)で、夢窓国師によって創建され、恵林寺庭園は嵯峨野の天龍寺、嵐山の西芳寺と並ぶ夢窓国師の築庭庭園とのこと。糸の会では塩山ではいつも素通りで、今回が初めてということになります。
そこまでが第一部、恵林寺で昼食をとって、早帰りが可能です。千葉行きあずさで帰られる皆さんにはまだ時間がありますから、タクシーで釈迦堂まで行きましょう。縄文時代の大規模な遺跡には釈迦堂遺跡博物館があって、甲府盆地の中心だったような場所だとわかります。同時にいまは桃と桜の里として全国区になりました。
今年は花の時期としてはほんのちょっと遅いかもしれませんが、以前大和三山めぐりのときにやった「行き当たりバッタリ旅」で石和温泉まで歩きたいとおもいます。直線距離だと約8kmです。10分交代のリーダーが、ヘンな道に迷い込んでくれることを期待しています。
★今回の写真出展メンバー———秋田 守、伊藤 幸司
「速報写真」は粗選びのもの、メンバー相互の記念写真、道標や解説板なども含めて何枚でもお送りください。追加でも簡単に挿入できます。
写真はWeb上に表示された画面から簡単に取り出すことができ、プリントも可能ですのでメンバー間の相互利用にもおすすめします(ここに載ると公開されてしまいますけれど)。
「山旅図鑑」にはキャプションが送られてきた写真のみ(順次)掲載させていただきます。
キャプションはタイトルではありません。文字数自由(できれば40字以上、数百字でも。一律200字と決めている方もあります)としているのは、写真と撮影者との関係を軸にした自由な「フォトエッセイ」を理想と考えているからです。
また撮影者以外のかたの自由なコメントも順次掲載させていただきます。その場合はWeb画面で取り出した写真に文章(と氏名)を加えて、メールでお送りください。どなたからのものでもありがたく掲載させていただきます(若干の編集作業を加える場合がありますから、問題があればお知らせください)。
08:00

【撮影】08時51分=伊藤 幸司
中央本線特急・あずさ3号は塩山(えんざん)駅到着8:53ですからこれは到着2分前の写真。遠くに見えるふたコブの山は小楢山(標高1,713m)です。秋に左側の山頂付近の幕岩に立つと、黄金の海原を見渡せる「可能性」があります。カラマツの黄葉のピークに当たれば……なんですが、なかなかうまく当たりません。
でも今回の目標は「軽い山」に分類されるその小楢山の手前に盛り上がる塩ノ山(標高553m)です。山裾に立ち並ぶ民家と比べても、なかなか低い山じゃないですかね。登山というか、山歩きというか、どう表現しても1日の計画としては、成り立ちません。計画書に書いた文章をすでに紹介してありますが、
———塩ノ山は塩山の庭みたいな小さな山です。昨年10月28日の西沢渓谷の帰りにちょいと登ってみたのですが、いい山でした。おまけとしては。———
と書いた上で塩ノ山をなんとかこの日の「おまけ」にできるかもしれないアイディアを適当に書き並べておきました。つまり、塩ノ山を起点として、甲府盆地の北部を歩いてみようじゃないか、と。

【撮影】08時59分=伊藤 幸司
すごい時代になったもんですね。観光案内パンフレットの画面がそのまま屋外看板に拡大展示されているという印象です。写真に惹かれるということも多いでしょうが、なんといっても地図がすばらしい。見ているうちに、思いもかけないところまで「行けるかな?」なんて……
簡単にいうと、キヤノンやエプソンといったパソコン用プリンターのメーカーが、「屋外耐候性最長6か月」といった水性インクジェット用紙を開発し、それにUVラミネートを施すというようなものがあって、写真なんかはこれまでどおりに出てくるみたいです。看板屋さんの情報を見ると、紙の代わりに塩ビシート+UVラミネートという組み合わせに、野外耐久性に特化したインクで印刷する、というようなものも。パソコンで原稿をつくってふつうのプリンターで紙に出力すれば従来どおりのポスターに、看板屋さんの特殊なプリンターで出力すれば野外ポスターに、という時代なんですね。
09:00

【撮影】09時00分=秋田 守
今回の基本プランは千葉からのあずさ3号だったが、調べたら、最寄り駅を始発に乗れば、塩山駅に6分遅れで間に合うことが分かり、実行。さらに土曜なので週末お出かけパスが使える。適用範囲は大月までだが、乗り越し精算してもおとQの3割引より安い。ふふふ。この1ヵ月、始発で出発するのは3回目。さらに都心を迂回するべく武蔵野線経由。無事に到着した塩山駅前に武田信玄の像があった。久しぶりで糸の会先輩女史の皆様に再会。

【撮影】09時01分=伊藤 幸司
塩山駅北口にある武田信玄公像。昭和63年の塩山ライオンズクラブの由来書が脇にありましたが、それによると
———本像は信玄生前の画像、すなわち寿像として有名な高野山成慶院所蔵「武田信玄画像」(室町〜桃山時代の名絵師・長谷川等伯筆)を参考に資料に制作したものである。———
ただ「横浜 青葉 茗荷館」のブログ
武田信玄公像によると
———近年、研究者の中から、武田信玄公の肖像画として教科書などにもに載った長谷川等伯の”武田信玄画像”は、別人ではないかとの説が出ているそうです。———
とのこと。

【撮影】09時02分=秋田 守
塩山駅前に立つ甘草屋敷こと、旧高野家住宅。重要文化財。江戸時代、幕府の命により漢方薬の材料、甘草を栽培していたのでその名が付いたそうだ。元々は茅葺き、中央の2段の突き上げ屋根が特徴で、甲州屋敷の典型という。時間がなくて立ち寄れなかったが、毎年この時期には、享保雛など貴重なひな飾りのあれこれを展示しているようだ。秋には立派な軒下にころ柿をびっしりと吊すそうで、それも機会があれば一度見てみたいと思った。

【撮影】09時05分=伊藤 幸司
塩山駅北口を出たところ、道ぎわからこんなふうに見えるのが甘草屋敷です。これまで何度見てきたかわかりませんがここからでさえ、じっくり見たのは今回が初めてですかね。甲州市のホームページで
旧高野家住宅(甘草屋敷)を見るとかなり詳しい解説になっていました。たとえば
———高野家の沿革がわかる貴重な資料「甲州甘草文書(県指定文化財)」によると、八代将軍徳川吉宗治世の享保5年(1720)幕府の採薬使丹羽正伯が高野家屋敷内にあった甘草を見分した結果、幕府御用としてその栽培と管理が申し渡されるとともに、一反十九歩の甘草園は年貢諸役を免除されました。以後同家が栽培する甘草は、幕府官営の薬園で栽培するための補給源として、また薬種として幕府への上納を負うこととなりました。———
また
———甘草屋敷の甘草はウラルカンゾウです。高野家ではこの甘草栽培により、明治5年(1872)まで免税の特典を受けました。ここに残る甘草は、「甲州甘草文書」の記述によると少なくとも340年を経ていることになり、日本で最も古い由緒を持つものとして知られています。———

【撮影】09時05分=伊藤 幸司
甘草屋敷の解説板に「重要文化財」とありましたが、国指定だとは思わずに、たぶん20年以上ちょっと見の時間もつくらずに素通りしてきました。ウィキペディアの
甘草屋敷には次のように書かれています。
———1953年(昭和28年)3月31日に、主屋が国の重要文化財の指定を受けたが、所有者が実際に居住しており長らく一般公開はされなかった。1993年(平成5年)所有者より当時の塩山市に寄附され、同市により住宅とその周囲が整備され一般公開された。その後1996年(平成8年)7月9日には敷地内の付属建物5棟(巽蔵、馬屋、東門、文庫蔵、小屋)ならびに宅地が国の重要文化財に追加指定された。なお、日本の民家建築が多数重要文化財に指定されるようになるのは1960年代以降のことで、1953年指定の当住宅は、指定年度の古いものの1つである。———
今回もけっきょく、そのまま素通りでしたが、小さすぎる主役(塩ノ山)を脇役陣でいっぱい埋めてなんとか今日1日の価値を高めようとしていたはずなのに、完全な見逃しだったということになります。

【撮影】09時07分=秋田 守
駅を後にしばらく歩くと、家並みの間から富士山のてっぺんが顔を見せてくれた。さらにその先、お墓の向こうに今日登る塩ノ山が見えてきた。新緑の山というより丘ですね、これは。標高は553m、塩山駅が410m、すなわち本日は150mも登らない、ということ。塩ノ山なんて名前だから、山塩でも採れたのかと思ったら、四方の山、しほの山、というのが起源らしい。そうだよね、塩がもし採れていたなら、敵に塩を送るの故事が成立しないよね。

【撮影】09時10分=伊藤 幸司
甘草屋敷のすぐとなりには「橋爪和泉守屋敷跡」があって、その屋根の葺替え工事が行なわれていました。2013年に帝京大学の考古学実習が1週間行なわれ、その報告書が
「山梨県史跡於曽屋敷の考古学的調査(概要)」としてまとめられていました。一週間で考古学的発掘の許可取りから報告書作成までを体験するという実習ですからもとより結果に期待すべきではないでしょうが、教官の櫛原功一さんの報告によれば歴史に切り込んだ一端が見えるように思えました。
———近世になって広瀬氏が屋敷地とするが、近世段階(17~18世紀頃か)で内土手内に約80㎝の厚い盛土造成を行い、おそらくそれにともなって南側内土手を高く盛り上げていることが今回の調査で新たに明らかになった。したがって屋敷としての格の高さを見せようとする造成が近世段階で行われたことを示す。昭和になってからも盛んに屋敷外から土を搬入して土塁等にもった経緯が池田氏の聞き取りから確認されている。したがって今日見る於曽屋敷の姿は、江戸時代以降に整備された近世屋敷であり、中世以前の初期於曽屋敷の姿は厚い盛土層下の緩い傾斜面上に存在したと考えられる。方形居館研究に対して一石を投じるものといえよう。———

【撮影】09時10分=伊藤 幸司
塩山駅の北口一帯からは富士山が見えるんですね。でもこれは富士山だけではなくて、手前にそびえる携帯電話用の中継アンテナにちょっと関心があったからです。単純にいえばこれまで見たことのないヤワな感じのものですよね。支柱に関してもひょろひょろと頼りない感じ。
調べてみると「PHS」なんていう言葉が出てきて、エッ! なに? という感じになりました。「簡易型携帯電話」といって1990年代に普及したそうですが、いまでも病院では多く使われているとか。そうそう、TVの病院ドラマでドクターが首から下げているやつなんですね。
ところがAIDA LINKという会社の
【要注意!!】2020年7月末でPHS設備が使えなくなる!? PHS規格を確かめる方法(2018.10.04)という記事にはこう書かれていました。
———日本国内でPHSを扱う「ソフトバンク㈱」と「㈱ウィルコム沖縄」が提供している公衆PHSサービスが2020年7月末をもって終了するとの発表がありました。
つまり一般の方(個人)で、現在PHSを使っている場合、2020年には使用できなくなりますよ、ということなのです。———
さらに
———「ソフトバンク」や「ウィルコム沖縄」が2020年7月末でPHSのすべての料金プランの提供を終了するだけでなく、実は職場などで使用しているPHS設備も、2022年には使えなくなる可能性があるのです!———
技術情報ですから「職場などで使用しているPHS設備」も使えなくなるという理由も説明されています。
———現在、職場でお使いのPHSや基地局(アンテナ)などの無線機器で使用されている「スプリアス規格」という規格が「旧規格」の場合、2022年11月30日までしか使用できなくなります。「スプリアス」とは無線設備から発射される電波のうち、必要周波数帯の外側に発射される電波(不要な電波)のことです。———
これがほんとうにPHS用の中継アンテナなら、撮影時に現役ぎりぎりで存在していたわけですね。

【撮影】09時16分=秋田 守
歩いているうちに、塩山温泉の温泉街に入っていた。一応、旅館が7軒あると地元、甲州市観光協会では説明している。こういうご時世なので、休業した宿があるかもしれないが。右手のお宿、元湯廣友館はちゃんと営業している風だった。玄関先には「塩山温泉元湯の地」という石柱も立っていた。信玄の隠し湯のひとつと書いてある説明もあったが、これは当てはまるのかどうかは不明としか言いようがない。ある意味、言ったモノ勝ちかも。

【撮影】09時16分=伊藤 幸司
いよいよ塩ノ山に近づきましたが、山裾にあるのは小さいながらビル群。塩山温泉です。
600年の歴史・塩山温泉郷というホームページにはなかなか好感の持てる旅館案内がありました。
———*廣友館(こうゆうかん) 明治8年創業と塩山温泉の中で最も古い旅館。
塩ノ山のすぐ麓にあり温泉につかった後は裏口から出てそのまま自然散策が楽しめる。市街が一望できる展望風呂が自慢。
*宏池荘(こうちそう) 塩山温泉で唯一露天風呂をもち、公衆浴場としても営業している宿。玄関入口には「六十年全国を旅して“心の薬”にやっと巡り合えた」というお客様のメッセージが飾られている。
*旅館ゆばた 近代的な建物がひときわ目を引く旅館。清潔感あふれる館内には明るい日差しがふりそそぎどこにいても心地よい。フロント業務や料理出しのサービスが手際良くビジネス客にも好評を得ている。
*井筒屋(いつつや) 明治元年に開業した由緒ある宿。広々とした屋内には畳に床の間をしつらえた和室が並び静かな旅情を沸かせてくれる。塩ノ山自然遊歩道入口はすぐ近く。塩山の自然もたっぷり満喫できる温泉だ。
*笹本屋旅館(ささもとや) 気さくなもてなしが人気の旅館。心の波長が合うのかお客様の中でも家族連れが特に多い。入館や入浴時間など融通をきかせてくれ手作りの郷土料理も味わえる。“つるつる温泉”の言葉を生んだ。
*大和旅館(やまと) 話好きな女将が真心込めておもてなしする旅館。温泉でくつろいだ後は四季折々の味を添えた手作り料理が味わえる。彩りよく器に盛られたミニ懐石は素材の旨みも引き立ちじつに美味しい。
*中村屋旅館(なかむらや) 江戸末期に商人宿として礎を築いて以来150余年の歴史を守り続けてきた旅館。石畳と松の庭園が風情を漂わせ池には鯉も泳ぐ。天然大理石や木曽ひのきを使った風呂も魅力。落ち着いた宿である。———

【撮影】09時18分=秋田 守
塩山温泉には公衆浴場がある。宏池荘という旅館がいわゆる立ち寄り湯をやっている。写真のおっちゃんふたりが座ってる奥が入り口。若井さんは入ったことがあるそうで、400円、浴槽は広くて地元の人たちが入りに来てる、と。後で調べたら、相当強力なぬるぬる系のお湯で、熱いお湯と冷たい温泉の2つの浴槽があるようです。これまた一度入りに来なくてはいけないなあ。それにしても、若井さん、温泉は相当数入り潰していますねえ。

【撮影】09時18分=秋田 守
公衆浴場から先へゆくと、道端にトウダイグサが生えていた。地味な色合いだけど、ちゃんと見てるからね。この植物は全体に毒があるそうで、茎などから出る白い液に触れると水疱ができるし、口にすれば下痢、腹痛、嘔吐、痙攣などが起きるそうだ。見た目とは違ってコワイねえ。その先、自然遊歩道入り口の看板に従って、温泉街から小道に入り、急な階段を登って、塩ノ山へ入った。そうそう糸の会ルール、10分先頭交代は休憩後から。

【撮影】09時19分=伊藤 幸司
これは廣友館・旧館の玄関部分です。明治8年(1875)創業といわれ、明治29年(1896)に始まった笹子トンネルの建設工事では関係者の宿舎として活用されたということです。ウィキペディアの
塩山温泉には
———開湯は650年前。向獄寺の開祖である抜隊得勝によって、源泉を発見された。源泉は「元湯 慶友館」の隣にある。現在の旅館は江戸時代から明治時代にかけて、建てられたものが多い。———
とあるけれど「元湯 慶友館」は廣友館の誤り。現在の旅館で最も古いのは明治8年のハズ……だと思ったら、09時16分の写真で引用した塩山温泉公式情報に「明治8年創業と塩山温泉の中で最も古い旅館」「明治元年に開業した由緒ある宿」「江戸末期に商人宿として礎を築いて以来150余年の歴史を守り続けてきた旅館」とこちらも情報が整理されていませんね。
最後の「150余年の歴史を守り続けてきた」のは中村屋旅館ですが、その本館が国の登録有形文化財(建造物)に指定されており
国指定文化財等データベースには
———塩山温泉に位置する。木造二階建、寄棟造、桟瓦葺。南正面中央に入母屋造の玄関が付き、二階正側面の小庇は吹寄せ垂木の瀟洒な意匠を見せる。玄関の天井は棹縁を扇形に配る特徴的なもので、二階の座敷は窓を多くとって開放的な造りとする。近代和風旅館の好例。———
とありますが、建築は「大正6年頃」、その後「昭和10年頃改修、昭和30年頃増築」だそうで、それ以前のことには触れられていません。それ以前に遡る歴史があるとすれば、塩山には甲州街道・青梅街道・秩父往還などが通っていたことと関連した旅館であったかも……ということでしょうか。

【撮影】09時21分=伊藤 幸司
塩山温泉・廣友館の脇から「塩ノ山自然遊歩道」が始まりました。

【撮影】09時26分=秋田 守
山の中は新緑で彩られ、気持ちのいい空間。松の木が多いが、赤松という看板。後で乗ったタクシーの運転手さんによれば、昔はマツタケも出たが、もう今は出ないらしい。あちこちにヤマツツジが咲いていたが、今シーズン、すでに1週間前、別の山歩きの会で、東武東上線小川町駅から仙元山へ登った時に早々とヤマツツジが咲いているのを見てびっくりしてしまっていたので、さほどの驚きはナシ。今日でもかなり早咲きとは思うのだけど。

【撮影】09時27分=伊藤 幸司
この図のこの道筋のとらえどころのない曲線に私などはちょっとイライラしました。加えてその距離を示す時間が「4分」だの「5分」だの「6分」ですから、現実感覚が追いつかないというところ。じつはこの図の範囲がぜんぶ向嶽寺の境内らしいのです。

【撮影】09時27分=伊藤 幸司
歩き始めると、すぐに、なかなか気持ちのいい緑の道になりました。竹があって、松があって、梅ならぬ白い花。これで春めいた道になりました。

【撮影】09時29分=秋田 守
塩ノ山で一番たくさん見かけた花はこちら。後で教えてもらったが、アオダモ。枝いっぱいに咲いていると、まるで雪が積もっているようだった。アオダモと聞いて、若井さんがすかさず、野球のバットに使う木だよねと言う。そうだ、それは聞いたことがあると思いだした。材質が堅く木目が美しい。最近はシンボルツリーの庭木として人気らしい。なぜアオという名前かというと、枝を切って水に漬けると青色の蛍光色に光るからとのこと。

【撮影】09時29分=伊藤 幸司
白い花の木をくぐったら、今度はヒョロヒョロマツですかね。アカマツがあるとすれば、以前はマツタケがとれた山……だった可能性がありますね。そこで塩ノ山とマツの関係を調べてみると、ありました。
塩の山赤松を守る会の2013年記事にはこう書かれていました。
———塩の山は、かつてアカマツ林に覆われていましたが、平成15年(2003)頃から松くい虫による食害を受け、アカマツ枯れが進んでしまいました。そこで、アカマツの保護、植樹等を目的として、平成19年(2007)に塩山向嶽寺総代会が中心となり「塩の山赤松を守る会」が結成されました。守る会は、平成19年11月に抵抗性アカマツの植栽活動を始めて以来、毎年夏には下刈り、冬には植栽を行っています。———
これはその、前からあったアカマツですね。きっと。

【撮影】09時29分=伊藤 幸司
なんと、アカマツの次は富士山です。塩山駅からの富士山とほとんど同じで、右手前のピークは御坂山地の釈迦ヶ岳(1,641m)です。

【撮影】09時30分=伊藤 幸司
塩山温泉から歩き始めたのは09時21分でしたから9分ですが、ここから戻ると5分、という表示です。「向嶽寺まで6分」という表示は山裾をたどる道です。

【撮影】09時31分=伊藤 幸司
前方に見えるアカマツの細い木は2007年からの、14年の間に植えられたものでしょうね。森の表情が整っているとはいえませんが、蘇りつつあるという力強さは、私たちに気持ちよさを与えてくれます。地元の子どもたちがこの道を登るというようなときには、そういう風景のパワーが貴重ではないかと思います。

【撮影】09時33分=伊藤 幸司
タンポポ、たぶんセイヨウタンポポでしょう。ウィキペディアで
タンポポ見ると
———花のつくりは非常に進化していて、植物進化の系統では、頂点に立つグループの一つである。———
とありました。そこでその「進化」がどんなものか知りたいと思ったら、「香取淳子公式サイト」に
「進化したタンポポ、夏目漱石、生存戦略」という長い文章があって「犬去って むつくと起る 蒲公英(タンポポ)が」という夏目漱石の俳句を取り上げています。
———この句はとても素直に、犬が立ち去った後、タンポポがむっくりと起き上がる様子が捉えられています。タンポポが擬人化されており、犬が立ち去るのをしっかりと見届けてから、注意深く身を起こしている様子がありありと目に浮かびます。「むつくと」という表現になんともいえない愛らしさとユーモアあ感じられ、気持ちが和やかになります。
一見、日常的な光景を綴っただけのように見えますが、タンポポの生態を知らなければ、「むつくと起る」というような表現はできません。タンポポの茎は開花期を過ぎれば横倒しになり、綿毛ができると途端に起き上がって茎丈が高くなることを漱石は知っていたのです。博学に支えられたスケッチの確かさが秀逸です。———

【撮影】09時34分=伊藤 幸司
これがアオダモの花だといわれて、画像検索してみるとやはりそうか、と思います。でも次に見たときに自分でわかっているとはとても思えません。どこでだったか、たぶん三ツ峠山の御巣鷹山(1,775m)の山頂でそういう体験をしたことを思い出します。知っている人がいたので思い出しました。
ウィキペディアの
アオダモには
———材は堅くて強く粘りがある特質を生かして、さまざまな用途で使われた。日本では木製のスポーツ用品の材料、とくに野球で使われる木製バットやテニスラケット、競技用スキー板の原料にされる。天秤棒、輪樏(わかんじき)などの器具材や機械材、家具材、箸としても使われる。建築材として床柱などにも使用される。資源の枯渇とともにこれらの用途も減少している。———
と書かれています。そういうイメージとこの花や葉がどうしても結びつきません。

【撮影】09時35分=伊藤 幸司
新緑の広葉樹の下を歩くようになりました。消火栓のホース格納箱があり、右端の茶色い看板には「みんなできれいに! ゴミは持ち帰りましょう」とあります。右端の人の向こうに見える道標には「←塩の山遊歩道 第二休憩所まで約10分」と書かれています。

【撮影】09時36分=伊藤 幸司
またアオダモの白い花。この日の塩ノ山の主役ですかね。

【撮影】09時37分=伊藤 幸司
アオダモの花が主役級の登場となった以上、できるだけのクローズアップをしておかなければなりません。

【撮影】09時37分=伊藤 幸司
クローズアップ写真をほぼ義務感で撮ったとして、次はほぼ反射的に広角画像でその場の風景を撮っておきます。私自身にあまり価値はなくても、木や草の観察写真では最低2枚の写真を撮っておきたいと思います。

【撮影】09時37分=伊藤 幸司
私にはなんの説明もできませんが、おだやかな日差しに包まれて、心地いい山道散歩という気分は満喫できましたね。外から見た山の感じや、案内板を見て感じた道の印象とくらべたら、驚くほど大きな山に迷い込んだみたいだと思わせられました。

【撮影】09時38分=秋田 守
事前のコーチの案内によれば、山頂までは1時間とあったが、30分ほどで553mの山頂に出た。富士山がはっきりよく見える。山頂にはまだまだたっぷりの雪。この角度からじっくり富士山山頂を見たことはなかったような気がする。左下には雪煙が立っていた。強風が吹いているに違いない。さすがに今、この時、あそこに登っている人はまずいないと思うのだが。昔、一度だけ日帰りで登ったことがあるが、もう二度と登ることはないだろうな。

【撮影】09時39分=伊藤 幸司
ヤマツツジも登場しました。ウィキペディアの
ヤマツツジによると、
———春葉は春に出て秋に落葉し———
———花期は4 - 6月。枝先の1個の花芽に2 - 3個の花をつける。———
とのこと。これがヤマツツジの素顔のひとつなら、那須高原の「八幡ツツジ群落」のとんでもない化粧顔との落差の大きさに圧倒されます。20万本というヤマツツジがそれぞれ美顔を競うとああなるのかな? と、Matt顔を思い出したりしてしまいます。

【撮影】09時40分=伊藤 幸司
空は快晴。富士山が見えていると、それだけで「眺め」に関する不満はなくなります。甲府盆地から手前の御坂山地をトンネルで抜けるとそこはもう富士五湖です。富士山の右に黒々とそびえているのが釈迦ヶ岳(1,641m)で稜線を左にたどると御坂山地最高峰の黒岳(1,793m)になります。

【撮影】09時41分=伊藤 幸司
一時期、真冬の雪遊びにこの釈迦岳が定番となりました。お地蔵さんのある山頂からの富士山展望を楽しんだ後、こちら側、甲府盆地に向かって深い樹林帯の深い雪をかけ下る(ずり下がる?)楽しさを狙ったつもりです。檜峯神社までの標高差約350mの道筋で他の人と出会ったことはありません。何人かの人がそこでストックを曲げたりしましたね。

【撮影】09時43分=伊藤 幸司
遊歩道に入って22分後です。素晴らしい! ちっぽけな山のくせに、人に媚びていないというか、この先どこまで続くのか! という構えをぜんぜん崩していませんね。元気のいい木がほどよく視野を包んでいるからでなないかと、写真を見て思いました。

【撮影】09時43分=伊藤 幸司
先ほど見たのとほとんど同じヤマツツジです。登山道ではヤマツツジはいつでもどこでも見られるという感じですが、山によって全体の雰囲気が違います。これと同じヤマツツジでも、JR上越線・渋川駅から入る子持山(1,296m)の子持神社から炭釜あたりまでのヤマツツジになると断然主役顔になってそびえ立ってきます。

【撮影】09時44分=伊藤 幸司
突然、白銀の山並みが現れました。私のカメラは通常の構えで1,000mm相当の超望遠になりますから、とっくの昔に双眼鏡を持たなくなりました。方向は南アルプス、3,000m級の稜線ですからもちろん名のある山に間違いありませんが、これだけではよくわかりません。あとでいろいろ調べると、大菩薩からの展望写真で判明しました。まろやかなピークが白根三山の間ノ岳(3,189m)です。もうすこし右側が見えれば、そこに北岳があるはずです。

【撮影】09時45分=伊藤 幸司
いよいよ山頂に近づいたという感じがしますが、このまま、まだずっと続いてもいいという感じもしました。なんででしょうね。この写真でその理由を考えてみたのですが、春の緑のやわらかくて大きな屋根のおかげですかね。かつてアカマツの山だったというのと比べると、雰囲気がだいぶちがうはずです。でもこちらのほうがずっといい、なんて思ってしまいます。

【撮影】09時46分=伊藤 幸司
これが案内図に出ていた「休憩所」です。このルートでは2つ目。塩山温泉の登り口から「11分」と書かれていましたが、私たちはここまでなんと「25分」かかっています。「エッ?」という感じですけど。

【撮影】09時48分=伊藤 幸司
ヤマツツジの、とくべつ美しい花がありました。これだけの花があったのだから……と京大系の植物学者で京都府立植物園の園長を務めた麓 次郎さんの『四季の花事典 花のすがた・花のこころ』を開いてみたら「ツツジ」の項の最後にこう書かれていました。
———かくツツジのことを書いていると、子供の頃、山道を歩きながら食べたヤマツツジの花の酸味が遠くなつかしく蘇ってくる。当時これを何といったか忘れたが、調べると、タイバナというとかいてあった。———
そこで「ヤマツツジの花を食べる」と検索してしてみるとNHK出版の「みんなの趣味の園芸」に「みほママさんの園芸日記」というのがあって
ヤマツツジを食べる(2016/04/26)がありました。
———今日は地元の芝桜を見てきました。そして少し歩くとヤマツツジが。ヤマツツジは昔住んでいた家にあり、開花するとよく食べていました。ドキドキしながら食べてみると、やっぱりすっぱ〜い!昔食べた味です。美味しい。懐かしい気持ちで嬉しくなりました。———

【撮影】09時55分=秋田 守
塩山は甲府盆地の東の外れ。たった500mほどでも、高みから眺めれば、盆地らしい盆地のありようがよく分かる。四方をぐるりと山々に囲まれ、平らに開けた広い盆地が広がっている。そして南の山の壁の向こうに、富士山がアタマを出しているという構図になる。いい風景だ。JRの中央線は、東京方面から山間を抜けて甲府盆地の東端に出て、その縁を勝沼ぶどう郷駅から塩山駅にかけてゆるやかに盆地の底に向かって下っていくという訳だ。

【撮影】09時55分=伊藤 幸司
標高556mの塩ノ山山頂に着きました。私たちを導いてくれた遊歩道の案内看板には「山頂休憩所(広場)」とされていましたが、たしかに道筋に「広場」っぽいところはなかったですね。そういう意味では完全にコントロールされた「自然遊歩道」だったんだ、と気づきました。後で写真を見ながら感じたということですが、きちんと造られてきちんと維持された道をたどらせられながら、決してちっぽけではない「自然」を感じさせてくれたわけです。そういう意図があっての道造りであったのなら、学ぶべきところが多いと思いました。

【撮影】09時55分=伊藤 幸司
山頂に立った瞬間に正面に富士山を望めるこの舞台装置、意図的につくって、きちんと整備されてきたのでしょう。「映える(ばえる)」という価値が優先されているといえば簡単ですが、だれがどういう権限でそれを実施しているのか、きっと聞く価値のある物語りがあるんだと想像します。私は若い頃モノライターでしたから、この塩ノ山を「創り上げた」ストーリーが絶対にある! と感じました。

【撮影】09時55分=伊藤 幸司
富士山と釈迦ヶ岳ですが、私がこの釈迦ヶ岳を知ったのは、糸の会を始めた頃、中央本線の車掌にして山男だった方(名前忘れました)が沿線の山ガイド本の中で、甲府盆地に入ったら車窓からもっとも特徴的な山、と紹介されていたのがきっかけでした。
ヤマケイオンラインの
釈迦ヶ岳によると
———この山はふもとの桧峰(ひみね)神社の奥ノ院で、4月8日(お釈迦さんの誕生日)に登拝する人が多いそうだ。本来は『甲斐名勝誌』がいうように、嵯峨(山の険しく、そばだっている様)ヶ岳が転語したものと思われる。確かに地図に記されている屏風岩や、東西に延びる岩がちの山頂は、この言葉がぴったりである。———

【撮影】09時58分=伊藤 幸司
この写真は見える風景というより、塩ノ山山頂の風景の見せ方です。左右から伸び上がってくるアカマツの苗木が今後伸び上がってきたときにどうなるのか、数年後にでも、ぜひ再訪したいものだと思います。
ちなみに足下に広がっているのは甲府盆地の東端部分、画面左端に少し進むと笹子トンネル。ここに見える広がりはモモの産地として有名な一宮町で、正面奥には縄文時代の大規模な遺跡にちなむ釈迦堂遺跡博物館があります。

【撮影】09時58分=伊藤 幸司
山頂で富士山から右に視点を移していくと、見えてきた白銀の山々は南アルプスです。その手前、右から左に下ってくる緑色の山は、さあ、どれがどれだかわかりませんが、山梨百名山の帯那山(おびなやま・1,422m)あたりから甲府市街に下っていく山並みです。その最先端部の大蔵経寺山(716m)に石和温泉駅から登って、要害山(約780m)から甲府市街を見下ろす要害温泉へと下ったこともあります。

【撮影】09時59分=伊藤 幸司
いろいろ調べて、あとでわかったことですが、北岳(3,193m)がこんなふうに見えるんですね。大菩薩峠からの展望写真で、確定することができました。

【撮影】09時59分=伊藤 幸司
右端に見えているのが北岳ですから、写真中央に見えるのは間ノ岳(3,190m)そこから一度下って登り返して雲ではっきりしないところが農鳥岳(3,025m・西農鳥岳3,051m)になりますね。合わせて白根三山です。
でも記憶に残るは間ノ岳の手前に見える「フルーツパーク富士屋ホテル」。早く終わりそうな登山の場合、カフェ・ベラヴィスタでの軽食や日帰り入浴を視野のなかに入れておきます。また入浴施設なら右手奥に歩いてすぐのところに「やまなしフルーツ温泉ぷくぷく」がありますし、さらにちょっと頑張って林道を上がれば「ほったらかし温泉」があります。ここでは松の木の枝に邪魔されて見えにくいですけれど。
富士屋ホテルの下にある緑色のドームは公益社団法人やまなし観光推進機構の「笛吹川フルーツ公園」で「果物をテーマにした都市公園」だそうです。いずれも最寄り駅はJR中央本線・山梨市駅。
10:00

【撮影】10時00分=伊藤 幸司
09時58分の写真の左側をクローズアップしておきました。見えているのは南アルプスの南部、右から荒川岳(東岳・3,141m)、赤石岳(3,121m)、聖岳(3,013m)ですね。

【撮影】10時00分=伊藤 幸司
塩ノ山山頂から南の足元を1,000mm相当の超望遠レンズで覗いていたら、学校がありました。甲州市役所に隣接する市立塩山南小学校と塩山中学校、これは中学校の校庭ですね。

【撮影】10時02分=伊藤 幸司
再び山頂風景。記憶に残る時間ですよね。写真の撮影時刻を見てわかったのですが、登頂7分後の光景です。

【撮影】10時03分=伊藤 幸司
まあ、なかなか気持ちのいい標識ですね。これを準備して、ここにかけた人たちの顔を見てみたいと思いませんか?

【撮影】10時03分=伊藤 幸司
南アルプス全山遠望という場合、冬に白く輝く山並みとしては北は甲斐・駒ヶ岳(2,967m)から南は光岳(てかりだけ・2,591m)までが見えればバンザイ! という感じです。ここでは聖岳までで光岳が見えません。標高553mという展望台のザンネン! なところですかね。
手前の緑の山が下ったところにポツンポツンと見えるのは石和温泉の旅館です。その先、山陰に回り込んだところに甲府の中心街があるのです。

【撮影】10時03分=伊藤 幸司
まあ、どこがどうだかよくわかりませんが、JRの駅でいうと東山梨駅〜山梨市駅〜石和温泉駅の町並みです。

【撮影】10時04分=秋田 守
塩ノ山山頂で、景色を楽しんだり、軽食を食べたり給水したりしていると、幼い子供を二人連れて若いお父さんが登ってきた。上の子は3歳か4歳ぐらいかな。偉いことにちゃんと自力で登ってきた。下の子はまだよちよち歩きを始めたばかり。1歳半ぐらいなか。お父さんに抱っこされてきた。会のおネエ様が近づいてあれこれ話しかけても、お兄ちゃんはしっかり相手をしてくれる。重ね重ね、いい子だ。この子達には向嶽寺脇の神社でも再会した。

【撮影】10時06分=伊藤 幸司
山で子ども連れの姿を見ると、その子どもたちが山好きになるか山嫌いになるかは五分五分だね、といつも思います。でもこの山はこどもの目には堂々たる富士山みたいなものだろうから、将来、いつか、またここに帰ってきたときに自分の成長に驚くはず。そういう山の思い出をこれからの人生行路にもっているというのは幸せだと感じますよね。ちなみにこちらにいるのは彼らのお母さんでも、おばあちゃんでもありません。

【撮影】10時07分=秋田 守
山頂から見えたのは富士山だけではないぞ。南アルプスの高峰も見えるではないか。北岳の雄姿。さらに間ノ岳、農鳥岳から南の峰々も。ここからは、3776m、3193m、3190m、と日本の高い山ベストスリーが見えることになる。なかなかすごいじゃないか。やるじゃないか、塩ノ山。ちょっと見直してしまった。こっちはたった553mなんだけどね。北岳はこれまでに二度登ったが、花に惹かれてまた登ってもいいかなと思う。コロナ騒動収束後の話だが。

【撮影】10時12分=伊藤 幸司
山頂での記念写真です。説明する必要もないでしょうが。

【撮影】10時12分=伊藤 幸司
こちらは富士山の記念写真です。じつは私はカメラマンとしてはけしからぬことに、逆光で記念写真を撮るときに、みなさんの顔と背景の山とを1枚の写真に収めるという努力をしていません。当然、フラッシュをたけばいいのです。外付けのストロボライトを所持してはいるのですが、持ってきたことはありません。カメラについているストロボを使ったこともありますが、うまくいかないので、こんなふうに2枚撮って済ませています。
そんなことをこのみなさんには数百回繰り返しているので、みなさんどんなふうに見ていらっしゃる……のでしょうかね。要するにいつか、この日にだれと一緒だったか、一緒ではなかったか、と確認する情報画像という以上のものではないようだ、と撮影者自身が考えているので、申しわけないのです。

【撮影】10時14分=伊藤 幸司
下りにかかったらミツバツツジが出てきました。

【撮影】10時23分=伊藤 幸司
登山道が下りになると、いたみぐあいに目がいきます。土留めの階段がここではおおよそ維持されています。両側に溝ができていて雨水が流れた形跡はありますが、流れが侵食する力を持つまえにうまく逃してきたのだろうと思います。甲府盆地では「ここには台風がほとんどこない」と信じられているようですから、それも味方しているのかもしれませんが。

【撮影】10時27分=伊藤 幸司
この花、なんだかわかりません。写真を撮ったときの記憶がまったくありません。それにしてはこの日の(記憶には残らなかったけれど)いい光景だったんですね。

【撮影】10時28分=伊藤 幸司
下っていくとヤマザクラが咲いていました。密やかに……という印象でしたが。

【撮影】10時28分=伊藤 幸司
これが最後のアオダモ……でしたかね。花がにぎやかに咲いていましたが、この写真ではすらりと伸びている枝が印象的ですね。クロモジの枝に似て、細くて強そうでのびやかなんですね。

【撮影】10時31分=伊藤 幸司
ここで遊歩道が終わりました。左に行くと向嶽寺です。道標によると「約10分」。私たちはこの山の縦走に1時間10分かかりました。

【撮影】10時32分=伊藤 幸司
春の日差しを浴びて、里の春景色の中を進みます。

【撮影】10時33分=伊藤 幸司
タンポポの存在感というのはすごいですね。わかっているけれど、あまりにもふつうなので、どうしても「撮らされた」という感じがしてしまいます。これなどはほとんど考えずに、シャッターを切っています。周りにある薄紫の小さな花は、そのとき教えてもらいました。が、そのときの行動記録が私のファイル棚で行方不明になって、忘れました。

【撮影】10時33分=伊藤 幸司
名前を教わったのに忘れてしまった春の野草。ムラサキサギゴケ。
そのとき教えてくれた「栗コロッケ」さんの「note」で
2021年4月10日 塩ノ山を見ると、ムラサキサギゴケだったとわかりました。

【撮影】10時34分=伊藤 幸司
山裾から見上げたら、釈迦ヶ岳がその存在感をさらに大きくしていました。

【撮影】10時38分=伊藤 幸司
塩ノ山の山裾を回り込むと向嶽寺の境内に下ります。

【撮影】10時39分=秋田 守
塩ノ山から下山して向かったのは、向嶽寺。大きなお寺で驚いた。本堂前に古くて立派な枝振りの松。濃い青色の袈裟を着た坊さんがこっちにやってきて、もうすぐエライ方がやってくる、そのためにきれいに掃き清めてあるので参道は歩かず、溝の格子蓋の上を歩いてくれと言う。どんなエライ様かと楽しみに待っていたら、若い坊さんが自分で車を運転してやってきて、拍子抜け。帰りは皆で掃き清めたという参道を思い切り歩いてやった。

【撮影】10時40分=伊藤 幸司
向嶽寺の、というより向嶽寺の管理墓地に並ぶ墓のひとつ。かなり大きな区画の墓だったように思いますが、覗いたら、ちょっと風情がありました。……写真を見て気づいたのですが、奥の墓にしゃがんでなにやらしている人がいたんですね。

【撮影】10時46分=伊藤 幸司
ここで再会したのは山頂で会って、別れたちびっこ君。私もですが、こちらには同じような年頃の孫がいたりしますから、ただの通りすがりでは終わらなかった、ということではないかと思います。

【撮影】10時54分=伊藤 幸司
私たちが入れるのはここまでです。ウィキペディアの
向嶽寺によると
———向嶽寺(こうがくじ)は、山梨県甲州市にある禅寺で臨済宗向嶽寺派の大本山。山号は塩山。本尊は釈迦如来。非公開寺院のため建物内部や庭園は原則的に拝観不可である。———
さすがに国宝「絹本著色達磨図」というのがあるんですね。それから国の重要文化財としては「向嶽寺中門」「絹本著色三光国師像」「絹本著色大円禅師像」「塩山和泥合水集板木37枚・抜隊得勝遺誡板木1枚」。

【撮影】10時55分=伊藤 幸司
塩山では昔から「向嶽寺の松、恵林寺の桜、放光寺の梅」といわれているのだそうです。向嶽寺は南北朝時代の1380年に開祖の抜隊得勝(ばっすいとくしょう)が甲斐国主・武田信成から塩ノ山の寄進を受け、富士山を望むこの地に建立、その後いろいろあった末、明治41年(1908)に南禅寺派から独立して臨済宗向嶽寺派の大本山となったそうです。
塩ノ山が松の山であったというのと、境内にこのような老松があることからその関係を調べてみたのですが、なかなかわかりません。代わりに松姫の物語がネット上のあちこちにありました。
武田信玄の娘で織田信長の嫡男信忠との政略的な婚約に始まり、武田と織田との敵対によって破談、そして天正10年(1582)に天目山で武田勝頼が自刃。高藤城陥落によって向嶽寺に避難していた松姫一行は、武田家滅亡によって大菩薩峠を越えて八王子へと落ち延びたというのです。
その逃避行の際、元婚約者だった織田信忠(婚約当時は15歳)から迎えの手紙が届き、松姫は上野原でその、迎えの輿を待っていたものの、織田信長が本能寺で死去、妙覚寺から出陣した嫡男信忠も落命。
八王子・下恩方の新源寺に身を寄せた松姫は22歳(婚約当時は11歳)で尼となって、武田家一門の冥福を祈りつつ日を送っていたところ、徳川幕府が武田家の旧臣たちを中心に八王子に千人同心を組織、尼となった松姫には寺領を与えたという。松姫は機を織り「八王子織り」の基礎をつくったと伝えられているそうです。
そして1616年、56歳で死去。続いて徳川家康もこの世を去った……というのです。
このストーリは「甲州街道訪ね歩き」の
戦国に咲いた花一輪 松姫の物語りを要約させていただきました。写真のこの老松が松姫を見ていたかどうかは定かではありませんが。

【撮影】10時55分=伊藤 幸司
これは向嶽寺仏殿。山梨県に関わる歴史・地理をテーとする峡陽文庫に
向嶽寺仏殿がありました。
———天明6年の大火により仏殿以下の堂宇が焼失後、文政11年頃に仏殿と方丈が再建されたという。再建された仏殿は、仏殿と開山堂を合わせて建立された複合建築となっており、仏殿の後方に開山堂を接続し、建物の内部と外観が一体として構成された姿となっている。———

【撮影】10時56分=伊藤 幸司
なんでこんな歩き方をしているかというと「10時39分=秋田 守」の写真キャプションを読んでみてください。私は……? ひょっとすると玉砂利を踏んで撮影位置まで来ちゃった、かも、しれません、けれど。
11:00

【撮影】11時00分=伊藤 幸司
「10時38分=伊藤 幸司」で下った階段を登り返します。次の目標は恵林寺ですけれど、バス通りを行かずに、すこしでも田園の道を、成り行きまかせに歩いてみたいと考えました。

【撮影】11時01分=伊藤 幸司
タンポポですけれど「中学理科TOP」に
タンポポがありました。中学1年向けとか。写真つきの長い解説ですので断片的に拾わせていただくと、
*タンポポの花の花弁(花びらのこと)は5枚だけど、それはわかってる?
*タンポポの1つの花が、100個くらい集まってできているんだよ。
*タンポポのめしべは、先が2つに分かれているね。このめしべの先端を柱頭ちゅうとうというよ! そして、柱頭に花粉がつくことを「受粉」というんだ。受粉すると、種子しゅし(種のこと)ができるんだよ!
*タンポポのおしべの数は5本だよ。めしべを囲むようになっているね。おしべは花粉をつくるはたらきがあるんだよ。
*タンポポの花弁、何枚に見える? 1枚でしょ? いや、タンポポの花弁は5枚なんだ。5枚がくっついて、1枚に見えるから注意してね!
*最後は「がく」だね。普通「がく」は、花弁や花全体を支える役割をしているんだ。タンポポの「がく」は少し変わっていて、下のようになっているよ。うん。実は、この部分が、綿毛の頭に成長するんだよ! うん。タンポポの「がく」は面白いはたらきをするね。おまけで、タンポポが綿毛に成長する様子の動画ものせておくね!
……と、まあ、ここまできて愕然としたのですが、じゃあ、この緑の下支えはなんなんですかね。
「バイオハックch・ちょっとディープな生物の世界」に
タンポポの外側にある緑色のものは萼 (がく)?というのがありました。
———小花が集まったものを頭花といい、頭花を包んでいる緑色のものは総苞と呼びます。総苞は葉が変化してできたもので、花の集まりが崩れないように支える役割を持っています。総苞はタンポポの種類を見分けるのに役立ちます。例えばセイヨウタンポポは総苞が垂れていますが、カントウタンポポは垂れていません。———
そうなんですよね「総苞」ですね。で、総苞で(一応)見分けることのできるニホンタンポポとセイヨウタンポポの違いですが「田舎センセイによる田舎暮らしでの悩み解決情報サイト」に
西洋タンポポと日本タンポポの見分け方と違いがありました。
———西洋タンポポは人によって持ち込まれ、小さく軽い種子の特徴を生かして風に乗って分布を広げていきました。そのため、道端や空き地、駐車場、公園、グラウンド等の新しく開発された環境に生えるタンポポの多くは西洋タンポポである可能性が高いです。一方で、日本タンポポは昔から環境の変わらない場所で、他所からの影響を受けないような場所、例えば「神社や寺の境内」「田畑」「雑木林」などに残っていることが多いです。昔から風景の変わらない我が家の庭や田んぼの周辺にも、西洋タンポポに交じって日本タンポポが咲いていますので、新たに開発された環境以外で探してみると日本タンポポが見つかりやすいかもしれません。———
そして「セイヨウ」と「ニホン」の今後の運命については
———セイヨウタンポポが分布を広げたり数を増やすことに長けているのは事実ですが、クローンでしか増えないという事は、多様性がないため環境の変化に対応できず、急な気候の変化などに耐え切れずに絶滅してしまう可能性が高いというデメリットもあります。また、一年中発芽できても、夏など他の植物が生い茂る時期に発芽した個体は、背の高い植物に日光や養分を奪われて大きく育つことができません。一方でニホンタンポポは、繁殖力は弱いですが、他家受粉によって多様な個体が生まれるので、寒さや厚さ、病害虫などの影響で一気に絶滅してしまうリスクが少ないと言えます。また、春に開花したら種を飛ばしてしまい、他の植物が生い茂る夏以降は地面の下で次の開花の季節を待つため、無用に個体数を減らすことなく済みます。———
とのこと。

【撮影】11時04分=伊藤 幸司
向嶽寺に向かっていたときには気づきませんでしたが、私たちの背後にはこの小楢山(1,712m)が堂々たる山容を伸び上がらせていたんですね。いまここで振り返ったら富士山があるのかも、なんて思ってもいませんでした。だいたい、山旅写真の場合には後ろは振り向かないという原則で撮っていますから。

【撮影】11時04分=伊藤 幸司
見上げているのは塩ノ山の斜面です。たぶんアオダモの白い花……か何かがあったのです。それが春の日を浴びて頭上に輝いていました。

【撮影】11時07分=伊藤 幸司
これはまた、ずいぶん育ちのいいタンポポですね。なんだかこの一帯の親分、という感じでした。

【撮影】11時08分=伊藤 幸司
10時31分に、私たちはここで塩ノ山から下りたのです。再びここに戻って、これからいよいよ未知の旅に踏み込もうというところです。でももうひとつ、前方に見える白っぽい建物をあてにしたトイレ休憩(10分)を予定して、まずはここまで戻ってきたのです。

【撮影】11時08分=伊藤 幸司
念のため、最後にもう一度「塩ノ山自然遊歩道」のガイド図です。

【撮影】11時09分=秋田 守
恵林寺へ向かう前にトイレ休憩。近所のモモ畑でお仕事中の女性に話を聞いた。モモの花は咲き終わったが、いつもより1週間早い。4月12日に恵林寺で信玄公忌が行われるが、例年はその頃が満開なのだそう。満開のモモ畑も見たかったなあ。モモ畑が一面に広がるこのあたり、まさに桃源郷を体感できそうだ。事前に近くのワイナリーのHPで入手したイラストマップを頼りに歩いたのだが、途中、曲がる所が分からず、バス通りに出てしまった。

【撮影】11時12分=伊藤 幸司
これが10分休憩の、そのトイレ。

【撮影】11時18分=秋田 守
道端にはいろいろな野の花が咲いていた。こちらはムラサキサギゴケ。なかなかたくさん咲き群れていて美しかった。もっと青色が濃いキランソウも。今日はちゃんとしたマクロレンズを持参してないのであまり花は撮らなかった。この写真は、100均ショップで買ったマクロアダプターをiPhoneに装着して、躙り寄って撮った。どちらかと言えば雑草の類いだが、この日ほかに見た野の花は、ツタバウンラン、ホトケノザ、ヒメオドリコソウなど。

【撮影】11時18分=伊藤 幸司
秋田さんに教えられて、みんなでこの花を撮りました。ムラサキサギゴケが珍しい花なのかどうかも知りませんが、私は見たことがないように感じました。

【撮影】11時26分=伊藤 幸司
これはブドウ畑ですかね。……だとすれば、ずいぶん低い棚に見えますね。知多半島の阿知波ぶどう園の「ぶどう園 なるほど」の
棚の高さはどう決める?に標準的な回答(と思われるもの)がありました。
———ぶどう園に行くと「このぶどう園の棚は低くて腰が痛くなる。なんとかもう少し高くならないの?」と感ずることがあるかと思います。ぶどう園の棚の高さは、主力で作業する人の都合のよい高さになっています。一般的に、その人の頭の上に拳骨ひとつ分の高さが標準と言われていますので、ぶどう園に行って棚の高さはこうだからこの人が作業しているんだと観察して下さい。———

【撮影】11時32分=伊藤 幸司
ブドウは冬には葉を完全に落としてしまうんですね。基本的なことをなんにも知りません。「ガーデンストーリー」の
自宅でチャレンジ! ぶどうの特徴から栽培方法まで分かりやすく解説によると
———ぶどうのライフサイクルは、以下の通りです。4月頃から新芽が出て旺盛に枝葉を伸ばし、5月中旬〜6月中旬に開花。果実の肥大、成熟が始まり、8月中旬〜9月に収穫。11月頃に落葉して休眠。一般には、一年生苗を入手して栽培をスタートすることになりますが、果樹の栽培は長い目で見守る必要があることを知っておいてください。植え付けから1〜2年は収穫を見送り、木を充実させるための管理をします。幼木のうちから果実をつけると、木に負担がかかってしまうからです。収穫は3年目以降まで待ちましょう。———

【撮影】11時37分=秋田 守
ブドウ棚の下に一面ホトケノザが咲いていた。どうでもいいけど、この辺のホトケノザは丈がめっちゃ高い。普段見てるのに比べたら、3倍か4倍くらいの背丈。こんなのウチの近所で見たことないなあ。草刈り機で刈っている方がいたが、やはりこれは肥にするために敢えて生やしているのかな。それにしてもブドウ畑は本当に多い。最近は、高く売れるシャインマスカットを栽培する畑が増えてると言うけど、安くなったらどうするのかな。

【撮影】11時40分=伊藤 幸司
向嶽寺〜恵林寺は糸の会でいう「行きあたりばったり」旅です。10分ごとに全員が集合して、最後尾の人が先頭になるという「10分交代」ですから、先頭は「恵林寺という大目標」以外は自由に歩いていい……という原則です。最後の人は次に先頭になりますから緊張感を持って歩いていますし、先頭の人は好きなスピードで(ある程度の)リスクも楽しみつつ「一人旅」の自由をいくらか味わうことができます。私たちはわりとあっけなく県道に押し出されてしまいましたから、たぶん昔は村の主要道だったと思われる道に戻りました。農道のたぐいはけっこう行き止まりで閉鎖的な感じがしました。そのへんが水田農村と違う雰囲気かな?

【撮影】11時41分=伊藤 幸司
ともかく、タンポポはどれも力をみなぎらせているようです。道端のタンポポにいつも感じるちょっとした悲哀感がどこにもありません。何気なく「元気なタンポポ」と検索してみたら「GMOペパボ」という会社の「日本最大の級のハンドメイト・手作り通販サイト」で
「送料無料・元気なタンポポ」というのが出てきました。
———庭に咲いているタンポポを描いてみました。道路の街路樹の近くや、公園や電信柱の近く等、どこにでも咲く花ですが、目が覚めるような鮮やかな黄色の花弁を空に向かってぱっと開く様が美しく、いじらしくも逞しいタンポポを見ていると元気が出ます。英語名のDandelionもカッコイイですね。大好きな花の1つです。カラーインクで線を引き、着色してみました。100円ショップの小さな額縁に入っています。お部屋のインテリアや贈り物にオススメです。クッション付きの封筒にお入れし、配送させて頂きます。使用画材:カラーインク———
価格は1,000円(残り1点)とのことでした。興味のある方には見ていただきたいと思いますが、出店したのは「画家 コロンミント」さん。28点を出品されていてすべて「残り1点」はオリジナル作品という意味のようです。このタンポポの元気さとは、またちょっとちがった「元気」……いかがですか? 1点モノ 送料込みの1,000円!

【撮影】11時51分=伊藤 幸司
いつしか私たちは県道213号というバス道路を歩いていて、甲州市立松里中学校を過ぎました。すると土蔵造りのこんな家も登場、旧市街を抜ける道のように思われました。このすぐ手前にあった「小屋敷」というバス停名で調べてみると「町のかたち村のかたち・日本の町並み、集落景観の図解サイト」になんとこの
小屋敷があったのです。
———甲州市の旧松里町はコロ柿生産の中心地。晩秋になるとどの家でも柿を干し始めます。町内の小屋敷地区は、コロ柿とともに伝統的な民家も見応えがありました。———
———小屋敷は連続性のある町並みは見られないものの、こうした古民家が広範囲に点在し、見どころに尽きませんでした。———

【撮影】11時56分=秋田 守
辿り着いた恵林寺。ここも大きな寺だこと。ちょっと横っちょから入っちゃったけど、山門からの参道も長くて立派。堂宇もたくさんあるし、寺域も広い。観光名所としても名が知られ、訪れる人も多いようだが、後で乗ったタクシーの運転手さんによれば、先ほど寄った向嶽寺は、寺本来の格式としては恵林寺より向嶽寺の方が高いとしているらしい。なるほど、そういうことがさっきの坊さんの態度にも表れている訳か。嫌だな、そういうの。

【撮影】11時58分=伊藤 幸司
乾徳山恵林寺は総門(黒門)から始まりますが、私たちは2番目の四脚門(赤門)の脇に出ました。恵林寺の文化財によると
恵林寺四脚門(通称・赤門)が国指定の重要文化財で
———長きにわたった戦国乱世が終息に向かうなかで生まれてきた桃山文化。その特徴ともいえる、人間中心で、ほとばしる豪壮さを反映しているのがこの「赤門」であり、恵林寺の山号である「乾徳山」の額を門の上に堂々と掲げている。時運えることなく武田家が滅亡するなか、織田信長の甲州征伐(1582年)の前に立ちはだかり、一度焼失している。その後、徳川家康によって見事に再建(1606年)されたのであるが、再建時の姿を今日に伝える唯一の遺構である。その構造はシンプルであり、ひときわ目を惹く赤が、その意匠を気高く浮かび上がらせている。———

【撮影】11時59分=伊藤 幸司
四脚門(赤門)をくぐって、まっすぐ庭園を抜けていきます。堂々たる老松が出迎えてくれました。
12:00

【撮影】12時00分=伊藤 幸司
3つ目の門がこの
三門で、県の重要記念物。この三門前の解説板には
———天正10年(1582)4月3日 恵林寺は織田信長に全山焼かれる。近江の佐々木承禎らを秘かにかくまい逃れさせた快川国師に信長は怒り、国師はじめ百余人の僧侶らを三門へ集め火をつけた。———
と書かれています。快川国師の「心頭滅却すれば火も自ら涼し」はそのときの言葉とか。

【撮影】12時01分=伊藤 幸司
この三重塔は「日本の奥深い魅力を伝える大人の旅行マガジン・ニホンタビ」の
恵林寺によると
———ここにはかつて南近江の守護大名であった六角義賢の子で、織田信長と争って追われた佐々木承禎(六角義定)が匿われ、恵林寺はその罪を問われて焼き討ちの憂き目にあったとも伝えられます。———

【撮影】12時01分=伊藤 幸司
黒門(総門)→赤門(四脚門)→「心頭滅却すれば火も自ら涼し」の三門→とまっすぐ伸びてきた参道の正面にそびえ立っているのが開山堂。恵林寺の
お知らせ(2020年02月12日)によると
———開山夢窓国師木造の調査・点検のため、当分の間開山堂 兼 法堂を閉鎖いたします。恵林寺開山堂兼法堂(『真空院』)に安置されています開山夢窓国師の木造に、一部不具合が見つかりました。この夢窓国師像は、胴部は木造ですが、頭部は塑像・玉眼で、製作年代は南北朝時代に遡るとされており、山梨県の指定文化財となっています。特に頭部は国師晩年の風貌を伝える貴重なもので、その重要性に鑑み、今回調査・点検を行うことと相成りました。したがいまして、当分の間、開山堂を閉鎖いたします。———
とのことです。

【撮影】12時08分=伊藤 幸司
恵林寺の拝観を前にして、まずは腹ごしらえとトイレ休憩、ということで、境内の一休庵へ。満開の桜でゴージャスな気分になりました。庭には藤棚があり、能舞台も客席になっていました。

【撮影】12時12分=秋田 守
恵林寺を拝観する前に、門前の精進料理のお店、一休庵で昼ご飯となった。能舞台の席もあったが、靴を脱がなくてはならないのでパス。いくつかのテーブルに分かれて着席。窓の外に枝垂れ桜があり、まだ咲き残った花を見ることができたのは幸いだった。お能を観る時には、桜の下のあたりが客席となるのだろうか。左手には甘味処、信玄にちなんでか武者団子が名物。今日は休みだったが、近くの別の店はよもぎ団子が名物のようであった。

【撮影】12時18分=秋田 守
一休庵で食べたのは、甲州名物ほうとう。その前に、若井さんと中瓶ビール1本。つまみは天然タラノメの天ぷら。突き出しにはコンニャク辛煮。タラノメはスーパーで売ってる先っちょだけの軟弱栽培モノではなく、トゲトゲも生えてそうなでっかいサイズ。まずは塩で。うーん、いい香り。春を食ってる感じがたまらん。お出汁でも。やがて運ばれたほうとう。ちょっと上品な感じの仕立て。麺が美味しい。コーチは精進弁当をお召し上がり。

【撮影】12時24分=伊藤 幸司
花吹雪の気分を味わえそうな庭に出なかったのは、ちょっと寒かったからですね。ストーブが焚かれているのに、暖かくなかったということを思い出しました。

【撮影】12時25分=伊藤 幸司
私が頼んだのはこれ。信玄弁当(1,320円)でしたかね。私は基本的に「腹が減ってりゃ、なんでもうまい」と思っていて、舌にはからきし自信がないので腹で味わうというのが原則。それと企画者というか、フロアディレクターとして全体的な判断もしておきたいので、選ぶものは食べたいものより、おすすめメニュー。それもひとりで来たときの標準価格より高めのもの、と決めています。食後の甘味は好みでけっこう悩みますけれど。

【撮影】12時49分=伊藤 幸司
12時01分に見た開山堂の右奥にある庫裡が拝観入口となっています。
恵林寺のみどころによると
———禅寺のなかでもめずらしい、日本有数の大庫裡。信長による焼き討ちの後、徳川家康によって再建された壮大な伽藍は、明治38年の火災によってそのほとんどを焼失。現在の本堂、庫裡も、明治末期に再建されたものである。戦中には東京の学童疎開の場となり小学生約150人が寄宿生活を送った場所である。———
なお、左に見える屋根は開山堂の背後にある本堂。それも明治38年(1905)の火災から再建されたものとか。

【撮影】12時52分=伊藤 幸司
これは庫裡だったと思います。拝観料を払ってすぐのところであまりにも広い空間があってびっくり。「大庫裡」と書かれているのもうなづけます。150人の小学生が東京から疎開してここで生活したという光景、想像できるような、できないような。

【撮影】12時53分=伊藤 幸司
庫裡から本堂への途中だったでしょうか、長い廊下の途中に出入り口があったのではないかと思います。

【撮影】12時53分=伊藤 幸司
乾徳山恵林寺の公式ホームページの
恵林寺のみどころの絵図で「方丈」と描かれているのが、どうも「本堂」のようです。絵図に「本堂」はないのですが、解説には「方丈」がなく、解説の「本堂」には
———ご本尊の釈迦如来が安置されている。本堂西の間は貴人席となっており勅使が端坐される間がおかれている。———
とあります。
この写真は、絵図によれば「方丈」の縁側と「方丈庭園」。その解説には
———本堂の正面を進むと、左手にみえるのが枯山水式の庭園である。力強い枝振りの松がそびえ、西の端に勅使門がある。———
だって。

【撮影】12時54分=伊藤 幸司
方丈庭園をきちんと見ました。南側にある建物は開山堂。その右に見える屋根は勅使門だそうです。

【撮影】12時54分=伊藤 幸司
「方丈」の本来の意味は
ブリタニカ国際大百科事典によれば
———1丈 (約3m) 四方の部屋の意で,禅宗寺院の住持や長老の居室をさす。『維摩経』に,維摩居士の室が1丈四方の広さであったという故事に由来する。———
とありますが、さらに
世界大百科事典によれば
———禅宗寺院建築で本堂,客殿,住職居室を兼ねるもの。———
ともなるようです。

【撮影】12時58分=秋田 守
恵林寺拝観は500円。入り口に本日のご出勤、野良猫くん、たまに噛むことがあります(泣)、お気をつけください、と猫の似顔絵。ご本人、いや本猫は、昼寝中だった。本堂裏手の庭がすごかった。スケールの大きな庭。ああ、枝垂れ桜が散ってしまってる。あの花が一斉に咲いていたら、どれだけ贅沢な眺めになっていただろうか。惜しいなあ。平年並みの咲き方だったら、ちょうど見頃くらいだったろうに。ま、そしたら大混雑で、密必至だったか。

【撮影】12時58分=伊藤 幸司
私はまず拝観ルートで一番奥の柳沢吉保公墓所を見ました。なぜ、ここに柳沢吉保が? という謎については「鎌倉手帳(寺社散策)」に
柳沢吉保夫妻の墓~甲州市:恵林寺がありました。
———柳沢氏は、河内源氏の支流で武田氏一門だったのだという。武田氏滅亡後、柳沢信俊が徳川家康に仕え、孫の吉保は五代将軍徳川綱吉の側用人を務めた。1704年(宝永元年)、甲府城主となった吉保は、翌1705年(宝永2年)4月、恵林寺で武田信玄の百三十三回忌法要を執り行い、武田氏に連なる一族であることを強調したのだという。———

【撮影】12時59分=伊藤 幸司
有名なうぐいす廊下の先、武田信玄の等身大「模刻」とされる不動明王が安置されている明王殿があるのですが、たしか写真撮影禁止だったので方丈(本堂)北側の廊下まで戻りました。とにかく、ゆっくりと、夢窓国師の恵林寺庭園を見たかったのです。
恵林寺のみどころには次のように解説されています。
———国の名勝指定を受けている庭園。今日、恵林寺の庭園は、京都嵯峨野の天龍寺、嵐山の西芳寺(苔寺)庭園とともに、夢窓国師の代表的な築庭庭園として有名である。700年近い歴史を経たその姿は、四季折々に違った情景をみせる。———
13:00

【撮影】13時00分=伊藤 幸司
この庭を造った夢窓国師は
ウィキペディアによると、鎌倉時代末から南北朝時代〜室町時代に多彩な活動で歴史に残る活躍をした名僧なんですね。
———夢窓疎石(むそう そせき)は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。———
———後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を受け、「夢窓国師」の国師号を下賜された。以降、入滅後も含めると計7度の国師号を授与され、後世には七朝帝師と称えられる。———
そして
———禅風においては純粋禅ではなく、日本の伝統的仏教である天台宗や真言宗とも親和性の高い折衷主義的な試みを行った。そのため、臨済禅の主流派(応燈関派)にこそなれなかったものの、幅広い層からの支持を受けた。たとえば、後醍醐に続き、武家である室町幕府初代将軍の足利尊氏・直義兄弟からも崇敬された。初期室町幕府の実質的指導者である直義との対話を記録した『夢中問答集』は、聖と政の第一人者同士の対談として、思想史上重要である。———
また
———禅僧としての業績の他、禅庭・枯山水の完成者として世界史上最高の作庭家の一人であり、天龍寺庭園と西芳寺庭園が「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。夢窓疎石の禅庭は、二条良基の連歌・歌論や世阿弥の猿楽(能楽)とともに、わび・さび・幽玄として以降の日本における美の基準を形成した。———
そして
———夢窓疎石設計による庭園一覧
西芳寺庭園 - 京都市西京区。世界遺産、国の特別名勝
天龍寺庭園 - 京都市右京区。世界遺産、国の特別名勝
永保寺庭園 - 岐阜県多治見市。国の名勝
瑞泉寺庭園 - 神奈川県鎌倉市。国の名勝
竹林寺庭園 - 高知県高知市。国の名勝
恵林寺庭園 - 山梨県甲州市。国の名勝
覚林房庭園 - 山梨県身延町。町指定文化財ほか———
恵林寺との関係については
———幼少時に出家し、母方の一族の争い(霜月騒動?)で甲斐国(山梨県)に移住する。弘安6年(1283年)に甲斐市河荘内の天台宗寺院平塩寺(現在は廃寺)に入門して空阿に師事し、真言宗や天台宗などを学ぶ。正応5年(1292年)に奈良の東大寺で受戒する。———
———元徳2年(1330年)には甲斐守護の二階堂貞藤(道蘊)に招かれ牧庄内に恵林寺を創建し、鎌倉中期の渡来禅僧蘭渓道隆以来になる甲斐の教化に務めた。———
ということで、この庭園はいわば「ふるさと」の庭なのでしょう。

【撮影】13時01分=伊藤 幸司
これがうぐいす廊下に続く、本堂北面中央にあたる位置から見た庭の風景です。正面にある枝垂れ桜が主役ですかね。
「庭園ギャラリー」の
恵林寺庭園では次のように書かれています。
———大きな心字池に中の島が配された池泉回遊式庭園で、初めて春に訪れた時には頭上の枝垂桜がお見事でした! また奥の築山から流れる滝の石組も見所……なのですが、あまりそうした様式を意識せずとも直感的に関東・甲信越地方を代表する日本庭園の一つと感じます。昔はその築山の背後に山号にもなっている乾徳山を借景にのぞめたそう。大きな池泉に借景……嵐山を借景とした天龍寺のような雰囲気だったのかもなあなんて妄想。———
正直なところ、私にはそれほどすごい! という感じはしませんでした。なにしろこの「池泉廻遊式」という革命的なスタイルがいまや日本庭園のスタンダードとなっていて、対極に枯山水があるといっても、それも夢窓疎石が西芳寺(苔寺)の上段に置いた枯滝がその開発モデルだったというのですから、すごいのですけれどね。
念のために、私が糸の会(やその他のカルチャーセンター講座)のみなさんと見た庭園で(池泉廻遊式でないものも入れていますが)この「山旅図鑑」(旧「発見写真旅」)に収録されているものを拾い上げてみました。いずれも夢窓国師を祖とする日本庭園ということになるのでしょうね。
六義園(2014.6.6)
旧古河庭園(2014.7.4)
毛利庭園(2014.8.1)
浜離宮恩賜庭園(2014.9.5)
小石川後楽園(2014.10.3)
清澄庭園(2014.11.7)
明治神宮・御苑(2015.1.30)
向島百花園(2015.2.6)
殿ヶ谷戸庭園(2015.3.6)
銀閣寺庭園、大原三千院庭園、寂光院庭園(2015.5.19-20)
勝尾寺、天龍寺曹源池庭園、大河内山荘庭園、清水寺成就院庭園、永観堂禅林寺(2015.11.17-18)
東福寺、永観堂、天龍寺、大河内山荘、高台寺、清水寺(2015.11.24)
光悦寺庭園、高山寺石水院・遺香庵庭、神護寺庭園(2015.2.16-17)

【撮影】13時01分=伊藤 幸司
庭園を見終わって、方丈(本堂)から庫裡へと渡る足元が池になっていました。見下ろした水面に春の気配がありました。

【撮影】13時03分=秋田 守
武田不動尊という不動明王像が一番の見物のようだったが、最近、修理の際にファイバースコープで調査がされて、新発見があったらしい。制作者と制作時期が判明したという。へえ。不動尊のモデルは武田信玄。甲州はどこへ行っても信玄が出てくる。不動尊が祀られているお堂へは、うぐいす張りの廊下を通っていくのだが、これがきいきいうるさいこと。そうでなければ、うぐいす張りにした甲斐もないのだろうが。いや参った、参った。

【撮影】13時05分=秋田 守
恵林寺本堂前に小さめのピンクの花を付けた大きな木が立っていた。花梨、と看板がかかっていた。ちょうど花盛り、そこへ花を食べるのだろうか、野鳥がたくさん来ている。ヒヨドリじゃないかと教えてもらったが、どうだろうか。調べると、花びらを食べるのではなく、花の蜜を吸いにやってきてるのだという。桜の花が散る時に1枚ずつではなく、花全体が丸ごと落ちてるのは、こうした野鳥たちが花の蜜を求めて突っついた結果らしい。

【撮影】13時17分=伊藤 幸司
11時58分にこの四脚門(赤門)から恵林寺に入ったのです。入ったときは左の方からですが、今度は参道をまっすぐ総門(黒門)まで出るのです。そこにバス停があるのですが、私たちはタクシーを呼んで、釈迦堂遺跡博物館へと向かうのです。

【撮影】13時51分=伊藤 幸司
タクシーで20分ぐらいでしたかね、私たちは釈迦堂遺跡博物館に到着しました。

【撮影】13時52分=伊藤 幸司
中央自動車道で東京から甲府方面に向かうと、勝沼ICを過ぎたところに釈迦堂パーキングエリアがあります。高速バスだとそこに釈迦堂バスストップがあるのですが、バスで行っても、車で行っても、その釈迦堂パーキングエリアから専用階段で徒歩2分(東京に向かう上りパーキングエリアからだと徒歩10分)でこの博物館に立ち寄ることができるのだそうです。
「知の冒険」の
高速道路作ろうとしたら大量出土!釈迦堂遺跡が博物館に!によると、
———釈迦堂遺跡は、1980年2月8日から翌年11月15日まで、中央自動車道建設工事に先立って、延べ二万人が参加して発掘調査が行われました。その結果、旧石器時代、縄文時代、古墳時代、奈良時代、平安時代の住居や墓などの遺構、および多量の土器、石器などの遺物を発見!———
ウィキペディアの
釈迦堂遺跡群によると
———出土遺物において土偶は1,116個体を数え、同一遺跡群からの土偶の出土数としては青森県の三内丸山遺跡に次ぐ多さである。土偶は大半が縄文時代中期のもので、数量の多さに加え、いずれも一部に意図的な破壊が認められるなど、出土状況の明らかな点で学術的に貴重なものである。———

【撮影】13時58分=伊藤 幸司
縄文中期の土偶というとおおよそこんなイメージなのかな、と思いました。でもこれが下手くそな写実なのか、高度な抽象なのか、という最初の分岐点がわからないんですね。
「note.com」に
土偶のどこを見る?というテーマのものがあったので、飛びつきました。それによると、
———土偶がそこにある。その時あなたはまず土偶のどこを見るだろうか。顔でしょうか? いやたいていの人は顔を中心に土偶を見る。———
———「顔が重要だからこそ作らなかった」という論説も成り立つのが縄文人の精神性の面白さでもあるんだけど、その話はまた今度。顔を見るんじゃなければどこを見るかと言えば、答えはない。———
———土偶の見方の一つとして、僕がオススメしたいのは、その土偶の制作者である「縄文人がどこにこだわったのか?」というところを探してみるということだ。———
……「フリーペーパー縄文ZINE」さん、アドバイスありがとう。私(伊藤 幸司)は写真を選ぶときに「10秒見る」ことを勧めています。その10秒で写真が動き始めたら、その写真は「いい」はずです。多くの人は「パッと見でいい写真」を求めることで自分を失っていきますからね。そしてさらに付け加えれば、見た目「失敗作」もきちんと10秒見てあげることがだいじなんです。そこには「撮ろうとした自分」がいるからです。ある新聞社で名カメラマンといわれた私の友人は「失敗作をきちんと見ないやつは伸びない」といっていました。
さてこのハニワさん、見ているうちに性格のいい、若い女性だと思いました。私は。

【撮影】13時58分=伊藤 幸司
とにかく、こんなふうに並べられて、それぞれけっこう違うということは、作る人それぞれにまかされていた部分が大きかったということですよね。名人が造ったものを真似て作ることから、次の名人に育っていく、というんじゃないんですよね、きっと。
14:00

【撮影】14時00分=伊藤 幸司
表を見たら赤みのある建物のフルーツパーク富士屋ホテルがありました。フルーツパークのドームも。富士屋ホテルの右奥に見える赤い屋根が「やまなしフルーツ温泉ぷくぷく」で、左側の黒々としたソーラーパネルの向こう側の道をいくと、画面左に切れたところに「ほったらかし温泉」があります。

【撮影】14時02分=秋田 守
恵林寺からタクシーで移動して釈迦堂遺跡博物館へ。昨年6月にリニューアルオープンしたとのこと。中央自動車道工事中に発掘された縄文遺跡からの発掘物を展示しているが、中でも土偶は1000点以上出土して、三内丸山遺跡の詳細が分かるまでは日本一の出土数だったとか。これら土偶の顔が面白すぎる。しゃかちゃん、しゃっこちゃん、ですよ。これらは整った顔立ちだけど、もっとくしゃくしゃの個性的な顔もあれこれたくさんあった。

【撮影】14時02分=伊藤 幸司
なんですかね、鏡もあまり見ないし、自分の写真を撮ることもほとんどない私が、たまにこんなふうに自分を入れて撮りたくなるんですね。なぜだか考えてみると、この縄文土器の圧力ですかね。写真で見ると縦縞の飾りが左右違うということなんかに気づきますが、そんなこと知らずに撮っています。ともかくこのニワトリの顔みたいなのが圧倒的に迫ってきたのですね。

【撮影】14時02分=伊藤 幸司
これは、もちろん、なんだかわかりません。ラベルになんて書いてあったかも見ていません。けっこうなスピードで次から次へと見ながら撮っていくだけで、いくら時間があったらいいのかわからない感じでした。あとでよく見ると、なんですかね、この「重し」みたいなのは。もともとセットだったと考えると上と下とでは模様のレベルが違いますね。いま、写真で見るように本物を見ていたら、1日潰れてしまいそう。どうですか、高速バスで来て、お弁当を持って一日ここで過ごすなんて……

【撮影】14時02分=伊藤 幸司
すごいですねェ ゴージャスですねェ ヨーロッパから持ってきたような雰囲気ですねェ
何に使ったかものか、わかっているんですかねェ

【撮影】14時03分=伊藤 幸司
こうなると、なんだか装飾過多。祭祀に使われたといわれれば、ウンとうなづいてしまいそうですね。この不安定さから想像するに、焚き火のところに埋め込んで、熱燗なんかをつくったのかも。

【撮影】14時03分=伊藤 幸司
鼻人間みたいなデザインですね。想像するに鼻穴のところに指を突っ込んで持ち上げるとしたら、その指力のほうが恐ろしいかもしれません。

【撮影】14時04分=伊藤 幸司
瞬間、コルセットかな、と思いました。腰の膨らみと胸の膨らみ、ずいぶん大胆なデザインなんですね。

【撮影】14時04分=伊藤 幸司
これも「縄文」なんですかね。「紐づかいの名人」みたいな人がいたんですかね。

【撮影】14時04分=伊藤 幸司
これをつくったのは「紐づかいの名人」に対して「細紐づかいの名人」ですかね。うまくつくりたいという意欲が全面に出ているように思われます。

【撮影】14時04分=伊藤 幸司
ワーッ! という感じです。こんなのを次から次へと掘り出した人たちの歓喜の声が聞こえるようです。直線も円も、フリーハンドでここまで精密に作れるとしたら、いくつもいくつもつくって、ここに至ったということでしょうかね。

【撮影】14時05分=伊藤 幸司
巨大な壺のフロアから小さな石ころみたいな土器の部屋になりました。ほとんど覚えていません。壁面には縄文土器の、全国と釈迦堂との比較年表が見えますけれど。

【撮影】14時08分=伊藤 幸司
土偶の部屋です。
釈迦堂遺跡博物館の公式サイトには次のように書かれています。
———釈迦堂遺跡では、縄文人たちが作りだしだ30トンにも及ぶ土器や土偶が出土しています。この内、5,599点は国の重要文化財に指定されています。土偶だけでも1,116点もの数を誇り、1遺跡からの出土数としては、日本有数の出土数となっています。当館では、中部高地の代表的な遺跡として数えられる釈迦堂遺跡から出土した、数多くの土偶や高い芸術性を持った土器などをご覧頂けます。———

【撮影】14時08分=伊藤 幸司
土偶の部屋には顔だけが並べられてもいるけれど、どうも「土偶」は縄文時代につくられた人形(ひとがた)のことで、顔だけというのは「かけら」のようです。長野県茅野市の「R3学校支援資料第1部土器のコピー」に
「土偶」って何だろう?という資料がありました。
——— 茅野市の縄文文化を代表するのが、2 体の国宝の「土偶」です。「土偶」というのは「土の人形」という意味ですが、この「土で作られた人形」=土偶は、食材を獲得したり家を建てるための柱を切り出すのに使う石器や調理や貯蔵に使う土器と違って、儀式やお祭りで使われた道具だと考えられています。
日本で発見された土偶はおよそ 2 万点です。そのほぼすべてが乳房やふくらんだおなかなど、女性を表現したと思われる特徴があります。このため、土偶は安産を願ったもの、子孫繁栄を願ったものと言われてきました。縄文時代は、現代のように十分な栄養を摂取できるとは限らない時代ですので、妊娠祈願という性格も想定できます。
「女性を表現した」という特徴と並ぶ、ほとんどの土偶に共通するもう一つの特徴が、頭だけ、腕だけ、胴体だけ、足だけなど、壊れてしまった「かけら」の状態で見つかるのが普通だということです。そして、一つの遺跡からいくつか土偶の「かけら」が見つかっても、接合しないのが普通です。このため、考古学者は「縄文時代の人たちは土偶をわざと壊したのではないか」と考えています。———

【撮影】14時08分=伊藤 幸司
叫んでいるんですよね、顔だけで。なんだか、まつ毛も眉毛もあるみたいですね。

【撮影】14時09分=伊藤 幸司
ひしゃげた顔だか、ひしゃげてしまった失敗作だかわかりませんが、なにか言いたい感じはあるんですよね。

【撮影】14時10分=伊藤 幸司
さあて、これは渋い顔なのか、しょっぱい顔なのか、ひょっとしたら呆れ顔なのかわかりませんが、出来上がった当初も、そんなふうに表情を読まれるような顔だったんでしょうかね。

【撮影】14時10分=伊藤 幸司
こうなると表情は模式化されて、湧き上がってくる感情というよりは、いくぶん類型的なサインにも見えてきます。どう考えても稚拙ではないんでしょうから、けっこう複雑な解釈がその時代にはあったのかとも思えます。素人考えですけれど、かの時代の人がピカソを見たらどう思うか、ですよね。

【撮影】14時10分=伊藤 幸司
なんだか、ものすごく惹かれてしまいます、この顔には。今、だれかがこれを作って、だれかの顔だよといわれれば、素直に表現として受け取れるようにも思えます。わたしは。

【撮影】14時11分=伊藤 幸司
これなんかは、まさに「こち亀」じゃないですか。あの漫画、きちんと見たことないですが、表現としては一点突破ですかね。

【撮影】14時11分=伊藤 幸司
私にはちょっと複雑な、というより高度な表現にも思えます。顔そのものより、気持ちを表現しているように見えますよね。どういう気持かは5,000年前の皆さんに聞かないとわからないもんだと思いますが。

【撮影】14時11分=伊藤 幸司
あきらかに、感情を表現しているように思われます。見る角度が影響しているかどうかわかりませんが、目のあたりにのほほんとした気配が漂っているので、気持ちよく見ていることができました。

【撮影】14時12分=伊藤 幸司
この景色は新鮮でした。真ん中の人が指差しているのはフルーツパーク富士屋ホテルですから、JR山梨市駅の方向です。足元に見えるのが中央自動車道の釈迦堂パーキングエリア。塩ノ山は画面右端に見えているようです。

【撮影】14時13分=伊藤 幸司
画面下に中央自動車道が走っていて、霞がかかったような市街地が甲府です。その先に見えているのはもちろん南アルプス。右端の三角山が甲斐・駒ヶ岳(2,967m)、左に続く山並みは右から左に地蔵岳(2,764m)、観音岳(2,840m)、薬師岳(2,780m)の鳳凰三山、背後に見える白い山も右から左へ北岳(3,193m)、間ノ岳(3,189m)、農鳥岳(3,025m)です。

【撮影】14時13分=伊藤 幸司
右端の甲斐・駒ヶ岳を1,000mm級の超望遠で撮りました。左肩に摩利支天のまろやかな姿があります。摩利支天を確認できれば確定です。

【撮影】14時14分=秋田 守
そして土器の見事な装飾。こうした紋様はこれまで火焔式とばかり思っていたが、これは水煙文と呼ばれる。ちょうど企画展が開催中だったが、刺激的。土器そのものも大型のものが非常に良い状態で出土しているし、紋様もきれいに残っている。考古学者の先生の中には、新潟あたりに多く出ている火焔式土器も、炎ではなく、水の紋様を模した、水煙文ではないかという説を言ってる方もいらっしゃるようで、今後論争が発展するなら面白い。

【撮影】14時14分=伊藤 幸司
鳳凰三山をクローズアップしました。上空の雲の右端のあたりにピョコンと尖ったのが地蔵岳のオベリスク。オベリスクは古代エジプトで立てられた方尖塔のことですが、それが針先のようにぴょこんと立っていればまちがいありません。そこから左に稜線をたどると雪のついた最高峰が観音岳、小さな白い雲の下にある黒い小突起が薬師岳で、鳳凰三山。ゆっくり下がると夜叉神峠です。画面左端に見える白い山は北岳です。

【撮影】14時14分=伊藤 幸司
北岳をクローズアップしました。まろやかな山に見えますが、こちら側の斜面にバットレス(屋根を支えるために壁を補強する控え壁)と呼ばれる日本最大の岩壁があるのです。

【撮影】14時17分=伊藤 幸司
繰り返しになりますが、フルーツパークと、フルーツパーク富士屋ホテルと、やまなしフルーツ温泉ぷくぷくです。

【撮影】14時18分=秋田 守
釈迦堂遺跡博物館の脇では、ハナモモが花盛り。ピンクに白、紅と色とりどり。果実用の桃の花は終わっていたから、花期が違うのかもしれない。コーチは今回、集合写真を撮ることをお忘れではなく(時々、お忘れになることもある)、塩ノ山山頂でも、そしてこのハナモモの前でも撮影してくれた。それはいいのだけど、最近、写真だけの速報版すらちっとも上げてくれないから寂しいんだよね。忘れた頃に写真を見ても、しょうがないから。

【撮影】14時18分=伊藤 幸司
約30分の博物館見学が終わりました。でも、じつは門前に「釈迦堂資料館上段・桃の花の里」という看板があって、ハナモモがにぎやかに咲いていました。これからそちらへ行こうということになりました。

【撮影】14時20分=伊藤 幸司
甲府盆地の笛吹市一宮町は「笛吹桃源郷」だそうで、「公益社団法人やまなし観光推進機構」の
笛吹桃源郷によると、
———桃の生産量日本一を誇る笛吹市。4月上旬には桃の花が一斉に咲き誇り、市の中心を流れる笛吹川対岸の扇状地一帯がピンク色の絨毯を敷きつめたようになることから「桃源郷」とも呼ばれています。———
ということだが、今年はもう遅いと思っていたところ、ここにまだ花があったのです。博物館とは直接関係のない農園が、入園無料という大サービスをやっているらしいのです。

【撮影】14時20分=伊藤 幸司
モモの花はだいぶ散っていましたが、それでもまだ、花は咲き残っている状態でした。

【撮影】14時20分=伊藤 幸司
じつは私は、モモとハナモモの区別がつきません。「みんなの趣味の園芸」の
ハナモモによると、一発でわかりました。
———ハナモモは、花を観賞するために改良されたモモです。サクラの花の咲く時期に前後して開花の最盛期を迎え、あでやかなピンクや赤、白の花が春の庭を彩ります。———
———モモは太古から日本人に親しまれてきましたが、観賞用のハナモモとして改良が行われるようになったのは江戸時代に入ってからです。現在もハナモモの品種改良はあまり進んでおらず、栽培されている園芸品種には江戸時代に作出されたものが多くあります。———

【撮影】14時22分=伊藤 幸司
「思いのまま」という名前のハナモモの前で記念写真を撮りました。2人がすでに恵林寺から帰り、ここで男性2人も別れます。

【撮影】14時27分=伊藤 幸司
私にもわかるハナモモとモモのちがいは、結局樹形のようです。
「みんなの趣味の園芸」によると、
———樹形には立ち性、枝垂れ性、ほうき立ち性があり、狭いスペースにはほうき立ち性、広い場所には立ち性や枝垂れ性など、場所に適した樹形を選ぶことができます。———
とのことです。

【撮影】14時32分=秋田 守
釈迦堂遺跡博物館から、基本プランは8km歩いて石和温泉、温泉入浴と夕食の後、千葉方面直行のあずさで帰る、というもの。が、若井さんとぼくはここで離脱。勝沼ぶどう郷駅まで1時間ほど歩くことにした。早い話が、2時間近くも歩くのはご勘弁、という甲斐性無しだ。中央道を陸橋で越して、しばらくはブドウ畑の中の細い道。ブドウの枝に若芽が出ていた。少し風が出てきて、ひんやり。でも気持ちのいい道。お天気に恵まれて良かった。

【撮影】14時34分=秋田 守
しばらく畑の中を歩いていたら、花は散っているが、大きな桜の木が何本も聳えているのが見えて、寄り道。皇大神社。狭い敷地に、4本の桜の老木大樹がそれぞれに大きく枝を張り出している。1週間前だったら、さぞかし見事な花見ができただろうにな。脇の方に女の子が3人、テーブル広げてお菓子を食べている。手を振ったら、笑顔で手を振り返してくれた。ジイサン、嬉しくてたまらん。素敵なお花見だね、君たち。笑顔をありがとう。

【撮影】14時34分=伊藤 幸司
釈迦堂遺跡博物館から、石和温泉に向かって「行きあたりばったり」行くことにしました。まずは中央自動車道を渡ります。

【撮影】14時41分=伊藤 幸司
この道が真っすぐ伸びていけば、前方の山にぶつかるあたりがJR石和温泉駅。夕日を左手に見ながら行けばあのあたりにたどり着けるという目算です。

【撮影】14時41分=伊藤 幸司
ブドウ畑がありました。手入れの行き届いたぶどう棚のようですが、最近では雨対策も必要になる……という考え方もあるようです。
大和鋼管という会社の
ぶどう棚は鉄パイプで!!という提案が雨対策にふれていました。
———地球温暖化によりゲリラ豪雨などで降水量が増加しているため、ぶどうの大敵である雨への対策がより重要を増しており、近年では栽培で使用される”ぶどう棚”に雨よけの屋根を付ける等の対策も行われています。一方でぶどうは雨に濡れてしまうだけで病気にかかってしまうほど繊細で、栽培はとても難しそうに思うかもしれませんが、実は品種によっては比較的簡単に一般のご家庭でも栽培する事ができます。そしてその成功のポイントはやはり”ぶどう棚”にある様です。———
ま、考え方はいろいろ、ということでしょうかね。このぶどう棚には、素人目にですが、愛情を感じますね。

【撮影】14時42分=伊藤 幸司
これはハナモモではなくて、モモなんでしょう。手入れや収穫を考えて樹勢をコントロールしているんですね。画面右端に小楢山が見えてきましたから、道はすこし右方向に振れています。右から2人目の人の頭の真上位にフルーツパーク富士屋ホテルが見えています。

【撮影】14時45分=伊藤 幸司
そ、そうです。モモの木といえばこれですね。この枝先に、白い袋が被せられくるんです。

【撮影】14時46分=伊藤 幸司
「地蔵堂交差点」です。国道20号・甲州街道勝沼バイパスを渡ります。なんだか広すぎるような道ですが、渡るとまた村の道になりました。

【撮影】14時48分=秋田 守
県道へ出て、道路脇を歩く。と、行く手にまるき葡萄酒、という看板。店の前に行くと、やってきたお婆さんが、ここのワインは美味しいよ、試飲もできる、と言う。こりゃ寄らずにおられようか。店の女性が試飲を勧めてくれた。最近賞をとったばかりの白ワイン、次々3種類。赤も2種類。さらに、じゃんけんで勝ったら、有料の古酒を特別試飲できると。ぼくは負けたが、若井さん粘り勝ち。せっかくのご縁なので1本ずつお土産を買った。

【撮影】14時49分=伊藤 幸司
これもモモ畑ですね。でもこちら側は古木の畑をもうやめてしまうのでしょうか。

【撮影】14時49分=伊藤 幸司
モモ畑の下は、タンポポの天国ですね。その場で確認しませんでしたが、オリジナル画像で見てみると日本タンポポみたいですね。11時01分のタンポポ解説にあったように、環境の変わらない「田畑」に残っている例のようです。
タンポポの周囲にポツン、ポツンと見える小さな紫はオオイヌノフグリでしょう。

【撮影】14時52分=伊藤 幸司
鉄パイプで組み上げたモモ畑の管理システムなんでしょうね。11時09分の秋田さんの写真では、モモの木の手入れをする人が高低を調節できる作業台に乗っています。高所作業台というらしいですが、自走式かもしれません。そういう道具で合理的に管理できるシステムのように思われます。あるいは軽トラで入って行っちゃうとか。

【撮影】14時55分=伊藤 幸司
道端にヒメオドリコソウが出ていました。オドリコソウとどう違うかはっきりとは覚えていませんが、どちらかだろうとは思いました。

【撮影】14時55分=伊藤 幸司
オドリコソウとヒメオドリコソウの違いがどこにあるかということについては「みんなの花図鑑」の
ヒメオドリコソウがわかりやすかったと思います。
———葉は卵形で、2枚ずつ向かい合って生える(対生)。葉の縁には鈍いぎざぎざ(鋸歯)があり、葉には柔らかい毛がはえている。上の葉は小さく、下へいくほど大きくなって下向きになっている。上のほうは赤紫蘇の葉をうすくしたような色、下のほうは緑の紫蘇の葉に似ている。———
とのことで、まさにこの写真のとおり。
———明治時代の中期に東京の駒場で見つかったという記録が残されているという。同じオドリコソウ属に踊子草(オドリコソウ)がある。 こちらは在来種で、日本全土やサハリン、朝鮮半島、中国大陸などに分布している。この踊子草(オドリコソウ)によく似ていて小振りなので「姫」の名がつけられた。姫には小さい、可愛いというニュアンスがあり、植物ではよく用いられる。姫踊子草(ヒメオドリコソウ)は極めて繁殖力が強い。空き地や土手などいろいろな場所で群落を作り、在来植物を駆逐している。———

【撮影】14時56分=伊藤 幸司
平年ならこの日のこの風景が桃色に輝いていたんでしょうね。残念ですが、しかたがない。

【撮影】14時57分=伊藤 幸司
私は基本的に「振り返って撮らない」と決めているのですが、ここでは振り返って撮りました。振り返った写真が混ざってくると、私の頭ではわけがわからなくなってしまうことがあるからです。

【撮影】14時59分=伊藤 幸司
浅間神社です。住所は山梨県笛吹市一宮町一宮1684だそうです。ウィキペディアの
浅間神社(笛吹市)には次のように書かれています。
———浅間神社(あさまじんじゃ)は、山梨県笛吹市一宮町一宮にある神社。式内社(名神大社)論社、甲斐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある浅間神社の1つ。甲斐国一宮であることから「一宮浅間神社」と通称され、「一宮さん」とも呼ばれている。———
きちんと書かれていますが、よくわからないかもしれません。じつは私の初期の著書『富士山・地図を手に』(東京新聞出版局・1980年)に「浅間神社」という章を設けています。それによると明治4年(1872)以降神国日本が進めた神社の社格によると、コノハナノサクヤヒメを祭神とする浅間神社は大正時代になると全国に1317社記録され、その「社格」による日本国での順位は、
1 富士宮の浅間神社……官幣大社(明治29)←国幣中社(明治4)
2 甲府一宮の浅間神社……国幣中社(明治4)
3 静岡の浅間神社……国幣中社(明治21)
4 富士吉田の浅間神社……県社(明治12)←郷社(明治5)
5 須走の浅間神社……県社(明治19)←村社(明治8)
6 河口の浅間神社……県社(大正13)←郷社(明治5)
7 村山の浅間神社……県社(大正13)←村社(明治8)
8 勝山の浅間神社……県社(大正14)←村社(明治5)
ちなみに明治4年から政府によって整備された神社の台帳は17万社におよぶそうで、官幣(大・中・小)社、国幣(大・中・小)社、府県社、郷社、村社などに除した……のです。
つまり富士山を祀る浅間神社の富士宮と甲府と静岡が圧倒的な地位にあって、富士宮と静岡は敗者徳川家との関係から当初過剰に低く評価されたということが明らかです。では富士吉田の浅間神社はどうなのかというと、あれは江戸庶民を中心とする庶民信仰の神社だったから、なんです。
で、甲府一宮の「一宮」とはなにかというと、鎌倉時代に定められた各国それぞれの一宮、二宮、三宮で、この神社は鎌倉時代にすでに由緒あるものだったということです。
ついでですから富士宮市の富士山本宮浅間神社のところを引用しておきます。
———現在の浅間神社群につながってくるものが、はじめて歴史に登場するのは平安前期、879年(元慶3年)に撰進された国史『文徳(天皇)実録』と901年(延喜元年)撰進の『(清和・陽成・光孝)三代実録』だということです。それらの文書によると、864年(貞観6年)に富士山が噴火して青木ヶ原丸尾の溶岩が流れた事件を伝えるなかに「富士郡正三位浅間(あさま)の大神」と出てくるのだそうです。浅間(あさま)神社(富士宮)はそのとき正三位であったわけですが、その十年前に従三位に叙せられ、五年前に正三位になっていたのです。正三位になったとき、近辺でそれより位の高かったのは従一位の香取神宮(千葉県佐原市)と鹿島神宮(茨城県鹿島郡)と正二位の熱田神宮(愛知県名古屋市)の三社だけで、同じ正三位には三島神社(静岡県三島市)と安房神社(千葉県館山市)があったにすぎません。———
ちなみにこれは1979年6月号の山岳雑誌「岳人」で16回連載したものの単行本化です。長くなりましたが、国家神道の時代、富士山の浅間神社の中ではナンバー2の位にあったのが、この一宮浅間神社だったということです。私たちはこの神社の前を素通りして先を急ぎました。
15:00

【撮影】15時01分=伊藤 幸司
じつは14時59分の浅間神社の鳥居は表参道のものではなく、東脇から神社本殿に直接入る脇道でした。それを左に見ながら神社境内に沿って東に進んでいくと、その裏道に、こんなド派手な門を見たのです。浅間神社の敷地の北側にある「お屋敷」という雰囲気でした。門扉に「古屋」とあったので、一宮町の古屋さんを調べてみると、ここは一宮町1681番地の古屋農園ヤマフルさんのようだと思われました。浅間神社の番地が一宮町1684番地ですから、ほぼ間違いないですね。
山梨の完熟桃 古屋農園ヤマフルのホームページでは
———山梨大学・発酵研究施設(現ワイン研究センター)にてワイン醸造を学び、同工学修士を修了した後、雪印乳業でワイン醸造・研究(ワインアドバイザー)、その後、フルーツヨーグルトなどの商品開発に携わり、おいしさを追求し商品開発をしてきました。
父の跡を継いだ後も「甘くおいしい桃づくり、そのおいしさでみんなを笑顔に」を信念にしています。ワイン醸造や発酵乳の商品開発から培った美味しさへのこだわりと探求心で、当園の桃を”絶品の美味しさ”にすることを目標に、「甘熟桃」の栽培に取り組んでいます。
また、安心安全を意識し、独自の自家製肥料をはじめ、減農薬、さらに農業は製造業と同じと考え、計画と作業管理を重視し栽培を行っています。近年不安定さが増している天候と共に前向きに農業に勤しんでいます———
とのこと。意欲的な桃農家さんの門構えでした。

【撮影】15時01分=伊藤 幸司
穏やかな日差しの道をのんびりと歩いていきます。

【撮影】15時04分=伊藤 幸司
この御手洗川にぶつかりました。一宮浅間神社の近くで京戸川と大石川が合流しています。京戸川は達沢山(1,358m)から下ったことがあります。このまま下っていくと笛吹川に合流します。

【撮影】15時06分=伊藤 幸司
ちょっと気を抜いたら、道が消えてしまいました。ごめんなさいという気分で忍び足、向こうに見える道路へとトラバース、ですね。

【撮影】15時07分=伊藤 幸司
なんか、大きな建物がいくつか見えてきました。まずは現在位置を確かめるために、表通りらしき方向へと歩きます。

【撮影】15時09分=伊藤 幸司
これはグーグルマップの航空写真で見ると円形の屋根が笛吹市立一宮図書館、手前がいちのみや桃の里ふれあい文化館でした。

【撮影】15時10分=伊藤 幸司
県道に出ると笛吹市役所の一宮支所がありました。

【撮影】15時12分=伊藤 幸司
県道際に建っていた笛吹市立一宮中学校の紋章が見えました。

【撮影】15時13分=伊藤 幸司
県道303号「市之倉山梨線」は笛吹市一宮町市之蔵(市之蔵交差点)から山梨市北(八幡橋西詰交差点)までだそうです。歩道はないけれど、けっこう立派な道路でした。

【撮影】15時15分=伊藤 幸司
考えてみたら、12時49分の写真で恵林寺の拝観となってから、各自水分摂取はしたものの、温かい飲み物などありませんでした。2時間以上歩き続けた感じでもあり、みなさんコンビニでも出てきてほしい、という気分でした。そこに突然、コーヒーが出現、したのです。みんなでワッと押しかけた感じでしたが、残念! ここはあくまでも「山の焙煎所」ですから、コーヒー豆は出してくれても、コーヒーは出ないとわかったのです。

【撮影】15時37分=伊藤 幸司
道筋にあったモモ畑で、かなり本格的な自走式高所作業台を見ました。手前のハシゴでの作業と比べると作業効率と安全性は比較になりませんね。経費的な問題だけですね悩ましいのは。きっと。

【撮影】15時41分=伊藤 幸司
これは特別な家ではないと思います。でも伝統的な感覚で比較的新しくリフォームされたという感じがしたのでとりあえず撮っておきました。

【撮影】15時44分=伊藤 幸司
ここで県道314号一宮山梨線にぶつかりました。熊野神社南交差点です。

【撮影】15時53分=秋田 守
駅に向かって最後は上り坂。もうまもなく上り列車が来る。必死に歩いた。勝沼ぶどう郷駅に着いたのは5分前。車内でビールを吞みたいと思ったが、キオスクや売店がない。あるのはワインショップのみ。念のため、訊いたが、ワインしかないと。がっかり。やってきた高尾行き鈍行列車に乗り込むと、ボックスシートは空いてない。おまけにその先、続々とお客が乗ってきて、車内でビール呑むなんて状況ではなかった。本日、歩行数2万5000歩。

【撮影】15時53分=伊藤 幸司
写真を並べて見ると、秋田さんがJR勝沼ぶどう郷駅に着いたちょうどそのとき、私たちはセブンイレブン笛吹一宮坪井店で休憩していました。まあ、笛吹川を渡れば石和温泉なのですが、今日はこれまで、としてここでタクシーを呼んだのです。
16:00

【撮影】16時04分=伊藤 幸司
入浴は最初から富士野屋夕亭と決めていたので、休憩したセブンイレブンからタクシーで直行したのですが、大規模なリニューアル工事中で、裏口から入浴のみ、となりました。
17:00

【撮影】17時07分=伊藤 幸司
千葉行きのあずさ3号は18時35分甲府駅→19時08分大月駅なので、とりあえず石和温泉駅から甲府駅へ移動しました。

【撮影】17時47分=伊藤 幸司
甲府駅前の奥藤本店甲府駅前店で18時35分までの時間調整を兼ねた食事をしました。
18:00

【撮影】18時13分=伊藤 幸司
18時35分発の千葉行き特急・あずさ50号に乗るべく甲府駅に向かいました。