林 智子……あたまをつかったちいさいおばあさん
津軽を出た!――2008.6.17



■津軽を出た!――2008.6.17

つい 2・3日前のことだ。
眠いなあ・・などと 半分 うとうとしながら 夕方 ラジオを聴いていた時のことだ。 
<刈干切唄は 宮崎の 高千穂地方の 民謡です・・・>などと 言う アナウンサーの声に
なに?!と 眠気も 一気に吹き飛んだ。<刈干切唄ですって?><高千穂ですって?>

<刈干切唄>と言う言葉も <高千穂>も そうだけれど 最近 <宮崎>と聞いただけで
わたくしの 心は ときめいたり 千路に乱れたりする。 
まさとくんが 宮崎県出身という 簡素な 理由があるだけで・・・・・。
まさとくんとは 何を隠そう 私の 大 大 大好きな 俳優なんである。
何の 縁もゆかりもない 宮崎だが まさとくんの 出身地と聞いてからというものは
南国 宮崎は 私の 第3の故郷のように 親しみを感じる地となった。
勝手に ふるさとにしちゃったわ。
そういうことも あるのである!

<わたしのまさとくんの事>を 話し出したら 一晩かかっても 終わらない。
だから まさとくんのことは 我が胸に 大事に大事に 秘めておこう。

さて 宮崎の民謡 <刈干切唄>を その昔 私は 舞台で 踊ったことがあった。
何ゆえに 民謡などを 踊ることになったかと言えば それは 幼稚園の教員養成所に 
ある年 編入したからだ。

弘前の 田舎で いよいよ 教員となるべく 教育実習に 行った先は 蛙が鳴き
青々と 広やかに 田んぼが ひろがる中に 一軒 そびえる 学校だった。
のんきな わたしは 弘前の 田舎が どんなに <いなかくさいのか>など 知りもせず
<将来は 僻地の 学校の 先生になる・・>などと 言っていたのである。
我家は 父も母も 兄も姉も とにかく先生。親戚も ほとんどが とにかく 小学校の先生だった。
弘前と言うところは 他に 仕事がなかったのか?!と 言いたいくらいだけど
そうね・・・なにも なかったのでしょう・・・・お城と りんごと
学校しかないのだもの・・・・とにかく親戚一同が まったく代わり映えも 
しない 学校の先生だった。
ゆえに 私も 自然に 先生になるつもりでいた。

しかし 田んぼの中の 現実を 目の前にし 土壇場になって はじめて 私は目が覚めた。
<だって だって 田んぼしかないんだぞ!!>
<こんな所で 一生 学校の先生なんか していていいのか?>
<世界って ひろいんじゃないのか?>
<井の中の蛙・・・ってまさしく このことじゃないのか?!>
<つまらなさすぎる!>
なんとも 遅い目覚めだったけれど この時 はっきりと 田んぼの中なんか
嫌だ・・と 自覚した。 

結局 私は 学校の 先生になるのは止めて 小さい頃の希望だった 
幼稚園の先生になることにし 港区三田にある 小さな小さな 教員養成所に 編入した。 
幼稚園には 小さいときから 興味があった。叔母が幼稚園に 勤めていたし
戦争から帰った叔父と その叔母は なぜか 幼稚園に住み込んでいた。
ミッションスクール付属の 其の幼稚園には クリスマスや イースターがあった。
小さかった私は 叔母の 幼稚園に 泊りがけで 遊びに行き 其の行事に
参加していた。 今にして思うと おそらく 日曜日の教会学校だったろう。
<ピリポ君が 泣いちゃった!>などと 聞いた事もないような 名前が
飛び交っていた。
余談だけれど この 叔母が クリスチャンであり また 私の父の 一番上の兄が
敬虔なる・・ と 言われていたクリスチャンだったせいか  教会や 賛美歌は 
ごく身近に 私の 周りにあった。後年 わたしもまた クリスチャンになり 
教会学校の先生など していたのだけれど 小さい頃の それらが 私の 原風景となり 
しっかりと インプットされていたのだろうか? 

田舎は止めよう。東京だ。田んぼの中で 私は そう決心した。

編入生として 学んだ 教員養成所の 期間は たったの一年だったが それは欲張りと
いえるほどに 濃厚だった。何しろ 編入生は もう 単位は 取れているものがあるので
足りない単位を 一年間で 取るというのだが 足りないものは たくさん あったからだ。

この年 編入生は 11名。 其のメンバーはと言えば のんびりと 津軽から出てきた
甘えんぼの 私・・ 売れない新劇の女優くづれ・・お化粧品の売り子さんくづれ・・ 
お寺の奥さんで 高校の先生で 双子の女の子のお母さん<一番年上だった>・・
アナウンサーくづれ・・大学は出たけれど 旅行だけしていた自由な人・・
会社の事務員くづれ・・・・など いったん 大学を出て 社会人には なったけれど 
やっぱり 違うんじゃない?と 幼稚園の先生を 目指すことにした ちょっと 
はみ出してしまった 11人であった。
年齢も もとの仕事も 雰囲気も まちまちで ばらばらで この11人は 普通の
若い 学生に混じって 勝手に 異色に やっていた。
ここでは 1年の 間に 2回も ダンスの創作発表会が 行われた。
編入生は 創作ダンスや 創作劇なんか お手の物だった。何しろ アナウンサーも
女優くづれも 居たのだから・・・・幼稚園に 合宿して 練習に励んだし
やる気満々・・ そう 幼稚園の先生を目指す人は 子供が好きだから・・なんて理由じゃない。
歌ったり 踊ったり 大声出して 表現をすることの好きな人の 集まりなんだ・・・と 悟った。
暴れることの 好きな人じゃないと 幼稚園の先生は つらいだろう。
自分を さらけ出しすぎてしまう 仕事だから お澄まししていたい人には つらいだろう。
どこか 一線を踏み外していて あほらしいことができなきゃ つらいだろう。
パワーがなければ 出来ない仕事 創造力が 絶対的に必要な仕事 に 思われた。

実際 先生をしていた期間は お弁当時には くしゃみと共に ご飯粒は飛び回り
いつ なんどき 何が 飛んでくるか 油断できなかった。 
イスごと ひっくり返った3歳児の 前歯が あっという間に 2本も 欠けていて 
絶体絶命・ピンチ! などという 想像を超える出来事の 連続で 靴下は 常に 破れ 
ジーンズのチャックが 開きまくり・・・という <女ですもの・・うふふ・・>
などという 艶やかさとは まったく 無縁の日々が  私の日常だった。
それこそ 毎日が 危機一髪  冒険 冒険の 連続だった。
ま・・それもこれも 私にはピッタシの 仕事であったと 思うが。

<刈干切唄>は この 編入生たちで 振り付けをし 浴衣を まくりあげ
手ぬぐいなどを 姉さまかぶりした いでたちで 優雅に 踊ったのだ。
今 やおら 思い出してしまったが もひとつ <ドドンパ狸>なるものも
やった。狸のぬいぐるみなんか着て 踊りまくった。 
恥ずかしい!  よく やったものだ!
演劇を やる人たちは あらゆることに 突き抜けているのではないかと 思うが 
幼稚園関係者も 結構 突き抜けている。
別の言い方でいくと それは 破れかぶれともいうのだが。

ま・・・私は いまだに 同じようなことで 日々を ドタバタと過ごしており
    それは それで 面白い。


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