林 智子……あたまをつかったちいさいおばあさん
母とピアノ――2008.7.28
■母とピアノ――2008.7.28
約 40年の永きにわたる 教職を 終えた後 母は たくさんの趣味を 持ち 今日はこちら 明日はあちら というように 習い事に 精出して張り切っていた。
書道や 剣舞や 詩吟。 仲間たちとの旅行や 百人一首の会。其の中に 大正琴が あった。
大正琴が 母は 特別 好きだったのだろうか。教室でのお琴と 家での練習用というように 大正琴を 2台持ち 母は 練習に 励んでいたようだ。
しかし 80歳になった頃 そんなに 好きだったお琴も <手が痛くてもう出来ない>とあきらめねばならなかった。 弦が 指には 痛く感じられるようだった。
<おかあさん・音楽とか 楽器とか 何か 他に やってみたい事 ない?>と わたしが聞いた時 母は <そうねえ・・・ピアノは また やってみたいけど・・・>と つぶやいたのを私は 聞き逃さなかった。
母は 戦後すぐは 新生中学校で 全ての 教科を 教えたふしがあり 音楽も 教えたのだった。 後のち 話したことには 新制中学の 生徒の中には 腰に キセルを ぶら下げ 授業中に <先生・たばご すってもいごすべが?>というようなことや 音楽の時間に <ベートーベンでなくて 民謡 うだうべし・・・・!>という 歌自慢がいたのだ・・・・と 楽しそうに 話したのを 聞いたことがある。
其の頃 母は まだ 35・6歳。
母が まだ 独身の 20代の 若き教師だった頃には 弘前には ピアノがなくて ラジオ放送の 合唱の伴奏は 青森まで行き 母が ピアノを伴奏した・・などと いうことも あった。
母は 小学校唱歌の 伴奏は なんでも出来た。できたというよりも 必要に 迫られての ちからわざといったところか。 ほとんどが 簡単な 和音で 自己流なのかどうかは 判らないが 間違おうが なんだろうが 最後はつじつまが きっぱりと 会うのが ふしぎ・・ しゃあしゃあと したたかな 感じだった。
出来る 出来ないだの 上手・へただのと 甘える間もなく 何とか やりぬき 生徒にも そうやって 強引に 歌わせていたのだろうな・・・と思われる 技があった。
適当に 弾いているようだが ドミソ・ドファラ・シレソ だけでも 本当そうに パラパラパラっと 軽く 弾いてしまうので <おかあさんて 凄い!>と 私は 母の教師としての 歴史の 長さのようものに 感嘆した。
ピアノは 母にとっては 自分が自分であることの証 の ひとつのようなものだったろうと 思う。
かつて けたたましく 駆け抜け けたたましく 生き抜いてきた 女教師としての 日々は おそらく 母の 命だったろうし 有無を言わさず やらねば ならなかった 伴奏も 人間としての 母そのものを 創った のだったから。
大正琴が出来なくなったと 言い始めた頃 少しづつ 母は 老いていった。
母が 老いていったのは わたしには たまらなかった。
母の 老いは 私には つらかった。
大正琴が 出来なくても なんとか 母に 元気で 楽しく 過ごしてほしかった。
私は 転々と転勤し あちこちに 住んでいたから すぐに 母のそばに 行くことが 出来なかった。せめて 母には いつも 笑っていてほしかったから 母の好きなことは なんとしても 全部 全部 してほしかった。
私は 二人の 姉たちに 相談した。
そして 私たち 3人姉妹は 母のために 中古のピアノを買った。
ピアノが 届いて 案の定 母は 大喜びだった。
母は かつての 小学校の教科書も まだ たくさん持っていたし 仲間たちと作った 歌集もあり 日記を書いたり 写真を見たりする 日課に さらに ピアノと 歌が 加わり 肉体的には 不可能に なっていったことも 多々 あったにしても はりのある日々を 過ごせただろうと私は 信じている。
弘前に帰省すると 私は まず 母と 歌を歌った。
私の 子供たちも 母のピアノに 合わせて とにかく 歌った。
唱歌も イタリア歌曲も 何でもかんでも 知っている歌を ともに 歌いあった。
母の伴奏で なんでも 歌った。
母と 歌うことが 出来たのは 大きな 喜び それは 希望を 生み出していた。
母の晩年 母と 共に居た時 私は 母と たくさんの歌を 歌い 思い出を 語りあい 共に 笑うことができた。 感謝なことであった。
私は 必要上 20歳頃に ピアノを買った。私のピアノは 引越しのたびに 私と一緒に引越しを繰り返し ところどころ 傷がついた。 傷がついてはいても 私のピアノは いまだに 現役で 私の そばに いつもある。
母が亡くなって 何年間か 私は 自分の ピアノに 触ることが 出来なかった。
<歌の翼に>を弾くと 母の<この歌は 誰だれさんのすきな歌>と 母が 口ずさんで 弾いていたのを 思い出す。 宵待ち草も 故郷も 全部 母と一緒に 歌った歌だ。
どれも 母と 一緒に 歌った歌だもの・・・・歌えなかった。
何故だろう。 一緒に 歌った時 とても 幸せだったのに 母の老いを 思い出す。
わけなんか判らない。 わけなど 判らないけど 私は 数年間 ピアノに 触れることが 出来なかった。
母は 老いても 決して 不幸なんかじゃなくて いつも 母の ままだったのに。
私は 気がついた時 いつも 身近に 歌が あったような気がする。
父が 家で 時々 オルガンを弾いていた。 母と父の バイオリンがあり 時々 バイオリンを 弾いていた。
母の 日直に 背負われて つれていかれた 日曜日の 中学校の 蓄音機。 父の 宿直で 小学校に泊まっていたことが 私の人生初の 記憶。 どの時にも その場所に 音楽が あった。
歌は 命のようなものだ。
歌っては 母を 思い出して泣き ふるさとを思う。
私は きっと いつまでも 大人になりきれぬ おばかさんなんだ・・と 思っていたが それが 違うんだ・・・と 心底 判ってしまった。
私だけじゃなかったんだ・・・・私の胸が 詰まってしまって 歌えぬように 人は それぞれの 歌を持っていて 泣いてしまうんだ。
泣いたって いいんだ。 有り余る思いが みな 人には あるのだもの。
もうすぐ お盆だ。今年 私は 家族4人で お墓参りに行くことにした。母の お墓をお参りし 弘前公園の せみの 鳴き声も 聞いてこよう。
このごろ 私は ピアノの練習に 精出すようになった。 歌の練習と称しても やっぱり 母の ピアノを 思い出す。
けど いいんだ。 私も62歳。 たくさん歌い たくさん ピアノを弾こう。
涙は 流すためにあるんだ。
おばかさんでも いいんだ。
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