林 智子……あたまをつかったちいさいおばあさん
中国の踊り――2008.7.31



■中国の踊り――2008.7.31

 小学校の 2年生にあがる直前 私は 家を引っ越し 転校した。
 新しい家の 庭には 雪ノ下という りんごの木と 大きな栗の木があった。
 奥行きのある 広い庭と 真ん中に 長い廊下のある 木の香りのする家。
 雪が まだ 積もっていて 雪ノ下の 真っ赤な 小さい実が 鮮やかだ。
 引越しした日の 雪の下のりんごと 新しい家の明るさが いつまでも 私の記憶の中で 消えることがない。

 新しい学校の 新しいクラスの中に ひときわ わたしの目を引いた女の子がいた。
 特別 笑顔が可愛い 女の子 きみちゃん。
 ほとんどが 短いおかっぱ頭のなかで きみちゃんは みつあみを 長く結い その 毛先はカールしていた。
 くっきりとした えくぼが あり フリルのついた 洋服と 赤い シューズを はいていた。
 下駄を履いていた子もいたし 貧しくて ぞうりを履いていた子も居た中で きみちゃん一人が 垢抜けて 輝いていたふうに わたしには 見えたのだろうか。 

 きみちゃんとは すぐに 仲良しになった。
 きみちゃんは バレエを習っていた。
 あるとき バレエの発表会があって 私は きみちゃんのお母さんに つれられて バレエを見に行った。

 きみちゃんは 髪の毛を 中国の女の子ふうに 結って 赤いチャイナ服と 赤いズボン 赤いバレエシューズで もう一人の 女の子と 二人で 踊った。
 人差し指を 一本だけ立てて 首を左右に振って 踊る 中国の女の子。
<バレエ くるみ割り人形の 中の 一つ 中国の踊り>を きみちゃんは 踊ったのだった。

 きみちゃんの お母さんは いつも 着物を着て 学校にきていた。 役員の なにか 重要な役でもやっていたのかもしれない。
 ひるま お母さんが 着物を着て 学校に来ているなど わたしには 絶対に ありえなかった。
 私は 人生初の 小学校の入学式でさえ 父親と 一緒だったし 参観日は たまに 祖母が来るぐらいで 母は 常に 自分の 勤務先の 小学校にいたのだった。
 母親と 昼間 そうやって 親子でいるなど なんといっていいか わからないほど わたしには 衝撃だったのだろうと 思う。
 きみちゃんの おかあさん・・・それも 着物姿のおかあさん。
 私が いつも 一人で 孤軍奮闘したとは 思っても居ないけれど 着物姿の いつも きみちゃんと一緒に居る お母さんは 私の心の奥底の どこかに シーンとした 何かを 残したようだった。

 小学6年の時 私の母は 私の通っている小学校の 先生になった! ついに! 
 私は うれしくて しょっちゅう 職員室に 母をたずねて 出入りをした。

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 50歳。私の第2の人生は はじまった。
 幼稚園に代表される 仕事を持って 経済的には自立した生き方をする人間であること。
 仕事をすることは 私にとって 当然のことであったからこその 長い長い 混沌とした 期間。 そういうものを 私は 持っていた。
 しかし 50歳 私は決めた。仕事をすることはもういい。
 千葉に来てからの 私は クリスチャンとしての 自分のあり方を もう一度 見つめなくてはならなかったし もう一度 基本から 自分ひとりで 立つ必要があった。
 千葉の 母も 亡くなった。
 卒業しよう。 色々なことから。 人生後半期に入るのだ。

 今 やらなければ 死んでも死に切れぬことをやるんだ・・・と 決めた時 即 答えが出たのが バレエだった。
 仕事はもういいんだ と 決まれば もう 迷うことなんか 何もなかった。
 バレエは 数えてみたら なんと 都合 7回ほど 挑戦していた。
きみちゃんの 中国の踊りを見てから 習いに行った 小学校時代の2年間。
 すっかり 忘れていたけれど 高校のクラス会で<貴方は 創作ダンスのときに 夢中で踊っていたね>といわれて 思い出した 高校の体育の授業でのダンス。
 一人立ちしてからの 横浜カルチャーセンターの 数ヶ月間。
 下の娘が 少し大きくなってからの たびたびの挑戦。
 男の人みたいな おじさんみたいな バレエリーナがいたり 太ってしまった 叔母さんとしか 思えないような バレエリーナも 先生の中にはいた。
 そして 時がめぐり 50歳になって 私の 楽しい楽しい しかし 本気の バレエ教室の 日々が 始まった。

 私の娘は まったく 偶然にバレエ人生を 始めた。
 私達の住む 宿舎のすぐ目の前に バレエ教室があり 仲良しが 習いに通っていたのを知った娘は すぐ 習いたいと 言った。
 小学一年生から 始まった 娘のバレエは それから 年一度の 発表会を 我が家の 大イベントとして 受験で 一時 ストップするまで 続いた。
 発表会の日 たいてい 娘は フリル一杯の 白いドレスを着てでかけ 私は娘用に 大きな花束をもち 家族で見に行った。 それは 我が家の楽しい イベント・・・
 おそらく かつての わたしが 母に してほしかったであろう スタイルの バレエの 大きな イベントの 一つであった。
 娘は 中国の踊りを踊ることなく少女期が過ぎ 青年期へと 成長していったが 受験期を 除き 時々 中断することはあっても いまだに バレエ人生を 続けている。
 この数年間は 私と娘は 母娘で 同じ教室で 習いもし 発表会にも 出演した。

 私の 母は どう思っていただろうか。
 小さい頃 バレエを 習い続けるには どうしても 送り迎えが必要だったこと。 発表会には どうしても 母親の手が 必要だったこと。 そんなこんなは すべて 仕事を持つ 働く母には 不可能だったこと。
 働く 母親に 出来ないことは たくさん あった。

 後々 仕事を持ちながら 4人の子供たちを 育ててきた 母の思いを 私は 母から なんども 聞くことができた。 それは 母のかなり 晩年にさしかかった 時期であった。
 しかし 私は 母の 思いを ちゃんと 知っていた。母の 切なさを ほとんど 知っていた。
 仕事を持つことを 選択し 仕事をし続けることを 選択したが故に 切り捨てねば ならなかった 多くの思い。 
 母は 経済的な自立を 目指しただけではなく 一個の人間として 誇りと尊厳を 持ちながら さまざまな 困難と闘いながら 仕事を 続けた人間なのである。

 私は 母から たとえば 料理の仕方や お茶の入れ方などを 習いはしなかった。
 掃除の仕方も 夫を<主人>と 呼ぶことも 何一つ 習いはしなかった。
 しかし 一個の人間としての 生き方を 母から学んだ。
 どんな時にも 人間は 対等であることや 生き方を決めるのは すべて 自己の 責任であること そういうことを 私は 母から 学んだ。

 私と 娘の バレエ人生は いまだ 発展途上である。
 いつか 年老いた私は 中年となった娘と 同じ舞台で バレエを踊ったりしているのだろうか。
 それも また 味わいというものが あるかもしれない。
 いずれにしても 私は バレエをやめるなど 考えてもいず 娘もまた バレエは 死ぬまでやるぞ・・・などと 言っているのだ。


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