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自習登山のすすめ(単独行を考える)
伊藤幸司
2015.4.23
1.軽登山という考え方
2.単独登山の危険
3.時計でナビゲーション
4.「道を戻る」という鉄則
5.偵察
6.撤退に勇気はいらない
7.万全を信じない
8.登山道と地形図
9.リーダーの覚悟
10.ダブルストックと登山道
1.軽登山という考え方
富士登山に関するところで、装備も技術も考えずに、自己流でチャレンジしてみたら……という乱暴な登り方をおすすめしました。登山技術に関する私のそういう考え方にはどうしても同意できないところがある、と感じる人も多いかと思います。なぜそうなるかと言えば、私の立場がゲレンデ主義、そしてレッスンプロだからです。
考え方の出発点をきちんとしておきたいのですが、正統的な登山技術の基本は「登山は登山道に頼らない」というところにあることです。基本的な登山技術としては岩登り(ロッククライミング) があります。雪氷技術(いわゆる冬山登山) があって、ヒマラヤなどに遠征する高所登山技術があります。登山道を利用するのはそういう本格的な登山活動の下支えの部分です。
ある日登山の魅力につかまった若者がいるとします。そこから本格的な登山に踏み込むまで、たいした時間はかかりません。「四年後にはヒマラヤ」というような例はいくらでもあります。だから、どんな入門登山講座でも、いずれその人が岩や雪と格闘する日が来るかもしれないという前提で、正しい技術を伝えなくてはならないということになります。正統的な登山技術はそのように指導されてきたといえます。
それに対して私の場合は、上限を定めた技術論になります。一般登山道(山の世界で一般ルートと呼ばれるメインルート) から1歩もはずれないという前提で技術論を組み立てています。登山道のおかげで憧れの山に登らせてもらえるという考え方は、スキーでいえばゲレンデスキーに限りなく近いと思います。圧雪車が整えてくれた舗装路のようなゲレンデを安全に楽しく滑り、かつ雄大な雪景色を堪能します。深い新雪を求めて山襞に入り込んでいくバックカントリースキー(山スキー) とは似て非なるスキーです。
登山道のおかげとはいえ、登山道をはずれなければ100%安全というわけではありません。ただ想定する危険の質と量は大きく違ってきます。登山道登山というのが正確かと思いますが、それを私は軽登山と呼んでいます。
その立場からすると富士山はとてつもなく安全な登山インフラを備えた山といえるのです。世界有数のその安全性を活用して、できるだけ裸の自分を富士山のなかに放り込んでみるという体験をしてもらうことに価値があるとゲレンデ派の私は思うのです。山で全く新しい自分の姿を見ることができるかもしれません。もちろん私のようなプロはそれをこっそり背後から支えますが、それももちろん登山インフラのひとつです。
正統的な登山技術では入門技術のその最初から、正しい道具と正しい技術を指導しようと考えるので、どうしてもヘビーデューティになり過ぎると感じることも生じます。私自身が関わった雪山入門の登山講座の場合ですが、登山靴、アイゼン、ピッケル、手袋や帽子に始まる冬用衣類など10万円近い道具を参加者のみなさんに用意してもらったことがあります。どんなに初歩的な技術でも、基本はきちんとやらなければいけないという正論が、登山技術の土台を支えていました。私が山での雪遊びをいろいろ考えるようになったのも、冬山の装備と技術を使わずに雪と戯れる楽しさを味わいたいと考えた結果です。
登山道と登山技術の関係を考えるとき、たとえば中高年登山では「道迷い」というのが遭難事故のトップを飾っているということについて立場をはっきりしておかなければなりません。登山道をはずれること自体を正統的な登山技術では重要な問題とは見ていないからです。
日本山岳会が1977年に上下2巻でまとめた『登山の技術』(白水社) は一般登山者に正統的な登山技術を伝えようとした好著ですが、そこにはこういう記述があります。
道を完全に見失ったときは、とかく心理的に動揺し常軌を逸しがちである。これでは、正しいルートの確認は不可能になるだけでなく、メンバーも動揺する。慌てず騒がず、気持ちを落ち着けて現在位置の確認に全力をつくすことである。もし不可能の場合は、現在位置に腰を落ち着けて、事態の好転をじっくりと待つか、または位置のはっきり確認できるところまで引き返すことである。不確実なまま深入りしたり、無目的にパーティを分散させてはいけない。手分けして道をさがす場合は、引き返し時間の規制や連絡事項をはっきりと決定しておかないとかえって混乱する。
道を見失ったところから登山技術の真価が問われると語っているように思いませんか。
じつのところ、登山道をはずれた体験は正統的な登山者なら何度も体験しているはずです。与えられた登山道に頼らずとも登れなくてはならないという基本的な姿勢があるからです。ですから昭和30年代の登山ブーム以降、「藪こぎ縦走」が計画されたり、「山域研究」などと称して新しい登山ルートの開拓を試みたりする例がたくさんありました。魔の山と呼ばれた谷川岳の遭難者の多くも、そこに自分の名を冠した新しい登攀ルートを夢みて谷川岳に通っていたのです。道をたどるより、道を開くことに登山の価値があったのです。
深田久弥は『日本百名山』でさまざまなタイプの山を選んでいますが、皇海山(すかいさん) で次のように書いています。
どこから登っていいか分からず、自分で道を見つけ、迷い、藪を漕ぎ、野しゃがみをし、ようやく頂上に達するという、本当の山登りの楽しさの味わえる山があったのである。
いま、登山者の遭難事故を減らそうという立場から読むと、これはかなりの危険思想ではないでしょうか。『日本百名山』は多くの登山者にとってバイブルになっています。深田はそこに、霧ヶ峰のように「気持ちのいい場所があれば寝ころんで雲を眺め、わざと脇道へ入って迷ったりもする」という楽しさも加えています。
霧ヶ峰も今では柵やロープで勝手に歩くことはできませんが、九州に行くと、たとえば霧島連山や久重連山では登山者の勝手な踏み跡が山肌に無惨な模様を描いています。私には「無惨」と見えますが、九州の登山者にはそれが「自由」の象徴かもしれません。
いま、百名山登山をしている人は驚くほど多いのですが、私などがプロとして計画する場合、百名山なら安心です。たくさんの人が訪れているので登山道が整備されて、いわば一級国道のようなルートが用意されているからです。皇海山だって登山道を計算通りに歩くことが可能です。登山シーズン中に一番ポピュラーな登山道をたどる限り、登山道登山の領域に完全に含まれます。
多くの登山者はナビゲーションの基本として登山ルートを観察しているでしょうが、登山道そのものは意外にきちんと見ていません。谷筋をたどって山ひだの奥へと進む道と、谷底から尾根へ急斜面を一気に登るジグザグ道、それに遠望するとスカイラインとなる尾根道。その3種類の道を意識して見ていくだけで、登山道は案外シンプルな構造として見えてきます。
すでに述べたように、30度の斜面に20度の勾配でジグザグに延びる標準的な登山道を「時速1km」で歩くという歩き方を身につければ、登山道登山の歩き方は8割方OKと考えます。
登山道を1歩も踏み外さずに歩くという覚悟を決めるだけで、軽登山は驚くほどシンプルな技術体系にまとまります。
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2.単独登山の危険
テレビドラマの「水戸黄門」に若い女性の一人旅が登場したとします。山越えの峠道でどんな事件が巻き起こされることになるでしょうか。
じつはいまあちこちの山で、若くてファッショナブルな女性ひとりの登山者をよく見かけます。昔の「山女」と今の「山ガール」は印象が全く違います。冬のスキー場や夏のビーチにいてもおかしくないような、これまでの山の雰囲気にはちょっと場違いにも感じられる女性が多いのです。ニーチェか何か、哲学書を持っていそうな雰囲気の人もいます。昔、山ではよくハンサム系哲学青年を見ましたが、そういう雰囲気まで、今では女性が奪ってしまったという感じです。
登山道で一人旅の女性とすれ違う場合には「コンニチワ」という共通の友好サインがあるのでいいのですが、狭い道ですから後ろから追いつく場合にはちょっと緊張します。熊よけの鈴はこういう場合にこそ役に立つかな、と思ったりします。
山にひとりで出かけることを登山用語で単独登山といいます。「単独」が強調されるのです。そして「単独登山は危険です」というような看板を登山道でよく見かけます。
ところがひとりで山に出かける人は男女あわせて、けっこう多いのです。私の講座の参加者の中にも何人もいますが、山にハマっている状態の人は、都合のいい日にポンと出たいというような要望が強くなるのだそうです。
単独登山者というとどこか人嫌いの、ちょっと陰鬱な感じの人物かと思いますが、まったく逆の人もたくさんいます。グループで行くよりもひとりの方が山小屋などでいろんな人と知り合えるというのです。山小屋で知り合った人と連絡をとりあって、またどこかで会うという単独登山を楽しんでいる人もいます。
一人旅で北アルプスであろうが、北海道であろうが、必要ならテントも持ってどこへでも出かける女性がいます。その人によると「いつでも親切な人に出会える」のだそうです。また70歳から山歩きを始めた男性は単独で北アルプスへ1週間も入ったりしています。グループ登山のスピードだとどうにもならないのに、自分のペースを守れば山小屋泊まりの長旅でも何の支障もないということです。
私の講習会に直接連絡してくる人はたいてい本を読んだのがきっかけだそうですが、本から入る登山者の多くは、単独登山予備軍です。自分が登山とどう向き合ったらいいかという姿勢を崩したくないという感じがします。ですからこの本をお読みいただいている方もかなりの比率で単独登山をやむを得ない選択のひとつと考えることになるはずです。
また、今ではインターネット上でたくさんの単独登山者と知り合えるので、むしろそういう世界が最初に広がっていくようです。そういう人が私の講習会に参加するのはとりあえず情報偵察という意味と、あとはひとりでは行きにくい山もあるという合理主義からのようです。いろいろな登山を体験したいという積極的な姿勢が、社会的には単独登山という分類に入れられやすいのかもしれません。
単独登山が危険というのは間違いありませんが、単独でなければ安全かというとそうでもありません。そこのところをきちんと考えてみたいのですが、単独登山者の場合、何らかの事情で自力下山できなくなったとき、それを通報してくれる人がいないという場合の危険が決定的です。助けられるチャンスを失ってそのまま朽ち果てていくという恐怖が襲ってきます。人に知られることなく命を終える……という危険です。
では単独でないと安全かというと、そんなことはありません。危険率はもっと高いかもしれません。ただし、その危険があなたに降ってくるよりも、ほかのメンバーのだれかに当たる可能性が十分に考えられます。チームとしての危険率は高くなっても、自分に来る確率は低いかもしれないと考える……と思うのは、落石の危険のある場所や、雷が接近してきたときに、いつも感じることだからです。
単純に登山能力だけを考えてみます。たとえばあなたがリーダーだとした場合、自分以上に安心なメンバーがいるというのは幻想です。
お分かりでしょうか。自覚を持った自分自身がリーダーとメンバーの一人二役をしている単独登山の場合のメンバー能力と、あなたのリーダーシップにぶら下がってくるメンバーとを比べたら、もちろん一人二役のほうが能力的に高いに決まっています。
登山のリスクはチームの一番弱いところに集中していきますから、依存性の強いメンバーは危険です。私はすでに1,400回以上の登山講習をしていますが、参加者に「お任せ下さい」と言ったことは1度もありません。依存性の強い人が参加するようになるとリスクがぐんと高まるからです。年齢や健康状態より依存体質による危険がはるかに大きいと考えています。
そういう弱体メンバーが加わってくると、リーダーの能力はかなり大きく問われます。そしてさらに、リーダーとメンバーの間のきちんとした役割分担ができずに、単なる「世話役リーダー」しかできない場合が、じつは多いのではないでしょうか。陰のリーダーが存在するというような場合も同様です。チームが危険な状態に遭遇したとき、リーダーは最後に責任を取らされるだけの悲惨な役割になりがちです。
ただ、目標をひとつにしているチームの場合は違います。メンバーの個性や能力の違いをうまく配合させながらチーム全体の力量をアップさせようと考えるからです。そういうチームに出会ったら、もう運命的です。自分の人生がどちらの方へと運ばれていくか分かりません。
そうではなくて、あくまでも自己を失うことなく、武者修行として優れたリーダーについて山に出かけてみたいと考える場合はどうでしょう。社団法人日本山岳協会という巨大な組織があって全国の各都道府県に山岳連盟(協会) があります。そこには多くの山岳会が加盟していて、登山講習会が企画されていたりします。あるいは有名登山家などが開いている登山講習会もあります。その延長にはプロのガイドが難易度の高い登山を体験させてくれる世界があります。安全を最優先課題としながらヨーロッパ・アルプスやヒマラヤへと続く道がそこにはあります。
あるいは旅行会社が主催している登山ツアーが安くて便利という人もたくさんいて、そこから海外の山にまで行動範囲を広げていった人も私の周りにたくさんいます。百名山登山も、ツアーに参加するとかなり割安に実現できます。
私はカルチャーセンターの登山講座の講師という形でこの世界に入ったので「カルチャー登山」をすすめたいのですが、企業側のリスク管理システムとして登山講座を主催するのはむずかしくなっているようです。私がカルチャーセンターの講座を終了したケースでは「登山は危険」という常識に影響された事業の見直しが多いのです。
さて、本当に単独登山が危険かということですが、神戸の六甲山から始まった「毎日登山」という運動があります。それに毎週登山の山を加えれば日本中にたくさんあって、そこには単独登山などという概念はありません。老若男女、ひとりでも2人でも何人でもという登山ルートになっています。
ロープウェイやケーブルカーのある山だと、参詣者や観光客もいて、交通機関などが便利なだけ登山者も多いはずです。首都圏では高尾山、丹沢の大山、御岳山、筑波山などがあります。ひとりで出かける登山者の多い山といえます。
そういうポピュラーな山に週末に出かけてみると、登山道の様子がわかります。地元の人が散歩がてらに登山しているようなら「単独」というデメリットはほとんど考慮する必要がなくなります。
北アルプスのポピュラーなルートでは単独登山というより一人旅という感じのところが増えてきました。登山道を1歩もはずれないという覚悟が、一人旅の場合には安全係数を高めるための必須条件です。できるだけたくさんの登山者と場を共有するベストシーズンの週末がさらに安全です。
「単独行」という言葉に重なってくる悲壮感を払拭したいといろいろ書いてきたのですが、じつは単独登山は自習登山の基本です。
ひとりだと、たぶん、多くの人は歩くペースが速くなります。休憩時間が短くなります。何かに追われるような歩き方になっているかもしれません。それを考えながら歩くだけでもやってみる価値があるのです。
それから出会う人に対する観察が細かくなるはずです。学ぶべきところがいくつか見つかるかもしれません。いろいろなスタイルの登山者がいるということを知るだけでも収穫かと思います。
そして一番重要なことですが、自分の行動の全体に責任を持つことになります。道筋に出てくる標識に敏感になりますし、地図を見る回数も増えるでしょう。通過した道筋をできるだけ記憶しておこうと思ったりもするでしょう。今日1日の自分の行動に対して丸ごと責任を取ろうとする姿勢が見えてきます。
そしてたぶん、自分の判断が楽天的か、悲観的かというようなことまで考え始めているかもしれません。たかが日帰りの、誰もが歩けるポピュラーなルートでも、単独登山だと体験の量が格段に増えるのです。それだけ長く記憶に残る山になるかもしれません。無事に下山するまでにたくさんの推理をし、たくさんの判断をし、いくつかの情けないミスもしたりします。生きるの死ぬのといった大げさなことではないのに、山の中で自分自身と真正面から付き合わされたという感じになるのではないでしょうか。
岩登りだとわかりやすいのですが、トップで登るのとセカンドで登るのとでは同じザイル・パートナーでも難易度は全く違います。単独登山はそのトップの体験であり、リーダーの体験なのです。人の後についてただ登れたというのとは全く違う山なのです。
一度でいいですから、単独登山をしてみていただきたいと思います。自習登山という感覚で。
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3.時計でナビゲーション
登山道のナビゲーションでは最初に地図が必要……ではありません。地図を持たずに歩ける山を選んで、時計ひとつで歩いてみるという体験をすすめます。
もう30年ほど前になりますが、私は地図担当講師として中高年登山に関わりました。それ以降「地形図」と登山の関係を自分なりに考えてきましたからそれについては後でまとめますが、ここでは地図に触れません。地図をよく見るという一般的な方法より、登山道そのものをきちんと見ることがナビゲーション技術としては重要です。ほとんどの人は地図上にある登山道と、現実の登山道を見比べるだけで四苦八苦してしまいます。ですから地図は使いたくないのです。もちろん方位コンパスも使いません。普通の腕時計と、メモ用紙とボールペンを用意します。そして地図を持たなくても登れる小ぶりでポピュラーな山を選びます。
まず、登山道には必ず登山口があると考えます。標識に「登山口」と書かれているとは限りませんが、自動車道路や遊歩道からいよいよ登山道になりますという切り替えは表現されているはずです。一番簡単なかたちだと小さな矢印に「○○山」という方向が示されて、貧弱で急な階段になっています。登山口の確認は、ときに一番神経を使います。起点がしっかりしていないとナビゲーションが成立しないからです。
ともかく登山口の出発時刻をメモします。その時に、私のように数字に弱い人は5分単位に数字を丸めてメモすることをすすめます。何時何分という数字があまりに細かいとドンブリ勘定がにぶります。ナビゲーションではそれがかえって致命傷になることがあるからです。
ですからおおよそ5分単位、あるいは10分単位で登山道の変化を見ていきます。
すでに紹介しましたが登山道を3つの基本タイプに分けて観察します。
(1) 谷筋をたどって山ひだの奥へと進む道
(2) 谷底から尾根へ急斜面を一気に登るジグザグ道
(3) 遠望するとスカイラインとなる尾根道
このとき、さらに上位の大原則を知っておくと迷いがなくなります。それは登山道はひとつの斜面には1本しかないという原則です。本道のみをたどるという前提が崩れたときに、道迷いは起きるからです。
山に入っていくと、谷筋は何本もの沢に分かれながらゆっくりと伸び上がっていきます。その沢と沢との間には間仕切りとしての枝尾根が張り出してきています。その枝尾根はたいてい急峻でとりつく島もない状態だと思いますが。上部で主要な尾根に接続して、その尾根が主稜線と呼ばれる大きな尾根となって山頂へと伸び上がっていきます。
山岳雑誌では山の記事にシンプルな概念図を添えていることがあります。直線的な太い線で尾根を示し、細い線で沢を示しています。それでその山域の骨格は描けるのです。
日帰りの山であれば登りは2〜3時間でしょうから、谷道を30分ほど奥へと進んで、それからジグザグ道を30分から1時間登ります。尾根に出たところが枝尾根なのか、主稜線なのかで違ってきますが、1時間ぐらいで山頂というよくあるパターンで考えてみます。
谷道では水の流れの脇を歩いている間、勾配はそれほど急にはなりません。その代わり、岸辺の道は時折流れを渡って対岸に移ります。木の橋が架かっていることもありますし、流れの中の飛び石をたどって渡ったりします。
大きな山の場合は谷の規模も大きいので、雨の時の水流が橋を流してしまうこともあり、なかなかやっかいな場面があります。しかし日帰りの山では沢の規模が小さいので通過の難易度が上がることはあまり心配しないでいいと思います。
ただ、木の橋は濡れていたり、苔がついている場合にはものすごく滑りやすく、滑って転倒すると大怪我をするような状況になっています。日帰りの登山道で最も危険な存在です。
ですから私は必ず「2種類のものを同時に踏むように」と注意します。たとえば濡れた板を普通に踏んで歩こうとすると、重心移動の際のほんのわずかなバランスの狂いで、見事に足をすくわれます。川にドボンというのならまだしも、下は岩だらけの川底です。ですからたとえば靴底を半分板から落とすような形で、2種類のものを同時に踏む努力をしてほしいのです。
私は1年に1度あるかないかの危険な橋渡りのために、軽アイゼンを常備しています。鉄の爪を靴底につければ、滑るという心配は不要になります。それほど危険な状況ですから、人があまり利用していない雰囲気だったら、流れの中に渡渉ルートを探してみるべきです。
そのうちに、小滝が現れたり流れが見えなくなったりすると、道はたぶん、斜面を一気に駆け上がることになります。
斜面の勾配に対して登山道がジグザグに切られているところでは小刻みなジグザグで急登気味の場合と、緩やかに大きくジグザグを切っている場合とがあります。地形的な制約というよりも作った人の感覚の違いが大きく影響しているように思います。一般的にはスギ・ヒノキの植林地で傾斜の勾配は約30度と考えます。
尾根に出ると、あとはたいていそのまま山頂へと登り詰めていくのだと思いますが、主稜線が長いときには途中にいくつかの小ピークがあるかもしれません。そびえ立つ山と見えますが5分とか10分で登り切ってしまうようなものだったりします。
それから尾根道の多くは背骨の上を律義にたどるとは限らなくて、少し下がった斜面をトラバース気味に登っていくことも結構あります。しかし上を見ると尾根が確認できるのでピークをひとつパスしてしまおうという、いわゆる巻き道とは考えない方がいいと思います。岩稜を軽く逃げる道というふうに見ておきます。本格的な巻き道なら律義に山頂を経由する尾根道との分岐がきちんと用意されているからです。
地図なしで歩ける山にそれほど難易度の高い渡渉地点や岩場があるとは思えませんが、やさしいところでも通過地点を記録していきます。
記録したいのは登山道の性格が変化した点、道標があった地点、赤布と呼ばれるルート標識(木の枝に赤布をつけたのが名の由来ですが、ビニールテープや荷造りひもの場合もあり、色も赤に限りません。しばしば関係のない林業作業用のマークも出てくるので継続的な観察が必要です) が続いた区間、その他の標示物や人工物です。5分単位、10分単位で見ていくと、そういうものが何も出てこない区間が気になります。当然、そのときには登山道が本当にこれでいいのかと不安にもなります。
どこかで道を間違えていたかもしれないという可能性が軽く生じてきます。
さてどうしましょう。登山道として間違いなかった通過ポイントの最後は何分前だったか。じつはそれが登山のナビゲーションで一番重要なチェックポイントなのです。地図を持っていたりするとなんとなくこのあたりにいるだろうと推測して不安を押し流してしまいますが「登山道としての最後の確認ポイント」が何分前だったかという情報にこそ価値があります。
細かく書いていくと作文によるシミュレーション・ゲームと思われる方もいるかもしれません。しかし登山道の最初の部分で、私などもけっこう慎重になることがあるのです。たとえば「山道」という不思議な標識があって、立派な道が延びていたりします。作業道という意味でしょうが、そういう道が登り始めの里山の部分には結構あります。それから作業用の林道が縦横に延びていて、登山道がそれを渡っていくという感じのところも結構あります。出たところはいいとして、向こう側の入り口が本当にそれでいいのかという不安があることも多いのです。そういうときには登山道である確信がもてるまで、時間を計りながら進みます。
そういう状態になると観察の目が厳しくなります。おそらく10分もしないうちに登山道である印が何か発見されるでしょう。しかし道はしっかりしているのに30分も歩いてもそこにたどってきた登山道と証明できるものが出てこなかったら引き返してみるべきです。
たしかにこのままでいいと思いながら、それを裏付ける証拠を探しながら進む10分間、あるいは30分間がきちんとしていれば、ナビゲーションに問題はありません。登山道というものが、どれほど危ういかということと、同時にどれほど確たる存在であるかということをたった1回の登山で感じられることでしょう。
登山道に歩かされるのではなく、こちらの時間目盛りで切り分けながら歩いてみると、ともかくいろいろのことが見えてきます。結果オーライというだけではないナビゲーションを体験することができます。
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4.「道を戻る」という鉄則
1980年代に始まる中高年登山が山小屋の食事や寝床の環境を向上させてきたのは間違いありません。今、若い人たちが山に来て「いいじゃん、山小屋も」と言う環境は整っていたのです。
そこに突如「山ガール」に代表される若い登山者が進出してきました。北アルプスなどでもこれまでほとんど見ることのなかった若い女性と頻繁に行き会うようになりましたが、若い女性が増えれば若い男性も増えるのが当然の流れで、女性をエスコートする男性だけでなしに、男性グループも多くなりました。
でも当面、注目したいのはかっこいいカップル登山者です。海に行ってもおかしくない雰囲気で山に出かけてくる感じが、とても新しく思えます。これなら山の平均年齢はまだまだ下がっていきそうです。
新しい登山者がどんどん増えていくのはいいことですが、中高年登山でとうとう改善できなかった「道迷い」の対策について強く発言しておかなければいけないと思うようになりました。「登山道登山」を考え「軽登山」という看板を掲げたのもそのためです。
たぶん登山の技術書では「道に戻る」方法をいろいろ解説してくれているのではないでしょうか。冷静に現在位置の確認を試みようとか、谷に下ってはいけないとアドバイスされているはずです。しかし私はその一点「道に」に反対なのです。登山道登山という考え方からすれば「道を」戻るのでなければなりません。
「道に戻る」という考え方の背景には登山道に頼らないという正統的な登山技術のピラミダムが存在します。それが多くの登山道登山者を混乱させます。
たとえば車で考えます。一般にマイカーと呼ばれている車は道路以外はほとんど走れない乗り物です。オフロードタイプの車をプロが運転するのを見たことがあるますが、車の能力としては素晴らしいものがあります。しかしオフロード車でも、オーナードライバーは怖くてとてもそんな運転はできません。せいぜい荒れ地をゲレンデにしてオフロード感を楽しむぐらいのことでしょう。車をおシャカにしてしまう危険まで踏み込んだ運転には相当の勇気がいります。
登山でも、善良なる登山者は登山道のおかげで素晴らしい山に登らせてもらえるという認識を忘れないでほしいのです。登山道を外さない限り、初心者でも『日本百名山』のほとんどに挑戦できます。登山道を外すのなら、本格的な岩場や滝の連続する沢できちんとした技術を習得してほしいのです。
話を「一般登山道」に限定します。登山道と一口に言っても、足元の状態は千差万別です。最近では階段状の土留めが施されていることが多いので、歩きにくいと文句を言う人は多いとしても、登山道をはずす危険は限りなくゼロといえます。湿原や湿地ではヘリで運ばれた枕木状の木材を並べた木道が伸びています。木道がないところでも周囲を踏み荒らさないようにロープを張ってあれば、道路の標識としては完ぺきです。
しかし標準的な登山道のイメージは「踏み跡道」です。人が踏んで固めた路面が幅50cmから1mで続いています。歩きながらすれ違うことがためらわれる道幅です。私たちグループの場合、向こうから来る人との接近距離を計りながら、軽く頭を下げ、あるいはコンニチワと声を掛けます。そしてこちらが下りなら「登りの人が来ます」とこちら側のメンバーに声を掛けます。
そこがゲームとして面白いところなのですが、こちらが大人数だとほとんどの人はちょっとひるみます。向こうがどうぞどうぞと道を譲ってくれてしまうことも多いのです。ですから『登り優先です』ということをジャスト・タイミングで知らさないといけないのです。あちらに直接「どうぞ」とも言いますが、こちらの人数を見てひるむ人も多いので、こちら側で勝手に「登りの人が来ます」と態度を表明してしまうのです。
逆にこちら側が登りの時には、優先的に行かせてもらいますという意志を見せながら接近して行かないと、あちらが道を譲るタイミングにとまどうことにもなります。
昔東アフリカの幹線道路で、車のすれ違いに必要だった技を思い出します。当時は舗装道路といっても中央に1車線だけというのが一般的でしたから舗装路上で2台の車がすれ違うことはできませんでした。ですから車が接近してくるとお互いに牽制しあうのです。相手がどんな車で、どんなスピードで、強気の運転をしているかどうか見るのです。お互いに道を譲るにしても、こちらが一方的に譲るにしても、そこに至るまでにはけっこう緊張した駆け引きがありました。
それと同じように、日本の一般登山道では、すれ違いには必ずと言っていいほど、接近時の駆け引きがあるのです。
よくあるパターンですが、こちらの列の中のひとりが、その場所でパッと止まらずに、前の仲間を追いかけて、すこし移動したとします。すると登りの人はその動きに敏感になっていて、止まってしまったりします。
私はいつも先頭にいますから、登山道で「コンニチワ」という挨拶をし合うタイミングも、けっこう微妙なことが多いのです。一般的な登山道は、すれ違いにかなり神経を使うほど狭いと考えておくべきです。
せまいだけならいいのですが、どなたかが草刈りをしてくれないと、秋には草に覆われて足元が完全に見えないというふうになります。それが笹原の中の道なら、路面までが笹の根に占拠されてしまいます。毎年必要というほどではありませんが、道を見失うかもしれないと心配になるほど草に覆われてしまった登山道を時々体験します。
しかし草に覆われた道はまだいいのです。覆われてはいますが、踏み跡はちゃんと残っていますから、それを踏み外す危険はあまりありません。問題は河原です。流れに沿う道が広い河原に出ることがあります。渡渉して向こう岸に渡るところでその渡渉点を見失ってしまうこともあります。そういうところでは岩の頭に人が踏んだ跡を探しますが、一度道筋を外してしまうと、怪しい痕跡がたくさんあっても、それがつながっていかないのです。
当然、もうちょっと先まで見て、答えを見つけてしまおうとしたりします。路面だけでなく、木の枝になにか目印がついていないかも探します。
冷静になれば最終的には何とかなるのですが、それが夜だともうお手上げです。ライトをいくら振り回しても見つかるようなものではないからです。悪あがきは続けるとしても、夜が明けるまで動かないのが賢明という場面です。
森が切れて岩の広場のようなところに出ると、河原と同様、フッと道を見失うことがあります。ペンキマークと言いますが、丸印や矢印が岩に描かれています。ところがそのひとつを見落とすと、その次が出てくる保証がありません。岩肌についた苔の類がペンキマークに見えたりすると、ちょっと危険な状況です。ガス(山霧) がかかると暗夜と同様にナビゲーションは非常に難しくなります。
ずいぶん難しい場面が登山道にはあるのですが、もっといやなことがあります。地面の岩と土壌との関係だと思うのですが、踏み跡道が一瞬消えることがあります。たとえば岩場の手前、小さな草むらで行き止まりになる感じのところがありました。多くの人が同じ体験をしているので、周囲に道を探した践み跡道ができています。道探しの道はトイレ道と同じで、行って帰った分、立派だったりします。
そういう混乱が続くので正規の道がなかなか浮かび上がらないのですが、ほんの数歩分が草むらに消えた感じでみんなを惑わせていただけです。
こういう難しい場所が時折出てくると、当然、シマッタと思います。そのシマッタはまだ敗北宣言ではないので無視することもできるのですが、ナビゲーションでは小さな疑惑の段階がものすごく重要です。
どうしたらいいのか。
(1) シマッタという状況を自分にも周囲の人にも明らかにします。
(2) 立ち止まって前後左右を見回します。ほんの数歩手前で何かを見落とした可能性が高いのです。
(3) 時計を見ます。正しい登山ルートであると確認した最後の地点から何分来たかを見ます。
(4) 荷物を置いて休憩とし、近ければ空身で、遠ければ荷物を持って戻ります。
日本の山は箱庭的なので、5分、10分、最大でも30分の空白があるだけです。登山道をきちんと見ながら通過時刻を時計で管理していれば、正規の登山道にはそれほど大きな空白部分が出てくるとは考えられません。
じつは私もしょっちゅう道を失うのですが、シマッタと思った地点で立ち止まると、列の後ろの方の人が、そこに何かありました。という程度のことが多いのです。しかしそのシマッタをなんともなかったことにしたいと先へ進むと、やっかいなことになります。
積極的に道を探してはいけないのです。いろいろな要素が複雑に絡み合う前に、今歩いてきた道をそのまま素直に戻ってみるというだけでほとんど解決するのです。自分のミスが何であったかも分かります。
そして重要なことは、来た道を戻っている間は、まだ道迷いではないのです。
ベテラン登山者は全員だと思いますが、道を180度間違ったことがあるはずです。いろいろ考えて「やっぱりこっちだ」という結論が180度違っていたという場合です。
いろいろ考えるとかえって間違えるという危険が登山道にはあるのです。ですから問題を頭の中だけで解こうとしないで、リスタートの地点を少し戻してみるだけのことなのです。もともとシンプルな世界のことなので、行動原則をシンプルにしておきたいのです。
そういう意味では地図を見るというのも危険なのです。頭が混乱しているときには自分の都合のいい「現在位置」を見つけたくてしょうがないからです。その結果、後でガッカリすることが多いはずです。とんでもないところに「現在位置」を考えていたという苦い思いがたくさん残ります。地図のおかげで状況がさらに悪化するという場合も多いのです。
登山道のお陰で登れているのですから、どこまでも登山道を信じ切るという姿勢が最も重要だと思います。不安になったら「道を戻る」のはその最も重要なポイントです。
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5.偵察
登山道を1歩もはずれないという基本的な姿勢でいれば、もし現在位置が不明になったとしても三次元の広大な空間に迷い込むことはないはずです。たとえ道筋を間違えていたとしても、あくまでも二次元、線上での道迷いに限定されているはずです。
私自身の最近の小さな偵察体験をご紹介します。
その日はJR中央本線の笹子駅から本社ヶ丸(ほんじゃがまる) という山に登りました。ちょっと変わった名前ですが「丸」は「山」とか「岳」と同義です。
主稜線に上がって清八峠から南に行くと三ッ峠山ですが、東に進むと標高1,631mの本社ヶ丸。そこから中央本線に沿って大月方面へと向かうのです。鶴ヶ鳥屋山(つるがとやさん) という標高1,374mの手前から笹子へ下るという軽い縦走計画でした。
この尾根道は樹林に囲まれていますが、自然林なので季節の彩りがあります。本社ヶ丸のあたりでは岩稜という感じですが、尾根はせまくなったり広くなったりしながら、大方は下り基調で伸びていきます。時速約2kmという歩きやすい道で、南側に三ッ峠山があり、富士山があります。歩くだけでなかなか楽しいのです。
その終盤でした、小さな峰をトラバース気味に下るらしく、道が左にきれいなカーブを描いていました。そして下り……に。
下り始めたところに中高年登山者のものらしい薬が落ちていました。カプセル薬やら錠剤やらを小さなポリ袋に入れてあります。たぶん1回分の常用薬なのでしょう。道は尾根を気持ちよく下って行きます。
しかし道筋はあるものの、落ち葉に覆われて踏み跡が露出していません。小さなトラバースの入口だと思っていたのに、尾根を気持ちよくどんどん下っていく気配です。
「もしあの薬が落ちていなかったら……」と私は考え直します。このまま下ってみたい尾根だけれど、道のありようが希薄ではないか、と判断基準を調整します。
そこで「ストップ!」。列の後ろの方の人に聞いてみると、「何かあった」という意見も。「間違った」という証拠もないのですが、「間違っていない」という確信もありません。気持ちよく下ったので未練が残りますが、ここは休憩にして、私が空身で戻ってみました。
5分登り返すと、ありました。大きくカーブしたそこが稜線上の小ピークで「角研山」という手書きの札がありました。鶴ヶ鳥屋山方面の矢印もありました。バンバン飛ばしていなければ見落とすことはなかったと反省しました。
たった5分の登り返しですから道迷いの例としては最も軽傷と言っていいかと思います。しかしそれでも、戻ると聞いたみなさんは「ええ〜っ?」などと非難コールです。これが15分も下ってからなら10年ぐらい言われそうな大失敗ということになります。
そのブーイングが怖くて、ストップをかけられないということが一番怖いのです。「アレッ?」と思った瞬間に「ストップ!」と叫ばないと、どんどん悩みます。そしてどんどん進んでしまいます。
この場合は「道が消えた?」というケースに分類できるかと思います。前進に疑いが出てきたのですから、戻ってみるしかありません。
もし同様に間違えて下った登山者が多ければ、堂々たる道になっていたはずです。あとで地図を見ると快適に下って意外に早く林道に出てしまうようですから、地元の人の隠しルートになっていてもおかしくありません。そういうときには、すこし下ったところに小さな赤布がこっそりつけてある可能性もあります。たとえば六甲山にはそういう道がいっぱいあるように思います。
その道が隠れ下山路であればそれはそれでいいのですが、派生した尾根道は最後のところで急斜面になっている場合があります。やむなくそこで引き返した人がいると、そこも踏み跡が2倍になります。
やっかいなのは岩の広い尾根です。森林限界の標高2,500mあたりから上の世界ではしばしば登場するパターンです。ペンキマークをたどって進んでいきますが、それをはずすとあとは人が踏んだ痕跡を岩の頭に探しながらルートを探すしかありません。
ペンキマークは視野を広くとっていれば見つかるのが普通ですが、ガスがかかると難易度は一変します。焦るとつまらないミスを犯します。ガスはまだいいのかもしれません。夜になったら基本的には動けなくなります。
予定通りの登山ルートからはずれたら、一刻も早くストップして「偵察」モードに切り替えるべきなのです。
偵察の基本は2つあります。ひとつは問題解決までに時間と労力がどれほどかかるか分からないという前提で、まずは休憩することです。落ち着くということが重要で、水を飲む、甘いものを口にする、必要なら食事もします。時間に追われるのではなく、偵察に当てる数時間をこちらで先手を打って用意するという積極的な姿勢が問題解決に重要な要素となります。
それから、いわゆる「偵察」です。一番素朴な形としては、偵察開始地点に荷物を置いて、メンバー全員で四方八方に最大5分間進んでみます。もっとも5分進めるようならそれはけっこう立派な道でしょう。ルートからはずれていれば、ほんの1分も進めずに引き返してくるはずです。
正しいかどうかは分からないけれど道はあるという場合には、荷物を背負って30分進んでみます。その30分は偵察モードです。ですからその道を引き返してくる可能性を残しています。つまり戻ってくるときに道を間違えないように、振り返りながら慎重に進むのです。
日本の山では、たいてい30分進むと違う斜面に出ます。稜線であれば特徴的な地形に出会うはずです。だから30分を限度に進んでみるという能動的な仕切りがものすごく有効です。戻るという判断も30分が基準ならそれほど重苦しいものにはならないでしょう。
偵察というのは、戻ることを考えに入れながら前進するという行動形態です。大きな団体登山では事前に偵察を出す例があるかと思いますが、多くは「下見登山」になっているように思います。
じつは偵察は面白いのです。ワクワクするほど面白いはずなのです。登る予定のルートを自分たちで登れる範囲で登ってみて、本隊を成功させるためにはどういう計画にすべきかを探ります。初登頂をねらうヒマラヤ登山などでは必須の作業といえます。
なぜ面白いかというと、登頂して万歳! という直線的な登り方ではなく、自分の力量と最終目標である登頂との間にいろいろな可能性を考えることができるからです。与えられた時間でできる範囲のことをやって、できる範囲で引き返す。そこにはいろいろな発見の可能性が潜んでいます。つまり冷静に観察するおもしろさが偵察にはあるのです。
いかがでしょうか、山の一人旅や単独登山の危険をいう前に、偵察登山という考え方を導入してみてほしいのです。それならば、引き返すことを前提に山に向かうことができます。しかも自分自身の力量を存分に発揮しながら、憧れの山をひとつひとつていねいに登ることができるのです。
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6.撤退に勇気はいらない
山岳事故をなくそうという人がよく「勇気ある撤退」という言葉を使います。登山道にも時々そういう注意書きがありますから、無知な報道用語というだけではないようです。そしてそれは私には全く理解できない概念です。
第一に、勇気は前進にこそ使うべきです。一流のアスリートが最高のパフォーマンスを発揮するために、試合で100%の力を発揮させる努力をしているのをどう考えますか。前進に100%の力を発揮させる以外の選択はあり得ません。
道を戻るとします。戻るから簡単とは限りません。さっき通った同じ道でも条件がどんどん悪くなっているかもしれません。天候や時間など外的な条件もですが、疲れや空腹など内的な条件もどんどん悪くなっている可能性があります。戻るにしてもその行動自体は勇気ある前進でなければ危険です。エベレストでは撤退時に遭難する危険が大きいといわれます。撤退は前進の方向を180度転換させる決断でなければいけないのです。
そうだとすると、勇気が必要なのは計画上の前進を止めるという判断に対してということになります。勇気をもって前進プログラムを終了しましょうという意味かと思います。もちろんそれに対しても私は反対です。
その場合「撤退」が悪いことと考えていませんか? 意気地ないとか残念とか、無念というマイナス要素を勇気を出して払拭して撤退を決断しようという意味ではないのでしょうか。もちろん、そういう敗北感を含んだ言葉と理解しても私は反対です。
勇気によって撤退の判断をするのにはどこか無理があるといいたいのです。撤退はできれば自動的に決定されなければいけないのです。
撤退を偵察という概念のなかで選択するなら矛盾が起きないのですが、ともかく撤退を決める方法をひとつ紹介します。
登山という行動を進めるなかで「想定外」と感じるものがあったら数えていきます。よくあるのは雨です。私の講座では雨はいやだけれど仕方ないという人が集まるので、雨は想定外には数えません。気温が10度を割る時期には手袋や帽子など軽い防寒装備を用意してもらいますが、持ってこなかったという人がいれば想定外にカウントします。
歩き始めて調子のでない人がいるとします。調子が戻ればいいのですが、戻るまでは想定外に加えておきます。登山道の路面が荒れていて、ペースを上げることができないという場合も想定外。初参加者がいて後半どこまで歩けるかまだわからないというのであれば、それも想定外に数えておきたいと思います。「ちょっといやだなあ」と思うものは、全て想定外にカウントするのです。
一番重要なのは予定の登山ルーが通過可能かどうかということでしょう。ひと雨降れば土砂崩れが起きて通行が危険になるという可能性もあります。それを確認したいためにインターネットの登山レポートを探します。登山口でなにか情報がないか探しても見ます。
以前、恵那山(2,191m) に出かけたとき、黒井沢登山口に「神坂峠への縦走はできません」という(いくぶん古い感じの) 立て札がありました。避難小屋に1泊する計画でしたが、頂上から引き返してくる覚悟をして出かけると、道は通れるようでした。新しく草刈りされていましたから、それまでは通行が難しい状態だったかもしれません。向こうから登ってくる登山者と出会えれば、通過情報はもっと確実なのものになります。
つまり気になる弱点で気づいたものがあれば、どんなに小さなものでも数え上げておきたいということです。
しかしその想定外は、固定的ではありません。時間がたっぷりあって安全第一のゆっくりペースで歩ければチームの踏破力はアップします。下山時刻が遅れる場合でも、タクシーを呼んで最終の電車に間に合う時刻までにまだ余裕があれば、次善の策を採ることによって、時間に関わる想定外のいくつかは消えていくかもしれません。
簡単に言えばちょっと気になるマイナス要素を「想定外」という引き出しに放り込んで行くのです。一人旅の場合、今日は気分が乗らないという意気地のない想定外もあり得ます。
それに加えて、登山道を進むに従って技術的な難易度が加わってくるかもしれません。「このままではまずいな」というものが出てきたら想定外です。
たぶんみなさんは想定外のあいまいさに気づかれているかと思います。楽観的な性格の人と、悲観的なタイプの人では、力量が同じでもその数え方が違うはずです。レベルの低いチームと技術の高いチームとではもともとの基礎点のようなものが違うはずです。そうなのです。人によってどこまでを想定内とし、どこからが想定外かは千差万別なのです。
あいまいでいいのです。主観的でもいいのです。想定外と分類するものがいくつもカウントされていくのですが、あるとき突然、これ以上想定外が増えたらどうしようと不安になることがあります。いい加減な方法ですが、想定外の満腹感というようなものです。そうなったら、その後の行動で想定外の要素をできるだけ想定内に取り込んでいくことを考えます。つまり安全第一にシフトするのです。
撤退というのはその安全第一主義の重要な選択のひとつなのです。予定通りに進むときに加わってくるかもしれない新たな想定外と、進んできたルートを逆方向にたどるときに解除できる想定外とを天秤にかけて、選ぶだけのことなのです。主観は入っていますが、決定に勇気などは不要です。
撤退しないで安全を確保するために私の場合はどうするかというと、プロとしてのアシストを強めます。クサリ場では補助ロープを十分に設置して、全員が確実に通過できるようにします。時間管理上スピードを落とせない場合には、ダブルストックの使い方を徹底したり、だれかのザックを軽くして全体のスピードを維持したりします。
このようにして想定内と想定外の境界を見極めながら前進していくと、行き詰まって「勇気ある撤退」などという前に、足を振り出した1歩1歩にまで前進か撤退かというような判断が存在することに気づきます。
でも、それではあまりにもお粗末と言われそうです。リーダーがそんないい加減な判断基準でチーム全体に及ぶ判断をするなんてけしからんと言う人もいそうです。でもそういうことを私は信じているのです。あまりにもはずかしい想定外を並べて撤退したのなら、下山後全員で十分に討論してみることを勧めます。それがその人、そのチームの現実なのですから。固有のカルチャーだとも言えます。
積極的な考え方をするなら、リーダーが想定外だと思ったことを、次には想定内にしていけばいいのです。メンバー全員の「足が揃う」というだけで想定内領域は驚くほど広がるはずです。ダブルストックを下りに使うだけで、チームの能力が格段に向上するのも、悪条件が加わってくるかもしれない最終側面での安全性とスピードを維持しやすいからです。
縦走路のクサリ場は事故が起こらないように設置されています。岩場でクサリを使わずに通過できる領域が多ければ、そこに余裕幅が見込まれるので想定内が広がります。あるいはリーダーがロープを持っていて、最悪の場合だれかの安全をロープで確保できればそれも想定内を広げることになります。
もっとすごい例があります。北アルプスの縦走路では驚くほど稚拙な歩き方をしている若者たちを目にするようになりました。一言でいえば危なっかしい登山者です。ところがある山小屋の人は「若い人は大丈夫」と言い切るのだそうです。経験的にも事故が起きにくいのでしょう。
この人たちはおそらく「想定外」などというものをマイナス要因としてカウントしてはいないのです。「ヤバイ」と思いながらも「想定外」とはしない。じつはそれもアリなのです。探検家は成果を持ち帰ってナンボですから行動原理はきわめて世俗的です。探検がかつては軍事遠征と限りなく接近し、現代ではジャーナリズムと重なっているのはそのためです。しかし冒険家は勝ち負けよりも自分の行動美学に大きな価値を求めます。自分のスタイルで高い壁を突破できるかどうか、チャレンジすることに価値を感じます。一流のアスリートや芸術家がもっている資質と同様の「独自性」が試されます。ベンチャービジネスもベンチャー(冒険) という点で本質は同じです。
つまり本人がカウントする「想定外」は人によって全く違うと考えるべきなのです。外からとやかく言えるものではないのです。
登山道を「一般向け」とか「熟練者向け」とグレード分けして判断の目安にするというのは表現のひとつとして分からないではないですが、偵察モードで登る、自分の判断で引き返すという方法を採れば、チャレンジの可能性は無限です。あとは成功の確率の高いプランを練るかどうかです。
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7.万全を信じない
私の考え方を理解していただければ「万全の装備」などあり得ないということは明らかでしょう。それは言い方を変えれば「想定内の装備」という意味だからです。想定外には対応できるかどうか不明という意味も含まれているからです。
では「万全以上」の装備はあるかというと、現実的ではなくなります。ヘビーデューティをさらにヘビーにするというナンセンスなものになりかねません。あるいは装備が増えすぎて極地法という名で知られる重装備主義に陥ります。ヒマラヤ登山などで現在も使われている前進キャンプの設営です。装備が多いので順次荷揚げしていかなければなりません。そこまで考えなくても、いざという場面を想定した道具を満載したザックは重くて行動的ではありません。
ただ「万全以上」の可能性を信じることは可能です。
たとえば衣類のレイヤードシステムというのがあります。重ね着です。私は登山用の衣類を完全に化学繊維に切り替えてしまいました。化学繊維は天然繊維の優れた能力をひとつずつクリアしてきました。速乾性や保温性、洗濯対応性や抗菌・消臭性など、化学繊維の高機能化には驚くべきものがあります。
しかも化学繊維ではその性能が劣化しにくいのです。昔天然繊維の代表としてオールウール・マークというのがありました。純毛表示です。しかし純毛と混紡の仕切りは表現できても、純毛にはピンからキリまで大きな幅がありました。そしてその品質の幅は値段に反映されるのが普通でした。同じカシミヤのアンダーシャツでも、デパートによって最高級品として売られているものが二万円から五万円までとずいぶんな幅がありました。
ダウンなども同様です。羽毛といってもダウンとフェザーの比率の違いがありますし、ダウンの品質もいろいろです。おまけにダウンは湿気を吸収する能力が保温と同時に重要です。そして湿気を吸収しすぎると保温能力が落ちていきます。品質に幅がある上に、使用状況によってその品質が変化していきます。
登山用品におけるウールの復活も見られます。ウールは保温性がよく、コットン同様の吸湿性があります。そして繊維内の湿度によって若干の発熱性もあるといいます。最近の発熱する化学繊維はそういうウールの発熱機能をブラッシュアップしたものです。
たしかにウールの高級品には特化した機能が期待できます。しかしそれを維持するためには特殊な洗剤でていねいに手洗いするなど、性能の低下を防ぐ努力を求められます。
化学繊維は性能が低下しにくいので、条件が悪化したときほど、信頼できるというのが私の考え方なのですが、それはともかく、衣類のひとつひとつの機能と性能を見ながら、できるだけ多様な組み合わせができるようにシステム化しておくと、その組み合わせで想定域を広げることが可能になります。
有名な例ですが、いざというとき、手袋は靴下になりませんが、靴下は手袋になるのです。外側に一枚着るよりも、内側に発熱繊維を着る方が効率的です。また透湿防水雨具を外界から身を守るバリア(防壁) スーツと考えることで、内側に着る個々の衣類の性能をどのような環境下でも落とさない方向に向かいます。
気温が10度を割るような季節になると、私は使い捨ての「貼るカイロ」を持つようにしますが、足の冷えを防いだり、腰や腹に貼って保温着1枚分の効果は期待できます。とくに中高年になると手足の冷えを自力で回復させるのに時間がかかりますから、発熱系の保温具に価値があります。そして貼るカイロは肌着1枚を隔てて体温に近い環境下で化学反応させるので、ほぼ計算通りのパフォーマンスを期待できます。
レイヤードシステムの考え方では、組み合わせによって機能を高める可能性をたくさん潜ませておきます。多機能ツールという変え方も重要になります。
4本爪などと呼ばれる手のひらサイズの軽アイゼンを私は常備していますが、雪渓で使う以外に、濡れた木の橋、薄氷の張った路面でも使います。そしてもっと可能性が高いのは足を痛めた人を下山させるときに、急斜面で靴底を滑りにくくするのに有効なのです。歩きに無駄な力が加わらないので、緊急脱出用として価値があります。本当に危険なところでは、歩き方によって爪が浮く危険があるので、念のために2連装で使うことも想定しています。
ロープも6mmの補助ロープをプルージック・ループ(輪) と呼ばれるかたちで持参しています。クサリ場ではクサリにからげるだけでホールドを簡単にセットでき、ループ状のまま繋げても、解いて1本のロープとしてもつなげて使えます。6mだと命に関わる場面でも使えるほか、荷造りロープとしても重宝します。同時に、私の周囲の人たちは軽アイゼンを登山用のロープで靴に取り付ける方法をとっているので、そこに使われている補助ロープもいざというときに動員できます。
こういうように個々の装備を多機能パーツにする知恵を加えていくと、想定内の装備が想定外の状況の中で思わぬ価値を発揮する可能性が高くなります。持っている装備を有効に使うアイディアが出れば、それはすでに想定内に組みこまれているのです。自分の置かれた状況を観察し、とにかく落ち着くことです。その冷静さが置かれた立場を大きく変えることにつながると信じたいのです。「万全」が「万全以上」になるためには、知恵が必要だと考えます。
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8.登山道と地形図
登山に必要な地図は地形図というのが基本中の基本でしたが、今では地形図と言ってもピンとこない人が多いのではないでしょうか。
昭文社の「山と高原地図」がラインナップを充実させて、日本の主な山が網羅されています。登山ルートとその標準的な所要時間に関して実用上の大きな問題はほとんどありません。それ以外の多くの山に関してはインターネット上にたくさんの登山情報があって、大まかな地図もついていたりします。体験レポートや山岳研究レポートで玉石混淆という感じがしますが、じつは初心者の主観的なレポートのほうが資料として使いやすかったりします。最近ではガイドブックも地図も購入することなく登山ができるといいます。
今では国土地理院の地形図(25,000分の1地形図) がパソコン上で無料で見られます。またアウトドア用に開発されたハンディGPSでは搭載できるデジタルマップが整備されて、日本の山ではかなり便利に使えるといいます。その移動データをパソコンに取り入れると自分の行動をかなり正確に再現することもできます。行動中に撮影したデジタルカメラの画像も撮影時刻の情報によってその足跡にリンクさせることが可能です。
最近では北アルプスの主要な稜線でNTTドコモの携帯電波が使えるようになったので、スマートフォン内臓のGPSで登山行動をフォローすることも可能です。
なんだかすごく便利になってしまいましたが、私は時代的にはちょっと古い私なりの登山地図を一応決定版だと思っています。「登山道登山」の基本骨格を表現する伊藤式の「シミュレーション・マップ」です。
登山の入門講座では地形図の読み方という項目が必ずあると思います。地形図と方位コンパスの使い方が中心かと思います。
たとえば地形図と方位コンパスを使うために地図が示す真北とコンパスが示す磁北とのズレを修正するために地形図上に7度前後(緯度と年代によって異なります) 傾いた線を引くように指導されるケースもあるかもしれません。地形図の基本構造の説明としてはわかりやすいのですが、実用的ではありません。
磁北線も含めてですが、何であれ地形図を汚すことが重要です。おすすめしたいのは予定する登山ルート(波線で示されています) を蛍光ペンでなぞってみることです。新たな情報が加わると修正が必要になるかもしれないので、黄色など薄めの色が安全です。これで地図の中で必要な領域が明示されます。
できれば、一度はやってみていただきたいのが「段彩」です。地形図と名のつく地図は国土交通省・国土地理院が税金によって製作しているオフィシャル・マップのうち、25,000分の1地形図(国土基本図) と50,000分の1地形図(編集図) 、それから都市部に限定して発行されている10,000分の1地形図だけです。国土地理院は200,000分の1地勢図や500,000万分の1地方図、1,000,000万分の1国際図なども出していますが、25,000分の1地形図がすべての基本となっています。
25,000分の1という縮尺で国土の全部をカバーしていることで日本は地図先進国のひとつなのですが、地形図は地表の立体的なありさまを等高線という表現によって平面の紙に記録した図面ということが出来ます。
つまり地形図の命は等高線なのです。ですから等高線と親しむためのいろいろな方法が工夫されているかと思います。その王道といえるのが段彩です。等高線を高さに分けて色塗りをします。学校で使った地図帳にはその段彩がほどこされていたはずです。
やみくもに色を塗っても大変ですから地形図をじっとにらんでキーになる等高線を探します。山裾の線と山頂の間に1本か2本、等高線をうまく選ぶと、その山の個性が見えてくる可能性が出てきます。
その見当付けを簡単にするために、というより、これからが核心部分なのですが、すでに色づけした登山ルートが太い等高線(計曲線。25,000分の1地形図では標高50mごと) と交差するところに印を付けていきます。どんな印でもいいのですが、赤色で直径4mmの円を描いてみてください。文房具店にある記号定規に大小いろいろな○、△、□のあるものを購入していただくと便利です。25,000分の1地形図上に描いた直径4mmの円は、実際の100mを示します。これがあとで重要な役割を果たすことになります。
登山ルートと交差する50mごとの等高線の密度を見ていきます。すると登山道の勾配の変化が見えてきます。登山道がその勾配からいくつかの性格に分けられます。その大きな変化点となる等高線をたどってみると山の形が見えてくると思います。さらにたどってみたい等高線も浮かび上がってきます。色で塗りつぶしてみたい斜面も見えてきます。
登山道が50mごとの等高線を横切るところに直径100mの円を描くとどうなるか。円が接し合う場合には100m先で50m上がる/下がる勾配だということになります。パーセンテージでいえば50%勾配。約27度の斜面だと分かります。もし○がひとつ分隙間をあけて並んでいたら勾配は25%、約14度となります。
約27度と14度の勾配の間で、登山道はジグザグを描いて、(作った人によって違いますが) 約20度の勾配に均一化しようと試みられているはずです。
20度以下の勾配のところでは登山道は斜面に従って素直に延びていき、30度以上の斜面では岩場が登場する可能性が出てきます。
次に大胆な作業を加えます。登山道の距離を測るのです。地図上で距離を測る道具にマップメーター(キルビメーター) がありますが使いません。登山道は細かく曲がりくねった道ですから製図器具のデバイダー(両脚が針になっているコンパス) で緻密に計る方が精確ですが、それも必要ありません。
紙片を長さ5cm程度切り取ります。地形図の端に縮尺目盛りがありますから500m(地図上で2cm) の目盛りをつけます。その紙片を登山道の上に置いて、ペンで紙片を押さえながら、クルクルと方向を変え、距離を測っていきます。
山頂から登山口へと下る方向がいいと思いますが、500mごとに印をつけて行きます。印は何でもいいのですが、標高を示す赤丸と同等の記号にしたいので、私は4mmの□を青で描いています。
地図に詳しい人ほど、このやり方に反対かと思います。第一、登山道の長さが、地図上であまりにも不正確です。急斜面のジグザグは登山道を表す波線の太さの中に収まってしまったりするからです。加えて測り方があまりにもずさんです。
当初私も登山道の距離をいかに精確に計ればいいのか試行錯誤しましたが、ラフに計るのがいいという結論に至りました。
1989年に首都圏自然歩道(関東ふれあいの道) が全線開通し、朝日新聞社からガイドブックが出ました。そこでは実測値にかなり近い距離が道標に示されていました。取材に当たってこちらでは地形図上でも距離を測っていましたが、車の通る道ではほとんど誤差のない距離が出ました。登山道の部分では最大20%短縮という結果になりました。
登山道の距離を地形図上で計ると最大20%短いのですから、使い物にならないといえます。たしかにそうなのです。
測った距離は正確でないのですが、それを時間目盛りに変えたとたん、20%の誤差が吹っ飛んでしまったのです。
標準的な登山道を考えたとき「1時間モデル」というのを設定していました。1時間で水平距離で1km進み、高度差で300m登るというモデルです。平地を時速4kmで歩くエネルギーだと標準的な登山道では時速1kmになるという換算です。
1時間の行動に占める距離の割合は4分の1に過ぎません。ですから1km=15分が現実の1.2kmだったとしても、3分延びるだけです。距離の最大20%の誤差は時間に換算したときには、このケースで0.5%。無視できるということが分かったのです。
誤差の問題よりも決定的に重要なことにも気がつきました。距離目盛りを描き込むことで地形図の扱いがものすごく自由になったのです。縮尺にこだわらずに拡大縮小しても情報量があまり変わらないのです。
じつは地形図を使うときに一番難しいのが空間把握なのです。25,000分の1に縮尺された図面から一気に現実の地形を浮かび上がらせようとすると、使う人一人ひとりにその翻訳能力が求められます。ですから私は地形図を見るときには右手でVサインをして、10cm=2.5kmという距離目盛りを当てるようにしていました。学生時代には50,000分の1図が地形図の基本でしたから私のVサインは5km目盛りでした。その縮尺の違いに慣れるまでずいぶん時間がかかりました。
登山道に距離目盛りを入れると、地図を拡大・縮小しても大きな問題はありません。その距離目盛りは誤差含みですが、等高線情報は拡大・縮小しても地形図の品質の骨格を支えています。空中写真測量という方法で直接描き出した線をベースにしていますから、じつはものすごく正確なのです。その等高線情報が1時間の行動の4分の3を支えているということが出来ます。
さて、私が考えた1時間モデルでは水平距離で1km、垂直距離で300mとなります。地図上の距離目盛り(私は青◇を使います) は2個、高度目盛り(赤○) は6つになります。
つまり標準的な登山道を時速1kmで歩くときには青◇と赤○は合計8個になります。これを8ポイントと数えると1ポイントが7分半、4ポイントで30分となります。平地になると高度目盛りはほとんど姿を消すので、青◇8個(4km) で1時間ということになります。
距離と高度が時間目盛りになった瞬間、地形図は行動シミュレーションのベースマップになります。行動時間を30分とか1時間で区切ってみます。標準的な登山道と思われる区間と、そうでない可能性のある区間とを自動的に区別できます。急斜面で岩の記号が加わったりすれば、そこはクサリ場と推測できます。
とにかく赤○と青◇の数を合計すると、その日の行動エネルギーの総体が、行動時間というかたちで簡単に示されます。
地図上にあらかじめ示されたA地点からB地点までのコースタイムというだけでなく、気になる任意の2地点間のポイントを数えれば、その規模が分かります。縮尺のかかった地形図上で時間目盛りを直読するという手品の完成です。
登山情報の中で、一般に「コースタイム」と呼ばれるものは、じつは完全な作文です。驚くべき孫引き連鎖を明らかにしたことがあります。(毎日新聞社「シリーズ日本の大自然・16・秩父多摩国立公園」1994年)
また同じルートでも、ガイド記事やガイドマップを現在のものと20年前のもので比較してみると時間が3割とか5割違っていることがあります。
かつては健脚向きのコースタイムでしたから初心者の場合は1.5倍と見積もっていたのですが、中高年登山者がユーザーの中心になるとその1.5倍が基準に書き換えられました。しかもどちらも「標準的なコースタイム」とあるだけですからつけあわせてビックリということになります。
私の方法では、赤○と青◇は機械的に描かれてしまいます。8個=1時間をとりあえず基準として見て、健脚なら10個=1時間、初心者なら6個=1時間と自分に合わせた換算をすればいいのです。あるいは急勾配が苦手なら、そこの部分の換算値を変えるという調節も可能です。標準的な係数を「8個=1時間」としているだけで、状況に応じて係数を変えても何の問題も生じません。
問題は登りと下りの計算です。一般的に下りは登りの75%の時間と考えます。10個=1時間です。ものすごく効率のいい下り道なら登りの半分の時間でOKということもあります。その場合は12個=1時間と計算できます。
そこで私は登山道のすべての部分を登りの係数で計算することをすすめます。順調にいけば最後の下りで浮いてくる時間がリーダーの予備時間として用意されているようにしたいのです。調子の良くない日だったら、登りでなにがしかの遅れが出ます。たぶんその原因は分かっています。そこで下りの予備時間をうまく使って安全に下りきる計算をし直すという安全弁にもなるのです。
悪い予感がする日だったら、予備時間として最後までリーダーが握っておくと安心なのはそういうところです。あるいは登りがスムーズに展開する日だったら、のんびりとした休憩をとるなどして、その時間を労務管理的な役割以上のものにする工夫も可能になります。登山をひとつのプロジェクトと考えれば、リーダには自由になる「予備費」が必要です。
民間の地図会社では多かれ少なかれ国土地理院の測量データを使っています。一般の出版物では地図そのものや地図の数値データを使います。著作権にかかわることなので遠慮があって、地形図の一番重要な骨格である等高線精度を落として使っている気配が濃厚です。登山用の地図で等高線情報が粗くなるというのは致命的です。
ですから私が提案する赤○記号のようなものでも有効なので、登山道の勾配が把握しやすい工夫をしてもらいたいと思います。
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9.リーダーの覚悟
「自習登山」はひとりでなければならないとは思いませんが、単独でリーダーとメンバー(フォロアー) の一人二役とするのが学習としては効率的です。そしてもちろん、軽い気持ちで世話役型リーダーになった場合にも(危険度は高まりますが) 効率的なリーダー体験を積むことが可能です。
じつは私は、自分自身がリーダーの資質を備えているとは考えていません。リーダーがリーダーとして最も重い判断をし、それに従って行動するときに、本当にリーダー足りうるかという点でまったく自信がありません。自信がないので、決定的な状況に陥りそうな気配を感じたら徹底的に逃げる判断をします。逃げ腰の安全管理を絶対に崩さないというのが私のリスク管理の基本方針です。
そこで突然ですが、リーダーという役目になる場合には2リットル、あるいは4リットル、理想をいえば6リットルの予備の水を持つことを提案します。
別にハンディを背負ってだれかと競争しようというのではありません。その水を責任の重さというふうに単純に考えて、歩き出してみてください。丹沢の大倉尾根では道普請の石を運び上げるボッカ訓練がレースになっています。水を運ぶというとその体力訓練と同一視されるかしれませんが、がんばって強くなろうというのでもありません。
リーダーの責任の重さが6kgだとすると、その水を捨てた重さがメンバーということになります。メンバーに対するリーダーの余力が何kg分あるかという確認です。
答えから説明してしまいましょう。日帰りの軽い山に登る人たちのザックの重さはたぶん5〜6kgだと思います。そのひとりが調子を崩したとき、リーダーはなんとかして自力で下山してもらう工夫をします。宵闇につかまると状況は複雑になりますから、明るいうちになんとかしたいと考えます。最後に背負って下山……ができればともかく、自力で歩いてもらうために最大限できることは空身になってもらうことです。
つまりその人のザックを持つ余裕がだれかにあれば、危機管理の余裕幅がひとつ確保できます。それもかなり大きな余裕幅として。もちろんみんなで手分けして……でもいいのですが、リーダーはひとり分ぐらいの荷物を余分に持つ余力を持っていなければいけません。
じつは私が学生時代、リーダーはサブザックというのが常識でした。全体を指揮して的確な判断をするために無駄な体力を使わない……というのが論拠でした。そこで何が起こったか。シゴキ事件です。エネルギーの有り余ったリーダーたちが、弱者にいらぬお節介を始めたのです。その当時でも、本当に信頼されるリーダーはメンバーひとり分の責任を果たした上で、リーダーでした。
私がいま提案している6kg増し積みはじつはかなり深いたくらみなのです。ひとつはリーダーがメンバーの弱いレベルに合わせるために、重しが必要な場合が案外多いのです。私はプロですが、それでも考え事をしながら歩いていると、どうしてもペースが速くなってしまいます。重しをつけることでメンバーの弱い部分にすこしでも共感できるようにしたいという作戦です。
それをさらに強化する場合には、着るもので調節を加えます。危険な状況になったら夏には1枚余計に着、冬には1枚薄着にします。そうることでメンバーの弱い部分をいくらかでも体感することができるはずです。本当のところは分からないにしても、こちらの意志ははっきりと危機対応に向かいます。
とにかく一般的なリーダーのみなさんを見ていると、ザックが小さいと感じます。メンバーと同じサイズのザックでリーダーを勤めている人がほとんどです。いざという場合にメンバーのザックをひとつ合わせ持つこともできるザックを常備することをすすめます。
軽い日帰り登山なら重さが5〜6kgだと考えます。調理具などのキャンプ用品を持たない場合、登山者のザックの比重は0.3と考えていいと思います。5kgの重さなら16リットル、6kgの重さなら20リットルの嵩があると考えます。いくらかの余裕もあったほうが便利ですから日帰りには25リットル前後のザックが好ましいと考えます。
そこでリーダーです。いざというときにひとつ分余分に背負うとすると、そういうザックを背負っておいてほしいのです。40リットルとか50リットルのザックが好ましいと思うのです。
その際、覚えておいてほしいのは、50リットルあたりを境にして、登山用ザックは軽量級と重量級に分かれるということです。軽量級のザックはザックの自重も軽く作られている傾向がありますが、重量級になるとウエストベルトなどの作りがしっかりして、ザックが重くなっても、背負ったときに身体への負担を軽減するような構造になっています。リーダーザックという形で、普段は薄型で使い、いざとなったら上へも伸ばせる本格的な重量級のザックを持つべきだと考えます。探せば見た目はスリムで、いざというときには大きく使えるザックがあります。
リーダーとしてチームの安全を考えるとき、それくらいの意思表示はしていただきたいと考えます。小さな子どもを連れて山に登る父親の覚悟と似ているかと思います。
一般常識としてリーダーはメンバーに対して全責任を負う代わりに、全ての決定権を行使するとされています。責任の方は、山岳事故でリーダーが責任を問われる裁判がしばしばありますからわりとはっきり見えるかと思うのですが、行動の決定権がほんとうにリーダーにあったのかどうかは疑わしいケースが多いと思います。
私はここで生きるの、死ぬのというような山岳事故を想定しているのではなくて、もっとその手前でリーダーのあるべき仕事を考えたいのです。
多くのチームでは、リーダー養成という考え方もあって、サブリーダーが現場のリーダーとなり、リーダーは後ろから監督するという構図が多いかと思います。そういうきちんとした組織化ができていない場合でも、リーダーに対していろいろ注文をつけるメンバーが存在するのが普通です。その力が強い場合には陰のリーダーとなります。あるいは民主的な方法として、メンバー全員の意見がリーダーの判断に強い影響力を与えるというケースもあります。
何でもないときには、どうでもいいのです。しかし何かことが起こったときには判断が遅かったということになりかねません。その予兆、確たる証拠のない段階から推移を見守る責任感がいわばリーダーの役割ではないかと思うのです。司令塔というようなアクティブな行動も必要ですが、じつは監視塔というべき防御行動が重要ではないかと思うのです。そこのところを無責任にしない立場をリーダーは背負わされていると考えたいのです。
しかしそれを無責任な(自由な) 立場から大きな声で左右しようとするメンバーが存在する例が多いのではないでしょうか。
最終的な判断・決断というドラマチックな場面で考えると言葉の一つひとつがデリケートな問題を抱え込んでしまいます。文章を連ねていくとどんどんフィクションになっていくような感じもします。そこで大きく切り返します。
軽登山を考えるに当たって、私はリーダーの役割りがもっとエンターテインメントに近寄っていってもらいたいと思うのです。いわば演出家。面白そうなことならなんでも拾い上げてみるというどん欲な姿勢でチームを引っ張ってみることをすすめたいのです。
そのひとつが休憩です。行動中の休憩の取り方を100%、掛け値なしにリーダー権限にしてほしいのです。文句があろうがなかろうが、リーダーが休憩のタイミングと時間を決めるという徹底が必要です。
それから、コースタイムを計算するとき、下りも登りのコースタイムにしておくことをすすめます。当然下りで時間が浮いてきます。下りの所要時間は通常、登りの70%です。登りで3時間のところを下ると1時間の余りが出るという見積もりになります。これをリーダーの「予備時間」と考えてもらいたいのです。遊びでも仕事でも、ひとつのプロジェクトを進行させるとなれば予備費が計上されなければなりません。ところが登山ではペースメークをするリーダー(あるいはサブリーダー) にはカツカツのコースタイムしか与えられないのが普通ではないでしょうか。そうすると機械的に30分に5分の休みと1時間に10分の休みをきちんきちんと並べて、ペース調節だけで全体をうまくまとめることになります。
そうではなくて、後半の下りから1時間の予備時間が出てくるとすると、最初は当然大事に抱えておきますが、登山がスムーズに進行し、外的な環境に大きな不安もないとすれば、その予備時間を有効に使いたいと考えます。山の中であれば休憩という形が中心でしょうし、下山後ならちょっとした遠回りができるかもしれません。
いずれにしてもリーダーが自由に予備時間を使えるようになると、その登山はリーダーの個性に彩られたものになります。そして時間の管理をリーダーに一任することによって、リーダー責任もはっきりしてきます。リーダーは時間の使い方の中で、メンバーの様子を観察したり、天気を見たりしていきます。
この時間管理をリーダーに100%まかせるというルールを決めるだけで、じつはリーダーの権限と責任の骨格部分が確立するのではないかと思います。それさえできないようなら、リーダーはお飾りです。そしてもちろん、サブリーダーであっても、リーダーを任された範囲では時間を完全に支配することが可能になります。
スケジュールが完全に崩壊するという段階になったら、チーム全体の問題として対処するという方法を用意しておいてもいいでしょう。危機管理内閣の設置です。しかしそれまではすべてをリーダーに任せてみる、というルールでリーダー責任はかなりはっきりと確立されるのではないかと思うのです。
少し違った切り口になりますが、リーダーとメンバーの量に関する考え方をいくつか列記してみます。
まず、私が大学で探検部に入ったころ、いろいろ話されたのはよりよいチーム構成についてでした。2人のチームだったら対等のパートナー(個人の連帯) か従属関係(リーダーとアシスタント) のどちらかになります。
3人になるとチームは初めて社会性を獲得します。多数決という手法が使えるのです。3人の合議によって決められる方向は必ずしも事前に予想するものとは限りません。しかし長期間行動を共にしていればお互いの考え方や性格は分かりすぎるほどになっているので、合議の内容もおおよそ推測することが可能になります。そこでメンバーを4人に増やすと、チーム全体の意向は極端に見えにくくなります。合議による選択肢が増えるわけです。2対2か3対1,あるいは4対0のどれになるか、予断を許さない場面もあるでしょう。
ではその、いわば直接民主主義に支えられたチームの大きなサイズはどのあたりに限界値を置くべきなのか。英国の探検論からの受け売りだったと思いますが7人という数字が出てきました。メンバー全員が常時全員を視野の中に入れておける人数ということでした。以後私たちはそれに同意して大人数の隊を分けるときには7人を目安にグループ分けするようになりました。7人ごとにリーダー(パートリーダー) を置いて、それをチーフリーダーが統括するという構造です。
いま私は私ひとりですべてを処理する(ワンマン型の) 登山講座を月に6回ほど実施しています。リーダーひとりで、サブリーダーをつけません。ですから、先の理論でいえば7人というのがベストサイズということになります。
確かに、行動中、全員のようすがパッと目に入り、意識的に見なくても全員の行動状態を把握できます。合理的な人数だと思います。
しかし、別の見方が生じてきました。参加者6人を観察していると、かならず相性のいい2人組が最初にできます。残りが4人になります。独立心の強い4人がそのまま独立している場合ももちろんありますが、もうひと組、ゆるやかな組ができることもあります。その時、ひとりだけ残される状況が生じるかどうか、見ていきます。
大ざっぱな印象ですが全員をぱっと把握できる程度の人数だと、ゆるやかなグループが内部に生じたとき、ひとりだけ取り残される人が出やすいように思うのです。ちょっと気を利かせて「その他」というグループを仕切ってくれる世話役が出るといいのですが。
でもやはり「その他」というグループはちょっと寂しい感じがします。寂しくないようにするには、仲のいい小グループがむしろ少数派になってくれればいいのです。
15人という目安が私には好ましい印象を与えてくれます。参加者の中には元々の友人関係や、山で出会うのを楽しみにしている仲間もいます。7人前後のグループだと誰かの動きが全員に認識されるのに対して、人数がその2倍になると、誰の目にもそれぞれ見えない部分が出てきます。それによって一人ひとりの居場所が保全される感じがします。特定少数のチームから特定多数のチームへと大きく変わったという感じがします。
私の仕事では、もちろん参加者の数が多ければそれだけ収入が多くなるので、ひとりで何人にまで対応できるかということももちろん考えてきました。
狭い登山道で私の話が全員に通るということを考えると20人が限度かなと思います。そして20人ぐらいまでなら、うねうねと続く登山道で、時おり振り返れば、最後尾の人の動きまで一応チェック可能です。
でも実際には30人も可能です。最後尾の様子はほとんどつかめなくなりますから、(ときどきいるのですが) しんがりを勤めたがる人の監視ができません。そこで列の前後を回転させます。5人ぐらいずつ後ろに送るのです。それを必然とするためには歩きながらの指導をします。小刻みなテーマを考えながら、緩やかな数人のグループを作り、最後尾に送ることで、後ろの不安は小さくなります。目の届く人たちをゆるやかなグループに束ねて後ろに送るという考え方です。もちろん最後尾にアシスタントがついてくれれば、後ろに対する不安はかなり小さなものになります。登山ツアーの場合、添乗員がスイーパーとして最後尾を守るのが大原則ではないでしょうか。
しかしやはり、20人までのにぎやかさが、30人になると大群衆になって、一体感を保つのが難しくなります。不特定多数のチームという感じになります。
私の登山講師の体験の初期にはバス登山が中心でした。人数が30人ぐらいいると貸し切りバスの方が圧倒的に安くなります。おまけにあるデパートの友の会では「駅前集合」+「お弁当付き」が人気を博していました。お弁当付きというのが主婦にはものすごく魅力的に映るのだそうです。
バス登山で30人規模になると、バス車内を教室に見立てることになりますから、参加者全員の一体感も得られます。下山後の入浴や食事も選択幅が大きくなるので計画が立てやすくなります。
しかし私は、計画から実施まですべてを自分で決める場合は、バスは利用しないことにしました。当初から人数的にバスを利用できなかったわけではありませんが、バスを使うと結局バスで利用しやすいアプローチに限定されてしまうことに気づいたのです。しかも多くの主婦のみなさんは自分で切符を買って旅に出るという体験をほとんど知らない人が多いのです。ですから私は鉄道とバスと、それからタクシーを多用して、それらの交通機関利用に関しては個人個人で対応してもらうという形をとったのです。つまり割高な交通費と少々面倒くさい手順を前提にしたのです。
考え方としては、自分たちでもう一度来ようとしたときに来られる偵察的体験です。そして計画を立てる私自身は1度目より2度目、2度目より3度目と少しずつ経験を広げていきたいと考えました。毎回何かひとつ新しい試みをさせてもらうことで次第に情報が広がっていきます。行き当たりばったりが可能なワンマンシステムのいい部分だと思います。
ところがこの手法だと最後のところでタクシーの乗車定員が縛りになります。中型タクシーは以前は5人乗りと決まっているようなものでしたが、今では4人乗りが一般的になってきました。前席がベンチシートからセパレートシートになってきたことによるのですが、つい最近ではベンチシートの車でも、前席のシートベルトの使用義務によって前にはひとり、後ろに4人詰めてほしいといわれるようになりました。
地方へ行くとバスは便数が驚くほど少なくなります。しかも都合のいい登山口まで行ってくれるという期待はあまりできません。その代わり、最近ではタクシーが登山者を上客と認識するところが多くなりました。林道の奥に登山口がある場合、以前は車が傷むとか、メーターの金額が伸びないとかで尻込みするタクシーが多かったように見えますが、北アルプスや南アルプスで、山好きの運転手が登山客を顧客として獲得しようとする動きが顕著になりました。そういう運転手とのホットラインをもっていると計画段階でタクシーがどこまで入ってくれるかとか、人数が増えたときにドライバー仲間に声をかけてくれるとか、じつに便利なのです。その結果、私はこちらの人数が4人の倍数以上なら10,000円までのタクシーは積極的に使うようになりました。バス代とあまり違わずにより便利になるからです。
そしてもちろん9人ならジャンボタクシーを探します。ジャンボタクシーは地域によって使われ方に違いがあって、中型で多くの台数を揃えているところでは定期的な人員輸送業務や貸し切りの観光タクシーとして優先的に動かされる傾向があります。
しかしもっと田舎になると、タクシーが1台という会社もあり、その場合はひとりで多くの仕事をこなせるようにジャンボも用意している場合もあります。
現地交通を利用するようになると、山の前後に旅の要素がふくらんできます。そして下山後、早く帰りたい人と、入浴や食事に時間を割ける人が別行動をとることもできるようになります。参加者の自立性が高まると思われます。
一緒に登山するメンバーがそれぞれ自立しているというのはリーダーである私には心強いことになります。同時に、私の参加者が一般的な登山ツアーに参加したり、プロガイドの指導を受けたりすることも私にとって歓迎すべきことと考えます。その参加者が私のところに戻ってくるか来ないかはもちろんきわどい問題ですが、外の世界を知っている人が増えることは、井の中の蛙状態の私にとってもプラスです。ちょっとした異質な感じがリーダーとしての私にはけっこう大きなヒントになったりするからです。
ひとりでリーダーとメンバーを重複させる単独の自習登山ではリーダーの目が効くだけで安全度は高まります。
一番想定しやすい場面は岩場の急斜面を登ったものの、引き返さないといけない場合にどうするかという不安でしょう。かろうじて登り切った岩場を、ひょっとしたら引き返してこなくてはいけないという場合です。
岩場では、登りより下りの方が難易度が高いといわれます。そこで自分の技量ギリギリのところで登り切った岩場は退路を断たれるという感じになります。そういう気持ちがあるとその後の判断を大きく狂わせますから、意地でも「登った道は下れる」という自信をつけておかなければいけません。リーダーはメンバーに対してクサリ場の通過技量を向上させることを求め、安全確保のための秘策を練ります。
まずその岩場をどのように登ったかきちんと把握します。(1) クサリやロープを頼らずにそれまでの登山道の延長として登るバランス・クライミングの岩場だったか、(2) 両手両足の4支点のうち3点は安全確保のためにきちんと残して、1点だけを次への動きに使う「三点支持」で登ったか、(3) クサリやロープを三点支持の1点として利用して登ったか。単に登れたかどうかではなくて、どのように登れたかというところできちんとランク分けをしておくことで、下りで難易度がひとつ上がったとして大丈夫か? を登りで確認しておくことができます。
下りは最終的に登りの逆モーションで行けばいいので、慌てさえしなければ登れたところは下れると考えていいと思います。ただし、最悪の場面を逃れるために「自己確保」の準備があれば安全度は高まります。
クサリ場での自己確保は長さ1mほどの6mm補助ロープをダブルフィッシャーマン・ノットで環にしたものを用意します。プルージック・ループと呼ばれるものです。これをクサリに巻きつけて吊り手や足場にするだけで、緊急時の安全確保に大きな働きをしますが。自分の身体にロープを巻いてあれば、それと連結させるだけで転落の防止にもなります。
登れたところは下れるという確信がもてれば、「撤退」という最終選択が可能になります。これだけで行動判断の選択幅はものすごく広がります。おまけに登りの安全性も必然的に高くなります。
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10.ダブルストックと登山道
登山中に自分自身の技術レベルをチェックすることのできる重要な道具をダブルストックと考えてきました。不幸なことに、本格的な登山・ハイキング用ダブルストック(トレッキング・ポールなどとも呼ばれています) が輸入されて以来、輸入商社は製造物責任法(PL法) を意識してか、登山におけるダブルストックの使用はあくまでも登山者の補助的な道具で「必要に応じて必要な範囲で、ご自身の判断でお使い下さい」という立場を掲げてきました。2本セットで輸入されたストックが長い間バラされて、3段伸縮型の杖(ステッキ) として1本売りされていました。
私は自分ひとりで全てをこなすワンマン型の登山講習会を始めて早々に、ドイツ・メーカーのそのダブルストックをみなさんに購入してもらいました。2本セットで18,000円というかなり高価な道具でしたが、それだけの価値があるということはひと目で分かりました。超硬合金の石突きが非常にシャープな岩への食い込みを見せてくれたからです。
当時私は雑誌のモノライターでしたから道具に対する評価の目はそれなりに持っていました。作った人がめざしたモノをできるだけ正しく受け止めようとするのが基本です。ダブルストックは当然、岩場での使用を前提に磨き上げられた道具でした。残念ながら日本では20年近く経った現在でもストックを岩場で使うのは危険というのがむしろ常識ですが、道具の本来の機能が封印されてきたいい例です。
私はダブルストックは杖ではなく、スキーのストックワークの延長で使うべきモノだと考えていましたから、ノルディックスキーとアルペンスキーに学びつつ、登山に最適な使い方を考えてきたつもりです。
一番重要なのは登山の終盤、帰りのバスの時刻などが頭にちらつくころ、急な斜面を下っている場合です。大きな段差のある岩の道や、木の根が張り出した土の急斜面では、とくに女性の中に極端にスピードが落ちる、あるいは転倒の不安を感じさせる人が出てきます。疲労が動きを鈍くさせるという要因も考えられるし、夕闇に追いつかれるかもしれないという焦りも生じてきたりします。ひとつ「何か」が起これば、余裕幅を吹き飛ばしてしまう終盤の不安要因といえるでしょう。
その不安を解消するためにダブルストックの導入はものすごく効果的だと想像し、そして想像以上の効果を上げたのです。
それ以前も、ベテラン登山者が杖を1本使うと危険な道をみごとにくぐり抜ける技を見せてくれていました。滑りやすい急斜面の下りで言えば、谷側に杖を持ち、山側の手で立木をホールドにしてガンガン下って行くのです。そういう人には「2本杖なんて邪魔」でしたし、「4本足になってまで山に登りたくはない」と感じられていました。
しかし杖とストックとは道具として似て非なるモノなのです。杖は頭で使います。ですから目で見える範囲、視野の中で使うのが原則です。ところがスキーのストックはほとんど視野の外にあります。身体の一部になって、頭の管理下から外れています。
同じことですが、杖の使い方の原則は、自分の歩き方を崩さないために杖でアシストします。ところが、スキーのストックは身体の動きを早く・大きくするために使います。とくに下りで有効なのは、スキーヤーが急斜面に飛び出すときと似た深い前傾姿勢をとるためにダブルストックを使う場合です。私は「3歩先へ突いて、足はまっすぐ下へ」と表現しますが、大きな段差をスローモーションで下れるようになると安全性は飛躍的に向上し、スピードも上がります。つまり下りの能力が飛躍するのです。
ダブルストックで深い前傾姿勢をとって下る、という使い方をしていると、その前傾姿勢の取り方で、その人の不安や恐怖が見て取れます。自分自身でも前傾姿勢の深さによって、技術レベルをコントロールできるようになります。安全性の調節幅が見えやすい形になるのです。
登りでは、最近使い方の指導とセットで輸入されているノルディック・ウォーキングのダブルストックがあります。その使い方を参考にしていただくのがわかりやすいかと思います。ただし平地歩きから登山道の登りへの若干の違いが出て来るのは、ふつうの歩き方と同じです。登りではストックを身体の前方へ出さないで歩けるようになったら一応の合格と考えています。大きな段差で要求される蹴り上げる力をストックでカバーできるようになれば登坂力が驚くほど向上します。石突の位置が後ろ足のかかとの脇に置けるようになると、フットスタンス(足場) の小さな岩場でも安全に使えます。
そしてスキーのストックと同様ですが、バランスを崩したときには、どこからでもストックがサポートに入ってきます。瞬間、目に飛び込んできた石や木の根に石突きが命中するぐらい肉体化していれば完ぺきです。
今では女性に扱いやすい、初心者の小さなザックにも入れやすい、しかも安価、というようないい製品がどんどん登場しています。ダブルストックを自分の歩きに加えることで「歩きの安全度」というようなものを感じながら歩いていただきたいと思っています。
……が、登山道登山では際だって有効な道具であるダブルストックには、もうひとつ大きな問題があります。「ダブルストックが登山道を痛める」という常識です。これは日本の登山道の今後を考える上でも重要なことなので、私の軽登山技術から外すわけには行きません。
登山道を歩いていると、ダブルストックの突っつき穴が登山道部分だけでなしに左右の壁にもぶつぶつと開いてじつに腹立たしい光景になっています。登山道にめったやたらに穴を開けるダブルストックはけしからんということで、使うならゴムキャップをしなさいというのが登山界の常識となっています。
最初、私は次のような論を立てて、ダブルストック使用の根拠を主張していました。それは登山道を破壊する最も強力な影響は、登山道周囲の踏みつけによるものだという点からです。登山道がえぐられて川底状態になると、深くえぐられてだんだん歩きにくくなってきます。すると登山者は周囲に歩きやすい道を見つけます。踏み跡を探してたどるのなら「道」ではないにしても「トレース」です。そして新しいトレースほど歩きやすいという場合が多いのです。ですからトップを歩く人間がメンバーの歩きやすい道を探しながら進むときには「一番新しい道が一番歩きやすい」という大原則を発見します。
濡れると滑りやすい蛇紋岩地帯の尾瀬・至仏山では周囲の草原への踏みつけがどんどん広がって、長い間登山道が閉鎖されました。あるいは東北に多い直線的な登山道では、えぐれた登山道の両脇の木立が登山者の格好の手がかりとなることから、登山道脇の土手がどんどん道になっていきます。
私はダブルストックを登山道で使用させてもらうための免罪符として、できる限り登山道の本道をたどる努力をしてきました。靴が汚れるという程度のことで道脇に新しい道を求めるということなどもってのほか、と考えてきました。
そしてそれは、ダブルストックが登山道を破壊すると声高に語る1本杖のベテラン登山者たちが、道脇の新しい道を積極的に開発していることをしばしば目にしてきたことからの対抗戦略とも考えていたのです。
無垢な山の斜面に踏み跡をつけると、何年に1度という豪雨のときにそこに水が流れて小さな流路を刻みます。するとそれは次第に道らしく、そして川らしくなって新道という感じに成長していきます。踏みつけが登山道破壊の一番の元凶だというのも常識で、破壊に弱い湿原や草地では、そのため歩道を整備し、ロープを張って、登山者の立ち入りを禁止して植生保護に努めています。
さて、登山道に開けられたダブルストックのぶつぶつ穴ですが、ほんとうに見苦しい破壊の跡です。私だって、大いに文句を言いたくなります。……というのはダブルストックを自己流に使う人の多くは、それをバランス・アシストの道具だと考えるので安定感の高いヤジロベエになるのです。ぬるぬると滑りやすい川底状の登山道ではダブルストックを左右に広げて安定を計るのです。そんな初歩的な使い方も指導されて来なかったのです。私はダブルストックをパワー・アシストとして考え、必要ならいつでもバランス・アシストに移行できるというふうに考えているので、グリップは肩幅にしてV字に構え、登りは身体の真後ろ、下りでは3歩前に大きく降り出して、全体として前後の動きに徹するのが合理的と考えてます。あんなぶつぶつ穴の犯人といっしょにされたくはない、とずっと思っていました。
ところが上高地で、監視員という腕章をつけた人に見とがめられそうになったのを契機に、歩きながらいろいろ考えているうちに登山道とダブルストックの緊密な関係に気がついたのです。
なぜ上高地かというと、北アルプスの穂高周辺の登山道ではダブルストックによる破壊の懸念はきわめて希薄です。なぜなら一帯は基本的に岩の道ですから、石突きは気持ちよく岩に食い込んで本領発揮という感じです。そんなところで滑りやすいゴムキャップをしたら危険きわまりない状態になってしまいます。
ではなぜそんな場所でもダブルストックを止めさせようと考えるのか。やはりあのぶつぶつ穴の犯人(の同類) だからだと思うのです。緑色の腕章をつけたあの人にダブルストック使用の根拠を説得させようとしたら、どのような組み立てにしたらいいのか、上高地に向けて下りながら考えたのです。
じつは日本の登山道は大きな破壊の危機にあるように思われます。登山道の補修現場をしばしば見ますが、下界の土木建築や造園事業のような感覚で進められているように見えてならないのです。
たとえば急な斜面で道が川底のようになったところには、ヘリで空輸した木製の階段を並べたような道になっています。それほどでもないところでは階段状の土留めをして女性に歩きにくいと文句を言われています。
どちらも問題なのは豪雨の時にそこが川のようになる構造を放置していることです。何年かに1度の大雨で、土留めは崩壊し、木製の階段は空中に浮いた状態になったりしています。さすがに自然の猛威だと思う前に、下界の土木技術が山に向かないという疑いを登山者に持ってもらいたいと思います。
私が知る限りもっとも破壊に強い登山道の見本は鹿島槍ヶ岳への登山ルートのひとつとなっている柏原新道です。すでに紹介しましたが、登山道の谷側に路肩の盛り上がりがほとんどないのです。そういう状態を維持するために、ところどころに水切りの溝を切って、半割の塩ビ管を埋めてあります。水は集まって破壊力をもつ前に排除されてしまうのです。
登り切ったところにある種池山荘で聞いたところ、あれほどきちんと手入れをしている登山道に対して、ダブルストックの破壊などまったく気にしていないとのこと。実際、小さな突っつき穴ができるような場所がほとんどないのです。
ずいぶん昔になりますが、四国の剣山(つるぎさん、1955m) では剣山頂上ヒュッテのご主人が毎日のように周囲の登山道を巡って、水切りの細い溝をほうきで掃除していました。
水切りという言葉を出しましたが、登山道保全のキーワードが水切りなのです。登山道の多くは元の地表面から下がっています。ひどいところでは両側の壁が背丈より高くなっています。最初から登山道を掘り下げたわけではないのです。雨が流れるようになり、時にその水流が恐ろしい破壊力をもって川底をえぐるように掘り進んできたのです。
そのことは見れば明らかです。そしてもうすこしよく見れば。ジグザグを切る登山道の曲がり角の外側に水切りの溝を設ければ水流は破壊力を持つ前に放出されてしまうのです……が、荒れた登山道ではそのことがまったく考慮されていません。歩きながら登山道が激流になった場面を想像すると、大きな破壊を手をこまねいて見ているしかないという恐ろしい場所がたくさんあります。そういうところでは手間と金をかけて土留め工事をしても、一発の集中豪雨で崩壊してしまうのです。
丹沢の大倉尾根では登山道修復のための小石の運び上げに協力するボッカ競争が毎年行われています。神奈川県の代表的な登山道ですからずいぶんお金をかけて登山道は修復され続けています。しかし掘り返して修復された登山道には脆弱な部分が残るということもよく分かります。
大倉尾根の隣にあたる鍋割山(1,272m) への登山道は大規模な土木工事とはずいぶん違う趣です。山頂の鍋割山荘を、建材を運び上げることから始めて、ほとんど全て自分のボッカ力で運営してきた草野延孝さんにとっては、後沢乗腰から鍋割山までの登山道は日に何度も往復することさえあるボッカ道になっています。
その登山道を歩いてみると大倉尾根のような機械力を想像させる大工事はほとんどありません。道際に植物性のネットを張って植生の維持を計っている程度しか見えてきません。ところがあまり荒れた感じがしないのです。草野さんはボランティアのみなさんと登山道修復もしているそうですが、「50mおきに水抜きをすれば登山道はほとんど破壊されません」と聞いたことがあります。
以前、上越の巻機山(1,967m) ではニセ巻機山への最後の登りのところで大規模な登山道修復工事を見たことがあります。登山道部分には土留めの杭を打ち込んで、それ以外の踏みつけによる広がりは立ち入り禁止にして土留めをし、植生保護ネットをかぶせていました。職人さんは山頂近くの避難小屋に寝泊まりしての本格的な土木工事という感じでした。それから15年、何度かその道を歩いていますが、一度破壊された植生はなかなか復元しないようです。
信州の菅平高原から登る四阿山(2,354m) の山頂直下には長い木製の階段が伸びています。破壊された登山道の上にふたをするように階段を乗せています。下界の発想では貧弱な登山道を力で押し込めるのは簡単……なのでしょう。設計図があり、工事の進捗状況が写真に撮られ、下界の土木事業と同様に完成したのでしょう。しかし見るところ、記録的な豪雨があってどこか1か所が足元を崩されれば、登山者は下に新しい道を踏み開くことになるのでしょう。そういう登山道を知らない技術者が修復する工事の危うさは、登山者のみなさんがあちこちで目にしているはずなのです。
登山道はだから、いま大きな危機にあるのです。すでに紹介した北アルプス・表銀座への登り口、中房温泉から燕岳(2,763m) への登山道は、荒れた感じもあれば、大げさなサイズのベンチと呼ばれる広場もあります。しかしよく見ると、小規模な破壊と修復を繰り返しながら何十年も保たれてきた道という感じがします。それはこの登山道を開いた燕山荘が現在もなお修復の手を緩めていないからだと分かります。
以前、富士山の強力さん(荷揚げ人夫) を取材したことがあります。すでにブルドーザーでの荷揚げは始待っていましたが、まだ日々の荷揚げにはたくさんの人夫が必要だったのでしょう。そういう人たちのはきものは地下足袋でしたが、歩きながら邪魔な小石があったりするとそっと脇に寄せるなど、登山道のメンテナンスまではしなくても、監視役ではあったといいます。
登山道は永く、登山者や山小屋関係者によって踏み固められて維持されてきました。
1989年に首都圏自然歩道(関東ふれあいの道) が全線開通するに当たって刊行された『朝日ハンディガイド・ふれあいの「首都圏自然歩道」』(朝日新聞社) に関わりましたが、既存の登山道やハイキングルートを結びつけるために新しく造った道が、たった1〜2年で雑草や灌木に覆われてしまった現状をいろいろ目にしました。山の道を掘り起こして造ると、そこは植物たちの格好の進出エリアになるのです。
登山道は人の足によって踏み固められてきたことで、驚くほどタフな道となっています。土がかぶさっているところでは冬になると霜柱が立ったり、雪解け頃や梅雨時には濡れて地盤が緩んだりしますが、植物の進出はかなり押さえられています。
ところが踏み固められてきた路面をいったん削り取ると登山道はきわめて脆弱になるのです。あるいは水路状になったあと水抜きができないと流水による破壊力はどんどん大きくなっていきます。登山道を強大な破壊力から守るためには「水抜き」という手法が最も重要なのですが、登山道の修復を請け負う下界の技術者にはその水抜きの重要性が認識されていないように思われます。
登山道の水抜きでは箱根の山々では木製の立派な樋をはめ込んであります。水抜き機能を維持するために土砂が積もっていたらひと握りでも排除してほしいという要望も書かれています。高尾山から陣馬山への縦走路には登山道を横断する水抜き溝が、やはりきちんと設置されています。
それらでさえ、関心を持って見てみると、必ずしも水抜き機能の重要度がそれほど考慮されているようには思えないのです。
2009年だったと思いますが赤城山の荒山高原の道でユニークな水抜きを見ました。登山道の3分の1ほどを外側に向かって切り落とした感じでした。見たのは2か所だったと思いますが、いずれも誰かがテスト的に登山道を削ってみたという感じでした。そのポイントもかならずしも有効な場所とは思えませんでしたから、個人的な実験のように見えました。その実験が失敗に終わらないように、すぐにインターネット上に擁護の書き込みをしました。
登山道がカーブするとき、その谷側(たいていカーブの外側になります) に大きな切れ込みを入れるか、外側に下がる傾斜面を作るだけで水抜きはできると思うのです。ただし現実には谷側に壁がそびえているでしょうから、そこに排水口の切れ込みを入れるのが大仕事になるかもしれません。
登山道をそういう目で見ていくと、早急に水抜きをしなければならない場所が見つかります。それが実は、両側の壁がダブルストックでぶつぶつに穴を開けられているような場所なのです。登山道のきわめて脆弱な部分は歩きにくい場所でもあることから、ダブルストックの初心者はつっつき穴をつけているのです。その穴自体は、登山道の破壊に直接大きな影響を与えるとは思えませんが、道路構造の脆弱さの指摘マークと持ち上げることもできません。同じ登山道を利用させてもらう登山者として、見苦しい行為だという認識をぜひ持ってもらいたいと思います。
……と同時に、ダブルストックが登山道を破壊すると声高に叫ぶ人たちには、もうすこし登山道そのものをきちんと観察していただきたいと思います。昭和30年代以降日本中で登山者によって開かれた膨大な本数の登山道が、いま行政によって大幅に整理されています。古い地図にある登山道の入口に「通行禁止」などの表示があるのがそれです。登山道は整理されて、主要ルートだけが地域の観光予算などで整備されるという時代に入っているのです。
登山道が閉鎖されたからといって、登山をしていけないということではありません。もともと正統的な登山技術では登山道の存在を当てにしてはいないからです。それに対して登山道を頼りに歩く登山者は、幹線登山道、すなわち私の言う一般登山道ができるだけきちんと整備され、道路状況が告知されるのを望んでいます。先年、天城山では大雪で古木が驚くほどたくさん、無惨にへし折られました。登山道にも被害が出たようで、それはインターネット上で登山道情報として知らされました。
尾瀬ではダブルストックが木道を痛めると言うことでゴムキャップを取り付けないと歩かせてもらえない状況です。至仏山の登山道も同様かと思います。そこで木道の表面についた無数の突っつき穴をきちんと観察してみます。○型の穴がダブルストックのものです。そして■型のものはたぶんミズバショウのシーズンが中心でしょうが、アイゼンの踏み跡です。よ〜く観察してみて下さい。
もう一言加えると、ダブルストックが岩に対して有効でないと考える人たちがあまりにも多いために、登山道の剤弱な部分での影響が目立つのだと思います。ゴムキャップをつけろと言う主張が正しい部分を含んでいますが、そうだとしたら輸入商社は鋭利な刃物である石突き部分をゴム製のものに変えられるような日本向け仕様のものなど作らせるべきでしょう。非常に高価なゴムキャップは目の届く範囲で杖として使うにはいいとして、ストックワークではすぐにどこかに落としてしまいます。
登山に関して発言力のある方々に登山道そのものをもっと真剣に見ていただきたいと思います。
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