2007.10.20_山川 和子――ワンポイントレポート「齋藤さんへのメールについて」


■2007.10.20_山川 和子――ワンポイントレポート「齋藤さんへのメールについて」
 伊藤 幸司様
 齋藤さんのメールで感じたことです。
 禁止令がでてそれが図星だっただけに受け止めるしか方法がないと本当のところかなりなショックを受けていました。
 図体だけは大きいのにかなり気の小さい私には少しオーバーに言えばこれでもう登山生命が絶たれたと思いつめるほどだったのです。
 体操やお茶で多少痛みが軽くなったり体型がスリムになったら又山歩きが出来るようになるかしら、そしてしばらくは遠のいていようと。山に対する熱も紅葉便りの聞こえてきた深まり行く秋とは裏腹に冷めつつあるように感じている自分もここにいるのが現実です。
 そして登山がだめなら何か他の気分転換の方法を探そうと思っていたのです。
 それなのに山歩きから始まった世界を大きく広げたことによって糸の会の位置が大きくぐらついたとか 肉体的に負担がかかっていないツアーとか 安全を優先的に確保する山歩きとか それこそが私がそっちに移行しようかなと思っていた方向だったのです。
 私のことを見透かされているような思いであのメールを見てしまいました。ガーンと一発脳天に突き刺さったままです。ますます落ち込みます。もう元には戻れなくなりそうな気がしてぞっとしました。最後に参加した山行からまだ1ヶ月も経ってないのに・・・・
 でも、しかし(この二句は自分自身を弁護する常套句であまり前向きな姿勢ではないかも)4〜5年前でしたが糸の会で初期の頃にいらした年配の方が高尾山で何人かのお仲間の先頭に立って「さあ、皆さんこっちですよー!」と遠くからも聞こえる大きなお声で歩いていらしたのを見かけました。生き生きとしてとてもお元気そうでした。
 コーチから以前、他の山歩きの会にもどんどん参加するのも良いという考えをお聞きしたこともありました。
これはテレビで見たのですが、奥多摩の廃校となった学校を拠点に大樹を描くのを目的に山に登り2000本の樹々の絵を書き上げた方もいます。
 体力、時間、目的、好みに合わせても山歩きは楽しめる。それではだめなのでしょうか? これもコーチの仰るところのゆるさなのでしょうか?
 先週、武蔵野の雰囲気が今でも残るといわれている、国立の矢川源流沿いの植物観察をし、楽しんできました。

★【コーチから】
●たぶん、私から何か書かないといけないような、突きつめた感じがします。
●もちろん、山川さんのような「常連」のメンバーを失うのは大きな痛手ですし、「古い」メンバーが去っていくのは、けっきょく会の厚みを失っていくということだということはわかっています。
●糸の会が励みになっている人がいるのは嬉しくて、かついくばくか社会的貢献もしていると自負できるところなのですが、糸の会はあくまでも「講習会」だと考えています。「年度会員制の講習会」という危うさをいろいろ感じていますが「しょせん山歩き」という軽さは失ってはいけないと思っています。
●たぶん、山川さんの気持ちの中には、「かつて去っていった人」と「私」というような部分があるかもしれません。
●リーダーだかコーチだがの「伊藤幸司」が極端に強い物言いをしたときにはそういう「事件」が起こったともいえます。
●はっきりしておきたいのですが、「技術的に足りない」(パワーが足りないということについては少し複雑ですが、同様です)ということは私は問題にしません。技術的な部分はフォローのしかたがあるので、「チャレンジ」の機会は奪いたくないという考えが基本にあります。問題は(たいへん一方的なのですが)その人の「行動が読めない」場合です。「行動」を「言動」と言い換えた方が意味が広がるかもしれません。
●私は「ワンマンシステム」を通してきました。通常の「リーダー+サブリーダー」というシステムを拒絶したワンマンシステムですから、私の予測値を超える人に目配りするのはつらいのです。危険なのです。そこのところを解決しようとすると「講習会」ではなくなって、一般の「山の会」のようにリーダーを補佐する目や腕を育てなくてはいけません。それを拒絶するところに「意味」もあれば「問題」もあるわけです。
●山川さんがこれから自由になる人生で山歩きをもう少しふくらませたいと考えているらしいことはよくわかります。それなら、このままでは絶対にダメなのです。原点を踏み直して、登山年齢をのばす方向でリスタートしなければいけないのです。
●もちろん登山をやり続けるかどうかは山川さんの決めることなのですが、私はいま70歳前後のみなさんのところに10年後の山川さんが来られるとは見ていません。痛みとつきあいながら歩くのは大いに賛成なのですが、痛みに慣れるとひざが壊れます。がんばって痛みが出るのはいいのですが、痛みが出るまでがんばるのはよくない……わかりますか?
●つまり、山川さんを監視する立場としては、痛みが出るまでがんばることで、窮地を脱しようとしているように見えてならないのです。
●「がんばらない」というのは「痛みが出ないように歩く」というだけではないのです。いろんな歩き方をして、痛みが出る範囲を確かめながら、自分の進むべき道をさがすということだと思うのです。
●ですから今回のメールに挙げているいくつかの(たぶん以前に聞いたことのあるものだと思いますが)体験も、もちろんそういうものの候補だと思いますが、もっといろいろ探ってみてもいいはずです。
●それと「さあ、皆さんこっちですよー!」の人にも触れていますが、山川さんは周囲の人との関係で山川さん足り得るという側面を考える必要があるかと思うのです。おそらく「仲間と山に行く」ということが重要なのかと思われます。山の仲間を見つけなければいけないのです……もし山歩きを続けるのであれば。
●糸の会の(すなわち伊藤幸司の)山川さんに対する役目は、山川さんの「山の歩き方」に限定される、と考えていただく方がわかりやすいかもしれません。糸の会はそういう技術的課題をかかえている人たちが「たまたま人生のこの時期」に集っている会と考えていただくとすれば、それはそれで他に例を見ないものかと思います。
●ですから、伊藤幸司の側からいえば、糸の会の外側にも山歩きの場を見つけていただきたいのです。ツアーに参加するというかたちでも、山の会に入るというのでも、リーダーになるというのでもいいのです。その一方で糸の会にも参加していただければこれほどうれしいことはありません。「糸の会もなにがしか役に立っている」と考えられます。
●腹を立てる人がいるのを承知で話したことがあるのですが、「私の仕事はいつも遊び半分」でした。「糸の会」も同じ流れにあります。つまり仕事と遊びがつねに半分半分で「糸の会」もず〜っと生業ではないのです。それでは食えないけれど、続けるためのハードルはそれほど高くない。
●中途半端ではありますが、私自身は自分自身の楽しさを失わないようにしています。私の身勝手さにつきあっていただく方がいらっしゃるということには、ほんとうに感謝ですが、距離を置いてつきあってくださる方がひょっとすると「大人の会員」なのかもしれません。
●思い切って荷物を5kg減らしてみてください。登りでのパワーを落としたくなければ、水を5リットルもって下さい。……というのは単純な、技術的提案です。
●周囲の人への「エサ配りの禁止」は余計なお世話かもしれません。でも、流れを断ち切るためには、価値観の変更がどうしても必要です。(自分自身のことは棚に上げている感じがしますが)
●「ジパング」目前の山川さんの、人生の転機のなかに山歩きも大きくあるということでしょう。どういう方向になるのであれ、見守っている人が糸の会のなかにもいるということはまちがいありません。


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