2008.4.8_曽根 一郎――ワンポイントレポート「六甲山の思い出」
■2008.4.8――曽根 一郎さんから「六甲山の思い出」(ワンポイントレポート)
●伊藤 コーチ どの
●いつもお世話になっております。
●ミニホームページについて 第二話をお送りいたします。
●なお、背景の色は いまのままでよいとおもいます。
●ロゴマークのところは 私の顔写真でいかがでしょうか。
●正式のタイトルは考慮中です。
■六甲山の思い出
六甲山には 糸の会 で昨年6月と 今年1月にのぼった。
ルートはちがうが、どちらも摩耶山(702m)にいっている。
昨年は 1日目 神戸元町から再度山(ふたたびさん 470m)を通って摩耶山に登り、そしてケーブルカーで下山して三宮に宿泊した。
2日目 阪急 芦屋川駅から六甲山(931m)にのぼり、北側の有馬温泉へ下った。
今年は 1日目 六甲山の北側の神戸電鉄 有馬線の大池駅から水晶山(710m)をへて摩耶山へ達し、山上のオテル・ド・摩耶に宿泊した。
2日目 ホテルから六甲全山縦走ルートを西へ西へと下ってゆき、再度山から鍋蓋山(486m)までいったところで南下して、桃山というところからバスで元町までいった。
六甲山系は高山ではないが なかなか奥が深くいろいろのルートがあり、変化に富んでいておもしろいところである。また 機会があればのぼってみたいと思う。
有馬温泉はよかったし、オテル・ド・摩耶も印象が深い。
ところで、六甲山には昭和32〜33年頃 ある女性と摩耶山に行ったのがはじめてである。
彼女とは登山で行ったのではなく、いわゆるデートでいった。
私は 昭和21年春に敗戦で台湾から故郷の大阪 箕面に引き揚げてきた。 そして、箕面小学校の5年生に編入したとき、彼女が同じクラスにいた。 彼女は利発でおとなしく勉強がよくでき、顔立ちは彫りがふかくうるんだ瞳をしていた。
二人は 目立った付き合いはしていなかったが、6年生、中学1年生となぜかおなじクラスになった。
そうして二人は 次第にお互いを意識しあうようになっていった。
昭和24年春 父の転勤で東京へ転校してからは、彼女からよく手紙が来るようになり 近況を語り合う文通がはじまった。
1ヶ月に何通きたかわからないくらいきた。
時は過ぎ行き、昭和32〜33年頃 私が大学2〜3年頃ハンドボールの遠征で関西にいったとき、久しぶりに彼女と会い 旧交をあたためた のだが、そのとき自宅にも誘われご両親にもお会いした。
お父さんは国文学かなにかの大学教授で、ちょっと堅い感じがしたので、こちらは緊張した。
私は 別に目的はなく彼女の家にいったのだが、彼女はなにか目的があって私を自宅に誘ったのかなと いま思っている。
摩耶山へはケーブルで登り、展望台で夕闇せまる海を眺めながら二人は黙ってベンチにかけていた。
彼女のこころに去来するものはなんだったのか、私のこころはどうだったのか、 おそらく二人はそのときは 互いに恋いしあい、信じあっていたと思う。 すくなくとも私はそうだった。
でも、別の私が私に話しかえけた。「彼女をずっとしあわせにしてあげられるのか?」と。
将来の人生設計も定まらない私としては ちょっと自信がなかった。
もうひとつは、彼女も私も一人っ子だったので、将来 一緒になったときどちらの家を継ぐのかということも こころに引っかかっていた。
結局、二人は手を握ることさえなく、思いを胸に秘めてわかれたのであった。
いまは、懐かしき思い出 である。
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