毎日カメラ読本(2001カメラ買物情報)
カタログ探検紀行【6】
2001.1.10……コシナはなぜフォクトレンダーなのか?(初稿原稿)



 以前からフォクトレンダーっていうカメラブランドを知ってました?
 魅惑的な女性が突然近づいてきて、異常接近距離からそうささやいてくれたとしよう。
 コシナのカメラやレンズに触れたことあります?
 できれば「ええ、マア、すこしは……」などと言いたいが、ごまかすわけにはいかない。私はやっぱり「いいえ。すいません。サヨナラ」と答えるしかない。どちらもほぼ完璧に視野の外にあったからだ。
 世界最初の高級カメラブランドとなった(オーストリア生まれで)ドイツのフォクトレンダーをコシナが復活したというエピソードはもちろん知っていた。そのカメラが「コシナ的」なのに、レンズは「すごくいい」というような識者の評判も雑誌で眼にしていた。
 しかし、それって、京セラ(カメラ部門の元ヤシカは高級ブランドとはいえなかった)がコンタックスを作っているのと同じようなこと……ぐらいに受け取っていた。
 最近のライカブームにあやかってのこと? という感じも正直あった。
 ところが平嶋編集長が「コシナってなんかおもしろい会社」という。
 じつは10月発行の『レンジファインダーカメラ読本――2001ライカとその兄弟たち』の力作「レンジファインダーカメラとは何か?」で、筆者の織間勇さんがどうしてもコシナに確かめたいことがあるということになったらしいのだ。その取材に編集長が付き添っていったときの、会社内の雰囲気が「おもしろかった」というのだ。
 おもしろい、おもしろくないというのはそれぞれの感覚だが、小さな会社で、技術至上主義のところがあるという。そのひとつの方向がものすごく安い価格のカメラ・レンズメーカーであり、もう一方でライカに匹敵するレンズとファインダーを作り上げたらしいのだ。

●フォクトレンダーという名門
 そういうアンバランスを私はおもしろいと感じる。そこでさっそく「フォクトレンダー」と「コシナ」にアプローチしてみた。
 インターネットのホームページ(www.cosina.co.jp)をのぞいてみたら、フォクトレンダー・ベッサRのメーンページに「レンジファインダー新世紀」という大見出しが踊っていた。
「写真を撮る。私たちはこの行為の原点に立ち返ってみようと思いました」
 かつて高級カメラのほとんどが「コピーライカ機」だったのはご存じのとおり。今風に言えばライカ互換機。日本ではキヤノンがその先頭に立っていた。ニコンはライカ互換機ではなかったが、構造的にはコピーライカ機に分類されるという立場の解説を織間勇さんは書いている(1999年11月発行『1999〜2000カメラこだわり読本』の「コピーライカの観察」)。
 しかしコピーライカというのは1954年のライカM3発売までの、スクリューマウントのバルナック・ライカと呼ばれるものに対してだった。
 キヤノンもニコンもようやくライカに追いついたと思ったときに、M3によって決定的に引き離されてしまった。
 そして日本のカメラメーカーは群れをなして一眼レフカメラへと向かったのだ。
 その後1973年にライカCLがミノルタとの共同開発によって誕生し、国内バージョンはライツ・ミノルタCLとされた。
 1981年にはミノルタが独自に設計・製造したミノルタCLEが登場したが、これが長い間、唯一のM型ライカ互換機というべきものとなった。
 そして1999年になってコニカ・ヘキサーRFというM型ライカ互換のMF(マニュアルフォーカス)オートカメラが衝撃的にデビューしたのである。
 ……いよいよM3互換機の時代かな? と思っていたら、同じ年にコシナがフォクトレンダーという古いブランドで出したのがベッサL。
 ベッサというのは第一次大戦後にフォクトレンダーが出した蛇腹でレンズを引き出すスプリングカメラのブランドで、これが当時、世界的なベストセラーとなったといわれる。いわばフォクトレンダーの代表作だ。
 コシナのホームページから「コシナ研究会」に飛ぶと、フォクトレンダーについての歴史解説があった。それによるとフォクトレンダーは240年という古さも古し、最古の近代光学メーカーとしてウィーンに誕生したという。1756年の創業である。
 最初に作ったのはオペラグラス。かつては「フォクトレンダー」がオペラグラスを意味したというからすごい。ツアイスによる近代双眼鏡の誕生が約100年前だから、そのまた昔の話になる。
 創業から85年後の1841年になって、フォクトレンダーは「肖像撮影用新ダゲレオタイプ装置」を発売してカメラメーカーとして登場したという。
 ドイツに移っていたフォクトレンダーは第一次大戦後に総合カメラメーカーとしてスプリングカメラの名機ベッサを世に送り出し、第二次大戦後もその後続機を出しながら、二眼レフカメラ、コンパクトカメラ、一眼レフカメラなどへと手を広げていったという。
 しかしドイツのカメラ業界が日本製品の圧力によってしだいに活力を失っていくなかでフォクトレンダーはツアイス・イコンに吸収合併され、ツアイスがカメラ事業から撤退した後はローライに譲渡され、さらにプルスフォトという商社の手によって現在までかろうじて生き延びてきたという。
 そのフォクトレンダー・ブランドをコシナが復活したのだった。
 第一弾のベッサLは「レンジファインダー」ではない。ファインダーのないツルンとしたボディで希望小売価格が3万3000円という、本気なのかどうなのか定かではないカメラだった。
 広角専用カメラといえばもちろんそうだが、いまどき目測でしか撮れないカメラが成立するのか? 
 ちなみにベッサLのLはスクリュータイプのライカマウントを指す通称「Lマウント」{L型ライカ」に由来する。バルナックタイプのコピーライカとしても、きわめて初期型の1920年代から30年代初頭の「I」型ライカにTTL露出計を内蔵したというアンバランスというか、思い切りがいいというか、かなり破廉恥なライカ互換機の誕生であった。
 しかし、見る人が見れば、これはかなり挑戦的なデビューであったともいえる……ということが私にも今になればよくわかる。
 同時に発売されたスナップショットスコパー25ミリF4は専用ファインダー付きで4万5000円だったが、このファインダーにかなり存在感がある。いちどのぞいてみたいと思わせるデキに見えるのだ。
 6万5000円出すと、スーパーワイドヘリアー15ミリF4.5アスフェリカルというレンズがやはり専用ファインダー付きで買える。ボディとあわせて10万円だが、レンズがよければ、「専用ボディ付き」のセットというふうに考えることもできるわけだ。
 のちに、これこそ衝撃的にウルトラワイドヘリアー12ミリF5.6アスフェリカル(シルバー10万5000円、ブラック10万8000円。専用ファインダー付き)が登場する。35ミリカメラで他に例を見ない超超広角レンズの登場によって、このライカ互換機に伝説の香りが漂いはじめた。なにか、新しい地平を、ライカ互換というノスタルジックなジャンルから見つけたのかもしれない……と。
 それに先立ってのことだが、2000年3月にベッサRが登場する。これには距離計連動のファインダーが内蔵されて、ボディ価格が6万8000円。簡単に言えば、ベッサLに3万5000円の距離計連動ファインダーが内蔵された。
 このファインダーには35&90ミリ、50ミリ、そして75ミリのファインダーフレームが用意されていて、35ミリ、50ミリ、75ミリレンズも発売された。
 ここに来て、「カメラはコシナだけれど、レンズはライカなみ?」という評判が立ちはじめた。
 私はレンジファインダーカメラでは学生時代に一時キヤノンPを使っていた経験があるくらいで、ほとんど評価基準を持っていないが、ライカ愛好家たちのなかから「M3と比べて……」という言い方が出はじめたらしいのだ。
 これは人類史上最高のレンジファインダーを持ったカメラと考えられているライカM3には失礼な話だが、3万5000円分のファインダーがそれに匹敵するだけでなく、35ミリレンズを装着したときには従来のライカM型のどれよりも使いやすいというような声も聞こえてきた。
 そのうえ、レンズがおしなべていいという。ライカのレンズと混用できるという人がでてきた。
 ライカ用のLレンズはほとんどがすでに過去の存在だから、バリバリの現役と比べて意味があるかわからないとはいえるのだが、コト、ライカとの比較に関しては時間と金を惜しまないマニアたちがいっぱいいる。しかも世界中の中古ライカが日本に集まってしまっているとさえいわれるところでのそういう声は、コシナの野心がどうも、ただものでないらしいと確信した。

●生き残れるカメラは何か?
 コシナに取材を申し入れたら、社長の小林博文さんが「新宿でお会いしましょう」と言ってきた。
 休日の午後に新宿東口の「さくらや前で」ということで待ち合わせて、「それじゃあ駅ビルのプチモンドで」ということで、いたって庶民的な選択だったが、それがお互いの間合いの計りあいという感じだった。
 もちろん、最初に聞きたかったのは、「なんで、コシナがフォクトレンダーというカメラを作ったのか?」ということだ。
「35ミリカメラは行き着くところまで行き着いた」
 というのが小林さんの基本的な認識のようである。
 完全にマイナーチェンジの時代に入って、これからは激しい価格競争の時代になる……という見通しなのだ。
「双眼鏡と同じように、ごく一部のブランド商品と、大部分の激安商品になっていく」
 というのだ。
「フィルムカメラ」と小林さんはいうのだが、いわゆる銀塩の35ミリカメラに関して「技術的にはこれ以上画期的な商品は出てこない」とすれば、コシナという会社が21世紀にカメラを作り続けるとするれば、どういうカメラを作ればいいのか、ということが経営者として最も重要な課題になる。
 35ミリカメラがデジタルカメラに切り替わっていくことは見えている。付加価値のついたカメラはデジタルになるということである。しかし、電子部品によって組み立てられるデジタルカメラのメーカーになって、激しい開発競争に加わるには、会社の規模や販売力が決定的に不足してくる。
 コシナは日本のカメラメーカーとしては最後発組である。レンズ研磨工場からスタートして一眼レフのカメラメーカーにはなったが、コシナというブランドを確立するまでには至らなくて、現在までメカニカルな……ということはかなり旧式な一眼レフカメラを作り続け、むしろ低価格品のレンズのOEMメーカーというふうに認識されている。だから「驚くほど安くて、きちんと使える」というのがファンの一般的評価となっている。
 じつはあるカメラメーカーがコシナにカメラの見積りをとったところ、あまりの安さに驚いたという話を聞いたことがある。
 しかし、激しい価格勝負で生き残ろうとする中小企業が、有名ブランドを利用して浮上しようとしていると考えると、フォクトレンダーはちょっと違うように見えてならない。外的必然を演出する以前に、内的必然があるにちがいない。そこに猛烈な興味を抱いて取材を申し込んだのだ。
「カメラメーカーとして生き残ろうとするなら……」というふうに小林さんは21世紀を見通そうとしたわけだ。
 自分たちが持っているのは、「20年間作り続けてきたCTシリーズの一眼レフボディと、ガラス溶解から一貫生産できる光学レンズメーカーとしての総合力」だ。
 レンズメーカーとしてはカメラ用では安価な普及タイプがメーン商品となっているけれど、OEMメーカーとしては、じつはビデオカメラ用レンズや液晶プロジェクター用の光学系など技術開発力を求められる仕事をしていて、それが事業規模では3分の2を占めているという。
 OEM製品を小林さんは「光学デバイス」というが、あとで現場の方々に取材したときに、この「光学デバイス」によってコシナが先端的な光学メーカーとなっていることを知った。
 新宿では、まだそこまでわからなかったが、話がちょっと脱線した。
 私は昔、ビデオ雑誌の取材で業務用のビデオカメラのメーカーへ行ったことがある。レンズ付きで300万円クラスのそのビデオカメラが、条件のいいときには1000万円クラスの放送局用と同等の性能を発揮するという話を聞いたのだが、レンズを通った光を3色に分けるダイクロイックミラー・プリズムの生産が、なかなか大変だということだった。
 そこに同席してもらった(グループ企業だが別会社の)家庭用の3CCDビデオカメラを担当する技術者が、数万個というオーダーで作るダイクロイックミラー・プリズムはほとんど半導体を作るのと同じようなもの、というので、技術者同士のやりとりがしばらく続いてしまった。
 コシナが液晶プロジェクターの光学ユニットでは「40〜50%のシェアを持っています」というからそんなエピソードを思い出したのだが、「それ、全部うちでやってました」と小林さん。コシナに対する私の評価はここでガラリと変わった。
 ……となると、1985年に製造を開始したと会社案内にある「ENG/EFP/スタジオカメラ用ズームレンズ」も本格的な放送局用レンズではなかったか。
 それは1970年代半ばからアメリカで始まったテレビニュースのフィルム取材からビデオ取材への切り替えによるもので、肩載せタイプのビデオカメラに装着する小型高性能ズームレンズが必要とされたのだった。ENGはエレクトロニックなニュース取材、EFPは野外での番組制作用に動員するカメラシステム(エレクトロニック・フィールド・プロダクション)のこと。
「うちでやって、その後タムロンさんがやりましたが、ご存じのようにキヤノンとフジの圧倒的なシェアを崩せませんでした。
 敗退したとはいえ、こういう話を聞くと、コシナが単なる廉価版カメラメーカーではないということがわかってくる。
 結局、社長の小林さんが注目したのは、やはりライカだった。それもM3を頂点とするレンジファインダーのライカが、高い付加価値をつけていまだに魅力を失わない。ライカは、カメラの基本的な魅力であるメカのおもしろさと光学的なおもしろさを存分に味わわせてくれるからだ。
 そういう趣味性の強いカメラとして、ライカはライカ判フィルムとともに21世紀にも存続するだろう。……とすれば、メカとファインダーとレンズにおけるコシナの技術で、ライカの後を追いかけてみようではないか。
「メカのボディとシャープでクリアなファインダー、きわめて高性能なレンズの3点に絞って、ニッチなマーケットで生き残ろう」と考えたのだ。
 しかし、いくらいいものを作っても、コシナブランドでは売りにくい。そこでドイツの名門フォクトレンダーという看板を借りたのだが、そこにはフォクトレンダーでなければならない理由があった。
「本当のところを言えば、レンズのブランドがほしかったんです。ひとつのカメラがさまざまな名前のレンズを持っているのは、ライカとコンタックス(ツアイス)とフォクトレンダーの3社だけなんです。うちはガラスの溶解からすべての工程を自社内でおこなえる光学屋ですから、どこにも負けないレンズを作って、それに対してブランドを確立したいのです」
 かくしてコシナ製の新しいフォクトレンダーレンズは、F1.5以上の大口径レンズにノクトン、F2までのものにウルトロン、F2より暗いレンズにはスコパー、異常低分散ガラスを使用したものにアポ・ランター、特殊な焦点距離のものにヘアリーといった名称がつけられることになった。
 レンズメーカーとして超一流をめざしたいという野心が、フォクトレンダーとなったのだ。

●コシナ流の安いボディにした理由
 フォクトレンダーブランドをレンズのために選んだというふうに理解すると、「コシナ的」なボディでそのまま押し通すアンバランスも一応理解できるのだが、それにはもっと合理的な理由づけがあった。
 小林さんのこういう言い方で謎が解けた。
「ボディは金型代のかたまりなんです。それに対してレンズはどれほど高性能に作っても金型というようなものにしばられないので、いろんなレンズを作れます」
 全力を投入してレンズを作る前提としてのフォクトレンダー・カメラは、コシナの一眼レフCTシリーズの流れの中に置かれている。簡単に言うと、一眼レフファインダーを削り取ってしまったのがベッサL、そこにレンジファインダーを載せたのがベッサRということになる。
 コシナCTシリーズは1979年のTTLマニュアル測光カメラのCT-1に始まる。同じ年に絞り優先AEのCT-2、CT-3が出て、まったく同じボディダイキャストを使いながら、CT-1の系列ではC1とC1-s、CT-3系ではC3が現在まで生産ラインに残っているようだ。
 そのうち、91年のC1-sと92年のC2の兄弟機がカメラメーカー4社へOEMブランドで出荷されている。
 ベッサL、ベッサRはそのTTLマニュアル測光カメラのC1-sから派生している。
 1979年以前にもコシナは一眼レフを作っていて、スクリューマウントのプラクチカマウントでAE化を実現するために「瞬間絞り込み測光」という方式を完成させていた。
 したがってCTシリーズは一眼レフカメラメーカーとしての本格的なスタートラインとなるのだが、当時の企画部長がいけなかった。「モーターはキライだとか言って、AE以上にはオート機能を積極的にすすめなかった」のだ。
 その企画部長が現在社長の小林さんなのだが、かれは高校時代からライカを持ち、オーディオに狂うという「道楽息子だった」という。
 だからかどうか、根っこにはモーターをつけようが、マイコンを載せようが、写真を撮るにはシャッタースピードと絞りとピントを決めるだけのこと。それぐらいは自分でやったっていいはずなのに――という「意地のようなものがあった」という。
 見方によっては先代のボディダイキャストをそのまま活かしながら、10年後には複数のカメラメーカーへのOEM生産を実現し、20年後にはコピーライカ機に大変身させるという荒技を仕掛けたということになる。
 まず金型ということについてだが、いま新しいカメラを設計すると金型代が2億円から3億円はかかるという。1万台とか2万台という生産ロットで計算すると、ボディ価格がどうしても10万円を超えてしまうという。
 CTシリーズの金型は、もちろん何回も作りなおしている。10万回とか20万回で寿命がくるのだが、同じ金型を作るのはずっと割安だし、それよりも同じ金型で作り続ける大きなメリットがほかにもある。
 組立ラインでの作業が20年間同じなのでラインの安定性がいい。修理も、製造中止後7年間というメーカー義務を越えて、20年前のカメラでもおおかた修理可能なのだ。
 じつはコシナのカメラが「安くていい」という熱狂的なファンを獲得している裏側には、品質を落とさずに安くなるといういささか古い、頑固な体質が支持されているからなのだ。
 そしてもうひとつ、小林さんは21年間先代のボディダイキャストを維持してきたのを「自慢できる」ことと考えている理由がある。
 というのは経営者として、電気メーカーからの光学デバイスの開発と、カメラ用交換レンズのOEM生産とで経営が成り立つまでにした。そこでカメラメーカーとしての仕事はむしろ作ること自体を趣味的な領域に割り切ることができるようになったのだ。
 最少のリスクで最大の効果をあげるために、すき間ビジネスを自覚しつつ、ユーザーの趣味性をかき立てるカメラ、レンズを作っていきたいということなのだ。
 コシナは長野から長野電鉄で約1時間、志賀高原までもうすこしという信州中野にある。
 先代がそこでカキやらリンゴやらを作りながら、実業家になりたいと考えたというのだ。たまたま弟が東京方面でレンズの研磨をやっていたことから、その場所でレンズの研磨工場をはじめたという。1959年のことである。
 4年後にはレンズを磨くだけではハンパだからレンズを入れる鏡枠も作って、さらには組立までやってしまうという過激な事業展開をしていく。日本の高度成長経済期に成り上がっていくみごとなベンチャー企業であったようだ。
 先代がちょうど13回忌を迎えるということで、内輪の文集の原稿をちらっと見せてもらったところにそんな内容が書かれていた。カキづくりからレンズ磨きへの展開と比べたら、20年目の一眼レフをレンジファインダーカメラに作り替えるなどアクロバットでもなんでもない。
 要するに、ライカと比べていろいろいう人がいたとしても、ボディに関しては小林さんはなにも変えるつもりはないということだ。そのかわり、誰にでも買える金額にしてある。
 現行のライカM型機が正規ルートで26〜27万円、安値ルートで16〜17万円として、「うちのものが2割安、3割安程度ではだれも買ってくれないでしょうが、3分の1ぐらいの値段ならコシナ的といわれても買ってもらえる」という判断だったという。

●ファインダーが勝負どころ
 ベッサRのボディが6万8000円というのは実売価格では6万円前後ということだが、カメラ雑誌のショップ広告を見るとベッサLとヘリアー15ミリ、あるいはスコパー25ミリのセット販売が成立している。3万3000円のボディがただになるというほどではないが、ベッサRのボディと大差ない価格で広角専用セットが手に入る。
 目測専用のベッサLというのは大胆でしたね、小林さん。
 その理由は2つだそうだ。ひとつはスーパーワイドヘリアー15ミリF4.5アスフェリカルというレンズを早く世に出したかったこと。
 レンジファインダー用レンズで15ミリの超広角レンズというとツアイスのホロゴンがあるが、これはほとんど伝説上のレンズで、現在ではコンタックスGシリーズの交換レンズにホロゴンT*16ミリF8があって、有名レンズの1本となっている。価格もそれ相当の28万円。
 小林さんは、フォクトレンダーレンズのデビュー戦の相手役をこのホロゴンに選んだというわけだ。そしてこれは大方のプロ筋に衝撃的に受けとめられた。使えるレンズなのだ。
 しかし、小林さんの想定したデビュー戦相手役はほかにもあった。いまや35ミリのプロ用カメラとして君臨するニコンFシリーズとキヤノンEOSシリーズの最広角レンズ(魚眼を除く)はニコンが18ミリF2.8(17万3000円)、キヤノンが14ミリF2.8(30万7000円だが、それと比較して負けないという自信作であったのだ。
 技術的に、ニコンやキヤノンより上というのではない。一眼レフ用の広角レンズはミラーボックスを後ろに置くために前玉を大きくしてバックフォーカスを強引にのばしている。
 それに対してレンズ後部をボディ内部にまでのばせるレンジファインダーカメラでは、絞り羽根を中心にして前後対称のレンズ構成が無理なくできる。「35ミリ以下の広角レンズではレンジファインダー用が圧倒的に有利なんです。まして15ミリとなれば、一眼レフ用ではとてもあんな風に作れない」
 プロ用超広角レンズを1本買うのと、フォクトレンダーをボディ付きで買うのと比べて、どちらが使いやすいかというガップリ四つの対戦を仕掛けたのだ。
 しかし、もうひとつ、どうもそちらのほうが重要な要因でベッサLという不思議なカメラが誕生したというべきかもしれない。「レンジファインダーがむずかしかった」と小林さんは言うが、要は間に合わなかったらしいのだ。
 今度はフォクトレンダーというカメラをファインダーという方向から見直してみる。25ミリと15ミリのレンズには専用ファインダーがついているのだが、同様のファインダーが28ミリと35ミリ用として発売されていて、いずれも1万9500円という値段がついている。もちろん単体売りのファインダーとは値づけとは違うにしても、25ミリの4万5000円、15ミリの6万5000円には、単体で販売すれば1万9500円のファインダーが含まれているということになる。
 同様に、ベッサLの3万3000円に対してベッサRの6万8000円はレンジファインダーの有無の差といっていいから、レンジファインダーがいわば3万5000円というふうにいえる。
 その3万5000円分のレンジファインダーだが、最初は簡単に考えていた。それが、どうせ作るならライカ並みの……ということになり、半年かかって作り上げたそうなのだ。値段はともかく、10人かかって日産100個。ひとり10個しか組み上げられない。
「一眼レフのファインダーならペンタプリズムと接眼レンズだけなので、ひとりで日産120個。要するに組み立て工数が12倍で、部品コストが7倍なんです」
 それで小林さんは大発見する。
「1960年代に日本のカメラメーカーがいっせいに一眼レフに移行したのは、M3のファインダーが作れなかったと言われているけれど、生産技術的にあれではとうてい大量生産になじまない。ライカでさえ、あのファインダーのお陰でほとんど倒産したわけですから」
 つまり、ベッサRの価格の半分がファインダーというのはまさにそういうことなのだ。ライカM型で、最初のM3が今もなお最高のM型といわれるのは、そのファインダーの価値なのだ。
「M3のファインダーほどナマっぽいものはないんです」
 ベッサRの目標はM3に匹敵するナマっぽいファインダーということになったのだ。
 私は大学の写真部時代にキヤノンPを使っていたが、35ミリをつけた場合には等倍のレンジファインダーの窓枠がフレームとなっていた。両目を開けたまま撮影できるというのは等倍の魅力だった。28ミリの場合には外付けのビューファインダーだが、こちらはフレームが当てにならない代わりに軽快なスナップショットを楽しめたという記憶がある。
「伊藤さん、当時はメガネをかけていなかったでしょう。だから等倍ファインダーで35ミリが使えたんです」
 ベッサRのファインダーは倍率が0.7倍で、広角側は35ミリのフレームが出る。
 ちなみにライカM3は0・91倍で50ミリのフレームが一番広い。M2以降ファインダーは0・72倍となり、35ミリのフレーム(一部機種では28ミリ)が使えるようになった。M6型シリーズではほかに高倍率ファイダーモデルとして0・85倍のものも登場し、35ミリから135ミリまでのフレームが切り替わる。
 対してベッサRが0.7倍のファインダーで35ミリ、50ミリ、75ミリ、90ミリのフレームを用意して、ライカに匹敵するクリアなファインダーを実現していると評されているのは、まさに計算通りの成功といえるのだろう。とくにハイアイポイント設計によってメガネをかけていてもファインダー視野がけられないというだけでなく、ニコン用の視度調節レンズも装着できるという親切設計になっている。
 そのハイアイポイント設計は倍率設計より優先されたもののようで、ファインダー倍率を上げるとファインダー窓がバカでかくなってしまうから0.7倍に抑えたということだ。
 ……とライカM型とベッサRのファインダーを同じ土俵に載せてみたが、じつは大きな間違いがある。ベッサRはスクリューマウントの旧タイプライカとして手動切り替え式フレームを内蔵しているのだ。
 M型ライカはMマウントと呼ばれるバヨネットマウントで、レンズ装着によって自動的にファインダーフレームが切り替わる。
 すなわち、ライカM3よってライカのレンズシステムは完全に新しくなったと私などは信じ込んでいたのだが、フォクトレンダーのLマウントレンズにMマウントのアダプターリングを装着するとM型ライカにもまったく性能を変えることなく使える。M型ライカ互換機のコニカ・ヘキサーRFにも問題なく使えるということになる。
 なんのことはない、ライカのMシリーズはファインダーフレームの自動切り替えのためにマウントを変えたということなのだ。
 ユーザー側からすればレンズ交換が迅速になったという印象はあるようだが、スクリューマウントは一眼レフでもペンタックスを初めとするプラクチカマウントにあったけれど、慣れれば致命的なものではなかった。ライカM3がフィルム装填方式まで迅速を追求したのであれば理由づけとして納得できるけれど。
 そういう風に考えると、ベッサL、ベッサRがLマウントを採用したのはライカ用レンズ資産の活用という観点からするとじつに合理的、かつ巧みであるといえる。フォクトレンダーのボディは膨大なLレンズ資産をスペック的にはM型ライカに匹敵するボディでよみがえらせながら、レンズ群は現役のM型ライカでも存分に使うことができるという両面作戦を成立させつつ、ライカM型ボディと競い合うなんて大それた挑戦ではないという控えめな態度をアッピールしている。
 つけ加えれば、外付けのビューファインダーもコシナの光学メーカーとしての良心をかけて作っているというから、これによって古い旧型ライカやそのコピー機を現役復帰するというケースも大いに考えられるにちがいない。
 ようやく、新宿で聞いた話の、小林さんの野心の核心にたどりつく。
 いささか時代遅れの一眼レフボディをそのままレンジファインダーカメラによみがえらせて21世紀に切り込もうというのは、後ろ向きに見えながら、じつはカメラのルネッサンスというほどの大きな仕事になるのかもしれない、ということだ。
 というのは、一眼レフはレンズから入ってくる光を途中で盗み見るわけだけれど、そこには大きなフィクションがある。フィルムに投影される重要な瞬間だけ、ファインダーはまったく見えていないのだ。
 その一眼レフの構造的欠陥を回避しようとしたカメラにはキヤノンが1965年以来断続的に出している半透明ミラーカメラがあるが、それがとうとう主流にはならなかった。
 対してレンジファインダー(ビューファインダー)はレンズの視野を外側から推し量る。写るべき映像そのものには接近できないが、切り取るべき光景の、空間と時間に関しては、こちらのフレーミングのほうが正確なのかもしれない。
 小林さんが強調するのは、一眼レフのすりガラスに写った絵はナマっぽくないということと、ファインダーフレームの外側が見えていなくていいのかということだ。一眼レフはファインダー視野が100%までだが、レンジファインダーなら大きな視野の中にフレームを描くのが常識になっている。
 肉眼でモノを見て、見えている光景から何かを切り出そうとするときに、本当に一眼レフファインダーがいいのか? という問いかけをフォクトレンダーというブランドの復活に込めている。
 それはライカ少年が、カメラメーカーの2代目としてようやくできる資格を得たチャレンジといえる。個人の意志がカメラを変えるということは、これまでの歴史ではなんのおかしいこともない。
 小林さんの周囲にはどうも相当の技術力をもったスタッフがいるらしい。会社に出かけていって、皆さんの話を聞きたいと申し出た。

●光学デバイスが力をつける
 長野電鉄の信州中野駅に着いたら小林さんが迎えに来てくれていた。ネクタイをはずしたらちょっとダランとするという風情は新宿で会ったときとまったく同じ。駅で知人とかわす挨拶で、それがどうも小林社長の日常の姿らしいと感じた。
「メシは何がいいですか?」
 と聞かれたから「そば」といったら駅前のそば屋だった。地元風の、腹いっぱい食べておいしいそばだったが、娘さんがコシナに勤めているとか。
 従業員が800人余で女子社員が約500人。最近では全国から光学屋が集まるようになったというが、もともとはきわめてローカルな企業だったわけだ。
 駅から歩いてもすぐの本社に4人の人が待っていた。常務取締役の上野孝信さん、この人がどうもスポークスマンという役割のようだった。
 カメラ関係では副本部長の三井健嗣さんと係長の高橋義一さん、光学系では副本部長の中山豪さんが同席していた。
 さっそく話し始めた上野常務によると、コシナという会社は先代の経営方針がきわめて個性的で、「ひとつ宿題を終えると、そこからすぐ次の宿題が与えられる」という。その宿題というのが、すでに触れたが、レンズ磨きで食えるようになったころ、「鏡胴を組んでる会社もあるよな」というふうに来るのだそうだ。
 飯山コシナでレンズを磨いて組み立てるようになると、「自分たちの食い扶持は自分たちでなんとかする」というシカケが待っていたのだそうだ。
 具体的にいうと、以前は光学ガラスの素材メーカーはオハラ光学とHOYAしかなかったのだが、コシナの生産計画は素材メーカーの供給計画に完全に支配されていたのだそうだ。
 ハーフサイズカメラの全盛期に、ある有名メーカーのヒットカメラのレンズを磨いていたのだが、素材を供給されての仕事だった。増産、増産でフル回転しているうちに、素材供給がパタッと止まった。このときは売れ行きが止まって注文がなくなったのだが、とにかく仕事ができなくなった。
 どうしようかという解決策のひとつめは「面倒だから自分たちでガラスを溶(た)いちゃおう」ということであり、ふたつめは「自主製品も持ってないとダメだな」というぐあい。
「それで、ガラス溶解工場を作ろうとしたら、その手の汎用設備はないものだから、レンガを積んで炉を作り、撹拌用のスクリューを設計して、何リットルの坩堝がいいか……というぐあいに、化学屋、物理屋、熱管理の電気屋のほかに、炉の構造計算のできる建築屋がみんな必要になってしまった」
 ガラス溶解から一貫生産が可能になると、もちろん強みが発揮できるのは量的な問題だけではない。選べるガラス素材の種類が多いほどレンズ設計は自由度を増してくるが、とりわけ高屈折率のガラスがいいレンズを作る基本条件になるからである。
 そこでまた、先代社長の宿題が出る。
「自分で使って満足しているだけでいいのか?」
 そういう勢いが「光学デバイス」という分野を作り上げていったようだ。
 たとえば、光学部門の中山さんによると、光学屋が要求するマルチコーティングはおおよそ5〜6層、ぎりぎりいっぱいやったとしても8層ぐらいまでなのに、デバイスとして注文を受けるレンズになると透過する波長をプラスマイナス3ナノメートルの範囲に絞るために40層とか50層のコーティングをすることがあるという。
 コシナで光学デバイスと言っているのは、どうも先端的な開発製品ということらしい。「こんなもの作れない?」という顧客の要望に瞬時に反応していくシゴトをさしているらしい。
「以前は若い社員をどんどんお客のところへいかせたもんです」
 上野常務が言う若い社員というのが係長の高橋さんあたりであったようなのだが、お客に直接鍛えてもらう時代があったわけだ。
 同様に会社そのものがお客に育ててもらったのだろう。それを「下請け」ではなく「デバイス開発」と呼んでいるようなのだ。
 最後にチラリと見せてもらったのはペン先につけるような米粒サイズのレンズだった。6枚構成のかなり精密なレンズで、歯科医が治療する歯の治療前・治療後の記録を撮るためのCCDカメラだという。まさに「まだ世の中にないものを作るシゴト」だ。
 2〜3年後に商品になるはずのものを、上場企業の研究所や事業部の開発セクションと組んで作り上げていくのだが、機密が非常に重要なものだけに、コシナのガラス溶解から組み立てまでの完全一貫生産方式が、高いセキュリティを可能にする。
 しかし同時に、生産管理という面でも光学デバイスの生産はコシナという小舟をもみくちゃにしたようだ。
 たとえば家庭用ビデオカメラのレンズだと、日産3000本とか4000本というオーダーになる。
「このあたりでは夜は出たくないという人が多いのでロボットを40台並べてノルマを消化したけれど、よくよく考えてみるとうちがロボットで組み立てているということは他社でもできるということではないか」
 ロボットを動かすときには部品の通い箱から何から何まで全部整ったシステムにしてやらないといけない。それで商品サイクルが数カ月だと、ラインの組み替えにまたコストがかかってくる。
 それでコシナでは組み立てロボットを捨ててしまった。最近注目のセル生産――すなわち数人のチームで与えられたパーツから完成品をひとかたまりずつ作り上げるという昔のやり方に変えたのだ。
「セルラインならドライバーがあればいい」
 要するに、コシナはコストで勝負する下請け企業から、研究開発型の「光学デバイス」メーカーに脱皮する方向に走ってきたのだ。
 かくしてフォクトレンダーではボディにはどれだけ安く作れるかというノウハウを投入し、レンズには金がかかってもいいからどれだけいいモノができるかという目標が設定された。コシナの生産技術の両面が、それぞれに振り分けられてフォクトレンダーブランドは立ち上がったというわけだ。
 私が最初に感じたアンバランスは、予想以上のしたたかな技術戦略の中から生まれていたのだ。
 旋盤工で作家の小関智弘さんの本にある、あの京浜工業地帯の町工場のしなやかな技術開発力、大企業の研究開発部門でも、先端設備の大型工場でもできないことが、町工場のオヤジさんたちのネットワークが軽々と超えてしまうことがあるという話を、コシナという小さな会社の中で思い出すとは思わなかった。
 係長の高橋さんはいう。
「いい検査具があるんで買ってほしいといっても、なかなか買ってもらえないんです」
 ほら、そうだろう。
「フォクトレンダーのファインダーを正確に組み立てるための検査器具がなかったので、レーザーで距離計の精度を出す装置を作ったんです。ところがけっきょく人間の眼で同等の検査ができてしまった」
 町工場的発想では、キカイより人間の方がえらい。「おっつけて、やりくりする」ことが人間ならできるからだ。
 高橋さんの上司の三井さんがつけ加えた。
「コンピューターも含めて、必要なら当然、いいキカイを買います。しかし、キカイにできることは何か? ヒトがやれることは何か? と考えていくと、最後はやはり人間なんです」
 人間を信じることによってこの会社の技術は回転し、上昇してきたという楽天的な気配があちこちにある。
 で、田舎の小さな会社で毎日顔をつきあわせていて、その人間的なところが実際はどんなふうに動いていくのだろうか?
 就業時間は8時15分から5時5分までで、その後はまったくの自由。残業は人によってたっぷりあるらしいが、運動会もなければ、社員旅行も最近はやめてしまって、上司が強引に誘う飲み会もない――という。
 飲み会があるとすれば、誰かが言い出しっぺになっての決起集会風ふうの突発的なものになるという。抱え込んだ問題を一気に吹き飛ばすというような臨機応変に対してはアンテナが張られているということらしい。
「太り気味というと、山へ行きましょうと誘われるんです」
 と小林社長。活発なアフターファイブはだいたい体育会系なのだという。
 1980年代以降はアウトドア指向の若者が求める全国区の企業になってきたという。なにしろ志賀高原がすぐそこにある。スキーをやりたかったら、シーズン中は毎日だって可能なのだ。
「だいたい、光学屋には天文派とカメラ派があるんです」
 マイナーでもいいからホンモノの光学メーカーに勤めたいという若者のリクルーティングにフォクトレンダーというカメラがどういう影響を与えるかと考えると、信州中野というロケーションがきっと、意味をもってくるのだ。
 小林社長の頭の中には、ドイツのケルンからローカル線で2時間というウエッツラーという町でライカが誕生したという、その風景がある。今はライカカメラという名前のその会社に知人が多いということだから、おそらく、たぶん、信州中野をウェッツラー、あるいは現在工場のあるソルムズという町に模しているのではないのだろうか。
 大企業の研究施設が田舎にある場合には、都会の空気に恋いこがれる研究者が必ずいるが、コシナの人たちはみずから求めてここに来た……ということなのだろう。
 日本のライカになる……というと誤解を招きかねないのだろうが、現在のライカカメラ社がコシナにとっては大いに刺激的なものなのだろうという感じがした。
 約3時間、ほとんど発言しなかった小林さんが、終わり際に、熱を込めて語った。
「プラナーといえばボケ味、テッサーは鷹の目、ズミクロンといえばシャープ。どれもオーラを発するレンズです。フォクトレンダーのノクトンは明るさにおいて、スコパーはシャープさにおいて、やはりオーラを発するレンズだったと言っていい。
 ライカはM型もL型もオーラを発している。そういうカメラやレンズが、21世紀に生き残る。われわれがオーラを発するレンズやカメラを作れるかどうか……です」
 コシナはフォクトレンダーという老舗のブランドを借りて、オーラを発するキカイを作るという一種文化的な領域に踏み脱そうとしているようだ。


■コシナ写真ネーム

●フォクトレンダーという……

■写真1
広角専用目測カメラのベッサLに12mm、15mm、25mmレンズとその付属品、単体ファインダー類、サイドグリップ、ボトムグリップなどがそろうと、なかなかマニアックな世界が広がる

■写真2
レンジファインダーがもっとも見やすいという35mmレンズのカラースコパー35mm F2.5パンケーキタイプを装着。サイドグリップをつけてもっとも使いやすいセットになっているベッサR

●生き残れるカメラは……

●コシナ流の安いボディ……

■図1
コシナCT-1のボディ・ダイキャストを受け継いだカメラの21年史

■写真3
CT-1(1979)
■写真4
CT-7(1980)
■写真5
CT-1 Super(1983)OEMモデルあり
■写真6
CT-90(1986)
■写真7
C-1s(1991)OEMモデルあり
■写真8
C-2(1992)OEMモデルあり
■写真9
E1 Solar(1993)OEMモデルあり
■写真10
20年以上使い続けられているコシナカメラのアルミダイキャスト。上にペンタプリズムを載せるか、レンジファインダーを組み込むか、何もせずに閉じてしまうか

●ファインダーが勝負どころ

■写真11
ベッサLにスーパーワイドヘリアー15mm F4.5アスフェリカルと専用ファインダーを取り付けたところ。ベッサLのもっとも基本的なカタチ
■写真12(上から)

■写真13
ベッサRのレンジファインダー。レンズとプリズムによる映像のマジック

●光学デバイスが……

■写真14+15+16
フォクトレンダーのレンズは基本的にシルバーとブラックが用意されている。広報写真を見比べているうちにだんだん気に入ってきたルックスは、私の場合ノクトン50mm F1.5アスフェリカル、スーパーワイドヘリアー15mm F4.5アスフェリカル、スナップショットスコパー25mm F4


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