日本経済新聞社・木曜夕刊コラム「今日からビギナー」軽登山
――2008.6.5〜9.25……全17回(初稿原稿)



■軽登山(1)時計が命を救うかも……2008.6.5

地図上で通過時刻を確認しながら前進している間は問題ない。


 私は毎年百日以上登山講習会を開きながら「軽登山」というキーワードで登山の技術を整理したいと考えている。それは結局「登山道から離れない登山」と言い替えてもいい。
 これまでの登山の技術体系では、登山道のないところを登るのが本筋で、登山道があるのはヒマラヤならベースキャンプまで。いわゆるアプローチルートとされる。登山技術が初心者にも厳しいのはそのことによる。
 しかし、みんなが行きたい山ではインフラが整備されていくので、驚くほど多くの山が「一般登山道」によって登れるようになった。登山道を外れずに歩く限り、軽登山の技術とパワーで登れてしまうのだ。
 そこで最も注意すべきは、道迷いによる遭難である。これは「道を戻る」のではなくて「道に戻ろうとする」ことによって始まる。「薮漕ぎ」や「沢登り」の技術を駆使して「こっちに行けば道に出るのではないか」という模索が状態を悪くする。
 軽登山では「道に迷った」と思うときにはすでに遅いのだ。その前に「おやっ?」とか「あれっ?」と思った瞬間があったはずだ。そのときに地図を広げて問題を解決できればベストなのだが、そううまくいくとも限らない。
 もっとだいじなことがある。その瞬間に時計をちらりと見てほしいのだ。軽い疑いが浮上した瞬間から歩き方を「偵察モード」に切り替えるのだ。その時刻から一〇分、一五分、そして「最大三〇分まで」と意識しながら進んでいく。
「道に」出られなければ「道を」戻るという引き返し地点がおのずと明らかになる。偵察モードでは常に戻ることを意識しながら前進するので「あれっ?」と思った地点までは確実に帰ってくることができる。


■軽登山(2)携帯が通じるかは微妙……2008.6.12

NTT docomoの場合、山では旧型のmuvaが有利といわれたが、現在ではFOMAで問題ないという


 山の遭難では携帯電話が活躍することが多い。これまではアマチュア無線機でないとどうにもならなかったSOSが、携帯電話で発信できるケースが多くなった。
 ところが携帯電話が山で通じるか通じないかは微妙なことが多い。携帯電話の電波は二〇キロ以上飛ぶので、眼下に見えている街のアンテナと交信できるはずと考える。当然可能性は高いのだが保証はされない。
 以前、屋久島で集中豪雨に遭って下山路を変更し、遭難騒ぎ目前になったことがある。雨の中、携帯電話片手に下り続けると、思ってもみない場所で、一瞬だけタクシー会社に電波が通じた。
 NTTドコモの専門家にインタビューする機会があって、大きな謎がとけた。山の上から街や高速道路が見えると通じる可能性はもちろん大きい。温泉なども含めて観光施設があれば同様だ。
 ところが携帯電話の基地アンテナは電波を上に飛ばしたくないのだそうだ。砂浜にパラソルを並べて日陰をうまく連続させるような電波網の設計が基本だという。つまり、山の上でつかまえる電波ははみ出た電波ということになる。
 あるいは見晴らしのいい山からは複数のアンテナが視野の中にある。複数の電波を同時に受けることで電波が干渉しあって、邪魔をするということもあるという。
 だから山では、くるくると回転しながら一歩ごとに電波の強弱を見るという丁寧な探り方が必要になる。


■軽登山(3)「かかとで歩く」意識して……2008.6.19

雪の斜面だと「前足のひざを伸ばすだけ」を理解しやすい


 山歩きに慣れない人は、当然のことながら「正しい歩き方」を身につけようと努力する。エクササイズウォーキングなどの颯爽とした歩き方だ。振り出した足のかかとで着地する。その足に重心が移ってきて、かかとからつま先になめらかに移動していく。足が後ろに残って蹴り足となり、からだを前方へ押し出していく。
 そういう平地の歩き方が、じつは初心者が登りでバテる最大の原因になっている。だから私は「かかとで歩きましょう」と強調する。かかとでペタペタと歩いてほしいのだ。そうすることによって「前進」という気持ちを捨てて、からだを真上に持ち上げる歩き方に切り替えて欲しいのだ。
 かかとで歩くということは、つま先で蹴ることを封じることを意味する。歩幅はどうしても小さくなる。急斜面になって路面が滑りやすくなればなるほど、歩幅を小さくして「かかとでペタペタ」と歩いてほしい。
 こうすると、前に置いた足のひざが曲がっている。その前足に体重を乗せてしまって、ひざを後ろにポンと送ると、からだがその分だけ持ち上がる。前進するのではなく、曲がったひざが伸びた分だけからだを真上に持ち上げていく。架空の階段を上っていく動きになる。
 うんとわかりやすくいえば、腰の曲がった老人が階段で、上の段に置いた足のひざに手を置いてヨッコラショと上がる姿。手を置くとそちら側の肩が振り込まれる。日本古来の「なんば歩き」に近いものになるのではなかろうか。お試しあれ。


■軽登山(4)転倒防ぐ「下りはつま先」……2008.6.26

ダブルストックを使うと前傾姿勢の重要さを理解しやすい


 登山靴で下る人を見ていると、滑りやすそうな急斜面ではかかとを踏み込んで止めようとする人が多い。靴の側面のエッヂを立てて止めようとする人もいる。
 かかとで着地するとその瞬間、必ずひざが伸びている。着地の衝撃がひざに来る。初心者が下りでひざを傷めないためには、そういう姿勢になることをなんとかして避けたいのだ。
 かかとで止めようとするときには、当然ながら重心はかかとより後ろにある。スキーでいう後傾姿勢になっている。下りでスト〜ンと転ぶ人がこれだ。ひざを傷めやすく、転びやすい姿勢だということが、下りでかかとを使っているかどうかですぐに分かる。
 そこで強調したいのは「下りはつま先」だ。斜面に立ってスキーの前傾姿勢をとってみる。そのまま重心を後ろに下げるとかかとで立つ感覚になる。前に動かすとかかとが浮く。ほんの数センチの腰の前後で、前傾と後傾が分かれるはずだ。
 ひざを軽く曲げて、深い前傾姿勢をとってつま先歩きをしてみると、驚くほど滑らない。もし靴底が滑っても転ばない。靴底の形状で滑る、滑らないのではなく、重心移動の破綻が原因で滑るのだ。硬い靴より柔らかな靴の方が下りで有利になるのは、つま先立ちが楽にできることによる。
 いかにも滑りそうな急斜面で、一度完全なつま先立ち歩きをしてみていただきたい。たとえば平均台を歩くような歩き方。たとえば綱渡りをしているような歩き方。「バレリーナになったつもりで」と言ったりもする。つま先立ちをしてしまえば、重心は指の付け根からずれることはない。


■軽登山(5)まず地図不要の山から……2008.7.3

丹沢・大山の登山道。一年中、週末は老若男女、いろいろな人が登っている


 私は山歩きの基礎を教える立場だから、地図を使うことを前提としている。登山に地図を持つのは常識中の常識……ではあるけれど、皮肉なことに、地図を持たずに歩ける山を選ぶほうが安全度が高いともいえる。
 登山者に便利な時間帯に登山口まで利用できるバスの便があれば、ほぼ決定的だ。平日は不親切でも、土休日に登山バスになる路線が案外多い。
 首都圏では、たとえば筑波山、あるいは高尾山、丹沢の大山も代表的存在だ。奥多摩には御岳山もある。箱根にも、秩父にも、日光にも、そういう山がみつかるはずだ。小粒だが内容のすばらしい山々だ。
 日本全国の、古い町の背後にある丘や山にも同様の候補があって、神社や寺院の参道と重なることも多い。そういう登山/ハイキングコースは地元の新聞社や出版社からガイドブックが出ているはずだ。起点に案内の看板があり、道筋にきちとした道標が出てくれば安心だ。
 じつは北アルプスの登山道にも、簡単な概念図を持っていれば登れるルートがいくつもある。地図を持っていてもほとんど見ない人が多いのもそういうところだ。
 地図を必携とする登山領域の手前に、たくさんの人が安全に歩けるように整備された登山/ハイキングの領域がある。ミーハー的な感覚でそういう山を選ぶとき、山は安全で、素晴らしい……ということが多い。
 ともかく一度、週末にそういう道を歩いてみていただきたい。たくさんの人と行き交うはずだ。女性ひとりでも、まったく不安なく歩けるところも多い。


■軽登山(6)「記憶に残る休憩」楽しむ……2008.7.10

標高約二五〇〇メートル。黒部川源流・雲ノ平での休憩時間


 登山の休憩は「三〇分に五分」あるいは「一時間に一〇分」が広く常識とされている。私も基本的にはそれに準拠しているが、できる限り「記憶に残る休憩」にしたいと考える。
 ガイドブックやガイド地図に示されたコースタイムは正味時間で、休憩時間は含まれていないのが普通。だから三時間ならそれに三〇分、六時間なら一時間加えるのが常識だ。あるいはさらに昼食休憩を一時間加える必要もある。
 私は登山技術としてコースタイムの計算法から提案しているが、ここでは触れない。ガイドブックなどを利用するとして「下りも登り扱い」にして行動の総時間を確保することを勧めたい。通常、下りは登りの七〇%の時間だから、三〇%が予備時間と見積もれる。
 その三〇%が危機管理に消えていきそうな場合もあるし、まるまる手元に残りそうな場合もある。出張旅費と同じだ。その時間枠と歩くペースをリーダーが全権をもってコントロールすることにしたいのだ。
 実際に歩き出してみればメンバーの調子や、登山道の整備状況、天気の様子などがはっきりするので、不安要素がなければ予備時間をパ〜ッと使ったってかまわない。
 たかだか下りの三〇%分を自由に使えるようにするだけで、労務管理的な休憩がエンターテイメントに変身する。休み方の自由とそれに連動するペース配分を活用してリーダーが演出すると、山歩きはたちまち個性的な彩りになる。
 これからの夏山シーズン、まずは「風の心地よさ」をテーマとして「記憶に残る休憩」を模索していただきたい。


■軽登山(7)体の状態、水分補給で把握……2008.7.17

奥武蔵・日和田山(標高305m)で。展望と天気に恵まれた日


 初心者向けの最初の山歩きでは、持ちもの欄に「コンビニのおにぎり数個とペットボトルの水など一リットル以上」と書くことにしている。
 自分で作るおにぎりのほうがおいしくて安全と考える人もいるだろう。私の周囲のベテラン参加者たちなら、吸収のいい冷えた飲み物のほかに、保温水筒に食事用のお湯も持っている。でも最初は、おにぎりとペットボトルの水をコンビニで買ってほしい。
 理由のひとつは計量のしやすさだ。私はおよそ三〇分ごとの五分休憩を水分補給、一時間ごとの一〇分休憩をエネルギー補給と考えている。休憩ごとにとりあえずザックを置いて水を口に含む。無理に飲む必要はないが、飲みたければ十分に飲めばいい。おにぎりも、ひとつ食べてみる。もうひとつ食べたければ食べればいい。
 その「飲みたければ」と「食べたければ」が一番重要なポイントだと考えている。頭で決めずに体に聞きたいのだ。そして飲んだ量と食べた量が簡単に把握できるわかりやすさが重要なのだ。ペットボトル飲料もその意味ですぐれている。
 からだが求めた量を把握しやすくしておくことで、山ではからだの状態が大きく変化するということを知ってほしいのだ。ただの水が甘露になり、ただのおにぎりがごちそうになってしまうマジックもお楽しみに……だ。下界に降りて同じものを買ってみると、その味わいの違いもあきらかになる。
 私はだから「一時間の昼食休憩」などは設定しない。行動パターンをできるだけ豊富かつ柔軟にしておきたいからだ。


■軽登山(8)軽い運動靴で ひざ守る……2008.7.24

男山の岩峰から信濃川上駅へと下る。軽い靴で快調に


 私の講習会に参加した人が「な〜んだ、登山靴の人もいるんだ」とつぶやくことがある。私が著書などで運動靴をすすめているのに現場ではあまり徹底していないという口ぶりだ。
 私が「運動靴」というのは、平らなところで走ったり、飛んだり跳ねたりできるすべての靴。一般登山道を歩く限り、軽くてしなやかな靴が足にやさしいといい続けてきた。
 とくにひざを守るためには、急な下りでつま先歩きのできる靴をはくことが重要だ。かかとで着地したときにはひざは必ずのびている。衝撃がすべてひざに蓄積する。また靴底の硬い靴だと突起を踏んだときに振られるから足首も傷めやすい。……傷めやすいので、登山靴では足首の保護機能が強調される。
 しかし私のように、夏冬通して年間百日の山歩きをメッシュのランニングシューズ一足ですまそうとすると、周囲の登山者から白い目で見られたりする。登山ツアーによっては参加を拒否されたりもする。うかつに運動靴をはけない事情がみなさんにはある。
 それと雨。登山靴は雨靴として多くを期待されているようなのだ。そこに最近、ゴアテックスの透湿防水機能を加えたウォーキングシューズが勢揃いした。登山靴メーカーとスポーツシューズメーカーが激しく競合して新しいジャンルに育ちつつある。
 透湿防水ウォーキングシューズは軽登山の領域を年間を通じてフォローしてくれて、八千円〜一万五千円ほどで買える。雨の日のタウンシューズとしてはける雰囲気のものもあり、スーパーの運動靴売り場で買えるものもある。


■軽登山(9)雨具、季節で使い分け……2008.7.31

一〇月一五日に有名な徳本峠越え・岩魚留小屋で雨中休憩


 屋久島でずいぶん悲惨な行進を見た。中学生の一団が縄文杉への長い道を歩いていた。その日は雨。びしょ濡れで、往復おそらく一〇時間は歩くだろう。
 九〇リットル(七〇リットルでも可)のゴミ袋に切れ込みを二本入れれば、たちまち簡易ポンチョになる。袋の底から二五センチ上に二五センチ、さらに五センチ上にもう一本切り込んで、逆さにかぶる。
 百円出せばビニール製の雨具だって買えるのだが、そう簡単ではない。雨に濡れるか、汗で内側から濡れるか、どちらにしても濡れるのだから。
 雨具について考えるとき、気温が一〇度cを割っていたら徹底的に守りにまわりたい。一〇度cというのは風があったら手がかじかむ温度で、春は桜、秋は紅葉の雨の日が目安になる。
 だから、秋〜冬〜春の登山では透湿防水の本格的レインウェアが必需品となる。ただの雨具ではなくて、からだに湿り気からくる寒さや冷たさなどストレスを与えない防御的なバリアスーツだ。
 春〜夏〜秋はどうか。気温が二〇度cを越えると、襟元を開けても温度差を利用した換気はうまくいかない。そこで私の夏バージョン。古い雨具を切って半ズボンにした。ザックの背中から腰回りまでを濡れからガードする。あとは速乾性の登山用ズボンとTシャツという身ごしらえ。
 カサをさして、濡れるところは濡れてもいいと構えたら、猛烈な驟雨に襲われても実害はほとんどなかった。ズボンもシャツも濡れるそばから乾いていく。非常時にはゴミ袋製のミニスカートでも同様の効果を得られるはずだ。


■軽登山(10)速乾性Tシャツは必需品……2008.8.7

これは梅雨時。雨が降ったり、暑くなったり翻弄された一日だった


 私の講座では、初参加の人には登山用具を買い整えるのを待ってもらうようにしている。初心者が自分なりの判断で買ったものはベストチョイスにならないことが多いからだ。
 ただ「登山用の半袖Tシャツ」だけは用意してもらう。値段は三千円前後、登山用品店やアウトドアショップでブランド品を買っていただく。この機に専門店をのぞいてみていただきたいからでもある。
 夏にはそのTシャツ一枚を肌着としてもらうだけで、服装に関する守りはほぼ八割OKと考えている。汗で濡れる、雨で濡れるという場合でも、着替えることなく数日間の山歩きを続けることができるだけの速乾性があり、最近では抗菌機能で汗くささも防いでくれる。
 真夏の北アルプス稜線で、雨でもないのにガタガタ震え始めた人がいた。案の定ステテコ派(シャツも綿)だ。その場で私の予備のTシャツに着替えてもらうとすぐに正常に戻った。綿は繊維自体に吸水性があるので、汗でも濡れる。その気化熱で体温を奪う。吸湿性のない化学繊維を極細にしたり、溝をつけたりして毛細管現象で物理的に水分を排除すれば、体温はほとんど奪われない。気づかないうちに乾いている。
 夏冬を通じて速乾性のTシャツを着てもらうだけで、衣類の組み合わせの土台がしっかりする。
 1970年代の乾式アクリル繊維に始まる高機能速乾性肌着は湿る、濡れるということに対する肉体的ストレスを驚くほど軽減してくれた。慣れれば、日常生活からも綿の肌着は消えていく。そうなったら一人前の登山者といっていい。


■軽登山(11)デイパック 25リットルおすすめ……2008.8.14

自炊の避難小屋1泊で白神岳へ。女性のみなさんの35〜40リットル級ザック


 初めての人には「二五リットルのデイパック」を薦めることにしている。リットル表示のデイパックを買うために、登山用品店かアウトドアショップに出かけてもらいたいのだ。
 デイパックで二五リットルは大きい。最大級だ。しかし、普通の人がジャストサイズと思うものでは、年間を通じての登山には小さすぎる。
 ……というだけでなく、順調に一年経てば四〇リットル級のザックを違和感なく背負っていたりする。そのときにも無駄にならないことをこちらは考えている。サブザックとしてきちんと使えるのだ。
 じつは五〜六キロの重さの持ち物なら、入りさえすればどんなザックでも問題ない。山小屋に泊まるなど、一〇キロ前後を背負うようになると、いよいよザック選択の大きな岐路に立つことになる。
 選択肢のひとつは自重の軽いザック。三五〜四〇リットル級では軽量ザックに人気がある。ザック自体が案外重いからだ。
 ところが五〇リットル超になると、しっかりとした腰ベルトがついて、腰から肩までの長さも確保されるものが必要になる。腰椎にかかる荷重を腰骨に逃がすために腰ベルトの役割が大きくなるのだ。ザック自体は重くなるが、体への負担が驚くほど軽減される。「軽量化」のもうひとつの方向だ。
 軽登山の装備は、比重〇・三と見積もれるので、三五リットルのザックで持てる荷物は一〇キロ前後と概算できる。私は一〇〇リットルのザックを常用しているので、緊急時には三〇リットル級のザックを二個収容することができる。


■軽登山(12)山の天気、体感する喜び……2008.8.21

天気予報が最悪で山小屋がガラガラだった日。南アルプスで


 週末の天気予報は悪いほうに振れることが多い……という実感がある。「お出かけには注意しましょう」などと付け加えられた日に、山小屋や麓の温泉宿がドタキャンでガラガラ、しかも天気は最高……という体験が何度かある。
 天気予報は国土の三割の、平地の日常生活を支えている。山の天気については想定外と考えておいた方がいいようだ。
 さらに、ビジネスとしての「予報天気」と自分が体験する「実体天気」とが別物かもしれない。天気予報でいう「悪い天気」が山では「ドラマチックな天気」と感じられることが多いからだ。下界はみごとな雲海。その上に立つと、空気は澄んで山なみは遙かに続き、紺碧の空。いま自分を取り巻くその天気が「実体天気」なのだから。
 私は台風一過の展望を期待して計画どおりに出かけるのを原則としているけれど、下界の交通網の混乱も含めて旅がドラマチックになることが多い。台風の予報は、接近時の集中豪雨に関してはかなり精密だと思うけれど、上陸後の台風そのものの動きについてはあまりあてにならない。だから台風を間近に見たいという願いは、そう簡単にはかなえられない。
 何日もかかる縦走登山では、途中で雨や風の日にぶつかることを前提にしている。ところが日帰り登山者には天気予報の「降水確率」を目安にして行く・行かないを決めている人が多いという。天気予報は山では当たらない……とまではいわなくても、せっかく山に出かけるなら、その日、その時、目の前にある「実体天気」ときちんと向き合ってほしいと思う。


■軽登山(13)老眼でも地図確 認常に……2008.8.28

中央本線沿線の高川山で休憩ごとに地図を見る登山者


 私が山にお連れする人たちは驚くほど字が読めない。識字率という言葉を使えば、三〇%といったところだろうか。学力はまず問題外。一流企業のOBだとか、高学歴の主婦がズラリと並んでいる。問題があるとすれば年齢だ。
 地図の細かな文字が読めないのだ。老眼だからしょうがないといえそうだが、そうではない。みなさん新聞は読んでいるのに、地図が駄目とはなんたることだ、と私はいつも腹を立てる。もちろん、読めといえばみなさん読める。老眼鏡を出せばいいのだ。しかし、それでは遅いのだ。
 道が分からなくなってから方位磁石を出してもあまり意味がないのだが、同様に、そのとき老眼鏡を出したって遅いのだ。地図を登山のために使うのなら、折り畳んでポケットに入れるなどして、細かく確認しながら歩いてほしい。そのためにいつでも読める目にしておいてもらいたい。
 だから、老眼の人には最も重要な危機管理装備として遠近両用メガネをつくってもらい、かけっぱなしにしてもらいたいのだ。映像センサーとしての目の性能を実用レベルに維持してほしい。
 いまの遠近両用メガネは非球面レンズだから、いわば夢のメガネだ。透明なのに有害紫外線をほとんど百%カットする。まぶしいときに取り出して使うサングラスより、白内障予防という意味ではよほどいい。およそ二万円のメガネならレンズの性能に問題はない。
 遠近両用メガネでは下りの足元が危ないという人がいる。家の階段なら最初とまどう人もいるだろうが、山道でのことならよほど不器用な人といえる。


■軽登山(14)高度計でペース配分……2008.9.4

高度計内蔵の腕時計は二万円前後からいろいろある


 自分がいまどこにいるかを的確に教えてくれるのはポケットサイズのGPSだ。GPS機能付きの携帯電話も使えそうだが、通話圏外だと働かないので、山ではあまりあてにできない。
 また日本の山は地形的に若いので急峻な斜面が多く、登山道からはずれないことが基本。一本道の登山道では標高が分かればどこにいるかが明らかになる。いまや一般的になりつつある高度計つき腕時計がGPSと同等の働きをする。
 その高度計つき腕時計だが、フィンランドのスント社のものでは毎分の上昇/下降速度をメートル表示してくれる。私は最近、ある企業の依頼で、鉱山遺跡の案内に関する安全対策などを考えたのだが、案内役の人にはまず「毎分五メートル」を目安に歩いてみることをすすめた。
 その「毎分五メートル」は毎時三〇〇メートルの上昇/下降となる。基準を設定することで、道の「歩きやすさ」を判定することができる。速めに歩ける道もあれば、速度を落とすべき道もある。
 日本の登山道は急斜面ではジグザグを切りながら二〇度前後の勾配でのびていくので、標準的な登山道を毎時三〇〇メートルの上昇速度で歩くと、水平距離では時速一キロ前後となる。
 登山道では「時速一キロ」という標準速度があると考えてもいいのだが、標準速度を自分の呼吸の強弱で感覚的に決める考え方もある。厳密にいえば運動強度、心拍数によるものだ。スント社の高度計つき時計には高精度の心拍表示/記録装置が内蔵されたものもあるので、運動強度の側からスピードを管理することもできる。


■軽登山(15)「月イチ」カレンダーに印……2008.9.11

精進ホテルでランチを楽しみ、裏山のパノラマ台に登った


 山歩きを始めた人には「月イチ登山」をすすめている。トレーニングをする必要はない。無理しない範囲で登れる山をのんびりと歩けばいい……と言うのだが、言葉通りに受け取ってくれる人は少ない。
 私がトレーニングより大事だと思っていることがある。カレンダーのその日に大きな印をつけてもらいたいのだ。それは「絶対に行く」という目印だが、人によっては「行かしてもらう」という宣言でもある。試験や試合や遠足など、大事な予定と同じ重みの日にしてほしいのだ。
 自分の体調ももちろんだが、家族の状態にも目を配りながら、その日に楽しく山を歩く。そのこと自体に、なにか大きな行動的価値が潜んでいるらしい。トレーニングをするよりもなによりも、その人の気持ちとからだをシャキッとさせるようなのだ。
 山で使う筋肉は平地ではなかなか鍛えられない。むしろ持っている貧弱な筋力をうまく使うことを知ってほしい。力を抜いて歩いてほしいのだ。頭で決めずに体に聞きながら歩くことができた瞬間に、その人の登山の能力は驚くほどアップする。北アルプスの山に登れるようになるまで、二年もあればいいはずだ。
 トレーニングをする場合、頭が体に対する支配権を強化することが多い。登山を力でねじ伏せようと頭は考えるようなのだ。自分の肉体がもっている潜在力をあまり信じない頭が多い。
 軽い登山をその月のもっとも大事な日として迎え、自分の力をフルに使って山に登る。その最初の小さな行動をコーチングするのが私のもっとも重要な仕事となっている。


■軽登山(16)「遭難」を防ぐ時間管理……2008.9.18

稜線に出たのは日没三十分後。そろそろ灯火が必要になる時刻だった


 危険なところへ行くから事故が起こる……という言い方をすれば、ズバリ、ストライクという感じがするけれど実感はちょっと違う。私はみなさんを山にお連れする役目だから、危険なところを安全に通過してもらうことは技術的に可能だと考える。しかしいつも事故の危険は感じている。危険と思わない場所で、起きる危険におびえている。
 お盆休みに涼しい山歩きをしようと、丹沢の一番やさしい沢に出かけた。おばあちゃんに連れられて小さなお子さんがふたり来た。
 涼しい沢の部分はいい感じで終わったけれど、そこから稜線に出る草つきと呼ばれる急斜面で難儀した。力で押し切る最後のところで、時間がどんどん経っていった。
 稜線に出たときには午後七時。足元の街に灯りがついていた。稜線を登れば塔ノ岳の尊仏山荘まで三十分。下れば車を置いた戸沢まで一時間半。そのとき携帯電話が通じたことで、私たちを「遭難」候補からただの「遅れ」組に引き戻してくれた。
 それからの行動は安全第一だった。スピードを落として転倒の危険を避けた。ライトを総動員して足元の安全を確保した。小さい子どもに頑張ってもらうしかなかった。結局五時間かかって駐車場に着いた。私はみなさんを朝までに送り届けた。
 暗くなる、バス便がなくなる、午前様になる、終電がなくなる、……としても始発電車で帰れれば「遭難」ではないと思う。あせって事故を起こさないように最善を尽くしたい。「明るくなるまで動かない」という選択肢だって、残っている。


■軽登山(17)「想定外」冷静に確認を……2008.9.25

メンバーに「想定外」の人がいるかどうか観察する


 ある山で「勇気をもって引き返しましょう」という看板を見た。ガイドブックによって難易度表記のバラつく山だったから、人騒がせな遭難騒ぎがあったのだろう。
 だが「引き返す勇気となはなんだ!」と少々腹が立った。勇気がある人は引き返して、ない人は引き返せないとしたら、ずいぶん危険な考え方ではないか。
 本来なら……と私が考えるのは、単独行なら自分自身で、グループならリーダーが「予想外」の出来事をきちんと数え上げながら前進する方法だ。
 岩場が出てきた、道が荒れている、意外に時間がかかる、雨が降りそうな気配が気になる、持ってきた水がちょっと足りなそうだ、体調がよくない、気分が乗らない、バテ気味の人がいる……など、大小・難易、なんでもいい。
 一時有名になった言葉だが「想定外」のことがらが積み重なって、これ以上増えたらいやだなあという感覚的な一線を越えたら、その時は「自動的に引き返す」べきなのだ。
 そこで引き返してよかったか、悪かったか、恥ずかしいか、恥ずかしくないかは、下山してから真剣に反省すればいい。その反省では、当然自分(たち)の固有の体質(文化)が浮かび上がってくる。
 そして「想定内」が実力で「想定外」が実力以上と認識できれば、自分たちの技術力をかなり冷静に確認できるはずだ。その「想定外」を技術的につぶしていけば、確実に進歩する。機械工学でいう「フェールセーフ」を「想定外」の技術的克服というかたちで合理的に実現できると私は考えている。


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