毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・1・大雪山国立公園」
1993.2――入稿原稿


■国立公園物語…大雪山

●はじめに

 旭川空港でレンタカーを借りて大雪山山麓をひとまわりしただけで、走行距離は500キロを超えました。大雪山の大きさはただならぬものでした。
 1日目は層雲峡博物館(上川町・層雲峡温泉、1960年開館)をじっくりと見ましたが、いささか古ぼけた感じの展示のなかで、動物標本がきわめて上質であることに気づきました。北大の動物学教室の協力を得たというそれらの標本のリアリティは、剥製に対してあまり好感を持たない者にも「博物館展示」としての価値を認識させるに十分です。
 2日目には十勝側のひがし大雪博物館(上士幌町・糠平温泉、1970年開館)を見ましたが、こちらは建物も新しく、展示パネルの解説に新しい調査データが生かされて「読みごたえ」がありました。
 それから南の狩勝峠までぐるりとまわって、出発点に一番近い旭岳ビジターセンター(東川町・旭岳温泉、1983年開館)も訪ねてみました。
 帰ってから資料を読んでみると、狭義の大雪山はロープウェイで登れる黒岳(層雲峡側)と旭岳をほぼ東西の端とする火山群をいい、広義には南のトムラウシ山や十勝岳を含めるということがわかってきました。
 しかしそこまではおおよそ日本海にそそぐ石狩川の流域で、面積的には全体のほぼ半分。太平洋に向かう十勝川、音更川の源流域たる「東大雪」を合わせて大雪国立公園は完結するのです。
 ここでは3冊の本を重点的に読むことで、大雪山が国立公園に指定されるまでの“物語”をさぐってみることにしました。
 1冊は層雲峡博物館館長の保田信紀さんからお借りした『大雪山のあゆみ』で、昭和40年(1965)に層雲峡観光協会が国立公園30周年を記念してまとめたもの。120ページあまりの薄い本ですが、大雪山の探検・調査・開発にかかわる歴史的重要文献の要領のいいダイジェストになっています。
 もう1冊は比較的新しい本で、北海道新聞社が国立公園指定50周年を記念してまとめた『大雪山物語』(1985)。新聞に連載したらしい人物ルポには秀逸なものがたくさんあります。記者のひとりは大雪山にも関係の深い北大ヒグマ研究グループの出身者とか。
 補助的に利用させてもらったのは岩見沢在住の書誌研究家・清水敏一さんが昭和62年(1987)から平成元年(1989)にかけて自費出版した全3巻の『大雪山文献書誌』。清水さんは歴史的事実への関心はあまりお持ちではないようですが、書籍を通しての人間関係の構築には目配りがきいているので、大雪山開発時代のローカルな人物ネットワークが浮かびあがってきました。
 たまたま3冊とも地元の出版物になりましたが、それらによって大雪山の“開拓時代”にタイムトリップすることができました。そしてその光景の多くは、広大な辺境地帯として残されている東大雪地域では、まだ現実のものとして体験できるものと思われます。あるいは観光シーズンをはずすことによっても、可能になるかもしれません。

●石狩川の源流を保護せよ

全国28か所の国立公園のなかで「広さナンバーワン」。それが大雪山国立公園です。国立公園の総面積約200万ヘクタールの10分の1以上をしめる23万ヘクタールの山岳と原生林が、この国立公園の貴重な「財産」となっています。それは人間の性急な「開発」の手からまもるための自然公園ということができます。
 そのことは国立公園の面積の中で国有地が占める割合を見てみるとはっきりします。大雪山国立公園は国有地が96.9%を占めて、断然1位なのです。私有地はゼロで、公有地がわずか3%。
 ちなみに、日本の国立公園の中には伊勢志摩や山陰海岸のように、国有地が1%に満たないところもあります。とくに伊勢志摩国立公園では私有地が96.1%と、大雪山とは対照的です。
 その大雪山を国有地化してほしいと最初に提案したのは、山麓の愛別村村長・太田竜太郎という人でした。明治44年(1911)に逓信大臣兼鉄道院総裁の後藤新平に宛てて「石狩川上流霊域保護国立公園経営の件」という意見書を提出しています。
 明治時代の文章ですから現代ふうにひろい読みしてみます。
 ――いまや北海道開発の事業は進歩・発展をとげて目をみはるばかりだが、将来のことに目を向けると、全道の開発が完了したあかつきに人びとの心のやすらぎや秩序ある社会を実現するためには、人間の開発の手からまもられた深い自然を残しておかなくてはいけない。いま、開発事業に邁進している北海道の人びとは物欲にとらわれて「我利私欲に汲々として止まる処を知らず」人間としての恥ずかしさも感じなくなってきている。そのようなときに百年の大計を考えることなどできるだろうか。
 さいわいに石狩川上流の「霊域」は北海道のほぼ中央にあたり、陸軍第七師団のある旭川に近く、道路を開けば比較的簡単に北見、天塩、十勝方面に通ずるようになり、あるいは鉄道を敷設することも可能である。そのような交通の要衝にありながらまだ内地から進出した入植者の所有となっていないのであるから、「約十里四方の間を保存禁伐採林として断然個人の有に帰せしめず、徐々国家の事業として経営あらん事」を切に望むものである。もし万一この地が民有となって荒廃すれば、たとえ「幾億万円」用意しても買い戻すことはできない。――
 当時の北海道は開拓地でしたから、日本全国から人びとが集まってきていました。太田竜太郎も日本各地を歩きまわった末に北の山国にようやく腰を落ち着けたひとりで、当時の有力政治家・後藤新平とは幼なじみでした。後藤を通じて、自分の村に含まれる石狩川源流地帯を特別の保護地区としたいと考えたのです。
 じつはこの年、明治44年(1911)には帝国議会に「国設公園設置に関する建議案」が提出されて、富士山一帯をいまの国立公園にしようということが決議されたそうです。日光の人びとから「日光を帝国公園とするの請願」が提出されたともいいます。中央政界とつながっていた太田はそのような機運をとらえて「国立公園」の設置を提案したのです。
 そのとき太田は、1872年に世界最初の国立公園となったイエローストン・ナショナルパークのことを聞いていたかもしれません。常識的に考えれば国立公園は土地の所有も公園の運営も国がおこなうというものですから、太田竜太郎の頭のなかに描かれていた「国立公園」は、イエローストン型のものであったはずです。イエローストン・ナショナルパークは米国で最も広く、大雪山国立公園の4倍もありますが、あちらは国土が25倍もあることを考えれば、大雪山の規模もりっぱです。地元の人びとはいまも、太田竜太郎の理想が大雪山国立公園に生きていると考えているようです。

●層雲峡温泉の開発

 残念なことに太田竜太郎の主張はすぐに受け入れられることにはなりませんでした。大雪山が国立公園に指定されるのは、それから20年以上後の昭和9年(1934)になります。
 その間、ここでは“民間開発派”による石狩川源流・層雲峡温泉の開発を見ておきましよう。登場するのは塩谷忠という人物です。『大雪山物語』のなかで次のように解説されています。
 ――塩谷忠…明治27―昭和33年(1894―1958)。福島県の生まれで、層雲峡温泉の開祖・塩谷水次郎の養子となる。北海タイムス(現北海道新聞)旭川支局の記者を長く務め、大雪山調査会長荒井初一の良きブレーンとして、大雪山、層雲峡の紹介に大きな功績があった。――
 開発経過について、北海道史編纂者として知られる河野常吉が『大雪山及石狩川上流探検開発史』の中で触れています。その本は荒井初一が創設した大雪山調査会発行の1冊で、発行者は塩谷忠ですから開発当事者が確認した内容と理解していいでしょう。『大雪山のあゆみ』に引用掲載されたものから、おおよそ原文のまま紹介しておきます。
 ――いま諸温泉のうち、もっとも奥にあって大雪山の登山に関係深い塩谷温泉についてすこし記してみよう。
 大正元年、旭川区の塩谷忠氏は同温泉の有望なるを聞き、名勝地としても、学術的価値からしてもぜひこれを開発せんとのこころざしを起こした。そこで塩谷氏の養父・水次郎氏は同年、北見国常呂郡のオンネ温泉の経営者・国沢歴蔵氏とともに石狩川をさかのぼったが、地獄谷の先にある左岸の温泉に行くことができない。それで右岸の温泉水を2升ほどくみとって背負って帰り、その温泉は国沢氏が開発を出願した。
 塩谷氏はふたたび石狩川の左岸を伝ってかろうじて目的の温泉に達し、水次郎氏の子・小椋長蔵氏の名をもって出願して大正2年に免許を受け、同4年に堤防敷地180坪の貸付を受け、水次郎、忠、長蔵の3氏共同で経営したが、交通はきわめて不便で、とくに地獄谷にはロープを渡したり、はしご橋をかけたりしてかろうじて渡った。あるいは温泉前の蓬莱岩に架橋すること数十回におよんで、多額の経費を投じた。米1俵の運賃が平均8―9円もかかるのに、おとずれる客といえばまれにくる探検者といった状態でほとんど収入がなかった。――
 層雲峡観光協会がまとめた『大雪山のあゆみ』の年表では、さらに次のように展開します。
◎大正4年(1915)…旭川の第七師団司令部軍医部勤務の一等軍医・植村秀一が層雲峡の温泉地帯に転地療養所建設の計画をもったが、塩谷忠が強力にそれを推進し、のちに荒井初一が助力する。
◎大正11年(1922)…8月の豪雨によって石狩川が氾濫、層雲峡の塩谷温泉、国沢温泉は建物・家財のすべてを流失した。
◎大正12年(1923)…荒井初一が塩谷温泉の権利をゆずり受ける。笠原定蔵がこれに参画、塩谷忠も協力することになった。
◎大正13年(1924)…荒井初一経営による層雲閣が新築なる。木造平屋50坪。旭川の有力者十数人を駄馬14頭つらねて招待。
 荒井初一という人物についても『大雪山物語』で見ておくことにします。
 ――荒井初一…明治6―昭和3年(1873―1928)。大正から昭和にかけ、大雪山の紹介に努め、層雲峡温泉の開発に尽くした功労者。富山県生まれ。20歳で渡道し、旭川で土木、酒造業を経営。大正13年(1924)、大雪山調査会を発足させてスポンサー兼会長となり、一流の学者陣を集めて、大雪山の科学的調査、紹介を行う。また上川町・層雲峡間の道路建設に私財を投じ、同温泉最初の本格的旅館「層雲閣」を経営する。旭川町議、同区議、同商工会議所会頭も歴任。――
いまだ通う人のほとんどない層雲峡に塩谷温泉や国沢温泉が開かれ、さらに陸軍の転地療養所が加わるなど開発が進んできました。層雲峡が北海道有数の温泉として立ち上がってくるのです。
 ここでもう一度、愛別村村長・太田竜太郎にもどってみます。『大雪山物語』には、次のように紹介されています。
 ――太田龍太郎…文久3―昭和10年(1863―1935)。石狩川上流を「国立公園」にと初めて提唱した愛別村長。明治43年(1910)村長に着任。その年に石狩川上流を探検して今の層雲峡を「霊山碧水」と命名。北見峠を白滝へ、三国峠を十勝へ踏査して、北海道の内陸交通網整備の先がけともなった。明治44年(1911)に太田が書いた建白書には「国立公園」の語が使われ、貴重な自然を国が直接保護する発想の全国的な先駆者となった。――
 太田はつぎのように訴えたのです。
 ――いま、この地方では土地払下げの運動も猛烈となって、いわゆる政商・富豪のたぐいが競いあって土地を入手すべく狂奔している。ゆえに国家百年の大計によって、石狩川上流約十里四方の地域を厳重に保護・取締って、いかなる個人・団体にも土地の払下げは「絶対断然禁止せらるるべく」嘆願する。――
 『大雪山物語』の大雪山国立公園関連年表では、大正4年にも太田村長の名前が登場します。
◎大正4年(1915)…層雲峡公有林が、保安林編入。層雲峡一帯の民間払い下げ圧力が強まる中、太田竜太郎らの運動により、水源涵養・土砂防止の保安林に編入され、ようやく保全された。
 つまり塩谷忠や荒井初一は民間開発派の急先鋒、太田竜太郎は国有管理派であったといえます。

●大町桂月の大雪山登山

 なんとかして温泉開発を成功させたかった塩谷忠は絶好のチャンスをつかみます。大正10年(1921)の大町桂月の大雪山登山です。有名作家の来訪を塩谷はてぐすね引いて待ちかまえていたようです。ちなみに大町桂月は『大雪山物語』では次のように紹介されています。
 ――大町桂月…明治2―大正14年(1869―1925)。詩人、随筆家、評論家。高知市生まれ。旅好きで紀行文を得意とし、大正年間は当代一の文筆家として盛名をほしいままにした。大正10年(1921)夏に来道し主だった名勝を探勝する。大雪山を訪れた際には、当時の塩谷温泉(層雲峡)から黒岳―白雲岳―旭岳―松山温泉(天人峡)を縦走。日程を延長するほど満喫したが、これが遭難騒ぎとなって全国に“桂月と大雪山”がいちはやく有名になった。「富士山に登って山岳の高さを語れ。大雪山に登って山岳の大きさを語れ」と後に記す。――
 大町桂月は和服にわらじばきで杖をもちリュックを背負うというスタイルで登山にとりかかりました。大正12年8月号の「中央公論」に発表した登山記を読んでみると、桂月の登山へのいきごみと、大雪山ではいまも味わうことのできる探検的登山の雰囲気が漂ってきます。
 ――層雲峡は石狩川の有する一大偉感なるが、其の鬼神の楼閣と思はるる巌峰は、大雪山の腰なれば、大雪山の有する一大偉観なりと云ひても可也。
 鬼神の楼閣を下より眺めたるのみにては、普通遊覧の域也。山水に徹底せむには、その楼閣の上に登りて、大雪山の頂を窮めざるべからず。然るに塩谷温泉の人々とても、ここより登りたることなし。
 さすがの(成田)嘉助氏もここよりは登らず。よしよし、楼閣の割れ目の沢を登らば、登られぬことなしと見当を付け、昨日の一行に榊原与七郎といふ測量家と人夫とが加はりて将に発せむとせしに、水姓吉蔵氏瓢然として来る。留辺志部小学校の校長なるが、幾度も登攀して大雪山を我庭園の如くに思へり。余が大雪山の登攀を企つと聞き、嘉助氏という豪の者を伴へりとは思ひもかけず、或は目的を達すること能はざるべきかと危ぶみ、自ら進んで嚮導とならむとする也。余好意を謝して其容貌を見るに、魁偉にして筋骨逞しく、磊落にして豪傑なる快男子也。いよいよ心強く覚ゆ。氏とても塩谷温泉より登りたることなきがどの沢でも登らば登らるべしとて、余等と同じ考え也。――
 一行はハイマツの斜面で一夜を明かし、翌日、黒岳に立ちます。桂月先生の名文はいよいよ佳境に入ります。
 ――ここに黒岳の一峰の上に立てり。さても大雪山の頂上の広きこと哉。南の凌雲岳、東の赤岳、北の黒岳の主峰など、ほんの少しばかり突起するだけにて、見渡す限り波状を為せる平原也。その平原は一面の砂石にして、処々に御花畑あるのみにて、目を遮るものなきのみならず、足を遮るものなし。
 少し下り、凌雲岳を右にして行くに、御花畑連続す。御山竜胆は紫也。雲間草は白也。蝦夷小桜草は紅也。兎菊は黄也。梅鉢草、岩桔梗、四葉塩釜など一面に生ひて、足を入るるに忍びざる心地す。石原の処には駒草孤生す。清麗にして可憐なる哉。これが高山植物の女王なるべしと云へば、水姓氏うなづき、嘉助氏もうなづく。
 広義の高山植物は樹木をも含めるが、狭義の高山植物は草花也。その草花の長さ1、2寸、大なるも4、5寸を出でず。その割に花は大にして、その色の鮮麗なること、到底下界の花に見るべくもあらず。余は大雪山に登りて、先ず頂上の偉大なるに驚き、次に高山植物の豊富なるに驚きぬ。大雪山は実に天上の神苑也。――
 大町桂月によって、大雪山登山は層雲峡と天人峡とを結ぶ縦走登山をもって最善という結論に達したのです。しかもこのとき桂月が書いた「層雲峡」の名前は、初めて世に出たものでした。塩谷温泉で、一同アアでもないコウでもないと額を寄せ、けっきょく地名のソーウンベツにちなむものになりました。全国の名勝に華麗な名前を残している桂月にしては芸がなかったといえますが、その宣伝力は強力でした。

●中学生たちの探検登山

 作家・大町桂月の登山は本格的な探検登山となりましたが、『大雪山のあゆみ』と『大雪山物語』の年表を合わせて読んでいくと、大雪山登山の幕を開けたのは地元旭川の中学生たちだったということがわかります。
 明治36年(1903)に私立・文武館中学の教師・生徒20人あまりが旭岳に登山しています。つづいて明治40年(1907)には上川中学校(後に旭川中学、現在の旭川東高校)が生徒45人と教師5人の大編成で旭岳に集団登山、翌々年の明治42年(1909)には「第2回探検隊」が組織されました。参加した中学生のひとり大橋毅(第5学年)の体験記が上川中学の「学友会雑誌」第3号(明治42年11月)にあることが発見され、『大雪山文献書誌』第2巻のまえがきで紹介されています。
 行程は第1回とほとんど同じで、教師3人に引率された生徒45人は7月29日午前6時半に出発。東川村20号の開拓村で第1夜を迎え、第2夜を忠別川源流のピウケナイで野営しました。むずかしい漢字が多いので、ひらがなに直しながら読んでみます。
 ――まず一同露営地に着くや、三々五々組をなして、露営の準備にとりかかり、ほどよき棒を立て、三方を草にて囲み、携帯の油紙を張りて天井となし、終れば木を切り、草を刈って、飯を炊く。手馴れぬこととて、技つたなく、半煮え飯! 塩辛い! の声は絶えず四方に起こる。飢え来って食はば何物か珍ならざらむ。半煮え飯に腹鼓打って待ちかねたる夕餉もすましぬ。――
 翌日。必要なものだけを持って、頂上めざして出発したのは午前5時のことでした。
 ――道、極まりて、渓流に出で、之をさかのぼること十数町にして、ますます勾配急に、流れいよいよ早し。両岸のフキ、アザミは身を没するまで高く密生して、自然の日おおいをなし、また、ところどころに温泉沸々として湧き出、流れ暖くして心地よし。流れを去って、更に進めば、一帯の地、錦の毛氈を敷きなせるがごとき裾野に出づ。まだら消えに残れる雪にかわきをいやしつつ、進めば路傍の岩桔梗、サクラサウ、ガンコウラン等は、今を盛りと咲き乱れ、短き茎に、小さき花をつけたる、ああ可憐の花よ。優しの花よと。思はず感ぜしむ。霊峰やいかにと仰げば高く、巨大の体躯に柿色の衣をまとうて厳然として座し、白煙もうもう、あたかも大気ノボリを吐くに似て、その勇絶豪絶荘厳雄麗なる、たとえるに物なく、歓極まり、喜至って、精神恍惚、そぞろ羽翼を得て、天にも上る心地せり。――
 美文はいよいよボルテージを上げていきますが、ここでは旭岳山頂のシーンにジャンプ。
 ――四顧すれば碧峰雲山描くがごとく、はるか煙霧重畳の間に海辺とおぼしきところ隠見す。石狩岳、硫黄岳、十勝岳等は、手にとるがごとく、呼はば応へむとするようなり。見下ろせば、幾多の火口原湖、清水を湛へて、処々に散在し、姿見の湖、最も大にして、湖畔に蔟生せるハイマツの緑深きあたり、山光さかさまに水に眠る清絶、世に得られぬ眺なり。ここにとどまる2時間にして、記念撮影し、午後1時下山せむとす。鳴呼北海道の群峰、河沼を眼下に集め見うるは、ただこの山頂のみ。真に全道の活地図を見しむるものはこの頂あるのみなり。――
 大正10年(1921)に大町桂月が登山したときにも、大雪山登山といえばほとんどが旭岳の登山で、しかも年間合わせて100人程度とのことでした。旭岳のこの登山道を開いたのは上川中学の生徒たちであったといってもおおげさではないでしょう。

●探検学者のデビュー

 そして上川中学の集団登山が、大雪山研究の中心人物を生み出しました。小泉秀雄という植物学者です。例によって『大雪山物語』で調べてみます。
 ――小泉秀雄…明治18―昭和20年(1885―1945)。大雪山全体の植物、地質を初めて科学的に踏査した植物学者。山形県生まれ、明治44年(1911)上川中学の教師となり大正9年(1920)まで在旭。大雪山調査会の中心メンバーとして、大雪山系の植物分布、火山生成分類を明らかにし、北部大雪の山名も命名。整理した。著書に「北海道中央高地の地理学的研究」「大雪山―登山及登山案内」がある。のち松本女子師範、共立女子薬学専門学校教授を歴任。――
 小泉秀雄の大雪山研究は大正15年(昭和元年、1926)に大雪山調査会から発行された『大雪山―登山及登山案内』に総括されるといっていいと思われます。ハンディなガイドブックサイズながら500ページを超える大冊で、著者のワンマンショー的魅力は、植物分布を中心とする広範な山岳博物学によって大雪山に深く切り込んでいくところにあります。
 小泉はそこにいたるいきさつを概略次のように書いています。
 ――旭川(上川)中学で初めて本山(旭岳)に登ったのは明治40年で、磯部、室伏、安藤、渡部、山田の5氏が生徒45人を引率して登ったのは第1回で、団体登山として嚆矢である。翌41年(42年の誤り)には、鈴木、山田の2氏が第2回引率登山し、44年には余と大野氏とが引率登山して旭岳頂上を極めた。――
 かくして小泉秀雄の大雪山登山調査は開始されます。
 ――本山の植物を採集せし最初の人は安藤秋三郎氏(当時旭川中学教諭)で明治40年7月旭川中学登山の時である。その後余は旭川中学に赴任し、明治44年以降しばしば本山を地理学的ならびに生物学的に研究し、大正7年春旭川中学校友会雑誌に「我が旭中の大雪山」と題してその要領を発表したが、不完全ながら学術的発表の嚆矢である。次いで同年6―8月の「理学界」に「大雪山火山彙概説」と題して連載し、やや詳細に本山の地形、地質、植物、動物等について論じ、かつ登山案内を付した。いまより見ればかなり訂正を要するが、ずいぶん難儀して調査し、書きまとめた。
 これより先、余は大正6年9月、日本山岳会の「山岳」に『大雪山紀行』と題し、松山温泉より旭岳に登る登山案内記を書いた。大正7年には従来余の研究したる北海道の地形、地質、地体構造より、諸高山の地理学的ならびに植物学的研究をまとめ、『北海道中央高地の地理学的研究並に植物分布の研究』と題し、同誌第13年第2・3号(合本)特別号として発表した。――
 小泉秀雄が日本山岳会の機関誌「山岳」に発表した「北海道中央高地の地理学的研究……」は、日本の登山界においても大きな意味を持つものでした。
 それにしても、小泉のこの鮮烈なデビューには背後に大きな力が働いているように思われてなりません。数年におよぶ研究の成果の発表が、大正7年(1918)の1年間に集中しているのです。この年はほかに、北海道開道50年記念博覧会に「大雪山火山彙大模型」を出品して銀牌を授与され、研究奨励金を下賜されています。
 北海道ではまだ無名の33歳のこの青年教師は、東京では期待される才能であったかもしれません。大正5年に生徒たちを引き連れて植物採集のための大雪山登山をおこなったとき、同行したのが兄の小泉源一でした。
 書誌研究家・清水敏一によれば、小泉源一は札幌農学校林学実科を経て東京帝大生物学部を卒業。英国、スウェーデン、米国に留学後、京都帝大理学部教授となった人物だそうです。少なくとも理解者が身近にいた……。先鋭的フィールドワーカーとして期待されながら、小泉秀雄はがんばったのかもしれません。
 その小泉秀雄のレポートによって、大正9年(1920)には日本登山界の先鋒・大島亮吉がやってきました。「石狩岳より石狩川に沿うて」と題する山岳紀行記が発表されます。翌10年(1921)の有名作家・大町桂月の大雪山縦走登山も、小泉の研究があったがゆえのことでした。

●北海道山岳会と大雪山調査会

時代は大きく変わりつつありました。大雪山に魅せられた人びとが集まり、大雪山がたくさんの人を育てていきます。しだいに強固なネットワークが張りめぐらされていったのです。
◎大正11年(1922)…北大山岳部(スキー部)の板倉勝宣、加納一郎、板橋敬の3人、黒岳への冬季スキー登攀をする。黒岳付近に幕営したが、暴風にあい、2昼夜飢えと寒さにさらされる。
 このとき遭難しかかった加納一郎は後に探検ジャーナリストとして多くの仕事をすることになりますが、北大農学部林学科を卒業して北海道庁に入った大正12年(1923)に、ちょうど北海道山岳会が創設されたのです。学生時代からの登山とスキーの技術を見込まれて専任スタッフとなり、常任幹事を命じられるまでになります。
 時の内務大臣・後藤新平の「子分」といわれた北海道長官・宮尾瞬治の鶴の一声で生まれたこの官製山岳会は、北海道全域で登山会やスキー大会を開催しながら、登山道や山小屋の建設、スキー場の整備などを推進していきました。山岳会は各地に支部をもうけながら、最初の年だけでも樽前山、十勝岳、蝦夷富士、大雪山、阿寒岳で登山会を開催していきます。
『大雪山のあゆみ』の年表に出てくる登山道開発の陰にも加納一郎の顔が見え隠れしています。
◎大正12年(1923)…北海道山岳会創立記念第1回大雪山(旭岳)登山会(上川支部主催)開催。定員超過47名の参加で成功。
◎大正12年(1923)…北海道山岳会の奔走により黒岳石室建つ。大雪山登山の重要な基地となる。
◎大正12年(1923)…北海道山岳会、道庁、帝室林野局に働きかけ黒岳口より北鎮岳・旭岳経由の登山道を開く。黒岳石室とともに大雪山登山史上画期的な事業となる。
◎大正13年(1924)…大雪山調査会が設立され、大雪山の総合学術研究機関となる。大雪山の地形、地質、気象、歴史等を専門家に委嘱して研究する。また寒気植物保護区域を設定、同植物園設置等の請願運動を行い、さらに各種研究講習会を企画する。
◎大正14年(1925)…大雪山調査会と北海道山岳会の主催で「大雪山夏季大学」開催される。
 北海道山岳会の画期的な活動となったのが夏季大学で、いま人気の野外文化講座ハシリというべきものです。層雲峡で開催された第3回夏季大学には東京、長野、新潟方面など遠来の参加者も含めて総勢70人あまりが新築の層雲閣に集まりました。主催は北海道山岳会ですが、設立間もない大雪山調査会も共催の重責をになったのです。
 そして大きな発見がありました。
◎大正14年(1925)…北大の犬飼哲夫がナキウサギを確認。
◎大正14年(1925)…犬飼哲夫、小泉秀雄、塩谷忠らが黒岳石室裏手の万年雪のそば、白雲岳・小泉岳間で先史民族の遺物石器を発見する。標高2,200メートル地帯での石器発見は全国的にも特異のものとして注目をあびる。
 河野常吉(考古学)、小泉秀夫(植物学)、根本広記(気象学)、犬飼哲夫(動物学)といった講師陣は、大雪山調査会のメンバーでもありました。夏季大学の参加者のうち5人が黒岳からの縦走登山に挑戦、30人が黒岳石室(定員30人)に泊まって御来光を仰ぎ、残る30人が日帰りの黒岳登山をおこなったといわれます。
 この黒岳石室のすぐ裏手で2個の黒曜石のヤジリを発見したのは塩谷忠で、大正13年のことであったと『大雪山物語』には書かれています。しかしそれを詳しく調査したのは河野常吉や小泉秀雄で「100メートル四方の一帯から数百個の石ヤリや細片を採集し、わが国最高地点の遺跡であることを確かめ」ました。夏季大学の開催が、この「白雲遺跡」の調査も成功させたのです。
 大騒ぎしてようやく登れるようになった大雪山に、はるか昔、石器を使う人びとが登っており、夏の季節だけであったとしてもそこで“生活”がおこなわれていたらしいのです。
 なぜそこに人が住んだのか? 『大雪山物語』では次のように解説しています。
 ――最初に報告をまとめた河野は、古代人がここに来た理由に(1)狩猟、(2)交易・移住の中継地、(3)伝染病や敗戦による追放からの避難地、(4)宗教儀式の場、(5)薬草採取を挙げ、狩猟と交易が有力としている。斉藤さん(旭川市教育委員会の発掘担当学芸員)は石器の形から見て、狩猟説をとる。大雪山の生き字引、中条良作・上川山岳会長も「山越えをするなら上川―十勝はトムラウシ、上川―北見は石狩川源流のルートの方がよさそう。夏に高山へ上がるヒグマを狩ったり、薬草を集めたのではないか」と言う。
 また、同じヒグマ狩りでも肉や毛皮そのものが目的ではなく、若者が成人するための宗教的、社会的な意味あいという見方もある。獲物の運搬や安全を考えると、もっと集落に近い所でシカなどをとる方がたやすく、高山帯へ遠征してきたのは、若者グループが大人への“あかし”を得るため、体力と度胸を頼りにヒグマに挑んだ、という想像だ。――

●ナキウサギとヒグマ

 もうひとつの大発見がありました。北大山岳部の出身で動物学者の犬飼哲夫がナキウサギの存在をはじめて確認したのです。『大雪山のあゆみ』にはその犬飼が「大雪山の動物」という一章を寄せています。
 ――大雪山の最も特長のある動物はナキウサギで、ナキウサギを広く紹介したのは大雪山であった。この動物が大雪山で発見されたのは大正14年(1925)で、それまでこれがわが国に生息することが判らなかったことは、大雪山が、近年まで未知の世界として世に知られなかったことを物語るものである。顕微鏡的な小さい動物なら現在でも知られないものはあり得るが、ネズミ大の動物でしかも相当に多数に生息するのであるから、何処にいても判らない筈がない。
 その後の調査によりナキウサギは、大雪山ばかりではなく、中央山系の草木帯には一様に分布し、山麓の然別湖付近、糠平、留辺士部等にも若干は住み、また夕張岳連峰および日高山脈にもいることが判った。樺太でも発見された。――
 大雪山の登山期に比較的多く姿をあらわすヒグマについても犬飼哲夫は適切な解説をしてくれています。
 ――ヒグマは元来は暗い密林を棲家とする動物であるが、夏には好んで山頂の草木帯に現れる。冬籠りの穴から出たクマは、秋までは比較的に悠々と暮らしているものであるが、人跡稀な大雪山の上にはしばしば現れて、草木帯でミヤマニンジンやハクサンボウフウの根を掘り出して食べている。これらの植物のある場所は、クマのために畑を耕した如くに掘りおこされ、あちらこちらに大きな糞塊が残されている。やや下方のエゾカンゾウやフキの多くある谷間の斜面などには毎夕出て来て食べている。
 最近は大雪山の夏の登山者が山上でしばしばクマに遭遇し、リュックの中の食料を取られたものもあり、トムラウシ山の山小屋が残飯を食いに来たクマに脅かされたこともある。夏にクマが昼間姿を現すことは極めて稀であるが、大雪山ではハイマツ帯や草木帯では昼間に子連れのクマを見ることがあり、クマはあまり警戒せずに来ていることがうかがわれる。――
 里山のヒグマと大雪山のハイマツ帯で登山者と出くわすヒグマとでは、状態がかなりちがうと犬飼先生は書いているのです。
 ――山の上でガンコウラン、コケモモ、クロマメノキなどの実が熟すとクマはこれを食い、9月になるとハイマツの実が熟しはじめ、灌木帯にナナカマドの実が赤くなるが、クマはこれを食べながら、だんだん下の方に移動して来る。大雪山の初雪は大方9月中旬にあるが、その頃は森林帯ではヤマブドウやコクワの実が熟し、ナラの実も固くなり、クマはもはや山頂に行くことは稀になり、同時にその頃から食欲が旺盛になって冬籠りの準備に入り、山麓の農村にも出没して、農作物や家畜を襲うようになる。
 秋に食物の後を追って麓の方に移動して来たクマは、割合に里近くの山麓で冬籠りをし、春の融雪後に穴を出て、再び上の山の方に移動し、毎年これを繰り返しているものと思われる。夏に山頂にいるクマは比較的に危険はないが、秋に山を下ったクマは、貪食期に入っているから警戒を要する。――

●国立公園に全力投球

大雪山が国立公園に指定されたのは、昭和9年(1934)。12月4日に、大雪山以下、阿寒、日光、中部山岳、阿蘇の5つの国立公園が誕生しています。すでに3月16日に瀬戸内海、雲仙天草、霧島屋久の3国立公園が指定されていましたが、大雪山はなんとかトップグループで国立公園に指定されたということができます。
 この間のようすは『大雪山物語』の年表によってかいま見ることができますが、地元の努力なしには「国立公園」の栄冠はとうてい獲得できなかったということがわかります。
◎大正10年(1921)…内務省が国立公園候補地16カ所を選定。道内から阿寒、登別、大沼が挙げられ、大雪山は無名の存在だった。
◎大正13年(1924)…層雲峡に菊谷清蔵らの呼びかけで地元青年による「大雪山登山案内人組合」発足。のち国立公園運動の地元母体ともなる。
◎昭和3年(1928)…東京日日新聞(現・毎日新聞)など主催の「日本八景」投票が全国的ブームとなり、層雲峡も旭川第七師団兵士まで動員して大量に投票。道内からは平原の部に狩勝峠が入選。
◎昭和3年(1928)…国立公園調査会の6年越しの全国調査終了。候補16カ所に大雪山は入らず。
◎昭和6年(1931)…「国立公園法」公布される。道が作成した候補地(大沼、洞爺、支笏、登別、阿寒、屈斜路)に大雪山入らず、参考意見として付記されるにとどまった。区域も上川支庁管内の部分だけで、面積は現在の半分足らず。同年、帯広、層雲峡を訪れた公園委員田村剛博士を地元が現地にカゴで案内するなど猛陳情。「大雪山」の復活、十勝側の編入などの足がかりをつかむ。
◎昭和7年(1932)…国立公園委員会は阿寒、大雪を含む全国12カ所の候補地を選定。十勝側を含む大雪山の巻き返しが成功する。
 昭和3年(1928)におこなわれたという「日本八景」投票については『大雪山文献書誌』にエピソードのひとこまが紹介されています。
 ――昭和2年(1927)、東京日日新聞(毎日新聞の前身)と大阪毎日新聞との共催で、日本八景と百景選定について全国的な投票募集が行なわれた。層雲峡を世に知らしめるには絶好の機会と、層雲峡も旭川市を中心にしてこの投票に参加する。日々の投票の結果は毎日両紙に報道される。
 いよいよ締切も数日に迫って層雲峡の入選が危うくなってきた。塩谷忠らが落胆しているとき、大雪山調査会会長荒井初一は一策を案じて時の旭川第七師団の斉藤参謀長に頼みこみ、10万枚の投票ハガキを2日間で師団の兵に書いてもらって見事百選に入選したのであった。荒井は師団の転地療養所を層雲峡に建設、寄付することになっており、また第七師団長渡辺錠太郎らは調査会の顧問である。このように荒井と師団との密接な関係が、層雲峡の百景入選という結果を生んだといえよう。――
 同様の運動を帯広で展開したのが十勝毎日新聞の林豊洲を中心とする勢力だったということも清水敏一は紹介しています。
 それによると「然別湖開発の父」と呼ばれている林豊洲は九州出身で大正8年(1919)に帯広で十勝毎日新聞を創刊。大正14年(1925)に十勝支庁長をはじめ各町村長や議員、報道関係者など60人あまりを招待して然別湖や糠平湖などを探勝、新聞紙上でおおいに宣伝・紹介しました。
 また日本八景選定のハガキ投票では、帯広を中心に全十勝規模の投票運動を展開、成功させたといわれます。ちなみに、決定した「日本八景」は海岸=室戸岬、湖沼=十和田湖、山岳=雲仙岳、河川=木曽川、渓谷=上高地渓谷、瀑布=華厳滝、温泉=別府温泉、平原=狩勝峠。
 力を得た林豊洲は35ミリ映画「十勝大観」(10巻)を制作し、「十勝小唄」のレコード化や観光絵はがきの発行なども積極的に進めていきました。
 それにもかかわらず、昭和6年(1931)に北海道庁が発表した北海道内の国立公園候補地に十勝地域が加えられていないのを知った林は、北海道長官に強硬に陳情、長官視察を実現したといいます。また国立公園委員調査団が阿寒国立公園候補地の調査のために帯広を通過するさい、林は調査団一行の列車に乗り込んで直訴し、帰途、一部の委員に然別湖や扇ヶ原を視察してもらったと伝えられています。
 かくして大雪山国立公園に、面積で6割をしめる「東大雪」が加わったのです。

●最後に

 昭和42年(1967)に層雲峡から黒岳5合目までのロープウエイが開通、翌年には旭岳ロープウエイも開通して、大雪山を訪れる人のバラエティは急激にひろがりました。山岳道路が何本も計画され、モータリゼーション化も進みました。大雪山国立公園の「開発」は加速度的に進んでいると見えます。
 その発端にまでさかのぼると、およそ70年前に、「民間開発派」の荒井初一や塩谷忠は知恵を絞り、資金を投入して自分たちの夢を実現しようとしました。ただ、彼らは最後まで、観光開発は知的なソフトウエアによっても支えられていなくてなならない、という信念を貫きました。彼らが歴史に残る「開拓者」と評価されるのはそのインテリジェンスにおいてではないかと思われます。
(本文中では敬称を略しました)

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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