毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・2・阿蘇くじゅう国立公園」
1993.2――入稿原稿
■国立公園物語…阿蘇くじゅう
●はじめに
九州の地図のほぼ真中に鶏卵をひとつ置いてみます。それを阿蘇山に見立てて、右上隣にウズラの卵を置くと、これが九重<クジュウ>山の山群。右上方へポーンと飛んでイクラを2粒置いて湯布<ユフ>岳と鶴見岳という広がりです。鶴見岳の下はもう別府湾、という長大な国立公園が現れます。
ところがお隣さんの阿蘇山と九重山とは血筋がまったく違うというのです。
やまなみハイウェイ(別府阿蘇道路)を走ると、一帯は雄大な草原地帯で、九重山の山群には九州本土最高峰の久住<クジュウ>山(1787m)をはじめとして十数の峰がそびえ立っています。それに対して阿蘇山は、巨大な陥没地形が印象的です。
阿蘇山は、これを頭にして霧島火山群、桜島、開聞岳と南下し、トカラ列島に連なる「琉球弧」の火山であるというのです。そしてこの「琉球系火山列」は巨大なカルデラを形成するのが特徴なのです。一般にはなじみのない名前のようですが、阿蘇カルデラの南には霧島山を取り囲む加久藤<カクトウ>カルデラがあり、その南には桜島を取り囲む姶良<アイラ>カルデラが鹿児島湾の北部を形作っています。その南に隣接するのは開聞岳のある阿多カルデラ(これも鹿児島湾を形作っています)で、そのはるか南海上には外輪山の頭が硫黄島、竹島となって残る鬼界カルデラがあります。
それに対して九重山は、山陰の大山<ダイセン>から連なって雲仙岳に至る「山陰系火山列」に属するものだと解説している本があります。
――この山陰系火山列は、大山(鳥取県)から青野山(島根県)までは本州方向の東北東―西北西(の弓形)に、青野山から湯布・鶴見火山群まで琉球方向の北北東―南南西に、湯布・鶴見火山群から雲仙火山までは再び本州方向(瀬戸内方向)の東北東―西北西(の弓形)にならんでいる。したがってこの火山列は、本州と琉球二方向の構造的な制約を受けていることになり、島弧と密接な関係をもっていることがわかる。――
これは松本征夫・松本幡郎編『阿蘇山―世界一のカルデラ』(東海大出版会、1981年)からの引用ですが、この松本兄弟は兄の幡郎が熊本大学理学部教授、弟・征夫が山口大学理学部の教授でともに火山の専門家ということです。しかも父・松本唯一が本格的な阿蘇火山研究の鏑矢。父子二代にわたる阿蘇火山の研究が、いまわたしたちの常識をくつがえすところまできたようです。
“阿蘇博士”の松本唯一について要領良く紹介しているのが荒木精之著『阿蘇』です。この本は1991年の発行で、発行者は「第4回熊本県民文化祭阿蘇実行委員会」となっています。昭和46年(1971)に刊行予定だった故人の原稿が20年振りに日の目を見たというものだそうです。
――熊本大学名誉教授、松本唯一理学博士は地質学の権威であって、阿蘇火山研究の第一人者である。博士は栃木県出身であるが、それが阿蘇との結びつきは、大正4年(1915)まだ東大学生のころ震災予防調査会の嘱託で別府の鶴見・湯布火山群の調査にきて、その一角に阿蘇外輪山の噴出物である阿蘇泥溶岩を発見したときにはじまるという。しかしそのときは阿蘇山と本格的にとりくむことになろうなどとは思ってもいなかった。
そのころまでは阿蘇火山は九州で最大最古の火山であって、鶴見・九重・大船・金峯の諸火山はみな大阿蘇外輪山の寄生火山という式に外輪火山より後れて噴出したものだということに学界ではなっていた。それを松本博士があやまりであることを発見したのである。
元来、中部九州は火山地域の広さから見て、大小幾十百の火山が錯綜してその複雑さは火山国日本のなかにあっても第一のところである。博士は大学卒業後2年の海外留学を終えると明治専門学校教授として九州に下り、本格的に火山研究に手をかけることになった。はじめての夏休みは玖珠、<クス>、次の年は日田<ヒタ>、こうして毎年休みになると夏といわず冬といわず、春の休みも、火山踏査に没頭した。学生の指導旅行も半分は火山地帯をえらぶ。それでも物足らず、常時踏査にうちこむというありさま、こうして、九州の各地を調査、阿蘇の周囲は路という路は全部歩きつくし、また根子<ネコ>岳・高<タカ>岳・楢尾<ナラオ>岳の険峻にいどみ、あるときは高岳の北尾根、赤ガレなどロック・クライミングの岩場をも極め、火山構造を明らかにする努力を積み重ねていった。
こうして数十年、松本唯一博士の阿蘇研究は定説となり、さらに南九州のカルデラ式火山の研究にすすみ、三転して薩南火山列島の調査にすすみ、松本博士によって阿蘇カルデラのほかに姶良・阿多・鬼界のカルデラ式火山がつぎつぎに発見されていった。――
阿蘇国立公園の北のはずれから、松本唯一は阿蘇山に引き込まれていった、というのです。
もう1冊、地元でよくみかける本があります。熊本日日新聞社の地域学シリーズ第1弾の『新・阿蘇学』(1987年)です。この書き出しに松本火山兄弟の弟が登場します。
――最近、火山学者や地質、地球物理学者らの注目を集めている1つの仮説がある。仮説は「(阿蘇のある)中部九州の地下には九州を南北に二分するように巨大な地溝(地殻の溝)が走る。その上下運動が中部九州の火山や群発地震、地熱などの地下活動と深く関係している」というものだ。
山口大学理学部の松本征夫教授が発表したこの仮説は、松本教授が学生時代から蓄積してきた中部九州の膨大な地質学的研究に基づいている。
中部九州には阿蘇をはじめ、九重、湯布・鶴見、雲仙などの多くの火山があり、日本でも有数の地下活動の激しい破砕帯として多くの研究者の注目を集めてきた。松本教授はこれらの火山活動や破砕が1本の巨大な地溝の中で起こっているというのだ。――
阿蘇から九重を経て鶴見岳まで延びる「やまなみハイウェイ」は“1本の巨大な地溝”の上の快適なドライブコースということになります。阿蘇くじゅう国立公園は、その意味で、ひとつながりの特殊な地域ということになります。そのやまなみを別府(東北側)から、久重(北側)、竹田(南側)、熊本(南西側)からと、見上げてもみました。
しかし、やはりその中心は阿蘇山。それも巨大なカルデラということになります。そこで、ここでは国立公園の範囲から特に阿蘇山の大カルデラにポイントをしぼって、自然と人の営みの軌跡を探ってみたいと思います。
カルデラ内のようすをくわしく知るため、カルデラ部に生活圏を広げる町や村の役場をまわって町史の類を探したところ、次のような結果となりました。
まずカルデラの北側、阿蘇谷はJR豊肥本線の沿線ですが、地形的には黒川の流域となっています。その上流側半分を占めるのが一の宮町。カルデラの開発と阿蘇文化はかつてここから起こったという阿蘇郡の中心ですが、かつて『阿蘇郡誌』(1926年)があったためか、町史はまだなく、編纂中とのことでした。
そのライバルとして歴史を刻んできた隣の阿蘇町は黒川の下流側半分を占めます。この町では『史料阿蘇』の第1集(1978年)と第2集(1980年)を刊行していました。
カルデラの南側は南郷谷です。南郷谷を流れるのは白川で、白川に沿って遡ってくるのは南阿蘇鉄道。かつての国鉄高森線です。
この南郷谷の中心は最奥に位置する高森町のように見えます。高森町はカルデラを越えて東側に大きくはみ出し、豊後との国境地帯を構成しています。かつては竹田とのつながりがきわめて強かったといわれます。ここには『高森町史』(1979年)と『高森町史II―ふるさとの回顧と展望』(1980年)がありました。
高森町の下流側、白水村にはありませんでしたが、その下の久木野<クギノ>村には、村誌第1巻の『村を歩く―久木野の事蹟と文化財』(1985年)、第2巻『むらの歩み(上)』(1990年)、第3巻『むらの歩み(中)』(1992年)がありました。
阿蘇谷の黒川と南郷谷の白川はカルデラの西端で合流して白川の名でカルデラ外へと流れ出し、熊本市街に下っていきます。この要所を押える長陽村には長陽村誌第1集の『古跡と伝承』(1981年)がありました。
これら地元の労作も併読しつつ、阿蘇山火口の内側の歴史をたどってみることにしました。
●カルデラ4杯分の溶岩
阿蘇山のカルデラは世界最大級といわれますが、『阿蘇火山』では次のように説明しています。
――阿蘇中央火口丘群の南に南郷谷、北に阿蘇谷の火口原がある。広い水田が存在し、3町3村、約5万5000人の人が住んでいる。さらに、これら全部を大きく包括して囲むカルデラ壁が美しく存在する。このカルデラの大きさは東西約18キロ、南北約25キロ、周囲約128キロ、面積約1155平方キロの規模を誇っている。このカルデラの形成をもたらした火砕流、この活動をおこした火山を外輪火山という。それは外輪山に存在する古い火山体を意味しているのではない。この外輪火山から噴出された特異の阿蘇火砕流堆積物は、優に直径200キロの地域に広く分布しており、世界第一級の火山である。――
ずいぶん大胆な数字です。直径200キロというと、富士山の溶岩が東京まで流れてきたのに相当します。『阿蘇火山』では名曲「荒城の月」の竹田市岡城や、日本三名城の一つ、加藤清正の熊本城などが、実は阿蘇カルデラ噴出物の平坦面の上に建てられているというのです。
――九州山地の椎葉<シイバ>村、米良荘<メラノショウ>、五箇荘<ゴカノショウ>の三村は、源平合戦の末、壇ノ浦で敗北した平家の残党が住みついたと伝えられる。九州山地や奥祖母<オクソボ>山地では、谷間の平坦地に村落をつくり、2戸、3戸と散在した山村をつくっている。これらの台地をよくみると、阿蘇カルデラ噴出物によってできた平坦面が多いのである。――
その噴出物は中部九州をあらかたおおいつくし、分布は九州本土の8県全部におよぶというのです。
さらに信じ難いことに、
――九州のみならず、愛媛県宇和島市、山口県秋吉台や宇部市にまでおよんでいる――
というのです。国東半島臼杵の有名な石仏も阿蘇カルデラの噴出物に刻んだものだというのです。いま同様の規模の噴火があったとすると、全滅する都市は熊本市以下、大牟田市、日田市、別府市、大分市、佐伯市、人吉市におよぶといいます。
噴出溶岩の広大さも信じ難いことながら、その噴出物が、火砕流となって流れ広がったものだといわれると、ほとんど想像の域を越えてしまいます。
『新・阿蘇学』ではつぎのように説明しています。
――700〜800度に焼けた膨大な量の火山噴出物が、時速100キロ以上ものスピードで大地を焼き尽くしながら走る火砕流。その阿蘇カルデラ誕生の際の噴出量は180立方キロとも200〜300立方キロともいわれ、九州中部の地形を変えた。そして噴出したあとを埋めるように起きた陥没は、巨大な阿蘇カルデラを作った。――
――現在、阿蘇の火砕流噴火はおよそ30万年前の阿蘇誕生から約8万年前の間に、数万年の幅で4回あったと考えられている。1回の噴出量は数十立方キロ、中部九州の平坦な地形はほぼこれら4回の火砕たい積物が作っており、厚いところで100メートル以上にも達する。高千穂峡、蘇陽峡、内大臣峡などの100メートル以上の見事な断崖は、この火砕流のたい積物を川が深く浸食して出来たものだ。
4回の火砕流たい積物はそれぞれ阿蘇1、2、3、4と呼ばれ、絶対年代測定のデータは阿蘇1が26〜36万年前、阿蘇2が15〜16万年前、阿蘇3が10万年前、阿蘇4が8万年前であることを示している。そして噴火と噴火の間には長い休止期があったことが分かっている。――
このようにして広がった膨大な火砕流がどのようなかたちで現在あるかということについては『阿蘇火山』が解説してくれます。
――大規模な火砕流では、大量の軽石をふくむことがふつうで、これは軽石流と呼ばれ、たまったものが軽石流堆積物である。これらの火砕流堆積物の厚い部分では、高温を保ったまま、堆積物の自重がかかる。そのため粒子が互いに密着し、軽石や黒曜石はつぶされてレンズ状になる。これが溶結凝灰岩といわれる岩石である。溶結凝灰岩は、このようにしてできるため、1回の噴火による火砕流堆積物であっても、速く冷却する下底部や、荷重のかからない最上部は溶結せずに、中央部が溶結することが多い。また溶結の程度にしても、強溶結から弱溶結に、さらに非溶結に移りかわることも珍しくない。
非溶結の火砕流堆積物は、火山灰、軽石、岩片などが混じった無層理の堆積物となる。この場合、軽石質凝灰角礫岩と呼ばれる。熊本城のある京町台の岩石や、災害で話題になる南九州のシラスがこの例である。――
――阿蘇火砕流堆積物の溶結した部分は、径1メートル前後の大きな柱状節理を示すことが多い。溶結部は、阿蘇溶岩と呼ばれたこともあり、北中部九州では、しばしば石垣に使用されている。また弱溶結の部分は、阿蘇泥溶岩、あるいは灰石と呼ばれてきた。関東地方で、大谷石といえば、「ああ、あれか」とうなずく人も多い。九州では、灰石がそうであって、石垣だけでなく、細工がしやすいため石灯ろうなどに利用されている。時代は異なるが、大谷石も灰石も、火砕流堆積物なのである。
また、溶結凝灰岩は柱状節理が発達するため水をよくとおし、その下底部で地下水が流れる。村落や山間部では、しばしばこの地下水を飲料水や養魚池の水として利用している。――
話は少々むずかしくなりますが、阿蘇山の噴火はいわゆる熱雲式噴火で、多量の溶岩を火砕流というかたちで押し出し、流したというのです。この火砕流噴出によって地下のマグマ溜りが空になると、その空洞部分に陥没が起こることによってカルデラが形成される、というのが火山地形の基本です。阿蘇山の巨大なカルデラは阿蘇山の山体の巨大さを示しているともいえるのです。
そのことに関連して、最近、カルデラの地下のようすが具体的に明らかになってきたということを『新・阿蘇学』は伝えています。
――京都大学阿蘇火山研究所の久保寺教授が作った重力異常図は、驚くべきことに、カルデラの中央がちょうどアリ地獄のようなすり鉢形であることをありありと描き出し、その中心、つまりマグマが地中深くから上がってきたと思われる穴が現在の杵島・往生岳付近にあることをはっきりと示している。
さらに、火砕流の噴火で出来たすり鉢状の陥没は直径が10キロ程度と小さく、現在のカルデラのほぼ中央にあること。噴火以外の原因、例えば地辷りなどのために陥没の縁がくずれ落ちてカルデラが拡大し、現在見るような形が出来上がったらしいことを暗示している。
実際に阿蘇谷の北側や南郷谷で行われたボーリング調査では、150〜480メートルの深さで基盤に達しており、ボーリング地点がカルデラ内にあるにもかかわらず基盤が浅く、この地点が陥没していないことを裏付けている。
この直径10キロのすり鉢状の穴は、いったん噴き上げられた岩や火山灰などの“軽い物質”で埋まっているが、4回の火砕流噴火によって阿蘇の“目方”は実に400億トンも失われていると推計されている。――
かくして約8万年前、阿蘇カルデラはほぼ現在の大きさになったのです。中央火口丘はカルデラが形成されてから誕生するのが原則です。『新・阿蘇学』を読んでみます。
――中央火口丘がほぼ現在の姿になった時代については研究者の意見がほぼ一致している。杵島<キジマ>岳、往生岳、米塚などが生まれた2000〜3000年前だ。考古学の研究では大観峰<ダイカンポウ>付近に約3万年前から旧石器人が住んでいたことが分かっており、人類はその目で中央火口丘誕生のドラマを見てきたに違いない。
熊本大学の松本幡郎教授によると中央火口丘は、現在噴火口が見えるものだけでも20以上。噴出物が複雑に重なりあって一面に覆っているので、その正確な数は分からない。鷲ヶ峰のようにすっかり浸食され、火山の一部を残しているだけのものもある。
これらの火山は、カルデラにまだ水がたまってカルデラ湖があったころ噴き出した。まず、中岳が噴火し、現在の高岳から千里ヶ浜付近の基底をつくった。中岳は現在も噴煙をあげている息の長い火山だが、高岳、楢尾<ナラオ>岳、御竃門<オカマド>山などと同じグループの火山とされ、中央火口丘の中では古い火山だ。この中岳グループと一番新しい杵島岳、往生岳などのグループの噴火の間に烏帽子、千里ヶ浜などのグループの火山が出来た。烏帽子グループの噴火のころは既に外輪山が切れ、湖はなかったとみられている。――
●古代阿蘇王国
石器人が最初に阿蘇山を見たとき、そこは満々たるカルデラ湖であった可能性が高いというのです。その湖中から中央火口丘が噴き上がり、とうとう外壁の一部がやぶれてカルデラの湖底が現れてきた。
地元ではあまりにも有名なストーリーなのですが、ここで阿蘇神社の祭神タケイワタツのミコト(健磐龍命)が登場するのです。ミコトは神武天皇の孫にあたり、九州中部の抑えのために大和から派遣され、阿蘇のカルデラを自力で開いたというものです。
郷土の作家・荒木精之の『阿蘇』にはそのスタンダードなかたちが構成されています。
――媛(妻のアソツヒメ)をつれ、従者をともない、決然として阿蘇に向かって出発された。年若く、力づよく、弓もまた上手で、いつも強弓をたづさえ、矢を背負って歩かれる命の姿はたのもしく、凛々しく、颯爽たるものがあったにちがいない。――
――ふと命は没日の赤く焼けている下に、キラキラとかがやくものを見られた。
「おや、あそこに、この野原の尻の方に湖水がある」
と申された。村の名を野尻というのはここに発するといわれている。
健磐龍命は国見山をお下りになると、そこから広野の草地をふみこえ、阿蘇都媛をともなってずんずん湖水の方に向かって歩んでいった。やがて外輪山の上に出て、そこからごらんになると、銀色ににぶく光った満々たる大湖である。銀色ににぶく光って見えるのは、それは火山灰のとけたのろのろしたノロ湖であったのである。命はそれをじっとごらんになっていたが、
「もったいないことだ。この山また山の阿蘇の国の真中に、こんなにも広大な湖水をもっていることは、ほんとにもったいないことだ。この水を干せばここはよい田野になり、十分おつくり(米)がとれるだろうに」
といわれた。そしてこの阿蘇の国の雄大な地形を見てとると、ここに宮居を定めようと思いたたれるのであった。阿蘇の大自然が、若々しい命の心にふれたのである。
「よし、わたしがやろう。わたしが国をつくるのだ。なに、雑作はない」
決然として命はそう云うと、外輪山の尾根づたいにずんずんとめぐって歩かれたが、湖水の西の尻の方にお立ちになった命は、つかつかとうち側の岸をおりて、
「この辺でよかろう」
とつぶやき、立ちどまって、いきなりドンと力まかせに蹴破ろうとなさった。2度3度つづけて蹴られたが、しかしびくともしない。力にかけては自信のある命であった。それが蹴破れないので、顔をしかめて外の方をおしらべになると、破れないも道理、そこは火口の壁が二重になっている一番厚いところであったという。いま二重の峠とつたえているのはこのところである。
命は苦笑して、こんどはそこから少し南に寄ったタテノ(いまの立野の火口瀬)の上を一蹴りされた。するとそこは命の太刀に一たまりもなく、すかりと穴があいて破れ、ノロ湖は西にどうどうとすさまじい音をたてながら流れ落ちはじめた。いまもあるスガルガ滝(数鹿流が滝)というのは、この時、命が蹴破られたところであるという。――
阿蘇の神話はどれもこれも完成度の高いものになっていて、現在の地名とこまかく対応していきます。江戸時代に肥後に国学が起こったとき阿蘇神社がそれに深く関与していたといわれることと無関係ではないでしょう。
ところが『新・阿蘇学』になると神話の取り扱いが大きく変化してきます。九州の古代史をゆさぶる耶馬台国論争を経て“耶馬台国<ヤマタイコク>阿蘇説”や“九州王朝説”などが登場するからでもあります。
――阿蘇山は、古代のころから中国の人々などによく知られていた存在であったらしい。というのも7世紀初頭に書かれた中国の史書『〓書倭国<ズイショワコク>伝』の中に「阿蘇山有り。其の石、故なくして火起こり天に接する者、俗以て異と為し、因って祷祭<トウサイ>を行う」という記事が見られるからだ。
『魏志倭人<ギシワジン>伝』にも「山険しくして、深林多し」と耶馬台国の倭の国の様子が描かれているが、固有名詞として倭国の山の名が海外の文献に登場するのは『〓書倭国伝』に見る「阿蘇山」が最初である。活火山のない中国からの使節団にとって、この「火を噴く山」はよほど驚異に見えたのであろが、なぜか『〓書倭国伝』には、飛鳥<アスカ>や難波<ナニワ>のことについては、一言も触れられておらず、倭人はバクチ好きだとか、男より女が多いことなどが述べられたあと、突如「阿蘇山有り」のくだりがあらわれる。あたかも阿蘇が倭国を代表するシンボルの山のごとくだ。そして「如意宝珠<ニョイホウジュ>有り。其の色青く、大いさ鶏卵の如く、夜は即ち光有り。云う魚の眼精なり」と、夜、光を放つという不思議な青い玉の話が続く。
この「如意宝珠」については、阿蘇山の記事とは直接つながらないと見る学者もいるようだが、文章の流れからみると、阿蘇にそうした不思議な宝珠が祭られていた、と書かれているように読めて仕方がない。
そして、この祭りの司祭者こそ阿蘇谷の開拓者を率いた族長であり、その後裔が阿蘇君ともいわれるが、果たしていかなる祷祭が行われていたのか。一種のシャーマニズムだったのだろうか。青く光る玉を前に何やら呪文をとなえながら、祈祷<キトウ>をする巫女<ミコ>の姿を思い描くとき、ひどくエキゾチックな印象も受ける。――
『新・阿蘇学』の執筆者(あとがきによってこの項は熊本日日新聞の編集委員・井上智重の分担とわかる)は、ここでまず「如意宝珠」にこだわります。
――(阿蘇神社の社家の一人)宮川三友さんによれば、『阿蘇家伝書』のなかなどに、『古事記』の海幸山幸の物語にある満珠干珠<マンジュカンジュ>のことがしばしば登場するといい、『〓書倭国伝』に出てくる、「如意宝珠」こそ、その満珠干珠のことではなかったのか、と言う。
釣りばりをなくした山幸彦は、わだつみ(海)の宮へと訪ね、そこで海神の娘、豊玉姫をめとり、満珠干珠の玉を手に入れて戻ってくる。そして、潮の満ち引きを自由にコントロールできるこの両珠で、海幸彦をさんざんやっつける。
一方、『日本書紀』には、神功<ジングウ>皇后が三韓征伐に向かう際、豊浦津で如意宝珠を海中から得たとあるが、阿蘇の神話では、神功皇后に側役として付き従った蒲池媛<カマチヒメ>が持っていた満珠・干珠を投げて、潮を満ち引きさせ、新羅の軍に戦わずして上陸できたとなっている。
「この満珠の方は、蒲池媛を祀った宇土<ウト>半島の郡浦<コウノウラ>神社に、干珠は阿蘇南郷の草部吉見<クサカベヨシミ>神社にあったとか。あるいは『阿蘇家伝書』には、この珠を阿蘇山に納めたまふ、とも見え、それは、阿蘇山の玉嶽というところらしいんですが、はて阿蘇の五岳のどこを指すのか。まあ、神話のことですしね……」と宮川さん。――
外国の史書もしょせんは人が記したもの。阿蘇山が与えたインパクトは、それが自然の驚異であるために特に強烈なものであったはず、と考えるのが自然でしょう。
――『「耶馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』などその勢力的な執筆活動で古代史論争に鮮烈な問題を投げかける古田武彦氏(京都在住)は、『よみがえる九州王朝』のなかで、「中国の史書にしるされた倭国の記事を理解する上で、従来のような近畿天皇一元主義の立場から見たのではあまりにも矛盾がある。これに対して九州王朝という一個の仮説を立てたとき、それらの矛盾は解消する」と述べている。
この古田氏が九州王朝説の大きなよりどころとしているのが『〓書倭国伝』に「火起こりて天に接す……」と活写されている阿蘇山の火山活動だ。「7世紀前半の日本列島を代表する王者は“日出ずる処の王子”の国書で有名な多利思北狐<タリシホコ>。推古天皇のような女性とは似ても似つかない。しかも、その男帝の国をシンボライズする名山こそ阿蘇山。これほど明白に〓<ズイ>の煬帝<ヨウダイ>と国交を結んだ人物が、飛鳥の女王ではなく、阿蘇山下の天子であった事実を端的に物語る史料はない」と古田氏は言う。――
大和王朝として確固たる地位を歴史上に占めることになった「近畿天皇家」の成立を8世紀とすると、3〜7世紀には九州王朝が成立していて、先行モデルとして大和王朝に取り込まれたものがさまざまある、という視点のようです。『新・阿蘇学』ではこの古田説をもう一歩すすめていきます。
――古田氏は、九州にだけ2種類の風土記が成立していたという「二つの九州風土記」問題をとり上げている。それは、九州王朝にも風土記があったというもので、そのポイントになっているのも『続日本紀』に引く『筑紫風土記』に見られる阿蘇山の描写だ。
「肥後の国閼宗<アソ>の県。県の坤<ヒツジサル>、廿<ニジュウ>余里に一秀山有り。閼宗岳と曰う。(略)其の岳の勢たるや、中天にして傑峙し、(略)地心に居住す……」
古田氏によれば「中天」とは天のまんなか、「地心」は地球の中心の意だから、「阿蘇山は天地の中央である」と読め、またほかの風土記には見られない「県」という行政単位が用いられているところから、これはもともと九州王朝における「風土記」ではなかったかというわけである。
そして、景行天皇の九州遠征も、もともと九州王朝統一の説話が、近畿天皇家の神話として盗まれたものだと古田氏は断じている。――
史書の記述を手がかりにした仮説の構築が進むのと同時に、阿蘇カルデラの外輪山の壁を蹴破って広大な水田を開いたというタケイワタツのミコトの国造り神話もまた、新たな解釈が試みられているようです。そこで『新・阿蘇学』は、民俗学者谷川健一による「蹴裂伝説」の検証を紹介しています。
それによると「蹴裂伝説」は全国各地にあって、いずれも鍛冶の神や金属の神の存在とつながってくるというのです。
――菊池川の流域は肥後でも有名な砂鉄地帯だが、「こうした蹴裂伝説が阿蘇国造の祖神であるタケイワタツ命にまつわっていることは、阿蘇君の性格、ひいてはその同族である多氏の性格をつかむ手がかりになる」と水俣出身の民俗学者谷川健一氏は著書『青銅の神の足跡』の中に書いている。――
――そして『古事記』によれば、火君、阿蘇君、大分君、それに科野君などは、神八井耳<カミヤイミミ>命の末裔である「多氏」の同族とされるが、これら多氏は「朝鮮半島からの渡来人」であり、「金属精錬の技術をもち、それによって低湿地帯を開拓する技術にもまた長じていた」と谷川氏は大胆に論じてみせている。――
金属精錬というキーワードによって、阿蘇山にはさらに大きな発見の可能性が見えてきます。鉄です。『新・阿蘇学』はその未知の領域へと踏み込んでいきます。
――実は鉄の抽出は、ただ溶かせばすむ青銅冶金に比べ、ずっと厄介だ。まず鉄鉱石中に含まれるチタンなどを溶かし去り、さらに鉄にくっついている余分な酸素元素を炭素還元剤(木炭)で放出させ、固体のまま鉄オンリーに変身させなければならない。そのためには、1200度前後の温度を生み出し、かつ炉内を還元性に保つことのできる特殊な構造の精錬炉が必要とされた。――
ところが褐鉄鉱であれば、
――密閉式の炉内に木炭や鉱石を入れて点火し、送風を続けると、炉内は800度から1000度まで上昇し、半溶解状の海綿鉄が得られる――
というのです。
この褐鉄鉱が、阿蘇では「阿蘇黄土」とよばれていてカルデラ内に推定50〜100万トンが埋蔵されているのだそうです。
この阿蘇黄土は現在、脱流剤として露天堀りされていて、製鉄関連のコークス工場や全国のし尿処理場へ送られているのですが、戦前・戦中には鉄鉱石として八幡製鉄所に送られていたというのです。いまはなき有明製鉄は有明海の砂鉄と阿蘇の褐鉄鉱を原料として建設されたのだそうです。
そしてこの阿蘇黄土を焼くと、真っ赤なベンガラになるというのです。『新・阿蘇学』の筆は踊ります。
――「まるで血のようでした」
一の宮町の元助役北窓正一さんは、昨日の出来事のように話す。54年の中通古墳群一帯で実施された圃場整備中のこと。「古墳が出た」との連絡で北窓さんが駆けつけた時には、完全に壊され、ただ流れ出たベンガラがそばの水路を真っ赤に染めていた。
阿蘇地方の古墳の特徴の一つに、石室や石棺などから大量にベンガラが出てくることが挙げられる。あまりにも当り前過ぎて、これまでは注意も払われてこなかったが、北外輪山の御塚横穴群(阿蘇町)を調査した白木原和美熊大教授は、すき間なくベンガラで塗り込められた石室の様子に目を見張った。――
――ところで『魏志倭人伝』には「その山に丹<ニ>あり」という記載があり、卑弥呼は魏王への献上品に、その「丹」も加えている。となれば、「丹」を産出する山の位置するところこそ、“幻の耶馬台国”といってよい。
これまで研究者の間では、「丹」を水銀朱とみなす説が有力だったが、じつはベンガラについてはだれも研究していない。『耶馬台国はここだ』の著者奥野正男氏(北九州在住)は「ベンガラが九州で弥生時代に簡単に手に入っていたとすれば、これは面白くなりますよ」と言う。奥野氏自身、「朱」の研究家市毛勲氏の著書などを通じ、てっきりベンガラは自然のままでは産出しないと思っていた。
『魏志倭人伝』には、「朱丹<シュタン>を以て其の身体に塗ること中国の粉を用うるが如きなり」と倭人の風俗を伝えているが、阿蘇谷では病気にかからないまじないに、今でも牛の角にベンガラを塗る。
玉名市城ヶ辻古墳からはベンガラを入れた壷が副葬品として出土しており、県文化課の島津学芸員は「阿蘇の豪族にとってベンガラは外貨を稼ぐための貴重な交易品ではなかったか」と考える。――
●阿蘇氏の登場
阿蘇カルデラの外輪壁に沿ってたくさんの縄文土器や石器類が出土しています。阿蘇町の『史料阿蘇第一集』によると、それが阿蘇町内で48カ所にもおよぶといいます。地図を見るとカルデラ内から見て外輪山の麓にあたる線がみごとに浮かび上がってきます。
――縄文遺跡の立地を見ると、2つの型がある事に注目される。(1)標高500メートルの山麓地区、(2)標高550メートル以上の内輪一面の高所地区である。このような姿は、とくに湯浦や西湯浦、西小園の遺跡群に於て顕著に見ることができる。前者の立地が生活の拠点であるとみてよければ、高所の遺跡は、狩猟等で一時的に居住する「キャンプ場」のような性格を持つ遺跡かもしれない。
現在の阿蘇谷は、平地全体が水田となり、外輪山には、杉、桧などが植林されているが、かつてはウラジロガシ、モチノキなどの雑林地帯でイノシシ、シカ等の大形獣の外にタヌキ、キツネ、テン等の小型獣が棲息して、縄文人の恰好の狩場となっていたと思われるのである。――
同じ阿蘇町には51カ所の弥生時代の遺跡も記録されています。
――この期の遺跡の分布を見ると、前代の縄文時代のように、遺跡が北側の外輪山麓部に集中するということがなくなり、五岳の山麓部、宮山、永草、黒川等にも遺跡が見られるようになる。
遺跡の立地は、(1)縄文時代と同様の山麓部、(2)黒川の自然堤防上、(3)カルデラ内の微高地にわかれる。(2)と(3)のような立地の背景には稲作の普及と耕地の拡大、それ等に伴う「ムラ」の分化などの事象があったと考えられる。――
久木野村の村誌第2巻『むらの歩み(上)』では、考古学の専門家を招いた誌上シンポジウムを掲載しています。そのなかで熊本大学の甲元眞之助教授が弥生時代の稲作文化の拡大に関して興味深い問題に触れています。
――たとえば弥生中期になりますと、ご承知のようにお墓をつくるわけです。北九州の福岡平野で典型的に見られるのは、大きな甕棺<カメカン>をつくることです。ところが、熊本県内でそのような甕棺墓地の分布を見てみますと、菊池川水系までは北九州的な墓地がつくられるのです。ところが、この白川水系から緑川水系にかけては、甕棺墓地を作るには作るんですけど、北九州的な甕棺は少ししかなくて、その周りに黒髪式土器という、中期の段階では特異な脚台をつけた土器がございますが、その甕を棺に利用して墓をつくっているのです。ともに集団墓地なのですが、こういう違いがある。ところが宇土半島から南に行きますと、甕棺での集団墓地はつくらなくなって、あるとしても甕棺は僅か1個か2個あってあとはほとんどが土拡墓という、縄文時代の伝統的な葬法をとっているのが見られます。――
――御承知のように縄文時代の終わり頃になりまして、北九州の玄海灘に流れこむ中小河川の流域には小さな沖積地ができていますけれど、そのような沖積地にまず稲作民というのが入ってきて、初めて水稲農耕というのを拓くのです。それがやがて弥生前期になると急速に各地に拡がっていくのです。で、驚くなかれ、東の方は青森の、津軽半島のつけ根のあたり、垂柳<タレヤナギ>という遺跡がありますけれど、土器形式にして大体200年も経たない位の段階で、もうそちらの方まで行って立派な水田を造って農耕をやっているのが確認されているのです。
ところが一方、南の方はどうかといいますと、南の方にはなかなか下っていかないんですね。はっきりとそういう水稲農耕をやってひとつの新しい世界を作りだしたことが確認されるのは、熊本平野の南、宇土半島から城南にかけての線の北の所までです。――
――それで久木野の場合も地形を見ますと、北に傾斜していまして、今はもう立派な水田ですが、それは裾野に用水を通して水を供給しているんです。そのような水田になったのは恐らく近世の後半以降のことですね。全国的にみましてもそうなんです。そんな立派な水田が出てくるのは。……それ以前には、外輪山から落ちてくる谷水を引いてきて、それで給水できるような所を田圃<タンボ>にするわけですね。ですから久木野でも、白川へ流れ落ちる谷川の両脇位の所を転々と集落と水田を拓きながら移動していたんじゃないでしょうか。――
――人種の構成の面から言えば、大多数の男性が小数の女性を連れて日本に移住して来て、それが在地の人と結婚する形で新しい、背の高い人間ができたというのが本当のところなんですね。それも人種の違いというのが、人間の生活状態の中にも反映されてきます。
例えば、私が以前にやってみたのですが、弥生時代の文物を女の仕事と男の仕事に分けてみたことがあるんです。そうしますと、弥生時代になって新しく登場するような道具というものは、ほとんど全部が男に関する道具ばかりなんです。それに対して、縄文時代のものがそのまま残っているような道具を全部調べてみますと、例えば「かご」の類とか、装飾品などのことは全部女性の仕事なんです。つまり縄文的な伝統をもつものは女性の仕事で、新しい、大陸からもたらされた伝統的な仕事は、ほとんどが男性に関する仕事なんです。――
弥生時代の集落は4〜5軒で構成されるのが普通で、人口としては20人前後。この最小単位は奈良時代の律令制で「房」という単位集落にそのままつながっていくと考えられているようです。ただ、房→郷→里→郡→国とつらなるピラミダムな徴税組織ができ上がると、それぞれの単位でのたばねの役となる長の家が明らかに格差を持ったものになり、最大権力者の力が古墳に示されるようになります。
このシンポジウムの進行役の県文化課・島津義昭も考古学の専門家です。
――古墳について、阿蘇郡全体の話をしますと、前方後円墳、古墳時代という名称の起源でもあります前方後円墳は一の宮町の中通地区に有名な長目塚古墳であるとか、上鞍掛<カミクラカケ>塚・下鞍掛塚古墳という3〜4基の前方後円墳があります。この他に円墳を含めまして全部で14〜15基、大きな古墳が密集しています。この中には円墳といいましても直径が50メートルに及ぶ県内最大のものもありますし、あの地域に1つの非常に権力を持った豪族がおったことはまちがいないと思われます。一方南郷の方は円墳にしろ、塚を持った古墳は数基しかありません。東の方からいきますと、高森小学校の校庭に上ノ園古墳群と呼ばれている円墳が3基あります。それにここの上二子石にあります六ノ小石古墳群です。あれは3〜4基あるでしょう。ですから南郷の特徴としては今のところ前方後円墳が見つかっていないということです。こうなりますとこの時代は、今まで話してきた弥生時代とは違って、小さな地域の間の関係でなく、もっと大きな地域の間で考えていかねば……。――
これを受けて甲元助教授が視野を一気に広げます。
――少なくとも郡の単位くらいでの大きな世帯的なまとまりがありますね。ただ、その場合でも、在地の人間だけで形成されるような人間関係の段階ではなく、どうしても大きく畿内の中央との関係が強く出て来る段階です。それを端的に証明するのは、島津さんが調査された迎平<ムカイビラ>古墳の1つから「画文帯神獣鏡<ガモンタイシンジュウキョウ>」という5世紀後半頃の鏡が出て来たことです。画文帯神獣鏡は同種のものが全国から出土しているんですが、この鏡をたどっていきますと面白いことが分かりまして、東の方は、いや宮崎の方は持田<モチダ>古墳群の中の2基から、こちらでは宇土の不知火町の国越<クニゴシ>、江田船山<エタフナヤマ>と今申しました迎平。それと同系の鏡が例の埼玉の稲荷山古墳からも出て参りました。
ということは、この鏡が、時の天皇は雄略ですが、雄略の段階に配置されたとすると、決して在地の者だけでなく、中央の政権にとっても戦略的に重要な地位を占めている場所として注目されていたんだと言えますね。というのはですね、国越、江田船山、阿蘇、持田を結んだ線、これは畿内政権の権力の南限だということです。ですからすごく重要視された。その南限は熊襲<クマソ>とか隼人<ハヤト>と言われた未服従の地です。それの接触点になっている。そういうことがありますから阿蘇が重要視されて……。逆にそういうことが中央とのつながりを強くしますからあそこに前方後円墳が作られることになるんですね。
前方後円墳をつくるということは、在地だけではなく、中央との関係がないとどうしても難しい。ましてやそこから新しい鏡が出てくるということになりますと、そういう中央との大きなからみで解釈せねば理解できないというようなことになって参ります。――
荒木精之著『阿蘇』ではその後の阿蘇について次のように書かれています。
――大化の改新があったのは西暦でいえば645年である。これから年号がはじめて日本に用いられるようになり、大化となった。この改新によって阿蘇国はそれまで久しい間、筑紫の一国であったが、それ以降、益城<マシキ>とともに肥後の一部となり、それまで国造であった阿蘇氏は、阿蘇・益城の2郡を領する神職として、また郡領として、あるいは評督と称し、または惣管と号し、祭政二権を握って東肥に雄飛する豪族となるのである。そして阿蘇の神主は、諸国の郡司や宮司の班にあったとはいえ、その位階は、六位、七位にとどまらず、五位の奏授に都に上る例になった。それで阿蘇の神威は大宮司の名誉とともに天下にきこえた。――
10世紀初頭の延喜<エンギ>年間に醍醐<ダイゴ>天皇の命によって編纂された律令細則の「延喜式<エンギシキ>」があります。その「神名帳」は全国の有力な神社をリストアップして、名の上がった神社を「式内社」といいますが、とくに「大社」とされるものは社格のきわめて高いものでした。
肥後国では4社が式内社となっており、そのうちの3社が阿蘇郡。健磐龍<タケイワタツ>命神社(阿蘇神社)が大社とされています。小社には阿蘇比〓(★口ヘン+羊)神社と国造神社が列せられていました。
阿蘇神社の祭神タケイワタツのミコトは阿蘇山の噴火を鎮め、国の乱れを鎮めることによって次々にその地位を高めてきたのです。『阿蘇』によれば、
――(阿蘇山の)神霊池の異変はそのまま天下の凶兆であった。都には飢饉がおこり、諸国に疫病がおこるなどのことを見ると、朝廷ではおどろいて神霊鎮護のためにいろいろな手がうたれている。すなわち弘和14年(823)には健磐龍命に封戸2000戸を寄進され、承和7年(840)には神位を従三位にすすめられ、同9年には遣使奉幣<ケンシホウヘイ>を出されている。さらに同14年には阿蘇国造神社を修造して官社に列し、また文徳天皇の仁寿2年(852)には阿蘇比〓〔★口ヘン+羊)神社に従四位を送っておなじく官社となし、ついでその2年後には健磐龍命に封戸30戸を加えられた。――
延喜年間(901〜922)に阿蘇大宮司家の友成が大宮司職に補せられて都に上ったときのできごとを題材にとったのが謡曲の名曲「高砂」です。阿蘇大宮司家は阿蘇山の火口(カルデラ)の中から産声を上げて、都にも聞こえるほどの格式をそなえるまでになったのです。
阿蘇氏は鎌倉〜室町時代に武家集団としても活躍し、謡曲「高砂」がつくられた室町時代に全盛期を迎えます。
伊藤幸司(ジャーナリスト)
★トップページに戻ります