毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・4・十和田八幡平国立公園」
1993.6――入稿原稿


■国立公園物語…十和田八幡平

●北東北3県の雪深い脊梁

 東北地方の脊梁をなす奥羽山脈の主要部分はほとんどが自然公園に指定されています。北から南に順にたどってみます。
◎十和田八幡平国立公園
◎栗駒国定公園
◎蔵王国定公園
◎磐梯朝日国立公園
 一番北側の十和田八幡平国立公園は、さらに南北に、直線距離で50キロほど離れた2つの地域に分かれています。その北側部分は青森県と秋田県の県境に広がる十和田地域(十和田湖+八甲田山。昭和11年の国立公園指定)、南側部分は岩手県と秋田県の県境をなす八幡平地域(八幡平+岩木山+駒ヶ岳。昭和31年追加指定) になっています。
 北の八甲田山は青森市の一角に取り込まれていますし、南の岩手山は盛岡市民から岩手富士と親しまれています。都市の“奥庭”として広がる国立公園という意味でユニークな存在ではないでしょうか。
 しかしこの国立公園、他地方の人にはいささかぼうようとしてとらえどころがない感じがします。そびえ立つ山々に際立った特徴を見つけにくいからではないでしょうか。
 たとえば八甲田山は標高1,200メートルから1,500メートルの峰を20ほど散りばめる火山群で、全体としては大きな山ですが目鼻だちははっきりしません。
 八幡平地区は40ほどのさまざまなタイプの火山、たとえばアスピーテ火山の八幡平、コニーデ火山の岩手山や駒ヶ岳、トロイデ火山の焼山、アスピトロイデ火山の茶臼山などのバラエティが魅力ですが、ドングリの背比べ。盛岡方向から見て「岩手富士」の岩手山も、方向が変わると「富士」ではなくなります。
 その、いささかとらえどころのない大きな体全体に良質の自然が残されているというところが、この国立公園の魅力であり、価値であるようです。東北の山のよさを満喫させてくれる新緑と紅葉、それに真冬の樹氷と春先のツアースキー、真夏の緑したたる山歩きなど、豊かな季節感が表現される大きなキャンバスとして、奥深い味わいがあるようです。
 この国立公園の性格は地味ですが、大きな目玉がひとつあります。十和田湖です。もともとは山伏の修行地で、その後、鉛鉱山や銀鉱山の湖となりました。
 明治時代の道はこの鉱山の補給路として開発され、湖上の船運が起こり、湖岸に農地も開かれます。そして魚住まぬ湖につぎつぎに各種の魚が放流され、和井内貞行によるヒメマスの養殖が天下に認められることになりました。
 ここでは、和井内貞行までの開拓史と、作家・大町桂月を巻き込んだ強力な観光開発作戦をたどってみます。それに関しては青森県自然保護課に設置された「十和田八幡平国立公園指定50周年記念事業実行委員会」が刊行した『十和田の自然と歴史』(1986年) を読むことができましたが、あとがきにこう書いてありました。
 ――歴史については昭和49年(1974) に東奥日報社から発行された『十和田湖八甲田山』(品田弥千江編著) から著者の御諒承を賜わり引用させていただきました。――
 この品田さんは1940年(昭和15) に東奥日報社に入社して記者となり、1957年(昭和32) には岩波写真文庫で『小さい新聞社』や『十和田湖』をまとめたそうです。1974年(昭和49) に刊行したのが『十和田湖八甲田山』で、人物ドラマを中心にした大冊です。ここではこれを主に読んでみました。
 もうひとつ、この国立公園の外縁のドラマですが、小岩井農場についてぜひ触れておきたいと思います。盛岡の郊外にあって岩手山の山麓にあたるこの農場はいまや国立公園の南の玄関口となり、東北有数の観光ポイントともなっていますが、大農場としての理想を追求し続けて100年になろうというきわめて特異な存在なのです。
 東北大学の菅野俊作さん(当時助教授で農業経済学専攻) は『小岩井農場の経営構造』(風間書房、1965年) という本の文頭で次のように紹介しています。
 ――小岩井農場は、明治中期に、殖産興業や大農論を背景に続出した華族・政商等の直営大農場が、ほとんど失敗に帰し、いちはやく解体するか、あるいは小作制農場に転換したのとは対照的に、明治23年(1890) の創業以来最近までの約70年にわたって、一貫して直営的経営方針をとり、しかも収支の面でも充分採算のとれる、いわば資本制農場として発展してきた、わが国における唯一の例外的な、しかも民間最大の農場である。――
 小岩井農場が保管してきた各種資料を存分に利用したこの論文と堂々とわたりあうもう1冊は、小岩井農場側からの視点で描かれた大著『小岩井農場70年史』(麓三郎編著、小岩井農牧株式会社、1968年、非売品) です。
 こちらはいわば“体制側”の歴史ですが、菅野論文と対等に渡り合いながら細部におよぶエピソードを積み上げて、岩手山の山麓に三菱財閥の岩崎久弥が描いた夢にせまろうとします。
*なお引用文においては意味を変えない範囲で常用漢字と新かなづかいになおし、あるいは一部の漢字をひらがなに変えて読みやすくした部分があります。

●最初の開拓家族

 国立公園指定50周年記念の『十和田の自然と歴史』によると、十和田湖は鉱山によって開発されたといいます。
 ――十和田湖は南部藩の霊場として江戸時代の頃より十和田神社へ参詣人が訪れ、休屋は参篭小屋の集落であった。しかし、十和田湖で本格的な生業が営まれるようになったのは鉱業である。
 湖畔の鉱山は鉛山および銀山の2カ所あり、あわせて十和田鉱山と称された。
 鉛山は『南部領内鉱山紀念録』によれば、寛文5年(1665) に発見され、南部旧蔵『雑書』によれば、泉屋又三郎は延宝6年(1678) より3年間に、運上(10分の1) を除き、鉛71,000貫余(268トン) を南部領外に搬出している。一方銀山は『紀念録』によれば享保3年(1718) に発見されている。――
 なかなか良質の鉱山であったようです。江戸時代の探検家・松浦武四郎の『鹿角日誌』によれば、嘉永3年(1850) には十和田湖の銀山からは金と銀が盛んに掘り出されていると書かれているそうです。
 ――明治年間に入っても鉱山開発熱はおとろえず、十和田鉱山は明治4年(1871) に小坂鉱山の支山として官営となり、同17年(1884) には藤田組に払い下げられており、この間に鉱山設備の近代化がはかられた。
 同和鉱業(株)『創業百年史』によれば、最盛期の明治23年(1890) には採掘鉱量1,984トン、産出金8,272グラム、銀633キログラム、銅59トンに達し、当時の従業員数は304名を数えた、と記されている。
 以上のように、鉱山開発は江戸時代から盛衰を繰り返しながら継続され、明治16〜17年ごろには2,000人を越す人口となったといわれている。そして鉱山開発のたびに周辺の立木が大量に伐採されたことも想像される。――
 十和田鉱山は明治20年代になると急速に衰退してしまうのです。そのことが、十和田湖の開拓者たちの運命を大きく左右していったようですが、いま、湖畔最大の観光拠点となっている休屋に最初に永住したのは栗山新兵衛という人であったといわれます。
 1869年(明治2) の雪解けのころ、46歳の新兵衛は妻タキ(44歳)、息子(五男、15歳)、娘(長女、12歳) をともなって移住しました。そのとき、越冬者は十和田湖畔に新兵衛一家のみであったといいます。翌年からは6歳の二女も加わるという正真正銘の開拓生活が始まったのです。
 栗山新兵衛がなぜここに開拓の居を定めたかについて、はっきりしたことはわからないようです。ただ、南部藩士で剣道の達人と伝えられる新兵衛は、1854年(安政1) に藩に対して十和田山への屯田兵設置と十和田開発の出願書を提出したといわれます。31歳のときです。
 その後の動きを、品田さんは『十和田湖八甲田山』で次のように書いています。
 ――新兵衛は藩庁へ書類を提出してからその反応を待ちつづけたが、なかなか出なかった。そこで、たまりかねて慶応元年(1865) 2月前田文治、6月大光寺市郎、9月大光寺悦右エ門へそれぞれ書面を送ったが、翌2年になって、ようやく“十和田は深山ゆえ、ここ20〜30年は土民は住めないだろうから、一両年待つべし”という返事をもらった。――
 それは新兵衛が42歳の年でした。10年間ただひたすら待ちつづけたのかどうかはわかりませんが、藩士としての自分の仕事を十和田湖に求めていたのは確かなようです。
 明治になると、新兵衛は当初の希望どおり十和田湖移住を実行に移すことになります。他にだれもいない湖畔の家で、子どものいるこの一家族だけが、ひっそりと冬篭りして春を待ったのですから、その覚悟はなまじのものではなかったのでしょう。
 新兵衛が書いたという農事暦「山励みの例」によると、畑を開きながら、周囲の山の恵みを最大限生かす生活であったようです。
4月…養蚕、シイタケ、竹節(秋まで)、オバ百合
5月…シイタケ、ワカエ、マダ
6月…シイタケ、紙漉き
7月…アラシ織、チカヤあるときは“へりなしござ”など
8月…シイタケ、藍糸、マイタケ
9月…ムキタケ、芋
 キノコ類を山から集め、山のクワの木を利用して蚕を飼い、マダをはいで縄をない、チガヤでござ、紙漉もやれば機織もやるという“山の生活”だったようです。
 栗山新兵衛につづいて休屋に入る移住者が増えて、戸数はたちまち30〜40戸になったといいます。新兵衛はそこで開拓リーダーの役目を果たしたのかもしれませんが、じつはむしろ、商才が発揮されます。カツラの大木でつくった丸木舟で鉱山相手の運送業を始め、自作の農産物の販売も行なうようになります。そしてとうとう船大工に十和田湖最初の帆かけ船を作らせます。

●鉱山から漁業へ

 栗山新兵衛が秋田県側の開拓者1号なら、青森県側の開拓者を代表するのは三浦泉八という人物です。五戸の酒造家の長男ですが、一門の名誉をになって士籍となって南部藩五戸代官所の書記となりました。青年時代には盛岡に出て藩の儒学者佐々木桑蔭の弟子となり、塾頭にまでなったといいます。
 明治維新後、泉八は三戸郡役所の職員となりますが、1883年(明治16) になって、独力で十和田湖開発の道路建設に着手することになるのです。泉八47歳の年でした。
 当時は十和田鉱山がもっとも活気のあった時代です。泉八は三戸から十和田湖畔の宇樽部に出る宇樽部新道を計画します。戸来村(現在の新郷村戸来) からの20キロのルートです。
 三浦家は経済力がありましたから、泉八はこれを「私費新道」として開発します。それも人ひとりが通れるだけの細い山道ではなく、牛馬を通せる1間幅の立派なものでした。『十和田湖八甲田山』はこう書いています。
 ――私費新道というのは、今でいう有料道路のこと、3,000余円を投じて17年(1884) には工事が完成した。通行税は2銭5厘、道路が開通して人や牛馬が利用するようになったが、ゲートをはぐらかし、あるいは間道をうまく利用する者ばかりで、工事費の回収には全然ならなかった。一方、鉱山への食糧物資の補給は船2隻による輸送が功を奏して成功、銀山の生産銅も八戸港へ搬出、事業は順調に進み道路を開さくしただけのことはあった。――
 道を開いた後は開拓村の実現です。
 ――明治18年(1885) から23年(1890) までの6カ年計画を第1期として宇樽部盆地の開墾に着手した。当時の湖畔はうっ蒼たる樹木で昼なお暗い状態、これに人夫をいれ13町2反歩(宅地を含む) を計画目標に難工事が進められた。6年目には湖岸までの畑宅地およそ30町歩余を開墾、民家30余戸を定着させるまでになった。――
 三浦泉八は湖面漁業にも手を染めます。
 古来、魚の住まない十和田湖への本格的な放流の試みは、十和田鉱山の関係者によっておこなわれたものであったようです。1877年(明治10) に元十和田鉱山関係者の吉田藤吉という人がイワナを放流したという説があります。1879年(明治12) には十和田鉱山の鉛山支山長・飯岡政治という人がコイやフナを放流しました。
それを証明するという手紙が『十和田湖八甲田山』に引用されています。1880年(明治13) に秋田県の毛馬内税務署長として鉱山に出張して、飯岡支山長から直接話を聞いた小室というひとがのちに書いた手紙です。
 ――同氏(飯岡支山長) の語るところによれば、この地は人里遠く人跡希なる深山のことなれば、食料には第一不自由を感じ居れり、それがため昨年(明治12年の夏頃) 毛馬内町より鯉1万尾、鮒若干を取り寄せ、湖中へ放養し置けり、本年もまた多少放養すべき計画ありと。さればこれより何年かの後は鯉や鮒の如き、新鮮なる肴もこの山中の食膳に上り、疲れたる登山の人々をしてその美味を喜ばしむるの日も、やがて遠きにあらざるべしと、さも愉快げに申されたるは、今もなお記憶に新たなるところに候。――
 それにつづくのが、1882年(明治15) の三浦泉八の放流になります。『十和田湖八甲田山』では、――彼(三浦泉八) は十和田鉱山の山長飯岡政治(盛岡の人) とはかり、鮮魚の供給の不便なことを切り開く一策として、費用を投じて鯉と鮒を放流した。――とありますが、またつぎのようにも書かれています。
 ――泉八は、明治15年(1882) 7月、宇樽部入部と同時に五戸からコイ、戸来からはイワナ、各親魚数百尾を運んで湖水および宇樽部川に放流している。つづいて20年夏にも、小川原湖からフナとシジミ貝を運び、宇樽部前浜へ放流し、将来を夢見ていた。――
 ちょうどこのような時期に登場するがヒメマスの養殖で成功する和井内貞行です。
 貞行は秋田県側の毛馬内で南部藩士の家に生まれ、漢学にすぐれていたので1874年(明治7) には15歳で毛馬内小学校の教壇に立ったといいます。1881年(明治14) には工部省小坂鉱山寮の吏員として十和田支山詰めとなります。飯岡支山長以下2,000人余の鉱山従業者に対する食糧の手配が若い和井内貞行の仕事であったようです。『十和田湖八甲田山』の記述をひろっていきます。
 ――交通不便な十和田湖畔に一村を形成するような住宅が建ち並び、その食料のうち、米や野菜は付近農家に求めたが、魚類は八戸、青森、能代方面に求めなければならない不便さ。貞行は勤務のかたわら、何とかして目前の湖水に魚族を養殖して湖岸住民の需要を満たしたいと考え、そのことを人々にもらして嘲笑をかっていた。
 かくて、世間の反対をしりめに独力で大湯村からコイを買い入れ、放流したのが27歳当時、翌明治18年(1885) 彼の壮挙を激励した小田島郡長は、十和田小学校開校記念としてコイ1,000尾を放流した。その後も、年々コイ、フナ、金魚、イワナなどを放流し、成長し、繁殖することを念じていた。――
 こうして放流量が増えた結果、1889年(明治22) の秋には宇樽部で、踊り上がる「尺余のコイ」が目撃されます。翌春には湖畔の各地でコイやフナが見られるようになり、三浦泉八や和井内貞行の放流努力が確実に実ってきました。
 ところが、魚がとれるとなると湖畔の人々は争うようにそれをとり始めたのです。そこで十和田鉱山居住の和井内貞行と鈴木通貫、宇樽部居住の三浦泉八の3人が連名で青森県と秋田県に対して「養魚願」を出します。これは6年間にわたってコイ30,000尾、フナ3,000尾、イワナ3,000尾を計画的に放流するので、繁殖するまでの禁漁を申し出たというものです。
 1891年(明治24) には青森県知事からの条件つき許可が与えられます。
 ――しかし、秋田県からはなんのさたもなかった。理由は、県の伺いにたいして、内務省の指令がおくれたり、また願書の字句、形式の訂正など問題にして、いたずらに日時を空費させていたようである。こうして、出願をはじめてから満4年を経過した明治26年(1893) 10月14日、いったん許可した青森県の指令を取り消し、別に両県知事の連署をもって満8カ年の期限で湖水使用権を許可したのであった。――
 ところが願書の提出側は最悪の状況になっていました。
 ――和井内は、このころ小坂鉱山に転勤を命じられており、一方、鉱山は不振のため休山寸前であった。そのうえ、三浦は鉱山への物資供給がはかばかしくないため、一時商売不振に陥り、くわえて宇樽部開拓もままにならず、極度の行き詰りにあった。――
十和田湖の養魚県問題について『十和田湖八甲田山』の編著者・品田さん自身は、つぎのような立場を表明しています。
 ――残念に思うことは、十和田湖が青森・秋田両県にまたがっているためか、本来協同でなすべき養魚放流が、終止二分され、深刻な競争になったことである。しかも、その抗争が親子二代にもわたるドラマを演じなければならなかった。
 1人の英雄(和井内貞行) をつくり、その功績を讃えることは、それなりによい。しかし、十和田湖のヒメマスを実際、移入したのは青森県である。しかも、県水産試験場技手上林伊三郎が、支笏湖へ派遣され、ヒメマスの魚卵20万粒を買い受けることが、こんにちのヒメマスの発端なのである。青森県水産試験場の企画をまず第1に賞し、この企画を実行にうつした上林伊三郎を次に賞し、和井内貞行の熱意にほだされて、5万粒を供給したその公正な取り扱いをも讃えるべきであろう。
 その後における和井内貞行の苦心と私財をなげうっての努力は、まさに美談である。が、それが「われ幻の魚を見たり」(映画) に脚色され、教科書(偉人伝) に採用されるほどの功労であったか、どうか? 明治37年(1904) から昭和27年(1952) までの48年間にわたる長い長い相克。それが協同漁業権免許によって、ようやく湖畔漁民に解放された。それまで特定の人に専有されていたのである。――
 つまり養魚放流は十和田湖畔の人々がおたがいに開拓者精神で行なっていくべきであったのに、法的処理のちょっとした間隙を突いて和井内貞行1人がその権利を獲得してしまったことに対する復権を主張しているのです。
 その論拠についてはここでは紹介しませんが、十和田湖の漁業権がある日を境にして民間の一個人の手に与えられてしまったという歴史的事実は動かないようです。

●観光開発

 十和田湖の湖面漁業の権利が和井内個人の手中に握られる直前まで調停役として活躍したのが法奥沢村の村長、小笠原耕一という人でした。
 現在十和田市に属する法奥沢村から十和田湖に登る道すじは「十和田新道」とよばれていました。元禄6年という日付のある石碑がいまも十和田湖畔の子ノ口にありますが、十和田神社の別当の願による藩命により、五戸の南部藩士木村又助秀晴が普請したものと記されています。その「十和田新道」は尾根すじの道でした。
 いまの国道102号にあたる奥入瀬渓流の道は、この小笠原村長の時代にひらかれた林道が最初です。『十和田湖八甲田山』はこう書いています。
 ――この林道は、明治35年(1902) の凶作に当り救済事業の一環として工事が着手されたものである。当時の大林区署(現青森営林局) から地元村長としての意見をきかれた時、彼は口をきわめて、将来、十和田湖が世にもマレな湖水として観光客をおどろかすばかりでなく、奥入瀬川も、その渓流美の最たるものとして内外の人々をひきつけるだろう、とその必要性を具申した。この熱意にほだされた大林区署は、工事費4,000円を投じ、わずか4尺の道幅ではあったが、湖畔休屋まで、牛馬が通れるほどの工事を完工したのである。のちにこの林道が、郡道になり、43年(1910) には県道に昇格した。――
 この道をたどったのが人気作家の大町桂月でした。1909年(明治42) に雑誌「太陽」に発表された「十和田湖」という紀行文の冒頭にはつぎのようなエピソードが語られています。
 ある日、当時有名な人物評論家で雑誌「太陽」の編集長である鳥谷部春汀がやってきて、「日光に行ってきた」というのです。
「珍らしいじゃないか、君のような旅行嫌いが。どういう風の吹き回しだ?」
 すると鳥谷部春汀はこういったのです。
「こんど久方ぶりに故郷に帰って、母親を東京に連れてこようと思っているのだが、ついでに君を故郷の十和田湖に案内したいと思ってね。
 十和田湖は子どものころに何度か行って見ているので天下の絶景だと思うんだが、比較できる例を知らない。そこで名高い華厳の滝や中禅寺湖を見てきたたというわけだ。十和田湖は日光にまさるとも劣らない。ぜひ来てくれ」
 こうして桂月は1908年(明治41) の8月末に十和田湖に向かい、18日をかけて湖に通じる各方向からの道を踏破したのです。
 ――(8月) 30日、休屋さしてゆく。(三浦) 道太郎氏の子、一雄氏、従弟小平四郎氏、新たに加はる。共に少年の学生なり。――
 ここに登場する一雄少年は三浦泉八の孫で、のちに農林大臣となります。
 翌31日には鳥谷部春汀は持病の痔で宇樽部にとどまり、旧知の三浦泉八とゆっくり語らうことになりました。そして、桂月のほうはこの日の船遊びが十和田湖探勝の核心となりました。
 ――ここは中海(中湖) の東岸なり。断崖じかに湖面に立ち、崖高く水深し。かつ清し。両手にてかかゆるばかりの石を、岸より崩して水に落し、俯してこれを見るに、あたかも魚のごとく、ひらひらと沈みゆき、鯛大となり、鰯大となり、金魚大となり、ついに見る能はざるに至る。
 船夫いわく、十和田湖中この中海が最も深し。かつて百尋(約180メートル) の縄を下しけるに、水底に届かざりきと。地理学者の説によるに、十和田湖全体は、陥没より生じたるが、この中海は、噴火口なりと。
 日暮崎を始めとし、崖の突出せるもの多し。崎といふよりも、むしろ巌といふべし。いずれもみな巨巌なり。しかもみな姫小松を帯ぶ。――
 桂月の目は絶景の中を探ります。
 ――余はこの中海の東岸にありては、最も御倉山を取る。千尺(約300メートル) の断崖、西北より起り、南をめぐりて東に至り一山をとりかこむ。長さ24〜25町(2.7キロ前後) もあるべし、かくのごときは他にその類を見ず。
 何か名あるかと問へば、無しといふ。千丈幕と名づけてはいかにといへば、みな可と称す。百間幕なら、他にも多くあり。千丈幕は、御倉山の特色にして、かねて十和田湖の一特色なり。この一大断崖のために、人は陸地よりこの山に上る能はず。満山みな樹、十和田湖畔、猿は、ただこの山にのみ住む。秋晩、木実熟する頃は、群猿夜月に叫ぶ。――
 桂月は和井内貞行の孵化場をも訪れます。
 ――明くれば、9月1日なり。三浦氏一族の2少年、宇樽部より来る。(休屋の) 織田氏を辞して、共に船に乗り、追手(生出) といふところに至り、和井内貞行氏の孵化場を見る。今は、孵化の時期にあらず。酒精(アルコール) 漬の標本あり。卵より魚の形を成すまでの順序、くわしく示さる。和井内氏は、カバチェポと称する北海道の鱒をとりよせて、ここに養殖すること年あり。この湖の水、このカバチェポに適すと見えて、生長の速なること、本元よりも優れり。和井内鱒の名を付す。本土にこの鱒あるは、ただここのみなりとぞ。功により緑綬褒章を賜はる。われこの山上に来りてより、日々新鮮なる鱒に舌鼓うつ。多謝す、和井内氏の賜物なり。――
 いよいよ下山です。奥入瀬渓流の道をたどります。
 ――この渓流は、他には見がたき風致を有す。湖口より蔦川を入るるまでおよそ3里、島多し。みな木を帯ぶ。巌の水中に立てるものも多し。それもみな木を帯ぶ。これ奥入瀬渓流の特色なり。渓流は普通勾配急に、水の増減はなはだしく、水中に巌あるも、木を帯ぶるに由なきなり。ひとり奥入瀬の然らざるは、ほとんど勾配なきまでに流れゆるやかにして、十和田の全山木しげるがために、絶えて洪水なく、ことに老樹天をおおふによるなり。さればとて、時に急湍もありて、単調にはあらず。げにや、3里の間、山毛欅、桂、楢、栃などの大木しげり合ひ、かずらかかる。仰いで天を見ず。下には、こごみ茂る。あじさいや蛇麻の花もさきたり。いかなる炎天とても、ここを上下する者は、絶えて夏あるを知らざるべし。
 左右は断崖なり。瀑布を帯ぶ。白布瀑を最も美観とす。白糸瀑、姉妹瀑、雲井瀑、柵瀑などは、その名あるものなるが、いまだ名のつかざるものも多し。高さいづれも10丈にあまる、木繁れるがために落口の見えざるものあり、下部の見えざるものありて、ますます奥ゆかしく感ぜられる。
 十和田湖に遊びて、この渓流を見ざるものは、いまだ十和田湖を見たるものといふべからざるなり。――
 こうして紀行文の名手・大町桂月によって十和田湖と奥入瀬渓流は、一気にその名を全国に知られる存在となったのです。

●国立公園に向けて

 大町桂月が初めて十和田湖を訪れたころ、青森県知事として着任したのが内務官僚・武田千代三郎です。その武田知事が1911年(明治44) に皇太子(後の大正天皇) から「十和田湖を観賞できないか」と直接聞かれたと伝えられています。桂月の宣伝力はそれほど強力であったのです。
 武田知事はさっそく大視察団を編成して奥入瀬渓流から十和田湖畔へと上がってみます。そして武田知事は「十和田保勝論」を明治45年(大正元年) の東奥日報元旦号に発表します。これは長文、かつ名文ですが、地方行政の最高責任者による観光開発論としても注目に値します。
 ――天下の奇をもって鳴り、水の清きをもって識らるるもの少なしとせず。車道の通じ、鉄軌の敷かるるや、別墅(別荘) これを追い、酒楼(レストラン) いそいであつまり、凡人群来俗悪の手をたくましうし、仙境はたちまちにして赤裸醜怪の風致と化し、霊地は一朝にして弦歌淫楽の穢土となる。――
 観光化は歓楽化に陥ってしまうというのです。
 ――はなはだしいかな、趣味の転倒せるや、春うららかにして俗悪の広告は満山の花よりも多く、秋なかばならざるに俗客狼藉して霊地紅葉を見ず、およそ天下の名勝なるもの、かくして日に俗了(俗化) し月に荒廃す。
 ひとり十和田湖にいたりてはすなわちしからず。遠く俗塵の寰外(外界) にありて、煤煙あがらず、異臭飛ばず、千歳の老樹はしんしんとして天空を摩し、万条の小溪はこんこんとして太古の調を奏し、気清み口静かにして、人をして元始の民たるの思あらしむ。――
 俗塵に汚されていない十和田湖の価値に目覚めた上での開発論……。
 ――この地四囲山岳重畳の中にあり、天これを惜しみ俗人を忌むこと極めて厳なりといえども、またことさらに路次(道すじ) を険ならしめて、老若の跋渉(山を越え川を渡る) をかたからしむるの愚を採らず、汽車を古間木(三沢) にて棄てて徒歩すれば、路はゆるやかなる傾斜をなし、絶えて函嶺(箱根山) の峻なく、また晃山の嶮なし。途に泊する1夜にして、身ははやくすでに太古の民となり、旦(夜明け) には野老を伴うて細鱗を湖上に釣り、夕には山童を走らせて塩噌を樵家に乞ひ、俺留(久しくとどまる) 数日、眼を山水の美に楽ましめ、心を聖賢の書に養ひ、悠々自適、塵界の煩を忘れんには、その楽の至大なる、天下何者か能くこれにしくものあらんや。――
 文明地からのアプローチの演出によって、訪れる人の一人ひとりが自ら身を清め、心を安らげて仙境に入る、というみごとなリゾート論になっています。武田県知事はこれをバックボーンとして、まず、有力者による「十和田保勝会」を発足させ、県議会に対して、三沢・十和田市から奥入瀬渓流をたどって東岸に出る道と、弘前・黒石から西岸に出てくる道を対象にした十和田道建設予算案(総額3万円) を提出します。これらの道はつながって、現在では国道102号となっています。
 かくして、武田県知事は十和田湖開発に邁進したのですが、ちょうどこの時期に、地元の法奥沢村(現在の十和田湖町) の村長・小笠原耕一が県議会議員に初当選、武田知事が神宮皇学館長となって青森を去ってから後、国立公園指定獲得までの運動の中心となっていきます。
 話は変わって、作家の大町桂月です。桂月はかつて十和田湖の名を天下に広めたのとおなじように、北海道の大雪山を衝撃的にデビューさせます(大雪山国立公園の巻で紹介)。その北海道旅行の帰途、1922年(大正11) 11月に青函連絡船を下りた桂月は青森でたくさんの人たちに迎えられます。
 14年前、1908年(明治41) の取材旅行のときの懐かしい顔が久しぶりに集まったというわけですが、それが、桂月が十和田・八甲田の魅力にひきこまれ、生活の本拠地そのものまで八甲田山の蔦温泉に移してしまうきっかけとなったのです。桂月はわずか3年後の1925年(大正14) に蔦温泉で亡くなるのですが、十和田と八甲田の山々をおおいにめぐり歩きます。
 桂月が急死するひと月前に、小笠原耕一は「十和田湖ヲ中心トスル国立公園設置ニ関スル請願」を起草してもらっていました。そして桂月の死後、漁業権をめぐってゴタゴタつづきの関係であった秋田県側と手を結んで「十和田国立公園期成会」を結成します。それを最後の仕事として、1927年(昭和2) には桂月の後を追うようにこの世を去るのです。
 小笠原耕一という人は村長→県議→名誉村長として後半生を十和田湖開発に捧げましたが、エリートの内務官僚・武田県知事と有名作家の大町桂月を十和田湖にしっかりとつなぎとめるのに成功したのです。
 十和田湖によって結びついたこの3人の功績をたたえ、国立公園15周年を記念して制作されたのが高村光太郎の「湖畔の乙女」像なのです。

●氏も育ちも特異な総合大農場

 十和田湖で湖畔の住民たちが共同で漁業権を申請したころ、岩手山のふもとに大きな農場がひとつ産声を上げました。
 三菱出身の作家・麓三郎さんがまとめた『小岩井農場70年史』は、明治20年代の「大農論」から説かれています。
 ――明治19年(1886) 頃から軍用馬の確保、農耕馬利用の拡大など馬匹の改良を主張する情勢がおこり、畜産政策は新段階に入った。当時政府の御雇であった農学者フェスカやエッケルトなども日本農業を近代化させるためには、洋種家畜の導入をはかり大農経営によるべきことを力説していたが、明治18年(1885) 外務大臣となった井上馨が農産物の輸出振興をはかるため、農業生産の発展拡大という見地から大農論を主唱し、21年(1888) 彼が農商務大臣に転ずるや、一層これを協調して一世を風靡した。井上の大農論には多分に政治的色彩があったが、その頃、札幌農学校の佐藤昌介は農政的立場から、やはり大農論を展開して世の注目をひいた。――
 大農論から、大農場が生まれます。
 ――このような情勢に動かされてか、華族、高官、富商等が相ついで北海道、東北、関東地方の広漠たる国有林野をめがけて、払下げ開墾を出願して大農場の開設を試みた。またこの頃帝室財産の増強も図られ、北海道、東北地方に御料牧場の開設が見られた。これよりさき、北海道には旧大名華族による士族授産のための農場が開設せられている。いまこれら農場の1,000町歩以上のものを拾ってみると次のようである。
明治12年…開進社…………北海道……5,175町歩
明治13年…肇耕社…………栃木県……1,000町歩
明治14年…毛利元徳………北海道……1,000町歩
明治14年…青木周蔵………栃木県……1,561町歩
明治16年…前田利嗣………北海道……2,533町歩
明治18年…毛利元敏………栃木県……1,525町歩
明治19年…北白川宮………群馬県……2,519町歩
明治22年…華族組合………北海道… 50,000町歩
明治22年…前田利嗣………北海道……2,680町歩
明治22年…藤田伝三郎……岡山県……1,500町歩
明治23年…渋沢栄一………青森県……1,680町歩
明治24年…井上勝…………岩手県……3,6000町歩
明治26年…蜂須賀茂韶……北海道……6,242町歩
明治26年…戸田康泰………北海道……1,231町歩
明治26年…松方正義………栃木県……1,654町歩
明治29年…池田仲博………北海道……1,629町歩
明治29年…曽我祐準………北海道……1,617町歩
 これらの農場は直営の形式によって、牧畜を主体とし泰西農法に準拠して、在来の日本農業に新生面を開くことを企図して始められたのであったが、そのほとんどすべてが成功を見ることが出来なかった。――
 失敗相次いだ大農場のなかで、明治24年の井上勝の農場がここで取り上げる小岩井農場です。歴史的に見れば、ここに岩崎弥之助の名を入れて、明治23年の渋沢栄一の農場(現在の十和田市にあって、第2次世界大戦後解体、解放) と対をなして見ていきたいところです。ちなみに十和田湖畔にある十和田科学博物館が創立20周年を迎えた1974年に「設立など地方文化の発展に貢献」して河北文化賞を受賞した杉本行雄さんは、渋沢栄一の書生から渋沢敬三の秘書となり、十和田市の渋沢農場を解体するため青森県人となった人。
 ポケットマネーで常民文化研究所を運営して200人を越すといわれる民俗/民族学者を育てた渋沢敬三と、動植物の研究に真の喜びを感じて、いわば個人的な趣味から世界各地にまで手を広げての農園経営を行なったという三菱財閥3代目の岩崎久弥とは、知的でスケールの大きな趣味において双璧といえそうです。
 話を小岩井牧場にもどすと、創設者の井上勝は鉄道院総裁。明治14年から日本鉄道会社が集めた民間資金で実施された東京・青森間の鉄道建設を、指揮、監督、管理する立場でした。
『小岩井農場70年史』は次のようなエピソードを紹介しています。
 ――日本鉄道の敷設工事が進んで盛岡付近の工事中の折であろうか。彼(井上勝) は岩手県知事の案内で岩手山麓の素朴な網帳温泉に遊んだ際、広漠たる裾野の景観に打たれて同行の知事を顧み、自分はこれまで鉄道開発のために幾多の美田良圃を潰したが、このような広大な荒蕪地を開墾して、せめてその埋め合わせをしたいものだとの感慨を洩らした。
 その後ある宴席で、日本鉄道会社の副社長であった小野義真にこのことを語り、同席の岩崎弥之助に出資援助を求めたところ、岩崎が即座にその出資を約したのが、農場創成の発端であるというのである。――
 この話は70年史の筆者自身がつづけて――まことにおもしろい話であるけれども、これを資料によって裏付けることは出来ない――と書いています。
 また「国有鉄道盛岡工場70年史」を引いて、――同工場が盛岡に設置されたのは、第1候補地仙台市において用地買収が困難であったことが主要原因であるが、鉄道局長井上が小岩井農場を開いて大農機械を使用するので、その修理にも役立つだろうとの考えもあったかのように記述している。――と注記しています。
 ――井上が農場開創の動機について、彼が明治20年子爵に叙せられて新華族となり、華族として一家の経済的基礎を固める必要があり、当時盛んであった華族の土地所有の動きに乗ったものであり、しかも有利な条件の土地を得ることは彼の財力が及ばないので、条件の劣るこの官有未開地を手に入れたのであろうという推測が下されている。しかしこれは一応の推測にすぎないもので、客観的条件のみに結びつけて解釈しようとしたものであろう。――
 筆者の麓三郎さんはさまざまな背景データを並べながら、しだいに説得力ある結論へと誘いこんでいきます。
 ――井上が鉄道技術者として終始した主幹的条件から考えれば、むしろ前述の語り伝えの方が動機としてふさわしいものがあると思われる。彼が土地所有とか、農牧事業ということに対して、どんな考えをもっていたかを知るような資料も今のところ得られない。
 ただ推測を下せば、彼は英国留学中、彼地の貴族達が経営する牧場を見る機会も度々あったであろうし、当時国内における華族・富豪間に牧畜熱の盛んであったことも知っていたはずである。
 また彼は馬術を好み、その道に鍛練であったといわれ、そのため宮中の馬寄せの御会にも度々参列を許されたという。――
 麓さんは井上を――馬については一廉の見識をもっていたものといっていいであろう――と判断しています。
 ともかく井上勝は官有地の予約払い下げ400町歩と、借地3,222町歩という広大な農場用地を確保したのです。その保証人となったのが三菱の代理人のようなかたちで日本鉄道副社長となった小野義真と、丸ノ内の買収など土地投資に辣腕をふるっていた岩崎弥之助でした。
 弥之助は井上に対して年1万円ずつ10年間継続して資金を提供するという契約書を交わしていますが、それによると井上勝は「事業支配之労力ヲ負担」し、岩崎弥之助は「農場開設之資本金ヲ支出」すると役割を定めています。
 仲介役、あるいは弥之助の代理人として動いた小野義真もふくめた3人の名をとって、農場の名は「小岩井」となったのです。
 しかし、おおかたの大農場と同様に、井上の農場経営は投下した資金を食い潰しただけのようでした。
 ――泰西農法による大農式経営、優良牛馬の飼育繁殖、わが国農畜産業に対する貢献など、描かれた構想は素晴らしかったが、そのたどる途は苦難そのものであった。この結果を最も端的に示すものは、創業期8カ年間の投資額73,862円に対して、その収入するところわずかに3,386円という事実であった。――
 こうして約束の10年を待たずに井上は農場経営から手を引くことになるのです。井上はそのとき、宮内省主馬頭の藤波言忠子爵を紹介します。藤波はほぼ同じ面積の下総御料牧場(現在の成田空港一帯) を新しい経営理論によって建て直しつつあったのです。下総御料牧場の場長・新山壮輔が小岩井農場を視察します。
 ――新山の調査した結論は「地味は極めて痩薄(やせ土) その他諸種の事情が農耕に好適の地ではないが、場内には幾多の清流があり、それに約3里の距離に県庁所在地の盛岡を控えているから、集約的牧畜ならば成功の見込がある」ということであった。そして「以後の牧畜を営むに当たり、以前の事業がほとんどなんらの足し前にならず、いわば万事が新規まきなおしでなくてはならぬ」という意見もつけ加えて藤波に報告した。――
 こうして創業者の井上は、牧畜技術において当時最高の専門家を紹介して、身を引いたのです。
『小岩井農場70年史』のエピソードはさらに重ねられていきますが、その結果は、どうなったのか? 東北大学の菅野俊作さんは『小岩井農場の経営構造』でこうまとめています。
 ――岩崎家に農場が継承された直後、国有林野経営の転換に伴う不要存置処分が開始されたから、借用中の農場用地約3,600町歩が約6万円で払い下げられ、ここにその所有権が確立されると同時に、近傍農村の旧入会慣行が排除される根拠ともなったわけである。
 また、宮内省主馬頭藤波言忠子爵を総監督、下総御料牧場長新山壮輔を監督に迎え、本格的な欧米流の種畜経営に転換した。すなわち、欧米諸国から、馬、羊、牛の「高等貴種」の種畜を大量に輸入するとともに、35年(1902) に、1期5年・3期15カ年の長期計画をたて、経営はようやく軌道にのった。――
 小岩井農場は下総御料牧場を模範とする形になりましたが、宮内省の高級官僚であった藤波・新山コンビは、日露戦争の経験から立てられた政府の馬政刷新政策の責任者として本来の業務に専念すべく小岩井農場での指導を辞任します。1906年(明治39) のことです。
 このころ、三菱会社の社長は3代目で、初代弥太郎の長男・久弥でした。在任は1893年(明治26) から1916年(大正5) で、この間に三菱財閥は不動の地位を築きます。
 しかしアメリカのペンシルバニア大学に留学経験をもつ岩崎久弥個人は自然科学系の洋書を好んで読む学究肌の一面をもっていたといいます。たぶんその個人的な関心から、自身、直接農場主として経営に当たることになりました。そしてそれはまた、韓国における米作農場、マレーにおける大型ゴム園、台湾におけるパルプ用竹林、北海道に8,000町歩の拓北農場、ブラジルやインドネシアなどへと広がっていく農牧事業の中心的存在となったのでした。
 岩崎久弥はここに最高の技術的裏付けと、惜しみない投資によって、小岩井農場を理想のかたちに仕上げていこうと決意したようです。『小岩井農場の経営構造』ではこう解説されます。
 ――まず、明治末期には、努力を続けてきた水田経営を廃止して、大規模な飼料作物と牧草栽培を開始し、畜力中心の技術と輪作との両体系もほぼ確立した。農耕地も一躍600町歩に激増した。また、優秀な畜種をさらに輸入し繁殖をはかったので、家畜の飼育頭数も激増し、以後の質的な向上の基礎をきずいたわけである。――
 ――山林経営も本格化し、年間の植林面積は平均100町歩をこえ、その結果、明治末期には早くも1,000町歩に達した。――
 ――育馬部では、大正12年(1923) の競馬法の改正を契機に、競争馬生産が発展し、前記世界的な名馬の輸入および雑種の淘汰と相まって、売上高が飛躍的に伸び、農場全体の収支を昭和5年(1930) 以降恒常的に黒字に転じさせた原動力となった。――
 ――農産部では、鉄道(盛岡・雫石間) の開通が、(第1次) 大戦後の好景気を反映した労働力の流出及び賃金高騰に拍車をかけたので、大正14年(1925) に輪作体系を根本的に改めると同時に、昭和2年(1927) にはトラクターを中心とした機械技術体系が確立した。自給肥料から化学肥料に転換したのもほぼ同時期である。――
 ――かくして、昭和5年(1930) 以降は、現金による経常収支だけでも恒常的な黒字に転じ、資本制農場としての拡大再生産が可能となったわけである。これを契機に、農場は昭和12年(1937) に、資本金200万円(払込額は100万円。20,000株中岩崎家11,000株、三菱東山農事会社4,000株、その他農場関係者5,000株) の株式会社に改組したのである。――
 かくして小岩井農場は日本に他に例を見ない民間最大の大農園として成長したのです。
 しかし敗戦によって解体の危機にさらされます。なにしろ財閥が解体され、農地が解放されます。1947年(昭和22) に第1次農地解放で約600町歩を解放し、1949年(昭和24) に第2次農地解放として約460町歩、合わせて1,059町歩を失います。
 もっとも、第2次農地解放をめざす「自作農創設特別措置法」では法人が所有する自作牧野が農地と合わせて40町歩を超えるときには、とくに農林大臣の承認を受けて県知事が指定しない限り、解放買収することができると規定されていました。
 しかし優良種畜生産の実績のある民間牧場は存続させたいという農政的な主張もあって、全国159の大農場のうち21の牧場が生き延びることになりました。このほとんどは北海道にあって、本州では小岩井農場と群馬県の神津牧場だけでした。
 小岩井農場は存続の条件として競争馬の飼育を辞めることになります。従業員に対して持ち株を解放して会社としての存続をはかり、木材の切り売りによって苦境を乗り越えます。『小岩井農場の経営構造』によれば次のように展開したのです。
 ――従来の三菱1本の資金源とは異質的な国家的融資ないしは社債の発行によって、製乳所を拡張し、牧草地の改良を進め、また機械大農具を購入して技術を高度化し、さらに大規模な造林を再開したわけである。これらは、貸付牛制度による集乳量の増大、コストの切り下げのための臨時雇の排除と請負作業の増加、外部木材の購入・転売量の激増といういわば外業部の拡大と相まって、経営の合理化、高度化を促進し、したがって売上高の増大、支出の減少、つまり純益の増大という結果となってあらわれ、再建計画は所期以上の成果をあげることになった。
 30年(1955) 以降は、こうした基礎の上に経営が質量ともにさらに発展を続け今日にいたっている。ここで最も注目されるのは、株式が再び三菱の手に集中され、農場がその支配下に復帰したことである。――

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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