毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・6・吉野熊野国立公園」
1993.8――入稿原稿


■国立公園物語…吉野熊野

●山から海へ――はじめに

 吉野熊野国立公園の広がりを実感したいと思ってグルッとひとまわりしただけで、車の走行距離は1,000kmを超えました。
 国立公園は北の端にあたる吉野山から最南の串本・潮岬まで、南北に直線で約100kmにすぎません。潮岬から北東に向かって、太地、那智勝浦、新宮、熊野、尾鷲とつづく海岸線も国立公園に指定されていますが、こちらは直線で90kmほど。じつは組みしやすしと、軽い気持ちで出かけたのです。
 もっとも、直線的に走っても、それぞれ往復すると合計400km近くになります。しかも大半はドライブを楽しくしてくれるワインディングロードですから、道のりは山道では2倍ちかくになりました。
 それだけではありません、吉野山を見て、熊野三山を見れば要所は押さえた、というわけにいかないということに気づいたのです。吉野にしても熊野にしても、それ自身で完結している世界ではなく、広大な背景をもって迫ってくるのです。寄り道も含め、1,000km以上を走りまわってなお、広大な核心部がポッカリ残ったというのが正直な印象です。
 車で走ってみて感じたのは、まず紀伊半島の大きさでした。大阪湾と伊勢湾でくびれたところから南の部分を半島と見て、切り離して四国と比べてみるとわかります。四国の西側半分より、はるかに大きいのです。
 そして半島は和歌山県、奈良県、三重県によって3等分されている、というふうに見えてきました。奈良県が思っていたよりずっと南まで下がっていて、紀伊半島の真中にドッカと腰をすえています。
 奈良県の北側3分の1ほどは大和朝廷が生まれた奈良盆地。それに対して吉野川以南の3分の2は紀伊山地の核心部で、北から南に大峰山脈が走っています。
 その大峰山脈の北のはずれが吉野山、南のはずれが玉置(たまき)山で、玉置山を越えて和歌山県に入ると、本宮(熊野本宮大社)、新宮(熊野速玉大社)、那智(熊野那智大社)の熊野三山があって、そこはもう熊野灘の海岸です。
 奈良の都から見ると、奈良平野を南に下って吉野川の河谷に出たところにあるのが吉野山。飛鳥からならわずかに10km、奈良からでも30kmほどの道のりです。ちなみに京都からなら、南に約70kmという距離感になります。そして吉野山から南に、100kmにもおよぶ重畳たる山岳地帯がひろがっているのです。
 しかしこのような距離感は、自動車という“超能力”と地図という“秘図”をあわせ持った現代人のものにすぎません。かつてこの山岳にたくさんの人々がやってきたとき、それは別世界に踏み込むのにひとしいものであったはずです。
 車と地図に加えて、道すじの本屋(レンタルビデオショップと併用の郊外型書店がずいぶん目につきました)や、観光地の売店で見つけた本を読んでみました。
 吉野山については、吉野山ビジターセンターに置いてあった宮坂敏和著『吉野路案内記』(1979年、吉野町観光課発行)が力作でした。
 著者の宮坂さんは吉野山での教員生活が合計20年間に及んだという経験(吉野山小学校校長、吉野中学校長も歴任)と、後に奈良文化女子短期大学教授(日本史)となった専門知識によって、意欲的なガイダンスをしてくれます。あとがきにはこうあります。
 ――あのころから吉野に訪れた人々の道案内をすることも度々だったが、そうした時の心おぼえにもと、ノートされてあったメモに多少の修正を加えて整理したのが、吉野山案内記だった。
 あれから20年の歳月が流れて再版本もなくなったころから、多くの方々のすすめもあり、私としても今一度見直したい意欲がわいていた時だったので、三たび筆をとり直して旧稿の若干を改め、最近まとめた一部をも加えて世に問うことを決意した。――
 吉野山から大峰山脈を縦走したルポには、前田良一著『大峯山秘録―花の果てを縦走する』(1985年、大阪書籍)という本がありました。この本の著者前田さんも、あとがきに吉野山との特別な因縁を書いています。
 ――私が新聞記者(奈良新聞)になって最初に赴任したのが吉野支局でした。わずかばかりの引越し荷物を積んだ新聞発送トラックで吉野に初めて入った日のことが、昨日のように思い出されます。
 雨の降りしきる春の日でした。緑なす大峰山系が雨で白くかすみ、吉野山が満々たる水量をたたえて流れていました。この日から私のペンの人生、ペンの旅が始まったのです。吉野時代を振り返ると、今も胸に熱いものが込み上げてまいります。支局といっても勤務員は私1人。本社から最も遠い支局で、しかも管轄面積は奈良県の3分の1にも達する広大な面積でした。ここを自分の領地のように思って単車で走り回ったものです。――
 ――山上ヶ岳(さんじょうがたけ)の戸開け式には毎年登頂しました。そして昭和50年(1975)には念願の奥駈け修行に参加しました。このときは桜本坊(さくらもとぼう)行者に同行しました。次いで昭和56年(1981)には東南院の奥駈けに同行しました。すでに転勤して吉野を離れていたのですが、梶野順葆師に誘われて取材を決行しました。
 私がまだ縦走したことのない、大峰山系でも人跡まれな南部山岳地帯を行くのと、梶野師の「新聞記者でここまで足を踏み入れた人はいない。もし前田さん、あなたが行ったら第1号になれるよ」のこの言葉にむらむらと闘志が湧いて参加したのです。そして「あんたの足やったら道は楽なもんや」のひとことも私を安心させました。
 ところが、実際には精神も肉体も極限状態をさまよう苦悶の8泊9日になったのでした。――
 前田記者のこの奥駈けルポは奈良新聞で1981年の9月から11月まで連載されたものの再録となっています。
 熊野三山については豊島修著『死の国・熊野』(1992年、講談社現代新書)を読んでみましたが、出発前に目を通していた宮家準・編の『民衆宗教史叢書第21巻―熊野信仰』(1990年、雄山閣出版)は熊野研究の古典を一覧できるという点で、見通しのよいガイダンスになりました。
 最後に「太地町立くじらの博物館」で捕鯨に関する本を何冊か買いました。その1冊は熊野太地捕鯨史編纂委員会編『鯨に挑む町―熊野の太地』(1965年、平凡社)ですが、執筆を担当した橋浦泰雄さんのあとがきを読むと、この本のこころざしの高さがわかります。
 ――遺憾なことに、わが国にはまだ正確な全日本の捕鯨史書が編纂されていない。江戸時代後期に出た、簡単ながら全国の漁場をしるした1、2の稿本があるが、その記述中には、江戸時代の中期から明治の初期にかけて、日本の捕鯨方法の基本となった網捕り法の創始についての誤記があり、その累を後代に及ぼしている。
 故渋沢敬三氏は、鯨とは限らぬが、早くからその集大成を計画していたようで、その主宰するアチックミューゼアム(現在の常民文化研究所)では、その一端ともいうべき伊豆川・吉岡氏らの『土佐捕鯨史』4巻を刊行した。主として土佐の鯨方の資料を整理したものだが、資料集としては完璧といってもよい良著である。しかし敗戦後渋沢氏は、多年にわたって収集した、その膨大な全資料を、文部省・農林省の史料館に委譲した。おそらく全日本捕鯨史の編纂のような大事業を、個人の手で行なうことは至難であると察知したからであろう。まさにそのとおりで、かかる大事業は、しかるべき公的な機関で行なわれるべきであろう。しかし、われわれはまだ、そうした企画が行なわれていることを聞かない。――
 1962年からIWC(国際捕鯨委員会)は国別の捕獲割り当て数を設定するようになっていましたが、この本のあとがきが書かれた1965年までには英国とオランダが南氷洋捕鯨から脱落しており、ノルウェーも68年に撤退すると、南氷洋で母船式捕鯨を展開し続けるのはソ連と日本の2か国だけになるのです。あとがきは、その後の動きを予想して、具体的な提案にページをさいています。
 ――捕鯨についての各国の特殊性を知るということは、各国にとっても大きな利益をもたらすことで、これは十分比較検討される必要がある。鯨の利用方法などは、各国間に大きな相違がある。わが国ではかつて100%利用されて来たが、アメリカでは鯨油のみを採取して、他は放棄した時代もあり、その他国々によってそれぞれ異なっている。こうしたその国のいろいろな特殊性の検討と、その利害得失の理解の上に立った適正な対策でないと、国々の納得をうることは困難であろう。
 このような見地から、各国は正確にその特殊性を明かにした捕鯨史を編纂し、互いに持ち寄って、比較検討し、全人類的な見地から利害得失を会得して、前記のように適正な対策を樹立し、ただちに実施することが必要である。各国の捕鯨史が完成するならば、それはやがて全世界捕鯨史の基幹となるものであり、その公刊は、必ずや全人類に多大の貢献をもたらすものと信ずる。
 今日、日本は国際捕鯨界で最高の成果をあげているのであるから、この機を逸せず、その編纂・刊行実現のために、先頭に立って努力するよう切望する。
 日本が国際会議に前記の問題を提起し、その実現のために先頭に立つとするなら、まずみずから率先して完全正確な日本捕鯨史の編纂・公刊を要する。それを国際会議に提出して、各国の批判検討を乞い、同時に日本の捕鯨について、各国の認識を高めなくてはならない。
 しかるにすでに述べたように、わが国には日本捕鯨の特殊性を総括した史書はなく、重要な史実についてすらも、異説が並存している現状である。これではいけない。公的機関によって、すみやかに全日本捕鯨史の編纂と公刊とが行なわれることを希望するのは、また以上の理由にもよるのである。――
*なお引用文中で金峯、大峯とあるものは、寺社名の金峯山寺、大峯山寺以外は、原則として金峰、大峰と表記しました。

●吉野の千本桜

 吉野といえば断然日本一のサクラの名所という印象があります。下千本、中千本、上千本、そして奥千本と四重のサクラの帯ができていて、例年4月の上旬から下旬にかけて順に移り咲いていきます。花見のピークが1日だけ、というのではないところに吉野のサクラの価値があるのではないでしょうか。
 宮坂敏和さんの『吉野路案内記』も、当然、サクラの紹介から始まります。
 ――さくら博士といわれた三好学は、吉野山がさくらの名所として歴史が古いこと、数が多いこと、地域が広いこと、山や谷の景観におもむきがあってさくらの名所にふさわしい地形である点からまさに天下随一だといわれたが、まことにその通りである。
「吉野山かすみの奥は知らねども見ゆる限りはさくらなりけり」と八田知紀は霞の奥までもつづくさくらの数と、全山花の雲に埋もれた広い地域に驚いている。
 吉野のさくらが何本あるかについては、古来たしかな数字がでていないが、かつて、吉野町長を勤められた故坂本弥十郎氏が、今から40年も前に、人夫数人に依頼して十数日を費し、木の周り1尺以上のものを調べたところ、6万本との数が出たのでそれ以外の若木を加えると10万本は下らぬといわれていた。
 こうした数多いさくらが、馬の背のような峰つづきや谷間のけわしい崖など、みどころのある天然の地形に生い茂った美しさは、吉野山のみに見られる見事な眺めである。――
 しかし吉野山のサクラは、自然のままそこに密生していたわけではなかったようです。
 ――吉野山がさくらの名所としていつごろから名高くなったのだろうか。以下少し和歌によって調べて見よう。まず万葉集の中には吉野山の雪を詠んだものはあるが、さくらについては全然見当たらない。
 平安期になって古今集に「みよしのの山辺に咲けるさくら花、雪かとのみぞあやまたれける」(紀友則)と「こえぬ間は吉野の山のさくら花、人づてにのみききわたるかな」(紀貫之)の2つが出ているが、このころになって吉野の山中に多くの花があって世の評判となり、花見するものもだんだん現われていたことがうかがわれる。
 その後、後撰集には「みよしのの吉野の山のさくら花、白雲とのみ見えまがいつつ」やその後の勅撰集には俊成卿の「名に高きよしのの山の花よりや、雲にさくらをまがえそめけむ」とあるから、鎌倉時代以降は、いよいよ吉野のさくらが、名高くなったことを思わせる。二十二代集や新古今集などになると、吉野のさくらが数百種も詠まれて吉野といえばさくら、さくらといえば吉野とほめたたえられた。――
 吉野山ではサクラは神木とされたのです。開山の役の行者(えんのぎょうじゃ)が金剛蔵王権現をサクラの木に刻んで修験者の守り本尊とし、土地の人びとにサクラを伐つてはならぬと禁じたそうです。
 ――今日当地の古老にきくと「山野に自生しているものでも、凡そさくらと名のつくものは、枯枝や枯葉でさえもこれを焚火にしなかったもので、もし誤って一枝でもこれを燃やしたものは、権現さんの木を火にしたのだから、仏罰が忽ち至って腹痛や頭痛に侵される」という一種のタブーとして伝えられてきた。――
 もちろん、守るだけではありませんでした。
 ――今一つ大切なことは、各地から当山の蔵王堂へ参詣する信者達の献木によって年々さくらが増殖されてきたことで、吉野詣の人びとが今の吉野駅から下の千本の七曲りの坂で、村の子ども達の売るさくらの苗木を買って唐鍬で自ら植えたそうである。――
 吉野山の桜寄進の最も大規模なものは、天正7年(1579)大阪の豪商・末吉勘兵衛による1万本といわれています。こうして吉野山のサクラは植えられ、守られて、他に例をみない名所となっていったのです。『吉野路案内記』ではもうひとつ、烏(カラス)供養の行事を紹介しています。
 ――今日吉野山には、けわしい岩角や人手の及ばない谷間など、いたる所に天然のさくらが生い育っている。これは年々開花の時期が過ぎて桜果のみのるころになると、このご馳走にありつこうとしてあちらこちらから烏の来客がある。腹一ぱいに桜果をご馳走になった烏は、あちらの岩角こちらの谷間へと糞とともにさくらの種をまき散らす。肥料とともにこうして落された種は、その場に発芽し、生い育ってやがてはどんな絶壁でも枝振り美しいさくらが繁ることになる。かように烏がさくらの吉野山に限りない趣を添えてくれることから、吉野山では烏を「権現さんの使い」といって可愛がり、毎年正月の餅つきの日には、寒さに飢えている烏に餅を供養する行事を行っていた。――

●吉野離宮から吉野朝まで

 古事記や日本書紀によれば、吉野には大和朝廷の離宮がありました。離宮は吉野山に日雄離宮があり、吉野川に宮滝の離宮の2つがあったといわれます。『吉野路案内記』によると、
 ――さて吉野離宮行幸の記録を拾ってみると、応神天皇以来、雄略(2回)、斉明(1回)、天武(2回)、持統(33回)、文武(2回)、元正(1回)、聖武(3回)の8帝440年にわたって45回に及び、最後は聖武天皇の天平8年(736)6月22日となっている。中でも持統天皇は在任11年間に33回、214日間離宮で過ごされ、往復日も含めて最も長い時で20日、短いときで3日間を過ごしておられる。――
 飛鳥地方からみれば吉野山は丘の向こうという身近なところにあったのです。
 吉野離宮行幸の最後の記録から約350年後、白河上皇が熊野に御幸します。平安時代も末の院政時代、歴代の上皇たちが熊野参詣に熱中したのです。吉野山から見れば大峰山脈の向こう、地果てるあたりがクローズアップされるのです。
 その記録を見ると、吉野離宮行幸の再来かと思います。『民衆宗教史叢書第21巻熊野信仰』に収録された宮地直一さんの「熊野神社と熊野山」によると、
 ――御幸は白河上皇の寛治4年(1090)より鳥羽上皇の承久3年(1221)に至る5代の間93度の数を中心となし、之に前後の宇多法皇・花山法皇・後嵯峨上皇・亀山上皇の4代を加うる時は、98度に上り、本社(熊野神社)の史上に無二の光彩を添う。即ち左(下)の如し。
 宇多法皇1度、花山法皇1度、白河上皇9度、鳥羽上皇21度、崇徳上皇1度、後白河上皇34度、後鳥羽上皇28度、後嵯峨上皇2度、亀山上皇1度――
 その中で最も規模の大きかったのは白河上皇の元永元年(1118)の御幸であったようです。宮地さんの論文の続きです。
 ――元永元年の如きは、総員814人に及び、1日の糧料16石2斗8升(人別2升)、伝馬190疋の多きを要せりという。こは記録に見えし最も多数の例なれども、このほか庁官以上のもの40〜50人に達せしは、普通のことにして、またこれらの人々は、いずれも往還に半月ないし1ヵ月前後の日数を費やすを常とせしかば、1度の御幸を支えし経費の少額ならざりしは、容易く之を了得せらるべし。――
 さらに時代がさがって室町時代に入ると、後醍醐天皇が吉野に逃れて吉野朝(南朝)が始まります。隆盛著しい武家勢力に対する公家勢力の最後の抵抗運動の砦となったのは吉野山ですが、それを支えたのは金峰山(きんぷせん)・大峰山(おおみねさん)という聖地をもつ吉野修験であったといいます。『吉野路案内記』の宮坂さんによれば、吉野の修験道は次のやうに発展しました。
 ――吉野が修験の山として最初に開けたのは、宮滝から真南にある水分(みくまり)山の神奈備(かんなび。神の鎮坐する山や森)信仰からだったが、都が飛鳥・藤原・奈良から平安京へと漸次遠くなって吉野の宮への行幸も記録の上で聖武天皇の天平8年(736)6月27日を最後として終りを告げていることから、このころを境に宮滝から象川筋が衰微して、その中心勢力は現在のように吉野山筋に移ったものと考えたい。
 しかもこうしたすう勢を早めたのは、吉野の山々を行き来した山人たちが金剛蔵王をその守り本尊としはじめたことと、それを奉安する蔵王堂を吉野山の現在地に創立されたこと、さらには水分山よりももっと奥地によりよい聖地をと求めて金峰山頂に達し、そこにも山上蔵王権現をまつったことである。当時吉野山から山上ヶ岳までの尾根づたいに25kmの山を金峰山と唱えて、山上・山下(吉野山)の蔵王信仰と金峰山入峰が平安朝野の間に隆盛をきわめることになった。――
 ――金峰山が浄土欣求(じょうどごんぐ。浄土に往生することを願い求めること)や弥勒出世(弥勒菩薩がこの世に現われて人々を救うこと)の世の風潮にあおられて喧伝されるようになると、そこに必然的に生まれてきたのは山岳の清浄地が一般化し、俗化したことである。遠く全国の諸寺諸山からわざわざここに修行の場を求めて入峰したものの、ここの山での修行が何となく期待に反してマンネリ化した感にうたれた験者も少なくなかった。
 心ある験者や仏徒は金峰よりももっと奥深いところに、より神秘性と清浄感のあふれた聖地を求めて遠く険しい大峰の山やまにわけ入って苦行した。そして大峰こそは俗人の到底踏みこめない霊地として仰慕し、ここでとうそう(行脚乞食)するのでなければ修験の真髄をきわめることが不可能だとさえ考えられるようになった。彼等は吉野、大峰から熊野へ抜けたり、熊野、大峰から吉野へ出た。ここでいわゆる金峰山と熊野の2修験信仰が結ばれて、全国修験のメッカである大紀伊山脈を舞台にする吉野の修験が第3次的発見を遂げることとなった。――
 なお、吉野山と金峰山、大峰山との関係については次のような区別があるということです。
 ――山上ヶ岳を金峰山の山上と呼ぶのに対して、その脈足の吉野山を金峰山の山下といい、一山の地主神として金峯神社、その口にある社を吉野山口神社、金峯山寺の総門が黒門である。
 近ごろ金峰山に詣ることを大峰詣という人があるが、大峰とは山上ヶ岳の南にある小笹の宿から熊野までの総称で、金峰山と大峰山とを混同してはならない。――

●大峰奥駈け

 大峰山脈の稜線はのべ180kmにもおよぶといいます。これを縦走しながら行を積むことを「大峰奥駈け修行」といいます。『民衆宗教史叢書21熊野信仰』には村山修一さんの「熊野修験と大峰奥駈け」という論文があります。
 ――熊野・大峰・金峰を結ぶ大峰山系縦走の奥駈け修行は、院政期盛んとなり、それに伴って山中での行法儀礼も複雑化した。
 なかんずく大峰山脈の中程にある約1800mの釈迦岳の南にあたって1500mの台地が開け、深仙(じんせん)宿と称し、ここを大峰修行の行者の中心的道場として神聖視し、これより北、金峰山を含めて金剛界、南の熊野までの間を胎蔵界と、密教の両部曼茶羅(りょうぶまんだら)に見立て、熊野から北上して金峰山に至る山岳修行は胎蔵界より金剛界へ、すなわち因より果へ向かうもので100日を要し、順の入峰(にゅうぶ)と呼び、金峰より南下して熊野に至る反対のコースをとるのは、金剛界より胎蔵界へ、すなわち果より因に向かうもので75日をかけ、逆の入峰と呼ぶ。春は順の入峰、秋は逆の入峰を行うのが慣例であった、深仙より南には百王子(おうじ。小さなほこら)、北には三十七王子が配されたが、これらは熊野九十九王子にならったものであろう。――
 この「大峰奥駈け修行」を1981年に体験したのが奈良新聞の記者・前田良一の『大峯山秘録―花の果てを縦走する』をひろい読みしてみます。
 ――天上と大地の接点ともいえる山の稜線を這う奥駈け道は「山伏のシルクロード」と名付けたくなるほど、多くの人々が通過した。大峰山系と並行して麓を走る東熊野街道が物資を中心とした輸送路とすれば「山伏のシルクロード」は信仰の道。秘道として今なお、その命脈を保っていることは、さらに知られていない。
 奥駈け道は、大峰山系の北の端にある吉野山から南の果ての玉置山を結ぶ。修験道最高の練行と位置づけられている「大峰奥駈け修行」の山伏たちは今もこの奥駈け道を走破し、太平洋の波涛が押し寄せる熊野三山に足をのばす。この間180km。75カ所の聖地・行場を巡る。奥駈け道は山伏が往来する秘密の街道である。――
 主宰したのは金峯山修験本宗総本山の金峯山寺と別格本山の東南院。参加者は北海道から沖縄までの男子32人(13人の女性は女人禁制の解ける後半に参加)で、主宰側は総奉行以下16人。大登山隊という規模です。
 ――炎熱の太陽が容赦することなく行者の全身を焦がし、めまいさえ催す。崖にさしかかった。心臓の痛みをこらえて叫ぶ「ザーンゲ、ザンゲ(懺悔)」「ロッコンショージョー(六根清浄)」の呪文が潮となって林を奮わせた。運動不足の私の両足はマメでうずまり、焼け付くように痛い。踏みおろすと激痛が走る。やがて足に力が伝わらなくなった。信者でもなんでもない私だが、この呪文を大声であげていた。気づくとそこは頂上だった。
 70歳を過ぎた老行者もいた。その歩みは緩いが、確実に踏み出している。下界では若い私の方が体力的に数段勝っているはずだが、追い越せぬ。彼らはこう言う。
「これも役(えん)の行者様のお導き」
 俗人根性としては否定したいのだが、否定しきれぬ迫力がその後ろ姿に宿っていた。「死ぬ気で来た」のだと言う。――
 いまではすべてがスピード化したとはいえ、昔とかわらぬ激しい行をつづけている人もあるようです。
 ――行く手に1人の山伏があらわれた。千日回峰行をおこなっている金峯山寺の柳沢慎悟行者だった。土を蹴ってこちらに駆け降りて来る。我々一行は端に寄って道を譲った。合掌して柳沢さんをむかえた。すれちがいざま笠の下の顔が見えた。無言の行もあわせてしているため会話はできない。口は真一文字。色白は以前と同じだったが、びっしりと生えた髭が荒行を証明する。
 柳沢さんは吉野山をたって山上ヶ岳に登り、その日のうちに吉野山にもどる日参行をしているのだった。後ろ姿はあっという間に樹林に消えた。一同そのスピードに舌を巻いて歩を進めた。――
 そしてゴール。
 ――玉置山9合目の玉置神社は杉の巨樹群に包まれていた。樹高30〜50m、根回り8〜10m。いずれも奈良県指定天然記念物である。樹齢3,000年と伝えられる「神代杉」や「大杉」「夫婦杉」の巨木が遠来の山伏たちを驚かせた。
 玉置神社はお寺がひとつもない十津川全村の守護神だ。明治の神仏分離までは聖護院支配下の修験道の霊場であった。明治以来、仏法を捨て修験を離れてはいるが熊野修験奥の院としての歴史は長く、重い。こうしたことから、奥駈け行者は諸霊供養のため今も玉置神社を訪れ、1泊の宿を乞う。神道の世界から再び神仏習合修験道に戻ることはなかろうが、一筋の絆はまだ結ばれている。――
 この奥駈け修行の一行はバスに乗って熊野本宮大社→熊野速玉大社→神倉大権現→熊野那智大社→妙法山阿弥陀寺の各霊場を回りました。その最後、妙法山で、
 ――本堂前に鐘楼がある。死者のつく鐘という。それもたった1打。この寺は宗教的行事のために鐘をつくことはしない。したがって「除夜の鐘」の儀礼もない。誤って参拝者が鐘をつかぬよう大晦日には堅く綱でつき棒をくくる。朝鮮風の稀有な形態の鐘であった。
 この鐘をつくことのできるのは死者である。熊野の人たちはこう考える。死者の霊は枕飯3合が炊きあがるまでに、樒(しきみ)の枝を杖に妙法山を登る。そしてこの鐘楼で鐘をひとつつくのだという。家人は枕飯の炊きあがるまでに水を3回差す。死者の霊がゆっくり登山できるように、との配慮からという。伝説によると、この鐘はひとりでに鳴るという。耳にした営林署員は「それは気味の悪い響きだった」と話す。
 私たちは、読経の中でこの鐘を渾身の力でついた。1人1打。「死者」の一撃で、にぶい音が鎮魂の寺に響き、渡海往生の海に渡った。またひとつ、そしてまたひとつ。奥駈け行者の数だけ「亡者のひとつ鐘」が鳴った。
 それはきのうまでの自分に対して打った弔鐘であった。山伏修行のなかで最苦の練行とされる大峰奥駈け修行は「死者の一撃」で満行した。――

●熊野三山

 吉野から南下して熊野にいたる大峰の修験道は、熊野の修験道とちょっとちがうというのは五来重さんです。『民衆宗教史叢書第21巻―熊野信仰』に収められた「熊野神話と熊野神道」にはつぎのように書かれています。
 ――熊野を山岳宗教の聖地としてとらえる場合、修験道の立場からと、神道の立場からと、2つの立場の融合と対立があり、それが明治維新の神仏判然令で一応の決着を見たのである。しかしこれはいわゆる政治的決着で、信仰の内容までも規制するわけにはゆかない。したがって現在でも修験道を保持した寺院側と、山神を御祭神とする神社側とが、棟や境内を接して、釈然としない山が多い。
 私は神仏習合というものは、外来の仏教が我が国に土着し、日本人の仏教になるための自然の姿だったとおもう。これを仏教の立場から妥協呼ばわりをするのも、神道の側から不純視するのも、現実的、歴史的な見方ではない。神仏分離が命令され、神社と寺院が分離しても、一般民衆は1軒の家の中や、ひとつの室の中に、神棚と仏壇を併置して、なんら矛盾も抵抗も感じない。これは民衆の神も仏も、仏教や神道の規定する神と仏ではなくて、もっと原始的、民族的な神霊観に立つ庶民信仰だからである。
 このような自然宗教的庶民信仰を、そのまま仏教と神道という文化宗教にあてはめようとしたのが修験道であった。――
 ――ことに熊野は修験道の山といっても、仏教以前の記紀神話に多くの神々がとり入れられている。そのために神道が成立しやすかったので、吉野側の大峰修験道や、出羽三山、彦山、白山、高野山などとは一味ちがった修験の山になった。中世には三山検校や別当、執行などの僧形が、三山を支配したけれども、御師や禰宜、宮主、社僧などは神職にちかく、米良、潮崎、榎本、宇井、鈴木などの神職的名族が健在であった。これが近世に入ると、紀州徳川家の政策もあって、神道色のきわめて濃厚な山になっていったのである。――
 熊野三山の特異性はどうもその三山それぞれの成立の過程にもあるようです。五来さんはつづけます。
 ――熊野神道のもっとも困難な問題は、三所権現と十二所権現の御祭神である。そしてこの御祭神は熊野修験道の成立によって、いっそう複雑化したことはうたがいない。
 多くの修験道の山は三所または三社から成り立っているが、私はこれについては上社(上宮)、中社(中宮、中院)、下社(下宮、下院)の地理的上下関係と、3つの山または峰に3社を設定した横の連合関係があったものとかんがえている。後者の場合は三山または三所とよばれて、それぞれ独立して成立し、のちに三山連合によって一山のようになったのである、出羽三山などもこれであるが、熊野三山の場合は各山がかなり隔たっていて、これを三所とする必然性を見出だしにくい。かんがえられることは修験が入峰修行路を設定するときに、相互入峰の形で連合したのではないかとおもう。これは大峰修験道が吉野と熊野の相互入峰で成立し、彦山が宝満山および福智山に相互入峰して三峰(さんぷ)と称するのと同じである。――
 この具体的な成立経過については五来重さんの弟子にあたる豊島修さんが『死の国・熊野』でくわしく述べています。
 まずは熊野本宮について。
 ――「三所の熊野」のなかで、「熊野坐(くまのにいます)神社」すなわち本宮は、平安中期以降になると、熊野三山信仰の中心をしめるようになった。それは「証誠(しょうじょう)殿」の主神・家津御子(けつみこ)神の本地仏(ほんじぶつ。神の真実身としての仏)阿弥陀如来にたいして特別の信仰があったからである。
 その特別の信仰というのは、阿弥陀如来を拝むと「極楽往生」ができる、という信仰であった。平安後期から鎌倉前期の上皇の熊野御幸は、本宮の「証誠殿」の本地・阿弥陀如来の宝前にぬかづき、幣を奉り、経供養をすることを最大の目的としていた。――
 熊野本宮が山岳宗教にささえられた「山の熊野」であるとすれば、熊野三山を構成するいまひとつの那智・新宮は、海洋宗教にささえられた「海の熊野」であった、とするのが豊島さんの主張です。大辺路(おおへじ)とよばれる熊野詣の道が紀伊半島の先端部に古くからあって、海岸にそって開かれていましたが、豊島さんはそこに「海の修験」の痕跡を探し出していきます。
 ――妙法山(那智山の南どなり。前田記者の奥駈け修行の最後の寺)は、古くは「奈智山」とよばれた。すなわち、平安後期の編である『本朝法華験記(ほっけげんき)』の「奈智山応照法師」伝から知られ、熊野奈智山の住僧であった応照法師は、法華経を読誦して「其業となす」法華持経者のひとりであった。また同書には、応照が法華経修行のために、焼身し、諸仏に供養したことがしるされている。いわゆる「火定(かじょう)」という苦行がそれである。そのため応照が焼身したという「火定炉跡」が、今日も妙法山にのこっている。――
 ――このような法華経の実践者の住む奈智山(妙法山)こそが、奈良時代の永興禅師と彼の配下にいた「海の修験」集団の本拠と考える所以である。それはまた、永興をもって初期熊野修験道の発祥といわれることに符合する。
 こうした歴史をふまえて熊野修験道の発祥をながめると、那智は海洋他界の「常世」を信仰対象とする辺路修行者の世界を形成していたのである。――
 新宮についても、古い支持母体があったようです。
 ――こうした修験者の活躍が平安末期の熊野新宮にみられる前提には、右に述べた「海の修験」すなわち阿須賀(あすか)修験や神倉(かんのくら)修験が存在していたからである。そしてその中心は神倉神社や阿須賀神社(いずれも新宮市内)であった。
 しかし、その後「熊野神邑」の川原、すなわち現在の速玉大社社地に「熊野早玉神(はやたまがみ)」または「結早玉神(むすびはやたまがみ)」がまつられると、神倉修験と阿須賀修験はいずれも速玉大社に奉仕した、というのが新しい見解である。その具体相については不明ながらも、神倉修験が速玉大社の造営や勧進をつかさどり、阿須賀修験は同社の祭祀や神餞などをつかさどった、と考えられている。――
 このように個々に成長してきた地場の信仰がしだいにまとまって大きな求心力を発揮するようになったようです。豊島さんの細密な検証はつづきます。
 ――さらに平安後期までには、三山の御祭神は主神を異にするだけで、王子(おうじ)や眷属神(けんぞくしん)を加えて十二所権現をまつり(那智は一之滝の飛瀧権現を加えて十三所だが、他は同一)、また神は仏の化身(権現)であるという垂迹思想の浸透によって、本宮・新宮・那智の祭神にはそれぞれ本地仏が配置された。3山の主神は、本宮が家津御子(けつみこ)神、新宮は速玉(はやたま)神、那智は熊野夫須美(ふすみ)神であるが、本宮には阿弥陀、新宮には薬師、那智には千手観音がまつられていた。この本地仏の配置にともなって、その霊験性はさらに深いものとなったのである。――
 いよいよ院政期の上皇たちの熊野御幸がはじまります。
 ――1090年(寛治4)、白河上皇の第1回熊野御幸に際し、(天台宗)寺門派の園城寺(おんじょうじ。大津の三井寺)の僧、増誉が先達(せんだつ)を努めた。この功績によって、増誉は熊野三山検校職に補任されたが、これを機会に三山の組織はしだいに整備されていった。――
 ――こうした熊野三山の組織や法会の整備、および三山の受け入れ態勢の完備を背景にして、院政期には、上皇・女院・公卿の度重なる熊野御幸がおこなわれた。さらに中世に入ると、豪族・武士から女性をふくむ一般庶民におよび“人まねのくまのもうで”“蟻の熊野詣”とよばれるほどに盛んな参詣がおこなわれたのである。――
 一般庶民の熊野詣は日本的な団体旅行の創造でもあったようです。豊島さんはその構造にも触れています。
 ――中世には、こうした武士や土豪層に深く浸透し、熊野信仰の伝播に重要な役割をはたした修験がいる。それが在地にいた熊野先達であり、熊野先達が諸国から熊野詣に誘導した参詣者(壇那)を、三山に棲居する熊野御師(おし)が引き継いで祈祷したり、宿所を提供したりした。この熊野御師と熊野先達の連帯・強調の体制こそは、日本のひろい地域に熊野信仰を浸透させた最大の要因である。――
 近世に入ると庶民の寺社参詣はいよいよ盛んになりますが、熊野詣はしだいにその人気を失っていきます。遊楽というプラスアルファの楽しみが加えられることがなかったからです。

●波瀾の熊野灘

 大衆の享楽型寺社詣の流行に乗り遅れた熊野三山はひっそりとした苦行の地に戻ったようです。しかし16世紀になると古い「海の修験」が新しいかたちで人びとの注目をあつめます。熊野那智の補陀落渡海(ふだらくとかい)です。
 この補陀落渡海は日本全国で記録されたものが42例あるそうですが、その最初は869年(貞観10)に熊野那智の海岸から渡海した慶龍上人となっています。はじまりは早くても、記録が集中するのは戦国時代以降で、江戸時代までに25例が数えられています。その中にはポルトガル宣教師による記録も3例あります。「熊野年代記」の記録が20例あるところから、熊野那智が補陀落渡海のメッカであったことはまちがいないようです
 生きながら観音浄土へ船出するというものであったようですが、基本は「海の修験」の捨身行であったというのが『死の国・熊野』の主張です。
 ――熊野の常世信仰は、平安時代に観音信仰と習合し、熊野那智山を補陀落浄土・観音浄土の聖地とする補陀落信仰を生んだ。また海洋の彼方に死者の霊の往く常世があるとする海洋他界の観念が往生信仰とむすびつき、補陀落渡海というきびしい捨身行と入水往生の行儀がおこなわれた。この意味で、補陀落渡海は観音信仰の実践的表出の1形態といえよう。――
 ――また補陀落渡海は16世紀に最盛期をむかえたが、それは戦国社会の不安な時代を背景にしている。したがって、補陀落渡海という宗教現象は、こうした社会不安、人びとのもっていた厭世観・終末観ともふかい繋がりをもっていた。――
 那智湾から渡海行者を乗せた舟が、まだときどきは大海に放たれたころ、すぐ南どなりにある太地(たいじ)湾で和田という一族が大きな事業にとりかかろうとしていました。
『熊野の太地―鯨に挑む町』の執筆担当者・橋浦泰雄さんは、まず和田頼元という人物に迫ろうとします。
 ――頼元を究明しようとするなら、当然、少なくとも戦国時代の熊野海賊―水軍―熊野権現―和田一族の、いたって複雑な関係なり、問題なりに触れなくてはならないからである。頼元が単独で捕鯨をやったのではないことは明らかだが、同時に捕鯨業と和田一族とは切り離すことはできない――
 橋浦さんは伝えられる和田一族の家系が矛盾をはらんでいることを指摘したうえで推理をめぐらせます。
 ――和田一族が早くからこの熊野地方で活躍したことは察知される。それがどのような家系の人であれ、才知勇武な人であったなら、熊野にはそれを受け入れる素地があった。それは熊野権現である。――
 ――和田氏が武家で、新たな外来者であったろうことは推測されるが、太地和田氏の始祖と称せられる頼秀は、太地を根拠地として、漸次この熊野権現に近づいていった。頼秀には3子があったが、次男、三男ともすでに泰地性を称し、その三男は新宮に住んで、速玉神社の社家となっている。頼秀から5代目の和田頼仲は楠正成に従って戦功があったからであろう、南帝から太田荘の地頭に任官されているが、そのせつ脇屋義助に従い、湯浅・潮崎の一族などとともに兵船300隻をととのえ、小豆島にいたって戦い、その功によって従五位下蔵人を報賞されている。いわゆる水軍として働いたわけである。――
 こうして太地の和田氏の素性が明らかになってきます。
 ――九州・四国・中国・京阪地方から、鎌倉はじめ関東地方に行くには、陸路は難所も多く、日数もかかる。それで多くは海路が選ばれた。荷物の運搬などはもとよりである。ところがこの航海の中で最も難所とされたのは、熊野灘だった。潮岬(串本町)から大王崎(志摩・大王町)までのあいだは波も荒く、数十里にわたって、険しい山々が海岸までせり出している。ことに引き潮時の潮岬西方では、瀬戸内海、紀淡海峡から紀伊水道に流れ出る急流が、黒潮とぶつかりあって、2つの潮流がぐるぐると渦を巻く。ここを枯柴灘というが、土地の人は枯木灘ともいい、いつも枯木の流木が群をなしてその渦中にあった。今日でも200トン、300トン以下の船が遭難するのは珍しくない。
 雄群割拠の時代だった。利害が反すれば親子・兄弟でも、敵・味方に別れて争い、すきさえあれば他領を侵略することが日常茶飯とされた時代であった。この熊野灘沿岸の住民たちは、豊富な漁獲に恵まれていたとはいえ、米麦・金銭に貧しいことはいうまでもなかった。だから遭難した船舶の物資をかすめとることは他地方同様、当然のこととしていたであろうし、船足の遅速、沈下の度合いを測定して、積荷の内容が自分たちの生活必需品だと知れば、あえて襲撃して略奪することも手控えなかったであろうことは、じゅうぶんに察することができる。
 このような場合、知略にたけた武人を指揮者としてもつことは、住民たちにとって望ましいことだし、選ばれた指揮者にとっても、もとより望ましいことであった。すでに難破して抵抗力を失った船舶の物資をとる場合には、当然小海戦の武略が必要となってくる。小舟とはいえ、荒海を馳駆する熊野の船は俊足である。それが30隻、50隻に100人、200人を乗せた船団となり、あるいは散会して大船を襲う場合、それはもはやたんなる海賊行為というよりは、むしろ海戦の様相を呈していたであろう。――
 たいへんブッソウな話ですが、軍事技術の平和利用が本格的な捕鯨産業を産み出したという筋書きになるのです。
 徳川家康が天下を統一すると、太地の和田頼元は地方武士から捕鯨実業家への転身をはかります。本格的な捕鯨の最初は1606年(慶長11)であったといわれます。
 ――文禄から慶長にかけて(1592―1614)は、全国各地で鯨の突き捕りは漸次盛んになっていったであろうし、また銛とその銛に綱をつけることも普及の度をはやめていたものと思われる。しかし、1隻の舟で捕鯨することは、まず不可能だったとみられる。2本や3本の銛では鯨は死なないし、綱銛を打ち込んでも、1隻の舟では引き止めることはできまい。したがって手ごろの鯨に手をつけようとする時は、きっと何隻かの舟、少なくとも3隻なり5隻なりの舟が、臨時に組をつくったものと思わねばならない。――
 ――頼元らはまず1組を3隻から5隻、20〜30人程度で編成し、綱銛を備えたことと思う。これで日常的には小形の鯨を捕り、捕獲可能と思われる大形の鯨には、各組が総がかりで捕獲したものと思われる。水軍の戦術と組織を体験していた頼元と村人たちが、組織を臨時的なものではなく、恒常的な確固たるものとして打ちたてたことは、日本捕鯨における画期的な功績だったといわなければならない。――
 ――やがて捕鯨の技術を進め、しだいに大形の鯨にいどみうるようになった。マッコウクジラやセミクジラを捕鯨する回数がふえると、太地の名声は近隣に鳴り響き、鯨を1頭捕れば7浦がうるおうという状況を呈するにいたった。もちろん和田一族は頼元をはじめみな財力を膨張させていった。――
 太地で本格的な捕鯨が始まって約70年、和田頼治が「網捕り法」を確立します。網を張って追い込みながら鯨を突くという方法です。
 ――網捕り法を採用するには小規模の刺し手組とはちがって、大企業でなくてはできぬから、従来の連合体ではもはや間に合わず、一本化した経営体にならなければ経営が成り立たぬのだ。なるほど網で進路をはばめば、大鯨といえども捕獲しやすいことはじゅうぶんに理解できるが、はたして大鯨中心の企業に踏み切って、従来以上の成果をおさめることができるかどうか。従来の方式が部分的には欠陥があったにしても、総体的には好ましいものであっただけに、みなの決断には年月を要したと思える。――
 この網捕り法は画期的な新技術として日本各地に伝えられますが、どこでも成功したというわけではありませんでした。ひとつはその経営規模の問題ですが、鯨を追い込んでくる漁場の適不適もあったようです。大形の鯨がみずから入り込んでくる地形で、かつ大きな網を張れるという条件を共に満たす場所はきわめて限られていたからです。
 ――太地岬は恵まれていた。紀伊半島は潮岬の突角を最先端として、以西の沿岸は日置の安宅崎付近まで十数度程度西北に傾いているが、反対の沿岸は志摩の大王崎まで、東北に45度前後弓なりにそっている。したがって潮岬の暗礁の壁を滝のように押しとおった下り潮は、大島沖の大洋に出てほっと一息して、太地岬ではやや沖合をいくぶん速力を落として流れる。
 また大王崎方面からの上がり潮は、先頭が潮岬の壁でつかえているから、これまた流速はいくぶん緩慢にならざるをえない。また潮流は、台風などとも似ているが、主流は一定の方向へ向かって前進するし、その外側の流れは付近に空間があると、そこへ流れ込んでくる。
 ところが太地の地形は東に突き出た灯明崎突角から、急に真北に向かって湾曲して、そこに大きな袋状をなしている。だから上がり潮の余流は直線的にこの袋の中にはいってくるし、また下り潮は灯明崎を過ぎたとたんに、左方に迂回してこの袋の空白を埋めるために湾内に入ってくる。ところがこれら潮流の外側流はいずれも多くの鯨の食餌となる小魚類を伴っているのだ。――
 太地湾は鯨の餌場といってもよく、周囲は断崖、海は岩礁だったため地曳網で小魚を取るには適さず、結果として、クジラを捕るというのは理にかなった方法であったのです。

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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