毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・7・阿寒国立公園」
1993.9――入稿原稿


■国立公園物語…阿寒

●郷土史家の書斎

 北海道の大河といえば、まずは石狩川と十勝川ということになります。流域面積日本第2位の石狩川は北海道中央部の石狩山地(大雪山など)を始めとして、夕張山地、天塩<テシオ>山地、増毛<マシケ>山地などの流れを集めて、石狩平野を形成しました。十勝川は石狩山地の南側に十勝平野をひろげています。
 それに次ぐ主要河川としては、北に天塩川、東に釧路<クシロ>川があります。両河川とも河口部に天塩平野、釧路平野と呼ばれる平地が広がりますが人間の手によって大規模に開発されることはありませんでした。
 この釧路川は1987年(昭和62)に下流部一帯が釧路湿原国立公園に指定されたことから、下流部と源流部がそれぞれ別の国立公園に属した特異な川になりました。
 釧路川の源流部は阿寒国立公園。阿寒というからには、主役は阿寒湖(流れ出る川は阿寒川で釧路平野に注ぎます)と想像するのが常識的です。しかし調べていくと阿寒国立公園指定に至るドラマは、この釧路川を中心とした明治時代の植民開拓史そのものであったようです。屈斜路<クッシャロ>カルデラと、そこから流れ出る釧路川とを軸にして歴史のページはめくられていったのです。
 屈斜路湖畔に1959年(昭和34)開設の阿寒和琴博物館(民間)がありますが、写真取材を申し入れたところ閉館して収臓品は町に移管されるということでした。そんなことから弟子屈町教育委員会の永田等さんにコンタクトをとることになったのですが、永田さんは「弟子屈町郷土百年記念館の建設を考える会」で奮闘中であったところから、その情報ネットワークの一端をのぞかせてもらえました。
 強くすすめられて町立図書館にいったところ、1階の奥の書棚にはこの地方で刊行された各種報告書や、ファイルされた断片資料がかなりのボリュームをみせていました。
 2階は、詩人で郷土史研究家でもあった更科源蔵さんの記念文庫となっていて、私自身が編集に関係したある小さなPR雑誌の北欧特集号もそこにはありました。
 その奥の書架に並んだスクラップブックは弟子屈町関係の記事を釧路新聞から切り抜いたものでしたが、それは図書館の仕事として多くの人に閲覧するというより、専門的なデータファイリングという感じのものでした。
 奥のほうがふつうの町の図書館と趣が違うのは、以前この図書館の館長もつとめた郷土史家の種市佐改さんの仕事のようです。今回はその、種市さんが整理されたらしい各種報告書や引用資料ファイルから、合計約1,000ページ分のコピーをとらせていただきました。以下の引用はすべてそのコピーからのものです。まるで郷土史家の書斎荒らしをしたようなものです。
 資料のコピーは、おおざっぱに「硫黄鉱山」「鉄道」「横断道路」「開拓」といったかたまりになりました。ここでは1934年(昭和9)の国立公園指定までの歴史をたどってみます。
*なお、引用文については文意をそこなわない範囲で漢字・かなづかいを読みやすい形にしてあるほか、同様の主旨ですでに手直ししてあるものはそのまま引用しています。

●硫黄と銀行

 釧路の内陸約100kmのところ、釧路川の源となっている屈斜路湖の湖畔(というより巨大な屈斜路カルデラの中央部)に噴気を上げているアトサヌプリ火山が、突如硫黄鉱山として発見され、北海道開拓者たちに知られたのは1872年(明治5)といっていいようです。釧路の漁業で成功した佐野孫右衛門という人が硫黄採掘事業に乗り出します。
 昭和24年(1949)の『弟子屈町史』は更科源蔵さんによって書かれたのですが、まったくの原始林地帯であったところに開発の手が伸びたようすを次のように書いています。
 ――弟子屈町が世の中へ認められた最初は、アトサヌプリの硫黄発見であった。元来この硫黄は古くからアイヌの人々の間では焚付け用に使用していたものを、当時釧路の漁場もちであった佐野孫右衛門(米屋)が聞き、明治5年に手代某に命じて屈斜路アイヌを案内者にして実地に調査して、その優秀な含有量を知り、明治9年(1876)9月に試掘願を出して許可を得て、3ヵ月におよそ600石(約90トン)を採鉱し、次いで明治10年(1877)1月に50,010坪(諸説あり)の硫黄鉱借区願を出して許可を得たのである。
 こうして明治10年には2,475.33石(約371トン)を採掘して、当時北海道で行われていた硫黄鉱山としては渡島<オシマ>の恵山の採鉱高に次いで第2位の成績であった。しかしそのための入費が2,000円かかったのに、販売高がわずか170石(約26トン)そこそこで600円に満たない収入であり、結局1,500円ほどの欠損であった。もちろん着手初年の事であるから入費がかさみ欠損であることは当然というべきであったろう。当時は役員が5人、工夫5人、抗夫30人という人員で、堅いところはツルハシを用い、軟らかなところはクワ(唐鍬)を採掘器にし、精練には土カマドを築いてやるという非常に原始的なやり方であった。
 そうして次の年(1878)には、この硫黄を搬出するために雪裡、標茶<シベチャ>、弟子屈を経て跡佐登<アトサヌプリ>へ至る、27里余の道路を3年がかりで開さくし、それと同時に(夕張山地南麓の)福山方面から土産馬400頭を移入して、毎日300頭ずつを使役し100頭ずつを交代で休ませるという方法で、跡佐登から標茶村の頼文平まで9里余の間を、2日に1往復で1駄に20貫をつけて運搬をし、頼文平から五十石<ゴジッコク>までは4そうの二十五石船で1日1往復、五十石から塘路<トウロ>間は6そうの五十石船を用い1日半で1往復、さらに塘路から先は3そうの百石船で釧路まで3日に1回の往復をするという搬出方法であった。
 明治11年(1878)以後の採鉱高は非常に不定で、12年(1879)などはわずか500石(約75トン)に満たない量であるかと思うと、13年(1880)には3,000石(約450トン)を越すという躍進ぶりを示し、道内の恵山、知床、岩雄、ラウス、ニセコ等の硫黄鉱山の採鉱高に比して5位と下らない成績であった。――
 かくして明治10年前後に、釧路川の源である屈斜路カルデラの中心から硫黄が釧路川沿いに運び出されたのです。
 この硫黄鉱山はアトサヌプリ火山の山麓一帯に展開されたようです。山のあちこちから噴き上げている噴気孔をのぞくと内部に硫黄の結晶が生成していて、その黄色が独特の美しさを見せていますが、硫黄鉱山というのはその硫黄をツルハシやクワで掘り出すという単純なものであったようです。
 火山活動の噴気によって生成されてくる硫黄を10年程度で一巡するように端から順々に取っていくのであれば農業でいう輪作のように細く長く採掘できますが、簡単な露天掘りで一気に採ってしまうこともできるという性質のものであったようです。
『弟子屈町史』で“佐野時代”の跡佐登硫黄鉱山のその後をたどってみます。
 ――明治13年(1880)に経営者である佐野孫右衛門が病気のため隠居し、持漁場の全部を武富善吉に譲り渡すと同時に、硫黄山の経営も実弟の佐野儀十郎が継続することになったが、14年(1881)佐野孫右衛門が死没後は、水戸の人で西川幸右衛門という人が代理をして、明治16年(1883)から事業を監督するようになってからは、坑夫を50人に増加し、製練器も鋳物製で直径2尺、深さ2尺5寸ある「ヅク竃」というのを使用するようになった。
 これに原鉱70貫を入れ薪を焚いて溶かし、それをやはり鋳物製の内径3尺5寸、深さ1尺8寸の冷やし竃に流し入れて、少し冷えるのを待ってからひしゃくで汲んで、内側に泥をぬってこげないようにした桶に移して冷やし、土砂や灰分が桶の底に沈み、純粋なところが上の層に分離するので、それをとってかますに入れて荷造りをして送り出すという精練法であったがために、含有量90%を下らないといわれた硫黄分が、わずかに60%にとどまるという状態であった。
 しかしこのような方法であったにもかかわらず、明治16年の採鉱高は9万2000石(約13,800トン)という驚異的なものであり、全道の他の硫黄山を圧して第1位に立ち、販売高も創業当時の45倍にも相当する7,600石(約1,140トン)を出し、当時の金で純益1万6000余円を上げるという成績であった。――
 これが佐野時代のピークであったようです。
 ――原始的採鉱法ではあったが、明治16年(1883)には一躍10万石にせまる全道一の採鉱高を示した跡佐登硫黄も、17年(1884)後は1万石台に転落し、全道の2、3位に甘んじなければならない不振の経営をつづけるようになり、ついに18年(1885)の6月に当時函館の山田銀行の経営者であり、全道にわたって新興産業界に異様の活躍をつづけていた大阪の山田慎に譲渡され、名義は山田朔郎であったが、彼の事業のひとつに吸収されたのである。――
 話はまだ国立公園のはるか手前の時代です。釧路川の源流に発見された硫黄鉱山の開発は一種の“ゴールドラッシュ”となりました。もっともこのゴールドラッシュは、黄金が人々を引きつけたのではなく、硫黄が黄金(資本)を呼び込んだのでした。この硫黄鉱山だけが国立公園地域の原始境で和人との唯一の接点となったのです。
 最初の登場人物・佐野孫右衛門は釧路で成功した海産資本家とみていいようです。釧路から標茶までの川舟航路(舟を上流に引き上げるために川岸に道路が必要)と鉱山までの馬道を合計100km以上にわたって開くだけの資金を投入できたのです。
『北海道史研究(4)』と手書きされたコピーの「釧路鉄道会社の設立と経営について」という論文につぎのような記述がありました。
 ――明治18年(1885)佐野は経営の破綻から借金返済の引当に硫黄山経営を山田朔郎に譲渡した。
 山田は鉱区の測量を行い、55,610坪の増借区を出願し労働性向上対策として釧路集治監の囚徒の外役に依存した。硫黄鉱石運搬には木道上を箱車で運ぶなど採鉱、精練、運搬など一貫した生産体系の整備に努めるが、資金面で行き詰まり、結局債権者である安田善次郎に釧路春採<ハルトリ>採炭山とともに硫黄山も譲渡しなければならなかった。
 明治20年(1887)1月鉱区の借区名義が子の善之助に書き換えられた。かくして硫黄山経営は安田に移った。――
 この文章の山田朔郎はあくまでも名義人で、当時わずかに9歳、安田側の名義人・安田善之助も当時8歳、ということが『安田保善社とその関係事業史』(安田不動産)には明記されています。したがってアトサヌプリの硫黄鉱山の主役は山田慎と安田善次郎というパワー全開の資本家ということになります。
『安田保善社とその関連事業』によって安田側から見るとつぎのようになります。
 ――善次郎が関係した既往における生産事業といえば、明治7年に栃木の人、鈴木要三と共同して、朝鮮ニンジンの栽培販売に携わったことがある。しかし、これはきわめて小規模なもので、わずか2ヵ年で放棄しているので、事業経営者としてはあまりにも微々零細で、とりあげるに足りない。しかし、本節の硫黄山経営は、善次郎にとって最初に携わった本格的な事業として、注目してよいといえる。はしなくも硫黄採掘事業を共同経営するに至った原因は、次のような偶然の機会からであった。
 既述の国立銀行支援の項で触れたように、15年(1882)1月に第四十四銀行が破綻したとき、同行の支配人山田慎は、私財の北海道釧路国跡佐登所在の硫黄山を担保として、善次郎に救済援助を求めてきた事情があった。しかし、同行は同年8月に第三国立銀行に合併形式をもって救済されて解決したが、なお同行の負担に属する未回収資金が残っていた。そこで当面の責任者たる山田はこれを整理するため、前記硫黄山5,610坪(55,610坪のまちがい)の借区権を善次郎に委譲し、共同して硫黄採掘を行ない、採掘により生ずる利益をもって、未回収資金の償却に充てようと計画した。
 善次郎はこれより先の17年(1884)8月に北海道に旅行し、千島国後<クナシリ>島の硫黄山を視察した経験上、本業に対し興味を抱いていたのでこれに賛成したが、元来、硫黄は電気と熱の不良導体として化学工業の基礎原料となる重要物質であり、染料、マッチ、花火、殺虫剤等の原料として欠くことのできない物質なので、事業として将来性があった。ただ当時のわが国の需要は限りがあり、産出の硫黄はもっぱら輸出に向けられていたことも、善次郎の興味をいっそう誘ったと思われる。
 かくして両者の相談はまとまり、20年(1887)2月27日付で、借区名義人たる山田慎の長男朔郎(当時9歳)後見人遠山三平と、善次郎の長男善之助(当時8歳)を名義人として、次のような主旨の条件をもって、硫黄山採掘権10ヵ年の借鉱契約を締結し、安田善之助に名義が書き換えられた。そして山田が硫黄採掘奨励金として政府からの借受金、ならびに善次郎の出資金をもとに発足することとなった。
1…安田からの出資金には、年1割2分の利子を付す。
2…利益金から毎年2万円を政府に返納し、残余の利益は双方折半とする。(採掘奨励金35万円の割賦返済分)
3…山田の受ける利益は旧第四十四国立銀行の未回収貸付金に補填する。
4…出資金と前項の不良債券を全部償却した後は、硫黄山を山田へ無償で返戻<ヘンレイ>する。――
『釧路市史』によると、北海道内に本店を置く銀行の設立は第百十三国立銀行が明治11年(1878)、第百四十九銀行が明治12年(1879)、そして3番目が明治16年(1883)の山田銀行となっています。この創設者山田慎については『北海道開拓功労者関係資料収録(下巻)』と記入されたコピーに要領のいい年譜がありました。
 ――山田慎<ヤマダマコト>…拓殖と銀行
 岩橋轍輔らが創設した北海道開進社の店舗を小樽に開き、生産物の移出、物資の供給などにあたったかれは、その後、資本金10万円をもって山田銀行を創立、道内に本店を置いた私立銀行のさきがけとなった。
 銀行開設後、アトサヌプリの硫黄採掘が行きづまっていることを知り、その採掘権を譲り受け、春採炭鉱の試掘権もえた。一方、北見地方の白揚樹に目をつけてマッチの軸木工場を設けた。
 後年、銀行業務は北海道庁設置によって官金業務停止となり、硫黄採掘は資金難のため安田財閥に譲渡し、マッチの軸木工場は火災にあうなど、つぎつぎと事業に見放されたが、地方産業の発達と公益につくした功績は大きい。――

●泡沫<ウタカタ>の鉄道

 北海道の地場資本家であった山田慎にたいして、安田善次郎は安田財閥を起こす銀行家として、果敢にして冷静なビジネスを展開したようです。その硫黄採掘事業をもって釧路地方の近代化の起点とする人がいます。佐藤尚さんが釧路史学研究会報「史研」の97号(1970年9月30日)に「安田の硫黄」という原稿を載せています。
 まずは金融王・安田善次郎の登場に用意された舞台の解説。
 ――1.近世以降の重要課題であった対露(ロシア)関係が、千島、樺太交換条約によって一応安定し、北海道が日本の内国植民地としての位置を確定し、その資源開発を急がれた。
2.明治13年(1880)から始まった、いわゆる「松方財政」と呼ばれたデフレ政策の強行によって、一方では民間資本の蓄積集中が進行し、他方では農村の階層分化による賃労働者の大量発生という、日本資本主義成立の条件が熟成してきた。
3.前述の「資本」と「労働者」が、北海道を指向しはじめた。このような背景をもって、明治19年(1886)1月、北海道庁が設置され、「資本の誘致」と「富民の移住」をもって資本主義的北海道開拓を実施しようとしていた。
 これよりさき、北海道には「集治監」が設置され、囚人労働による資源開発や、民間資本誘致に先立つ産業基盤整備がもくろまれ、すでに各地で地獄絵図がくりひろげられていた。
 釧路集治監の設置がきまったのは明治18年(1885)9月であり、農業拓地を予定していた根室県の反対をおして標茶に設置された理由は、その位置が東北海道開拓に必要な幹線道路網建設の拠点としてかっこうの位置にあったこと、当時はまだ「舟着き場」に過ぎなかったが、河港の釧路とは釧路川という輸送手段をもってつながっていたこと、さらにこのことは、すでに採掘が始められていた輸出向け資源、硫黄の精練(原石から含有金属を分離する精練に対して、純度を上げる精製)事業基地として適当な位置にあったからである。――
 この幹線道路網建設の拠点と目された標茶に硫黄鉱山の中枢となる製煉所を置いて、採掘現場と鉄道で結ぼうとしたのです。
 ――安田がもくろんだ輸送計画は、元山製煉の精製硫黄= 30,000石、標茶で精練すべき生硫黄= 98,280石、合計128,280石(約20,000トン)の鉄道輸送であり、これを毎年4月16日から11月30日までの期間中、故障その他を見込んで実働200日で達成しようとし、このため1回360石(約54トン)搬出可能の汽車2往復の運行を計画したのである。なお標茶〜釧路間の水運については、3月10日から12月20日まで、出水その他の故障を考慮して実働250日で、総量10万石を釧路に集積しようとするものであった。
 安田の硫黄事業経営のなかで特に画期的だといわれる鉄道は「事業着手順序」によれば明治20年(1887)2月、小山泰交技師による現地測量をもって開始された。3月中に路線を確定し、4月から人夫、囚人等おのおの300名によって、築堤、切取り、地均し、溝渠の土木が開始され、5月には橋梁架設、敷木工事、7月21日からは標茶より軌条取付け工事を予定しているのが計画書でうかがうことができる。レールその他鉄道資材については、一切大倉組(大倉喜八郎)に発注し、横浜到着後は日本郵船の船便で釧路に直送、標茶に回漕させる計画であった。工事予算は、
機械費………………………………78,827.321円
土木費………………………………27,294.748円
軌条敷設費……………………………4,853.648円
建築費(汽罐室工場2棟60坪)………650.000円
測量及監督費…………………………1,160.000円
雑費………………………………………500.000円
予備費…………………………………6,891.679円
合計…………………………………120,177.396円
となっており、この予算に従って工事に着手し、結局17万6000余円をついやして同年11月、竣工した。
 設備の概要は、次表のとおりである。
カーメン機関車…2台…………………17,605.625円
25斤レール…985トン……………………46,368.941円
犬釘、繼目板、ボルト…62.5トン………6,227.252円
附属品類…1式……………………………1,494.010円
無蓋縁高貨車…20両………………………7,812.859円
手押車…4台…………………………………511.839円
海関税諸費……………………………………23.000円
25斤レール、繼目板、ボルト…120トン…6,720.000円
機関車諸道具…………………………………282,890円
合計…………………………………………87,037.416円
――
 この巨大な投資によって、みごと計画どおりに硫黄の大増産がはじまります。誌名が不明ですが寺島敏治さんという人の「釧路地方鋼業史―明治30年代初頭までの動きを追って」という論文がありました。
 ――硫黄生産量は明治19年(1886)の1万6000石(約2,400トン)から20年(1887)には5万8000石(約8,700トン)になり、さらに鉄道など運搬面の整った21年(1888)には17万7000石(約26,550トン)に達した。佐野の時期に最高出量を示した明治16年を中心とする前後3ヵ年と、安田経営初期の19年から21年までの3ヵ年を比較してみると、前者の産出石高が10万6783石(約16,017トン)であるのに対し、後者は25万2646石(約37,897トン)で2.37倍になる。
 また同時期の売高石数を見ても、前者が1万7682石(約2,652トン)でしかないのに対し、後者はそれをはるかにしのぐ7万5064石(約11,250トン)で、4.25倍になっている。このことからもいかに安田の生産方式が大規模であったかが理解されよう。――
『安田保善社とその関連事業』によると事業はつぎのように経緯します。
 ――硫黄産出高は明治23〜24年(1890-91)の交を最高として精製品は7万石(約10,500トン)に上り、25年(1892)は6万石(約9,000トン)を生産したものの、その後は年を追って低減してきた。
 販売状況は、開発当時は世界の主生産地たるイタリアの産額が増加し、日本の内地相場はイタリア市価の価格によって左右され、販売対象を海外輸出に依存することの多かった硫黄は市場価格が振るわず、ために釧路でも売り渋りのほかなく一時は滞貨を生じたが、その後、相場の回復にともなって順調に処分し得た。
 硫黄価格は採掘当初トン当り8円、25年ごろは12円に上昇し、27年ごろには30余円となったので、山田慎との契約による第四十四国立銀行の不良債券完済もようやく結了するに至った。
 かくして29年(1896)ごろには硫黄の産出も減退傾向を示し、ほぼ採り尽くされたことも明らかとなったので、同年7月28日をもって採掘を打ち切り、釧路、函館両派出所を出張所と改めたうえ、硫黄山の管理、春鳥炭鉱の経営ならびに函館倉庫の保全のため殘置して、一切を整理することとなった。
 20年(1887)2月に開始された善次郎最初の直営事業たる釧路硫黄山は、かくして約11年の歳月を経た31年(1898)6月17日、硫黄山解散式をもって、その歴史を閉じ、34年(1901)2月に一切の処理を終了し、山田朔郎に返還された。――
 整理したのはこれだけではありません。北海道で2番目の鉄道路線となった硫黄鉱山鉄道を明治25年(1892)には釧路鉄道という民営鉄道としての営業を開始していました。『安田保善社とその関連事業』はこう書いています。
 ――ところが明治28年(1895)ごろから硫黄山の産出量は次第に減少し、加うるに冬季は積雪のため列車の運行中止も重なり、営業成績は減退不振に陥るに至り、27年(1894)には1,428円の純益を計上していたのが、28年以降は赤字に転じ、29年になると2,803円の純損をも生じるほどになった。さらに同年には硫黄山そのものが貧鉱化して採掘をも中止したので、主要輸送貨物を失って採算が立たなくなってしまった。
 この間の事情を、29年下期の営業報告は次のようにその苦境を記している。
「本社は安田硫黄山の鉱物運送をもって専務営業となしたりしに、その硫黄山は本年7月28日限り採鉱を中止せしをもって、その後は1日数名の乗客のほか運輸すべきほかの貨物もなく、日々の損失莫大にて引き続き運転なしがたき場合にたちいたりしにより、追って維持の見込み立つまで先1年間休業することとし、そのむね8月1日逓信大臣に届けたり」
 このように営業休止を届け出た当社は、存否を検討した結果、北海道庁に全線の買い上げ方を請願したが、たまたま同年(1896)には「北海道鉄道敷設法」が制定されたのが幸いし、とくに本路線が計画中の第1期線に当たっていたので、同庁は当社を買収することに決定した。
 かくて30年(1897)10月、釧路鉄道株式会社は、所有する全動産、不動産その他を約20万円をもって北海道に引き継ぎ、任意解散して終結を告げたのである。――
 このなかで注目しておきたいのは、鉱山関係者以外に乗客となる住民がほとんどいなかったらしいこと、安田が山田から得た硫黄山採掘権の10年という期限かっきりに、鉄道施設まできれいさっぱり処分して事業を終了しているみごとな手際です。別の資料によれば、安田が山田から得たもうひとつの鉱山、釧路の春採(鳥)<ハルトリ>炭鉱がこの硫黄採掘事業の終了を境にして急速に発展します。そしてこちらは明治34年(1901)に評価額6万円の折半価格で山田慎からの譲渡が成立し、独立経営事業として発展させていきます。
 道庁が買い取った鉄道は、路線計画の変更などから軌条の一部が釧路〜帯広間の釧路線敷設に転用された程度で、放置されたのです。
 明治34年(1901)の「北東日報」にはつぎのように報じられたといいます。
 ――多年朝野に物議を釀せし釧路鉄道軌道は昨年すでに除去せられ、かの20万金の面影はいまや茫茫たる、ただ一条の草道となりおおせるのみ。――
 安田善次郎の硫黄採掘を釧路地方の近代化の起点とする佐藤尚さんは「安田の硫黄」を次のようにまとめています。
 ――硫黄採掘という事業が、従来のクスリ場所(釧路)に新たな産業を加えたという点で、釧路地方の近代の起点と呼ぶことはできる。しかし、佐野、山田による経営はその性格において、また規模において、本格的な近代の到来といえるものではない。安田がこの事業に投じた資金は安田が調達し得る総資金量に比べればまさに「雀の涙」であったかもしれない。しかし山田や佐野のような在来資本、前期商業資本にはとうてい及びもつかぬものであったし、資金量そのものの差よりもっと本質的な懸隔があった。弱小地場資本ではとうてい成しえない力、つまり時には国家の政策をさえ動かしもする資本主義日本の「総資本」の後光をもった資本投下であった。
 安田の硫黄、それはやがて釧路の経済を支えた春採炭山を開発させたし、特別輸出港の指定は、のちに釧路港の開港をもたらし、林業、製紙の立地を確定した。
 私があえて釧路地方近代の起点を「安田の硫黄」に置いた意義はそこにあるのである。――

●原野の100年

 弟子屈町立図書館では『熊牛』というタイトルの本を見つけました。南弟子屈開基100周年記念誌と副題にあり、1990年(平成2)の発行です。
 弟子屈町のなかでも熊牛と呼ばれる一帯は最初に入植者の入ったところで、それも郷里を同じくする人々がイモヅル式に入ってきた特異な場所であったようです。
 原野に小さな家が1軒建ったのは明治23年(1890)のことでした。その最初の1家族について、更科源蔵さんが『父母の原野』という作品を書いています。
 ――「勉強するんなら苦学をしろ、自分で苦労して身につけたのでなくてはだめだ」
と、後年、伯父はよく私にいっていたところをみると、東京にでた伯父は、どこかの書生でもして、勉強をしたらしい。その伯父が新世界の北海道に渡って、文化の最先端をいく、鉄道敷設の重要なポストにつき、
「早くやってこい。なにをそんなネコのひたいほどの泥田の中を、いつまでもぐずぐずと、はいずりまわっている。この大平原にきてみろ、今すぐにでも庄屋くらいの大地主になれるぞ」
 すこし酒がはいった勢いで書いたらしい、伯父の手紙を読んでいる父のところへ、日ごろ仲よし従弟の寅さんがやってきた。
「きまった! それにしよ。どうしていままで、それに気がつかなかったのかな。そうなんだ、北海道にいくとまだ兵隊検査がないんだ。北海道は天国だよ。いこう、いこう。なにも考えることなんかあるもんか」
 寅さんはひとりで力みかえり、はしゃいだ。――
 このような発端から、父と寅さんは北海道へと渡るのです。
 ――父はしばらくぶりで見る伯父の洋服姿がすっかり身につき、ひげもいっそういかめしくなったのを見て、なんとなくまぶしくさえ感じられた。
 伯父がふたりのために見つけておいてくれた土地は、札幌郊外の発寒<ハッサム>屯田兵村の近くで、安政4年(1857)、幕臣の次三男が、北方開拓と警備に入植したところであった。――
 ――母と姉が発寒におちついた翌年の秋、伯父がきゅうに、釧路の山の中に敷設される私設鉄道の、工事の責任者として、札幌をはなれることになった。
 この伯父の新しい仕事というのは、釧路の標茶というところにできた、重罪犯人ばかりを収容した、釧路集治監の囚人たちをつかって採掘した、川湯硫黄山の硫黄を精練場のある標茶まで運ぶためのものであった。
 そのころ日本は、清国(中国)とのあいだの国交があやしくなっていたので、もしものときに火薬にする硫黄が大量に必要であったので、この山の硫黄の搬出が、いそがれていたのであった。
 現地のようすを見て帰ってきた伯父は、
「やっぱり待つもんだよ、こんどいった釧路は、いまはまだわずかの漁場と、アイヌの人よりいないが、鉄道でもついてみろ、このへん以上にりっぱに開拓されるところだ。土地などいくらでもある。それでとりあえず郡役所にたのんで、町の近くの土地20町歩を手に入れてきたから、さっそく春にならないうちにいって、来年から開墾にかかれ」
 伯父はすこぶる上きげんで、前祝いだといって酒を買ってこさせ、父と寅さんを呼んで、めずらしく<佐渡おけさ>などをおどった。――
 釧路の春採の丘はしかしガス(濃霧)のひどいところでした。もういちど入植地が変わります。
 ――父が新しく開墾するところは、釧路集治監のある標茶の町から、さらにもう20kmも山奥にはいった、くらい密林の奥だということであった。
 だが標茶からさきは、硫黄の採掘をしている跡佐登<アトサノボリ>というところまでは、伯父のつけた鉄道があった。朝と晩方には、薪をたきながら、ピー、ポー、と悲鳴のような汽笛を鳴らしながら、硫黄鉱を満載して、おもちゃのような貨車が、ゴッゴー、ゴッゴー、と走っていたから、ひどい山の中にきたというよりも、なにかふしぎな世界にやってきたような、そんな気がしてならなかった。
 母とテリ(姉)とは一郎をおんぶして、寅さんとその汽車で、ニタトロマップという、おもしろい名の駅におりた。駅といっても密林の中に、建物が1軒あるだけで、朝の汽車で標茶から駅員がひとりきて、夕方まで駅の仕事をして、晩の汽車で帰ると、駅はだれもいない空き家になってしまった。
 父だけはポンコ(馬)に乗って、汽車のつくまえ、400頭もの土産馬で、硫黄を駄送したという道を通って、ニタトロマップの駅にいき、わずかばかりの、引っ越し荷物を受けとり、釧路で買った荷馬車に積んで、かたこと3kmほどもどった、払い下げを受けた、セタイベツという、釧路川岸の密林の中に、荷物を運んだ。――
 ――父たちがここにはいったときは、カリカンとニタトロマップの駅の建物のほかには、密林の中の細道を8kmいったさきに、テシカガという温泉のわいているところがあり、そこに3軒の和人の家があった。
 その1軒が、釧路川ぶちでわく温泉で湯治をする、草小屋の温泉宿だった。それにもう1軒、できてまもない木造の、官設の宿泊所の駅逓。もう1軒は、釧路の漁場の経営者が、アイヌの人のもってくる毛皮を買い入れるところであった。――
 著者の更科源蔵さんはこの、後に川上郡弟子屈村熊牛原野という住所になる場所で更科治郎、ヨリの9人兄弟の末っ子として明治37年(1904)に生まれます。
 開基100年記念の『熊牛』では初期入植者と克明に調べています。
明治23…2戸…更科治郎、矢野新作
明治24…4戸…吉田忠吉、更科寅平、高野由太郎、坂井浦太郎
明治29…5戸…更科鉄太郎ら
明治30…1戸…岡本裕治
 このような表が作られているほどです。
 ――明治33年(1900)の報文(北海道植民状況報文)には「熊牛原野字熊牛に新潟県の農民7戸とアイヌの人の家が1戸ある」と記されている。この報文が示す7戸とは、更科治郎、矢野新作、吉田忠吉、更科寅平、高野由太郎、坂井浦太郎、岡本裕治である。またアイヌの人とはサンペチャチャを指していると思われる。――
 もっともこの人たちは農業で自立できていたわけではなかったようです。
 ――農作物が収穫されると台車に積んで標茶にある安田鉱山の事務所に持っていき、函館相場で買ってもらった。よくとれた馬鈴薯は、1俵18〜20銭が相場であった。硫黄山以外にさしたる販路がなかった。
 このような状況であったから、農業専門というわけにはいかず、夏場は、硫黄山鉄道の工事に出役した。1日22〜28銭であった。冬は、鉄道の枕木を納める約束で、越冬用の米、味噌などを安田鉱山事務所から前借りするのが常であったという。
 明治29年(1896)に硫黄の採掘が中止されて農外収入が絶えると、亜麻会社やマッチ製軸原木輸送で生活をつないだ。亜麻会社が明治31年(1898)に閉鎖されると、ナタネなどを作って売ったり、豊富な木を伐って木炭を焼いて売ったりして生活を続けたのである。
 このような時期、更科鉄太郎は、熊牛原野29線付近の尻無川の水で水田を1反歩ほど試作したが成功しなかった。――
 明治29年入植の更科鉄太郎こそ、更科源蔵の作品に出てくる伯父で、亜麻工場の仕掛け人でした。『熊牛』に堀内クマノさんの思い出が載っています。(これは昭和49年の「農協だより」からの転載ということです)
 ――当時くまうし原野には亜麻工場(帝国製麻会社と記憶しています)があり、直営の農場ではその頃としては近代的農法をとり入れて原料を生産していたし、遠く太田村からも馬の背を利用して輸送されてきたそうです。
 収穫期が雨やガスの多いこの地方では、立派な原料を作ることの不可能であることを知り、いくらもたたぬうちに閉鎖され機械設備は新しく出来る十勝へ運ばれていきましたが、社宅がそのまま残っていたので当座のすまいをここにおきました。
 亜麻工場は硫黄山にいた大塚という人の資本でつくり、実際の経営は更科鉄太郎さんが経営していたのです。私の父は、この人をしたって(幾分内から)くまうしに来たのです。……直営農場はこの人のもので更科牧場といいました。主作物はもちろん亜麻ですが、ここで働く人たちの食料も作りました。もともとここは大根のよくできる所で、無肥料でもすばらしい大根がとれ幾分内にいる時農場見学にきて食べたたくわんに驚いたと母が話してくれました。
 父母たちが渡道した70年以上も昔の農法は島田鍬や窓鍬でたがやすのでしたが、農場では馬にひかせた乗用プラウーやハローでした。札幌農学校(北海道大学の前身)出身の若い技術者をやとって新しい農法による栽培方法でした。この農機具は札幌の五番館より購入したものということです。
 農場長の私宅は木造りの当時としては立派なもので、大きな柱時計がカッチ、カッチと音をたてていたし、いろんな額が掛かっていました。大ぜいの出入りがあって幼い私にも大家の感じがしました。
 この農場も亜麻工場の閉鎖とともに廃止になり、更科鉄太郎さんは斜里の山田牧場(山田慎の経営)の支配人として移っていきました。――

●道路つくりのヒーロー

 1980年(昭和55)に阿寒国立公園広域観光協議会が発行した『阿寒横断道路開通50年―永山在兼顕彰の碑建立記念誌』というのがありました。
 永山在兼という人物の登場した背景については釧路短大教授の永田洋平さんが「永山在兼、その苦汁と栄光の道」と題して書いています。
 ――永山在兼という、当時名もなき1人のロードマンが海霧の街釧路にやってきた大正の初期は、折から第1次世界大戦の終結によってもたらされた経済界の激しい動揺と熱狂的な好景気の交錯していた小国日本にとって前例のない試行錯誤の時代である。
 彼の軌跡を知るには、まずなによりも、そうした時代的背景と、道行政、ことに長官が内閣の直属をはなれたとはいえ、内務大臣の監督下におかれていたというその時代の客観情勢を切り離してみるわけにはいかない。
 当時、国の経済は、大正3年(1914)世界大戦勃発時の指数を100として、7年には物価225、賃金は逆に82と異常なアンバランスの指数を示し、政情もそうした事情が示しているように大正3年成立した大隈内閣は2年、その後を継いだ寺内内閣も2年ともたず、彼が札幌から釧路に出た7年(1932)にはすでに原敬に政権は移っている。原の政策の最大特色は国防(軍備拡張)の充実と交通、通信機関の整備であった。いうまでもなくそれを支えたものは、後に放漫財政ときめつけられた積極財政である。――
 ――永山在兼が、東大土木工学科出のいわばばりばりのエリートとして札幌に赴任したのは大正4年(1915)だが、その彼を直接札幌に招いたのはほかでもない時の道庁土木部長の橋本正治(東大土木工学科の先輩で、後に鹿児島県知事)である。そしてその3年後の大正7年には橋本にかわった土木部長の白男川譲介のもとから早くも永山は釧路土木所長として転出している。閥というより、凡庸ならぬその才能と行動を高く買ってのことであったろう。事実彼は釧路に赴任後そうした橋本や白男川の厚遇に能力、実績をもって報いている。
 この釧路への転出は、彼にとってまさに自身の新天地への門出であり、試練の場への出発でもあった。29歳であった。
 彼の夢は、当時ケモノ道か馬車道でしかなかった北海道東部の原野と森にモータリゼーションの息を吹きかけることであった。
 まず着任と同時に彼は、新しく公布される国の道路法(大正8年)に沿って施行される北海道道路令にタイミングを合わせていつ早く新設・改良に手をふれた。
 従来の道路が、国道、地方費道、準地方費道・区費道・町村道に区分され、建設費の一部が拓殖費(開拓費)から支出できる特令がこの新しい北海道道路令に盛られているのを彼は見逃さなかった。
 席を温める間もなく釧路から川上、阿寒へと実地視察に彼はとんだ。やつぎばやに彼の脳裏に新しい道路、橋梁プランが刻みこまれていった。その構造のかなめは、当時至るところで分断されていた北見、網走、根室、帯広など、釧路を基点にがっちりと結び、道央につなぐことにあった。――
 この記念誌には、郷土史家の種市佐改さんが(釧路観光連盟事務局長の肩書きで)「阿寒国立公園の道路と永山在兼考」という力作を発表しています。
 ――永山は12年間の任期の最後を飾るように阿寒国立公園の将来を決定づけるような道路プランを発表している。少し長くなるが当時の道路事情と永山在兼を知っていただくために、昭和2年(1927)10月30日付の釧路新聞をのぞいてみよう。
<勝地を結んで自動車道路―保勝会と呼応する永山所長のプラン>
「阿寒・屈斜路・摩周の3湖を連接する国立公園候補地、それを中心とする釧路保勝会は去る21日の協議会で成立し、それぞれ事業計画を立てているが、右3湖はいまだ連絡する道路なく、之が遊覧観賞の跋渉には少なからず困難あり、ことに阿寒・屈斜路間はようやく径路をつたつて進み、かつ熊もなかなか多く命がけのありさまゆえ、土木事務所長は自動車道路開さくにつき熱心に調査研究している。
 永山所長は早くから自動車道路論者で、これまで尚早の避難さえあったが、その理想に努めた結果、釧路の原野には現在自動車の運転が各方面に行なわれているが、さらに開拓促進を兼ねた遊覧自動車道路をもうけんとするもので、
第1…阿寒・弟子屈間
第2…弟子屈・摩周湖間
第3…阿寒・足寄間
を開さくしたいというのである。
 第1の阿寒・弟子屈間は、現在阿寒より屈斜路まで9里をアイヌを道案内とし、命がけで踏破しているもので、開さく希望の自動車道路は、鐺別川をさかのぼり雄阿寒の麓に達し、さらに湖畔に至らんとするもので、この沿道には有望な農耕地もあり、地方の開発にもなるからすこぶる有望である。これが実現すると阿寒から弟子屈まで1時間半の道程となる。
 第2の弟子屈・摩周湖間は2里半で、土地は緩傾斜で
むしろ平埋に近いから実現困難でない。自動車でドライブの快感を味わいながら摩周の神秘を探れるわけだ。
 第3の阿寒・足寄間は十勝方面にも阿寒風光の礼賛者すこぶる多いが、登山者ははるばる釧路か美幌を回らなければならない。現に今年の池田の登山団も、釧路から美幌に抜けたような次第である。この不便を除くため、湖畔のシリコマベツ付近から足寄に出る道路を設けたいというのである(以下略)」
 この記事のように、永山は時代を先取りした自動車論者で、多少の非難を覚悟の上で道路を切り開いた。そして任期12年の総仕上げのように、既設の美幌峠・屈斜路湖周遊・阿寒湖周辺の道路に、この計画による道路をドッキングさせ、将来の大観光地阿寒国立公園の発展をえがいているのである。
 現在でも阿寒国立公園の周遊は大部分が永山の開いたルートを利用しており、自然保護の面から考えて、今後もこれ以上の道路開削が不可能であるとすれば、数十年前に発想した永山の慧眼には驚嘆のほかはない。しかもプラン倒れにならず、わずか4年で完成するその行動力には頭の下がる思いがする。
 またこの記事中の釧路保勝会についても、当時の新聞の文調から見て、永山主導で結成されたように理解され、このプラン完成に心血をそそいだのも、やがて来訪が予想される国立公園調査員一行にテンポを合わせて強行したものと考えられる。――
 第1の阿寒・屈斜路間の難工事については、当時、踏み跡道をたどってくるしかない阿寒湖畔にただ1軒の旅館を経営していた山浦久三郎さんが記念誌でこう語っています。
 ――横断道路は永山さんでなければ出来なかった道だと思います。なにしろひどい道路でしたからね。この道路は地元町村からの陳情によって拓かれたものではありません。地元民でも人跡未踏のあの原始林のけわしい谷間に、道路がつくれるとは思ってもおりませんでした。永山さんが阿寒国立公園の将来のため、自ら考えたものではないでしょうか。――
 種市さんはこう指摘します。
 ――(国立公園候補地の)本格的な調査は昭和5年(1930)1月遅ればせながら設けられた国立公園調査会によって実施されるが、横断道路開通が昭和5年秋、調査会委員の阿寒候補地来訪が昭和6年(1931)7月で、冬期の工事休止を考えれば、横断道路は永山の強引な着工であっても、その完成はぎりぎりのリミットだったのである。――
 先に引用した永田洋平さんの「永山在兼、その苦汁と栄光の道」でも最後のあわただしい仕事ぶりに謎が提示されています。
 ――この工事に投入された費用はつまびらかではないが、一説には20数万円ともそれ以上ともいわれている。そしてこの費用は当初予算(13万円)の2倍を超える巨額なものであったとさえ噂されている。
 しかし今にして思えばこの建設費(決算)と工事の経過にはいくつかの奇異が感じられる。
 その1つは、この工事の着工した同じ昭和3年に竣工した釧路市の第4代幣舞橋(永久橋)が設計総額98万8000円(実施額86万5000円)で完成されているのに比較して、この全長44kmにも及ぶ当時最難関といわれた横断道路が、わずかその40%にもみたない額で完成しているということだ。しかもこの両工事とも彼の手によるものである。
 もう1つの奇異は、当時(昭和3年7月18日前後)の釧路新聞の記事によれば、新ルートの発見と、予算折衝、獲得の時期が、ほとんど間をおいていないこと、入札(大倉組)着工がほぼその1ヵ月後の8月下旬になっていることだ。これについては、その前後の状況から推して、この工事の立案者であり建設責任者である彼と道庁土木部長との間ですでに大筋で合意をみていたらしいが、それにしても、そうまでしてなぜ着工を急がなければならなかったのか。――
 ――現在、それらを説明できる資料は何もないが、、ただここで推理できるのは、このとき政友会の田中義一政府(昭和2年4月―4年7月)に任命された沢田牛麿北海道庁長官が民政党の浜口雄幸政府に免官される直前であったということである。
 政治に目をもたなかったとはいえ、政友会政府によって起用され、そこで技を駆使した彼が本能的にそのとき、何を、どうなすべきか策をもたなかったとは思えない。
 当然のことながら、政権が浜口に、道政が池田秀雄に移った工事半ばの昭和4年(1929)に大きく彼の身辺が変わっている。
 予算節約は田中→沢田ライン時代からのスローガンであったが、浜口→池田ラインの時代に移ると、それよりさらに1割5分削減という至上命令にかわった。緊急に政府、道の予算が組替えられた。
 まず、ここで工区ごとに補正でまかなわれた沢田型の予算の獲得にスタンブル(つまづき)が生じた。必然的に彼の現場と道庁間をいききする頻度が増していった。その苦汁にみちた折衝は50年後の今日でも鮮やかによみがえる。
 しかし予算折衝を執拗に続けながらも一方では残りの第2工区、第3工区の工事を中断することなく続行し、文字通りの絶壁に最後の突貫工事をこころみた。決算の下駄を、身柄とともに新政池田長官にあずけたとみられる。――

伊藤幸司(ジャーナリスト)


★トップページに戻ります