毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・8・白山国立公園」
1993.10――入稿原稿


■国立公園物語…白山

●研究者たちの白山

 名古屋・岐阜方面から清流・長良川をさかのぼっていくと「美濃の白山」に至ります。これが白山への南からのアプローチということになります。
 西からでは、福井平野から九頭竜川をさかのぼると「越前の白山」となり、北からだと金沢平野から手取川をさかのぼって「加賀の白山」。おおよそこの3つのアプローチが古くから白山信仰の道であったようです。
 ついでに触れておくと、白山を源流とする主要な川はもう1本あって、富山湾に注ぐ庄川が白山東面の流れを集めて北に下っています。
 この白山は、日本に数ある山のなかでも特異な山であるようです。金沢の北国新聞社が30年を経て刊行した2冊の学術報告書を合わせ読むことによって、そのことがわかります。
 最初は1962年(昭和37) 発行の『白山』で「北国新聞社白山総合学術調査団」の企画・編集となっています。あとがきにこうあります。
 ――わたしたちが、白山に取り組もうとひそかに心をきめたのは昭和34年(1959) のことである。昭和31年(1956) に白山が国定公園に指定され、さらに国立公園昇格運動が進むにつれて、多くの人たちが白山への関心をあらためて呼び起し、隣県富山県の立山(北アルプス) 開発の急テンポな進みにも刺激されて、白山の開発はどうあるべきか?と北国新聞紙上にも活発な白山開発論争をまき起した。――
 ――ところで、わたしたちが、こうした論争のなかにあって白山をかえりみたとき、古来からの名山でありながら、その自然、人文のすべてにわたって、空白の部分がたくさん残されているのに改めて気づいた。各分野が関連性なく、それぞれに調査され、発表され、しかもそれらの資料の数少ないまとめは、わずかの専門家の書庫に埋もれてしまっていた。
 白山のあすのために、わたしたちはこの過去の資料をとり出し、さらに各分野の専門家の有機的な協力体制のもとに、最近急速にすすんだ近代的な学術体系から再検討、これに実地の調査を加えて、今日の白山を集大成、あすへの道の灯のひとつに提供し得れば……と心にきめたものである。――
 かくして、大規模な学術調査団を結成したのです。
 ――調査団は36年(1961) 4月、春の白山の積雪、気象調査から現地調査の行動に入った。いらい9月末まで、総計13班の調査班が、それぞれのテーマをたずさえて、白山山頂を、山ろくを精力的に歩き回わり、新資料を発掘し、既存資料を検討しなおした。――
 これらの調査は、夕刊での連載が100回を越えるシリーズ「わが白山」に結実したといいます。
 ――いま白山国立公園の発足を前にして、調査に参加したした人々の総意のもとに、本社の紙齢25,000号記念出版として『白山』の一書を世に送ることとなった。36年の総合学術調査の成果だけでも、それほどに豊富であり、執筆にあたっては自然、人文とも従来の考え方を全面的に書き改めなければならなかった点も多かったのである。――
 360ページを超えるこの大冊の『白山』(1962年) は金沢大学や地元石川県の専門家の手によるものですが、一般読者にわかりやすい解説や、過去の資料の紹介に力点がおかれていて、現在もなお概説書としての価値を失っていないようです。
 それに対して1992年(平成4) に発行された『白山―自然と文化』は、発行者こそ北国新聞社ですが企画・制作は金沢の出版社・橋本確文堂となっており序文には「本書の刊行を計画し制作を全面的に引き受けた(株)橋本確文堂企画出版質には、心より感謝」と序文にあります。
 序文を書いたのは著者となっている白山総合学術書編集委員会で、委員は代表の〓<糸ヘンに白>野義夫(地質学=金沢大学名誉教授、北陸地質研究所) 以下、小林忠雄(民俗学=国立歴史民俗博物館)、矢島孝昭(生態学=金沢大学教養部)、中西国男(日本中世史=金沢高校)、水野昭憲(動物生態学=石川県白山自然保護センター) となっています。その序文によると、この『白山―自然と文化』(1992年) は30年間の各方面の学術研究の集大成というかたちで刊行が企画されたようです。
 ――おもえば、昭和37年(1962) に白山が国立公園に昇格した頃に、地元金沢の北国新聞社が中心となって、白山総合学術調査団が組織された。自然系および人文系の学者・研究者が調査にあたり、『白山』と題した立派な学術書を刊行している。あれから30年を経た今日、その間にさらに様々な分野で数多くの研究のメスが白山に入れられ、膨大な研究成果が報告されてきた。
 平成元年(1989) 1月に、白山国立公園制定30周年記念出版を目ざして、編集委員会が発足し、これまでに集積された各分野の研究成果を集約しまとめた学術書とすることが確認された。と同時に、白山をより良く理解し、貴重な文化遺産が将来にわたって守られていくことの手助けとなるよう、より平易に記された啓蒙書となることを配慮していくなどが話合われた。――
 この序文にはまた「側面からさまざまな援助をたまわった石川県当局、石川県環境部、石川県教育委員会、石川県立白山自然保護センター、石川県立白山ろく民俗資料館、石川県白峰村、岐阜県白鳥町にも謝意を表したい」と書かれていますが、1973年(昭和48) に設立された石川県白山自然保護センターを中心とする広範な研究・発表の蓄積が、白山をフィールドとする学術調査の水準を大きく引き上げてきたようです。
 石川県主導のものについては、1970年(昭和45) に刊行された『白山の自然』(日本自然保護協会中部支部・白山学術調査団編) があって、これをひとつのステップとして1973年(昭和48) に石川県白山自然保護センターが設立されたといわれます。そういう流れを見ると、『白山』(1962年) と『白山の自然』(1970年) が合流した先に『白山―自然と文化』(1992年) があるといえそうです。
 なお、『白山』(1962年) も『白山―自然と文化』(1992年) も、自然編と人文編とがほぼ半々のウエイトになっており、人文編では白山信仰をめぐる歴史がドラマチックに展開されます。しかしここでは、とてもそこまで範囲をひろげることができませんでした。白山の自然は、それほど特異で重要なものと思えたからです。

●名山の未開発の自然

 白山という山についての印象的な一節は『白山』(1962年) の「高等動物など」の書き出し部分でした。
 ――白山が国立公園になる理由の一つに「日本で唯一の荒らされていない山」というのがあったと聞いている。なるほど道は極端に悪いし、交通機関は全く不備、これでは荒れっこないはずである。この事は一方、自然保存にとってはまことに都合のよい条件である。したがってこの山の動物調査などはあまり進んでいない。――
 ちょっと乱暴なこの言い方を『白山―自然と文化』(1992年) では矢島孝昭さん(編集委員) が「白山国立公園」の項でていねいに解説してくれています。
 ――原生的な自然が近年まで保たれてきた主な理由に、世界でも有数の豪雪地帯のなかに白山が位置し、人間の通年の定住をゆるさなかった環境が挙げられる。このことが、広大な山地帯のブナ林をはじめとした原植生を残し、多様な動植物、微生物たちを育んできたのである。
 その価値は計り知れないものがあり、IUCN(世界自然保護連合) が国連での議会決定を受けて定義した世界の国立公園の基準に合致する、わが国では数少ない代表的な国立公園として、国際的にも認定されている。――
 たしかに、山ひとつがかっきり国立公園になっていて、車で横断できるのは白山スーパー林道が1本だけ、あとは登山道の登り口まで上がる数本の自動車道だけです。
 ――規模は小さいが、白山国立公園は、自然景観の保護上、各種の制限・禁止をとくに厳重におこなう特別地域のみで、各種の制限を緩和するふつう地域がないことと、特別地域のなかでも、自然の原始性を最も厳しく保護しようとする特別保護区域の占める割合が高い。ここに、白山が国立公園に指定された意義と特徴とを端的に物語っている。――
 小さいながら、環境保護の条件に恵まれた白山国立公園は、指定された過程そのものも異例であったようです。矢島さんはこう書きます。
 ――日本三名山として古くから親しまれ、原生的な自然が多く残されている白山を、国立公園に指定してほしいという地元からの長年にわたる要請にもかかわらず、国定公園として指定され、それから僅か7年後に、区画の変更や地域の追加などが一切なくて国立公園に昇格したのは、異例だといえる。
 飛騨山脈に隣接しているが独立峰の白山は、その規模が小さいためか、1934年(昭和9年) に指定された中部山岳国立公園の影にかくれてしまい、国立公園としての指定が遅れたような印象を受ける。――
 ――白山を国立公園に指定してほしいという運動は、石川・福井・岐阜・富山の4県と、白山観光協会などが中心となって、1948年(昭和23) から進められてきた。しかし、1955年(昭和30) 7月に国定公園に指定されたため、1957年(昭和32) 11月、改めて国立公園の指定申請を行なった。
 その結果、自然公園審議会は1961年(昭和36) 12月に知床、南アルプス、山陰海岸とともに白山を国立公園候補地とすることを答申し、翌年10月、同審議会は、候補地のトップに白山国立公園指定の最終決定をした。――
 その自然環境を生物相として概観する文章が『白山―自然と文化』(1992年) の「序章」にありました。
 ――本州の同緯度地帯の他の山と比較してみると、白山にみられる北方系の動物のなかに、標高の低いところまで分布するものがある。
 東北地方には広く分布するが、中部地方では亜高山帯の昆虫とされているトワダカワゲラは、白山では標高600mの低山にまで見つかる。ヒメヒミズ、ミズラモグラ、トガリネズミ、ヤチネズミは、中部山岳の1,500m以上から知られているが、白山では標高500mくらいから分布している。
 植物では、アカモノやイワナシがそれにあたり、中部山岳では1,000m近くから上でないと見られないが、石川県内では丘陵帯でも見られるところがある。
 寒地系の生物が低山から記録されるのは、この地方が同緯度の太平洋側と比べて積雪が多いため、生物の生息環境としては冬が長く、特に雪崩跡や日陰になる谷間では春遅くまで積雪があり、局部的に北方的な環境要素を強めているからと考えられる。
 白山山系には、ニホンカモシカ、ニホンザルやツキノワグマなどの大型ほ乳類、イヌワシやクマタカなどの大型猛禽類などが高い密度で生息していることが、白山国立公園の特徴とされることが多い。
 これらの大型動物は広い行動域を持ち、まとまった数が広い範囲に生息してこそ安定した個体群といえる。大型の動物が豊富であるということは、この地域の自然が変化に富み、大きな広がりを持っていることを象徴するものである。
 白山山系は、日本全体からみても際だった多雪地帯である。白山麓の長年の気象記録のある白峰(標高480m) で251cm、最も標高の高い観測地点である目付谷(1,000m) では458cmの平年最深積雪がある。大雪の年には、山地では5mを越す積雪になる。積雪の深さに加えて、生物の生息環境を制限する積雪期間は、山麓でも100〜150日におよぶ。――

●雪の山

 この雪と生物の関係については『白山―自然と文化』(1992年) に「多雪地の哺乳類」というテーマで野崎英吉さん(石川県白山自然保護センター) が書いています。たとえばニホンザルにとって豪雪の冬と遅い春とは、以下のように違うのだそうです。
 ――確かに雪の多さや冬の寒さは、ニホンザルの生活に多くの障害をもたらす。雪が多いと地上付近の餌がとれないのは当然だし、歩行にも困難である。しかし、基本的には雪国の動物の冬の過ごし方は、秋の間に貯めておいた体の中の栄養分を春までもたせて、何とか冬を乗り切るというやり方なのである。これはニホンザルも、ニホンカモシカも、冬ごもりをするツキノワグマやコウモリなども同じことである。
 ニホンザルは冬の間も活動をしていて、木の皮や、木の芽などの栄養価の低い食物のために、餌として体の中に取り込まれるエネルギー量は、消費される量にくらべてずっと少ない。そのため冬を越す間に、秋に12〜13kgの体重のあったものが、春には10kg程に痩せ細る。
 しかし豪雪の冬でも、春の訪れは3月にはやってくる。それは、雪崩という形で動物たちに恩恵をもたらす。雪崩は、地表に積もった雪を一気に取り去り、春の芽ぶきの準備を整えていた植物が現われる。これらの植物はサルの絶好の食べ物となる。冬の木の皮や木の芽に比べると栄養価が高く、体力の回復が可能となる。
 ところが、春の訪れが遅いと、一面に被った雪は良質の餌を隠し、貧弱な餌しか取ることができず、体力は回復しないまま、消耗は限界に達して、死ぬものが出てくる。
 1981年(昭和56) は近年稀にみる豪雪で、人間には多大な被害を与えたが、サルにはそれほど多くの死亡は無かった。1984年(昭和59) は雪の量は1981年よりも少なかったが、春の訪れは遅く多くのサルが痩せて、栄養失調になり死んだのである。――
 ツキノワグマの冬ごもりもまた、雪との関連によって行なわれているそうです。
 ――白山でクマが、冬ごもりにはいる時期は、根雪の早い標高1,000m以上では11月下旬、それより低いところでは12月上旬とみているが、その年の気象条件に大きく左右される。1988年(昭和63) は暖冬で、1月になってもまともな雪が降らず、1月上旬に白峰でクマが歩いているのが観察されている。クマが何をきっかけに冬ごもりにはいるかについては、はっきり判っていないが、白山では雪が積もり地上の餌が採れなくなったときに冬ごもりに入るようだ。その時の積雪は70〜80cmに達している。――
 ――雪の多い白山では冬ごもり穴は低いところで300m、高いところでも1,600mまで分布する。ところが、雪が少なく寒冷な内陸型気候の栃木県日光では、1,000m以下のミズナラ林で菜食していたクマが、冬ごもりのために標高2,000m以上の亜高山帯にまで登ってコメツガ林の中の越冬穴にもぐり込む。白山と同様に多雪地の秋田県では、標高の低いところでも冬ごもりをしている。
 このような冬ごもりの生態上の差は、積雪の有無に大きく関係していると考えられる。言い替えれば、ツキノワグマの冬ごもりの習性は、冬の餌不足に対する適応だけでなく、雪という気候条件への適応であると考えられる。
 すなわち、冬ごもりにとって暑くもなく寒くもない一定の温度を持つ保温性(断熱効果)、冬ごもり中の乾燥から身を守る保湿性、静かな環境で冬ごもりができる音の遮へい効果などの、雪の持つ特性が、低標高地でもクマが冬ごもりができるようにしている。――
 ――さらに、雪が多い地域は、伐採や狩猟などの人間活動が山奥に入ってこなかったために、現在でも石川県白山麓をはじめ日本海側の地域は、ツキノワグマの生息に適する林が多く残り、生息数も多く、ツキノワグマの安定的な生息地域となっている。――

●王者のイヌワシ

 鳥類に関しては『白山』(1962年) の学術調査団では、野鳥班の隊長に、地元出身で日本野鳥の会の創設者、中西悟堂が迎えられました。7月29日から1週間の調査によって「白山は野鳥の分布密度において全国でも有数であることを確認した」とあります。執筆は石川野鳥の会の松田衛さんのようですが、初心者にもわかりやすいガイドになっています。ここでは「高山帯の鳥」のところを引用しておきます。
 ――白山で高山帯の岩屑が堆積している御前峰、剣ケ峰、大汝峰への中腹付近ではイワヒバリが数多くおり、夏の日は多くの登山客にもさほど驚かなくて飛び交い、また営巣、繁殖している。
<クリヒー、クリヒー>
と鳴きながら岩石から岩石へと飛び移って餌を求め、または岩角や山小屋の屋根などにとまって、
<チョリ、チョリ、キョロキリ、キョロキョロ、キョロリリ、キョロキリ>
と美しい声でさえずり続ける。
 ミヤマハンノキ、ウラジロナナカマド、ハイマツなどが繁る室堂平〜頂上の間でわれわれは朝早くから夕べ近くまで一日中
<チョチョリ、チョチョリ、チョチョリ、チョチョリ>
とゆっくり四声にさえずるウグイスに似たメボソや、これよりはやや低く早口で
<ヒョロロ、ヒョロロ、ヒョロロ>
とさえずる、雄の背が暗色のルリビタキ、すこぶる早口で
<チイー、チイー、チイー、チリチリ、チリチリ>
または
<チュルリ、チュルリ、チュルリ、チュルリ、ヒリヒリ、ヒリヒリチリリチリリチイーヒリリ>
など複雑美妙なさえずりをするカヤクグリ、岩上やハイマツの梢で、あまり人にも恐れず
<ビンビンビンビンヅイヅイヅイヅイプイプイプイプイ>
と楽しそうに歌っているビンズイの声もわれわれは容易に聞くことができる。のどかにさえずるウグイスも少なくない。遥か谷合いからは、
<ピ、ピ>または<ピポ>
という声もかすかに室堂平で聞かれることがある。
 ビンズイ、カヤクグリ、メボソ、ルリビタキ、ウグイスこそはまことに高山のお花畑には全くきり離し得ない歌声である。
 高山植物帯や、高地草原地区ではビンズイがやや少なくなり、頂上岩屑地区ではイワヒバリの姿が多くなるが、いずれにせよ以上の小鳥たちの可憐な、無邪気な声は中部日本のアルプス地帯の同じような高山帯ではほとんど共通して聞かれることであろう。――
 ――白山を西限とする繁殖鳥はイヌワシとライチョウ、それにおそらくホシガラスであろう。ライチョウは過去にかなり多く標本がもたらされており、白山の象徴かのように文人、画伯らにもてはやされていたが、近年は姿を見る人の報告もほとんどなく、僅かに大汝峰のすそに広くひろがるハイマツの蔭に
<グゥァツ、グゥァツ>
とつぶやくような声のみしか聞けなくなった。昭和36年(1961) 7月のわれわれの調査ではその声も確認できなかった。
 それに比してオオシラビソ、コメツガがやや矮小になったダケカンバに混じるあたりやハイマツ帯ではホシガラスはがぜん多い。しわがれた、おどすような、物憂いような
<ガーッ、ガーッ>
という声である。
 イヌワシは本邦最大の鳥で、高山でも岩崖峨々たるあたりの王者である。大汝、御前峰の遥か上空3,000m以上を拡げた両翼2mに近い大鵬がゆうゆうと滑翔、帆翔する有様はまさに一幅の画である。または室堂平やヒルバオ雪渓を、ときにゴマ平や杉峠のあたりまで径数キロの間、円やかに上空をまわりまわっている。
 このイヌワシの巣が石川県では近年小松市、金沢市の標高400〜600mの山地で発見され、雛が捕えられている。四国にも報告があるが、イヌワシはおおむね千島、北海道に分布し、本州はほとんど中部山岳地帯以北の、数まれになった珍鳥である。保護を要する。――
 このイヌワシについては『白山―自然と文化』(1992年) に「イヌワシとクマタカ」という報告があります。石県白山自然保護センターの上馬康生さんが書いていますが、1977年(昭和52) からの本格的なフィールドワークによって明らかにされたものです。
 ――イヌワシは、近年まで高山の鳥のようにいわれてきたが、決して高い山の鳥ではなく、稜線が400〜500m以上ある山地で、条件さえ揃えば、その山の麓から生息していることが明らかとなってきた。県内では、金沢市以南の山地に広く分布しており、留鳥としてつがいですんでいる。白山を中心として、北は医王山付近まで、西は大日山の西方までの範囲に、約20つがい、40〜50羽が判明している。
 イヌワシが、標高の高い白山の山頂部まで普通に生息しているのに対して、クマタカはイヌワシの分布の中心地には少なく、これを避けるかのように、より標高の低い山地に連続的に分布し、また後に述べるように、行動圏の広さがイヌワシよりはるかに狭いことから、その生息数はイヌワシよりも多いと考えられる。
 イヌワシは、白山地域では、地形的には起伏量が多く、植生では草原・低木林が広がるところ、そして人為環境の少ないところに分布している。今までの観察から、人が近づくと遠くからでも飛び去るなど、イヌワシは人間活動を避ける傾向が強い鳥のようである。
 起伏量の多いところは、積雪の多い白山では雪崩が発生するため、営巣の中心となる積雪期に人が近づけないところとなる。そこはまた、高茎草原となっているところが多く、もともと開けた環境に生息するイヌワシにとって、餌を探すのに適した場所でもある。
 また急俊な場所の岩場に巣が見つかっている。これらの条件に合う場所が、白山地域では河川の上流域、すなわち標高の比較的高いところにある。
 一方クマタカは、白山地域ではイヌワシと比較すると、より標高の低いところ、二次林や植林地のあるところ、人為環境の多いところに分布している。――
 生態の解明は、さらに深まってきているようです。
 ――イヌワシもクマタカも、基本的には留鳥としてつがいで1年中同じところにすんでおり、ある程度決まった範囲内で行動している。その行動を調べるため、観察定点をいくつか設け、複数のつがいの飛行の同時観察を繰り返し、結果をまとめて行動圏の広さや行動様式を明らかにした。
 白山地域の行動圏の面積は、イヌワシでは20〜40平方km以上、クマタカでは11〜12平方km以上あることがわかった。この価は、各地で調べられたイヌワシの全国平均値である約60平方kmや、クマタカでわかっている10〜48平方kmなどに比べると狭い。行動圏の広さは、営巣に適する場所の分布状況、餌となる動物の量や、その捕りやすさ、その地域での混みぐあいなどによって違ってくる。白山地域が他地域よりイヌワシやクマタカの生息に適した環境であるのかもしれない。――
 ――イヌワシは白山地域では、すべて急斜面の岩場に巣を1〜数カ所持っており、早い時には10〜11月から時折木の枝を運び始める。本格的な巣作りは12〜1月で、ミズナラやブナなどの広葉樹のほか、マツ類などの青葉のついた針葉樹の枝を運び込む。産卵は1〜2月に2個で、抱卵は雌が中心に行い、期間42〜45日くらいで3〜4月に孵化する。雛が小さい間は雌が巣に残り雄が餌を運ぶが、大きくなると雌雄ともに運ぶ。餌としては表6のようなもの
  <表6>白山地域におけるイヌワシの餌の種類
  爬虫類…アオダイショウ=16.0%、ジムグリ=4.9%、
  シマヘビ=2.8%、ヤマカガシ=0.7%、マムシ=0.7%、
  不明のヘビ=18.1%
  鳥類…ヤマドリ=20.8%、カケス=5.6%、カワガス=0.7%、ヤマガラ=0.7%、不明の鳥=1.4%
  哺乳類…ノウサギ=26.4%、カモシカ=0.7%、不明の中型哺乳類=0.7%
  *データは池田他(1986) をベースにしたもので、合計144例。したがって0.7%は1例。
が白山では記録されているが、その中でノウサギ、ヤマドリ、アオダイショウが主要な種類といえる。
 育雛期間は70〜90日くらいで、5〜6月に巣立ちする。巣立った幼鳥は、しばらくは親からの給餌を受け、少なくとも秋までは親のなわばりに残っている。――
 こういうレポートを読んでいると、ひょっとすると行けば見られるかもしれない、と思ってしまいます。しかし……やはり、比較的簡単に見られるようです。石川県白山自然保護センターの広報出版物のひとつ「白山の自然誌」の13号に「クマタカとイヌワシ」(1993年発行) があって上馬さんたちの手になる信頼できる観察ガイドとなっています。
 その「おわりに」のところにはこう書かれています。
 ――白山地域には、今のところクマタカもイヌワシも比較的多く生息しています。自然環境がよいのはもちろんのことですが、急俊な地形と冬期の多雪で、彼らにとって一番大事な繁殖期に、人を近づけなかったことが、彼らを守ってきた大きな要因と思われます。ともに以前は、なかなか見ることのできない鳥と思われていましたが、案外身近なところにいることが分かりました。
 特にクマタカは、山麓の各集落近辺には必ずといってよいくらい生息していることが分かりました。ブナオ山観察舎(石川県白山自然保護センター施設) や、山麓の集落、あるいはドライブに行った山の中で上空を探してみてください。きっとどこかを飛んでいるはずです。――
 具体的な手引きもあります。「クマタカやイヌワシを見つけよう」という項目から要点を引用しておきます。
 ――クマタカもイヌワシも山の鳥なので、高いところへ上がれば近くで見られると思いがちですが、高いところから見ると、姿が山の斜面にとけ込んでしまい、見つけるのは非常に困難となります。一番見つけやすい方法は、空をバックにしたときです。そこで谷の中で、上空ができるだけ広く見渡せる場所に観察点を設け、山ぎわを探すことです。生息している場所なら、半日もいればそのうち空に姿を現すはずです。――
 ――イヌワシは、ブナオ山観察舎や中宮展示館がお勧めです。ブナオ山観察舎周辺は、つがいの境界にあたる場所となっています。今までに何度も、同時に別のつがいが出現しています。観察舎から見た周辺の山の、よく出現する場所と飛行コースを、いくつかの例を示して図にしましたので参考にしてください。――

●高山植物とコケとブナ林の昆虫相

 高山植物の中にハクサン……という名が多いことはよく知られていますが、和名で約30種、そのうち標準和名とされるものが約20種もあるといいます。『白山』(1962年) には「和名にハクサンのついた植物」の一覧がありますので、そこから科名と和名(先頭のものが標準和名) を列記しておきます。
ミズゴケ科………ハクサンミズゴケ
カバノキ科………ヤハズハンノキ(ハクサンハンノキ)
タデ科……………オンタデ(ハクサンタデ、イワタデ)
キンポウゲ科……ハクサンイチゲ
キンポウゲ科……ハクサントリカブト
アブラナ科………ハクサンハタザオ(マルバハタザオ)
フウロソウ科……ハクサンフウロ(シロウマフウロ、アカヌマフウロ)
トウダイグサ科…ハクサンタイゲキ(ミヤマノウルシ)
ノチノキ科………シイモチ(ハクサンモチ)
カエデ科…………ミネカエデ(ハクサンモミジ、バンダイカエデ)
オトギリソウ科…ハクサンオトギリ
セリ科……………ハクサンボウフウ(ヒロハニンジン)
セリ科……………ハクサンサイコ(トウゴクサイコ)
ツツジ科…………アオノツガザクラ(ハクサンガヤ)
ツツジ科…………ハクサンシャクナゲ
サクラソウ科……ハクサンコザクラ/ナンキンコザクラ
シソ科……………ハクサンカメバソウ
オオバコ科………ハクサンオオバコ
スイカズラ科……コウグイスカズラ(ハクサンヒョウタンボク、トリガタヒョウタンボク)
スイカズラ科……ハクサンボク
オミナエシ科……コキンレイカ(ハクサンオミナエシ)
キキョウ科………ハクサンシャジン
キク科……………ハクサンアザミ
キク科……………ハクサンカニコウモリ
キク科……………アサギリソウ(ハクサンヨモギ)
キク科……………イワギク(ハクサンイワギク、ニッコウギク)
イネ科……………ハクサンイチゴツナギ
カヤツリグサ科…ハクサンスゲ
ラン科……………ハクサンチドリ(イワキチドリ、シラネチドリ)
 これは、植物学者が明治時代につぎつぎに白山をおとずれて植物採集登山を行ったことによるといわれています。それらのほとんどは白山の特産種ではなく、どこにでもあるものながら、量的に豊かなことが植物学者の新種発見のチャンスを大きなものにしたようです。
『白山―自然と文化』(1992年) では清水建美さん(金沢大学) が「高山・亜高山植物の区系地理」をまとめています。
 ――一般にある地域の固有植物の多寡は、当該地域の植物相の特徴を表わす。しかし、白山には、遺存固有とみられる種も新固有とみられる種も全くなく、わずかにハゴロモヤマブキショウマ、シダレブナ、フタエツリガネツツジ、シロバナサイゴクミツバツツジなど品種レベルの植物が報告されているにすぎず、しかもこれらの植物は他地域でも平均的に発生する可能性が高い。
 この点、固有植物の欠如が白山の一つの特徴ということになる。その理由は、白山火山の新しさに求められるであろう。――
『白山』(1962年) にはコケ類についての報告もあります。これも自然環境としての白山を象徴しているように思われます。
 ――白山にはおそらく500種以上のコケが生育していると思われるが、その種数において豊富である点とともに最もいちじるしい特徴のひとつとしては、胞子のうがよく発達していることである。
 シラガゴケなどは胞子のうのついたものをめったにみることができないが、白山では胞子のうのついたシラガゴケをよく見受けるこができるしこのような種類が非常に多い。高山帯の安山岩上に着いているギボウシゴケも胞子のうのついたものは白山で初めてみたのであるが、このような現象は白山がコケの生育には非常によい環境であるというひとつの証拠ともなるであろう。――
『白山―自然と文化』(1992年) で昆虫類を担当している富樫一次さん(石川県立農業短期大学) の結論も同様です。
 ――白山に生息する昆虫類は2,000種以上に達するであろうが、白山に固有の種というものはごくわずかである。それらは、亜種としてはホンシュウクモマヒナバッタ白山亜種であり、ハクサンクロナガオサムシであるが、種としてはハクサンマツハバチ、ハクサンゴマフアブなど数種のように思われる。しかし、これらの種についても各地の調査が進めば、どこかで見つかるようにも推察されるため、白山固有種がはたしてあるのかどうかということにもなるのであろう――
 つまり珍品・貴種はほとんどないが、とうぜんそこにあってしかるべきものは正常なかたちで豊富にあると、専門家はいっているように思われます。白山の自然の成熟した豊かさが、専門家の目にはこのように見えてくるのではないか、という一例を、富樫さんの「低山帯の昆虫相概要」から引用してみます。
 ――低山帯の植物の主体はブナで、これに混じってミズナラ、カツラ、オニグルミ、ミズキ、ウダイカンバ、オノエヤナギ、タニウツギなどが見られる。この低山帯の
→ブナの葉には、ゴマシオキシタバ、ブナアオシャチホコ、オオノコメエダシャク、ホノホハマキ、ブナキンモンホソガなどの幼虫や潜孔が見られ、ハバチの一種の幼虫の加害しているのも見られる。
→ドロノキの葉には、ドロノキハムシの成虫やポプラハバチの幼虫が見られ、ドロハタマアブラムシ、ドロハケアブラムシなども見られ、
→ヨグソミネバリの葉には、カバヒゲナガアブラムシ、シラカバケブカアブラムシ、シラカバマダラアブラムシの寄生が見られる。
→ヤマハンノキやミヤマカワラハンノキの葉上では、ミカドフキバッタ、ハンノキハムシ、チャイロサルハムシなどが葉を食害し、
→ヤマボウシの葉を注意して見ると、ヤマボウシハマキの幼虫の巣が見られる。また、
→オヒョウの葉には、ゴマダラオトシブミの成虫やフタテンヒロバキバガ幼虫の巣があり、
→タニウツギの葉には、ルリコンボウハバチやオビガなどの幼虫が、
→ミズキの葉には、ホリハバチの幼虫も見ることができる。
→ミズキの花にはヒメハナカミキリ類が多く飛来し、
→ヤマボウシの花にはカンボウホソトラカミキリ、
→ウリハカエデの花にはダイミョウコメツキも飛来する。
→ブナの倒木や切り株からは、ルリクワガタやツヤハダクワガタ、ヒゲナガゴマフカミキリなどが採集され、トサヤドリキバチの徘徊する様子なども見ることができる。また、ときには地表を徘徊するハクサンホソヒメクロオサムシを見ることもできる。
→このブナ帯の下草やかん木の葉上をスイーピングすると、キシタトゲシリアゲムシ、ホソマダラシリアゲムシ、プライアシリアゲムシ、ミスジシリアゲムシ、ニッコウホシシリアゲムシ、キンモンガ、フジキオビ、イカリモンガ、ベニバネフトヒラタコメツキ、イッシキイシアブ、ハタケヤマヒゲボソムシヒキ、キイロケブカミバエ、フタオビリスアブ、キベリヒラタアブ、ホシツヤヒラタアブ、クッチャロキベリヒラタアブ、ヤスマツアシナガハバチ、ハクサンクワガタハバチ、ハクサンクリハバチ、トガシヒラタハバチ、フルイチギングチバチ、ウスキギングチバチ、アイヌギングチバチ、ニトベギングチバチ、ハクサンギングチバチなどが採集される。――

●ジュラ紀の白山

 白山のふもとは、昔、恐竜のすみかであったようです。『白山―自然と文化』(1992年) では東洋一さん(福井県立博物館) が「恐竜化石」について書いています。
 ――昭和60年、石川県白峰村から肉食恐竜の歯や恐竜の足跡化石が確認され、以来今日まで主に北陸地方一帯に分布する中世代手取層群からは大量の恐竜化石が産出するようになった。――
 ――これら恐竜化石の産地はほとんどが現在の白山を取り巻く山麓地域に分布する。その結果、これらの地域はわが国における恐竜化石の一大産地として熱い注目を浴びるようになった。
 手取層群からの脊椎動物化石の発見は、福井県足羽郡美山町からトカゲの仲間のテドロサウルス・アスワエンシスが最初であった。当時わが国では初めての陸上は虫類の化石であり、この発見によって手取層郡から恐竜化石の産出が期待されるようになった。
 1982年(昭和57) 勝山市北谷町からワニ類の全身骨格化石が発見され、ついに手取層群からの恐竜化石産出が明らかになったのは1985年(昭和60年) であった。
 福井県鯖江市在住の松田亜規さんが、石川県石川群白峰村桑島の通称「化石壁」で採集した肉食恐竜の歯が筆者のもとに届けられ恐竜化石の産出が初めて確認された。そして、筆者ら福井県立博物館の調査グループによって
産地付近の調査が行われ、転石の表面と露頭の地層面に保存された2つの恐竜足印化石が発見された。
 その後、化石壁付近の調査が白峰村教育委員会主催で1987年(昭和62) から1990年(平成2) まで毎年継続的に実施され、これまでに肉食恐竜や植物恐竜の歯や化石や新たな恐竜足印化石、そして魚類の下顎や多数の鱗、亀の甲羅の化石が採集された。――
 この「手取層群」については山田一雄さん(金沢大学) が書いています。
 ――話は明治7年(1874) にさかのぼる。その年の夏、手取川に沿うルートをとって白山に登山をしたドイツ人ラインは、牛首(現在の白峰村) 地区で多くの植物化石を発見・採集した。それから3年後の1877年、彼の友人ガイラーは、それらの化石を調べて15種ほどの種類を識別し、その時代は中生代のジュラ紀であろうことを、ドイツの古生物関係の学会誌に発表した。これがわが国の地層について、化石によってその時代を明らかにした最初の報告といわれている。
 そしてこの論文がひとつの契機となって、白山周辺の中生代の地層とその中に含まれている化石についての研究が、日本の他の多くの地域にさきがけて進められるようになり、まもなく、手取川上流地域に分布する中生代層とほぼ同時代の地層は、福井県九頭竜川上流や岐阜県庄川上流の各地域にも分布することが明らかになってきた。
 1889年(明治22) 横山はこれら3地域から産出した中生代の植物化石49種を記載し、その地質時代を中期ジュラ紀とし、ついで1894年(明治27) これらの化石を含む地層を手取川にちなんで手取統とよんだ。それ以来手取統の名は、日本の地質学界において広く用いられるようになり、前記の3地域に限らず、中部地方北部の各地に見られる同時代の地層に対する総称として長く使用されてきた。
 ただし、1950年(昭和25) 頃からは、手取統にかわって、手取層群という呼称が一般に使われるようになり、現在に至っている。――
 手取層群と呼ばれる堆積地層は厚いところでは、なんと5,000mにもおよぶといいます。今から1億7,000万年前ぐらいから堆積は始まり、その地層の表面を恐竜が歩き回っていたころは、手取湖と呼ばれる広大な低湿地であったようです。
 大地は沈んだり浮かび上がったりしながら、しだいに白山の盛り上がりを作り上げたようです。そして地質年代でいえばごく最近、40万年前ごろに加賀室火山が噴火、10万年前ごろに古白山火山が噴火し、ここ数万年が新白山火山の活動期となっています。
 そしてたとえば4,400年前の山頂の大崩落。守屋以智雄さん(金沢大学) が『白山―自然と文化』(1992年) で白山の噴火と浸食についてまとめています。
 ――4,400年前まで、御前峰と剣ケ峰の中間あたりに山頂をもつ火山体があって、それが突如として東へそっくり崩れ落ちた。
 山頂部をつくっていた岩石は細かく砕けながら谷を一気にかけ下り、現在白水湖がある付近で大白川に入り、100m以上の厚さで谷を埋めた。その先端は庄川にまで達し、さらには河川の水と一緒になって大洪水を引き起こし、はるか砺波の平野まで流下して、現在散居村や高岡の市街がひろがっている地帯をひとなめにしたと思われる。――
 このような山体の崩落は噴火か地震によって偶発的に起こったと考えられているようですが、火山体を継続的に崩懐させている浸食が、白山では大きな問題になっているようです。
 守屋さんはそれについても詳しく報告しています。
 ――白山頂部のなだらかな山容にくらべ、中腹から山麓にかけての山容は、うってかわって厳しい。それは地すべり・崩懐・土石流などによる温帯・湿潤地域特有の激しい浸食作用が、白山を破壊しつつあるからである。
 白山登山客の大部分がバスや車をのり捨てる「別当の出合い」から、周囲を見回すと切り立った断崖絶壁が迫ってくる。斜面のあちこちに灰黒色の岩肌がむき出しになっていて、浸食作用がいかに激しく起こりつつあるかを実感させてくれる。
 別当谷、甚之助谷、湯谷などでは谷壁斜面からの崩落物質が大量に谷底にたまっていて、雨になると動き出して土石流となる。それを防ぐために多額の費用が投ぜられて無数の砂防ダムがつくられている。しかし、別当谷・甚之助谷を含んだ柳谷流域全体は大きな地すべり地で、数十の砂防ダムをのせたまま、谷・尾根全体がそっくり移動していることが知られており、将来の大災害が心配される。
 別当の出合から砂防新道を登って中飯場をすぎると、しばらくして「別当のぞき」に着く。ここから足もとに100m近い断崖があって眼下に、別当谷の土砂で満たされた谷底や砂防ダムをみることができる。しかし、目につくのはその対岸の斜面にある「別当くずれ」である。これは、対岸の観光新道が通る尾根の頂部から長さ800m、幅300m、深さ50mの逆しゃもじ形の大規模な崩落地である。これは昭和9年(1934) の集中豪雨の際に大崩落したもので、崩落物質は一気になだれのように柳谷を流下、現在永井旅館やビジターセンターの位置にあった白山温泉を埋め、白峰近くまで達した。これをきっかけに発生した洪水流は手取川に沿って下流の手取扇状地まで押し出し、川北村、小松町(現在は川北町、小松市) をはじめ多くの地域にはかりしれない被害を与えた。そのため上流部の谷底は100m以上高くなったと推定されている。――
 このような現状から、守屋さんは次のように警告しています。
 白山の開発は環境保護だけでなく、危険防止という点からも慎重になされるべきで、もし強行し参事が発生した際の責任は重大と、当事者は認識すべきである。――

伊藤幸司(ジャーナリスト)


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