毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・10・瀬戸内海国立公園」
1993.12――入稿原稿
■国立公園物語…瀬戸内海
●瀬戸内海の旅人
瀬戸内海国立公園を軽くひとまわりしようと思って車を走らせてみたのですが、それがとんでもない思い上がりであったと知りました。
地図で見てごくおおざっぱにいえば、瀬戸内海は東西約400km、南北は平均20〜30kmの海域と見えます。しかしいったん海岸の道を走りはじめると、そんな概算などなんの役にも立ちません。海辺の道は山ひだを丹念にひろって、無限に続くかと思われました。そして地図の上では小さく見える島も、そう簡単に一周させてくれるものではありません。
瀬戸内海の比較的広い海域は「灘」と呼ばれて、東から播磨*ハリマ灘、水島灘、燧*ヒウチ灘、斎*イツキ灘、安芸*アキ灘、伊予灘、周防*スオウ灘などと連なります。これらの海域の主要な部分が国立公園に指定されています。
これらの灘と灘の間を仕切っているのが全部で600といわれる島々で、大小の島がじつにみごとに散りばめられているのです。国立公園は島々の海岸までと、ときには島に上陸して小高い山の山頂までをカバーしています。
国立公園の範囲を概観しておくには本州と四国の海岸も簡単にたどっておくほうがいいようです。その一番東側は六甲山。西の端では大分県の国東*クニサキ半島と高崎山も国立公園に指定されています。指定された海域からははずれていますが、瀬戸内海沿岸の名勝です。
瀬戸内海が海である以上、外海と通ずる部分があるわけですが、出入り口もすべて国立公園に指定されています。東側には淡路島をはさんで四国と本州の間の鳴門海峡と紀淡海峡、西は本州と九州の間の早鞆の瀬戸(関門海峡) 、九州と四国との間の速吸瀬戸(豊予海峡) というぐあいです。
山陽路で国立公園に接する海岸は、山陽本線の駅名でいえば相生から徳山まで(営業キロで318km) 。兵庫、岡山、広島、山口の4県におよんでいます。それに対して四国のほうは鳴門(徳島県) から観音寺(香川県) までと、愛媛県は今治から松山までです。
これらの海岸では、瀬戸内海の展望が得られる山などが国立公園に指定されています。有名なところをひろっていくと、赤穂御崎*アコウミサキ(兵庫県) 、鷲羽山*ワシュウザン(岡山県) 、鞆*トモの浦(広島県) などが山陽路にあり、四国では香川県に屋島、五色台、飯野山(讃岐富士) 、琴平山(象頭山) などがあります。
実際に現地に行ってみて、地図を見ながら想像するのとまったく違っていたのは、島が海に浮かんでいるという感じではなく、島が海からそびえているというふうに見えたことです。
それは、岡山から児島湾に出たときの印象がとくに強烈であったからかもしれません。沿岸の都市と海とはひと続きになっているのに対して、島はまるで雲の上に頭を出した山の頂きのようでした。
民俗学者の宮本常一さんは昭和48年(1973) の本で、こう書いています。
――児島半島の上まで来ると雲がきれて下を見ることができた。今から10年あまり前のことだが、水島にはまだ工場はほとんどできていなかった。また児島湾の側には干拓が進んでいた。耕地にならない以前の干拓地は沼地そのままである。それに人手が加わって耕地化されると区画が整然となって来る。このようにして児島湾は海から陸地にかわって来たのであろう。
児島湾口の締切堰堤もよく見える。昔は児島半島は島であった。昔といっても300年あまり前までのことである。しかし高梁*タカハシ川の吐き出す土砂がおびただしくて、児島との間の海を次第に埋めていった。その洲の上に倉敷の町ができた。
高梁川が多くの土砂を海に運び出したのは、その上流の山中で砂鉄をとっていたからである。砂鉄は花崗岩の風化した山や、花崗岩の崩壊して堆積した砂の中に多く含まれている。そこでそういう山を切り崩して水流に砂を流しつつ、水底に沈んで堆積する砂鉄をとった。―― 江戸時代、本州内陸で盛んになった産業が瀬戸内海の海辺を埋め立てて、島をひとつ飲み込んでいったことがわかります。
これは同友館という出版社から30巻の予定で刊行された「私の日本地図」という個人双書の第12巻『備讃の瀬戸付近』からの引用です。瀬戸内海については第6巻『芸予の海』、第4巻『広島湾付近』を合わせた3冊で主要部を網羅し、第8巻『周防大島』で故郷をサンプルとして島の歴史をくわしく掘り下げています。
ちなみに、宮本常一さんの足跡は日本全国に5000日以上に及びますが、その全貌は旅のあいまに書かれた雑誌原稿を主体にした50巻余の著作集(未来社) によって知ることができます。「私の日本地図」シリーズは、旅先での記録写真を見ながら書かれた旅のまとめです。
昭和40年代に刊行されたこのシリーズに先だって、昭和35年(1960) に『日本の離島』(未来社) がまとめられ、エッセイストクラブ賞を受賞しています。そして『日本の離島』で欠けた島々の多くは、続編の『日本の離島 第2集』(1966) で補われています。
またちょうどこの時期、ライフワークとなるべき学術論文として、全3巻を予告したその第1巻が『瀬戸内海の研究(一) 』(1965、未来社) として刊行されています。
この本は、すでに昭和34年(1959) には脱稿していたものだそうで、700ページを超える大冊のうえに、瀬戸内海の島々に人が住み着いて以来の歴史をあらゆる方法を駆使して明らかにしていこうとする野心的なものになっています。
あとがきによると発端は昭和10年(1935) にさかのぼるようです。
――私が初めて渋沢先生にお目にかかったのは昭和10年1月で大阪の沢田四郎作先生のお宅で催されていた大阪民俗談話会の席上であった。そしてその夏東京で柳田国男先生の還暦記念民俗学講習会に出席のため上京したとき、三田のアチックミューゼアム(日本常民文化研究所) にとめていただいたとき、
「今、ここでは水産史の研究をはじめているけれども、一つの漁村の生活をこまかに具体的に調査したものがない漁村がどういうものであり、どんな組織のもとに、どんな暮らしをたてているかを書いてほしいものだ」
といわれた。私の生れた村は漁村ではないが、家のすぐ裏は海であり、波がうてば潮の沫*シブキが石垣にうちあげて来る。海に接して生きている者の日常生活なら書けるような気がして、お引受けして大阪へかえり、原稿紙にして500枚ほどのものをまとめて、渋沢先生のもとに送った。それが本になって出たのが、「周防大島を中心としたる海の生活誌」(昭和11年7月30日発行) であった。幼稚なものではあったが、当時は一地域の海村生活をこまごまと書いたものがなかつたので、漁村調査をしょうとする人たちには喜んでいただいた。
その翌年(1937) 5月渋沢先生を中心にしたアチックミューゼアムの研究員の一行が東瀕戸内海の島々をまわることになり、参加するようにとのおさそいをうけて多くの島々をまわつて見ることができ深い感銘をおぼえた。
そのとき、おなじように浮んでいる島の一つ一つの性格がちがい、漁具漁法までまるで違っていたり、また漁場問題がいろいろからんでいる事情をきいて先生は、
「この複雑なものをとぎほぐして体系をたてて見ていくことはむずかしいことだが大変重要なことでもある。これは内海に住む人の手によってやるべきことで、君の生涯の仕事にやって見るとよいのではないか」
と言われた。しかし貧しく非力な小学校の教師にそういうことはとうていできる仕事でもないと思ったが、何となくその言葉が心にひっかかつた。考えて見れば瀬戸内海全体を体系的に見ようとするような書物はまだ出ていない。誰かがやっているのであろうけれど、私も私なりに、やれるところまでやって見ようかとも考えて見るようになった。
というのは昭和14年(1939) 10月、渋沢先生のおすすめによって東京へ出、アチックミユーゼアムに入ることになったからである。
「とにかく全国の農山村を見てあるいておくことがまず大切だ」とのお言葉に全国の民俗調査の行脚をはじめる。全く乞食旅行同様であった。その中には瀬戸内海の旅も合まれていた。――
――昭和27年頃広島大学の故魚澄惣五郎先生から「是非まとめなさい。私もできるだけ応援するから」と言われたことが、「まとめて見ようかな」というひそかな希望を持つ動機にもなった。魚澄先生は広島大学の史学研究会で何回か私の話をきいて下さって、資料その他についての御注意などもいただいた。
さてある一つの問題を中心にまとめるのなら何とかまとまりそうであるが、内海を一つの地域社会として見ていく場合にどのようにこの社会を表現すればよいのか。
困りきっていると、渋沢先生が、
「いちど飛行機で瀬戸内海の上をとんで見るといい。きっと大きな収穫があるだろう」
と言って東京から大分までの飛行機の切符を下さった。ちょうど大分へ講演をたのまれてゆかねばならなかったので、飛行機でゆくことにした。この時の感激は忘れられない。苦心して渡り、リュックサックを背負って歩いた一つ一つの島山が眼下に見える。その景観の中に開拓してそこに住みついた人びとの生き方と、生き方の歴史がきざまれているいるのである。
歴史は記録や遺物や生活伝承の中にあるばかりでなく人文景観の中に法則と秩序をもって存在しているのである。それは上から大観してはじめてわかったことであった。まず開拓と人々の定住を中心にして見ていくことからこの地域社会の把握をすすめていかなければならないと思った。――
こうして宮本さんが博士号をとることにもなった大著が誕生するのです。
じつは私は若いころ、10年ほど、この旅人たる宮本常一さんと探検家であった息子の宮本千晴さんの近くにいて「先生」と呼ぶ関係でした。先生のはじめての海外旅行では40日間、東アフリカにお供役をさせていただき、あるいは仲間たちに祝ってもらった結婚式では仲人役もしていただきました。
そして今年はその13回忌、弟子たちはそれぞれに自分のまわりで「宮本常一祭」をもよおしているようです。そこで私もこの場を借りて「20世紀最大の日本の旅人・宮本常一」の未完のライフワークであった瀬戸内海にみなさんをお誘いしたいと思うのです。
なおどの原稿にも共通する「宮本節」は、言文一致の編集者泣かせのもので、主題をめぐってさまざまに転調し、エンドレスに続きます。こまぎれの引用ではあの独特の語り口は味わえないのが残念です。
●7つのタイプ
『瀬戸内海の研究(一) 』では、生活景観を手がかりにして島々が7つのタイプに分類されます。
――まず第1のタイプとして水田農耕を主とした村としての淡路島がある。ここは水田がきわめて見事な発達をしている。低い丘陵の間の谷々はほとんど水田としてひらかれており、これをやしなうために多くの溜池がある。――
――これら第1タイプに属する群れは今日においても1戸当り7〜8反以上を耕作する農家が中心をなしていて、自給度はきわめて高い。――
このタイプは、大きさで瀬戸内海第1の淡路島と、第3位の周防大島(屋代島) が代表です。
――第2のタイプは広い畑地と共にさほど広くない水田を持つ島である。これらは開発当時は畑作を主としたものと見られる。島嶼面積が中位の島に多い。伊予中島(忽那*コツナ島) ・倉橋島・能美*ノウミ島・蒲刈*カマガリ島・下蒲刈島・大崎上島・大崎下島・大三*オオミ島・越智大島・伯方*ハカタ島・生口*イクチ島・因*インノ島・小豆*ショウド島などがこれに属するものである。――
小豆島は瀬戸内海中第2位の島で、倉橋島、能美島は広島湾の大きな島ということになります。尾道と今治をいま一歩で結ぼうという西瀬戸自動車道に沿う島々も尾道側から因島、生口島、大三島、伯方島、大島と、いずれも瀬戸内海では大きいほうの島です。
――なおこうした島には農業経営を目的として定住した群れの外に、漁民として海岸に定住し製塩その他の事情で陸上りして農地経営を主とするに至ったものが少なくない。能美・倉橋・蒲刈など海荘*アマノショウおよび安摩荘*アマノショウとして発展して来たところは古代において海人*アマの定住が多く見られたであろう。そしてこれらの中に陸上りしていったものも少なくなかったと見られる。――
――それが農業経営を主目的として定住したか、あるいは海人として定住し、後農地をひらくようになったかを見ようとする場合、農地の拓き方によってまず両者をかぎわけることができる。前者すなわち農業経営を主目的とする場合には開墾の中心をなす草分けまたは地親的な存在があり、したがって土地の拓き方も地親の指図によるものが多かったと見えて、その拓き方に一定のきまりを見出すことは少ない。しかし海人定住開墾の場合には、開墾にあたって土地がほぼ均等に区画せられることが多かった。――
細かく見れば農民移住の集落と漁民移住の集落とに分けられるというわけです。
――第3のタイプはほとんど畑地のみの島である。平郡*ヘイグン島・二神島・津和地島・怒和島・野忽那島・鹿島(倉橋島の中) ・柱島・佐木島・弓削島・岩城島・田島・横島・神ノ島・白石島・北木島・真鍋島・塩飽諸島・雌雄島・家*エ島などがこれである。これらの島は島も小さく水の乏しいために水田が少ないのであるが、こうした島への当初の定住目的が農耕を主としたものであった場合は少なかったと見られる。――
登場する島の名は、もう地図でさがすのもたいへんな、小さな島ばかりになってきます。松山沖の忽那*コツナ諸島に二神島、津和地島、怒和島、野忽那島はあります。芸予諸島の因島の周囲にあるのが佐木島、弓削島、岩城島。水島灘の笠岡沖には白石島、北木島、真鍋島。そして丸亀側が塩飽諸島になります。
――さてこうした島に陸上りを見るに至った動機はおよそ4つあるが、まずその一つとして上げ浜製塩がある。塩分の需要は人間にとっては絶対的なものであり、いかなる山村もこのことを通じて海に結びつく。日本の海岸はその初め到る所で小規模な製塩がおこなわれたと見られるが、内海島嶼はそこが弓削島・因島のように塩の荘園として京都へ結びつくことによって、貢納交易を目的とする製塩が発達していっている。
製塩のおこなわれたと推定されるところは、海岸に目のこまかな砂のある砂浜の存在すること、浜の上方に集落があるか、または浜につづく傾斜面が畑地としてひらかれ、そこに何らか土地均分の制度の残存しているところである。また海岸に砂嘴*サシが発達し、その内側に潟洲をいだいているような地形の場合にも、そこに製塩が見られている。恐らくこれが入浜塩田をよびおこすものと思われる。――
畑地のみの小さい島々への陸上りの、4つの動機の第2番目は漁船の商船(回船) 化にともなって家族が陸上りしていった例です。
――小豆島・塩飽島・真鍋島などでは、京都・兵庫・堺など畿内の諸都市に近いため、大形漁船を商船として利用することが中世以来盛んになり、それらは次第に漁より商へと転じていった。和冦の如きもこの範疇に属するものであろう。――
第3の動機として、大名領国制がすすんで舸子*カコ浦の制がしかれるにつれて専用の漁場区画が定められ、漁民の定住がうながされることになります。
――舸子浦の役家漁民は藩主の参勤交代や、公義役船の往来に対して、その舸子として夫役をつとめねばならず、当番にあたった者は浦にいて待機しなければならない。――
第4の動機は出稼ぎです。
――家船を解体させて女を陸に定住させる動機となったものに小職(小規模) 漁民の大職(大規模) 漁業への雇傭労働者としての参加がある。内海の場合にはタイ網・イワシ網などをその主要なものとする。これらの漁業期間中小職のものが、その仕事をやめて、網子として雇われていく。――
以上は漁民が海の仕事を存続させながら島に定住していった例ですが、次は漁業集落が他の集落と組みあわさって発展したコンビネーションタイプです。
――第4のタイプとして農耕の島に純漁業部落の付加しているものがある。それら漁業部落は淡路に見られるごとくすでに中世以前から存在し、漁業部落を中心にして商人町がとりまいて発達した例があるが、周防大島の久賀・安下浦・倉橋島瀬戸町などもこれに属するものである。また安芸南岸の臨海小都会もこれに類するものが多い。つまり大きな海岸集落にはたいてい純漁業部落をともなっている。これらの場合には漁業集落が浦の中央部にあるのが特色であり漁業が中心になって商業をよびおこして来たものと思う。これらは近世に入ると多く舸子浦として特権を持つに至っている。――
しかし漁民の定住が後になった集落では、展開はまたすこし変わってきます。
――中世以来すでに人家のある海岸に漁民の定住する場合は漁業集落は在来集落の一隅に発達するのを一般とする。下蒲刈島三ノ瀬・生口島瀬戸田の福田浦・因島土生の箱崎・能美島鹿ノ川などその例である。――
近世になって定住したこのような漁業集落は、漁を昼間に行なうところと、夜に行なうところとで、また性格が違ってくるのだそうです。
――こうした漁業集落は一般に小職漁民のみによって構成せられる。それらは大職漁業の網子にやとわれることは殆どないから、そのまま家船の生活をつづけて今日に至っているものが少なくない。
しかし必ずしも家族を船住居させていないものも多い。小漁師の中にも船住居するものと、そうでない2つのタイプに別れるのであるが、前者の場合は多く夜漁にしたがっており、後者の場合は昼漁に従っている。夜漁をおこなうものは沖手繰り・延縄などを業とするもので、二窓・能地など古い伝統を持った漁民群である。
これに対して昼漁の浦は一本釣りに多い。安芸下蒲刈島三ノ瀬を中心にして安芸鹿老渡・周防沖家室などはこのグループに属する。概して、江戸時代中期以降に発達した漁浦である。――
さらに新しい時代に発展した漁業集落は、また違ってくるようです。
――安芸豊島は延縄と一本釣りを併用しているが家船は見られない。この浦は明治初年には漁家僅かに14戸をかぞえ、他は農業経営を主体とする農民の村であったが、好漁場を近くに控えたことから異常に発展し、今日では1000戸に近い大漁業集落をつくりあげて来た。このように新しい歴史を持つものは夜漁に従う場合にも家船形式をとっていない。――
海に向かってひらけたのは、漁業集落だけではありません。
――第5のタイプとして船着き場として発達した集落がある。地図の上では漁業集落と相似た形をとっている。現地について見ると船の着く所にガンギ(石段) があり、また古くは遊女屋があり、問屋の倉庫などのこしているものもある。周防上関・地家室・安芸鹿老渡・三ノ瀬・御手洗・瀬戸田・伊予安居島・岩城島・弓削島・備中白石島・備前大多府島などがそれである。これらの集落は近世に入って木綿帆船の往来の盛んになったことによって発達したものである。――
――構造船とおぼしきものの一般化するのは近世に入ってからのことであり、港も水深の深いものが喜ばれ輸送力も増加して、船の利用が一段と活発化する。それにともなって造船技術の発達、帆船労働者すなわち舸子を増加させていく。
そして帆船の多い所には舸子も多く、また造船所も多い。その古い造船基地として倉橋島・兵庫などがあり、また鞆はふるくから船釘産出の町として知られているが、帆船の流れを含む小形船の造船は周防大島・能美島・倉橋島・大崎上島・大三島・伯方島・鞆付近に多くおこなわれている。そして帆船の発達につれて、その舸子は四六時中これに乗って航海に従い漁民とは完全に分離して来るのである。――
かくして海運集落が誕生します。海運の発達は島々に新しい産業を起こしました。
――第6のタイプとして採石の島がある。瀬戸内海沿岸で、塩田・新田の築造が盛んになり、さらに防波堤、石垣の築造などが各地でおこって来ると、その石材としての花崗岩の需要は著しく増加して花崗岩を持つ島ではその採石がおこなわれている。周防大津島・黒髪島・浮島・安芸大黒神島・倉橋島・備中北木島・白石島・讃岐小与島・小豆島・播磨鹿島などその代表的なものであるが、採石のみでは大きな集落をつくるに至らない。――
――採石そのものは直接島嶼集落発達には大した影響を与えていないにしても、石材の利用による港・耕地・塩田・屋敷・河川堤防などの築造は他の地方に類例を見ないほど進んでいる。それが、島嶼人口を異常なまでに増加させた条件の一つになっている。――
いよいよ最後のタイプです。
――第7のタイプとして島を牧場として利用しそこに集落の発達を見たもの、島の住民が島を牧として利用したものがある。そういう島は地図によると、畑が山麓だけでなく、急傾斜や山頂にまで分布する。このような島は西部に多い。周防祝島・八*ヤ島・平郡*ヘイグン島・忽那島などがその主なものであり、東の方には女木島・小豆島・淡路島などがある。――
●東部瀬戸内海
日本エッセイストクラブ賞を受賞して島の問題を大きくアピールすることになった『日本の離島』には、「瀬戸内海の島々」と題するみごとなガイドがあります。ここでは中心的な段落を抜き書きするかたちで読んでみます。まずは淡路島。
――淡路は中部と南部に平地があるが、そのほかのところはいずれも山が海岸にせまっており、島をめぐる道路は海にそうて走っている。一方が海に面している道を車でドライブするにはいい。そうした海岸のところどころにすこしずつの平地があり、そこに集落がある。東海岸では仮屋・佐野・志筑・洲本・由良があり、西海岸には富島*トシマ・室津・郡家・都志*ツシ・鳥飼・湊・福良・阿万*アマなどがある。
そういうところへ早く住みついたのは漁民であったらしく、いずれも浦の一ばんよい場所を漁業部落がしめている。この部落を中心にしてその周囲を商業区がとりまき、今は商業区の方がずっと栄えているが、とにかく漁民の居住する浦がいずれも町制をしいているのである。そして南部の三原平野のようにかなりひろい平地をもつところでも、そこに町は発達していない。
しかし、淡路で文化の中心をなしたのは三原平野であった。中世におけるこの島の守護職であった細川氏の養宜館*ヤギヤカタ址も平野の東隅にある。国分寺址はその西南にあり、さらにその1里ほど西南に国府の址がある。これらの地点を結んで、洲本から福良にいたる四国街道の松並木は、江戸初期に植えられて以来、補植もよく行き届いて、まったく見事であり、人形芝居や、大久保踊りのような歌舞伎踊系の芸能もこの野で発達したのであるが、野の中が人口を集中させる力がそれほどつよくなかったということは、島であるため文化の入口のすべてが港であったということとも関係があろう。そうしてそうした港から入って来た文化が、平野の奥で温存せられていたのである。――
つぎは赤穂の沖に並ぶ家島*エジマ諸島です。
――空から見るこの島々には耕地が少ない。男鹿*ダンカ・西島では石をきっており、家島・坊勢*ボウゼはもともと漁民の島で、家島は一本釣と延縄*ハエナワ漁がさかんであり、坊勢は打瀬、いまは漕網が中心になっている。
家島の北、播州の海岸には昭和の初め頃からつぎつぎに大きな工場がたてられていった。その流し出す汚水で海もあれはてていったが、それにもまして空の汚れが漁師たちをこまらせた。夜漁に出ても、星のさえている夜なら、播州の山々の黒く浮かぶ稜線を見て漁場をきめることができたが、煙のために山が見えなくなると、夜漁は十分にできなくなってしまった。島の人たちはだんだん漁を思いあきらめて、対岸の工場へつとめる者がふえていった。飾磨*シカマとの間の朝晩の渡船は通勤者で一ぱいになるが、こうした現象も昭和以後の瀬戸内海の風景の一つである。――
つぎは小豆*ショウド島。
――寒霞渓*カンカケイと丸金醤油とオリーブと御影石で知られていた島であるが、戦後「二十四の瞳」でさらに有名になった。いまその銅像までつくられて土庄*トノショウの町にたっている。そうしたことから観光客がぐっとふえたが、空から見るこの島は平地がすくなくて畑が多い。海岸から山の中腹まで、おなじように、山肌を縦割りにして、畑をひらいているのである。そうした地割は山の頂上の山林や採草地にも見られて、この島の土地が共有から平等割にせられていった日のあることを物語る。この島も古くは漁民の島であり、豊臣水軍の水夫役などつとめていた。その報償として島民共有がみとめられたのであろう。
島の大きい割合に平地がすくなく、しかも土地はやせていて、島だけの生産では生活が成り立ち難く、男女ともに若い者は大阪方面へ出稼ぎにいくふうがあり、女の下女奉公にいくことをシオフミといった。「おまえも年頃になったからシオふんで来い」といえば、誰しもそれをあたりまえのことにして、石を積む船などに便を借りて出ていったのである。
シオフミという言葉はこの地方にひろく見られる言葉で、シオフミはシオクミではなかったかと思われる。この島の土庄には広い入り浜塩田があるが、そのまえには、砂浜の上に海水をまいて天日に乾し、その砂をかきあつめて、さらにその砂に海水をかけて、付着している塩分をとる上げ浜という製塩法が、この島では盛んに行われていた。そして夏の炎天の下でこの海から浜へ海水をくみあげる作業は息をきらせてしまうほどの重労働であった。シオフミはそうした労苦をその語感の中にこめていたようで、女の奉公に対してもこの言葉をつかったのであろう。事実、女中奉公はそれほどまた辛いものであった。――
小豆島から西につづくのが直島諸島。中心となるのは豊島と直島です。
――豊島は石をきる島、直島は古川精錬のあるところ。この工場がたてられて、その煙突からはく煙毒のために、草木は枯れ島は不気味な色を見せているが、島民の多くはこの工場に通勤して生計をたてるようになった。
直島付近には小さい島が実に多い。そのまた島々にも少しずつ人が住んでいる。この海がよい漁場だったためである。とくにタイが多く、釣漁にも大きな漁獲をあげることができた。そして春の海はにぎわった。春4月、魚島*ウオジマとよばれる時期はもっともタイのうまい時であり、家々では親戚知友をまねいて、タイを料理してふるまう風習さえあったのだが、そのタイが近頃めっきりへってしまった。それでも、いつかはとれるだろうとタイ網師たちは、大きな借銭をかかえつつも毎年春になると網の準備をする。
網でとるよりは、いっそ魚を飼うてはとて、喜兵衛島と屏風島の間の瀬戸の両口を仕切ってハマチの養殖をはじめたのは戦後のことだが、一応成功して、こうした試みは次第に各地にひろがって行こうとしつつある。――
香川県が北に大きく張り出して本州ともっとも近くなるあたりに、瀬戸大橋をはじめとする瀬戸中央自動車道の本四架橋が完成しています。その海域に散らばる30あまりの島々が塩飽*シアク諸島です。
――坂出の沖の瀬居島から西へ、与島・小与*コヨ島・岩黒*イクロ・櫃石*ヒツイシ・本*ホン島・牛島・広島・手島・小手島・高見・佐柳*サナギの島々を塩飽七島といっている。もとはそのうちの7つの島に人が住んでいたためにかくよんだのであるが、いまは小さな島にまで人の定住を見て11島にのぼっている。――
――塩飽の島々はもと漁民の定住したところであったが、讃岐の守護であった細川氏に属し、細川氏が足利幕府の管領として勢力をふるった頃、京都と讃岐の間を往復する船の船方をつとめ漁民から海商化していき、また和冦としても大陸沿岸をずいぶん荒したもののごとく、いまも本島の寺々にそうした遺品が保存されているのを見ることができるが、江戸時代に入って徳川氏の水夫役をつとめ、島民625人が、島と島をめぐる海を幕府から与えられ、これを支配するようになり、島民は主として商船に乗り、漁業にしたがうものは他から来て定住した者のほかはほとんど見かけなくなった。しかもこの海の支配者として、他からの漁船は制限して容易に入れなかった。――
水島灘の西、岡山県が広島県と接するあたりに散らばるのが備中の島々です。讃岐の塩飽諸島が備前、備中の海岸近くまで張り出していたので、本州側に属する島はようやくこのあたりで群島らしいものになります。
――(東から西に上空を飛ぶと) 右手には、備中の島がうかぶ。手前から六*ム島・大飛*オオヒ島・小飛*コビ島・真鍋・北木・白石・高島・神*コウノ島である。
六島は藩政時代には福山藩の流人島として、死一等を減ぜられたものがここに流された。しかしこの島の人は海中にとりのこされてばかりはいなかった。島々の漁民のつりあげた魚を活船*イケブネに生かしたまま、大阪まで運び、生きのよい魚を市民の食膳にのぼして食生活をゆたかにする役割をはたした。こうした生魚運搬の仕事はこの島ばかりでなく、下津井、明石、淡路の富島なども盛んであったが、早く西瀬戸内海に進出したのが六島の島民であった。――
――白石の港は、もとは帆船のたくさん寄航したところである。内海は帆船の寄航のために発達した港がすくなくない。淡路岩屋、播磨室津、備前大多府*オオタプ島・牛窓・下津井・備中玉島・白石島・笠岡、備後鞆・尾道、伊予上弓削・岩城島・今治・波止浜*ハシハマ・安居*アイ島、安芸竹原・三ノ瀬・御手洗*ミタライ・鹿老渡カロウト、周防地家室*ジカムロ・室津・上関・室積・三田尻・宇部新川などがそれである。
――そこには大てい遊女屋があり、夜ともなれば、船まで来て客をとるふうがあった。木ノ江(明治になって発達) ・御手洗・安居島・地家室などではこの遊女の船をオチョロといつた。売春防止法のしかれるまではこうした遊女が港の風物となつているものがすくなくなかつたのだが、同時に、そういう港や港に近いところに、いろいろの芸能を発達させた。その中でも白石島は優雅な盆踊りがいまも盛んにおこなわれていることで知られている。――
●西部瀬戸内海
瀬戸内海の核心部というべき芸予諸島に入ります。多島海を2分するように広島と愛媛の県境がのびています。
――このあたりの島々はお互いに抱きあうようにならんでいる。東から田島・横島・百島・加島・向*ムカイ島・岩子*イワシ島・因*インノ島・弓削島・生名*イキナ島・佐島・赤穂根島・岩城島・生口*イクチ島・佐木島・小佐木島・高根*コウネ島・津波*ツワ島・伯方*ハカタ島・大三*オオミ島・越智*オチ大島・大崎上島・大下*オオゲ島・小大下*コオゲ島・岡村島・大崎下島・上穂刈島・下穂刈島。そのほかにも人の住む小島は多い。
その島の多さの故に、せまい瀬戸を通る船を目あてに生活をたてる海賊群の多かったのもこの海で、彼らは好んで瀬戸の中の小さな島に城をつくって、通りかかる船をまちあわせていた。甘崎*アマサキ・能*ノ島・務司*ムシ島・来*クル島などがそれで、いま人の住んでいるのは来島に過ぎない。――
――こうした海賊の中で勢力のあったのは、まず村上氏があり、村上氏は因島・能島・来島による三家が勢力あり、とくに因島村上は早くから、向島・田島・横島などを領有し、また鞆付近にも多くの分家を出していた。村上氏が勢力を張っている北側、生口、佐木、高根、大崎上・下島、豊島にかけては小早川氏の一族がおり、これはむしろ村上氏を押さえる位置にたっていた。
これら海賊のよった島々は花崗岩からなっていてもともと土はやせ、米麦をつくるに適したところではなかったから、魚をとり、また塩をやいて暮しをたてる者が多かった。
塩をやくには多くの薪を必要とし、その伐ったあとを畑にひらいて、畑もつくり、塩もつくる生活に転じたもので、因島・弓削島などは古くから塩の荘園として知られていた。そうした島々にサツマイモがつくられるようになると、食うものがふえたために人口も急速にふえ、島のうち、ひらかれるところのすべては畑にしてしまった。向島・因島・佐木島はまったく畑のために地肌をはぎとられてしまった感じさえする。――
――これらの島々は島全体の生産力がよわいから、島自体の力で大きく発展したところはすくない。大ていは外からの影響を大きくうける。大崎上島の木ノ江は明治の初めまでは40戸ほどのさびしい漁村であったが、和船から洋型帆船になったころから風待ち・潮待ちの港として利用せられるようになり、またそうした船の造船地として今日のように大きく発展して来た。
大崎下島の御手洗はそのまえ、和船時代の風待ち港として、小さな村から大きな港町にまで発展し、内海ではその名をうたわれたところであるが、洋型帆船や機帆船が発達してからは、船はこの港を素通りするものが多くなり、みるみるうちにさびれていったのである。――
――安芸豊島のように、明治に入ってむくむく大きくなった漁村もあった。明治の初めこの島には10戸あまりの漁民がすんでいた。それが今日では800戸をこえるまでにふえている。このような異常な増加を見るのは大てい工業生産のおこった場合であるが、ここでは漁業のみで大きな変化がおこった。
このような急激な増加は付近に好漁場のあったことと、生魚の輸送が盛んになったことにもあるのだが、今一つは末子相続制に問題があるようだ。ここでは長男に嫁をもらうと船1隻与えて独立させる。彼らは船を家としてかせぎ、子が生まれれば、船の中で育てる。親の方は二男が成長して嫁をもらうと、また二男にも長男同様に船をつくって独立させる。分家が容易だというところから、ぐんぐん家がふえていく。――
――しかしもともと末子相続は漁民のみの持つ風俗ではなく、内海地方にひろく見られたもののようで、豊島の隣の大崎下島(御手洗のある島) にもこの習慣はあり、ここは農業の島であったが、そのため農地は細分化されるおそれがある。それをこの島では、島に土地を求めて周囲の島へ船で出作*デヅクリに行く風習を生じた。
このようにして、大長というところでは島内の耕地よりも島外の耕地の方がひろい有様となった。そしてそれらのすべてにミカンを植えつけて、内海のミカン栽培の王座にのしあがったのである。ミカンは大崎下島を中心に、上は生口島、下は周防大島の間の島々に多くつくられている。――
広島の海の西のはずれは広島湾です。ここには比較的大きな島がいくつか浮かんでいます。広島湾内の島々と分類されています。
――倉橋島・能美島は実によく開かれて、畑が重なりあい傾斜の急なところをのぞいては一面の段畑で、しかもそれが甘藷の葉で青くおおわれている。よくもこれほどまでにイモをつくったものだと思うほどに、この島々の人びとはイモをつくって食料を自給し、その昔は女たちは木綿織に精出したところである。
このやせこけた畑でワタをつくるのには骨がおれ、とくに肥料の入手に苦労した。浜に打ち寄せられた藻、町家ですてられたゴミ、肥料になるものは何でもあつめて来て畑に入れた。能美のゴミ取船といえば、このあたりではその名を知られていた。今も都会の塵芥をつんだ船が毎日何艘というほどやって来る。――
――能美島の北西に厳*イツク島・阿多田島がうかぶ。能美が段畑にひらきつくされている感がふかいのに対して、この2島は木が青々とよく茂っている。厳島は神の島として神聖され木を伐らなかったのである。阿多田は漁業の島として畑耕作にはそれほど力をそそがなかった。早くからイワシ網漁の盛んなところであった。広島湾のイワシ網漁業は、湾内の島々の周辺でなされることが多かったので、曳舟が主で、曳子もまたイワシを煎る釜船も網船について出ていくのが普通で、こうした工船漁業としては世界でもっとも古いものではないかと思われる。――
山口県の海域に移って、安芸灘と周防灘の間を埋めるのを、ここでは周南諸島としています。その中心は周防大島です。
――享保の終わり頃(1736) 、サツマイモの栽培技術が伝来して、食料が豊富になり、いちじるしい人口の増加を見せて来る。サツマイモは米のように年貢の対象にならなかった。それに豊凶の差も少なかった。――
ところがそれがまた、悪循環の始まりでもあったようです。
――その人口の増加のために人びとは出稼ぎしなけばならなかった。島の東部の人は多く大工になり、中部の人は木挽・石工、西部の人は塩浜の浜子が多かった。女も秋仕などといって秋になると、稲刈、稲扱*イネコキなどの手伝いに本土へ渡っていって働き、労賃に米をもらって来て、食料のたしにしたものである。
こうして元気な者の多くは島の外へ出稼したために、逆に島では働き手に不足するほどになり、田畑を5、6反もつくっているものならば、伊予あたりから貧乏な家の子を買って来て農作業の手伝いをさせるふうがあった。これを買子といった。
明治になると西日本には大きな不況が来た。外国からワタが来るようになってワタ作は急におとろえた。糸つむぎもカタン糸が来るようになると引きあわなくて止んで来た。種油にかわって石油がつかわれるようになった。出稼してものこる金はほとんどなくなったのである。
そういうところへ、明治17年(1884) ハワイ移民の募集があった。山口赤十字病院の院長であった日野ド助はこの島の出身であったが、島民の貧窮を何とかして救おうと考えていたこととて、職を退き、巡回講師として島内をまわり、ハワイ移民をすすめた。こうして多くのハワイ出稼を見るにいたり、これが島の経済を支えた力は大きかった。つづいてアメリカ・朝鮮・満州・台湾・フィリピン・フィジーをはじめ、西インド諸島・南米へまで発展を見るのであるが、その間またいく多の失敗もかさねている。
そうした困苦の克服の中で、島にもミカン栽培、養蚕などによる生産の上昇があり、その生活も次第に安定して来たのである。
飛行機から見るこの島の棚田の発達は見事で、島の最高峰加能山が695m、これにつぐ文珠山が662mなのに対して、水田はこの山の東側で540m、西側で450mのところまでひらかれている。内海の島でこれほどの高度のところで米のつくられているものはない。――
そして室津半島の西側に浮かぶ島々。
――牛島・馬島・佐合島・八島は、明治の中頃までは、山口県通浦*カヨイウラ、長崎県対馬・壱岐・平戸・五島などへクジラとりの出稼ぎにいったところである。クジラとりの大漁節はこうして今もこれらの島々にのこっている。――
●外圧にゆれる生活
昭和28年(1953) に10年間の時限立法として制定された離島振興法の8年目に出されたのが『日本の離島』でしたから、根底にながれるテーマはその離島振興活動にそったものでした。
「私の日本地図」はその離島振興法がさらに10年間延長された時期に書かれていますから政治的なアピールはあまり感じません。そのかわり、日本という島国の中でどんどん遅れをとっていく離島の宿命を社会の矛盾としてえがいていきます。個人の力が島の歴史に反映する時代がどうしたらとりもどせるか、という模索のようです。
たとえば第12巻「瀬戸内海IV 備讃の瀬戸付近」から塩飽本島の一節です。
――海賊の島といいつつ、時には和冦として中国の沿岸へまで出かけていったであろうが、殺伐なことをするようなふるまいは比較的少なく、商業と航海に主力をおいていたのではなかっただろうか。それでなければ中世から近世へ移りかわるとき、あれほど見事に権力に結びついてふるさとの安全をはかることはできなかったはずである。時勢を見る眼を十分持っていたのである。――
ところが、ふるさとをまもるにもそれなりの力が必要なのです。ここでは、たとえば観光立島という面で大きな壁を実感するのです。
――年寄だけが島にのこって、島民の手で島外の客を受け入れるだけの力を失っている。島外の客は民宿を希望する者が多いが、宿泊させることはできても、食事を出すことのできる家はほとんどない。泊では海水浴客などは民家にとまり、食事は宿屋でしている例が多いが、宿のない部落ではそれもできない。それに島外から来る客はほとんど夏に限られている。島にはまだきれいな砂浜が残っているので海水浴客は多い。ところが、島には水が乏しくて、シャワーの水さえ不足している。島の者だけが使う水なら何とかなるが、夏1カ月の間にこの島を訪れるものは2〜3万にのぼり、甚だしい水不足を来たすのである。
こうした島をどうしたら活気あらしめることができるのか、島民が無気力だったからこうなったのではない。気力があったから皆出ていったのである。――
その「活気」の喪失を教育の現場でも感じます。
――昭和12年(1923) に本島を訪れたとき、小学校の標本室の奥の標本におどろかされたことがある。この近くの海の魚はほとんどあつめられていた。また付近の海底から引き上げられたというマンモスの牙もたくさんあった。そういうものを見て驚嘆するとともに、そこに教育の熱気のようなものをおぼえた。
昭和32年(1957) 小学校を訪れたとき、標本を見せてもらったが、標本瓶は埃をかぶり、標本は色あせて、子供たちにとっても魅力のないものになってしまっていた。それでもマンモスの牙など写真にとらせてもらった。昭和46年(1971) に島を訪れたときは標本も見せてもらえなかった。そういうものは先生にとってはもう関心の外にあった。――
同じ塩飽諸島の話ですが、手島のエピソードも心に残ります。
――昭和12年にこの島にわたったとき元気な老人のたくさんいるのにおどろいたことがある。島の住家は160戸ほどであったが、80歳以上の人が26人、70歳から80歳までの人が65人という有様で、しかもその老人たちがみな元気に働いていた。80歳過ぎの老人を訪ねていったら「私はまだ若くて昔のことはよくわからん、この上に93になる爺さんがいる。その人に話をきいたらよかろう」といわれた。そこで93の老人をたずねていくと畑の中で働いていた。
この島はもうその頃から老人の島になっていたといっていい。島の元気なものは船乗りか大工になって他郷へ稼ぎにいっていた。家には女と年寄りが百姓をつづけていたのである。島の家はどの家も大きく、長屋門のあるのが人名*ニンミョウ(村役) の家であるときいた。
それから34年後にたずねて見ると、老人の島であることに変わりはないが、80歳以上の人は何ほどもいなくなっていて、30年あまり前の話をしても島の人自体が、それを信じないほどになっていた。日本人の平均年齢はのびたという。しかしどこを歩いて見ても現実には80歳以上の老人が著しく減っている。90歳以上という老人にはほとんど逢わなくなった。仮に逢て話をきいて見てもシャッキリとしていて話に張りのある人はほとんどいなくなった。――
第6巻「瀬戸内海III 芸予の海」にはこんな情景が書かれています。
――昭和33年(1959) 夏豊島をおとずれたとき、私はこの島でなつかしい船を見た。「釣道具一切」と書いたのぼりをたてた船である。屋形のついた船である。昔ならばこののぼりに「てぐす」と書いてあったはずである。きいてみると徳島県の堂ノ浦から来たのだという。堂ノ浦はテグスの行商で知られたところである。そこのテグス船は内海の釣漁業発達の上に大きな功績をはたした。
テグスというのは楓蚕とよばれる虫の漿液をとってつくった透明な糸で、釣糸として用いる。弾力があって丈夫で、釣糸としては貴重なものであった。はじめはこの糸で薬草の包装をしてシナから送ってきていたのを漁師たちが目をつけて釣糸として利用するにいたった。1685年ごろのことといわれる。漁師たちは薬屋へこの糸を買いにいっていたが、需要がふえたため1714年ごろ、テグスのみを取扱う問屋が発生した。
このテグスを漁浦としてもっとも多く利用したのが徳島県堂ノ浦の漁師であった。そして大きな効果をあげた。彼らはその技術を私することなく、テグスをもって行商に出かけ、同時に一本釣漁の技術をもおしえた。内海の一本釣漁村はテグスの伝播と、テグス使用にともなう繰り釣、さげ釣などといわれる漁法によって発達していったものである。そしてテグス行商は幕末の頃には北九州沿岸にまでおよんだ。
カンコ船という底の平らな小さい漁船にのって、艫にてぐすと書いた小さいのぼりをたて、島から島へとやってくる。大正時代まではこの船をよく見かけたものである。――
生口島の瀬戸田は古くからひらけた港でした。ここでは規模の大きな商業資本が生まれました。
――堀内家なども千石船を8隻も持ち旧幕時代から明治へかけて主として北前方面に活躍し、塩田を経営するようになってからは、自家の塩を北海道方面まではこんだ。自家ばかりでなく、他家や他浦の塩はそれ以前から運んでいたわけで、明治になると石炭もはこぶようになった。
塩をさかんに北海道へはこんでいたころ、その上荷としてサツマイモを積んだ。上荷というのは荷主と契約して積むほかに船頭が自分の役得として自分で契約するか、または買い入れた荷を積み、それの利益は船頭のものにしたのである。生口島付近の島々はよいイモを出した。それをくさらぬように保存しておいて春先北へ向かう船に積むか、または早生のイモを掘って盆すぎに積んでいくかしたものである。新潟県以北では幕末の頃まではほとんどサツマイモをつくらなかった。そこでサツマイモはすこぶる高価にうることができた。――
――交通の便利になった昭和10年代でも秋田県などでは米1升(1.8リットル) とサツマイモ1貫目(4kg) とで取引された。内海地方の畑1反(10アール) で大体500貫のイモができる。これは米と交換すれば5石にあたるわけで、水田1反でどんなに上手に米をつくっても5石とるのはむずかしい。ところがやせこけた畑でイモをつくっても米5石分をあげることになる。日本海岸でどんなにイモが喜ばれてたべられていたかがわかる。――
もうひとつは家族ぐるみでの商売。田島の出稼ぎの話です。
――ここの人たちは漁船を汽船に積んでマニラ湾まで持っていって操業し、女たちがその魚をフィリッピン人に売りあるいた。マニラ湾にはおびただしい魚がおり、漁業はたのしいものであった。
ことばは通じなかったし、フィリッピン人はあまり魚をたべなかったからはじめは行商も思うにまかせなかったが、妻女たちはすぐ現地の人たちと仲よくなり、販路はひらけ魚はいくらでも売れた。そこで次々に郷里の人がやって来て、多いときは300人も400人もの人がマニラの一隅に田島の出村をつくったほどであった。そしてその村は日本が敗戦に追いこまれた昭和20年までつづいた。
フィリッピンを占領していた日本兵およびそれにともなって来た日本人はフィリッピン人をいためつけ、そのつよい憎悪と敵愾心をうえつけたが、田島の人たちは別であった。敗戦のため引きあげて来るとき、別れをおしんで泣き、世の中がおちついたらすぐまたマニラへ来るようにといってくれた。田島人が引き上げて来た後も、マニラからたえず早くやって来るようにと連絡があったが、占領軍はそれをゆるさなかった。――
伊藤幸司(ジャーナリスト)
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