毎日新聞社――シリーズ日本の大自然(国立公園全28冊+1)
「日本の大自然・11・西表国立公園」
1994.1――入稿原稿
■国立公園物語…西表
●西の果て
西の表と書いてイリオモテと呼ぶ島の名を広く知らせたのはイリオモテヤマネコの発見ではなかったでしょうか。今世紀最大級といわれたほ乳動物の新種発見のドラマを3人の著書によってたどってみます。
1冊はもちろん「発見者」の栄誉を獲得した作家・戸川幸夫さんの『イリオモテヤマネコ』(自由国民社、1972年) です。そしてそれを新属・新種と判定した「研究者」今泉吉典さんによる『イリオモテヤマネコの発見』(小峰書店、1979年) が2冊目。3冊目に、西表島で動物生態学者へと成長した安間繁樹さんの『原生林の闇に生きるイリオモテヤマネコ』(汐文社・シリーズ日本の野生動物、1976) を選びました。これによっていわゆる「学術探検」の3つのステップ、発見(探検) →評価(記録・報告) →フィールドワーク(開拓) という典型的な展開をたどりなおすことができます。
ここではイリオモテヤマネコの姿が見えてくる過程を急ぎ足でたどりますから、現地の地名や人の名前などが唐突に登場しては消えていきます。それらをきちんとフォローできないということをあらかじめお断りしておきます。また、これらの著書のどれにも登場してこの発見史を背後でしっかり支えていたのが琉球大学の高良*タカラ鉄夫さんであったらしいということを、あらかじめ明記しておきます。
●探検の始まり
イリオモテヤマネコ発見の栄誉をかちとった戸川幸夫さんは科学記者の出身で動物作家。ジャーナリストとしても、作家としても、プロ級の動物愛好家としても、千載一遇のチャンスをものにしたということができます。『イリオモテヤマネコ』はきわめて正直にその経過をつづった行動記録として読んでいいと思います。
――昭和36年(1961) から41年(1966) にかけて、私は「野性の旅」というシリーズの出版を継続していた。その5巻目の目標をどこにしようかと考えた末に、薩南諸島のトカラ列島に眼をつけた。しかし、その列島全部を取材することは時間的に不可能なので、どの島がいいだろうか、と親しくしていた宮良*ミヤラ君にたずねたのである。宮良君は、八重山群島石垣島の出身で、ながいこと毎日新聞の記者をしていた。このときは東京本社の学芸部副部長だったが、その前に鹿児島支局長などもやっていて、この方面の事情にはくわしかったからである。――
――私は、彼にトカラ列島ではどこがよかろう、と相談をすると、彼は首をひねって言った。
「どうせそこまで出かけて行くのなら、もうちょっと足をのばして八重山にしろよ。君にとっては忘れられない島だろう。それなのに日本からは忘れられた存在なんだからな」
その一言は私の心を衝いた。“忘れられた島”……たしかにそうだった。日本に復帰して再び沖縄県に立ちもどった今日から考えると、7年前の沖縄はひどく事情が違っていた。沖縄の本土復帰の運動をしたというだけで沖縄を追われて日本に亡命してきた友人がいた。日の丸を掲げたというだけで処罰された者もいた。沖縄の内情をあからさまに報道したために、再度の入国を拒否された沖縄出身の記者もいた。
当時、沖縄への入国許可をもらうことはアメリカ本土への入国許可を貰うよりも困難とされていた。入国者の身分、思想、行動に関して厳重なる調査がなされアメリカ側が見て絶対に無害なる者との判断がつかなければ、不許可、もしくは保留という腕曲な拒否にあった。
私は、以前から亡びゆくもの、消えゆかんとしているもの、忘れられているもの、陽にあたらないものには、強い愛惜の情を禁じ得ない。私が直木文学賞をとったときの作品『高安犬物語』は、滅亡しつつある山形県高畠地方の高安犬を主題としたものだった。ニホンオオカミをテーマとした作品『孤独の吠え声』も、すでに絶滅した種に対する愛惜から書いたものであった。その点でも宮良高夫君のこの言葉は、私に八重山行きを決意させるのに十分だった。――
――たまたまチャンスが生じた。琉球新報社が新社屋を完成し、そのホール開きに文化講演会を催すことになって、徳川夢声さんと私とを講師として招いたからである。これで渡航は問題なくなった。講演日は3月7日と決定したので、私は1カ月前の2月8日に羽日空港から飛び立った。――
那覇に着くとすぐ、戸川さんは「西表島には山猫がいるそうですよ」といううわさを耳にします。専門家には「またか!」といううわさです。
――首里の琉球大学に、動物学の高良鉄夫教授がいた。高良教授とは、まだ一度もお会いしたことはなかったが、私は宮良君を通じて高良博士と文通をしていた。というのは、高良博士は、奄美から沖縄へかけてたくさんいる毒蛇のハブを研究され、『ハブ』という著書もあって、私はハブについていろいろなことを教えを乞うたからであった。私は多忙な時間をさいて、高良教授を琉球大学にたずねてみた。これは結果からみて、非常に賢明なことであったと思う。私は、沖縄、特に八重山地方に住むいろいろな動物について、高良教授から教えをいただいたあとで、話のついでに、
「琉球新報の記者から、西表島にはヤマネコがいるという話を聞きましたが、つまりなんでしょうねえ。飼猫の野性化したものでしょうな」
という質問をしてみた。すると、高良博士はちょっと首をひねって、
「まだ、毛皮も骨格も、私の手もとに集まっていないので、はっきりしたことは言えないんですが、必ずしも野性化した飼猫だときめつけるわけにはいかないようですよ。というのはね、ヤマネコをとったという人の話をいろいろ聞き合せてみると、毛の色が大体一致しているんでねえ」
と、学者らしい慎重さで答えた。――
このようにして、戸川さんの「野性の旅」は急激に西表島に引き寄せられていったのです。
――私はデータはもとより、なんとか、標本を集めてみましょうと約束して別れたのであった。――
●発見
――網取中学校に親富祖*オヤフソ善繁という先生がいた。山猫に興味を持ち、この島では最も熱心に追っかけていると聞いた。琉球大学の高良博士に師事して勉強しているという。この人が夜になってから、村の山田武男、部落会長の嵩原*タケハラ徹という人たちと一緒に私をたずねてきてくれた。親富祖さんは40日ほど前にヤマネコを手に入れたということだった。今までは話だけとして知っていた西表島のヤマネコが、急に身近な、現実なものとして私に感じられてきた。
「残念なことには、私が、罠にかかっていたその山猫をつかまえに行った時は、もう死んでいましてねえ。もう1日か早く聞きこんでいたら、生捕りできたのですが」
と、親富祖さんは沖縄人特有の澄んだひとみをクルクルと動かしながらしゃべった。
「粟野実という猪猟師がいるんですよ。鉄砲じゃなくてハネ罠でとるんですが、この人が去年の暮、この辺一帯から崎山にかけていっぱい罠を仕掛けたんでした」――
――「ことしの1月14日に、私が粟野に会ったら、崎山の上のウツモリに仕掛けた罠にヤママヤ(山猫) がかかって捻ってた。ヤマシ(猪) じゃないし、気味が悪いからそのままにしてきた、と言うんですよ。いつだ、と聞くと、10日頃のことだと言う。しまった、もう生きとらんかもしれんなあ、と思ったが、とにかく行ってみようとカメラを持って、生徒2、3人と急いで行ってみました。
やはり、死んでいまして、キンバエがたかってウジがわいていました。とにかく写真だけを撮って、ウジを払い落し、高良先生に教わったやり方で測定をしてみました。鼻の先から尾の付け根までが63センチ、尾の長さが25センチありました。学校に持って帰り、皮をはいで胃の中を調べたところ、鳥の羽とカニが入っていました。毛色は、黒褐色のぼけたような色で、肩から胸にかけて豹紋が付いていました。家猫よりは1倍半くらい大きくて、足も長くてがっしりとした感じでしたね。皮は早速、高良先生の所に送りましたが、骨は砂地に埋めてあります」
という親富祖さんの話は、私に大きな希望を抱かせた。
「ヤマネコがいる、こんなもんだそうだ……」
というような話をいくらしても、学問の世界では何の価値もない。やはり、証拠となるべきものを突きつけなければ、学界では認めてはくれないのだ。
親富祖さんの話で、少なくとも1体分のヤマネコと呼ばれる野獣の骨と皮だけは、手の届く所にあることがわかった。しかし、その皮も骨も、琉球大学の高良博士の所有物と言ってもよかった。入手した親富祖さんは、そう考えている。何とかして骨と皮とを東京へ持ち帰って、私が所属している日本哺乳動物学会に提出して多くの権威者たちに調べてもらいたいと、私は考えた。
しかし、高良博士の研究資料ときまっているものを、いくら欲しいからといって、持っていくわけにはいかない。私は、新聞記者時代の大半を科学記者で通した。大学や研究所が受持で、多くの学者連中とも付き合っていたから、学者気質というものもある程度知っていた。
学者たちは、ある場合には偏狭とも思えるほどに秘密主義をとり、自己の集めた資料を公開しない。それだけでなく、他人が研究しようとするのを邪魔することさえあった。だから、学界では、師弟関係でもない限り、お前の資料を借してくれなどというぶしつけな申し入れは、気違い沙汰だと言われても仕方がない。私は、別の資料を手に入れなければならないかなと考えていた。
そこへ、東若*アリワカさんがやってきた。そこで、私は、ヤマネコの毛皮や頭骨が手に入らないだろうかと尋ねた。
「西表島の人は、ヤママヤ(山猫) をとると、すぐに皮ごと焼いて持ってくるんです。そして、汁にして食べる。それでなかったら捨ててしまいますからね。まあ、ちょっと無理でしょうなあ」
東若さんの返事は私をがっかりさせてしまった。――
――石垣に行く連絡船も、あさっての朝には出帆することになっていたし、それに乗り遅れようものなら、私の沖縄での滞在期限が大幅に切れる。私はとうとう思いあまって、親富祖さんに、ヤマネコの骨を掘り出して欲しいと頼んだ。もう、皮も骨もこれから探し出すことは困難に違いない。私はこの骨を、高良博士のもとに持参して、心臓強く、借り受けの交渉をしてみようと決心した。彼にすがるしか方法はないのだ。
ヤマネコの骨は、学校の裏の川原に埋めてあった。親富祖さんと中学3年生の生徒数名が、雨の中で発掘してくれた。1カ月前のヤマネコはまだ完全に白骨化しておらず、ひどい腐敗臭を漂わせていた。ようやく、頭蓋骨だけが洗い出された。あとの骨は、まだ、どろどろの腐肉が付いていてだめだと言う。頭骨だけでもいい。私は、親富祖さんが綿にくるんで入れてくれたパインの空かんを、まるで、宝石箱のように大事に手に握って、黒島さんとサバニに乗った。――
いよいよ大詰め。戸川さんは間一髪、自分自身の収集品も手に入れます。
――ヤマネコに対する私の執念は、営林署の担当員諸君にもようやく理解されて、みんなで手分けして情報を集めてくれた。風浪のために連絡船が2日ほど欠航したこともこの場合、私には大助かりだった。私たちの追い込みはすさまじかった。そして、連絡船がいよいよ明日の朝出帆するという前の晩、遅くなってから、黒島さんと担当区の人たちが、雨にぬれてやって来て、イナバ部落にいる兼久*ガネク治良君が皮を持っているそうです、知合いだからもらいましょうと、知らせてくれた。しかし、地図で見るとイナバは浦内川の上流の部落である。今となってはもう遅い。ひと船のばすか、あとから送ってもらうしかないなと思案していると、舟浮くんが、
「夜があけかかったら、私がオートバイでとってきてあげましょう」
と言ってくれた。――
こうして西表島の探検は終わります。学術探検とは、国内・国外にかかわらず、おおよそこのようなものであって、極地の探検以外では地元の人々の協力なしには成り立たないのがふつうです。
――私は、イナバから手に入れた毛皮と、網取の頭骨とを持って、再び高良博士を琉球大学に訪れたのであった。高良さんの所には、私の留守中に親富祖さんから屈けられた毛皮が、きれいになめされて保存してあった。私たちは、2枚の毛皮を比較してみた。イナバと網取とでは地理的に言ってかなりの距離があった。そして、猫たちは、犬やイノシシのように遠くへ移動する習性がないにもかかわらず、2枚の毛皮の特徴はぴったりと一致していた。耳の先端部が丸みをおびていることや、耳の裏の毛に自い斑*フが入っていることや、全身に見られる豹紋が野生獣であることをはっきりと示していた。
「ヤマネコに間違いないようだ」
私と高良さんとは、顔を見合わせた。とすると、このヤマネコはどこの系統であろうか? 従来、学界で認められている日本産ヤマネコは、対馬に生息するツシマヤマネコだけだから、あるいは、その系統であろうか? 高良さんはそう考えたようであった。私は、地理的に見て、西表島は台湾に近いのでタイワンヤマネコの系統ではなかろうかと思った。しかし、いずれにしても、沖縄の西表島にヤマネコがいたということは学界では知られていないのだから、これが正真正銘のヤマネコだとすれば、どの系統に属したとしても新しい発見であることには間違いない。
そう考えてくると、どうしてもこの頭骨を東京へ持っていきたかった。どういうふうに高良さんにきりだしたらいいかなと、私は長いことためらっていた。すると、その時、高良さんのほうから、
「あなた、この皮と頭骨とを、東京へ持っていって調べてみませんか」
と、言い出した。えっ、と私はびっくりした。高良さんは、
「この大学は戦後に発足したばかりですから、比較して調べようにも、研究しようにも、資料も研究書も十分でないんですよ。ですから、この頭骨や私の毛皮も、あなたのと一緒に持っていって、東京でしかるべき方たちに検討してもらってください。研究材料は多いほどいいのだから、研究がすんだら返してもらえばいいのですからね、おねがいしますよ」――
戸川さんはこうしてヤマネコの証拠品を手にし、国立科学博物館の動物室主任・今泉*イマイズミ吉典さんに連絡をしたのです。今泉さんの『イリオモテヤマネコの発見』はその手紙を受け取ったところから始まります。
――1965年(昭和40年) 3月のたしか9日、日本ほ乳動物学会の世話役をしていた私は、作家の戸川幸夫先生から航空便をいただきました。その手紙は当時まだ外国だった沖縄の那覇で出されたものです。戸川先生から手紙をいただいたことは、これまで1度もなかったので、なんだろう、といぶかりながら封を切ってみると、
「八重山の西表島で、ヤマネコの標本―毛皮と頭骨―を手に入れました。対馬や台湾のヤマネコに似たもので、野ネコではないと思います。琉球大学の高良鉄夫教授も同じ意見です。でも、まんいちまちがいだとこまるので、専門家のみなさんに例会で鑑定してもらいたいと思います。私は標本をもって13日中帰京しますから、例会は14日だと好つごうです……」
と、思いがけないことが書いてありました。――
さっそく日本ほ乳動物学会の例会が開かれます。
――西表島の探検のお話をひととおりおえると、戸川先生は大きな包みから、2枚の毛皮と脱脂締で何重にも包んだ頭骨と思われるものを、まるでこわれやすい宝物でもあつかうように、しずかにとり出しました。
16名の会員の目が、いっせいに暗褐色の、意外に見ばえのしない毛皮に注がれました。そのうちの1枚は、つい最近、高良教授のもとに西表島網取の知人からとどけられたものを、帰りに借りてこられたのだそうです。どちらも皮をはいでかわかしただけの生皮で、鑑定に必要な尾の先は、ざんねんなことにちぎれてなくなっているようです。――
――(名誉会長の) 黒田先生は、出席した会員1人1人に意見を聞いておられましたが、やがて立ちあがると、戸川先生にむかって、「それでは鑑定の結果を申しのべます……」と前おきして、
1) 飼いネコ、すなわちイエネコや野ネコではなく、ヤマネコであること。
2) 全体が黒ずみ、斑点が小さく不明瞭で、尾が短く輪状斑がないところからみて、朝鮮、対馬、台湾のヤマネコとはちがうこと。
3) 大きさからみてスナドリネコでもないこと。
4) 未知の種の可能性もあること。
と、結論をたんたんとのべられました。そして出席者を見まわして「これでいいでしょうか」とねんをおされました。
動物の鑑定は、個々の専門家がなすべきもので、学会で統一見解を出すような性質のものではありません。多数の意見のほうが少数の意見より正しいとはかぎらないからです。
ですから、ほ乳動物学会が西表島の標本をイエネコや野ネコでないと鑑定したわけではありませんが、例会に出席した会員が、めずらしく1人も反対しなかったのですから、日本の学会で認めたといってもよいでしょう。これで戸川先生は、西表島でヤマネコを発見したと、自信をもって発表できるわけです。気のせいか、戸川先生のめがねの奥の目が、うるんでいるようでした。
黒田先生は「このヤマネコの種類は、物が物だけにできるだけ早く、おそくとも1か月くらいではっきりさせる必要があるでしょう。だが、この席ではとてもむりですから、博物館の今泉さんに調査を一任してはどうでしょうか」と提案されました。――
こうしてヤマネコの分類を担当する「研究者」がきまったのです。問題はそれが新しい「種」であるか、「亜種」なのかというところにありました。今泉さんはこう書いています。
――かりに、ある動物の体長の平均値が、九州南部の小個体群でいちばん小さく、北へ行くほど大きくなり、いちばん大きい青森の小個体群では1.5倍もあるとしましょう。じっさい、シカはこのような変化を示しています。
このようなばあい、九州南部のものと青森のものを、べつの亜種にしてもおかしくないでしょう。でも、そうしたばあい、どちらともつかない本州中部のものは、どうしたらよいでしょう。それを第三の亜種にすることもできるでしよう。だが、そんなことをしていると、亜種は際限なくふえて、どうにもならなくなってしまいます。
もちろん、これは極端な例で、じっさいには分布がとぎれていたり、大きさの変化が連続的でなかったりして、ある程度、客観的に亜種をくべつすることができます。しかし、亜種という分類群が、人間が便宜的にわけた個体群にすぎないことは疑う余地がありません。動物自身は、亜種のちがいなど、まったく気にしていないのです。
ところが、種という分類群は、亜種とまるでちがいます。1つの種に属する個体は、たがいに同類かどうかよくしっていて、それらとは交配して子孫を作ります。しかし、他の種に属する個体とは、たがいに同類でないことをしっているので、自然の状態では交配しようとしません。――
「種は定まったもの」なのだそうです。そして……
――このような種は、ネコ科に38ほどあります。ほどというのは、亜種か種かわからないものが、今でもすこしあるからです。
ところで、この38種のうちの36種は、100年以上前の1858年までに見つかつています。そして、それ以後発見されたのは、1874年のボルネオヤマネコと、1892年のハイイロネコの2種しかありません。ですから、もし西表島のヤマネコが新しい種だったら、それはなんと、72年ぶりの発見ということになります。もちろん、今世紀にはいってからは、はじめてです。
こんなわけで、このヤマネコが新種かどうかは、発見の価値に大きな影響がありますから、新聞社では1日も早くそれをしりたがっています。むろん、苦労して標本を集められた戸川先生はなおさらでしょう。――
今泉さんは1個の頭骨の特徴を文献と突き合わせることによって分類を確かめていこうとしたのですが、なかなかうまくいきません。博物館にあった南米の小型のヤマネコ、ジャガランデーの頭骨と比較してみると中耳と内耳にかぶさる鼓胞*コホウと、その後ろにある後頭傍突起*コウトウボウトッキ(口をあける筋肉がつくところ) の骨の出っ張りがあきらかにちがっていました。博物館にあったネコ類のどの頭骨とも、違うのです。ところがどの文献にも、その傍突起に関する記述がありません。
――私がもっとも尊敬するポコックでさえ、この突起にはまったくふれていないのです。
「なぜだろう。この突起の構造が、個体によってさまざまだからだろうか。それとも、年齢で変化するからだろうか」
理由はわかりませんが、いっこう記載に使われていないところを見ると、この突起は分類上重要でないとみなされているのでしょう。――
困り果てた今泉さんは基本に戻ってみます。ドイツのウェーベルという人が1928年に著した、有名なほ乳類の教科書があるのだそうです。
――このウェーベルの分類表を読んでいくうち、私はあまりのことにびっくりぎょうてんしました。
なんと、その表のネコ科の特徴には、歯の数、鼓胞の構造、胸椎(背骨の胸の部分) と足の指の数、爪の構造などとともに、後頭傍突起がちゃんとあったのです。しかも、科の特徴としてです。
それには「後頭傍突起は乳様突起からはなれ、鼓胞の後壁の上に広がる」と書いてありました。鼓胞の上に広がるというのは、かぶさることにちがいありません。
ウェーベルがここに示したのは、現在生存しているネコ類、すなわち現生のネコ類の特徴で、化石のネコ類の特徴は、この表には記されておりません。そして「多くは」とか「一般に」とかいうことばがないところを見ると、すくなくとも現生のネコ類は、みなこのような傍突起をもっている、と彼はいうのでしょう。いや、これは、おそらく彼がいい出したのではなく、すでに定説になっていたのでしょう。
そのため、私が読んだ何人かの専門家の、属や種の記載には、この突起のことが書いてなかったのです。どのネコ類も、同じような傍突起をもっているなら、属や種の記載で同じことをいちいちくりかえすのは、むだでばかげたことだからです。
ウェーベルがあげたネコ科の特徴が正しいとすると、西表島のヤマネコは、なんと彼が定義した現生のネコ科には属さないことになってしまいます。これでは、新種どころか、新属かもしれないではありませんか。――
――すっかりあきらめていたポコックの「現生ネコ科の分類」(1917年) という論文が、思いがけなく手にはいりました。ポコツクは、現代だけでなく、古今最高の大型ほ乳類の分類学者だと、私がかねがね尊敬していた大家ですから、この論文もきっと役に立つだろうと期待していたのですが、読んでみるとまさにそのとおりでした。
そして、この論文のおかげで、西表島のヤマネコが、南米のヒョウネコ類とも、ベンガルヤマネコ属とも、それからまた他のネコ類ともちがうことが、いっぺんにわかつてしまいました。――
戸川幸夫さんは『イリオモテヤマネコ』で、この後のことを次のように書いています。
――このヤマネコが新属、新種であるということが解ってみると、当然新しい学名を付けなければならなくなった。ある日、今泉博士から私の所へ電話がかかってきた。このネコに命名するにあたって、発見者である私の名前をとって、トガワヤマネコと付けたいのだがという話だつた。これには、私はすっかり恐縮してしまって、私の名前を付けることだけはかんべんして欲しいと言った。今泉博士は、それが私の遠慮であると思われたのか、発見された動物や植物に発見者の名前を付けることは、学界では通例になっているから、少しもさし支えないじゃありませんかといわれた。
しかし、このヤマネコが発見されるに当たつては高良博士の示唆が大きくものをいっている。また、この研究についても、高良博士は好意的に資料を提供されている。それだけではなかった。八重山営林署の方や、琉球政府の方や多くの人たちに、この発見に協力してもらっていることを考えると、このネコに私個人の名前を付けるということはできなかった。
私は今泉博士にツシマヤマネコの例もあることだから、やはり産地の名前をとって、むしろ、ィリオモテヤマネコと付けられたらどうでしょうかと進言した。そんなことから私は高良博士に手紙を送り、今泉博士と私との間では、イリオモテヤマネコと命名してはどうであろうかという意見がまとまったのだが、博士の見解も伺わせて欲しいと言ってやった。折り返し、高良博土からも返事がきて、非常に賛成であるということで、ここではじめてこの新属、新種のヤマネコに対して、イリオモテヤマネコという和名、そして学名は研究者の名をとつて、マヤイルルス・イリオモテンシス・イマイズミという名が付けられた。マヤイルルスというのは、マヤは沖縄語のネコを現わすマヤであり、イルルスはギリシャ語のネコということである。つまり、ネコという言葉が2つ重なるのだが、それはこういった場合には、別に問題にならない。マヤイルルス・イリオモテンシスと言えば、もうイリオモテヤマネコの学名となるのである。
今泉博士の研究で、その後はっきりしたことは、このヤマネコは旧世界のどこのヤマネコにも属しておらず、むしろ、南米のヤマネコに類似している点が多いということである。なぜだろうか? 南米のヤマネコは、ヤマネコ仲間のうちでも、かなり原始型である。それと似ているということは、西表島のヤマネコが原始型だということであろう。
ネコが地球上に姿を現わして、早い時に琉球列島は大陸から分離した。西表島を除くアジアのヤマネコ族たちは、その後、環境の変化で進化していったが、西表島のものは、ほとんど昔のまま残った。それで原始型を保ち、南米産のものと類似しているのではないか。それだとすると、イリオモテヤマネコは、地球上にネコが現われた頃の原始型をとどめているものとして、学問上、おおいに研究する価値があると今泉博士は推論している。
ただ、私にとって痛かったのは、1個の頭骨しか入手できなかったということであった。間違いはないと信じていても、反ばくすべき材料がないのだ。奇形かもしれない、突然変異かもしれない。そんなあやふやなことで、国際承認を求めて、もし間違っていたらどうするのか、もっと慎重にすべきではないかと言われれば、黙りこむしかなかった。新種の動物として世界の学界から認めてもらう……つまり、国際承認を受けるには、少なくとも1体分の完全な毛皮と全身骨格が揃っていなければならなかった。――
かくして昭和40年(1965) の5月から、戸川幸夫さんは国立科学博物館の嘱託という身分で日本側を代表し、琉球大学の高良鉄夫さんは琉球政府の文化財保護委員会によって派遣されて日琉合同のヤマネコ調査隊が編成されました。このとき期待の生け捕り作戦はみごとに失敗しますが、遠足で傷ついたヤマネコを発見し、遺体を保存していた大原中学から、タイプ標本となる全身の骨格と毛皮を国立科学博物館に寄贈してもらうことができたのです。
また懸賞金をかけて呼びかけた生け捕り作戦は、半年後には効果を発揮し、イノシシ罠にかかったオス・メス各1頭が国立科学博物館引き取られます。戸川さんはその2頭を自宅で828日間にわたって飼育します。
●学問上の認知の戦い
発見者・戸川幸夫さんの仕事はこれで完ぺきになりました。しかし学名に「研究者」として名をのせた今泉さんの戦いは始まったばかりです。『イリオモテヤマネコの発見』にはこう書かれています。
――イリオモテヤマネコの原記載が掲載された「ほ乳動物学雑誌」第3巻第4号は、1967年5月に発行され、ただちに国内の全会員と、学術雑誌を交換しているいくつかの国外の研究機関に発送されました。同時に私は、この論文の別刷を、海外の友人たちに送りました。これらの、アメリカ、イギリス、ドイツ、ポーランド、ソ連などの友人たちとは、前々から論文を交換していたのです。
この論文で私は、イリオモテヤマネコを、マヤイルルス=イリオモテンシスと命名しました。これがこのヤマネコの学名で、沖縄のネコの方言「マヤ」とギリシヤ語のネコにもとづく「アイルルス」を合わせて作った「マヤイルルス」が属名、「西表の」という意味の「イリオモテンシス」が種名です。
動物の学名は、スエーデンの博物学者、リンネが考案した学術上の名まえで、ちょうど姓と名のように、属名と種名をならべて、1つの種を表すことに定められています。そして、1つの種には、1つしか学名をつけることができません。学名が有効と認められるには、それが定められた多くのこまかい条件を満たしているほか、タイプ標本を指定し、活版で印刷して、世界のおもな研究者や研究機関に配布しなければなりません。
しかし条件さえ満たしていれば、その学名は、たとえそれがあとで新種でないといわれるようになっても有効で、抹殺されることはありません。もちろん学界の代表者たちがイリオモテヤマネコの論文を検討して「これは正しいから認めよう」とか、「これはどうも正しくないらしいから、認めないことにしよう」などと、裁定することもありません。そのような判断は、1人1人の研究者の自由にまかされるのです。
ですから、イリオモテヤマネコの原記載が、ちゃんと条件を満たして発表さたといっても、このヤマネコが世界の学界から認められた、というわけではありません。それどころか、私の論文の表題を見た専門家の多くは、「なに、新属新種のネコが発見されたって。それは、何かのまちがいだろう」と、中を読みもしないで、ファイルに整理してしまったことでしょう。なにしろ、毎日のように専門家の手元にとどけられるほ乳類の論文は、たいへんな数で、それらを1つ1つていねいに読んでいたのでは、時問がいくらあってもたりないからです。
ところが、私の論文を本気で読んでくれた人が、すくなくとも東ドイツと西ドイツに1人ずつありました。どちらも私のしらない人です。
1人は東ドイツのハンス・ペッチ教授で、
「あなたの論文はたいへん重大です。検討してみたいから、頭骨と歯の写真、毛皮のカラー写真、それから日本語で書いたものでもいいから、あなたが書いた論文を送ってくれませんか」
といってきました。そして彼が著した「ネコ類…世界の大型、中型、小型ネコ類およびイエネコのポケットブック」という小図鑑を送ってきました。――
――もう1人は西ドイツのポール・ライハウゼン教授で、「来年は日本に行く予定なので、そのさい、あなたが新属新種にした西表島のヤマネコのタイプ標本を調べさせてほしい」
と、いってきました。そして、ネコ類の行動学に関する彼の論文を送ってきました。――
来日したライハウゼンさんはひと目でそれを「新種」と認めます。
――「おめでとう。あなたは、なんて幸運なのだろう。こんなすばらしい新種に出会うなんて……。私は、もう30年もネコ類ばかり、それも世界中、アフリカや南米まで……、ほんとうに世界をまたにかけて調べてきたのに、1度も新種なんかに出会いませんでしたよ」
と、かたく私の手をにぎりました。
私はこのヤマネコが新種だと、かたく信じてはいましたが、ぜったいまちがないとはいいきれません。
本式に調べるには、似た種類のタイプ標本に当たらなければなりませんが、そのためには世界旅行をしないとだめです。ところが、そんな機会はなかったので、記載でまにあわせていたからです。
でも、ネコ類の権威のライハウゼン教授が、新種だとたいこ判をおしてくれたのですから、だれがなんといおうと、もうだいじょうぶです。――
ところがそれは「新種」に対してであって、ライハウゼンさんは「新属」を認めない立場を明確にするのです。しばらくすると、それにしたがう説が専門雑誌の記事などに出始めます。
今泉さんは「新属の証明」のために、大英博物館(ロンドン) 、アメリカ自然史博物館(ニューヨーク) 、合衆国国立博物館自然史館(ワシントン) 、フィールド博物館(シカゴ) 、カンザス大学付属博物館(カンザスシティ) でネコ類の頭骨をくわしく計測します。36種、合計58点の頭骨の計測値をつかって「数量分類」という新しい方法で類似関係を明らかにしようというのです。
その結果を支えたのは、たとえばスコットという人の古生物学教科書『西半球における陸生ほ乳類の歴史』。現生ネコ類がすべて含まれるネコ亜科と剣歯虎類と呼ばれるマカイロダス亜科に対して、両方の共通の祖先と考えられるニムラブス亜科が古生物学では設けられているのですが、そのニムラブス亜科の最後の属にメタイルルスがありました。中国と北アメリカから発見されている化石で、中新世中期から鮮新世後期にかけて生存していたものです。イリオモテヤマネコは中国から出土しているメタイルルスにそっくりだったのです。
今泉さんの分類研究とは別に、ライハウゼンさんが動きはじめていました。国際自然保護連合(IUCN) のネコ類研究グループの議長になったライハウゼンさんは、イリオモテヤマネコの現地調査を研究題目として取り上げ、世界野生動物基金(WWF) などの援助をとりつけました。
――ライハウゼン教授は、イリオモテヤマネコは多くても300頭くらいしかいないだろうと推定しています。300頭というと少なくないような感じもしますが、たった1つの島にしかいないのですから、狂水病のようなおそろしい伝染病がはいったら、いっぺんで絶滅してしまうでしょう。そんなことになったら、とりかえしがつきません。分類の研究は平行して進められるのですから、ライハウゼン教授のいうように、生息現状の調査に力を注ぐことにしよう、と決心しました。――
●旅からフィールドワークへ
戸川さんが西表島で新しいヤマネコを発見したころ、秘境・西表島に足を向けた若者たちのなかに、大学生の安間繁樹さんがいました。1965年の夏、かれは10日間西表島に滞在して、人生を大きく変えることになったのです。時間軸をすこし戻したところから、今度は安間さんの『原生林の闇に生きるイリオモテヤマネコ』を読んでいきます。
――5年が経った。この間に私は早稲田大学法学部を卒業、同じ早稲田大学の教育学部理学科生物学専修に入学した。これからの研究を続けて行くためには生物学やそれに関連のある地学、化学、物理学など幅広い基礎勉強が必要だったからである。それも3年後には卒業し、1970年、私は念願かなって八重山の学校に就職することが出来た。――
安間さんはその5年間、休みのたびに島に通いつめていたのです。「この5年間は自分の足で西表島を知り、多くの人々に接し、またそういう人達を通してもっと幅広く西表島を、沖縄全体を知っていくといういわば私にとって知識の吸収期であったと言える」と書いています。
――1971年に(石垣島の) 崎枝中学校を退職し、東京にもどった私は、八重山の動物を研究していく上で必要な基礎的・専門的知識を身につけることに没頭した。幸いその年に東大の修士にうかり、森林動物学教室に籍を置くことができた。私の当初の研究テーマは、石垣・西表島における土壌生物の研究であり、西表島における動物相の研究を並行してやっていたのであるが、次第にヤマネコの存在が私の脳裏からはなれなくなってしまったのだった。それは私にとっては、ごく自然の成りゆきであった。――
そしてライハウゼンさんとの出会いが訪れます。
――このような西表島の動物相調査観察生活を続けていた私に、この年(1973年) の10月下旬、国立科学博物館の今泉吉典博士から直接電話をいただいた。「2月からイリオモテヤマネコの現地予備調査が行われるが、メンバーとして是非参加して欲しい」との内容だった。
この予備調査は、1974年度から始められるイリオモテヤマネコ現地調査に先だって、「ヤマネコの生態並びに棲息状況の調査を行う基地の選定と調査方法の検討」等を目的として行われ、参加者は西ドイツ、マックスプランク行動生理学研究所のP・ライハウゼン博土、U・ティーデ博士、日本側は今泉吉典博土、琉球大学の高良鉄夫博土、池原貞雄博土、今泉博土の息子さんである今泉忠明氏、それに、結局メンバーとして加わった私の計7名であった。――
――私は博士から多くの事を学んだ。例えばネコ類の足跡から前か後か、右か左かを見わける方法。獲物の殺し方、食べ方。そのような具体的な事と、調査中、出くわした事物に対して、それがネコと関係があるかどうかを論理立てて説明して行く態度であった。100パーセントヤマネコのものと断定出来た時は、それを順序を迫って話してくれるし、ある時は「ここまでは言えるが、この先はメイビー(多分) だ」と、決して断言出来る事しか結論しないのである。このことは研究者として最も大切なことであると私は感じた。――
しかし一匹狼は、自力で成長していかなければいけない定めのようです。敷かれたレールの上は走りずらい……。安間さんは共同研究者としての条件をのむことができなくなってしまうのです。
――このままメンバーとして加わっていれば確かに研究費も生活費も心配いらないだろう。しかし、それだけのことで自分自身を納得させることが出来るだろうか……。私にはこれまで継続してきた調査研究がある。あいまいな形で共同研究者として残るより、たとえどんなに苦しくても、すっきりとした、自分自身納得できる方法で研究を進めたほうが、よほど気が楽だし、後々のためにも良いだろう。――
かくして1人の研究者が西表島で一本立ちするのです。
――今から思えば、家族と別れ、島に住みこんでの1年半の間に、私の調査・研究は飛躍的に進展したと言える。いろいろな工夫を重ねて自動写真撮影を軌道にのせることができた。74年の秋には直接観祭を実行し、その後はヤマネコを見るべくして見れるようにまでなった。2ひきのヤマネコを同時に写真に撮ることもできた。――
そして1975年。
――私は今はほとんど毎日、野生のヤマネコを観祭しており、必要な時にはいつでも映画に撮ることも出来る。もちろん大雨の時は観察を中止したり、明るいうちからネコが来るのを待っていても先に気づかれてしまい、会えないで帰ることもある。そんな時ネコは薮の中で、私が帰るのをずっと待っていて私の前に出て来てくれないのである。
ヤマネコに不安感を与えることなく、また気づかれずに観察することは決して容易なことではない。その方法をさぐり出すために、私は失敗を繰り返し、色々な工夫や研究もしてみた。今、野生のイリオモテヤマネコを直接、観察しているのはおそらく私だけである。これはある程度ヤマネコの習性が理解出来るようになった結果であると思い、私が一番誇りとしていることである。
さて、私はこの夏仲間の応援を得て8月3日に初めてのヤマネコ映画撮影を実行したのであるが、10月には当時のメンバーの1人であった佐藤君に再び来島してもらい、大人ネコの映画撮影を行った。撮影は何日も続けたのであるが、我々のゼンマイ式カメラと、廃車から集めた部品で作った照明装置では、もうこれ以上の映画は撮れないという限界に挑戦した――
――《6時38分…南西すみにネコ》じっと動かないでニワトリの様子をうかがっている。双眼鏡で見るとジャックのようだ。ジャックは30秒程そのままの姿勢でいたがどうしたのか急にあとずさりして祝界から消えてしまった。
《6時42分…西より進入》黒くて細長い固まりが音もなくニワトリに近ずいて行く。ネコなのであるが、足は完全に腹の下に隠れ、こちらからは見えないので誰かが細い紐で丸太を鳥の方向に引いているように見える。生き物という感じがしないのである。
私はすでにオンにしてあったライトのボリュームをいっぱいにアップした。しかし、これはカメラ準備の合図であって撮影オーケーのサインではない。ほとんど肩がふれあうようにして私の右側に座っている佐藤君も、すでにスタンバイの状態だと思う。ファインダーをのぞき、カメラのスイッチに指がふれているはずだ。
「よし、今だ」、私は第3ライトのスイッチを入れた。と同時にゼンマイの音が聞こえて来た。昨日に比べれば問題にならない程の小さな音だ。――
――ネコはニワトリから1メートルくらいの所でぴたりと止り、首一つ動かさない。まるで胴像のようだ。「おや」、ニワトリが動いた。まったくの偶然ではあったが、ニワトリは後をふり向いてネコに気づいたのである。その瞬間、ヤマネコは目にも止らぬ速度でUターンし、薮の中へ消えてしまった。ニワトリは恐怖のあまりさかんに鳴きわめいている。「どうしてネコは気づかれた時に獲物を襲わなかったのだろうか」、私は不思議に思った。
興奮がおさまったのか、ニワトリは何も無かったかのようにおとなしくなった。その時である。再び黒い影が餌場に侵入して来た。
ヤマネコは背後からゆっくりニワトリに接近して行く。「あと1メートル」と私が思った時、突然、ヤマネコは放たれた矢のごとくニワトリに向って突進した。
クヱッ。鳥の悲鳴はほとんど一瞬であった。ネコは首筋に食いつくと、ニワトリを懸命になって藪へ引きずり込もうとしている。
いつもそうなのであるがニワトリはこの瞬間に声が出るだけで、あとはただ激しく羽枚をばたつかせているだけである。首がちぎられてしまっても翼だけはしばらくの間ばたばたしている。
《6時47分…北西の林内へ消える》ヤマネコのジャックは今殺した獲物をいったん口から離すと林の中へ消えて行った。ヤマネコはいつもこんな事をする。殺した獲物をすぐに食べないで、いったん現場を離れ、5分とか10分して再びやって来ては、ようやく食べ始めるのである。
ジャックはじきに戻ってきた。すでに動かなくなったニワトリを胸のあたりから食べ始めた。食いつくたびに真自な羽毛が空中に舞い散る。皮膚を食いちぎっているのであろうか胸のあたりの羽毛が、みるみるうちに赤く染まって行く。――
――《7時37分…激しい雨、ネコ帰る》とうとう降り出してしまった。かなり強い雨である。ヤマネコの背中や横腹に出来た水滴がライトに照らされてキラキラと光って見え、金色の雫はネコが頭をあげたり体を動かすたびにパッと空中に飛び散る。
「いやいや、これは困ったな」。そう思ったのは我々2人だけではなくジャックも同じだったようで、食べるのをやめて、ゆっくり林内へ消え去った。――
伊藤幸司(ジャーナリスト)
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